視覚障害者きうっちの自立への道

視覚障害者きうっち(S52年生)が気の向くままに日々の生活をツラツラとつづるブログ

ついに退院(04年8月以降)

2011-12-24 12:00:58 | 闘病日記
今月分の記事も一応、この入院生活を記した記事のバックナンバーはこちらに目次形式で記してあるので、ご希望の方はどうぞ。

■長い長い入院生活の終わり
 2003年9月11日に突如倒れ、救急車で病院にかつぎこまれてから始まった自分の過酷な入院生活。
病に倒れてから既に11か月が経とうとしているのですが……でも、そんな生活もようやく終わりを迎えることができました!
先月(04年7月)から毎週末の土日を利用して、自分は2、3回程度の仮退院を行い
『実家での生活』が滞りなくできるのか?ということを確認していました。
そしてそれも『家の中を改修工事すれば』という条件付きですがクリアすることができたので
2004年8月6日を以て、晴れて自分は正式に退院をすることができました!いや~それにしても長い長い入院生活だったよなぁ……(号泣)

ちなみに自分の名前には健康の『健』という一文字が入っているのですが、その名が示す通り、これまで自分は入院するような病気は一度もしたことはなくそれどころか骨折すらしたこともありませんでした。
そんな自分が最初に経験した入院生活がこれでしたからね。今思い返してみてもやっぱり相当辛い時期でしたよ。
入院当初は、自分の名前の中にある『健』の一文字に引っかけて『名前の通り全然健康じゃないじゃん!』と意味不明な怒りと憤りを両親にぶつけていましたこともありました。
でもこの入院生活で一番キツかったことといえば、やはり毎日の精神状態でしたね。
最初の頃は自分の体はほとんどまともに動かせなかったし、口から物を食べることもできない。しゃべることもできないからまともにコミュニケーションを取ることもままならない。
それに目も全然見えないから、本を読んだりTVを観たりして退屈な入院生活の暇つぶしをすることもできない。この頃の自分ができたことといえば、携帯ラジオを聴くことかリハビリくらいなものでした。
そして最初の頃は自分の体は一向に良くなる気配がないし、特に足は9か月近く動き出す気配がありませんでしたからね。
しかも入院生活は非常に孤独でした。まぁこれは自分自身が、あえて病気前の知り合いを遠ざけていたというのもあったのですが。この頃は自分の変わり果てた姿を今までの知り合いに見せたくないという思いが強かったですからね。

 そうなるとだんだん精神的に追い詰められていくんですよ。先の見えない不安といら立ちとで。
そのせいか、入院していた頃の自分はかなり無口でした。最初の半年ぐらいは『ほとんどしゃべれなかった』というエクスキューズがあったにせよ
入院していた頃の自分は、何を効かれても首を縦や横に振って自分の意思を『何となく』示すだけでしたし、
しかもその頃の自分は常に、眉間にしわを寄せている、常にブスーッとしている不機嫌そうな表情を浮かべていたそうです。まぁ実際に毎日かなり機嫌は悪かったのですが。

 でも、そんな入院生活からようやく解放されることができました。もちろんこれはこれで嬉しかったんですけど
ただ、実は正直なところ、まだまだ心からは喜べなかったんですよね。
確かに長い入院生活から抜け出すことはできましたけど、この時点ではまだまだ社会復帰へのメドは全然立っていませんでしたから。
『これから一生懸命リハビリをしていけば再び会社に戻れるのだろうか?それよりもこれからの自分の人生は一体どうなるのだろう?』と不安ばかりが頭をよぎりましたし。

 でもあんまり不安がってばかりいてもしょうがないですからね。とりあえず今できることを精一杯やっていこうと。
で、退院したばかりの自分が一番最初にしていたこと。それは病気前の知り合いにとにかく電話をかけまくることでした。
何しろほとんどの人とは1年近く音沙汰のない状態でしたからね。とりあえずこの約1ねんもの間、自分が入院していたということは知り合いにはちゃんと知れ渡っていたみたいでしたけど
自分がどういう状態で入院していたのかということまではほとんど伝わっていなかったみたいでしたから、まずはその報告をと。
それからしばらく何の音沙汰も無かったことへのお詫びと、久しぶりに会いたいですね!というお願いをして(苦笑)。
上でも触れている通り、何しろ入院していた頃の自分は『人との触れ合い』がほぼ皆無でしたからね。
今にして思えばこの頃の自分は人との触れ合い、コミュニケーションには相当飢えていたと思います。

■退院直後の自分の体の状態
 ここで退院時の自分の体の状態について整理しておこうと思います。

・両腕や手の力と動き
この時点で両腕の腕力はほぼ元に戻っていましたし、腕の動きも両腕とも背中に腕が回せて背中が掻けるくらいには動かせるようになっていました。
また手の平の関節もこの時点ではほとんど病気になる前と変わらないくらい動きましたし、手の握力もこの時点で左右とも35前後はありました。

・首や腹筋、背筋など腕以外の上半身
入院当初、生まれたての赤ん坊のように立たなかった自分の首はこの頃にはすっかり元に戻りました。
腹筋、背筋に関してはこの時点での状態は『まだまだ』といったところでしょうか。
腹筋は2か月くらい前にようやく、あお向けに寝転んだ状態から腕を使わずに起きあがれるようになったばかりでしたし。

・食事について
入院当初は『流動食』を胃の中に流し込んで何とか生きながらえていたようなわたくし。
そんな自分もこの頃には、ほとんど普通に食べ物を食べられるようになっていました。
唯一、普通の食事と違っていた点といえば、お茶などの水分をわざわざとろみをつけて飲むようにしなければならなかったということでしょうか。

・言葉をしゃべる能力、気管切開で開けたノドの状態
03年9月、気管切開の処置でノドの気管のあたりに穴を開け、それ以来そのノドの孔には
カニューレというノドの孔をカバーするための医療器具が挿入されていたのですが、それは実をいうとめでたく退院を果たした04年8月初旬の時点でも挿しこまれたままでした。
ただ退院3か月前の04年5月頃からは、かなり普通におしゃべりすることができるようになるスピーチカニューレをほぼ常時装着していたので
退院した時点ではかなり普通に話すことができていました。感じとしては、やや滑舌の悪い人くらいにはしゃべれていたと思います。退院後に知人と久しぶりに電話で話をしても、この時の自分が少ししゃべりにくいからと事前にことわっていても『ほとんど病気前と変わらない』とも言われましたし。

・両足の力と動き
両足については退院2か月前の6月に動き始めたばかりであり、正直足の力、動き共にまだまだ、いや、まだまだまだまだまだまだという感じでした。
両足はとりあえず『どうにかスムーズにズボンを履ける』くらいまでは自分の意思で動かせるようにはなりましたが、正直この時点ではまだ『自分の足で立つ』というのは、何かの支えや掴まる物があったとしても無理でした。
当然『自分の足で歩く』なんてことはまだ夢のまた夢の段階でしたし、外はもちろん家の中も退院後1年半は、車椅子を使っての移動でしたね。

・排尿、排便の方法
排尿に関しては退院をする3か月前くらいから始めた、使い捨てカテーテルと滅菌グリセリンという2つの道具を使って行う
自己導尿という方法で溜まった尿を出していました。でも最初の頃はこれが中々上手くいかなくて……退院をしてしばらく、いやかなり長い期間は
便器の中に出していたはずのおしっこが外に漏れていることもしばしば…(汗)。また、排便に関しても病気の後遺症で
だいぶ弁を押しだす力が弱くなっていたので、退院してからは『座薬』をお尻の穴の中に入れて弁を出すようにしていました。
そして今も同じような方法で弁は出しております……実はこれを書いている11年12月の自分にとってこの『トイレ問題』が一番悩ましい問題なのかもしれないですね。
正直、目が見えないことに関しては自分が『開き直ること』で何とでもなりますし。

・目の状態、見え方
ちなみに目の『見え方』に関しては入院当初、これを書いている11年12月の時点まで一切変わっていません。
具体的な見え方を言葉で表すと、色や光の判別はまったくできません(涙)。
自分の50cmくらい前を動いている物であれば、何となく分かる……のかなぁという感じかな(汗)。
ここで『分かる…のかなぁ』と言葉を濁したのは自分でもよく分かっていないから(苦笑)。
確かに自分の50cmくらい前だったら『物が動いた』ことは分かるのですが、それが『本当に目で見えている』からなのか
『物の動いた気配で感じているから分かる』からなのか、自分自身でも判断できないんです。…まぁ正直、どっちでもいいですけどね。どちらにしても目に関してはほぼ『使い物にならない』のは分かっていますから(涙)。

■退院後にしていたリハビリのメニュー
 退院後にしていたリハビリのメニューなのですが、結局その退院後、実家にはほぼ丸5年ほどいたので、その時の自分の体の状態によって
こなしていたリハビリのメニューもだいぶ変化していました。ここでは退院後にしていたリハビリのメニューを年単位で紹介していこうと思います。

・退院後から04年末まで
この頃やっていたリハビリのメニューは、基本的に退院直前の頃とあまり変わらなかったですね。
腹筋、背筋運動をして体幹を鍛える運動をしたりだとか、ベッドにあお向けに寝転んだ状態から足上げ運動などをして
とにかくひたすら足を動かしたりだとか、そんなことをしていました。この年くらいまでは正直、歩くことはまだまだって感じでしたね。

・05年にしていたリハビリのメニュー
この頃くらいから『歩行器』というリハビリ用の道具を使って歩く練習を始めました。
歩行器の詳しい説明等については、上記に貼ってあるwikipediaのリンクを参照していただきたいんですけど
自分がこの時使っていた歩行器は、上のリンク中の説明に即していくと
ロレーター型、または小車輪付き歩行器・歩行車
と言われる物で、自分はしばらくの間、この高さが胸のあたりまである歩行器を使って
それに覆い被さるような形で上腕部を乗せ、体の全体重を歩行器に預けるようにして
少しずつ、50メートル、100メートルぐらいの距離から歩く練習をしていました。こうやって『文章』だけで説明をしようとすると正直かなり難しいんですけど
たまに小さな子供(万1歳にもならないような幼児)が保護者の監視下の下、ベビー用の歩行器を使って遊んでいることがありますよね。
あれを大人用に大きくしたものをリハビリに使っていた-。と考えると何となくイメージしやすいのかもしれません。
ただ、上のwikipediaのリンクには、歩行器の写真も掲載されているみたいなので、目の見えている人は『それ』を見てもらうのが一番早いんでしょうけど。

・06年にしていたリハビリのメニュー
この頃は主に地元自治体が運営している『福祉トレーニングセンター(?)』へ親に連れて行ってもらって
マシンを使って足のトレーニングをしていました。(ちなみにこの頃はまだ外は車椅子に乗り、その車椅子を後ろから押してもらっての移動)
ちなみにこの頃使っていた主なマシンは、手すりに掴まってその場で走る動作をするルームランナーと(ただしルームランナーのベルトの回る速度はかなり緩めて。だいたい4kmから4.5km程度)
自転車、いわゆるエアロバイクを30分程度漕いでいましたかね。
後は両手を目の前のバーにかけて、足元のペダルのような物を踏んでいくマシン……ところでこれは何て言うんだろう(汗)?
チラッとネットで調べてみたらこのマシンは『ステップ』というのがどうやら一般的らしいのですが。

・07年から08年頃にしていたリハビリのメニュー
この頃にしていた主なリハビリとしては、マンションの階段の踊り場を使って
片方の手で会談の手すりを掴み、階段の一番下の段を使って昇り降りの運動、
普通は平均台を用いて行う、いわゆる『踏み台昇降』のようなことをしていました。
この運動、実は06年頃からやっていたのですが、06年頃はセンターでのマシントレーニングの方がメインだったので
この運動はここでの紹介。

思えばこの頃は、毎日毎日同じこと、同じようなリハビリを繰り返す日々ばかりで
精神的にも相当病んでいましたね。肉体的には入院していた頃の方がずっとキツかったですけど
精神的にはこの頃が一番ツラかったような気がします。05年末に病気前まで勤めていた会社を退職することになってしまい、
将来への展望が全然見えてこない時期でもありましたし。

・09年初めから6月までしていたリハビリのメニュー
この頃くらいから、外出する時に白杖をついて
訪問で歩行訓練士の方に週1回自宅へ来てもらって
自宅の周りで歩行訓練をしていました。ただし、白杖を使い始めた最初の頃は
足元のバランスがだいぶ悪くて、何でもないアスファルトの道でも歩くのにだいぶ苦労していたので
この頃の自分が外を出歩く時は、左手に白杖を持ち、右手に体を支えるための杖を持って歩いていました。

こうすることで確かにフラつかないし体は安定するんですけど、これはこれで今度は両手が塞がってしまうため
歩いている時は手に『何か』を持つことはできません。特にこの状態で一番苦労することといえば、雨が降っている所を歩く時。
何しろ普通に『傘』を差すことができませんから。

■退院後の自分の活動
 そして最後に、退院後から09年7月に所沢の国立障碍者リハビリテーションセンター(以下国リハ)の寮に入るまでにしていたことを
箇条書きでザッと紹介しようと思います。

・04年8月から04年12月
退院後、しばらくは実家でのんびりとリハビリ療養生活。
同時に所沢の国リハの生活訓練を実家からの通所で受けられるように準備。

・05年1月から05年7月
所沢の国リハへ1度目の入所。この頃国リハの生活訓練を受けていた最大の目的は
とにかく足を中心とした下半身の強化とリハビリ。
同時に音声読み上げソフトを利用したPCと点字の訓練も受けていましたが、正直この頃自分の精神状態が相当病んでいたせいもあってか、これらについてはあまりマジメに訓練していなかったかな…。

・05年8月中旬頃
丁度、一度目の所沢の国リハでの生活訓練を終えた直後の05年8月中旬頃、
自分は実家近くの私大病院へ、3日間ほど短期入院をすることになりました。
その理由は入院時に気管切開の処置を施したため、ノドに開いてしまった穴を埋める治療を行なうためです。
ただ、治療といってもこれに関しては特別に麻酔を打つようなことはしませんでした。治療の方法は本当に単純で、まずノドの穴に挿しこんでいるカニューレを
『スポッ』と抜く。そしてそれまでカニューレを挿しこんでいたノドの穴を、バンソウコウ、包帯などで手厚く保護して外からばい菌が入り込まないようにします。
で、その後は1、2週間ほど放置しておく。意外と思われるかもしれませんが、実は気管切開の処置で開けたノドの穴は
人間の自然治癒の力で自然と塞がっていきます。身近な例でいうと、転んだりして擦り傷を負ってしまった時のことを思い返してみてください。
転んで負ってしまった傷口は、やがてかさぶたとなり、気が付くとそのかさぶたも取れて傷口だった所もいつの間にか元通りになっていると思います。
ようは気管切開の処置で開けた穴も、これと同じ要領で埋まってしまうというわけです。

ただ、自分の場合はどういうわけか『その穴』が目論見通り埋まらなくて
しかもそれに気が付かなくてしばらく放置していたせいでずっと後、2009年10月になって
自分は結局、この『不完全に埋まってしまったノドの穴』を完全に埋めるための手術を受けることになってしまうのですが……なお、このノドの穴を完全に埋めるための手術の模様はこちらに記しているので、興味があればリンク先のページをご覧くださいませ。

・05年11月末
この頃、病で倒れるまで勤めていた会社からもらっていた休職期間が終わったため
結果的に会社を退職せざるを得なくなる。ちなみに会社に勤めていた期間は実質2年半でしたが、一応『スズメの涙』程度の退職金はもらえました(苦笑)。

・06年から08年
この頃は上のリハビリ紹介の項でも触れているように、地元の福祉トレーニングセンターに週1、2回程度通いながら
『何の目的もなく』ただ何となく、漫然と実家でリハビリ療養生活を送る。
上でも少し触れているように、この頃は会社をクビになり、それまで唯一の目標だった
『会社からもらっている休職期間の間に何とか働けるレベルまで、体の状態を戻して会社に復帰する』というのが完全に消滅した時期だったこともあり
この頃の自分は何の目的も目標も無く、ただ漫然と、かといって自ら『死』を選ぶようなことをするでもなく
何となく生きながらえていました。

・09年1月から6月
上でも少し触れている通り、この頃熊谷江南地区にある『日本ベーチェット協会』という民間の施設にお願いして
週1回、歩行訓練士の人に実家に来てもらって
実家の周りで歩行訓練を受けていました。
同時に再び所沢の国リハへ入所できるように、今回は本格的に訓練を受ける覚悟を決めて
また訓練により専念するため、寮生活をすることも決めました。

…そして話はこのブログの2009年7月5日の記事へと戻ります。
おおっ!?何課仏典にある輪廻世界のような感じで上手くまとまったぞ(笑)。

 まぁそれは冗談として最後にこんな稚拙な回顧録を読んでくださったみなさまへ。
全14回にも渡ったこの自分の闘病の記録に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
思えば自分がこのブログを始めた目的の半分は、この『闘病の記録』を文章の形にして残すということでした。
当初、これを書き始めた頃は5、6回に渡って書けば十分書き表せるだろ?と軽い感じで書き始めてみたものの
書いている内にあれもこれもと、書いておきたいことが次々と出てきて気がついてみたら
全14回という、結構な量になってしまいました。おかげでこの記録を全部執筆するために2年半もの期間を要するハメになってしまいましたし、
途中約2年もの生活訓練、職業訓練の期間を挟んでいたこともあり、そのため長い長い中断期間があったこともあってか
正直、一時は『もう別に書き上げなくてもいいかな…』と思ったこともありました。ただ、何打かんだでこうして最後まで書き上げることができました。
これもひとえに、こんな稚拙な『闘病の記録』に最後まで付き合ってくださった読者の方々のおかげです。本当に心から御礼申し上げます。 m(_ _)m
また、今後ともこの『視覚障碍者きうっちの自立への道』のご愛顧のほどを、どうぞよろしくお願いいたします。

~完
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