稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

想像と我慢

2017年02月25日 | つれづれ
数日前に赤胴鈴之助の話を書いた。
簡単に言えば、漫画本の静止画が、ラジオの音声によって、
頭の中で動画となって再現されるという内容だ。

赤胴鈴之助が私の剣道の原点。かも。
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20170223

小学校に入って文字を覚えると読書が面白くて仕方なくなった。
本を読むと頭の中に想像の世界が広がるのである。
活字に飢えていたから国語の教科書などは貰った日に全部読んだものだった。
教科書の挿絵は頭の中で動き出し次から次へと新しい場面が思い描かれる。

昭和35年頃にテレビが我が家にやってきた。
まだ茶の間には無く、祖父(粕井信一、号は豊誠)の部屋に置いてあった。
まだ番組数が少なく、というか、放送時間が夕方からだったりするので、
テストパターンしか映っていない時間もあった。


(NHKのテストパターン)

真空管だから、スイッチを入れてしばらく経って画面が明るくなるが、
ほとんどが無音のテストパターンだったりするのでガッカリしたものだ。
バックミュージックがかかっているだけでも嬉しかった記憶があるほどだ。

その頃のテレビに番組選択の自由は無い。
他に娯楽も無い時代、ニュースであろうが音楽番組であろうが相撲であろうが、
そこに映っているものが全てで我慢して見ていたのだ。

やがて放送時間や番組の数も広がりドラマや漫画なども放映されるようになった。
しかしチャンネル決定権は子供達にはなく、それ以上に末っ子の私に決定権など無かった。

何も無い時代は我慢するしかない。
着る物もお古だし、食べ物も好き嫌いは言えない。
それでも親の世代からしたら、夢のような贅沢な時代であったのだ。

贅沢なおもちゃは無く、小さな木片を手に持って、
それが自動車であったり、時に船であったりと、想像して遊んだ。

やがては家に複数のテレビがある時代が来た。
そして今や個人個人にスマホで情報を持てる時代が来た。
彼女へ電話するのにどれだけの勇気が必要だったか今の若者は知るはずも無い。

誰も我慢する必要も無いし、必要な時に必要な情報が手に入る時代になった。
我慢など誰もしなくて良い時代になったのだ。

想像も我慢も、何も無い時代だから鍛えられたように思う。
それは昭和40年頃を境にして世代のギャップとして感じている。

現代人が想像力が欠けるとか我慢が足りないとか言われるが、
それは豊かな世に生まれたせいで、どうしようも無いことだろう。

想像力が足りなかったり我慢が出来なかったりするのは良いことでは無い。
しかし、せいぜい、個人的レベルで鍛えるしかないだろうと思う次第だ。
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