一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

テオドア・アドルノ

2016年09月25日 | 社会

 

 ● 管理社会における芸術 ― アドルノの音楽社会学
 『啓蒙の弁証法』は,ホルクハイマーとアドルノの緊密な協力の産物であるとはいえ,その主張はむしろアドルノ色が強いといわれる。戦後の社会研究所でホルクハイマーとともに所長を務めたテオドール・アドルノは,フランクフルト学派のメンバーのなかでも,社会学,哲学,美学,文学など,いろいろな分野で現在もっとも注目されている。かれは,フランクフルト大学入学後3年目の21歳のときにすでに博士号をえた大秀才だが,音楽も子どものころから訓練から積んでいた。博士号をとった後,かれは今度はプロの作曲家をめざし,アルバン・ベルク(シェーンベルクとともに無調音楽から12音技法に進み,現代音楽を開拓した作曲家)に弟子入りした(ドイツではアドルノの作品集がCD化されているらしい)。結局は学問の道をえらんだわけだが,アドルノほど終生,音楽評論や「音楽社会学」にとりくんだ社会学者もいないだろう。
 とはいえ,アドルノの音楽論やその他の芸術論は,エリート主義的で鼻持ちならないと感じる人も多い。この傾向は,かれの「音楽における物神的性格と聴取の退化」(1938年)という論文にもすでにあらわれている(参考文献にあげたアドルノ『不協和音 ― 管理社会における音楽』に収録されている)
 この論文は,ヴァルター・ベンヤミン(先述)の「複製技術時代の芸術作品(1936年)に対する反論である。「複製技術時代の芸術作品」は,19世紀後半から20世紀前半に出現した写真,映画などの複製可能な芸術作品について,それらが一回かぎりの芸術がもつアウラ(Aura, 英語読みならばオーラ)を喪失した反面,労働者階級が容易に接近できる新たな芸術を実現したことを高く評価する。たしかに,これらの芸術はナチスによる政治宣伝に利用された。そうならないためにも,労働者階級はこうした複製可能な芸術を自らの手に取り戻し,発展させることが必要であると,ベンヤミンは論じている。
 アドルノは,ベンヤミンと親友だったらしいが,上の主張には同意しなかった。かれは自分が得意な音楽の分野で議論する。かれによると,ラジオやレコード(複製芸術)は音楽の退廃を進めているにすぎない。芸術とは本来月並みなものへの反逆を信条とする。学校の音楽史で学ぶ有名な作曲家は誰もがそれまでの音楽の語法に対する革命家であった。有名なクラシック音楽の作品だけを聴きたがる聴き手ほど,かれらと正反対のひとびとはいない。同様に,ジャズ,ロックやそのほかのポピュラー音楽も「慣行に反旗をひるがえした当初にもっていた生産的な衝撃力」を失い,耳になじんだ音楽だけを追いかける聴き手をつくりだした。行きつく先は「こんな作品はジャズでない」「ロックでない」というジャンルの物神崇拝(fetischism[フェティシズム]/ある事物を倒錯的に崇拝すること,「**フェチ」ということばもここから派生した)である。かれに言わせれば,インデペンデント系のミュージシャンもこの点では大差はない。これらの「素敵な野郎ども」(アドルノにすれば褒め言葉だが,やはり皮肉だろう)も,そのテクニックや,素人には気づかれないコード進行に得意になっているだけのばあいが多く,メジャー音楽からのマイナー・チェンジを新しさと勘ちがいしているひとがほとんどである。
 ラジオやレコードは,こうした音楽趣味の退廃にこれまで以上に多くのひとびとをひきこんだ。アドルノに言わせると,こうした低次元の音楽愛好者をターゲットに,ナチズムは政治的な大衆操作をし,先述した文化産業はその販路を広めているのである。
 
 ● ミメーシスと否定弁証法
 アドルノの音楽論によれば,これまでに存在したすべての音楽ジャンルをひっくりかえすような前衛音楽を脂汗を流しながら聴くことぐらいしか,真に音楽を聴くという行為は存在しないかのようである。この論法には辟易するが,こういう考えの背景にあるアドルノの(社会学というより)哲学理論には無視できない迫力がある。
 アドルノの本を読むと,ミメーシス(mimèsis)ということばがよく出てくる。このことばを手がかりにアドルノの思想を紹介しよう【このことばは,どの翻訳者も翻訳しようがないのでカタカナ表記している。授業の前に,このことばを解説した本もいくつか調べたが,私が納得できた説明も見あたらなかった。以下の説明は,自己流の説明であることをお断わりしておく】
 
 アドルノに先だつこのことばの用法にふれておく。ミメーシスということばは,古代のギリシャ語で,もともとは模倣を意味するらしい。このことばを芸術論としてはじめて使ったのは,プラトンである。かれは芸術は模倣(ミメーシス)であり,真実の認識に劣るとした。だから,かれは理想国家に詩人は不用であるという(プラトン『国家』)。一方,アリストテレスは,ミメーシスとしての芸術の評価を逆転した。アリストテレスによると,ある出来事と,それを題材にした芸術作品とでは,芸術作品のほうが価値があることがある。なぜなら,個別的な出来事のミメーシスとして,多くのひとびとが感動する普遍的な芸術がつくりだされるからである(たとえば,古代ギリシャの戦争のなかで,トロイア戦争が特別の意義をもつのは,この戦争を素材にした叙事詩『イリアス』が古代ギリシャ文学の傑作として今日でも多くのひとびとに愛されているからである)。
 
 アドルノ自身は,(美的・知的等々の)認識行為は,すべてなんらかの対象のミメーシスであると考えていたようである。同時に,アドルノは,認識対象とそのミメーシスとはあくまで「非同一」であると考える。創造活動とは,両者をはっきり区別し,もともとの対象を乗り越えたミメーシスをつくりだすことである。逆に,認識対象との非同一性をあいまいにし,対象と癒着するミメーシスでは物神崇拝が発生する。アドルノの発想では,ヒトラーを民族の指導者として崇拝するのも,ある音楽のジャンルや学問分野をこれしかないと思いこむことも,それから「**オタク」も,すべて硬直したミメーシスである。
 正直なところ,アドルノの主著とされる『否定弁証法』(1966年)や,遺著『美の理論』(1971年)は,私には難しすぎて,よくわからない。しかし,こうした非同一性の哲学が根底にあることだけはまちがいないと思う。
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