天満放浪記

matsuken tenma blog

またもや自分史、しかも長大

2016年09月16日 | 西:書評④コノスール

チリの作家で世界文学化した系譜の核には1924年生まれのホセ・ドノソがいる。ドノソは『別荘』(寺尾隆吉訳、現代企画室)が昨年出て、日本語でも読める環境がほぼ完成した。よく考えれば、日本語でも読める環境が整うことこそが世界文学化の証と言えるかもしれない。ドノソは1973年の9.11事件を49歳で迎えた。チリはこの73年以降に文化人のディアスポラを経験している。そしてドノソの後に世界文学化したチリ出身の小説家はいずれもディアスポラ組。その一人イサベル・アジェンデは1942年生まれ、クーデター時には31歳。彼女は2003年に米国籍を取得、今はチリ小説というより、ローリングのような子供向けの伝奇小説に力を入れている。アジェンデには『無限計画』という米国を舞台にした小説があって、私は割と面白く読んだのだが、なぜか翻訳は出ていない。いっぽう同じ1942年に生まれたアリエル・ドルフマンは亡命後もチリに関わり続けたこともあり、日本でも比較的よく紹介されてきている。そして、もっとも新しいチリ出身世界文学作家ロベルト・ボラーニョは1953年生まれ。クーデター時には20歳だった。さらに今は、クーデター後の1975年に生まれたアレハンドロ・サンブラのような作家たちが本国では活躍している。

 上の系譜にはひとつの穴がある。それは1930年代に生まれて73年のクーデターを40代という微妙な時期に迎えた人たちの世代である。ここには二人の重要な作家がいて、うちチリにとどまった代表が詩人のエンリケ・リン、1929年生まれだがギリギリ30年代と考えよう。チリは詩の国と言われるが、世界文学化しているのはノーベル賞の二人(ネルーダ、ミストラル)くらい。ま、詩だから、仕方がない。

 ちなみにクーデターとは関係のない変わり種のディアスポラ組にアレハンドロ・ホドロフスキーがいる。1929年生まれのこの爺さんの新作は『リアリティのダンス』に続く自伝映画 Poesía sin fin. で、ここではリンとのあの出会いの場面が再現されているようだ。リンそっくりの俳優も登場する予告編はこちら。そして、この新作映画について、86歳のいっちゃってる爺さんホドロフスキーが「金くれ!」と熱く語っているのがこちら。ハリウッド映画を罵倒しだすところが面白い。そして、そのリンとチリ時代から盟友だったのが亡命組のヘルマン・マリンで、1934年に生まれている。

 リンとマリンはともに世界文学化しているとは言えない。

 リンについて言えば、そもそも詩は滅多に世界文学化しない、というより市場で流通しない文化なので世界化しないで当たり前ともいえようか。でも小説家で世界文学化しないというのは、それは日本ではありなんだけど(司馬遼太郎だって町田康だって筒井康隆だって世界文学化せずとも私たちはまったく気にしない)、日本で海外文学とくくられた時の非英語文学の小説にあっては即座に「三流」を意味してしまう(詩人はその三流にすら入らない四流というか、流れにすらならない下水みたいなもん)。商業翻訳が相手にしないのは当然だが、悔しいのは、政治的に正しい人生を送っていないと学者すら相手にしないということ。独裁政権に反対して拷問された過去があって政治的に正しいメッセージを発信していれば取り上げられても、そうじゃないとガン無視。私がそのミもフタもない「ジャパンにおける第三世界文学研究」の実態に気付いたのは20代後半あたりかな。ウブでしたから。そして、なんだか悔し紛れに、それ以来、その三流を意図的に追いかけて今に至っていて、今のところそうした三流の系譜の核にいるのが、チリではヘルマン・マリンということになる。ちなみにペルー文学三流の核はホセ・マリア・アルゲーダスであるが、アルゲーダスは政治的に正しい人なので(だから商業文学的に悲しい人になっちゃっているのだけど…)、私が本当に目指している三流の頂上山はミゲル・グティエレスとガマリエル・チュラタの二人。そんなの誰も知らんか。

 ヘルマン・マリンは割と遅咲きの作家で、作家として名を(しつこいですけどあくまでチリ国内で)知られるようになったのは、長年にわたる(主としてメキシコとバルセロナでの)亡命を経て91年に帰国してから過去を総括するべく書かれた長編三部作 《一族赦免の物語》 が刊行されてから。まず1994年に本書『悪循環』を、1997年に二作目『百羽の鷲』を、2005年に締めくくりの『死せる波』を書いている。私が持っているアルファグアラ版は(この会社にしては珍しく)文字をぎちぎちに詰め込んだ装丁でページ数は順に478、453、384、全部あわせて1000ページを超えるものをこれから読んでいこうとしているところ。世の中には『テラノストラ』とか『2666』とか嘘のように長い小説もあるのでこれくらい大したことはない…。

 『悪循環』はいわゆるオートフィクションである。少しヤヤコシイ構成で、大きく三つのパートに分けられるだろう。一つはマリンの父による一人称小説の部分。最初は主としてマリンの父方の祖父母について淡々と語られ、このパートに改行がないので読むのは根性が要る。また、お前とマリンに語り掛けている感じからして、父が語った録音をマリン自身が書き起こしたか、そう想定してマリンが書いたかいずれかの設定で、チリ弁などの口語が続出する(これはガルシア=マルケスやアジェンデやボラーニョのような世界文学小説家にはない特徴)。父方の祖父母は南部テムコ近郊の寒村カラウエというところで農場を持っていた植民地来の大土地所有者一家で、地元の軍警察と強いパイプを持っていたことが明かされる。いっぽう母方の祖父母についても並行して描かれている。父の目線からすれば妻の両親の話ということになる。これはイタリア人移民で、ジェノヴァ近郊の寒村からブエノスアイレスに移民してきた夫婦がさらに職を求めてサンティアゴまで来たらしい。

 という、父の語りの部分がこの小説の大半を占めるのだが、それにマリン自身が1980年にバルセロナで書いていたという設定の日記が時間順に挿入されていくのである。序文を書いているラウル・スリータによれば、この日記は三部作を通して挿入され、1980年から89年まで、つまりチリで民政移管が果たされマリン自身が帰国する直前までの日記となっているようだ。ここではエンリケ・リン等の実名が出てくる。

 さらに、メキシコ在住のベンサノ・トーレスなる亡命チリ人が、マリンと小説の原稿を読みながら手紙のやり取りをする中で書きためた注釈の部分がある。これは父の語りの部分に関して付されたもので、けっこう多い。そこだけ読んでも(チリ人には)面白い情報が満載で、このベンサノ・トーレスなる人物が実在するのか否かはまだ分からないが、少なくとも本書の冒頭に「編者による原注」としてその旨が記されている。

 父の語りを中心に、作家本人の日記、さらにメキシコ在住の編集者による脚注という三つのパートで構成されている小説なのである。

(ただ今220ページあたり…)


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