天満放浪記

matsuken tenma blog

真の革命家

2014年04月27日 | 西:LA文学古典作家

 ガルシア=マルケスが亡くなって、新聞にいくつか作家などの追悼文が現われ、興味深く拝読した。目立つ論調として、この偉大な作家が、第三世界特有の文学があり得ることを示した功績をたたえるものがあった。あ、こう書けばいいのか、と目から鱗が落ちる思いだった、とのことである。

 私は、そもそも近代小説の伝統をよく分かっていないこともあると思うが、ガルシア=マルケスについては、端正な文章を書くというイメージしかない。癖のないことが癖と言おうか。特に形容詞の使い方は詩人を思わせ、バルガス=リョサなどを読んでいるときには感じない快楽を覚える。

 もちろん、いちおうラテンアメリカ文学「という」看板に掲げている以上は、ラテンアメリカ文学「の」看板ともいえるガルシア=マルケスについて蘊蓄を語るべきだとは思うのだが、私のふだん読むあちらの小説は、どちらかといえば魔術的リアリズムへのアレルギーを前提とする。

 私もたぶん、下のボルピと同じで、次の世代なのである。

 ラテンアメリカ文学という言葉を聞いても、少なくとも私は、魔術的リアリズムやガルシア=マルケスという単語を思い浮かべることはない。

 でも、だからといって、そこになにか壁があるわけでもない。私は文学者ではない、ただの語学屋だから、これからも先行する世代の偉大な仕事を、せいぜい敬意をもって学び、伝えるべきものは伝えていきたいと思うのみだ。

(以下引用)

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ホルヘ・ボルピ「時の支配者」(2014年4月19日付ブログ

 1967年の初旬、40歳になろうとしていたガブリエル・ガルシア=マルケスは、ひとりの才能ある作家、輝かしい経歴を誇るジャーナリストとして認められていたが、当時売り出し中だった仲間たちに比べれば、まだ目立たない存在だった。なかば文学的で、なかば政治的だったその作家集団――ビートルズのラテンアメリカ版のような四人組――は《ブーム世代》の名で知られる。カルロス・フエンテスは『脱皮』でビブリオテカ・ブレーベ賞を獲得がほぼ決定済み、マリオ・バルガス=リョサは同じ賞をその5年前に『都会と犬ども』で受賞済み、フリオ・コルタサルは1963年に『石蹴り遊び』を刊行していた。そして、そのとき奇跡が起きた。

 このときのエピソードについてはもう何度となく語られていて、あたかも小説そのものの一部と化したかのように見える。家族を伴ってアカプルコへ旅をしていた最中、次作にふさわしい文体をついに見出したガルシア=マルケスは、Uターンしてメキシコ市に引き返し、当座の生活費を得るために車を売り払い、妻メルセデスが家計のやりくりをしているあいだ、長きに渡った『百年の孤独』執筆の仕上げに没頭し始めたのだった。その2年後、ガルシア=マルケスはラテンアメリカでもっとも著名な作家になり、そしてそれから10年も経たないうちに世界でもっとも有名な作家となっていた。そして、そのわずか15年後――文学史においてはほんの一瞬――スウェーデン国王からノーベル文学賞を受け取っていた。

 その物語内容としばしば結びつけられる叙事詩的で神話的なオーラに包まれた、この伝説的小説とその作者に関する物語は、今日の目からすると、ほとんど本当の出来事とは思えないほどだ。これは、ラテンアメリカにとって、きっとひとつのマイルストーンとなるであろう、文学的、個人的成功譚なのである。いまだに幻想小説というレッテルを貼られ、あるいは《魔術的リアリズム》という(世の多くのレッテルがそうであるように)あの人工的なまやかしの印を刻まれ続けているとはいえ、この『百年の孤独』ほどの強い影響を現実に及ぼした作品は、過去にもわずかしかない。なぜなら、この小説の刊行は現代文学の様相を一変させたばかりか、このラテンアメリカという地域について当時まで世界中の人々が抱いていた考えを永久に修正することになったからだ。

 1959年以来(訳注:キューバ革命勃発以来)、ラテンアメリカは、私たちが西洋と呼んでいる(これまたまやかしの虚構)世界にとって、《なんとなく野蛮で、なんとなく忘れられた、未知の大陸》などではなくなってしまった。冷戦の真っただ中にあって、私たちラテンアメリカ諸国が新たな《時代の終焉に備える実験場》として呼び出されたかのごとき様相を呈し、そこではゲリラの指導者や知識人が重要な役割を果たしていると考えられた。そうした政治的で文学的な啓蒙の光――いわゆる革命の二本の松明――に守られて、ブーム世代の作家たちは、地球上の権力の中枢に道を切り開くという真の戦争に着手したのだった。

 この地域を相変わらず中傷してばかりいる連中――とりわけ自国内部に潜む他国従属的なナショナリストたち――あるいはこの地域を都合よく解釈していた当時の世界秩序、そうした相手に業を煮やしていた、たとえばカルロス・フエンテスやバルガス=リョサのような大御所は、自らの小説や各種論説や公共の場の発言などを通じ、ラテンアメリカにまつわる想像空間全般を無理やり変革すべく闘い、そして、その闘いは、この大陸のジャングルや山岳部で闘っていた同時代の武装ゲリラたちなどよりずっと輝かしい成功を収めたのだった。だが、この逆説的な勝利も、ガルシア=マルケス――彼らのなかでもっとも闘う構えに欠けていた男――が『百年の孤独』を刊行するまでは、決して確約されていたわけではない。

 というのも、想像力がいまだ歴史に従属している政治小説『緑の家』や『アルテミオ・クルスの死』などとは異なり、また純然たる文学的企みである『石蹴り遊び』とも異なり、『百年の孤独』においては歴史――ラテンアメリカ史の換喩としてのコロンビア史――のほうが、言語と、止まるところを知らない豊穣な想像力の支配下にあり、この小説によってようやく、ラテンアメリカは、ヨーロッパや米国に対する言説上の頸木から自らを解放することが可能になった、とも言えるからだ。『百年の孤独』の勝利は、どんなゲリラ戦の勝利にも増して、ラテンアメリカが成し遂げたまさしく歴史上最大の勝利だったのであり、それは今もなお変わらない。

 一冊の本が世界を本当に変えてしまった。今となってはそれを批判することも可能である。長年にわたって押しつけられてきたラテンアメリカのイメージに代わって、小説『百年の孤独』はそれと同じく覇権的な新しいイメージをつくりあげてしまい、そのイメージ戦略においては小説を埋め尽す《魔術》なる要素が便利な道具として用いられ、この地域のどんな異常性もその一言をもって説明――あるいは削除――してしまうことになったからだ。しかし、こうした社会学的なイメージ受容のプロセスは、ガルシア=マルケス本人とはまったく関係がない。彼はほかのどの地域の作家もできなかったことに成功した。斜陽気味だった文学の伝統をすべて敵に回し、それを粉砕し、20世紀後半の現実――ラテンアメリカのみならず世界の現実――にふさわしい文学空間をうちたてたのだ。その人の善さにもかかわらず、彼はこの地域がうみだした最大の革命家だった。そして、まさにそれゆえに、なんとも皮肉なことだが、私たちはこの地域がうみだした最大の古典作家を――永久に――失ったのである。

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gabo in memoriam

2014年04月18日 | 西:LA文学古典作家

 「ひどい雨だよ!」とウルスラが話しかけると、ガブリエルは答えた。

 「十月だから」

 そう言いながら、その日の一個目の小魚から視線を上げなかった。目にルビーをはめ込んでいたのだ。それを終えて、ほかの細工といっしょにブリキ缶におさめてから、やっとガブリエルはスープを飲みはじめた。そのあと、玉葱と煮た肉や、白い米料理や、輪切りにして揚げたバナナを、時間をたっぷりかけて食べた。どんなときでもガブリエルの食欲に変わりはなかった。昼食の終わるころには、全身にけだるさを覚えた。科学的根拠のある一種の迷信から、ガブリエルは消化のための二時間が経過しないうちは、仕事も、読書も、入浴も、色事もしなかった。それは深く根をおろした信念のようなもので、執筆中でさえ、編集者たちを鬱血の危険にさらさないために創作を延期したことが何度かあった。そういうわけで、ガブリエルはハンモックを吊って横になり、ナイフで耳垢を掻きだしながら、間もなく眠ってしまった。白壁のあき家へはいっていきながら、そこへ足をふみ入れた最初の人間であることにおびえ、悩んでいる夢をみた。また夢のなかで、前の晩も同じ夢をみたこと、ここ数年、何回となく同じ夢をみたことを思いだしたが、くり返しみるこの夢はまさに夢のなかでしか思いだしえない性質のものだったので、目がさめたらその映像は記憶から消えているだろうと思った。事実、それから間もなく床屋が仕事場のドアをたたいたとき、ガブリエルは、思わずうたた寝をしてしまい、夢などみているひまもなかったような気分で目をさました。

 「今日はやめておこう」と、ガブリエルは言った。「金曜日に来てくれ」

 白いもののまじった三日分の無精ひげが伸びていたが、金曜日には散髪をするはずだし、そのときついでにやってもらえるので、髭をそるまでもないと考えた。したくもない昼寝のあとのべたべたした汗で、腋の下のリンパ腺炎の傷跡がよけい気になった。雨はあがったが、太陽はまだ出ていなかった。大きな音をさせてげっぷをしたとたんに、ガブリエルの口いっぱいにスープの酸い味が戻ってきた。それは、毛布をはおって便所に行けという胃の命令のようなものだった。習慣によって仕事に戻る時間だと知るまで、ガブリエルは必要以上に長いあいだ、発酵した木製の肥だめから立ちのぼる強烈な臭いの上にかがみ込んでいた。そこでじっとしているうちに、今日は火曜日だということ、また砂糖キビ伐採の給料支払い日なので、フィデルが仕事場に姿を見せなかったのだということを、もう一度思い出した。過去数十年間のすべての思い出と同じように、その思い出はいつとはなしに、革命当時のことをガブリエルの心に思い浮かばせた。あるときエルネスト大佐が額に白い星のある馬を手に入れてやると約束してくれたが、それっきりになっていることを思い出した。そのあと、心はさまざまな出来事へと移っていったが、これらを想起はしても判断を下すことはなかった。ほかのことは考えられないので、避けられない追憶によって感情を傷つけられるのを避けるために、冷静に考えごとをするすべを身につけていたのだ。仕事場に帰ってから空気がさらっとし始めているのに気がついて、ちょうどいい、今のうちに入浴を、と考えたが、アマランタに先を越されてしまった。仕方なく、ガブリエルはその日の二個目の小魚の細工に取りかかった。尾びれをくっつけていると、帆船のように光をきしませながら激しく日が射した。三日間の雨で洗われた大気は羽蟻であふれた。ガブリエルは小便がたまっていることに気づいたが、魚細工が終わるまで待つことにした。四時十分に中庭に出ようとすると、遠いラッパの音や、ドラムの響きや、子供たちのうれしそうな声が聞えた。青春時代がすぎてから初めて、ガブリエルはすすんで郷愁が仕掛けた罠にその足をのせ、父親のお供でジプシーのところへ氷を見にいった、あのすばらしい午後を懐かしんだ。このとき、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダが台所の仕事をおっぽりだして、戸口に向かって走りながら叫んだ。

 「サーカスだわ!」

 栗の木のほうへ行くのをやめ、ガブリエルも表へ出て、行列を見ている弥次馬の群れに加わった。象の首にまたがった金色の衣装の女が目についた。悲しげな駱駝が見えた。オランダ娘のなりをして、スプーンで鍋をたたいて拍子を取っている熊を見た。行列のいちばん後ろで軽業をやっている道化が目にはいったが、何もかもが通りすぎて、明るい日射しのなかの街路と、羽蟻だらけの空気と、崖下をのぞいているように心細げな弥次馬の四、五人だけが残ったとき、ガブリエルはふたたびおのれの惨めな孤独と顔をつき合わせることになった。サーカスのことを考えながらガブリエルは栗の木のところへ行った。そして小便をしながら、なおもサーカスのことを考えようとしたが、もはやその記憶の痕跡すらなかった。ひよこのように首うなだれ、額を栗の木の幹にあずけて、ガブリエルはぴくりともしなくなった。家族がそのことを知ったのは翌日だった。朝の十一時に、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダがごみ捨てに中庭に出て、禿鷹がさかんに舞い下りてくるのに気づいたのだ。


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相似の問題

2014年04月09日 | 西:LA文学古典作家

 かつて、前田敦子ちゃんがあき竹城にそっくりだ、という話題が盛り上がったことがあって、写真を見たら、案外似ていたという記憶がある。パーツの配分によっては、かなりかけ離れた相貌でも「似ている」と認識されてしまうようだ。

 そこで、明日から始まるゼミの予習がわりに、ラテンアメリカ文学関係者のそっくりさんを考えてみた。そういうことを考えるほどヒマなのか、お前は!という文句はともかく、似てないじゃん!という文句は受け付けないことをお断りしておく。

 ガブリエル・ガルシア=マルケス×武蔵川親方

 最近、危篤入院の報が伝えられた偉大なノーベル賞作家。『百年の孤独』についていつか学術論文を書くのが私の夢です。日本語の博士論文とか出ていないのでしょうか、文学部系で。

 ガブリエル・ガルシア=マルケス×マーティン・スコセッシ

 『タクシードライバー』に登場するシビル・シェパードという女優が、都島のスーパーのレジ係のオバサンにそっくりで、そこへ行くたびに私はYou talkin' to me ?と呟いている。

 (今の)マリオ・バルガス=リョサ×ロナルド・レーガン

 思想が似てくると顔も似てくるという好例。若いころのバルガス=リョサはむしろゲーリー・クーパーをラテン系にした感じの二枚目であった。そのときの写真を比べてみると

 (昔の)マリオ・バルガス=リョサ×アル・パチーノ

 ね? ハンサムでしょう。でも歳をとってアクが強くなるというのはまっとうな人生である。いつまでも青年、青年していてもね。ちなみにこういう悪戯をしてはいけません。

 アレホ・カルペンティエール×佐藤栄作

 ノーベル賞をあとちょっとでもらい損ねた人と、「うっかり」もらってしまった人の典型といえましょうか。カルペンティエールで卒論を書く学生に10年以上出会っていない。

 ホルヘ・ルイス・ボルヘス×トム・ヌーナン

 『ロボコップ2』の犯罪者とか『ラストアクションヒーロー』の殺人鬼役といえば思い浮かぶであろうあの人。ボルヘスを主人公にした映画があるならぜひ主演していただきたい。

 ホルヘ・ボルピ×百田尚樹

 日墨ベストセラー作家。売れ方のレベルが違いますけど。私の個人的目標は『永遠のゼロ』を読む前に永遠の(著書)ゼロを脱すること。仮題は『ラテンアメリカ文学と私』。

 ロベルト・ボラーニョ×ジョン・キューザック

 写真によって別人と言われるボラーニョを「いい男」と捉えた場合はこのあたりになろうか。ウディ・アレン的なのも多く、眼鏡姿が似ているかもしれない。でもそれよりいい男なのが

 ボラーニョの親父×バート・ランカスター

 である。親父は本当にボクサーだったらしく、この写真で見る限りもマッチョの塊のような人である。乱暴だけど憎めなさそうなオジサンという感じだろうか。左側が妹。

 カルロス・フエンテス×ブルーザー・ブロディ

 むむむ、ちょっと無理があるが、目力が似ているような。フエンテスも二枚目作家の代表で、女優と付き合う等のゴシップで世間を騒がせた。この人もノーベル賞をもらえなかった。

 イサベル・アジェンデ×上沼恵美子

 これはあまりに失礼な比較なのだが、私はたまにテレビで上沼を見ていて「そんなにエバルーナよ、おまえは‥」と言いたくなるのですね。この駄洒落が言いたかっただけです。


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こんな仕事があったらいいな企画

2013年08月08日 | 西:LA文学古典作家

 昨日にかけて紹介してきた近ごろのラテンアメリカ小説の現状を見ていると、アルゼンチンに若手作家が増えている模様である。それと、このところのラテンアメリカ文学に(日本人にとっては珍しくもなんともない) 《私語り》 が多いと漠然と感じていたのが正しかったことが改めて分かった。ご大層な研究書まで出ているみたいだが、大げさに言わずとも「お手軽な私小説が増えた」という概観でいいんじゃないでしょうか。

 そういえば、今年翻訳されたセサル・アイラの小説も『わたしの物語』といい、これまた 《私語り》 《私を巡るエクリチュール》 なのですね。原題は ¿ Cómo me hice monja ?(私はいかにして修道女になったか?)とぜんぜん違うので最初は首をひねるが、読めば、この邦題がなかなかナイスな選択であることが分かる。なぜこんな題になるのかは実際に読んでもらいたい(柳原孝敦訳、松籟社)。ただし途中で「なめとんのか、この作者はっ!!」と怒りたくなりますけど。ハハハ。

 いろいろな若手の名前が分かって、明日からまたアマゾンへの投資が増えそうで怖いのですが、私が注目しているのに取り上げていなかった作家もいた。特に女の子。これについては、またいずれ秘密の宝石として紹介したいと思う。

 いっぽう邦訳市場では、ドノソなど、過去の大作家たちの作品で訳し漏れている名作のチェックも進み始めた。でも、これについて私に仕事が来ることはこの先まずないと思うから、今日は勝手に「私が日本語にしたい20世紀ラテンアメリカ文学」という夢の企画を考えてみました。

 1)メキシコ文学:のことはよく知らないのであまり思い浮かばないのだが、やはりカルロス・フエンテス『我らの大地』は日本語でも読める環境が欲しい。体力と知力と根性のある若者よ、どうだ?!

 2)キューバ文学:のこともよく知らないのだが、レサマ=リマ『パラディソ』は準備中と聞いている。カブレラ=インファンテもなんとかなるだろう。むしろ私が期待するのはセベーロ・サルドゥイの未翻訳小説ビルヒリオ・ピニェラの短編集。アレナスとこの2人が本棚に揃って初めて「キューバ文学」の印を貼ることができる。

 3)中米文学:はアストゥリアスの『トウモロコシ人』じゃないでしょうか。ノーベル賞作家の最高傑作がなんと訳し漏れ。チャーミングな小説なのだがなあ。アストゥリアスは鼓先生訳の『緑の法王』が何度読んでもすばらしい。笑えるアメリカ人小説です、あれは。

 4)コロンビア文学:は『百年の孤独』でもういいかも。

 5)ベネズエラ文学:のことはよく分からない。

 6)エクアドル文学:というものにいつかたどり着きたい。

 7)ペルー文学:はバルガス=リョサ文学論選集なんてどうでしょうか。①ガルシア=マルケス論、②アルゲーダス論、③ユゴー論、④騎士道小説論(既訳)、⑤オネッティ論、⑥フロベール論(既訳)というラインアップで。あと個人的にはリベイロ短篇全集。小説で一推しはエドガルド・リベラ=マルティネス『ハウハの国』で、これは本当にいいのだが、ペルーのアンデスをよく知る訳者じゃないと無理か。

 8)チリ文学:パブロ・ネルーダ詩全集、エンリケ・リン詩全集、ニカノール・パラ詩全集で決まり。とにかくこの3人の詩。

 9)アルゼンチン文学:最近寺尾訳でサエールが出た。同じシリーズのラインアップにはリカルド・ピグリアの名も。私はピグリアやアイラはよく分からないのでコメントしようがなく、アルゼンチンは作家が多すぎてこれというのを選びにくいが、個人的にはレオポルド・マレチャル『アダン・ブエノスアイレス』を日本語にしてみたい。少し古めかしいかな。あとはシルビナ・オカンポ短篇全集。個人的に偏愛している。ぜひ私にやらせてくれ~。

 10)パラグアイ・ウルグアイ文学:のこともまるで分かっていないので困ったことであるが、やはりマリオ・レブレーロじゃないでしょうか。ただ、ある意味で今世紀の作家ともいえるかもしれないので、このレブレーロについては近々真面目に取り上げたいと思っている。

 以上、こんな仕事があったらいいな企画でした。


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Casa tomada を読む

2013年05月17日 | 西:LA文学古典作家

Nbc21先日ゼミでフリオ・コルタサルの短編 Casa tomada.を読んで学生たちに発表をしてもらった。コルタサルは1914年生まれのアルゼンチン作家で、幻想的な短編小説を得意とし、また実験的手法の長編小説 Rayuela(邦題『石蹴り遊び』)は前から順に進む読み方と、作者が指定した順に沿って章を追うという、二種類の読み方ができる風変わりな作品だ。1940年代にポピュリズム色の強いペロン政権になるとアルゼンチンが住みにくくなったのか、パリに移住してしまう。以来そこに定住。政治的にはキューバ・シンパの左翼として知られる。84年に70歳で亡くなった。

 コルタサルと言えば短編。

 コルタサルの短編といえば木村栄一訳。

 というのでこれと原文を読ませた。

Nbc23ここでの題は「占拠された屋敷」となっている。ほかの版では「奪われた屋敷」となっていた記憶もあるが、定かではない。これ、難しい訳だと思う。原題は単なる Casa tomada.だ。tomar は英語の take に近い幅の広い動詞で、その過去分詞が tomado, da。tomar された家である。単純に「とられた家」と私なんかはしたくなるが、それでは芸がないのだろう。

 語り手は一人称の「ぼく」。

 彼はある広大な家に妹のイレーネと暮らしている。ゆうに8人は住めるほど広い屋敷だ。この兄妹は40歳にならんとしているが、ともに未婚。イレーネは2人の求婚者を拒絶し、ぼくは婚約者に死なれている。二人は自分たちが独身のままなのは屋敷が原因ではないかと思っている。親類縁者たちは屋敷を売りたがっていて、実際、兄妹がそのまま死ねば屋敷は取り壊されるだろう。

 この二人は7時に起きて掃除をしている。11時ごろまで。ハハハ。なにしろ広い家なので時間がかかるのでしょう。そのあとぼくは食事の用意をする。そしてイレーネはひたすら編み物をする。とにかく家の掃除ばかりしている二人なのである。

 そんなある日、夜、お茶を飲んでいると、ある部屋でくぐもった話声のような物音が聞こえる。ぼくはイレーネに「奥の部屋は占拠されたのでこちら側で暮らすよ」と言う。イレーネも「あらそう、仕方ないわね」と答える。

 こうして、得体のしれないノイズのせいで、彼らの屋敷内での活動空間が徐々に狭まっていく。そして最後、屋敷に居場所がなくなった二人は、着の身着のままで屋敷を後にし、そしてぼくが鍵を溝に捨てるところで短編は終わっている。

 ちなみに今日のいちばん上にあげたのは Casa tomada.のグラフィック版で、屋敷の見取り図のなかに小説が書かれている。ノイズがだんだん増えるごとに小説の幅が狭まっていく。こんな感じ。

Nbc22実はこの短編については昔から近親相姦説がある。ぼくとイレーネが性的関係をもっているというものだ。現にイレーネは編み物針をずっといじくっているし、また二人が掃除ばかりしているのも怪しい。コルタサルはシュルレアリスムの洗礼を受けている人だし、アルゼンチンの文化人ならフロイトも読んでいるだろう。それは至極もっともな解釈でもある。

 が、説得力のある解釈というものは、あり得る他の解釈を往々にして消し去ってしまう。

 ゼミでは、発表者の一人が、木村先生の論文やあとがきなどを引き合いに近親相姦説を要領よく提示してくれた。もう一人は、近親相姦というテーマを認めつつも、屋敷という空間をある種の人類史に見立て、先に占拠されたほうが人類の始原、二人が避難した側が近代、やがてはその近代までもが始原のタブーを犯した罰として二人から奪われるのだ、という読みを提示してくれた。

 いっぽう、そうした二次的情報のないフロアからは、けっこうおもしろい読みがほかにも次々提示された。

 たくさんあったが、記憶に残るものとしては、たとえば家の取り壊し説である。冒頭、ブエノスアイレスでは近ごろどこも古い家が取り壊されている、とある。また、ぼくとイレーネの身内はこの屋敷を売りたがっている。二人にとっては大事な屋敷であるが、親戚や街という外界にとってはそうではない。急速に進む都市の近代化が前近代のライフに固執する二人を最終的に追い出してしまったのである。あるいは本当に取り壊されているのをノイズと勘違いしていただけかもしれない。二人は気が狂っていたのだろうか。

 二人のおかしさに関しては、家の外の言及が一切ないことを指摘した学生もいた。たしかにその通り、この小説は閉鎖空間の異常事態を扱ったゴシック小説である。とすれば、最後に二人が家の外に出るのはある種の解放とも言えるだろう。なんらかのきっかけで自閉的暮らしを送っていた二人がそこを脱出する。ノイズは二人の成熟を促す健康なリビドーだったのだ。

 二人の両親はどうなんだ、という指摘もあった。そう、古い広大な屋敷でノイズといえば、ふつう出てくる解答は先祖の亡霊である。私なんてもう45歳にもなって独身をやっているが、やはり寝ているときにも両親の「はよ結婚せー」という声が聞こえてきたりする。二人揃って行き遅れたぼくとイレーネは、今は亡き両親たちからのプレッシャーに強烈な罪悪感を感じていたのに違いない。なるほど。身にしみてわかるなあ。

 イレーネが怪しいという指摘もあった。後半、ぼくはイレーネの寝言に関してかなりの言及をしている。ぼくはイレーネの寝言で目を覚ましたりする。すると家じゅうのノイズがイレーネの寝言にまじってたいへんな騒ぎになる。ひょっとしてイレーネは悪霊に取りつかれてリンダ・ブレアになっていたのかもしれない。エクソシストを呼んできたほうがいい。この小説はパラノーマル・アクティビティを描いてるのだ。

 私がいちばん「あっ、そうか!」と手を叩いたのは、語り手が信用できないとする意見である。この小説はぼくという男性の語り手がいる。屋敷のノイズについて、この語り手は一切疑念を挟まない。仮にそれが近親相姦というタブーを犯したことによる妄想だったとして、では同じく疑念が一切挟まれていないイレーネに関する記述も実はぼくの妄想ではないか。

 つまり、イレーネなどいないのではないか?

 すべては僕の妄想で。

 語り手を信用することをやめると、ほかにも恐ろしい解釈が生まれる。そもそも近親相姦というが、合意のうえでのことなのだろうか? そうすれば危険なロマンス…くらいの甘い香りも漂うが、ひょっとしてイレーネは強姦されたのではないか。いや、ひょっとすると強姦されたうえ殺され、バラバラにされて屋敷のいろいろな部屋に埋められているのかもしれない。いや、生きたまま埋められたのかもしれない。コルタサルはポーの愛読家としても知られる。あり得る話ではないか。

 だとするとそうとう怖い話だなあ。

 という結論に至ったのでした。


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