天満放浪記

matsuken tenma blog

もやしの気持ち

2017年02月12日 | 天満放浪記:路上編

 寒い日々が続きますが国民の皆さまはいかがお過ごしでしょうか。私は国際政治学者の三浦瑠麗さんに公共の場で「あなたの知的活動が現代日本にもたらす意義は限りなくゼロに近い」などとたしなめられたい…とエロチックな夢想に耽りながら、チリのポエムについて駄文を書き続ける毎日です。締め切りまであと1週間しかないよ。

 このところ街でよく人に会う。

 ラーメン屋の前で、から揚げ定食を食うべきか、蕎麦屋で我慢すべきか、じっと哲学的な考察にひたっていると声をかけられるので、振り向いたら、久しぶりに会う人がいたりして。大人というのは久しぶりに会うと老化か成熟のいずれかが見えるものだ。私は現在ほぼ50歳であるが、年下の人たちはたいてい成熟、年上の人たちはたいてい老化と相場が決まっている。若い人たちの成熟の結果は、妻子、もしくは夫子の帯同という形で現れる。いっぽう年長者の老化は主として毛髪に現れる。

 先日声をかけられたのも若い夫婦で、二人の子連れだった。

 こういう時は言葉のやり取りに困って、たいていはパパもしくはママが抱いている子に「挨拶しなさいね~」と発声をうながし、健気な子らが「こんにちは」と私にお言葉をのたまう。するとこっちは「こんにちは。立派だね~おじちゃんですよ~」と妙な媚びを売るというのがお決まりの筋書。おじちゃんって、誰の叔父なんだよ。

 いっぽう、酒場で、声をかけはしないが、なんとなく顔は認識している人というものがいる。聞くともなしに聞いていると、いつも産経新聞風に中国人はどうたら…とか知的に退廃した話ばかりしているので、ああ、ただの馬鹿か…とやや侮蔑気味に認識していたのが、久しぶりによその酒場で近くに立っていて、そのとき前にはあまり見なかった美女を連れていて、いかにも幸せそうな顔で、昔の彼がよくしていた「世界についての議論」はいっさいせず、目の前にあるおいしいものについて生き生きと語り合っていて、なんだか見直しちゃったなあ…なんて感心したり。これもまた成熟ですかね。

 いっこうに成熟しない私は酒場などで「センセイ」と呼ばれたりする。

 一般世間がセンセイという言葉から連想するのはだいたい2種類で、ひとつは医者、もうひとつは学校の先生。そこに大学の先生は入らない。大学の場合はキョウジュになるらしい。大学でも「センセイ」とカテゴライズされると、ただちに「授業のない時はヒマな肩書だけの無能な税金泥棒」と定義され、それはそれで(夕方から酒場に来てたりすると特に)言い訳が難しく、へへへ…と頭をかくしかない。

 私は後半生、このセンセイを脱却することを目指そうと思う。

 他の肩書の候補として、詩人なんてどうだろう。

 試しに名刺からやってみようかな。

 松本健二 詩人 大阪市在住

 とか。

 でも詩人は自称できても呼称としては難しいかも。センセイ、と声をかけることは普通でも、おぃ詩人、なんてお声がけはあり得ないのでは。それに詩人と名乗る以上はポエムを自分で書かなくてはならなくなる。そしてその書いたポエムを自費出版した詩集を名刺代わりに携帯しなければならない。

 それもありかな。

 500ページを越す大著『ラテンアメリカ文学における煩悩の研究』を岩波書店から出すより、大阪の小さな出版社から自選ポエム集『もやしの気持ち』を刊行するほうが、実現する可能性は高そうだ。少なくともそうすれば学者なのに単著ゼロという異例の状態を脱却することができるかもしれない。詩についての論考を書く暇があればポエムを書けばいいのか。むむむ…。また三浦さんの怒った顔が思い浮かんできた…。


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