一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

世阿弥 似得る

2017年12月12日 | 社会
私は「悔しい」と感じました。なぜなら当たっているからです。しかし「違う」とも思いました。うまく整理はできないのですが、「準備しない方がいい」とは言えない。確かに万全の準備をして構えてしまうよりも、まっさらな気持ちで、子どもたちにぶつかってほしい。ではなぜ私たちは学生たちに準備をさせるのか。私にとってこの問いはずっと課題でした。そしてそこから10年ほど後に世阿弥の『伝書』を読んだ時、世阿弥もずっとこのことを考えていたことを知りました。


「似する」-「似せぬ」-「似得る」

世阿弥は「無心の舞い」を追究しました。無心で舞うことが最も美しいというわけです。では稽古などしない方がよいのか。無心で舞うことが目的ならば、稽古などしない方がよいのか。最初の時の気持ちのままでいる方がいいのではないか。

ところが世阿弥は徹底して稽古せよと言います。稽古しろ、用心しろ。つまり意識化することを勧めるのです。「あらゆる自分の動きを意識化せよ。自分の気が付かないところに弱みが出てくるのだから、あらゆる機会を使って用心を極めよ」。ところがそう言ったすぐ次の文章に、「しかし用心している限り名人とは言えない」というのです。「用心に留まっている限り、名人とは言えない」と、逆説的なことを言うのです。