天満放浪記

matsuken tenma blog

サイエンス・フィクションの精神

2016年12月03日 | 主要業績

 出張先のチリで『第三帝国』に続いてこのほど出版されたロベルト・ボラーニョの未刊行小説『サイエンス・フィクションの精神』をさっそく買って読んでみた。時差ぼけで一向に眠くならないもので。

 本はアルファグアラから。ボラーニョの版権はランダムハウス社のものになり、アルファグアラは『ビブリオテカ・ボラーニョ』と銘打ってこれから全作品を再販する模様。書店には本書の横に『野生の探偵たち』と『2666』がすでに並んでいた。長年アナグラマの本で親しんできた者としては少し複雑な思いも。アルファグアラの装丁ってちょっとダサくてさ。

 小説は223ページ。巻末に草稿の一部と構想を記したメモ書きのコピーが20ページ程度。没後原稿を扱う以上、この種の資料を欲しがる学者が現れてもおかしくない。現に私は詩の研究でそういうことばかりしてきたから。それにしてもボラーニョの手書き原稿、実際に目の当たりにすると、けっこう納得しました。ちまちました字で、やはり几帳面な性格だったのだ。

 小説の末尾には「ブラーナス、1984年」とあるので、1980年代初期にスペインで執筆されていたもの。これはボラーニョのなかでもかなり若書きのもので、その骨子はのちの『野生の探偵たち』の下書きともいえるものであるが、そうとばかりいえない部分もある。

 小説は大きく3つの語りが(バルガス=リョサ風に?)同時進行する。チリ出身の作家が女性インタビュアーに自らの小説を語るという会話のみで構成されたパート、チリ出身でメキシコ市に来たばかりのレモ・モランが詩のサークルで友人ホセ・アルコと知り合う一人称の語り、そのレモとアパートの屋根裏部屋みたいなところで同居している同じチリ出身のハン・シュレーラ(ハン・ソロのもじり?)が米国のSF作家に宛てて書いた手紙。最初のインタビューはハンの妄想っぽいがはっきりとは書かれていない。

 ボラーニョ小説のアルテル・エゴ(作者の分身)は嫌らしい言い方をすると一種の虚構なのだが、その虚構がどう生まれてきたのかを理解するうえではかっこうの作品といえる。ホセ・アルコというのはメキシコでの盟友マリオ・サンティアーゴが投影されている人物像のような気がするが、だとするとこの小説ではハンとレモの二人にベラーノが分裂しているということになるのだろうか。『野生の探偵たち』にもガルシア・マデーロという謎青年がいたので、やはりボラーニョ文学におけるアルテル・エゴはわりと流動的と考えて間違いないだろう。すでに山のような指摘が英語圏でなされているだろう。どうでもいいが、私がこうして独り言レベルで考えていることがアメリカのどこかの大学で博士論文とかになっていると思うと、眩暈がしてくる。

 他にも例の姉妹とか、例のUNAMを根城にしていた伝説の女詩人とか、『野生の探偵たち』にリンクしていく人物像が次から次に(と言うほど数は多くないが)現れ、アルファグアラ(or ペンギンランダムハウス or アンドリュー・ワイリー)としては特にメキシコなどのラテンアメリカにおいてボラーニョの看板作品『野生の探偵たち』を――ちなみに日本や英米圏では『2666』の評価が群を抜いて高いがスペイン語圏、というより正確にはスペイン・米国を除くラテンアメリカではむしろこちらが人気なのです――「わしらのもの」にするべく、この未刊行作品をどうしても横に並べる必要があったということか

 そんなことより私が気になったのはSF作家への言及である。

 こちらに来るたびに書店で脱力してしまうのは、スペイン語圏における海外SF翻訳の遅れぶり。発展途上国や後進国というより、実質上の「未開の地」に等しい。現代SFを読んでいるか否かをチェックするのにはイーガン、ミエヴィル、バチガルピといったあたりの名前が私は思い浮かぶのだが、そんなのをスペイン語で読むのは至難の業。ハーバートの『デューン』が去年の新作みたいに平積みになっているのが少なくともチリあたりの実情であるからだ。TPPを本気でやるならまずはオーストラリアのSFをチリ人がちゃんと読めるようにしてやれよ、と私は思います。つまり、スペイン語圏でSFが読みたいなら原書で、つまり英語で読むしかない。時代が70年代後半~80年代という『SFの精神』のハンも基本的にはそう、というか今よりひどかったはずで、結局彼は、レモがソタノ書店で万引きしてきたベスターあたりを英語で読んだという設定になっているが、実際に読んだ形跡は感じられない。小説からは。

 じゃあいったい何なのか。というのを今考えているのだが、なんとなく答は出てきた。

 続きはまた。


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