天満放浪記

matsuken tenma blog

この右翼めが

2016年06月24日 | 西:LA文学最新情報

 ウヨクとかサヨクとか死語になりつつある…という話をしていたら、ウヨクウヨクと罵倒を繰り返している人が現れた。遠いメキシコの、しかも文学という今やヤンバルクイナ以上に希少種となった業界の人ですが。攻撃されているのは雑誌『レトラス・リブレス』等で活躍する文芸批評家ドミンゲス・マイケル。喧嘩をふっかけている人のことは知らないが、ドミンゲス・マイケルは有名人です。私らのような専門家のあいだでにすぎないけれど。難癖の主たる理由は、批評家がマリオ・サンティアゴ・パパスキアロという詩人をけなしたこと。マリオ・サンティアゴはメキシコの今は亡き無名詩人であるが、この人のことは知らなくてもロベルト・ボラーニョの小説に出てくるウリセス・リマのモデルだといえばピンと来る人もいるやもしれない。

 下の挑戦状に対する批評家側の回答もネットには出ている。

 人の喧嘩ほど面白いネタはないので、明日にかけて紹介していきたい。

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  エリベルト・イエペス「文学右翼の批評家への手紙」

 メキシコ文学はもはや空中分解の道に突入した。正統派批評家と三流作家と腐敗した役人どもがタッグを組んで解体したのだ。出版界のこの衰退で批評は決定的役割を果たした。メキシコの文学マフィアは反動的(で今はネオコンでもある)文芸批評に支えられている。つまり文化右翼にのっとられた文芸批評界のことだ。そうした右翼批評が書評と拒絶、抹殺と選別を手がけている。そうした右翼批評がメキシコ文学衰退を導いた影の頭脳である。

 過去数十年間、フアン・ルルフォのような世界的才能や、オクタビオ・パス、カルロス・フエンテス、カルロス・モンシバイスのような有名作家、何十かの優れた作家や作品がメキシコ文学を押し上げてきたわけだが、(全体としてみた場合)我らがアメリカ大陸の諸文学(20世紀後半で最良の文学を輩出した地域)、たとえばペルー文学、アルゼンチン文学、チリ文学、ブラジル文学、北米文学、キューバ文学等のレベルに追いつくことは一度もなかった。しかし21世紀の今や、凡庸さは、メキシコ文学の専売特許になった。そして君、クリストファー・ドミンゲス・マイケルよ、君こそがこの悲喜劇的エントロピーの戦犯といえる文芸批評家であり、それを側面から擁護してきたのだ。

 まずは君にとって面倒な質問から始めよう。メキシコ人読者から自国文学の論争的中核を理解できるような批評書を教えてくれと言われたら、いったいどの本を優先して勧めるべきだろうか? アンヘル・ラマの『文字の都市』である。だがドミンゲスよ、ラマの名著に及びもしない君の著作が、今やその地位を奪ってしまった。ラマが今の若い世代にほとんど知られていないという事実だけとっても、今のメキシコの知的業界はすでに終わりと言えるだろう…批評というものを無視し、軽んじ、汚い戦争を常に仕掛けているおかげで、かろうじて生き延びてはいるがね。

 ギジェルモ・シェリダンやフェルナンド・ガルシア・ラミレスのような反動批評家――君やこの二名の文体を模倣している同じく反動の若い連中は名前を挙げる資格もない――彼らは『レトラス・リブレス』という唾棄すべき文学右翼の牙城を築いている。ちなみにこの雑誌は名前こそ「自由」だがこれまでも(型どおりの)右翼以外のなにものでもなかった。

 この恥ずべき文学右翼どもは長い歴史を有している。それは批評におけるオクタビオ・パス化現象、すなわちポスト革命期の文化的降伏の抒情詩である。ドミンゲスよ、君はオクタビオ・パス教団の飼い犬のひとりだね。新自由主義が席巻した1980~90年代に作家として自ら記念碑になる決断をしたあの詩人の飼い犬なんだ。パスという記念碑自体は、反パス主義者たちによって、いつかは壊される日が来るだろう。でもそのパスの首を先に切ってしまったのは、君たちパス信者なのさ。君たちパス信者の書く文章は、パス-(引く)隠れた詩情、要するにパスという罠への信仰 [訳注:パスの名著の題名に引っ掛けた駄洒落だが効果はイマイチか…] だけで書かれた散文だよ。場所を移せば醜悪と空虚でしかないイメージ。綺麗なだけで内容空疎な音楽のフレーズさ。

 今度はドミンゲスよ、君に向けて話したい。君の長いエッセイ「ウリセス・カリオン:勉強ばかりで遊ばないとジャックはダメになる」(『レトラス・リブレス』2016年6月号)を読ませてもらった。君は文学のキャノン(正典)におけるここ数年の変化に対する失望を書き留めているね。マリオ・サンティアゴ・パパスキアロやウリセス・カリオンのような作家がメキシコ文学のアーカイブを賑わすことを君は危惧している。こうした変化は、君が気を配っている文学の階級や文学の堰き止めダムに逆らう形で生まれていると、君は大いに憤慨していた。こうした作家の再評価が、君の認可や君のご主人の認可をとらないまま、夜のあいだにこそこそ進行していたことに、ぞっとしたと。

 君がいかに欺瞞と安易という悪癖に染まっているかを示すべく引用をしておきたい。君はこう書いていた。「この二人の作家が教養あるエリート階級の趣味に押し付けられたそのやり方が私の興味をそそる」と。教養あるエリート階級ときましたか。うまく言葉を中和したものだね。批評の根本を占有して解体するという右翼の文化戦略をご存じのようだ。それにとりわけ若い人たちがカリオンやパパスキアロに求めたのは、この二人の作家のなかに彼らの技術的関心や都市生活の不満に対する答を見出すことだった。君の批評はね、ドミンゲスよ、欺瞞なのだ。君は教養ある(憤慨した)エリート階級のスポークスマンなのだよ。

 君の批評における常習的な欺瞞は概して「いい趣味」とかいう語法と偏見と冗語で覆いつくされている。動詞と形容詞と警句がばらまかれているが、そこには常に計算された悪意と洗練された貧しさがある。君はとても凡庸な読解を世に広めている。君はそこで正統派はこう微笑むのだと教えているのだ。そして君に反体制的な読解がまるでできないことは、皮肉にも、君よりさらに薄っぺらい読み方しかできない連中がいい気でいられるいい口実になっているのだよ。小説の一節を分析し、その形式を理解すべきところで、君はそのけちくさい趣味に基づく語法を振りかざすのだ。

 君が犯しているもうひとつの根本的な過ちは、君の個人的嗜好を世界の形而上的価値を断じる基準としてしまっていることだ。君はこんな風に言う。「ボラーニョから与えられた名声がなければ(パパスキアロは)昔のままの彼―凡庸な詩人―のままでいたことだろう」と。ここは本来こう言うべきではないのかね。「私、すなわち『レトラス・リブレス』専属の批評家クリストファー・ドミンゲスはパパスキアロの詩は嫌いだ」と。ところが君はそう書かない。なんの根拠もない意見を普遍的な判断のように書く。君自身の判断基準を議論するつもりがないのならね、ドミンゲスよ、批評の世界に入るべきではないのだよ。

 ボードレールとボルヘスのような大作家による意見や決めつけは、それが正しいからでも真実だからでもなく、そうした見解が二人の偉大な文学者を理解する手掛かりとなるという意味で価値がある。彼らの気まぐれや誤った意見や誇張ですら、彼らの詩学、彼らのアルテルエゴの形成、彼らの作品の素晴らしさを彩り補う壮大な内面のドラマの一部なのだからね。ところが君は彼らのような大作家ではないのだよ、ドミンゲスよ、君がなにかを意見し決めつければ、それは影響力ある正統派の批評家がなにかを意見し決めつけたというに過ぎない。自分がボードレールでもボルヘスでもないことに気付いていないように見える批評家のね。

 こうした体系的ともいえる認識論的過ちに加えて、君はしばしば本当は読んでもいない本に言及する癖がある。たとえば君はパパスキアロを軽視した後でギンズバーグについて語っていたが(パスのどちらかと言えば古いエッセイの焼き直しだったね、思い出したかい?)、本当はギンズバーグがどういう作家であるかわかっていないのに、どうしてパパスキアロやそのとりまき軍団なるものを批判できるのだろう?周知のように君は特定の作家たちの名ばかりをあげ連ね、大げさな言葉を連ねるわけだが、そうした作家について君がプロとしてきちんと理解していないことはもうわかっていることじゃないか。

 同じことがカリオンについての記述にも言える。彼がどうでもいい詩人だと断じたあと、君はきちんと理解してもいない前衛詩人や前衛芸術家の名前を挙げていたね。君の批評はいつもこうだ。騙されやすい人たちに感銘を与えそうな偽りの文献リスト、人名録、ネーミングリストで出来上がっている。君のエッセイに現れた人名の数を数えてみるといい。その膨大な数字の下に君がそうした作家をまるで理解していないという真相が隠れている。

 君はカリオンがポスト前衛の時代に埋没したと書いていた。でもポスト前衛の時代に埋没してしまったのは他ならぬ君自身だと認めるべきじゃないかい、ドミンゲスよ。いい加減、読んでもいない作家リストを連ねるのはやめにすべきじゃないか。お手頃な高級文化に言及するのはやめにすべきじゃないか。ヴィトゲンシュタインだのアリゴ・ローラ・トッティーノだの、カリオンに関する批評で君は浅い議論をしていたけれど、カリオンに関する分析はまるでなかったじゃないか、君はカリオンを読んでもいないだろう! 引用すれども元ネタは知らず、意見は述べれど思考はせず、ほのめかしはするが逃げてばかり、書きはするが読みもしないのだよ、君は!

 ついでに言わせてもらえばだね、君がボラーニョを(今になって急に…)ほめるだなんて驚きだよ。もう何十年ものあいだ君はそんな作家は存在しないと黙殺を決め込む側に回っていたのだからね。ボラーニョやカリオンのような作家がほぼ半世紀にもわたって君の批評レーダーに捕捉されなかったというのなら、まあ批評家を潔く引退しろとは言わないが、せめて根本的な自己批判くらいすべきじゃないだろうか。

 そもそもメキシコの文学批評地図にボラーニョやカリオンの名前がないことが、もう君たちが終わっている証拠なんだよ。君たち公的な文学批評はボラーニョやカリオンのような作家を認め、作品を追いかけ、本に編み、再読し、記述するということをまるでしないわけだ、そんな連中を誰が真面目に相手にするだろう?君の関心から漏れ落ちた優秀な作家や作品は他にもたくさんある。なんなら全部あげてもいいぜ。そろそろ自己批判の時が来たというわけだ、尊敬するパス主義者よ。

 そしてもし君の読書歴にボラーニョやカリオンが入っていないのなら、他のもっと埋もれたマージナルな新形態の異端の作家や作品に対する君の感受性に期待などできるはずもないのだよ。批評家としての君はね、ドミンゲスよ、『ラトラス・リブレス』のオクタビオ・パス&エンリケ・クラウセ共和国が生んだ反動的失敗例のひとつにすぎないのだ。ウリセス・カリオンの作品を貶そうとした君のエッセイこそが、君が20世紀と21世紀の批評家として破たんしている証拠なのだ。そして君に象徴される現在の公的なメキシコ文芸批評の死亡診断書でもある。

 君が繰り返しているもう一つの悲惨な過ちは、思想や執筆過程や作品をおろそかにし、ばかにし、君自身の読みの浅さと作家の意図や本全体の構造とを取り違えることだ。カリオンの詩に関する君の哀れな読解にそれは顕著だ。ああいう文章にかけては君はまさにペリシテの批評家 [訳注:趣味と教養にかけるという意味] ばりだな。戯言と無節操な言葉ばかりで。もっとも高尚な批評を目指す君が、あんな無教養な批評をしてしまうとは、たいした逆説だ。

 カリオンの作品がコンセプトアートではないと見せかけたうえで君は別の注文もしていた。これは君がしょっちゅうやっている間違いだ。ある作品をその作品が目指してもいないことで判断する。あたかもドンキホーテに簡潔さを、サドに節度を求めるかのようにね。批評とは予期せぬ発見に向いている読解方法だということが君には分かっていないようだ。批評家とは新たな学びや繊細な発見を得意とする読者であって、ある作品にその作品が目指してもいなかった資質を求めるようなことはしないということが、どうやら君には分かっていないようだ。

つづく…


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