愛と命の尊さを見つめて.. ポルトガルから『日昇庵だより』 ”人生 邂逅し、開眼し、瞑想す” 日々是反省ブロ愚

今日出会った素敵な言葉、素敵な人たち、ここに集めてみました。
これは、自分だけのオリジナル・スクラップ・ノートです。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

一日一生

2014-07-18 19:52:38 | 心に残った一言


大きなスクーリンに映し出される映像の迫力に魅せられ、私は以前からよく映画館へ足を運んでいた。だが昨年の大震災と原発事故の起きた福島県に住む私は、約一年間は生きることが精一杯で大好きな映画鑑賞さえも、頭に浮かべることが出来なかった。

 

少し心に余裕が出た今年の4月になって、ようやくまた映画鑑賞をするような心境になれた。先週の金曜日(8月31日)にも、時間を確保して行ってみた。お目当ては高倉健さん主演の新作「あなたへ」である。話題作とあり大勢の熟年層が見に来ていて驚いた。

 

高倉さんは映画の公開に合わせ、撮影現場となった富山市の富山刑務所を訪問し、受刑者約350人を前にして撮影への協力に感謝を伝えた。「---一日も早く、あなたにとって大切な人の所へ帰ってあげてください」と、高倉さんが話すと受刑者から大きな拍手が沸き起こったという。(引用元:福島民報・朝刊・2012.8.27)

 

福島県の地元紙は何故か昨年から高倉健さんに注目し、何度か関連記事を掲載している。特に興味深く私の心を捉えた記事があった。その内容の一部を紹介させて戴きたい。

 

放送作家で水野十六氏は、「士風・高倉健さんからの贈り物 ⑥」)で、比叡山飯室不動堂での高倉さんの話をしている。400年以上の歴史をもつ比叡山の荒行「千日回峰行」を二度も達成した行者は3人である。その中の一人である酒井雄哉師との対話は、高倉さんの希望によるものであったという。

 

一時間に及んだ対談後、酒井師は玄関まで見送りに出てくださり、不動堂を去ろうと二、三歩、歩みかけた高倉さんは、また玄関に戻った。それで高倉さんは自分の紺色のマフラーをはずし酒井師の首に巻いて差し上げ、「寒くなります。どうぞ、お風邪など召されませんように----」と言ったと述べている。

 

酒井師は高倉さんのことを、「あの人はお侍さんやと思う。すべてに命がけで、いつも刃の上を歩いているようなお人やと思う。仏様から課せられた人生を『これだけ燃え尽きました』。高倉健は、そう言って逝ける数少ないお人やと思います」と、話してくださったと記述している。(引用元:福島民報・朝刊・2011.12.30)

 

私も人格磨きに精進して、高倉健さんのような素晴らしい年齢の重ね方をしてみたいと目標にしている。さて自分は81歳の時には、どのぐらい精神的に成長できているのであろうか。今から楽しみである。

 


夢の途、一日一生の絆をこそ 

高倉健さんて、御存じのように、私生活が全く見えない著名人である。
本来は自分の生業とする表現のみで我々受け手に関われば良かった芸能人も、数多の人数ゾロゾロのトーク番組出演に留まらず、ブログや「呟き」で幾らでも(必要以上に)饒舌になったり自己弁明出来る時代である。
男が背中で語る時代はもう戻ってはこないのだろうと思う。また、少年や青年が大人の男の背中に学びを得たり憧憬を抱いたりの眼差しを向けることもない時代なのだと思う。
そんな時代においても、高倉健さんという日本の男は、他の著名人であればワイドショーで美談として取り上げられそうなエピソードを(おそらくは)無数に持っている存在なのだと思う。
こうしてブログ上で饒舌になってしまいがちな私の小ささから見れば、それは(永遠に追いかけていたい)理想的な男の背中である(4歳違いの亡父のそれと重なってしまうことも)。
1996年から2000年にかけて5回に渡って放送された、ニッポン放送の同名のラジオ番組(計10時間)を元に新たに書き下ろした本作における健さんにもひたすら魅了され、感銘を受けた。
日本人男性、及び、大人の男性をも「カワイイ!」の価値観で括りたがる(私から言わせれば相当にどうかしちゃっている)この国の年中浮足立っているような女性達、つまり、全ての日本人に今読んでいただきたいような一冊だ。

高倉健さんの『旅の途中で』の2000年部分の後半で、比叡山飯室谷(いむろだに)不動堂の大阿闍梨(あじゃり)である酒井雄哉師との対談があるのだが(それもまた素晴らしいのだが)、本書の健さん自身によるエピローグの前に、酒井雄哉師による「健さんのこと」という一文が添えられている。
それもまた心に染み入ったので、その一部を抜粋して紹介させていただきたい。


独りの時間は人間にとって大切。
その時にこそ、いろんな発想や発見ができるもんです。

独りで生きることができる人が、最終的には強いんやないかな。
そういう人には、何とも言えへん人間としての温かみもあるんやね。
そういう人は自分が善行を積んでも、
これこれをしました、なんてことをごちゃごちゃ言わない。
そんなこともあったかいな、という顔をする。
陰徳というものは、そうして積まれてくるもんやね。
ある時何気なしにすーっと現れ、ある時すーっと姿を消していく。
何かをしても、結果や報酬を期待しない。
健さんはまさにそういう人やね。
(中略)
すべてに命懸けで、いつも刃の上を歩いているような、
そんなお人やと思う。
周りの現象に流されず、折目正しく生きている。
それは座った姿にも出ておる。
誰しも人間やったら、老いていくことへの不安はある。
しかし、一日一生。
今日の自分は今日で終わり。
明日は新たな自分が生まれてくる。
今日、いろんなできごとやいざこざがあっても、
明日はまた新しいものとして生まれる。
こだわりを捨て、同じような過ちを再び繰り返さないために、
今日のうちにその過ちを修正しておけばええ。
(中略)
自分に課せられた人生。
仏様からいただいた人生を、
「これだけ燃えつきました」
高倉健はそう言って逝ける、
数少ないお人やと思います。

 

高倉健さんの「旅の途中で」を読みました

彼の書いたエッセーです。生きることとはなにか。常日ごろの私たちの心の持ち方について体験をもとに語っています。

ほかの人たちも言っていますが、傍から見ていると大変な仕事をやっている人にとって、それは大変でもなんでもなく、楽しいからやっているのだ。

また、終わりの方で大阿闍梨(だいあじゃり)・酒井雄哉師との対談があり、そこでは酒井さんが毎日毎日が違う、「一日一生」なんだといっています。「今日の景色と明日の景色と、自分の歩いている感覚、気持ちとか毎日違いますから。だからおもしろいんですよ、人生というのは、また歩くということも。」

高倉健さんはイラン映画「運動靴と赤い金魚」を見て「物欲まみれになっている国の人々に、経済的な豊かなことと、心が豊かであることがこんなに違うんだということをとても控えめに伝えてくるこの映画は本当にすばらしいと思いました」と書いています。

また中国映画「初恋の来た道」で、どんぶりの修理屋さんに修理を頼むシーンがあるのですが、そのシーンで次のような会話がありました。
「こんな安物のどんぶりだったら、もう新しいの買っちゃった方が安くつくよ」
「いえ、わたしの娘がとっても大切に思っている人が、そのどんぶりでものを食べたの。彼女にとって思い出の品だから、修理してあげたい」
「そうか、思い出は大切にしなきゃな」
そして高倉健さんは次のように言っています。
ものを大切にするというよりも、人の想いを大切にするっていうことをおじいさんがわかっている。そのことに感動してしまいましたね。

そしてわたしが一番感動したのは次のような言葉でした。
「人間にとって一番寂しいのは、何を見ても、何を食べても、何の感動もしないこと。感動をしなくなったら、人間はおしまいだと思うんですね。こんなに寂しいことはないと思います。人間にとって一番ぜいたくなのは、心がふるえるような感動。お金をいくら持っていても、感動はできない人にはできません。感動とは何でもいいんじゃないでしょうか。美しいとか、旨いと感じるとか」

映画の中の健さんもかっこいいけど、彼の考え方、生き方もかっこいいですね。


高倉健さんの著書「旅の途中で」(新潮文庫)。
の中、
健さんと酒井阿闍梨さんの会話があります。
忘れないように。(勝手に引用させていただいていいのかわかりませんが。)
P220より
 
一日一生
 
高倉 阿闍梨さんから、
    新しい二十世紀に向かってー僕が何十年か前にいただいたようにー
    そのお言葉を思い出すと元気が出るような、そんな言葉をいただけると、
    今日のお話はおしまいで十分じゃないかと思いますけれども・・・。
 
酒井 僕が一番好きなのはね、
    「一日一生」という言葉なんです。
 
    一日が一生。今日の自分はもう今日でおしまいで、
    明日はまた新しく生まれ変わってね。
    機械でいうたら充電して新しいパワーでやっていくのと同じで、
    人間も今日は今日でおしまいやけれど、
    明日はまた生まれ変わって新しい世界に入ってくような意味。
 
   ~ 中省略 ~
 
   そうすると、「一日一生」やから、
   今日の一日の一生は今日でおしまいで、
   新しい次の世代に入っていくふうに、
   
   いつもいつも前向きな思想で、今日があるからこそ明日がある。
   明日があるから明後日がある。
 
 
   「一期一会」という言葉も同じことで、
   今日を、今を大切にしない人たちには、明日はないという。
   だから、二十一世紀にどうのこうのと言うても、
   今を大切にして前向きに進んでおかないと、
   二十一世紀もないですよということですよね。
   だから、「一日一生」という言葉が大好きなんです。
 
高倉 「一日一生」、いや、いいお話をうかがいました。
        今日はたくさんのお話をありがとうございました。
 
・・・・・・・・・・
 
「一日一生」
 
明日はまた違う人生があるのかもしれない。
毎日、生まれ変われる。
何か希望の持てる言葉だなって思いました。
 
 
「旅の途中で」の本のことは、また別の機会に紹介させて頂きたく思ってます。
 
 転載させていただきました。  ありがとう御座います。


ジャンル:
ウェブログ
コメント (13)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
«  | トップ |   
最近の画像もっと見る

13 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
記事 (みさき)
2017-04-11 01:50:19
 今月10日、83歳で亡くなった俳優の高倉健さん。ともに親交が深かった歌手の加藤登紀子さん(70)と、脚本家の倉本聰さん(79)が、生前の思い出を語り合いました。

「健さんってこんな人なの」というぐらい違った面知っている
倉本 僕、ずいぶん、昨日(18日)は、忙しかったんですよ。電話ばっかり掛かってきて。健さんとは親しかったし、笑える話ばかりありますよ。でも、健さんは自分のことを外で言う人とは、すっと交際を絶っちゃう。嫌なんですよ、あの人は。自分のスターとしての神秘性を保つために。今は自分から打ち明けちゃう人もいるけど、スターというのは神秘なもので、「こいつが離婚した」とかいうのは、役者としてやること、一つの役をつくるのと無関係。そういうものに役者として左右されたくない。だから、プライベートなことは、世に出したくなかった。けど、おかしくて世に出したいことたくさんある。笑えること、たくさんある。四十九日過ぎたら、一度書いておいたほうがいいかなってくらい。「健さんってこんな人なの」というぐらい違った面を知っている。でも今話したら、まだその辺にいそうだから。怒られそうな気がしてね。

健さんが「それをあなたに言ってほしかっただけ」
加藤 健さんが文化勲章を取られたときに、「ぼくは二百いくつ映画出てるけど、ほとんど前科者。なのに勲章いただいて」って。私は映画「居酒屋兆治」で奥さんの役をもらったけど、私なんかできのわるい、女優なんかやったことなかったから、最初ことわったけど、「女優がほしいんじゃなくて、加藤登紀子がほしいんだ」とプロデューサーが言ってくださって、すごく感動して「やらせていただきます」と。せりふを最初に言ったときにこれでいいのかしら、と思っていたけど、健さんが「『人が、心に思うことは、誰にも止められないもの』とラストシーンで奥さんが言う最後のセリフがあるんですが、それをあなたに言ってほしかった。それだけなんです。後は何もしなくていいから、そこで遊んでて」って健さんに言われて、それがすごくうれしかった。演技を極めるとか、そんなんじゃなくて、人が存在することの効果、価値を見ている人だなと思った。

 でも、前科者の妻だってこと、私にすごく親近感を持ってみててくださったんだなと。主人が亡くなった時、一周忌と、必ず花が届くんですよね。兆治がつかまって、刑務所から出てくるシーンがあるんだけど、「迎えにいくシーン、加藤さんよかったですね」ってほめてくださって。前科者の妻だってところに価値があったんだなと思いましたね。健さんに寄り添えたんだ、うれしいと思いました。

「自分のリスペクトする人間が必ずいる」がシナリオに
倉本 他の役者と違うのはね、(石原)裕次郎さんも勝新(太郎さん)もスターというのは作られる役が誰も恐れないヒーローなんです。でも彼は、やくざ映画のころから、その人が白を黒だっていったら、黒だっていうくらい、その人が頭が上がらない、自分のリスペクトする人間が必ずいるっていうことがシナリオに書かれている。健さんの映画を書くときは、すごくそれを意識した。裕次郎、勝は誰にも負けないヒーロー。東映は頭いい、自分が絶対にこの人のことは尊敬する……。

加藤 生き方に対する理想があって、自分は及ばないけど、たったひとり孤独でも、その理想に向かって生きていく。そのためにぼろぼろになるような役なんですよね。

倉本 そこがあの人の役としての美しさなんですよ。そういう役を求めていた。

加藤 人間の誇り高い部分を持ってるけど、なかなかうまく生きられない。弱さでもあるけど、一番人間としての美徳。それが健さんの描いたものですね。

「どうしてこんなに…」と、つらいくらい黙る
倉本 健さんと会い始めた頃、「どうしてこんなに黙っちゃうんだろう」と。つらいくらい黙る、コーヒー飲んでても、5分、10分黙り込むの平気ですから。こっちはなんか話さなきゃ、感情を害したのかなと思うじゃないですか。

加藤 普段も無口なんですか。

車が「キキー」と止まって「女性興味、ありますよ」
倉本 そう、ものすごいですから。ある日、あんまり話題がないから、「女性に興味ないの?」って言ったんですよ。うわさがありましたからね。その時、健さんが運転して、僕が助手席に乗ってたんだけど、車が「キキー」と止まって。「……興味、ありますよ」って。

加藤 (笑い)

女性のいいところ、「しなやかさじゃないすか」
倉本 それで調子に乗っちゃって、「女性のどういうところがいいのか」って聞いたら、また黙っちゃった。青山の喫茶店から昔の防衛庁のところ通って、六本木を通って、飯倉まで返事がない。困った、どうしたらいいかと思ってたら、飯倉の交差点まで来たところで、急にニコッとして「……しなやかさじゃないすか」。あー、そうか、しなやかさかと、こびちゃったりしてね。この長い沈黙がたまらないんですよ。

加藤 それと同じような話があってね。居酒屋兆治の記者会見で、私が演じた妻と大原麗子さんの恋人、健さんだったらどっち取りますかって聞かれたの。そうしたら、健さん、「はあ」って言ったきり、ずっと沈黙。答えようとして考えている、本当に考えているか分からないけど、みんな息もできないくらい沈黙して、それから「分かりません」。記者が全員メモるんだけどね。

健さんが「おやじから『一生に二言しゃべればいい』って」
倉本 本当に考えて黙っているのか、「バカなこと聞きやがって」って沈黙しているのか、分からない。そこがあの人の、男の大きさを作っちゃってるの。ひきょうな気もするんだけどね。健さんが「僕はおやじに『一生に二言しゃべればいい』って言われましたから、なんて言うんですよ。「ああそうですか」と言うしかない。

加藤 私が以前に、対談したことがあるんですね、申し入れて。その時、私がね、傍若無人にね、「健さん、誰か誰でもいいから、ジュニアつくって、もったいないから」と。「健さんは日本人にとって魂だから、子孫を残さないのはよくない、こっそりでいいから」と話したら、すごく身を乗り出して、「それはいいですね。あの子、おれに気があるんじゃないか。あの娘はどうだろう」。マネジャーと話し始めていた。出版社の人に「記者はね、あんな質問できない」と言われた。

倉本 ユーモアの感覚はすごいんですよね。これもね、四十九日前だから話したくないけど、「健さん、どういう死に方するんですか」と聞いたことがある、そしたら、「どういう死に方してほしいか」と聞かれて。調子に乗って言ったんですよ。ニューオーリンズかなんかの裏町、汚れた町にどぶ川が流れていて、上からネオン、派手なネオンがどぶ川を時々照らす。そこにある日、東洋人の死体が浮いている。身元が分からない。安置所に運ばれて、2、3日して分かる。昔、日本で有名だった俳優・高倉健だと分かるんです。そういうのどうですか、と言ったら、また黙っちゃった。この時も15分くらい黙った(笑い)。

 そしたら、「違うんじゃないですか」ってうれしそうにいう。「アカプルコのきれいなビル、ヨットとかクルーザーがある。その中に一段とすてきなクルーザーがある。僕のなんですけどね。そこに毎日、東京・青山の「ウエスト」からチーズケーキが空輸して届くんです。それを年取ったソムリエが毎日、チーズケーキを届けに来る、高速艇でね。そしたらある日、チーズケーキがのどにつまって死ぬんです」と。もう僕、おかしくてね。このユーモア感覚はなんなんだと、こんなの思いつかないですよ。

「しょっちゅう面白いこと言っている人でした」
加藤 ものすごい面白い人ですよね。しょっちゅう面白いこと言っている人でしたよね。

*この対談は、12月1日朝刊「おんなのしんぶん」で連載中「Tokiko’s Kiss」でも掲載予定です。

毎日新聞
死場所 (Misaki)
2017-04-11 07:16:50
沢木氏の発言から。「物ってふえますよね。もちろん火事とかそういうことがあって、一瞬にして消えてしまうでしょうけど、そういうことがない限り、人の関係とか、物とかがふえていくに従って、不自由になっていきますよね。僕はそういうふうに物をふやして、関係をふやして、そして不自由になって、安定した感じで生きていくようにはなりたくないと思うんですよね。どうしてもそれはちょっと・・・。」 これは1984年におこなわれた対談のようだ。今とは対照的な時代を反映した言葉かな、と思います。今では、「関係」の多くが壊され、人々は「自由」になっている。
「つながっていない」 これが今の時代を表わしている言葉かな。消費者は生産者とつながっていない。消費者はとりあえず今、安ければいい、と思っている、生産者が再生産できないような状況に追い込まれようと。政治家は民衆とつながっていない。自分の選挙のことしか頭にない、国が滅びようとも。経営者は労働者とつながっていない。会社の利益さえ上がればいい、と思っている、労働者の生活が破綻しようとも。それって、いずれ組織が内部崩壊するのに、ね。
高倉健氏の言葉。「ずっと僕はここにいるんじゃないとはどこかで思っていますね」「自分がここで死ぬんだというところを早く見つけたい、そういう気持ちはありますね」 1984年、いろいろな可能性がまだあった。84年の言葉として受けとめると、これには、可能性を追求しようとしている姿勢が感じられますね。2008年12月、私たちは「ずっと僕はここにいるんじゃない」という気持にすらなれないくらい、閉ざされた気分の中で生活している
七つの美徳 (みさき)
2017-04-11 20:29:22
七つの美徳 英語 ラテン語 対する七大罪
純潔 Chastity Castitas 色欲
節制 Temperance Temperantia 暴食
救恤 Charity Liberalitas 強欲
勤勉 Diligence Industria 怠惰
慈悲 Kindness Patientia 憤怒
忍耐 Patience Humanitas 嫉妬
謙譲 Humility Humilitas 傲慢
 (花冠)
2017-04-14 01:42:53
女性との養子縁組はストイックに生きる孤高の人というイメージをもっていた健さんファンに驚きを与えたのは間違いない。
 しかも、健さんをめぐってはもうひとつ、衝撃的な告白があった。「週刊現代」(講談社)15年1月3・10日合併号に掲載された高倉健の元恋人であり女優の児島美ゆき(62)のインタビューだ。
 江利チエミと離婚後は生涯独身を貫いた高倉だが、その間、何人かの女性と交際が伝えられている。その一人が児島だった。
「私、30年近く、彼を恨んで恨んで、恨みつづけてきたんです。世間体を大切にして私を振った、ひどい男だと、近しい人にも言いつづけてきました。

 児島の告白はこんな辛辣で衝撃的な恨み節ではじまる。児島は『北の国から』などに出演した女優だったが、そこで共演した田中邦衛の紹介で高倉と出会い、交際がスタート。「1983年夏から84年春にかけての約300日間、俳優の高倉健(享年83)のマンションに通い、半同棲生活を送っていた」(「週刊現代」)という。
 当時、児島は31歳、そして高倉は52歳。人目を避けながらも楽しい時間を過ごしていた二人だが、別れは突然やってきた。84年春、芸能誌に二人の関係が報道されてしまったのだ。この報道後、児島は高倉から「しばらく会えないんだよ。僕も待つから1年、待ってくれないか」といわれたという。
 児島は悲しみより怒りが込み上げたという。「この人は、世間体が大事で、私を捨てた」。実際、半年経っても1年経っても高倉からの連絡はなかった。2003年、児島はヌード写真集を出すが、これも高倉への復讐のためだったという。  
 そして別れから30年後の高倉の死。しかし児島はもう高倉への恨みはなく、「あのころの彼の立場や苦悩がわかるようになりました。『あなたの気持ちをわかってあげられず、ごめんなさい』と謝りたいくらい」と語っている。
 ただ、児島が「現代」に語った高倉像は、自分のことを「剛ちゃん」と呼んでいた、児島に膝枕してもらって「幸せだ」と涙を流した、警察無線を傍受するのが趣味だったなど、意外なものばかり。はてはこんなエピソードまで告白していた。
「私がヌードダンサーの真似をして、BGMに合わせて服の裾をヒラヒラさせながら躍ったんです。そしたら彼は、顔をほころばせ、手を叩いて、「いいねぇ!」と子供みたいに大喜び」
 孤独や老いに弱り、女性に依存し、ちょっとスケベで甘えん坊だった高倉健。2つの週刊誌が浮き彫りにした意外な素顔に驚きつつも、しかし、一方でなんとなく納得できる気もする。それは、我々が心のどこかで「健さんが健さんを演じている」ことに気づいていたからなのかもしれない。
週刊新潮 (花冠)
2017-04-14 01:44:40

週刊新潮 2017年4月20日号 2017/4/1
 83歳で逝った俳優・高倉健(本名=小田剛一)の命日は11月10日である。今年は三回忌の節目だったが、ここへきて、問題の養女(52)とのことがいくつか分かってきた。

 これまで判然としていなかった2人の出会いについて、さる映画関係者は「健さんと彼女が出会ったのは今から19年ほど前、場所は香港の高級ホテル『ザ・ペニンシュラ香港』だったと聞いています」と明かす。ホテルジャーナリストをしていた彼女が名刺を渡して猛アタック。当時、健さんが家政婦を探していたこともあり、世田谷区瀬田の豪邸に入り込むことになったのだという。

 その後、2014年11月に健さんが逝く前年に密かに養子縁組。没後は数十億円ともいわれる遺産の全てを相続し、健さんの著作権を管理する「高倉プロモーション」の社長におさまった。

■不信感を募らせる親族

 福岡県中間市で生まれた健さんは4人きょうだいの次男である。兄と、すぐ下の妹はすでに他界しており、きょうだいの中で唯一健在なのが末妹。彼女をはじめとする親族に健さんの死が知らされないうちに、養女の手配によって遺体が荼毘に付されたことは、本誌(「週刊新潮」)でも以前報じた通りである。以来、養女に対する不信感を募らせている健さんの親族らが、小田家代々の墓がある中間市の正覚寺に集まったのは、11月7日のことだった。正覚寺に聞くと、

「小田家の親族の皆さまの三回忌法要ですか? やはり檀家さんのことですから、わたしたち寺がお話しすることはできないんです」

 法要は午前10時から、寺の本堂にて行われた。参加したのは健さんの親族の他、生前、彼と親交があった者数名。仕出し弁当に酒も出たが誰もほとんど手をつけず、皆で思い出話に花を咲かせていたという。

■「南極物語」出演秘話


11月19日に始まった追悼展

 その3日後の命日には、全国各地で親交のあった人やファンが祈りを捧げたに違いない。中には、生前、健さんが毎年参っていた長野県の善光寺からわざわざ副住職を呼び寄せ、法要を行った人もいる。健さんの元付き人で京都市内でガソリンスタンドを経営する西村泰治氏だ。

 健さんのことをダンナと呼ぶ西村氏は、

「ワシの事務所にはダンナから貰ったお不動さんの像が祀ってある。命日の10日は、副住職にお経をあげていただいている間、ワシの家族や従業員、ダンナの熱心なファンなど20人から30人、皆で一生懸命に手を合わせとった」

 と言い、件(くだん)の「お不動さんの像」を巡る健さんとの思い出を振り返る。

「ダンナが『南極物語』のロケに持っていき、戻ってきた後はワシが預からせてもらっている。思い出すのは、あの映画を製作したフジテレビから台本が送られてきているのに、ダンナが何の返事もせずに放っていたら、ワシのところに吉永小百合さんから電話がかかってきたこと。吉永さんのご主人はフジのディレクターだった方。それで吉永さんはダンナに『南極物語』に出演して欲しくてワシに電話をしてきた」

 どのように説得するか思案したあげく、西村氏が口にしたのは、健さんの元妻で1982年に他界した江利チエミの名前だった。

「“チエミちゃん、寒いところにいるでしょうね。ダンナも寒いところに行ってみて、同じ思いを味わってみたらどうでしょう?”といった話をしたところ、最終的に“南極も悪くないな、行こうか”となった。ダンナは次の日、比叡山の飯室谷不動堂に行き、滝に打たれて体を清めた。その際、大阿闍梨の酒井雄哉師が下さったのが、お不動さんの像だったのです」(同)

 三回忌に合わせ、養女は〈追悼特別展 高倉健〉を準備してきた。東京・丸の内の東京ステーションギャラリーで11月19日から催されているこのイベントには行かないのか、西村氏に問うたところ、

「行きたくありません。どれだけ写真が飾ってあっても、心の繋がりが感じられなければ意味がない」

 と即答した上で、

「ワシが思っているのは、日本だけではなく、世界中にいるダンナのファンや関係者が、手を合わせて供養できる場所を作ってほしいということ。本当にそれだけなのです」

 そう語るのだが、果たして、当の養女にそのつもりがあるかどうか。何しろ、健さんの死後、彼女が行ってきたのは創造ではなく、破壊。健さんがこの世に生きた痕跡を次々と壊して回っているのだから――。

■“絶対許さない”


世田谷区にあった健さんの豪邸

 その1つが、世田谷区瀬田の豪邸。今年5月に解体工事が始まり、敷地内に建っていた3棟のうち2棟が取り壊された。そして現在は、養女が社長を務める高倉プロを建築主とする2階建て新築住宅を建設中で、来春完成予定である。

 健さんはこの土地に大変な思い入れを持っていた。59年、彼が江利チエミと結婚し、新居を構えたのがその場所だったためだが、脳裏に刻まれていたのは楽しい記憶ばかりではない。結婚の3年後に身ごもった江利は残念ながら妊娠中毒症で中絶を余儀なくされ、70年には火事で自宅が全焼。翌年、2人は離婚し、江利が帰らぬ人となったのはその11年後だ。

 江利との悲しい思い出が刻まれた場所はもう1カ所あった。神奈川県鎌倉市にある鎌倉霊園。健さんはこの地に江利との間の水子を弔うための水子墓を建立、折に触れて訪ねてきては静かに手を合わせていたという。しかし、その水子墓も今はもうない。健さんの死後、養女が墓地を更地にしてしまったのだ。

 何が養女をこうした非情な行動に走らせているのか。これまで関係者は一様に訝しむばかりだったが、ここへきて、その答えに繋がるかもしれないエピソードが漏れ伝わってきた。

「養女は折にふれて“高倉を絶対許さない”と言ってきたというのです。彼女は健さんが健在だった頃、決して表に出てはならない日陰の存在として蟄居させられていたことについて思いを募らせていたのかもしれません」(民放関係者)

 その昏(くら)い思いが破壊行為に繋がっているのだとすれば慄然とする他ないのだ。

 養女は、もうこの世にいない「高倉健」をどこへ連れていこうとしているのか。行く末は見えない。

特集「『高倉健』三回忌! 遺産総取り『養女』の愛憎深し」より

週刊新潮2016年12月1日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです
週刊新潮 (花冠)
2017-04-14 01:47:07
「高倉健墓碑」、突如鎌倉に出現 新たなトラブルの火種

2017年4月11日 5時58分 デイリー新潮
お墓(イメージ)
写真拡大
 遺された者の諍いが止まないのだから、故人が安眠できるはずもない。高倉健が鬼籍に入ったのは2014年11月(享年83)。以来、親族間で様々なトラブルが起きていることは本誌(「週刊新潮」)でも報じてきた。そこに今回、新たな火種が――。舞台は、鎌倉の名刹である。

 ***

 健さんの死後、自ら世間に存在を明かした養女(53)は、遺骨はおろか数十億円ともいわれる遺産をあまねく手にした。現在は高倉プロモーション社長に収まった彼女に対し、健さんの従兄弟などが分骨を求めていた調停でも、養女側は「散骨済みで、場所や時期は知らせない」と主張。東京家裁で不成立に終わっている。

 そんな中、3月18日には、鎌倉に建つ浄土宗関東総本山にあたる光明寺で、ある法要が営まれていた。


お墓(イメージ)
「健さんの従兄弟にあたる高倉プロの元専務が墓碑を建立し、そのお披露目があったのです」

 とは、さる関係者。当日は50人ほどが参列し、寺の入口近くに建つ「高倉健 蓮華化生」と彫られた墓碑に手を合わせたという。墓碑は健さんの立ち姿を表しているといい、高さは身長と同じ180センチ。寺が作成したパンフレットによれば、

〈墓碑にある段状の意匠は、健さんの映画人生の節目となる年、映画作品数などを表しています。生涯映画出演作品は205作であり、墓碑の高さは台本を積み重ねた高さでもあるのです〉

 さまざま趣向が凝らされているわけなのだ。

■寺院も懸念を
 生前の健さんの周囲には、高倉プロのほか、メカニックや理髪師など24時間体制でサポートする「チーム高倉」とも呼ぶべき仲間がいた。が、彼らが故人を供養しようにも、養女の出現で叶わぬまま。それが今回、皆で手を合わせられるとなれば、喜びはひとしおのはず。それでも先の関係者は、

「そもそも健さんの菩提寺は福岡県中間市にあり、鎌倉には自身の先祖とつながりの深い別の寺もある。元専務は、チーム高倉や遺族らの了承を得ないまま独断で碑を建ててしまったのです」

 これに対し当の元専務は、

「お墓ではなく、あくまでモニュメント的なものです」

 そう弁明しながら、

「ご遺族は法要にお呼びしていませんが、ゆくゆくはファンの方が集まるような場所になると思います。高倉が鎌倉霊園に持っていた墓を養女が取り壊したことで、供養ができなくなった。今回は私が造ったというより、高倉が門徒だった浄土宗の方々がご厚意で建てられたのです」

 が、その光明寺に聞くと、

「先方(元専務)から『建てたい』と申し入れがあり、お受けしました。養女の方やご遺族は、これからお知りになるでしょう。そのあたりは、私どもも大いに懸念しているのですが……」

 現に“ひび割れ”は始まっていて、

「身内にも話さないで勝手にやったのだから、放っておくしかありません」

 とは、チーム高倉のさるメンバー。健さんの甥の森健氏も、こう断じるのだ。

「魂が入らないものを造ってしまったのは非常に重い。叔父は信心深い人で、死の前に私の母に対し『仏は上から見てるからな』と言った人。今回のことを知れば怒るでしょう」

 供養どころか、煩悩がまた一つ増えてしまった。

ワイド特集「花も花なれ 人も人なれ」より

「週刊新潮」2017年4月6日号 掲載
アマリア・ロドリゲス (花冠)
2017-04-15 03:04:30
http://seiunsha-co.com/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%EF%BD%A5%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%82%B9-%E5%92%8C%E8%A8%B3-%E9%9B%A3%E8%88%B9-%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%AE%E8%8B%A6%E3%81%84%E3%83%AC/
“寡黙な男”高倉健 名言集 (花冠)
2017-04-15 04:12:35
自分がここで死ぬんだというところを
早く見つけたい。

いい風に吹かれたいですよ。
きつい風ばかりに吹かれていると、
人に優しくなれないんです。
待っていてもいい風は吹いてきません。
旅をしないと…。

人間にとっていちばん寂しいのは、
何を見ても、何を食べても、
何の感動もしないこと。
感動をしなくなったら、
人間おしまいだと思うんですね。

こんな淋しいことはないと思います。

人に裏切られたことなどない。
自分が誤解していただけだ。

人生っていうのは、
人と人の出会い。
一生の間にどんな人と出会えるかで、
人生は決まるんじゃないですか。

何をやったかではなく、
何のためにそれをやったかである。
今それが大切に思えてきている

すべて…
私の不徳のいたすところです。

お勧め宿 (みさき)
2017-04-15 04:37:34
ホテル・アルバトロス(Hotel Albatroz)
Rua Frederico Arouca, 100 (cascais)
Tel: 01-483-2821 Fax: 01-484-4827
Muere el actor Ken Takakura, el «Clint Eastwood japonés», a los 83 años (Misaki)
2017-04-16 07:46:55
EFE/HOYCINEMA
Día 18/11/2014 - 19.29h
El veterano actor japonés Ken Takakura, uno de los intérpretes más reconocidos del cine nipón, falleció a los 83 años el pasado 10 de noviembre en un hospital de Tokio, a causa de un linfoma, anunció este martes su representante. Takakura era conocido como el «Clint Eastwood japonés» por sus papeles de tipo duro o de mafioso, y por su gesto serio.

Su fallecimiento se convirtió en noticia de apertura de la cadena pública NHK, mientras el principal periódico del país asiático, el Asahi Shimbun, le recordó como «uno de los mayores actores de Japón». Estrella legendaria en su país, Takakura gozó de fama internacional por películas como «Black rain» (1989), de Ridley Scott, o «Yakuza» (1974), de Sydney Pollack, en las que compartió pantalla con primeros espadas de Hollywood, como Michael Douglas o Robert Mitchum.

Natural de Fukuoka, al sur de Japón, el intérprete, cuyo nombre real era Goichi Oda, trabajó en casi 150 proyectos (algunos de ellos, esporádicos, en televisión), y obtuvo cerca de una veintena de premios por sus papeles en películas como «Poppoya: Railroad Man» (1999), por la que recibió el galardón al mejor actor en festivales como el de Montreal o Asia Pacífico de Los Ángeles, además del otorgado por la Academia de Japón.

Su última aparición cinematográfica fue en «Dearest» (2012), un filme del director japonés Eiji Shimakura, en el que trabajó junto al también actor, director y humorista Takeshi Kitano, y donde interpretaba a un anciano consejero de una prisión, que acaba de perder a su esposa.

Otros títulos recientes en los que trabajó fueron «Hotaru» (2001), un drama de Furuhata, y una colaboración internacional con el chino Zhang Yimou en «La búsqueda» (2005), un título sobre el que su director bromeó que solo fue una excusa para rodar con el actor, a quien admiraba desde hacía años. Dicho papel le granjeó en 2006 el premio al mejor actor que otorga la Asociación de Críticos de Cine de San Diego (EE.UU.).

Papeles de yakuza


La trayectoria cinematográfica de Takakura comenzó en 1955, año en que se unió a la productora Toei Co., y se hizo popular entre el público masculino en los años 60 después de protagonizar una serie de películas de yakuzas (los integrantes de las mafias niponas) entre las que se incluye «Prisión Abashiri» (1965). En sus papeles, el intérprete encarnaba el ideal masculino japonés, un hombre estoico, abocado al auto-sacrificio y diestro en la lucha.

En 2013 recibió de manos del emperador Akihito la Orden de la Cultura, el galardón más destacado de este campo otorgado en el país asiático, en reconocimiento a su carrera y su contribución a la difusión de la cultura nipona. El veterano intérprete fue hospitalizado mientras preparaba su próximo proyecto, y a pesar del tratamiento, su estado empeoró repentinamente, informó su representante. Su funeral se ofició en una ceremonia íntima a la que acudieron sus familiares más cercanos, explicó el representante a los medios nipones
ADIÓS A KEN TAKAKURA (Misaki)
2017-04-16 08:05:34
EL ACTOR FALLECIÓ A LOS 83 AÑOS

ADIÓS A KEN TAKAKURA, EL CLINT EASTWOOD JAPONÉS
El intérprete participó en films norteamericanos como 'Comando en el Mar de China', 'Yakuza' o 'Black Rain'
Fotogramas.es 18-11-2014

El reconocimiento internacional le llegó a Ken Takakura (Fukuoka,1931) gracias al éxito de 'Yakuza' (Sydney Pollack, 1974), que coprotagonizaba junto a Robert Mitchum. Era el espaldarazo a una carrera que se había iniciado a mediados de los años 50, cuando, graduado en la prestigiosa Universidad Meiji, superó unas audiciones y fue contratado por la Toei Film Company. Allí trabajófrenéticamentehasta 1976, dejando a sus espaldas unlargocentenar de películas: títulos como 'Abashiri Bangaichi' (Teruo Ishii, 1965) y 'Showa zankyo-den' (Kiyoshi Saeki, 1965), de las que se rodaron varias entregas, o 'La Pantera Amarilla' (Kenji Fukasaku, 1966) y 'Pánico en el Tokio Express' (Junya Sato, 1976).
Antes de que Sydney Pollack le diera uno de los personajes principales de 'Yakuza', Ken Takakura ya había tenido una buena experiencia en Hollywood, con 'Comando en el Mar de China' (Robert Aldrich, 1970). Después, el cine norteamericano volvería a acudir a su hermetismo interpretativo en 'Black Rain' (Ridley Scott, 1989), donde se convierte en el principal aliado de la investigación japonesa de Michael Douglas y Andy Garcia, o en 'Mr. Baseball' (Fred Schepisi, 1992).
Apodado “el Clint Eastwood japonés”, ganador en cuatro ocasiones del premio al Mejor Actor de la Academia Japonesa e investido por el propio Emperador con la Orden de la Cultura, Takakura terminó su carrera rodando 'Qian li zou dan qi' (2005), de Zhang Yimou, y 'Anata e' (Yasuo Furuhata, 2012). El actor, toda una celebridad en su país, fallecía el pasado 10 de noviembre, a los 83 años, víctima de un linfoma
Morre Ken Takakura, um dos maiores atores japoneses H (Unknown)
2017-04-16 08:15:27
Morre Ken Takakura, um dos maiores atores japoneses
21:00 17 novembro in Cinema, Notícias by Vasco Guimarães 0 Comments
0 Likes
Share
O ator Ken Takakura, que chegou ao estrelato em 1960 interpretando bandidos da Yakuza, mas depois tornou-se o ator japonês em filmes de Hollywood feitos no Japão, morreu no dia 10 de novembro, aos 83 anos de linfoma maligno. Um funeral privado já havia sido realizado quando a mídia japonesa divulgou a história.

O lendário ator estrelou mais recentemente no filme de Zhang Yimou ” Um Longo Caminho”, mas para o público ocidental, foi mais conhecido por seu papel ao lado de Michael Douglas em “Black Rain”, de Ridley Scott e “Mr. Baseball “.

Takakura, filmou com atores norte-americanas como Tom Selleck e participou de filmes dirigidos por diretores renomados como Sydney Pollack e Zhang Yimou.

Nascido com o nome Goichi Oda em Oita, na ilha de Kyushu, sudoeste do país, Takakura iniciou na indústria cinematográfica em 1955 após realizar um teste em Toei, um dos maiores estúdios do Japão, apenas por curiosidade.

Morre Ken Takakura, um dos maiores atores japoneses

Ele tornou-se conhecido em audiências internacionais pelo papel no filme de Pollack “Yakuza”, de 1975, após atuar ao lado do ator norte-americano Robert Mitchum. Também teve destaque na comédia “Um Peixe Fora D’água”, de 1992. Em 2005, ele apareceu no filme “Um Longo Caminho”, de Zhang.

Nascido em 16 de fevereiro de 1931 em Fukuoka, Japão, Takakura entrou no estúdio Toei em 1955 depois de se formar pela Universidade de Meiji. Seu papel de estréia foi como um prisioneiro fugitivo no filme de 1965 dirigido por Teruo Ishii “Abashiri Prison”, que foi vagamente baseado “The Defiant Ones”. de 1958, dirigido por Stanley Kramer
Ken - san (Misaki)
2017-04-16 19:44:36
“Ken San” is a new documentary about late actor Ken Takakura opening in local theaters next month.Described as Japan’s “greatest” and “last” movie star, Takakura was respected by both the Japanese people who worked with him and international film giants such as Martin Scorsese, John Woo and Paul Schrader.The star quality they identified in Takakura was, as Scorsese puts it, his “presence” both on and off the screen — a kind of “aura,” as one Japanese character actor described it.Though he was just a man, a fallible human, the personality Takakura conveyed in his movies transcended his imperfections, and he worked hard to make sure his “aura” outlived him

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む