天満放浪記

matsuken tenma blog

復活の日の復活

2013年05月18日 | 映画:2010年以前

 俳優の夏八木勲が亡くなった。というので昨夜は晩飯時にちょうどケーブルでやっていた『復活の日』をダラダラ見てしまった。彼はこのころ夏木勲を名乗っていて角川映画にけっこう重要な役で出ていたのである。それにしてもよく『野性の証明』や『戦国自衛隊』などといった危ない映画を作れましたね、角川。森村誠一、半村良ときて最後は小松左京。『復活の日』も今では考えられない南極ロケをやっております。

 この映画、若人のために簡単に筋を説明しておこう。細菌兵器強奪事件がきっかけになって世界中に致死的ウィルスが蔓延する(この映画の英語題はVirusといいます)。生き残ったのは南極の人々のみ。ところが人類が死に絶えたあとも動き続ける核ミサイル防御網が近いうちに大地震で作動することが分かり、それを阻止すべく主人公二人が決死の覚悟でワシントンへ向かう。が、努力及ばず世界は核ミサイルで破壊される。生き残った主人公の吉住はひとり孤独に無人の南北米大陸を南へ向かう…。

 と、書いているだけでアホみたいに壮大。

 にもかかわらず深作欣二監督なので、画像のつくりは深作色、どこか文太あにいの広島弁が聞こえてきそうなところが御愛嬌である。

 でも、改めてよく見ると、この映画、面白いキャスティング。なにかこうハリウッドB級総さらえ、どこかで見た顔大集合!といった風情の。日本人は主役に草刈正雄を抜擢、脇を夏八木、緒方拳などが固めている。ところが英米系はジョージ・ケネディ、まあ彼がいちばんの大物だろうか。

 でもケネディも米映画ではあくまでわき役、飛行機が落ちそうになったときにいつもあらわれるメカニックのオジサンに過ぎない。草刈と同じ準主役級にはボー・スヴェンソン。70年代アクション映画に詳しい人は「ああ…」とかすかにため息をつくかもしれないが、それ以上の人ではない。英国潜水艦船長にはチャック・コナーズ。むむむ、渋いなあ、しかしチャック・コナーズはチャック・コナーズに過ぎず、顔が似ているチャールトン・ヘストンとはわけが違うのである。

 ホワイトハウスは若干大物ぞろい。大統領はグレン・フォード。渋いなあ。誰が選んだんだろうか。そして仲間の大物議員はロバート・ヴォーン。夏八木は亡くなったがヴォーンはまだ健在、長生きしているなあ、ナポレオン・ソロ。が、このホワイトハウスにいる狂った軍人がヘンリー・シルバ。

 出た、ヘンリー・シルバ!

 この人が出ているだけでハリウッド映画は「びしっとB級」になれる。私が一番好きなのはバート・レイノルズの出世作『シャーキーズ・マシーン』の殺人鬼。これはしみじみいい演技だったなあ。

 いっぽうのヒロインは日本から多岐川裕美。まだこれはいいとして、草刈と恋に落ちるノルウェー隊の女性にオリビア・ハッセー。かつて世界一の美女とうたわれ、さらに布施明と結婚していたので知られるこの人も、ジュリエット役以外の姿が思い浮かばない「その後パッとしなかった一発屋女優」である。

 あと今回気付いたが、チリ隊の隊長役はエドワード・オルモスだったんだ。ラティーノの大物がヌエバ・カンシオンを独唱したりしている。

 むむむ、こんな夢のキャスティングをするなんて、やはり角川映画はすごかったと思います。

 最近この種のオールスター映画ってないかも。

 昔はよくあった。

 70年代がピークだろうか。

 いいのもあるが、最悪なのもある。

 私が一番好きな最悪オールスター映画は『遠すぎた橋』で、なぜこの映画がダメなのかを語りだすときりがないので、今日はさよなら、さよなら、さよなら。


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三つ子の魂

2010年12月19日 | 映画:2010年以前

 この時期はほとんど引きこもり、授業のない金土日は銭湯と銭湯から歩いて行ける酒場にしか外出しない。

 歳を食うたびに1年はあっという間に過ぎるが、今年も去年とほぼ同じ年末で、そして日曜には『坂の上の雲』の続きをやっている。

 本木雅弘ふんする秋山真之は菅野美穂みたいないい女を放ってなにをやってんだ!とか呟きつつ、家でも酒飲んで仕事の続行である。ちなみに菅野美穂ふんする正岡律について先日NHKが特集を組んでいた。彼女は子規の世話が終わった後、学校に通い直し、先生になって多くの生徒に慕われ、長生きしたそうである。二度の離婚は彼女側の“即切れ”の結果という。今の負け犬女の先駆けみたいなエラい女だった。センセイといえば、真之の兄である好古も日露戦後は松山で教師をやって、生徒を連れて修学旅行で朝鮮に行き「若い者は隣国の現状を知ってその友好に努めなければならぬ」と説教していたそうである。

 昔のセンセイは、男女ともにエラかった。

 週末は銭湯にしか出かけない阿呆とは大違いである。

 ところで、少々早いが今年見た映画のベスト5。

Pc3 1:『チェブラーシカ』

 ハハハ、いきなり。

 まあ、ベストワンというかなんというか…見ていて、いろいろな意味でいちばん楽しかった映画です。

 むろん原作はロシアの人形劇。わたしはこちらも映画館で見ていて好きだったので、正直、日本版のチェブには期待していなかった、どころか、下手にいじって妙なお子様向け映画になってないかなという不安のほうが強かった。

 お子様“向け”映画とお子様映画は雲泥の差なのである。

 新しいチェブは全編日本語。成功の理由は、オリジナルチェブの絵をできる限り忠実に再現したことと、大橋のぞみちゃんの吹き替えであろう。ロシア語のたどたどしい言葉が魅力だったチェブの声は、彼女のごくふつうの子供らしい声によって意外と見事に変奏されていた。サーカスという、日本人の心に響くロシアっぽい場を舞台にしたのもよかったと思う。

 のっけからこんなので申し訳ないけど。

Pc2 2:『アバター』

 3D元年…というより、パラレルワールド元年と言ったほうがいいかもしれない。

 ビデオで2Dを見た時もそれなりに面白かった。アメリカは日本の中古脚本などに頼らず、これを機に、往年のSF小説の名作をすべて映像化してゆけばよいと私は考える。

B3 3:『闇の列車、光の旅』

 ドキュメンタリータッチではなく、あざといほどに物語を作ってはいるのだが、奇妙に説得力のある運びで、それはおそらく主人公をホンジュラス人にして、メヒコの通過でかかわる人間を徹底してリアルに描いたからだと思う。

 小説にできることと映画にできることの違いを考えさせられた力作。

9 4:『第九地区』

 むむむ、正直に言うと、これが今年見たなかではいちばん印象に残っている。

 でもそれを言ってしまうと他の映画がすべてかすんでしまうので、順当に4位ぐらいに入れておこう。こういう優れて弾けた映画を低予算で作れるというのは、まだまだハリウッドも捨てたものではない。

P3 5:『瞳の奥の秘密』

 年配層を中心にミニシアターでは異例のヒットを記録したアルゼンチン映画。新聞などでも好評で、みな一様に「大人しかわからない映画」と評しているけれど、私はそういう大人の恋愛みたいな話は関心はなく、むしろこの映画のプロットでいちばん肝要なのは、辛い時代の記憶を少しずつ紡ぎ出してゆく“回想の苦しみ”であろうと思う。

 原作者のサチェリに限らず、最近のアルゼンチンは70年代の暗い時代にミニマルな視点から向き合う作風が多い。この映画が追い風になって、そうした暗いけれど読み応えのあるあちらの小説が、少しでも多く日本でも読まれるようになればと思う。

 今年はあまり映画館へ行かなかった。ツタ屋に行き始めたことも原因だろう。その点はすこし反省している。来年は非常勤の授業が一つ減るのでもう少し映画館へ行けるかもしれない。

 それにしても、こうして見てくると、私が選んでいる映画は①ぬいぐるみ、②SF、③ラテンアメリカ、の三種類しかないわけだ。

 三つ子の魂百までとはよく言ったもので。


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失われた a を求めて

2010年09月10日 | 映画:2010年以前

P3 年配者を中心に意外なヒットを続けているアルゼンチン映画。それもそのはず、おそらく50代後半と思しき主人公の、老いらくの恋をテーマにしているのだ。

 刑事裁判所の書記官ベンハミンは、引退後、ある事件をテーマにした小説を書いている。映画は、ベンハミンが草稿をもって、かつての上司である検事イレーネに会いに行くところから始まり、やがてその事件が起きた1974年の回想を交えつつ展開してゆく。

 74年当時、ベンハミンは、判事の下で事件捜査から報告書作成までの雑用を引き受ける部署にいた。彼は高卒なので、自分より年若であるにも関わらず、アメリカの大学じこみのキャリアである女性判事補イレーネの下につくことになる。職場には、彼とは性格の違うロマーノという書記官がいて、二人は何かと反目しあっている。また、同部屋のパブロには、あまりの飲酒癖に愛想を尽かしつつも、なにかと支えになってもらっている。

 ある日、平凡な銀行員リカルド・モラレスの妻リリアナが強姦殺人されるという事件がおき、ベンハミンはその担当になる。犯人が逃亡を続け、事件捜査自体が暗礁に乗り上げそうになった矢先、ベンハミンは、仕事後のモラレスが駅で犯人探しを続行していることを知り、その純粋な愛に深く感動、本格的に捜査を再開し、アル中の知恵袋パブロの助けもあって、ついにサッカー場で犯人イシドロ・ゴメスを逮捕する。

 ところが、その数ヶ月後、イサベル・ペロンの大統領就任の報道を見て、ベンハミンは愕然とする。犯人イシドロが釈放され、大統領警護官になっていたのだ。軍事政権にコネを持つロマーノが裏で手を廻し、ベンハミンへの嫌がらせとしてイシドロを釈放してしまったのだ。自由に歩き回るようになったイシドロは、裁判所内でベンハミンとイレーネを威嚇し、また、パブロも何者かの手にかかって殺されてしまう。

 有力者の一族であるイレーネはともかく、特に身寄りもないベンハミンは身の危険を感じ、イレーネとも別れ、フフイ(ボリビア国境の高原地帯)へ隠遁する。

 それから長い年月が流れて、そして冒頭へと戻る…というわけだ。残りは、これから観る人もいると思うので、公表できない。

 原作小説は恥ずかしながら未読。原作者エドゥアルド・サチェリについてはサッカーをテーマにした短編集『ティトを待ちながら』一冊があるのみで、よくは知らない。たしかにサッカーのファンなのだろう、映画でもラシンというチームの競技場へクローズしてゆく印象的なショットがあった(どうやって撮影したのだろう?)。

 脚本に感心したのは、故障して a が打てなくなったタイプの扱い方。時代を越えてこの a が出てこないタイプが登場し主人公たちを悩ませ、その事実が、犯人が出てこない、記憶が出てこない、真相が出てこない、といった様々な“欠落”を一本にまとめる鍵となって機能していて、最終的に、あるひとつの文章の欠落を解き明かす鍵ともなるのだ。

 映画冒頭、ベンハミンはノートに temo と書く。動詞 temer の一人称単数形、すなわち「怖い」という意味である。さて、この語に a をひとつ加えると、文章の意味がガラっと変化してしまう。

 スペイン語を知る人なら、もうおわかりだろう。

 分からない場合は映画館へどうぞ。現在は梅田シネリーブルにて上映中。

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意外によくできたロード・ムービー

2010年08月11日 | 映画:2010年以前

B3 予想外の掘り出し物。

 二人の主人公の物語が同時進行し、途中から重なり合ってゆく。

 一つは、メヒコ南部グアテマラ国境のターミナルタウンでギャングをやっているカスペルの物語。このギャング“マラ・サルバトゥルチャ”とは、実在する凶悪な多国籍犯罪集団で、映画でもマラの入墨、ファミリアの堅い絆、さらには加入儀礼(13秒間の暴行に耐える)などが精確に再現されていた。

 マラは、もともと戦火のエルサルバドルを逃れてきた難民たちが、LAでギャング化して結成されたと言われている。マラとは形容詞「悪い」を表すmalaではなく、中米の軍隊アリなどの大群“marabunta”からきていると言われるmaraなのだとか。Salvatruchaの語源は知らないが、おそらくsalvadoreñoが関係している。マラは今もなお米国南西部からメヒコ、中米にかけて、麻薬や武器の売買から不法移民の仲介まで幅広く活動する強固な組織で、貧困層の若者を中心に、末端のチンピラまで含めると10万人の構成員を持つと言われる。ある意味で、国家を持たない立派な軍隊である。

 このギャングを裏切る羽目になったカスペルの逃避行、そしてまだ7~8歳と思しき少年スマイリーが大人社会にイニシエートされる過程が、ある種の悲劇(避けられない宿命)として物語の中軸をなす。

 もう一つの物語は、ホンジュラスの首都テグシガルパに住む少女サイラが、父と兄と共に、すでに家族のいる米国を目指す旅に出るところから始まる。旅といっても、金のない親子の旅は、中米を縦断する列車の屋根に乗る不法移民のそれである。

 映画の原題はSin nombre(名無し)。

 過酷なメヒコ縦断の旅で、最後まで行きつける移民はほんの少ししかいない。多くが途中の町で、国境の砂漠で、あるいはマラなどの手にかかって、命を落としてゆき、さらには、移動中の不法移民である以上、最終的には、名前すらない単なる死体として処理されてゆく。

 だが、究極の名無し状況は、国境を越えた後にこそ待ちうけているようだ。最後、テキサスに入ったサイラが、大型モールの前で途方に暮れる場面は印象的だ。

 私は、もちろんマラの知り合いなどはいないけれど、サイラの家族のような大勢の人々と出会ってきた。一口に「北の豊かな国を目指す」と言うけれど、出自や性格などによって、越境のさまはそれこそ千差万別である。中米移民がメヒコを縦断するという、彼らには当たり前の事実が、地球の裏にいるとリアルには想像しにくい。この映画は、少なくとも彼らの“豊かな地域への思い”の実像を我々に伝えてくれている。最後まで持続する切ないほどの圧迫感は、監督の意図的な演出によるもの。サイラの焦燥とカスペルの絶望が、ち密に計算された映像表現として、緊張感を失わない。妙なメロドラマに流れていかないのも、見ていてすがすがしかった。

 なお、中米出身者が多く登場するこの映画では、中米のスペイン語に特有のvoseoという現象を聞くことができる。アルゼンチンなどにも共通する現象。いろいろな意味で、スペイン語を学んでいる学生は映画館まで足を運んで見ておいた方がいいと思う。

 梅田スカイビル3階『シネ・リーブル』で上映中。

 


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混血というあり得ない事態

2010年05月08日 | 映画:2010年以前

9 『第9地区』をB級SF映画として語り出せば、それはそれで切りがない。円盤の映像自体が『インデペンデンス・デイ』のパロディだというのは誰にでも分かるだろう。また、多数のインタビューから構成されているから、そういう構造上の問題から話しても学問的には面白いと思うが、そんなことを話題にしても不毛だと思う。でも、いろいろな意味で、見た後でお話ししたくなる映画であることに間違いはない。

 実は、この『第9地区』は、今年度米国映画アカデミー賞の作品賞候補なのである。アカデミー賞と言えば、同じ作品賞候補作に、3Dで一世を風靡したキャメロン監督の『アバター』があったことは記憶に新しい。

 よくよく考えてみると、この二作、いずれもアカデミー賞などとは無縁の映画だったはず。エンタメSF映画だし。最終的にアメリカ軍を主役にした『ハートロッカー』が作品賞を取ってくれて、変な話だけれど、東洋の破産寸前の街に住んでいるオッサンに過ぎない私ですら、ホッとした。そうだよなー、と。だって、アメリカ人の発明した唯一の芸術とも言える映画の、その最高の賞が、まかり間違って「アメリカを否定する映画」に下るようなことは、あり得ないだろう、と思ったので。

 そう。

 『アバター』と『第9地区』に共通するのは、まずもって「アメリカ軍(=と類似する軍事産業組織)がエイリアンに殺戮されまくる」ことである。アメリカ大陸の歴史と真逆の展開こそが、両者に共通する大きな物語上の特徴である。特に『アバター』に関しては、可愛そうなほど無差別に、アメリカ軍兵士が殺されていく。『第9地区』の場合は、アメリカ軍ではないものの、それに類する傭兵部隊がドバドバ殺されていく場面に、見ていて留飲が下がる。

 逆に、両映画とも、最初は少し気持ち悪い印象をもつ異星人が、途中から愛おしくなっていくように仕組まれている。とりわけ『アバター』の場合は意図的に異星人に感情移入するよう画面構成がなされている。いっぽう、『第9地区』の場合は適当というか、どちらかと言えばいい加減、B級マインドが横溢している展開なのだが、それでも私は、エビ星人親子の子供のほうなんか、けっこう可愛いと思った。

 この二つのSF映画は、現在のアメリカ人の精神性を考えるうえで、まことに面白い表象となっているように思う。

 両者に共通するもう一つのテーマ。

 それはなんだろう。

 『アバター』の主人公ジェイク・サリーは元々双子である。ここがミソなのだが、彼は「自分でない自分」という存在を常に意識している人格として現れる。最終的に、遠隔操作のミュータントという実体に“乗り移る”ことを目指していく過程が、この映画最大の魅力となっている。逆に『第9地区』の主人公は、人間の嫌悪の対象となっているエビ星人に同化してしまう危機に陥る。

 実際に見ていない人もいると思うのでこれ以上は言えないが、この二つの映画に共通してみられるのは、要するに「アメリカ人(=WASP)が異星人(=非WASP)に変容する」という、不条理なカフカ的変身のプロセスなのである。

 そこで私が不思議に思うのは、本来的にはその中間にあって「あいのこ」とか「混血」という形で存在しているはずの時間的経過が、この二つの映画でまったく無視されている(=脚本がSFという前提に甘えて“混血という時間性”を等閑視している)という点であって、そこにこそ、この一見すると、まるで性質の違う二つの映画が、共に「米国」というかなり特殊な地域で生産された物語であるという現実が浮かび上がってくる。

 そういう意地悪な見方を退けるならば、両者に共通する前向きのテーマとしては、とりもなおさず「意味不明の他者と共存するのはシンドイけど諦めたらアカン」という程度の、年寄りなら誰でも言いそうな当たり前の大人の常識があるにすぎない。


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