カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という歴史的には背反する二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

「そして人となった」 教皇ベネディクト16世『イエス・キリストの神』神学講座その6

2017年04月04日 | Weblog

 2017年4月3日の神学講座は晴天に恵まれましたが、昨日の黙想会でお疲れの方が多いらしく、参加者は少なめでした。ベネディクト16世著 里野泰昭訳『イエス・キリストの神 ー 三位一体の神についての省察』(2011)の第2章第3節「そして人となった」に入りました。この章は4節からなっており、①イエスの幼児時代 ②ナザレ ③公の活動と隠れた祈りの生活 ④死と復活 と題されています。 翻訳で22頁にわたる長文の節ですが、H神父様によるとこの節は神学的には特に新しい議論は見られない、とのことでした。とはいえわたしには興味深い話が多く、学ぶことが多かった。
 ラッチンガーは、「『神が人となった』ということは、キリスト教の信仰宣言の中心的な言葉です」という書き出しで本節を始める。考えてみればこれは大変な命題である。神が人間になる、とは一体どういうことなのか。H神父様はこの命題のもつ意味を「カルケドン公会議」で採択された「カルケドン信条」を使ってまず説明された。
 451年にマルキアヌス帝によって召集されたカルケドン公会議は公会議としては第4回目である(とされている)。ニカイア信条とニカイア・コンスタンチイノポリス信条を背景にカルケドン信条が採択される。そこでは、イエス・キリストは「真の神であり、真の人間である」とされ、「神性において父と同一本質の者(ホモウーシオス)であり、かつまた人性においてわれわれと同一本質の者(ホモウーシオス)」であり、「二つの本性において混合されることなく、変化することなく、分割されることなく、分離されることがない」と宣言される(「岩波キリスト教辞典」)。イエスの神性を過度に強調したり、人性を過度に強調したりする思想は史上繰り返し現れたし、単性説も根強い。イエスは神であり、かつ人間である、という命題がキリスト教信仰の根幹をなしており、このカルケドン信条はその後の異端説を判断する基準として機能してきたようだ。
 そして「神が人となる」というこの命題は公教要理(カトリック要理)でキリスト教を学び始める人がぶつかる最初の難問である。現在は『カトリック教会のカテキズム』、『カトリック教会の教え』が標準的な要理書なのだろうが、そこでは「信仰とは何か」という問いから説明が始まる。昔の公教要理でよく使われた岩下壮一著『カトリックの信仰』はそのものずばり、「宗教とは何か」「天主(神)とは何か」「人間とは何か」から始める。ラッチンガーは、岩下師のようなトマス主義者ではないにせよ、岩下師と同じように「人間存在」とは何か、という問いから始める。だがその考察の仕方はラッチンガーと岩下師は異なる。ラッチンガーは、人間存在を、その要素によって考察するのではなく、つまり、精神と肉体、創造主と被造物、個人と共同体、などから考察するのではなく、時間軸のなかに置いて、「時間的な広がりを持った」ものとして、つまり子どもから大人に成長していく存在として考察したい、と述べる。これはこれでユニークなアプローチである。
 イエスの生涯を時間軸のなかに置いて考察するというのは当たり前のように思えるが、神父様によると、中世では聖書学が十分発達していなかったので、イエスの生涯をたどるという形をとった。道行きみたいなものであろうか。他方現代では聖書学の研究成果をかりて、イエスの生涯の出来事のなかで重要なものをピックアップして論ずる、という形が主流となっている。ラッチンガーの議論の仕方もそのひとつということであろうか。
 ここで、H神父様は突然話題を変えて、ご自分の「時間論」を展開された。神父様は、時間の流れのなかで物事を見ると言うことが、社会の高齢化の進展に伴ってその内容が変化してきているのではないか、と言われた。つまり、時間の流れというのは、若者にはなにか直線的なもので、出来事の連続として見えてくる。若者が将来を、未来を考えるとき、それはなにか「直線的につながったもの」として見えるのではないか。他方、高齢者にとって、時間とは「直線的な単線」ではなく、「スライド」のように出来事が重複して見える場面なのではないか、といわれた。過去はなにか直線上の頂点、または終点にいたる一本線として見えるのではなく、出会った出来事が何重にも重なって見えるのではないか、という。ご自身の体験から出た言葉なのか、誰かがどこかで言っている言葉なのかは定かではないが、とても興味深い時間論であった。「直線」か「スライド」か。この神学講座の参加者はみな高齢者なのでスライド論にうなずいておられる方が多かった。では、ラッチンガーにはイエスの生涯はどのように見えているのだろうか。

(1)イエスの幼児時代 「幼子の如くあれ」というのがこの小節の中心命題のようだ。イエスははじめ子どもだった。子どもであるとは、まず第一に、誰かに頼らなければ生きていけない、ということを意味する。つまり、子どもであるとは、「お父さん」と呼びかけることを学ぶことだ、ともいう。現代社会は、子どもに「自立」を求め、「自己責任」を学ぶことを求める。日本の成人式では子どもが「自立した大人」になることを祝い、かつ求める。だが、とラッチンガーは言う。子どもが、他者に依存していることを忘れ、神に生かされていることを忘れ、自立することを誇るならば、それは真理に反する。こういう表現は現代日本ではとても受け入れられないだろうが、ラッチンガーらしい現代社会批判である。とはいえ、「生かされている」という感覚は現代日本でも受け入れられているのではないか。「依存」と「自立」は二者択一ではないのかもしれない。つづいてラッチンガーは、イエスにとり、幼児期が「幸福な思い出」として残っていたに違いない、と言う。イエスは、幼児であることが貴重なものであり、人間存在の最も純粋なあり方として重視した。「幼子の如くあれ」はイエスの教えの根幹をなしているのだから、イエスの幼児時代は幸せだったはずだというわけだ。イエスの親子関係、兄弟関係をもっと厳しいものとして描く議論も多いが、このラッチンガーの議論の仕方は注目に値する。
 子どもであることの第二の意味は、子どもは「貧しい者」であり、その無力さ、無所有において子どもは自由である、という点だとラッチンガーは言う。興味深いことにH神父様はこの部分の説明をおそらく意図的に省かれ、次の、S.ハルキアーキス(ギリシャ正教の現役の神学者)、H.バルタザール(1905~1988 カトリックの神学者)の説明に進まれた。わたしにはこの「貧しい者」の部分はとても示唆的であった。ラッチンガーはここで現代社会の不平等の根源は「所有と権力」にあと断定する。多くのものを所有し、支配しているが、心の奥底で貧しくあることのできない者は子どもであることを失ってしまっている、と言う。「所有と権力は人間の誘惑の二つの巨頭です。それは人間を所有の虜にし、人間の魂を奪ってしまうのです」と述べる〈33頁)。社会的不平等の源として所有が先か権力が先かは社会科学では決着のつかない難問だが、ラッチンガーはこの難問にずばり切り込んでいく。恐るべき神学者である。また、「貧しさのなかに、子どもであることが意味するなにがしかが現れてくるのです」とも言う。これも誤解されやすい表現だが、神学を社会理論の文脈に位置づける難しさを示しているともいえよう。神父様があえてこの部分をスキップされたのも神学の土俵の上でで議論したいということだったのであろう。

 (2)ナザレ この小節の中心命題は「貧しく生きよ」といえようか。イエスは「異教徒のガリラヤ」でユダヤ人として成長する。ガリラヤはユダヤからみればサマリアのさらに向こうだ。ユダヤの人々は異教徒が住む僻地みたいな印象を持っていたのではないか。しかもそこで、ナザレという小さな村で、ユダヤ人として育っていく。つまりイエスは自分の家庭でしか聖書を学べなかったのであろう。「聖家族」への信心は18世紀のカナダから始まった新しい信心だが、現在の教会が、単に司祭が不足しているからと言うだけではなく、家庭における信仰の育成を強調するのも、このイエスの幼年時代を、家庭教育を、重視するからなのであろう。
 ここでラッチンガーは「ナザレ派」を激しく批判する。ナザレ派は「イエスの生涯を牧歌的な、小市民的な生活のなかに移し替えたエセ芸術」と断罪する。芸術や絵画の世界でナザレ派がどのように位置づけられ、評価されているのかはわたしにはわからないが、ラッチンガーにとっては侮蔑的表現のようだ。ナザレ派とは、ドイツロマン派の影響のもと聖書における出来事を中世的に描く人々のことであろう。われわれには、「ご絵」でなじみ深いなにか平面的な、古くさい印象を与える絵のことであろう。一般的には「泰西絵画」といわれるものも含まれるのかもしれない。いづれにせよ、ラッチンガーはこのナザレ派がイエスの生涯を、イエスの神秘を、平板化して描いたと批判する。かれにしては珍しいくらい激しい口調で批判する。つまり、ラッチンガーは、現代社会も「異教徒のガリラヤ」」であり、現代のキリスト者もその中で生きている、ナザレ派が描くような甘ったるい生活を送っているわけではない、と言いたいのであろう。
 ここでラッチンガーはシャルル・ド・フーコー(1858-1916)とマルティン・ケーラー(1835-1912)をとりあげ、詳しく紹介していく。要は、教会における「労働司祭」の誕生の話だ。労働司祭は、「教会にとって貧しさの再発見」となった(36頁)という。今日ではなぜだか解らないが、フランスで始まったこの労働司祭の話は殆ど聞かれなくなった。「新約は、神殿や聖なる山で始まったのではなく、乙女の苫屋、労働者の陋屋、・・・異教徒のガリラヤの忘れられた僻地において始まったのです・・・教会は、富の力に対する時代の反抗に対し正しい答えを与え」ねばならないと述べる。

(3)公の活動と隠れた祈りの生活 この小節の中心命題は「祈り」だ。イエスの公生活には喜びと成功があり、また、重荷と危険も併せ持っていた。だがイエスはいつも祈っていた。祈るイエスはルカ福音書のなかで詳しく描かれる。ルカ福音書が描くイエスはいつも祈っている。これはマタイ福音書、マルコ福音書にはみられないルカ福音書の最大の特徴なのだという。ラッチンガーは、ルカ6・12~16の12人の召命の箇所、ルカ9・28~36のご変容の箇所、ルカ9・18のペテロの告白の箇所、を詳しく説明していく。ポイントは、「神とともにある者は、かれが一人でいるとき以上に、遙かに孤独である」というサン・ティエリのギヨーム(1085~1148,シトー会、聖務日課では大事な人らしい)の言葉だ。特に面白いのは、よく知られた話だが、ルカ9・18だ。「イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちもともにいた。」(フランシスコ会訳、英訳は少し違う。たとえば、GNPでは、One day when Jesus was praying alone, the disciples came to him. ESVでは、Now it happend that as he was praying alone, the desciples were with him.)これは矛盾した話であることはすぐにわかる。ひとりでいるのに、弟子も一緒にいた、とはなんのことか。これは「単純な歴史的な物語ではなく、神学的な関連が問題となっている」。ラッチンガーは「イエスの孤独を知らない者」にはこれは矛盾にみえるだろう。だが、イエスの孤独に与ることができたペトロは正しい信仰告白をすることができたという。イエスの公生活は、「祈り」という「この隠された秘密の場所にその中心を持って」いるという。

(4)死と復活
「彼は人間となった」とは、イエスが死に向かって歩いていることを意味する。人間の死に固有である矛盾はイエスにおいても現れる。「身体的道具が破壊されたところでは」、イエスにおいても父との対話が中断してしまう。だが、「彼は人間となった」という信仰宣言の内容は復活において明らかになる。「今もイエスは人間です。神は、イエスにおいて真に非他者となったのです」。神は、他者であると同時に非他者であるという。神学の素養に欠けるわれわれはどうしても、「非他者」ってなーに、と問いたくなる。ここで神父様は説明のために、いつも使われる「張り子のだるま」論を展開された。つまりは、わたしたちは神の中に立っているし、神はわたしたちのなかにいる、ということなのだろうか。あまり自信はないがわたしはそのように理解した。

 

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