一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

二子村

2016年10月15日 | 社会

律令時代

律令時代武蔵国国衙が置かれた府中と各地を結ぶ府中街道(現・国道409号)が当町の南部を通っており、久良岐郡(現在の横浜市の一部)・橘樹郡(現在の川崎市の大部分および横浜市の一部)より武蔵国国府、および 8世紀以前の主要街道であった東山道(中山道、甲州街道)へ至る道として活発に利用された。

この当時、二子村の中心は府中街道沿いにあり、府中街道周辺の字名に「元居村」の名を残している。

江戸時代

1641年(寛永18年)、多摩川の洪水に悩まされていた光明寺が、矢倉沢往還が整備されるとともに、周辺の住民とともに街道沿いに移動した。これが二子村の起こりと言われる。

江戸時代中期には、江戸上方を結ぶ足柄道として、また大山信仰参詣道として、矢倉沢往還は大山街道と呼ばれるようになった。すると、かつては府中街道沿いに立地していた中心街が、おのずと大山街道沿いに移ってゆくこととなる。

また、江戸時代に多摩川は江戸護衛の観点より架橋が制限されていたこともあり、大正年間に二子橋が架かるまで大山街道は渡船二子の渡し」で多摩川を越えていた。このため、渡船の着発する二子および隣の溝口町内の大山街道沿いは宿場町として栄えた。

二子橋架橋以降

 
かつて盛んに栽培されていた「多摩川梨」。現在は環境保全型農業としての役割も担い、一部地域で栽培されている。(2006年 7月28日撮影)
 
極僅かに残る農地は今も減り続けている(2006年 5月14日撮影、このも 2ヶ月後にはマンション建設予定地となった。)
 
橋の名が昔を留める「二子塚」(2006年 5月25日撮影)

1924年(大正13年)の二子橋架橋に先立って、二子橋の工事関係者のために、二子の船宿「亀屋」が二子神社裏に「新亀屋」を開業し、架橋をきっかけに芸者置屋、待合、料亭を合わせた三業地が形成された。芸妓屋や料理屋が高津警察署の許可を得て結成された二子三業組合員の数は1932年(昭和7年)には43にのぼり、最盛期には全体で100人の芸者がいた。業者は渋谷や大森の人が多く、料理部屋5、6室の店を板前3人ほどで営業し、アユや鯉、マルタ、ナマズ、ウナギ、鮒の甘露煮などが客に提供された。戦前まではそれぞれのお茶屋が持つ屋形船に七輪を持ち込んで、獲ったばかりのアユを料理していた。

昭和2年には玉川電気鉄道溝ノ口線(現在の東急田園都市線)が開業し、町内の大山街道沿いに「二子」(後に二子新地前、二子新地)、および府中街道沿いに「高津」の 2駅が設けられた。

大山街道大正年間に県道1号線に指定され、後に国道246号線に指定されるが、国道となった後に大規模な整備が行われ、津田山(七面山)切通しと陸橋で越える東京・横浜バイパスが建設された。このバイパス道路が国道に指定されると、旧道は国道指定から外され一般市道となる(なお高津十字路以西の溝口町内は県道14号鶴見溝口線)。以降、旧道は専ら「大山街道」または「旧大山街道」と呼ばれている。

昭和中期までは、町内でも周辺各町と同様に、多摩川の肥沃で平坦な扇状地を活用した農業が盛んであった。街道沿いに栄えた商店街から一歩入るとが広がり、また「多摩川」の産地の一角でもあったが、近年の急速な宅地化に伴い、今では町内の農地はごく僅かに残るのみとなった。

近年まで、大山街道沿いには宿場町として栄えた時代の名家の蔵や商店などが建ち並んでいたが、昭和52年の東急新玉川線(現在の田園都市線の一部)開業後に東京都心への通勤圏に組み込まれて以降急速に宅地化が進み、しかも大山街道沿いは都市計画上では近隣商業地域に指定されていたことから建物の建築制限が緩く、現在は大きなマンションが乱立する光景へと急速に様変わりしつつある。

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