渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

メリッサ・クニヨシ 8歳 (ブラジル)

2012年06月30日 | 音楽



うまっ!(◎。◎)
感動した。


ところで、まったく話は変わるが、なんじゃこりゃ~!(笑)

【描いてみた】翠雨の城下町(広島県三原市)【解説音声つき】


背景は、全然三原市でなくてもいいような気がする(笑)
何も題名にまでつけなくても(^^;


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閏年、閏秒 ~蝉鳴き始める~

2012年06月30日 | 内的独白

窓を開ければお城が見える。
今朝の三原城。


左に目をやると、広島大学附属三原学園の木々。


午前9時50分、蝉が鳴き始めた。
今年初めてである。

今年は閏年だ。
そして、明日7月1日は1日が24時間プラス1秒という閏秒の日でもある。
閏年は地球の自転とは関係ないが、閏秒は地球の自転の揺れを予測
して調整するためにある。
閏秒については廃止論もあるようだ。地球の自転は一定しておらず、
短期には揺れが存在し、長期には自転が遅くなっていっているので、
定めた誤差調整値を将来的に維持できなくなるための廃止論という。
西暦4000年頃には年に12回の閏秒を設定する必要も出てくるようだ。
だけど、その頃、人類は地球上で生存しているのかなぁ。
放射能に汚染されて地球上には人類が住めなくなっているような気もする。

と書いているそばから雨が降り出した。
蝉たちは鳴くのをやめた。


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試し

2012年06月29日 | 日本刀

日本刀で畳表を切ることを「試斬」とか「試し斬り」とかいうらしい。
私個人は、これの意味がよく分からない。
なぜなら、刀の切れ具合を試しているのか、腕を試しているのか
はっきりとしないからだ。巻き畳表など、刀の刀線が正確で刃筋が
立っていれば小学生の女の子でもスッパリと切れる。だから、
何を試しているのか私にはよく分からない。
そのため、私個人は物体切りを以て稽古することを「斬術」と
勝手に造った造語で呼んでいるが、一般的には「斬り稽古」や「斬稽古」
とも呼ばれているようだ。

これとらとは別に完全に刀の性能を試す類別がある。
それは「試刀」と呼ばれる。
切れ味や耐久性を試す荒試しなどがそれにあたり、江戸期には
切れ味を試した物には「三つ胴」などと銘が加えられたりした。
一方荒試しの方は、江戸期にあっても軍用銃のトライアルテストのような
もので、戦陣刀としてどこまで耐久性があるかをメインにテストされた。
小説『おれは清麿』で一番違和感があったのが、松代藩の荒試しに
同席した清麿が兄真雄の作の荒試しを見て「刀に対してひどいことしやがる」
と呟くシーンだった。藩の指定工を決める武用刀の試しなのだから折損試験は
当然のことのように私には思われる。なんだか清麿のセリフが平和ボケの
ような感じでなんともしっくりこない。現実の清麿は大言壮語とも思われる
保証書をつけるような人なので、小説のこのシーンでのイメージとは
多少異なる印象を私は持っている。小説よりももっと血気盛んな人物では
なかったろうか。
ただ、荒試しで有名な幕末の水戸藩においては、しかるべき物として
兄真雄の作は推されているが、折損注意として弟の清麿の作が挙げられて
いる。水戸藩のことだから試したのかもしれない。

日本刀というのは軍用銃と同じで、試してみないと性能は判断できない。
ただ、現代刀の場合、やはり資金的な問題等も絡んでくるので、なかなか
試すことはできないようだ。
かつて、無鑑査刀匠の作を試したことがある。正確には私ではなく
私の友人が斬り手の番で試した時にそれは起きた。
驚いた。
畳半巻きに左袈裟(右側からの袈裟)で斬りつけただけでこんな状態に
なってしまい、試斬継続不能となった。注文打ちの入念作だった。

相州伝の作者として有名な現代刀匠だった。
やむなく無理やり曲げを直した。

この刀匠の息子も刀匠だ。
ただし、ビスケットのようにポロポロ刃こぼれするので研ぎ師が
研ぐのにとても苦労する、という話を販売ルート筋から聞き及んでいた。
息子の作を畳表半巻きで私が試した。
ポロリとと刃が欠けた。噂(というか出所確かな情報だが)は本当だった。
その息子の別の作も試した。同じく簡単に欠けた。
居合用の樋のある刀も多く造っており、居合人には人気の作家だ。
その息子の兄(長兄)の作を私が試した。切れ味良好である。
曲がりや刃こぼれは一切ない。畳を斬る分には申し分ない。
いろいろと斬り方や斬撃速度や力を変えて試したが、良好な結果である。

別な人間が兄の作を試した。やはり斬り手が代わっても良く切れる。
切れすぎて気を抜いたのか、試刀者が抜刀の時に誤って左掌をザックリと
深く切った。

骨にまで達していた。すぐに救急車だ。
掌で良かった。あれが手首なら
今頃私たちは線香を上げていただろう。
現在完全に回復して居合高段者として稽古している。
その事故の時、刀をガシャンと床に取り落とした。刃から落下したが、
刃先は何ともなかった。

兄弟ということは同じ鋼を使っている筈だ。しかしなぜか個体差がある。
だが、刀というものはそういう物だろう。弟子筋が師匠と同じような
鋼の状態を作出できるとは限らない。虎徹のように初代二代で
同じように最上大業物に列するのは本当に希有なことのように
思われる。また、逆に二代目が初代よりも傑出するケースもある。
日本刀は個人差とさらに同作者でも個体差がかなりある。
山田浅右衛門が幕末にまとめた斬れ味業物位列は、あれは「同作者で
10本のうち何本斬れる刀を造れるか」という製品クオリティのことを
まとめたのであって、その作者がすべて斬れ味鋭い作を造れるという
ことではない。


現在、斬術や斬り系稽古に真剣日本刀を使用するならば、私自身は
青龍刀のような大ダンビラの出鱈目な現代刀でなく健全な定寸の現代刀を
使用したい。(刀身幅が6センチ~8センチという土壇斬りや重ね斬り専用に
造られた異形の刃物を果たして日本刀と呼べるのだろうかとかなり疑問には
思うが、斬り専門では包丁のような身幅の刃物はよく斬れるようだ。でも身幅
見たらびっくりしますよ。まさに青龍刀。伝統的な和刀=日本刀には全く見えません)
本来、日本刀は製作者自身が銘を切る前に斬り試し、荒試しをして性能保証
して供給するべきではなかろうか。
どんなに自家製鋼で日刀保の協会鋼と違う方向性で作刀しようとも、
作者自身が太鼓判を押さない物を使う気にはならない。
なにも作者自身が試しをする必要はない。それなりの試刀ができる
腕のあるテスターが身近にいればよい。

自家製鉄もただ見た目の美術性のみを得ようとするために選択する
のであれば、本末転倒であると思われる。
事実、九州のある「清麿写し」で有名な作者の自家製鉄製の新作刀は
地鉄は見事に古く見えるが、購入直後に、切先が鞘の朴の木にこすれた
だけでケシ飛んで無くなった。やはり、このような作者の刀は危なくて
私なら武用には使わない。
自家製鉄で見た目は良くとも、粘る鋼には全くなっていないということだ。

日本刀は見た目では分からない。人に一番近い武器なのかも知れない。


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いろいろな工夫 ~火床(ほど)は密封炉~

2012年06月28日 | 日本刀

刀鍛冶が使う炉のことを「火床(ほど)」と呼ぶ。
一般的には、まんじゅうを縦に真っ二つにしたような炉の
形をしており、神話の時代から女性器にも例えられ、
「ホト」といえば女性器を指す隠語にもなっている。

どんなのかというと・・・

こんな感じ。マウスで描いていてどうにも自分で笑ってしまい、
上手く描けない(苦笑)。

本物の刀鍛冶殿の画像を拝借すると、こちら。

この刀工の仕事場は、刀工なきあと保存していたが、町の集会所に
するために取り壊すのだという。一族の方はだれも刀鍛冶は
継がなかったそうだ。機材や道具類の行き先にもあてがない
という・・・なんとも惜しいことである。(外部ブログ
これから刀工としてやっていく免許取りたての若手刀工の手に
すべての道具類が渡って、次世代に繋がればよかったのであるが・・・。
スプリングハンマーやフイゴまで含めて、ただの古物道具屋や
廃品業者の手に渡るのは実に忍びない。状況は今年1月の時点
での記事から転載した。

炉は古代から神聖な場所とされ、ここから産まれる刀剣は神器と
された。火は清浄であり、またそこから産まれいずる刀も神聖で
あった。女性器や女性が不浄とされた概念が日本に入って来た
のはずっと後代のことではなかったろうか。
一般的なこのようなオープン炉はヨーロッパにもみられるし、日本でも
女性器の隠語をホトとするのが残っていることや、神話などからみて、
このような形状の炉は
倭鍛冶(やまとかぬち)、韓鍛冶(からかぬち)の
古代の頃から存在したの
ではなかろうか。

しかし、日本刀の刀工では窯のような特殊な炉を使う刀工もいる。

なんというか、雪のカマクラみたいな炉。

オバケのQ太郎かO次郎が驚いた口をしているような炉だ。
これは岡山の安藤刀匠の炉である。
(画像検索したら息子さんの安藤広康刀匠サイトだった。無断拝借、失敬)
完全な密封炉で、初代小林康宏(本名小林 林)が工夫した炉だ。
特徴的なのは、火口(ほぐち)が複数あることで、炉内の「雰囲気」を
必要に応じて変化させるためにそうしたようだ。


安藤広康刀工は素晴らしい作を造る若手刀工である。

(公)日本刀文化振興会主催、平成22年「第1回新作日本刀・
刀職技術展覧会」(2010年)
入選
岡山県 安藤祐介
脇差 銘 広康作
長さ35.2cm 反り0.3cm

新進気鋭の安藤広康刀匠のこの作は、師匠である父君広清刀匠の
さらに師である初代小林康宏の作へのリスペクトだろうか。刀姿、造り
込みが似ている。次世代を担う若手が師である父のさらに師の作を
イメージして作刀してそれが入選したのであるならば、志半ばで突然
倒れた故人に対して、これ以上の供養はない。


(財)日本美術刀剣保存協会「第6回新作名刀展」(1970年)
入選
東京都 小林 林(刀工登録1970年)
脇差 銘 康宏
長さ 44.9cm
地鉄板目流れ柾まじり、刃文互の目砂流しかかる。
帽子乱れこんで小丸に返る。




この初代康宏の脇差は、私は毎日のように手にとって拝見していた。
真面目で、確かな作だった。


ただ、密封炉自体は、以前から使っている刀工も存在した。
私が訪れた家内の実家の近所の熊本の谷川盛吉、延寿宣次親子の
焼き入れ用の炉は密封炉だった。鍛錬用はオープン炉である。
谷川刀匠の特徴としては、どちらの炉も耐火煉瓦を積んだ炉で、
腰まで潜るように横座は地面を掘り込んでいた。堀り込みの左後ろ
にベルトハンマーが設置されていた。立っての鍛錬ということになる
のだろう。沸かしの炉と焼き入れ炉の間には、大きな回転水砥石が
あった。
小林康宏においても、鍛錬用にはオープン炉も併用していた。
そして、康宏も火箸だけでなく、テコ鉄を使用することもあった。
上げ鍛えからの工程とはいえ、積み沸かしの時にはテコ鉄がないと
やはり一般的には厳しいのではなかろうか。ただし、まったくテコ鉄を
使用しない工法で造ることもあった。

(二代目康宏鍛え。テコ鉄使用の場合)


密封炉は炉内で必要なガス=いわゆる「炉内雰囲気」=を得るために
使用しているとのことだった。それと、必要以上に酸素を与えないと
いうことを狙ったようだった。しかし、必要に応じて送風をまんべんなく
行うためには火口(ほぐち)を左からの1個ではなく、複数設けるように
工夫したようだ。焼きムラを避ける意味も強かったと思う。
ムラなく焼くだけならデンガクでもよいだろうが、両刃の槍や剣以外で
デンガクを使うのは「安易」と受け取られるのか、敬遠する刀工も多い。

密封炉自体は、刀工以外の鍛冶職でも使用することがある。
(あるノミ鍛冶のホド)


オープン炉だから駄目、密封炉だから良い、ということではない。
あくまで、狙った目的を得るために鍛冶職は取捨選択している。
備前長船の刀剣博物館併設の鍛冶場では完全なオープン炉が
使われている。



手前に見えるのはベルトハンマー。
これなくしては現代刀工は一人では刀を造れない。
ただ、昔の三丁がけなどでは、槌音でオヤジ(横手に座る親方)が
具合を察したりしたのが、ベルトハンマーではなかなかできないと
故八鍬靖武刀工は語っていた。

長船鍛錬場は、整理整頓された綺麗な鍛冶場である。
私も足を運んでみて、初めて見た時に、
私が何箇所か実見した
薄汚れた刀工の鍛冶場とは違うので
びっくりした。なんというか、
展示場のようなものすごく綺麗な仕事場だ。




ということで、ホドについてのオハナシでした。

学校の先生を退職されてから、本格的に鍛造刃物製作にいそしもうと
する方もいる。
こちら
自分の作が組太刀でパキーンと折れたことにショックを受けて、
「折れず、しかも美術的」という日本刀を造り上げることに成功した
松田次泰刀匠の指導の下で築炉しているようだ。本格的なはずだ。
火口造りも自分でやってるね。
ここにも、この世界にハマってしまった人がいる(^^)
鉄の世界は魔物。ハマったら抜けだせない。



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もしも・・・

2012年06月28日 | アウトドア

渓川(たにがわ)の風と木々と水が美しい季節になってきた。
渓流釣りも春から夏にかけてのこの季節が一番面白い。
だが、ベースに戻って来た時、もしもこんな光景に出くわしたら・・・

餌待ち? ノォ~~!!


日本刀を背負って山に入ってクマと真剣勝負すると言って刀工や
ハンターにどやしつけられた20年前の私はバガヤロ様でしたが、
中国地方、特に広島島根の県境にはクマが
ウロウロしています。
ツキノワとはいえ、かなり危険です。
(昨日の熊出没情報ブログ→こちら


ベースに戻って来た時、こんな光景に出くわしたら・・・
やれんのぉ(´ー`)というやつどすえ。
(「やれんのぉ」とは広島弁で「たまらない。参った」という意味)

そんな時、手元にあるのがこんなのだけだったら・・・


いくら構えてもムダ。


汎用ナイフは戦闘ナイフには使えません。
オールドガーバーのリメイクで良いナイフなんだけどね。

ただし、銃で撃ち取ったクマを解体するのはこれ1本でもいけるように思える。
熊との遭遇ではナタを携帯していると人間の生存率が高いとの報告があるが、
小型ナイフではなんの役にも立たない。しかも、羆(ヒグマ)などは「抱きつかれて
死亡」というケースがかなりあるし、手の一振りがこちらにヒットしたらもうそれで
生存アウトだろう。顔面に当たったら人間の顔など吹っ飛ぶのではなかろうか。
つまるところ、剣鉈などの長寸の刃物を携帯していても、助かる見込みは少ない。


クマさんも人間に棲むところを追われて山から里に下りてくる訳で、気の毒
といえば気の毒だが、山間部では常に人間が獣害の脅威にさらされて
いる
ことも確かだ。だから捕獲熊の放獣については賛否両論ある。

共存共栄ができれば一番良いのだが、なかなか難しいのが現状だ。
熊はまだ保護放獣措置が取られるからよいが、イノシシなどは害獣と
みなされて、銃猟期間関係なしに片っ端から撃ち殺される。
なんだか、複雑な心境だ。

九州の山間部を西洋毛鉤釣りでまわると、九州は自然生息の熊が皆無なので、
熊への恐怖というストレスが
ないことに気づく。それほど中国山地には熊が多い。
私も何度も出くわした。いつも爆竹等の装備はしているが、春先の子連れの
熊などは危険極まりないので注意が必要だ。
一度、一人の単独行で、とある支流を遡行していた時、ウハウハとアマゴが
釣れて不思議な思いをした。どんどん上流に誘い込まれるような嫌な気がして
釣りを中止して沢を下って車のところまで戻ったら、車の周りは熊の足跡
だらけだった。
別な支流では対岸を歩いているのを見たこともある。
泊った友人の山荘で友人が「おい、あれ」と言うから窓から見たら、熊が普通に
道を歩いている。

また、ある時、友人と二人での釣行で、広島県奥地の三段峡に行った。
三段峡は魚影は濃くはないのだが、景観が素晴らしく、私は一番好きな渓流である。


友人と二人で釣り上がっていると、突然フライ名人で竹竿職人の友人が
「すまん。うんぴ」と言って
茂みに入った。「こんなとこでキジウチかい!」と
思ったが、用を終えて戻った
友人と更に上流に入って行くと、右斜め後ろの
流れに大きな石がドボン!と
音を立てて落ちた。
右岸の山の傾斜を見ると、何だか草木がガサガサ揺れている。
「や・ば・い・ね」と二人で顔を見合わせて、早々に切り上げて場所を移動
する
ことにした。
こういうことって多くある。
まだ、このケースはよい方で、バッタリ突然鉢合わせになるケースが一番
危ない。

春先の山菜採りなどで熊被害に遭うのは、大抵がバッタリのケースだ。

でも、まだ、ツキノワだからいいよな、中国地区は。
北海道なんて、それこそ、グリズリーみたいなのがいるのだから、命がけ
だよね。

ハンティングさえ命がけなんだから(^^;
それ考えると、単発銃とフクロナガサというナタを棒の先に着けただけの
装備で
熊をしとめていたマタギというのは凄かったんだなぁと思う。

広島、島根、兵庫での西洋毛鉤釣りは、景観が美しくてとても楽しいの
だが、
クマさんコンニチハだけは、怖いものがありますよ。
「大丈夫だよぉ、熊なんて」というような人は、自然の中ではまず死んじゃいます(^^;
実戦においても、東南アジアや南米やアフリカの現地での一番の敵は
「敵兵」ではなく、「自然」だから。
これ傭兵ワイルドギース隊長のマイク・ホア大佐も言ってるしさ。

ところで、こんな寝袋ではおいらは寝たくない(^^;
銃で撃たれそうだよ(苦笑)→これ

今年4月に、秋田のクマ牧場で2名の死亡事故が発生したが、やはり熊は
ライオンや虎と同じ猛獣であるということを認識しないとならないと思う。
テディベアもクマモンも可愛いけどね。クマさんは猛獣なのです。

こんな状態になったら、やはり銃による殺処分しかないように思える。(北海道)
しかも北米ではグリズリーと呼ばれる世界最強のヒグマ。
かわいそうだから殺さないでと思う人は、そばに行ってヨシヨシ・・・できる?
5秒後には君はもうこの世にはいない。
過去に起きた多くのクマによる獣害事件は、過去のお噺ではない。
三毛別羆事件(1915年)
福岡大事件(1970年)
ヒグマ研究室(過去の羆獣害例)

中国地区に生息するのはヒグマではなくツキノワだが、渓流釣りの際も泊りがけで
連日釣る場合がある。中にはアウトドアを楽しむとばかり山間部にテン場を作って
テントで眠る人もいたが、あまりにも無防備なように私には思われた。食料と共に
山林に寝ているのである。非武装で。
私は渓流釣りにおいて、テントで眠ったことはない。


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プラム

2012年06月27日 | 内的独白




プラムである。
親の実家の庭でとれたそうだ。
今朝、家内が出してくれた。
美味そうだけどすっぱそう。
と思って食べたら、それほどすっぱくなかった。
朝の寝起きから爽やかな味でした。


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神動画『GT5で頭文字Dの名シーンを再現してみた』

2012年06月26日 | 映画・ドラマ

GT5で頭文字Dの名シーンを再現してみた
 

なんじゃこりゃ!
再現性たっけ~!(◎。◎)

オマケ
ハチロク乗り比べ:AE86's impression check on the Tsukuba Touge
 


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走行

2012年06月25日 | 外出・旅

きょうは仕事で日帰りで鳥取へ。
走行距離580km。
片道300km程の行程はノンストップで行く。
バイクに比べたら楽なもんだ。
バイクでも50ccをセカンドバイクで購入した時には、慣らし運転の
ために横浜のバイク屋からその足で広島まで往復した。横浜から
広島まで行って帰ってくれば慣らしも終わるし丁度いいや、と。
3日後には1500km走行を終えて、エンジンの慣らしも終えて
バッチリとアタリも出ている。
給油と用足し以外は
一度も休まない。筋と関節を伸ばほぐすくらいだ。
普段も、
コーヒー1杯を飲むために横浜神戸間を給油以外ノンストップで
往復するような漢たちの中にいたので、ひとっ走りはまったくいとわない。
それは600マイルブレンドと呼ばれた。


四輪車はバイクに比べたら比べ物にならないくらい楽なもんだ。
それでもまあ、人生は600マイルブレンドのようなもんだな。


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『新撰組顛末記』永倉新八著

2012年06月25日 | 文学・歴史・文化


『新撰組顛末記』(永倉新八著/新人物文庫)

かなり昔、単行本で読んだが、読み物というよりも、貴重な
記録として手元においておきたい書だ。
先週、本屋で文庫本が出ていたので買った。
新選組二番組長の永倉新八(本名長倉。維新後は養子縁組により
杉村義衛と改名)が述懐したものを大正2年に新聞に連載掲載された

幕末の記録をまとめたものだ。

新撰組隊士の生の実戦談として貴重だ。

実際の斬り合いの時に剣術稽古の時のように「お胴」とか
「お小手」とか声を発しながら斬りつけたり、「そうはいかん」と
相手も受けたり等「ホントかなあ?」などと思うが、実際の
丁々発止の斬り合いというのは案外そういうものなのかも
知れない。
幾多の日本刀による斬り合いの場面も描写されており、
かなりリアルである。
刀法としては、永倉だけでなく他の剣士も圧倒的に横面狙いが多い。
次いで胴払いであり、小手である。小手はかわされやすいようだが、
戦闘が終えて何か手がぬるぬるすると思ったら、永倉の親指の
付け根の肉がそがれていた、ということもあったようだ。
やたらと「即死」という表現が出てくるが、刀を用いた実戦では
やはりかなり深く切り込むことをしたようだ。戦闘後に現場に腕や
足が転がっていたり、頭髪がついたままの横ビン(耳の周り)が
落ちていたりと、刀での斬り合いというのはかなり生々しい。
池田屋でも横面狙いの袈裟で何人も倒した永倉だが、とどめを
刺そうと切り下ろしたらカマチに刀が当たって刀身が折れた。
そこでどうしたかというと、敵の刀を即座に奪ってさらに数名
斬り倒している。実際の剣戟での争闘というのはかなりどぎつい。
道場での稽古でも、現代剣道とは異なり、たとえ竹刀を用いて
いても、常に実戦を想定した地稽古だったのだろう。現実的な
真剣での斬り合いでも、斬突部位は決めて狙い撃ちにしている。
「狙ったところを斬る」というのはとても大切なことのように思われる。
それでも、永倉は「斬り合いなどというのは、めったやたらに刀を
振り回して、気がついたら敵が倒れていたというようなもの」とも
語っているので、「お小手」「お胴」の発声の件は、取材した新聞記者
の脚色かも知れない。剣術から剣道という名に変更されたのが明治
27年で、剣道は士族だけでなく一般人にも広く広まり、その20年後
の永倉取材のこの大正2年頃は剣道が大流行だったからだ。

ただ、本書の永倉述懐談では、近藤と永倉は折り合いが悪かった
こともうかがい知れて
興味深い。
永倉はむしろ伊東甲子太郎に惹かれていたようだ。

また、山南(さんなん)敬助も伊東に傾倒していたらしいことも
伺える。それだけでなく、隊内でも50名程が伊東派となっていた
ようで、このあたりは後年の小説とは大きく異なる。
そして、近藤勇がかなり増長してたことも確かだったらしく、
眼に余るので
近藤に切腹を仰せ付けるように会津藩に永倉と原田
左之助は
建白しており、松平容保になだめられたとある。
この時以来近藤との軋轢が深まったが、会津中将の仲立ちに
よって永倉は近藤から切腹を宣告されなかったとしている。
その後も、永倉は切腹覚悟で伊東らと門限破りどころか3日間も
遊郭に逗留して飲み続けたりして近藤に反抗したが、近藤が
その時に永倉には謹慎処分を発しただけだったのは会津公の前回の
口ぞえがあったからであり、近藤はほぞを噛んだようである。
そして、新撰組残党が伏見大阪で敗戦し、江戸に戻ってから、さて今後
どうするかの時に、
近藤の増長がまたひどくて20数名が脱退した。
この時に、永倉が分離者を追い、「同じ志だから一緒に最後まで戦おう
ではないか」と説得し、一緒に酒を飲んで今後は会津藩に合流する
同盟を
誓って20名と共に戻ったが、近藤が「そのような私事の決め事
には我は同意しかねる
。私の家臣になるならば話は別だ」と言い出した
ので、一同
大いに憤慨し、その20名たちは永倉、原田と共に近藤勇と
訣別した
と永倉は語る。
永倉の感覚としては「あくまでも同志であり主従ではない。
武士が二君に
つかえるのは武士の本懐ではない」として近藤との
縁を切ったようだ。
永倉は武家の出である。この時に近藤は幕府旗本と
なっていたとはいえ、
百姓上がりの近藤とは根本的に感覚が違ったの
だろう。
30年ぶりに読み進めると、芹沢鴨なき後の近藤は、いかさま、まるで
第二の芹沢のような印象を受ける。土方歳三がかなりどぎつくてエグイ
性格であったのは、新選組を知るものからの取材集である『新選組始末記』
(子母澤寛)に詳しいが、近藤についても試衛館からの盟友である
永倉からさえも「のぼせあがり」が伝わるほどに、どうやら増長して
いたようである。備後弁でいうところの「蛸の糞が頭にあがる」という
やつであろうか(ゆで蛸に掛けて「のぼせあがっている増上慢」を指す
揶揄としての
方言である)。

本書は永倉新八の曾孫(ひまご)である杉村氏の解説もついている。
一番最後まで生きていた新選組隊士は稗田利八で昭和初期まで存命
したが、大幹部の生の記録としてはこの永倉の述懐録は貴重だ。
ただ、狸親父の勝海舟の『氷川清話』(こちらも併読中)と同じくらいに
ある程度差し引いて読み込まねばならないだろうが、永倉は新選組
隊士鎮魂のために板橋に隊士名を刻印した碑を建てており(住所は
北区滝野川。JR板橋駅前は北区である)、勝のおっちゃんほど大風呂敷
の法螺吹きではないように思われる。隊士鎮魂のために相当な尽力を
彼はしている。
幕末の武士の気概を感じ取れるだけでも本書は読んでいて面白い。
幕末動乱を明治まで生き抜いた剣士であり武士である永倉新八の
自叙伝的な記録、これは貴重である。
私が板橋のある寺へ請われて定期的に近藤氏の形見の短刀を
手入れしに通っていた頃はこの書のことを忘れていた。近藤氏は
近藤氏で、時代の中でいろいろうまく立ち回れなかったのだろう。
それにしても、最期が斬首断罪というのは、無念であったろうと思う。


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今宵も時代劇 『SFソード・キル』

2012年06月24日 | 映画・ドラマ


SFソード・キル(1984米/主演:藤岡弘)
(動画の全編はこちらからどうぞ)

SFである。サイエンスフィクションではなく「サムライファイター」もしくは
「ソーズマンズフィクション」であると理解したい。あえて、「時代劇」とした。

<あらすじ>
1522年冬、武将ヨシミツは主命による討手(うって)と対峙した。姫を守るために。
しかし、策略に遭い、矢を受けて凍る湖に落ちてしまう。
450年後の現代-
日本人スキーヤーが雪山で氷漬けになった人間を発見する。
そして、アメリカの研究機関により蘇生が試みられ、現代のロサンゼルスに
戦国武士が蘇った。
武士は異空間に戸惑いながら、自分の存在がなんであるのかをやがて
知っていくのだった。

<感想>
あまりにも陳腐な武士観であったシナリオを藤岡弘、自らが書き直させた
作品だが、全編に渡りドC級映画の展開が全開である作品だ。
ただ、ひとえに主演の藤岡が作品を引き締めている。
感想としては、突っ込みどころ満載の作品だが、総括すると、出演者にしろ
シナリオにしろ演出にしろ「解っていないアメリカ人、解っている日本人」と
いうことに尽きる。
演出のちぐはぐさについて指摘したら数がありすぎて全編がそうなので、
省略するが、一番の製作者サイドの誤りは、ラストシーンでの主人公の
セリフを英語で翻訳して女性ジャーナリストが警官に説明する時だ。
主人公の武士ヨシミツは、最初は己がどこに来たのか戸惑うが、聡明な
彼はやがて自分が未来の異国に来たことを静かに悟る。価値観も文化も
異なる未来であることも。
そして、最後のラストシーンで警官隊に発砲され、
「蘇りはせん。武士の道は『理』じゃ」
と言葉を残し、ニコリと女性ジャーナリストに微笑みかけて再び氷の湖に
自ら飛び込む。
藤岡の演技がとてつもなく良い。
ただ、ここで警官隊に翻訳説明した主演女優(あるいは製作者)が大きな
過ちを犯す。

「彼は何と言ったのだ」と尋ねる警官に女性ジャーナリストは説明する。
「武士の道は『死』だと彼は言った」と。
「死」と「理(り)」ではまるで違うし、なぜラストシーンでヨシミツが「理じゃ」と
言ったのかを斟酌しないとまるでこの映画のヨシミツの真意が曇ってしまう。
すべてを悟り、蘇った自分を恥じるという感覚は、キリスト教的復活を信じる
西洋人にはかなり理解しにくいことなのだろう。日本では死者の蘇りは
たたりであり、それを畏れる。だからこそ、「鎮め」の思想があり、「鎮魂」の
精神文化がある。将門塚にしても英霊碑にしてもそうだし、そもそも神社の
存立自体が「ほふる=まつる」から発生をみている。安らかな眠りを
日本人は望む。尤も、西洋では今も昔の日本と同じく土葬であるので、
死者の蘇りは畏怖の対象としてあるが、それは守護神などの霊魂として
ではなく、物理的なゾンビのような様態で現世に現れて恐怖対象とされる。

また、自ら死を選択する行為はキリスト教では禁じられているので、
日本武士の行為は西洋人からみたら単なる自殺に思えるのだろう。
だが、武士は「自殺」はしない。武士は「自裁」をするのだ。「自決」ともいう。
自ら望んで死んで生きるのである。だからこそ現世に生き残った人は死者の
魂を鎮めるべく祈る。それが日本人の旧来の精神文化だ。
この映画作品で、すべてを悟った武士ヨシミツは「武士の道は理」であると
告げて自決する。この深い意味を最後の最後の女性のセリフで台無しに
してしまっている。
だが、もしかすると「解っていないアメリカ人、解っている日本人」を巧妙に
描き出す演出だったのかもしれないが、実は作っているのが「解っていない
アメリカ人」であるので、そのような勘繰りはかいかぶりの深読みしすぎだろう。
単なる
ズボラな製作上の女性の台詞ミスだと私は思う。
そして、この作品全編に流れるのは英米人の選民意識だ。
まるで日本武士を原始人や未開の野蛮人、知能の低い類人猿のように
描いている。
さらに、日本語をまったく解しない米国人連中ばかりが1980年代の現代に
登場する。これはいくらなんでもありえない。
それはまるで、自分ら米国の野球を「ワールドシリーズ」と呼んでいる米国人の
視野と世界の狭さと白人特有の傲慢さを代弁するかのようだ。
この映画で接したように米国人の白人たちはネイティブアメリカンにも接して
きたのだろうなと私は強く感じる。1980年代のアメリカ人にとって日本人
などというのは黄色いサルであることに変わりはなく、言葉が通じなかった
ネイティブインディアンと同種とみなしている。アメリカ人は日本の撮影機材で
撮影したりウォークマンを聴いていながら、日本人の技術や英知に関しては
無知無関心なのである。

アメリカ合衆国は黒人の大統領を輩出したが、ネイティブアメリカンが大統領に
選出されることはあと200年くらいないだろうとうような実情が現在もアメリカ
国内には存在する。
映画『SFソードキル』は、そうしたアメリカ人の不明さ無知さが見えてくる点、
また、日本人にとっては、ディスカバージャパンという視点においていろいろと
勉強に
なる映画である。
そして、藤岡弘(現藤岡弘、)の細やかな感情表現の演技の素晴らしさに
感動するだろう。


なお、この作品で出てくる刀は、すべて刀工小林康宏の作が使用されている。


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今週の犬

2012年06月23日 | ポチたま

今週火曜日の犬の画像である。



う~む。なかなかふてぶてしい顔をしている。
生まれた時はジュゴンみたいな顔だったが、どうにか犬らしくなってきた。
騎士という名を冠した犬らしい面構えも備わって来た。
名前はまだない。

本日ブリーダーさんから届いた動画をyoutubeにアップしてみた。
きょうで、ちょうど生後42日目になる。

きょうだいたちとのごはんタイム


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渓流が美しい季節

2012年06月22日 | アウトドア

梅雨があ明けると、青々とした木々の葉から漏れる陽光に
渓流が美しく映える季節がやってくる。

今年は久しぶりに渓流詩人になりたいな。

いるいる。いそうだ。Char(イワナ)が!
とか思うでしょ?
でも、あまりこのように苔むした岩がある源流部にはなぜかいない。(中国地方の場合)

青森の奥入瀬(おいらせ)に行ってみたいなぁ。
こんな感じの流れはフライにもってこいだ。まるで富士山裾野の忍野(おしの)みたい。
忍野は富士山の雪代(ゆきしろ)が80年かけて濾過されてきたという湧水群だ。
(ネットから拝借)


渓流波乗りではなくネット波乗りしていたら、奥入瀬を紹介するサイトでこんな画像があった。
むちゃくちゃ良い感じの絵ですがな!(◎。◎)


是非とも拡大版でもご覧いただきたいので、
こちらからどうぞ↓
(クリックで拡大)

フライフィッシングを嗜む人が趣味の域を超えてずっぽりとハマってしまうのは、
釣り自体の面白さもあるが、自然と触れ合うことの名状しがたいあの感覚に
取り憑かれるためのような気がする。あれは経験した人でないと分からない。
そして、不思議な現象として、フライをやる人は、フライ以外の釣りにはあまり
興味を示さない人が多い。きっと単なる「釣りの一ジャンル」という感覚を
超えてしまう何かがあるからだろう。フライフィッシングだけが自分の中で
特別な存在となり、やがて他のフィッシングとは別な感覚になっていくようだ。
かくいう私もそんな一人なのかも知れない。
私の場合、人間である私が山の住人たちの仲間に入れてもらい、ほんの少し
遊んでもらうという感覚がある。
初夏の渓流は、心地よい風の香りが頬を撫で、景色と溶け込むうちに
時の経つのを忘れる。
鱒が棲む渓流には爽やかな風と水が流れている。
流れの石の下には神の言葉がある、とノーマン・マクリーンは言った。


          帰ろう。心の中のあの川は 今も 永遠の時を刻んでいる

 


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雨あがる

2012年06月22日 | 文学・歴史・文化


銘「安芸國大山住仁宗重作 天正八年二月吉日」
刀掛けは私の手慰み自作。本職の職人には遥かに及ばない。 
この刀の所見については過去の記事こちらをどうぞ。


こうやって写真で見ると、私のこの刀はさして反りが深くはないように見えるが、
長さが2尺3寸3分6厘(70.8cm)で反りが約2.1cmというのは、結構「反り深し」
といえるのかもしれない。
この時代の刀は、このような反りだが、この後にだんだんと反りが少なくなって、元先の
幅の差がなくなって行く。

この刀が造られたのは戦国時代最末期頃にあたる天正8年2月吉日(1580年)で、
織田信長が死ぬ2年前だ。この時期の信長は、国内の覇権をほぼ手中に納めつつ
あった頃である。この年天正8年(1580年)には、信長の家臣の秀吉が播磨の三木城を
攻めて
勝利している。
備後三原においては、天文年間から築城を始めた三原城が毛利一族の小早川隆景に
よりいよいよ最終の完成段階に入った頃である。この頃に私の先祖は負け戦で三原に
落ちてきている。三原城の最終的な完備は小早川の後に
広島に入封した福島正則
が成している。


三原城についてはこんな逸話がある。
城が築城された元亀元年(1570年)4月、小早川隆景はこれを祝って城中で祝宴を
催した。

招かれた一人に本郷城主古志清左衛門豊長がいた。豪傑といわれた相撲取りのような
体躯の武将だった。祖父は出雲出身だが、出雲尼子攻めや伊予宇和島攻めにも参加
したりと、古くからの毛利の一団だった。
この豊長が敵に内通していると隆景に讒言(ざんげん)する者がいた。讒言を信じた
隆景は、豊長を討つことを家臣に命じた。隆景の家臣は、酒宴たけなわの頃、酔った
豊長の首をその場で打ち落した。豊長の家臣たちもことごとく三原城中で殺害された。
ただ一人、井上大炊介という武士だけが三原城を脱出して本郷城へこの事態を知らせた。
本郷城には15歳になる豊長の嫡子がいたが、ただちに三原城へ乗りこんで隆景に
対面し、父の亡骸を貰い受け、城下の寺に葬った。だが、父の墓前で手を合わせている
ところを隆景の討手に斬り殺された。
小早川隆景が本郷の新高山城から新しい三原城を築城して移った祝いの席は
血染めの殺戮謀略の席となった。城下の人々は、小早川の繁栄も永くはあるまいと
噂したという。(参考サイト

戦国時代とはいかに殺伐とした世の中であったか。
殺戮に次ぐ殺戮、謀略に次ぐ謀略、姦計術計なんでもありだ。
江戸期に新たに作られた「武士観」とは大きな隔たりがある。
しかし、戦国時代に見られるこれらこそが元々の武士の本質であり、モノノフなどと
いうものはそんなものだ。虚栄心が強く、卑怯で、自分が中心で、意に沿わねば殺す。
サムライなんてのはそんなもの。清廉潔白、人民の鏡たれ、などというのは、江戸期
以降の平和な時代に作られた像であって、もともとは武士などというのは、映画
『猿の惑星』に出てくるゴリラのようなものだ。徳と律ではなく武を以て国を治めようとして
いるのだから、推して知るべしなのである。
(「武」という漢字を指して「武とは戈(ほこ)を止めること」と称して活人剣なるものを
説いたり、刀を抜かないことが武士の誉れであるかのように言ったりと、言わずもがなの
人格論で人に対して高所から説諭したがる人がいるが、
大きな誤謬であり不勉強に過ぎる。
「武」という漢字の原意は「戈(ほこ)をもって
止(あし)で進むこと」であり、武装して荒々しく
進軍することを指す。これは『謚法』(しほう)
という中国の古書に、武王・武帝のオクリナの
意味として「武」の漢字の原意が示されて
いることからも明らかだ。「武」は読んで字の
ごとく「武」なのである。決して武力を制止
することではない。)

ただし、平和な江戸時代にはかなり武士の規範が整備されて哲学的、学問的な
中心幹を形成していく。いわゆる江戸期の武士はそれまでの武士階級とは異なる
価値観が育成された。
だが、それは同時に、武士そのものが「武」から「吏」になることを意味し、銃器刀剣類の
様々な幕府による規制の施行、正座などに見られる武人をすぐに立てなくさせることを
正式礼法に採り入れる等、主として「武を如何にはぎ取るかの統治」として追求された。
だから、「武士」を言う場合、どの時代の武士を言うのかでまったく様子が異なってくる。
無論、士道と武士道もまるで違うのであるが、現代ではすべて混同して武士道=侍の道
のように誤解している人が多く見受けられる。『葉隠』などに代表されるいわゆる「武士道」は
江戸期においてさえ武家の中でも一般的な教育規範ではなく、ごく一部の思想であった
ことは知っておくべきだろう。
そして、現代において、「武士道」をことさらに前面に出して人に言わずもがなで高所から
説諭しようとする者は、大抵は怪しげないかがわしい者であることが多いので十分な
注意が必要だ。
武士の心を知る者は武士だ武士道だと口にはしない。現代において、ことさらに武士を
口に出すのは
何かを売りたいがためだ。
ただし、売文家は物売りであり武士ではない。
武士でない者が解ったように武士道を語るのは珍妙である。
本当の武士の心は本当の武士にしか解らない。


雨があがった。
今朝の空は刀の地鉄、雲は刃文のようである。


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日本刀の彫り物 ~樋(ひ)~

2012年06月21日 | 日本刀

日本刀には彫り物がある作品がある。
代表的な彫り物は「樋(ひ)」と呼ばれる溝を鎬(しのぎ)地に
彫った物だ。
樋を掘った日本刀は振ると音がするので、居合の稽古の
時には刃筋の狂いを確かめやすい。笛と同じで、少しでも
風が当たる角度が違うと、音質がまるで異なるからだ。
もちろん、刃筋が数ミリ狂ったら音は鳴らない。
樋のない刀でも刃筋が通ればピュッと刃音がするが、
これも鎬が高かったり、三つ頭や松葉が張っている刀の方が
大きな音がする。要するに刃音や樋音は空気抵抗を受けての
風切り音なのである。
音が鳴る刀は夜討ちには不向きであるとして、古流剣術流派
では注意を促す教えもあるが、現代居合においては、音による
刃筋確認が容易であるので、ほとんどの居合剣士が樋のある
刀を使用している。

日本刀に樋を彫ることは鎌倉末期に始まった。
一説によると、元寇の際に元軍の皮胴を両断できなかった
ため、斬切性能アップのためそれまでの優美な姿から剛刀に
日本刀が姿を変えたという。しかし、身幅を太く、重ねを厚くしたら
重たくなりすぎて扱いにくい。だから軽量化のために樋が彫られた
というのが一般的な説だ。

日本刀の樋(棒樋)


樋は強度をそれほど落とさずに軽量化に役立つと言われている。
しかし、構造物の強度は体積の3乗に比例するので、絶対的な
強度は樋なしよりも確実に落ちる。また、樋のある刀は一度曲げると
曲がり直しが困難になる。樋の両側にあるチリと呼ばれる土手が
歪んで直らなくなってしまうのだ。

強度を棒樋ほど落とさない樋に二筋樋という物がある。

これも鎌倉末期~南北朝時代の刀剣には多く彫られた。
二筋樋は軽量化には役立たない。

しかし、ふと気付かないだろうか。
軽量化に役立たない溝を彫って何の意味があるのか、と。
実は意味がある。とても大切な意味がある。
棒樋と二筋樋は、ともすると同列の意味として捉えがちだ。
しかし、日本刀に彫り物をする場合、ただの模様で彫る訳ではない。
そこには、宗教的だったり思念的な悲願などの何らかの情念が
彫り込まれるのが常なのである。
実は二筋樋は棒樋のような実用的見地とは別な視点で刀身に
施された彫りであるのだ。
けだし、二筋樋はそもそもは護摩箸を表現したものだっただろう。
あるいは
剣形(けんぎょう)の草の表現=デフォルメであろう。
だから、軽量化に寄与しなくとも、そうした実用的見地とは別な
大切な意味が表現されているので、軽量化という合理的な要件を
備えなくても良いのである。

しかし、ふと思う。
二筋樋の刀も振ると樋なしよりは大きな音がする。
棒樋の刀より高音の風切り音がする。
音が鳴って、強度もさほど落ちないというのであるならば、
現代刀工に依頼して居合試斬兼用の日本刀を作る場合、
この二筋樋が適しているのではなかろうか。

ただ、二筋樋の刀は人気がないのか、愛用している人をあまり
見たことがない。
試斬でも、私が所属した連盟は新刀や古刀の古い刀を使う人も
多かったが、古刀といっても殆どが末物の数打ち物だった。
正真古刀で樋のある刀というと鎌倉~南北朝の物になるので、
そのような文化遺産を試斬稽古に使う人はまずいない。
というか、使ったらだめだしょ?それわぁ(・。・
古刀数打ち物でも切れる刀はとんでもなく切れるし丈夫だ。
丸太まで斬っちゃったりするしね・・・。

しかし、刀は健全なものであるのが一番実用的だし、古い刀は
壊したらもう二度とこの世に生まれないから、やはり損耗が
考えられる日本刀による試斬稽古には現代刀が適していると
私は思う。

で、ふと思いついたのが二筋樋の刀なんだよなぁ。
だけど、なぜ使っている人少ないのだろう・・・。
これは謎。
あとですね~、冠落としの造り込みにして松葉を張らせると、樋が
なくてもビュッビュッと樋あり刀みたいな音が鳴るよ。振ってみて
「わ~。音が凄くする。気持ちわり~、この刀(^0^)」みたいな印象を
受けます。そうねぇ、バリ伝グンちゃんがナナハンをぶっちぎる
「おっちゃんから借りたスーパーカブ」みたいな感じかな。
しかも、鎬地が薄くそいであるのが冠落としだから、抜けがよくて
切味もとても良い。あれがなぜ日本刀の一般的な形とならなかった
のか不思議ではあるのだが、造る手間と研ぎの手間が数倍かかる
からかも知れない。


二筋樋の刀で印象的だったのが、TVドラマの『子連れ狼』だった。
萬屋錦之介さん演じる拝一刀は二筋樋が入った「胴太貫」(劇画上の
架空の刀。肥後同田貫一派をモデルにしている)」を使用
していた。
アップの時には萬屋錦之介さんは真剣を使っていた。
私は、日本中の同田貫作を集め
まくった萬屋さん(その数なんと数百本。
320本目あたりで取材を受けて「まだ集める」みたいなコメントだった)の
個人的持ち物を撮影に使ったのでは、
と読んでいる。







この構え、後年サニー千葉がちゃっかりいただいていた。
天下無敵の「胴太貫」は何でも切れちゃう(^^;
石仏の首だってスッパリ。


対決する山田朝右衛門の「鬼包丁」も石地蔵の首をスッパリ。


いや~すごい。

だけど、裏柳生の烈堂さまも負けてないぜ。
練り上げた鉄の太い輪っかをはめたクヌギの丸太も切っちゃう(^^;;





お見事!

ええと・・・(^^;
これらはすべてフィクションですから、良い子は絶対に真似しないように(^^;;


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がっ!でめ!

2012年06月21日 | 内的独白



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