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フランクフルト学派

2016年09月22日 | 社会

フランクフルト学派(フランクフルトがくは、Frankfurter Schule)はルカーチグラムシの理論をベースにマルクス主義を進化させ、これにヘーゲル弁証法フロイト精神分析理論の融合を試みた、批判理論によって啓蒙主義を批判する社会理論や哲学を研究したグループの他称。道具的理性という概念を提唱し、社会の近代化によって人間が自然(人間を含む)を支配し、搾取することを批判した。
20世紀前半に主流であったソ連型社会主義スターリニズムとは一定の距離を置いて新しい形のマルクス主義を模索、一部は後に新マルクス主義と呼ばれる潮流の源流となり、1960年代にはニューレフト運動にも影響を与えた。

1930年代、ドイツナチスが政権を獲得するとメンバーの多くが亡命、やがて活動の中心がアメリカに移り、第二次世界大戦時には米国政府機関で活動、ドイツと日本の戦時情報分析、戦後処理と占領政策の策定、憲法策定に関わった。
戦後は研究所関係者の多くがドイツに帰国、ホルクハイマーアドルノフランクフルト大学で社会研究所を再興し、再びドイツが活動の中心となったが、一部はアメリカに残って著作、研究活動を続けた。

社会研究所発足から90年以上経った現在もこの学派は存在しており、ドイツを中心に第3世代〜第4世代の学者たちが活動している。

ホルクハイマー、アドルノ、ベンヤミン、フロム、マルクーゼ......。一九二三年に設立された社会研究所に結集した一群の思想家たちを「フランクフルト学派」とよぶ。彼らは反ユダヤ主義と対決し、マルクスとフロイトの思想を統合して独自の「批判理論」を構築した。その始まりからナチ台頭後のアメリカ亡命期、戦後ドイツにおける活躍を描き、第二世代ハーバーマスによる新たフランクフルト学派とは,1923年にフランクフルトに設立された社会研究所(Institute für Sozialforschung)に集まった研究者たちを指す。

 社会研究所は 第一次世界大戦とロシア革命の後,ドイツでは,マルクス主義への関心は非常に高まった。ユダヤ人の大実業家の息子であるフェリクス・ワイル(Felix Weil, 1898-1975) はまだ学問の世界では冷遇されていたマルクス主義を研究する機関として,社会研究所を創設した。以後,かれは自分自身もメンバーであるこの研究所への援助を終生続けた。社会研究所には,今日まで名を残す多くの研究者が集まった。マルクス主義といっても,ソビエト連邦のマルクス・レーニン主義とは一線を画し,ヨーロッパの社会と学問に根ざした「西欧マルクス主義」の潮流をつくりあげたひとびとである。ここでは,
社会学の授業に出てきそうな人にかぎって名前をあげておく。
  生没年等 代表作
テオドア・アドルノ Adorno, ThedorW., 1903-1969『否定弁証法』
ヴァルター・ベンヤミン
Benjamin, Walter, 1892-1940 『複製技術時代の芸術』
エーリッヒ・フロム Fromn, Erich, 1900-1980 『自由からの闘争』
マックス・ホルクハイマー Horkheimar, Max,1 895-1973 『理性の腐食』
ヘルベルト・マルクーゼ Marcuse, Hebert, 1898-1979 『エロスと文明』
 
 社会研究所のメンバーにはマルクス主義の影響が強く,ユダヤ人が多かった。ヒトラーが台頭すると,弾圧を受けた社会研究所は1934年にニューヨークに本拠を移し,所員たちも相次いでアメリカに亡命した(逃げ遅れたベンヤミンは1940年に自殺する)
 アメリカでのかれらは,以前の授業で紹介したラザーズフェルトらと交流し,ナチズムに惹かれるタイプの人間類型をさぐるために,「権威主義的パーソナリティ」の調査をするなど,アメリカ流の社会調査論も試みるが,やはり肌が合わなかったようである。その後,私が知るかぎり,かれらはこうした研究を試みてはいない。
 1950年,研究所はフランクフルトに再建されるが,西ドイツに帰国したもの,アメリカにとどまったもの,東ドイツに帰国したものなど,所員がえらんだ道はさまざまだった。
 

 

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