天満放浪記

matsuken tenma blog

ネジを巻け

2015年11月18日 | 西:セサル・バジェホ

 パウンド、ウイドブロ、ボンヌフォア、ビョルンビー、ロッシュ、エンツェンスベルガー、パラ(ニカノール)、エーケレーフ、トムリンソン、オルソン、パス、ヴァルザー、ラーキン、エリティス、ロウエル、ドルモン・ジ・アンドラージ、ヘルベルト、ギリェン(ホルヘ)、グスタフソン、プレネ、パステルナーク、フーヘル、モンターレ、ネルーダ、ウンガレッティ、ベリマン、アルベルティ、グラス、デュ・ブーシュ、ブロツキー、ジ・メロ・ノト、ルジェヴィチ、ガン、セフェリス、ルーツィ、リンドグレン、ヒル(ジェフリー)、ツェラン、ヒューズ(テッド)、ガッツォス、バジェホ、プラス、デュパン、ボブロウスキ、アフマートワ。

 これが1979年の集英社版世界「現代詩集」。

 なるほど…のラインアップでしょう。

 これ、今の視点で改めて検証したいですね。

 では2015年の段階で「20世紀詩集」を編むならどうするか。

 私、考えてあげてもいいですけど。

 おとなしくスペイン語の小テストでもつくっておけって? ハハハ。

 ちなみに下に挙げた詩はバジェホの欄に入っていないが、オクタビオ・パス(上の詩集にも入っている)が詩論で取り上げていて、実は牛島信明先生によるその部分訳があるにはある。原題は Los desgraciados なので中国語訳では「不幸者」。むむむ、たしかにそうだが、それをジャパン語で採用は難しいような気もいたします。ふつう横文字の翻訳って英語など同じ横文字翻訳を参照すると思いますが、私は今回かなり中国語訳を見ております。いーんでしょうか。3つある英語訳がどれも解釈バラバラなので、同じ漢語圏の人間のほうが信用できそうな気がしまして。ただ中国語訳って、おお!というのと、えっ?というのが半々かな。

 辺境漢語人としてのハンパな立ち位置をあらためて痛感する晩秋。

******

みじめな奴ら
もうすぐ朝が来る 腕に
ネジを巻け 枕の下に自分を
探せ もう一度頭で立って
真っ直ぐに歩いてみろ
もうじき朝が来る 上着を身につけろ

もうじき朝が来る そのでっかい
腸を手でしっかり握れ 思索の前に
まず考えろ だって恐ろしいぞ
不幸が我が身に降りかかるのは
歯がストンと抜け落ちるのは

飯にしたいだろうが俺としてはこう思う
嘆くな 嘆きや墓のそばで涙ぐむのは
貧しい人間のやることじゃない
己の体を繕え 思い出せ
白い糸を信じろ 煙草を吸え 腰の点呼をしたら
自分の肖像画の裏にでもしまっておけ
もうじき朝が来る 心を身につけろ

もうじき朝が来る 誰かが通る
するとホテルの片目が開いて
鞭打たれお前の鏡にぶつけられ…
震えているのか? それは額から遠く離れた国
胃からすぐそばのところにある国
まだ鼾の音がする…この鼾はなんと宇宙を盗み去るんだぜ!
それを考えるお前の毛穴ときたらいったいなんだそりゃ!
それだけの一二がありながら ああ!お前はかくも孤独なんだ!
もうじき朝が来る 夢を身につけろ

もうじき朝が来る お前の沈黙の
その聴覚器官に向けて繰り返し言おう
今すぐ飢えで左をとれ
今すぐ乾きで右をとれ とにかく
金持ちに対して貧しくなるのは慎め
寒気を
かきたてろ 愛する生贄よ お前の寒気に俺の熱が回収されていくのだから
もうじき朝が来る 体を身につけろ

もうじき朝が来る
朝が 海が 気象が旗を掲げて
お前の疲労の後を追う
お前のその昔ながらの誇りのせいでハイエナどもが
ロバの歩幅で己の歩幅を計算する
パン屋のおかみがお前を思う
肉屋のおやじがお前を思い 鋼と鉄とハイエナを
閉じ込めた斧にぴたぴた触れる いいか忘れるな
ミサのあいだ我らに友はいない
もうじき朝が来る 太陽を身につけろ

もうじき朝が来る 息を
二つに畳め その恨みがましい善意を
三つに畳め
恐怖に肘をつけ 連結辞と強調を置け
股間を見れば分かるとおり―ああ!―不滅の悪人である
お前は
今夜なにも生きず
すべてを死んでいる夢を見たのだから…

(1937年11月末から12月第1週までのいつか)

******


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兄弟よ すべきことは山のように

2015年11月16日 | 西:セサル・バジェホ

 下の詩は先訳もある有名なもの。大阪大の箕面図書館、というのは旧大阪外語大の図書館なのですが、たしかこの詩をおさめたアンソロジーがあったはずが探すとなくて、結局今日、豊中キャンパスの本館で借りた。豊中の図書館は書庫貸出しの場合、先に端末で予約して所定のカウンターへ行くと、自動的に書庫からその該当棚があがってきて「はいどうぞ」となる。いつ行っても感心してしまいます、オジサン。

 21世紀だな~って。

 その本は集英社の世界文学全集の『現代詩集』という。

 中身はともかく、そのラインアップに私は改めて目を見張っている。

 昨今の世界を見ていると、私たちは20世紀の延長戦を生きているようにも見えますね。1920年代に多くの人たちが「もうどうにもならんな、この問題は…」と考えた問題がなんの決着もみないまま逆に悪化してたりして。若者に20世紀人との連帯感を強めるよう働きかけるのがオヤジの仕事か…などと思ったりして王将のスタンプカードが気になる秋の夕暮れ。

*****

九匹の怪物
そして不幸なことに
世界では刻々と痛みが増し
一秒につき三〇分ずつ一歩一歩増していて
そしてその痛みの性質とは二重の痛みで
その苦痛の肉食性で獰猛な性格たるや
二重の痛みで
そして汚れなき草の効能たるや二重の
痛みで
人間存在における善とは二重に痛むことなのだ

人たる人よ
胸に 襟に 財布に コップに 肉屋に 算数に
かつてこれほどの痛みがあったことはない!
これほどまで痛々しい愛おしさはかつてなかった
遠くのものがこれほど近くから襲ってきたことはない
火がこんな
死んだ冷たい役割を上手に演じたことはない!
厚生大臣閣下 かくも悲惨な
福利厚生があろうとは
そして頭痛が額からこうも額を抜き去るとは!
そして箪笥の引き出しには痛みが
心臓の引き出しには痛みが
とかげの引き出しには痛みが

人たる人よ かくして不幸は増している
機械よりずっと素早く 機械十台分の速度で
ルソーの牛と 我らの髭と同じで増しているのだ
我らにはうかがいしれぬ理由で悪は増し
それは液体が自ら増し
泥や雲が自ら増して洪水になったということだ
苦痛は位置を逆さにし 眼房水が舗道に向かって
垂直に零れ
目が見られ この耳が聞かれるようにふるまって
そしてこの耳は一光時ごと九回鐘を鳴らし
一小麦時ごとに
九回爆笑し 一落涙時ごとに
九度の雌音を鳴らし 一飢餓時ごとに
九回歌を歌い 一度叫ばないたびに
九回雷鳴がとどろき 九回鞭がうなる

兄弟よ 人よ 痛みは我らを
後ろから襲い 横から襲い
映画館で我らを狂わせ
蓄音機で我らに釘を突き刺し
ベッドでその釘を抜き 我らの切符と
我らの財布めがけ垂直に落ちてくる
耐え忍ぶのは至難の業だから 祈ってもいいだろう…
というのもそうした痛みの
結果として生まれる者もいれば
育つ者も死ぬ者もいるし
生まれて死なぬ者もいれば
生まれずに死ぬ者すらいて
生まれも死にもしない者までいるから(これが一番多い)
それにまた苦しみの
結果として 私は
頭まで悲しい そしてくるぶしまでさらに悲しい
十字架に架かったパンが見える 血まみれの
蕪が見える
玉ねぎが泣き叫んでいるのが
泣き叫ぶ穀物 たいていは小麦だ
塩が粉々に 水が逃げていく
ワイン この人を見よ
雪かくも蒼ざめ 太陽かくも焼け付いて!
兄弟よ 人よ これが言わずにおれようか!
私にはもう耐えられない
こんな大きな引き出しには耐えられない
こんな大きな一分にも こんな大きな
トカゲにも こんな巨額の
投資にも こんな遠くにも 渇きへのこんな渇きにもだ!
厚生大臣閣下 いったいどうすれば?
ああ兄弟よ 人よ! 不幸にも
兄弟よ すべきことは山のようにあるのだ

******

ちなみにこの詩の中国語版は「怪物」じゃなく「魔鬼」。カッコいい!!


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viniere

2015年11月09日 | 西:セサル・バジェホ

 語学屋稼業の11月は過去形で暮れていく。

 スペイン語は点過去と線過去というふたつの時制があり、わははは…(黄金バット?)それはこういうことなんですよ…という説明もさ、なんだかマンネリになってきたりして。時制なんて覚えりゃ終わりだし教師がエラそーに語る場所じゃないかな。近ごろはむしろ、無人称の説明が大好き。この無人称を楽しく説明できるテキストに出会うとうれしいなあ。今シーズンは関西の国立大二校の第二外語で西川喬先生の『新スペイン語ゼミナール』を使っているが、これ、ホントいい教科書…と思います。

 各課冒頭文の難解でも安易でもない微妙なセンス。そして文法事項の大胆なカットぶり。そして例文の洗練。どれをとっても宝石みたいな教科書。ほとんどわびさびの境地とも言えるそのカット具合が。

 教科書って結局、配分とカットの幅、なんですね。

 使う側としていちばん有難迷惑なのは、やはり書きすぎの教科書。著者が、あれもこれも、ととにかく思いついた文法事項をぜんぶ盛り込んだ!みたい奴。気持ちは分らなくもないけど、正直、ウザイっす。いっぽうでこれは迷惑というか、どちらかというと困惑するのは、やたらとサービス精神旺盛な教科書。このサービスの対象ってだいたい著者の目の前にいた不幸な子羊さんたちなので、その子羊を知らん人間にしたらむむむむ…な感じなのです。さあ、ここでグループ分けして互いに自己紹介しましょう!って、あんた、月曜1限の眠たそうな阪大生諸君の前で言ってみなはれ!

 いや、でも、語学の教科書ってほんと、難しいと思う。

 私の理想は今のところ西川先生のゼミナールだ。

 特に9課から12課あたりにかけて、受身のseと無人称のseに誘導する方向の書きぶりが素晴らしい。9課で「無人称のse」って何?となったちょうどいいタイミングで、10課で Si se pasa el río, se puede ir a Francia.とくるのです。で、その説明は11課に盛り込まれていたりして。板書していて楽しくなる教科書ってこういうの!

 …と現実逃避している場合ではない。

 もうすぐ私の前には接続法未来形だけで書かれたポエムが登場する。

 viniere とか contare とか。

 いちおう現代文の中に唐突に登場するこいつらをどう日本語にしたらいいのか、さっき近所の風呂のなかで考えていましたが、結論が出ないまま今に至り黒霧島。さすがのゼミナールにも答は出ていない。

 とりあえず終わった大好きな詩を掲載しよう。

 前にも載せたが、誤訳も発見し、さらに文体も多少変えている。これは本当にいい詩だと個人的には思います。

*****

二つの星のあいだで躓いて

不幸すぎて体すらもたない
人々がいる 髪は量的に
天才的不快はインチ単位で下に
音階は上に
忘却の奥歯よ 俺を探すな
彼らは空気から出てきて 心でため息を足し 口蓋で
鞭打つ明るい音を聞いているみたいだ!

彼らは生まれた石棺をかきむしり 皮膚から抜け出して 時刻から時刻へとその死を伝って上り
そして凍ったアルファベットを通り抜けて地面まで落ちる

哀れなるこんなたくさん! 哀れなるたったこれだけ! 哀れなる女たち!
眼鏡かけて彼女らの声を聞く俺の哀れなる部屋!
スーツを買うときの俺の哀れなる胸郭!
汚らしく寄せ集められた俺の哀れなる白いフケ!

サンチェスの両耳に愛あれ!
腰かける人たちに愛あれ
見知らぬ男とその妻に愛あれ
袖と首と目をもつ隣人に!

虱を飼うあの男に愛あれ!
雨の日に穴開きの靴を履く男に
二本のマッチでパンの亡骸を弔う男に
ドアで指を挟む男に
誕生日のない男に
火事で影を失った男に
動物に オウムに見える奴に
人に見える奴に 豊かな貧乏人に
真に惨めな男に 貧しい貧乏人に!

愛あれ!
おなかを空かせ喉が渇いているが
のどの渇きを癒やすおなかも
空いたおなかを癒やす喉ももたない男に!

日中も月中も時中も働きずめの男に愛あれ
悲しみや恥ずかしさに汗を流す男に
両手の命令に従って映画館に行く男に
足りないはずの金で支払う男に
仰向けで寝る男に
子どものころを思い出せない男に愛あれ
帽子なき禿げ頭に
棘なき正義の人に
薔薇の花なき泥棒に
時計をはめて神を見た男に
名誉に恵まれ死なない男に!

転んでもまだ泣かない男の子に
転んでしまってもう泣くことがない男に愛あれ!

哀れなるこんなたくさん! 哀れなるたったこれだけ! 哀れなる人たち!

一九三七年一〇月一一日

******


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サンダル履きで耐え忍ぶ無痛の道

2015年11月06日 | 西:セサル・バジェホ

 あまりにヒマすぎて狂わずにいるのに必死。

 と、うかうかしていても准教授たる私はいっこうに狂わず、逆に、実はもとからすっかり狂っていたんじゃないかお前はよ…という宇宙の声と戦って日が暮れる、永遠に改革を進めなければ気が済まない腐れ守旧派ばかりが住む不思議なヤングなパンクなじゅくじゅくの町・大阪のかっぽれな夜。

 俺は王将の餃子皿を必ずゲットする。した。するかも。

*****

我が胸は色を求めて求めず
俺はその胸の急峻な道を行き 棒もって泣き
幸せになろうとして 手のなかで泣き
思い出し 書き
頬に涙を打ち込む

悪は赤色を求め 善は宙吊りの斧と
歩いて飛ぶ翼のよろめきで
赤らんだ赤色を求め
人は求めず はっきりと
あれを求めはせず
己の心に横たわろうともせず
こめかみで角がずきずき痛む
二手類の 野蛮人の 大哲学者

という感じではほぼない感じの俺は
己の心を救う鋤から下に引っ越し
規模においてはほぼ自画自賛状態
このワン公になぜ命があるのか知ること
俺はなぜ泣くのか なぜ
太い眉毛で 不器用で 移り気な性格で
絶叫して 生まれ落ちたのか
有能なアルファベットのリズムで
それを知り理解したところで
また恩知らずの男のせいで苦しむだけだ

って違う!違う!違う! ひっかけも飾りもなしだから!
苦悩ならいい いいと猛烈に断言しよう
革みたいな 捕食性の 求めて求めず 空と鳥
苦悩ならズボンのチャック全開でもいい
二つの泣き声の争い ただひとつの幸運が盗難
目隠しして歩くスピードに
サンダル履きで耐え忍ぶ無痛の道

******

 


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問題の65番

2015年10月16日 | 西:セサル・バジェホ

 今、多少なりとも向きあっている詩のなかでも核心のひとつ。

 あらがいようもなくなにかに巻き込まれてしまう詩だ。

 でも詩らしくない。

 できれば私も、詩らしい詩を訳して、詩らしい文化の末端に組み入れられたかったが、それはおそらく永遠に無理だろうか。今やっていることがすべて、半世紀後に何らかの形で修正されていそうな気がするからだ。

 だったらせめてネルーダ全詩集とかの翻訳をしたい。

 ボルヘスの詩集とかも(←もう終わっている)。

 詩らしい詩。

 詩、のような、詩。

 とってもポエムな詩。

 とってもカッコいい詩。

 こういうのではなくさ、母さん。

******

母さん、俺、明日、サンティアゴへ発つよ。
あなたの祝福と涙にこの身を濡らすんだ。
今は幻滅とこの偽雑事の古傷の
ばら色を片付けている。

俺を待つあなたの驚きのアーチ、
命尽くすあなたの願いの
剃髪した柱たち。俺を待つ中庭、
丸い絵の並ぶ祭の飾り付けをした
一階の廊下。俺を待つ愛用の乳母椅子、
例の王家の皮製の、顎が飛び出した素敵な
古道具だ、ベルトとベルト引き遊びの合間に
玄孫たちの尻にぶつぶつと文句を言うだけの奴だ。

今は俺の唯一汚れのない愛に餌をやっている。
探っている。探針が息を切らしているのが聞こえない?
      ラッパがばんばん鳴っているのが聞こえない?
この地面のあらゆる穴を埋め尽くす
あなたの愛の化学式をこねている。

******


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