渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

好きな風景 〜広島県三原市〜

2012年05月31日 | 内的独白



国道2号線を西に進み、尾道から三原に入って右に折れ、丘を下ったら
そこはもう三原城下になる。
兵庫・岡山・鳥取・島根・香川・徳島・愛媛・高知、そして広島と、
毎日のように各地に赴いている私だが、この丘の下り坂に
さしかかり、この風景を見たら「ああ、帰ってきたな」という感覚がわく。

この坂は、キリスト教会が右手にあり、眼下を鉄道が通っている。
山陽本線だ。画像だと左下から右に通り、真右の部分で左に
カーブして行く。そして高架線の新幹線(真右の横の光が新幹線)と
合流して並走し、三原駅に入っていく。
今の三原駅は後年三原上の真上に作られた駅で、明治時代に鉄道が
敷設された当初は今の糸崎駅が「三原駅」だった。広い敷地に機関区も
あり、山陽本線だけでなく、呉線の始発も糸崎駅=三原駅だった。
この坂を通るたびに私が懐かしさを覚えるのは、
山陽本線がコーナーを
曲がりながらゆっくりと街に入っていくという
この坂から見える景観が、
まるで、東京で見る私鉄と街の景観のような雰囲気だからだろう。



かなりの高低差がある。この坂は旧山陽道になる。
この坂を下って、クランク状の角を左に曲がると城下に入る。
画像で一番右の山手に見えている明かりが私が住むあたりだ。
携帯のシャッターが遅くて、左から右に通り過ぎて行く電車を撮ろうとしたら
過ぎ去ってからシャッターが下りた(笑
いつか、ちゃんとしたカメラで、電車がゆっくり左に曲がって行くこの風景を
撮影したい。


子どもの頃から東京、横浜と坂のある町に住んでいた。
街の坂は日々の暮らしに密接していた。
横浜の鶴見区に住んでいた時は、周りは坂だらけで、映画『陽のあたる坂道』の
ロケ地も家のすぐそばだった。
(横浜市鶴見区の高台の景観は素晴らしい)
また、都内も、東京というのは坂だらけで、各坂に江戸期からの名前がついて
いる。
東京の坂めぐりの本も出ているくらいで、東京の坂は江戸時代から
市民に親しまれていた。
坂のある街が好きだ。
娘が生まれた新宿区も坂の多い街だった。
地下鉄早稲田駅がある馬場下町から少し高台に歩くと、柳生但馬の屋敷跡
があったりした。近藤勇の試衛館の道場があった柳町も近くである。
牛込柳町の坂の途中を江戸千代田城のほうに折れると、近藤さんや
土方さんや沖田たちが汗を流した試衛館道場があった場所だ。付近は、
今は敷地の広いお屋敷町になっている。柳町の通りからその住宅街に
入ると急に閑静な空気になり、江戸期にタイムスリップした錯覚に陥る。
東京は歩くと、道割が江戸時代のままなので、まるで江戸の町を歩いて
いるような心地になる。東京の町を楽しむには、ゆっくりと歩くに限る。
夏目漱石が住んでいた家も地下鉄早稲田駅の近くだった。漱石が住んで
いた所に続く坂は、現在は「夏目坂」という名前がついている。
江戸は大川(隅田川)ぞいの下町以外は坂の街だったのである。
急坂も多く、車が通り抜けられない階段になっている坂もある。
そのような場所は、よくトレンディードラマのロケ地になっていたりする。
私が今住んでいる場所は、江戸時代の三原城絵図を見ると「山ノ手通」と
いう通りがあるところだが、考えてみたら、生まれた場所も東京の山手通りに
面した病院だった。
現在の東京の山手通りは、新山手通りであって、旧山手通りがあるのは
意外と地元の人間以外には知られていない。
そして、新山手通りは目黒川に沿っているので、さっぱりと山手を走っては
いない(笑)。

ところで、電車の山手線は「やまてせん」と「やまのてせん」のどちらが
正しいかご存知だろうか?
実はどちらも正しいのだが、便宜上、放送では片方を使っているようだ。
そして、新宿区にある「高田馬場」は本当は「たかたのばば」が江戸時代
からの正しい呼び名なのだが、国鉄は山手線の駅名を「たかだのばば」と
してしまった。
これは、かなり地元民からは今も不満の声があるようだが、今更駅名を
変えられないので、そのままで通しているという次第らしい。
まるで、明治維新の時に、標準語を作るにあたり、薩長の侍たちが詳しく
中身を理解していないまま旗本言葉を現在の日本語のベースにしたような、
そんな違和感がある言葉は現在も多く残っている。
前時代の残滓というのはゆっくりと消えていくものだが、残ったままのものを
強制的に削除していくこともある。貨幣などは好例といえるだろう。
実は寛永通宝が昭和28年まで実用貨幣として公的に通用したことを知る人は
少ない。寛永通宝1枚の1文が1リン通貨として公式に認められていた。
今は使えない(笑)。最小単位が1円になったから。

なんてことを思いながら、坂をゆっくり下って古い城下町まで帰って来た。
五月(さつき)は三原市の花だが、さつきの月がきょう終わる。
明日からは衣替えのジューンだ。
いくつかの水溜りを残して、梅雨が駆け抜けてしまえば、湿った風の背中越しに
君の好きな夏がきます、とさだまさしさんはうたった。
彼がうたう歌の風景描写は、まるで一編の抒情小説のようだ。
今年も夏はもうそこまで来ている。
そして、すべての景色が白く溶けるその夏の日に、人はまた、海と空との
境目がどこであるのかを、いつまでも探し続けるのだろう。


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人は世につれ

2012年05月30日 | 内的独白


女優ラウラ・アントネッリである。
おじさん世代の映画ファンなら青春物の映画で思い出深いのでは
ないだろうか。美人だよな。誰が見ても美人と思えるのではなかろうか。

別嬪さんやと思います。

ところが!
数十年後は・・・



うそだ、嘘だと言ってくれ・・・。(T-T)
う〜ん。う〜ん。。。熱出そう。。。。


そういえば、うちの母方のばーちゃんも、大正初期の
娘時代の
写真を見ると、この人によく似ていた。
これはヒナだな。


ところが、ばーちゃんになってからは、鉄人衣笠さん
になっていた(笑



でもこういうの、人は世につれで仕方ないかもしれない。

 花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に

と、遠いわが先祖の一族のおばはんも歌に詠んでいる。


そういえば、あいつ、今頃どんな感じなのだろう。
高校の時、通学前に王子駅で待ち合わせて、毎日俺のお弁当作ってきて
手渡してくれてた。家がお米屋さんだったから、ササニシキで作るオニギリ
が定番だった。おかずは毎朝5時起きで作ってくれていたそうだ。
学校帰りにまた待ち合わせて空のお弁当箱を返すのが日課だった。

オニギリの握り具合が絶品だった。
オニギリ握るのが上手かったからと、まさか今オニギリ屋さんをやっている
とは思わなかった。
ユーザーレビューによると「愛想のいいハキハキとした小母さま」というのが
どうやらあいつらしい。下町育ちの江戸っ子だったからね。バイクの後ろに
乗せて海岸線を走ったのが懐かしい。

ネット情報というのは、恐ろしいものがある。
フェイスブックが流行っているようだが、俺はソーシャル・ネットワーク・システム
が大嫌いなので、ミクシィ(これが一番嫌い)も、フェイスブックもツイッターも
やらない。
ただ、時々ふと、どうしているのかなぁ、と思いがよぎる。
うちのかみさん曰く「あの人だけは許す」って、なんだそれ(苦笑
まあ、高校時代から大学3年までの古いほのかな昔話の時代ってことで(笑

でも、元気でやっているようで、なによりだ。ね、オニギリ屋の小母さま。

これは仲さんですが。ま、なんつーか、16歳の頃はクリソツ。


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居合の稽古 〜尾道〜

2012年05月29日 | スポーツ・武道など



火曜日は尾道東高校武道場にて居合の稽古なり。
本日は18:00〜21:00。

・全剣連制定居合12本の詳細解説と揃い抜きを3〜4セットずつ。
・古流夢想神伝流(大森流7本)揃い抜き。(私のみは直伝英信流)

本日の稽古は濃かった。
新人さん2名は、ずっと代表がつきっきりで、柔道エリアの畳の上で
進退の体さばきの稽古をしていた。

2名は、まだ刀は帯刀していない。
かなり丁寧な指導を受けている。
剣道でも、私の娘などは入門した5歳の時は、週に3日間半年もの間
ずっと
すり足の前進と後退の稽古だったしなぁ(^^
よく嫌にならずに続けたもんだよ。
私が居合を始めた時は、いきなり刀を握っての稽古だった。
だから、いつまでも体さばきが身につかなかった。
剣道の経験があったからまだ良かったものの、初めて木刀なり
刀なりを握った人にとっては、いきなり刀握らせるのは遠回りのような
気がする。

尾道道場の場合、基本中の基本を徹底的に懇切丁寧にマンツーマンで
指導している。見ていて「これは羨ましいなぁ」と思った。
うちの先生は、求めればいくらでも応えてくれる。人品高潔だし、
師匠から尾道の先生の道場に預けられて、私もラッキーだった。
神奈川の師匠が尾道の先生あて手紙を書いてくれて、広島県の八段の
先生の許可を得て尾道道場の代表に預けられた。古流のみ直伝英信流の
ままで預かってくれと。大きな大会で尾道の先生と師匠も会うたびに
私のことを頼むと口添えしてくれているという。そして、居合を通して
尾道の先生からいろいろなことを学んでいる。技術だけではない。
剣士の在り様を学べる。ありがたいことだ。

新人3名は誘われての入門ではなく、自分から希望して、道場を
探しての入会だから、かなり本気だ。続くだろう。
1名は岡山の長船刀剣博物館に刀を見に行った時に居合の演武を
見てやりたくなり、居住地そばの道場をネットで探したのだそうだ。
またもう1名は、高校の時に居合を見る機会があり、「大人になったら
絶対にやろう」と思っていたのだという。
道場の先生もかなり気持ちを込めてつきっきりで指導にあたっている。
人数も3名増え、若々しい新しい風が吹いている。三原分室道場でも
1名増えたので、
合計4名が新たに三原剣道連盟居合道部で居合の
稽古を始めたことになる。

一緒に息長く居合を学んでいきましょ。

稽古後に代表の先生が呟いた。
「今年の夏はみんなでビヤガーデンでも」
いいよ、いいよぉ〜(^0^)
待ってました。


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第79回 日本ダービー

2012年05月28日 | スポーツ・武道など



昨日は、東京優駿である。
ダービーを見ずに死ねるか、ということは競馬ファンの間ではよく
言われる。このレースが競馬の頂点だからだ。
私は録画で観戦した。
第79回日本ダービーは京競馬場の芝2400メートルに3歳馬18頭が
出走して行われた。
ディープインパクトの子が7頭も出るという兄弟対決のような今年の
ダービーが熱い。7頭のうちどの馬が勝っても親子制覇となる(笑)。
単勝3番人気のディープブリランテが2分23秒8で優勝し、賞金1億
5000万円を獲得した。岩田康誠騎手、矢作芳人調教師とも初の
ダービー制覇となった。
岩田騎手は先のレースでの出走停止もあり、悲願の初ダービー制覇
に騎上で涙をこらえられずに泣いていた。
スタート良く4番手につけたディープブリランテは、最後の直線半ば
過ぎで先頭に立ち、追い上げたフェノーメノを鼻差抑えた。
1番人気のワールドエースは4着、皐月賞馬のゴールドシップは5着だった。
レースの売り上げは227億446万2000円で昨年比14.2%増となった
らしい。
追い切りや調教具合を見ると、3着のトウセンホマレボシがものすごく良い。
そしてゼロスと先行しながら実に最後まで粘りきった(ゼロスは結果は
15着/18馬)。
忘れもしないアイネスフウジン+中野の時のような世紀の逃げとは
ならなかったが、それに近い頑張りを見せたトウセンホマレボシを私は
称えたいと思うのだ。
ディープブリランテ+岩田騎手も、初勝利おめでとう。

勝利後、男泣きした岩田騎手の「信じてくれたことへの感謝」という
コメントが印象的だった。

競馬ファンは数々あれど、このような漢(おとこ)買いをする人もいるのだなと驚く。


ゴールドシップ1点買い100万円。
う〜ん。わしゃよう買わん(笑)
高橋源一郎みたいな買い方する人だなぁ〜(^^;
あの人、文学賞の賞金をすべて1点買いで突っ込んだりしていたから。
今、源一郎は明学大の教授だというのが笑える。
娘のマリも明学の講師やってる。
マリが大学のとき、うちの職場でバイトしていたけど、とても可愛らしい
子だった。もっと小さいときの頃も個人的に知っていた。バイトで来た時、
「ええ?君があのおちびちゃん?」と驚いたが、今は彼女も、もういい年だ(^^;
ネットで見るとちょっと顔変わったみたい(昔めっちゃかわいかった)。昔は
漫画家になりたいなんてマンガ描いてたけどね。学校はICUだったから
勉強はできたみたい。
そういえば、源一郎は尾道の出身だったなぁ。先祖は上杉家の家老で高級
士族だったが、源一郎は
大学時代は横浜国大で白兜武者をやっていた(笑
源一郎の弟のトシさんは昔のバイク仲間さ。


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住まい

2012年05月27日 | 内的独白



ここが神戸とは思えない。
素晴らしい。

ここは、神戸に住むイトコの住まいのすぐ近くだ。
実は、私が子どもの頃に住んだ横浜の郊外もこんな感じだった。
40年以上前の頃の話だ。
通学路の途中はこんな感じで、
友人たちと「基地」という名の隠れ家を
作ったりしていた。

当然、誰もが「肥後の守」を持っていて、それで笹を切ったりして
屋根を作ったり、弓矢を作ったりして遊んでいた。

当然、安全と危険を知ってるから、喧嘩にナイフを使うような児童は
一人もいなかった。

近所の森の中に入り、クヌギの木をドン!と蹴るとカブトムシがボトボトッ
と落ちてくるし、クワガタもカエルも蛇も鳥もわんさかといた。
横浜市内だけで今まで3ヶ所に住んだが、郊外の野山がある
地域は子どもたちにとって楽園だった。
だが、今は・・・Google Earthで小学校時代の通学路を見てみたら、
山は切り崩され、小川のせせらぎは暗渠にされ、田畑や丘陵地は

新興住宅地となり、まるで往時の面影はひとつもない。
ところが、同じGoogleで探したら、私が生まれた時に両親と住んでいた
東京の目黒区青葉台の家の建物がまだ存在した。奇跡?これには驚いた。

ふと思う。
今住んでいる三原市の住まいで、窓を開けると、いつも目の前に
三原の城跡が見える場所に住んでいるということは、もしかしたら
かなり幸せなことなのではないだろうか、と。
天正年間に作られた城の石垣があたりまえのようにそこにある。
これをいつでも自分の家から見ることができるというのは、滅多に
経験できない環境に暮らしているのではと、ふとひとりごちてみた。


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第43回 広島県居合道選手権

2012年05月27日 | スポーツ・武道など

広島県山間部の湯来(ゆき)体育館にて広島選手権だった。
朝7:10に尾道運動公園にて道場の人たちと待ち合わせ、ワゴン車1台に
乗り合わせて
湯来(遠いの〜)の会場へ。


優勝者は今年秋の全日本居合道大会の選手となる。
最高位、七段の優勝者は・・・尾道のセンセ(^^)

帰りにはみんなで山陽自動車道小谷のサービスエリアに寄って
お茶と軽食と談笑が毎度のパターンなのだけど、ここのサービス
エリアには「アンデルセン」というパン屋があって繁盛している。
車に戻って、家へのお土産用に「好きなの買って来た」と言ったら、
先生方から「どんなの?」と言われたので「チーズの入った
こんなの」と言うと、七段の二人の先生は「ああ〜!あれね!
あれうちも大好きだ」とのことでした。人気あるみたい。

こんなの。

めっちゃでかいす(^^;
でも、うまっす。うちの女性陣(死語)も好物なので喜びました。


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ビッダーズ、オークション廃止 〜それについて思うこと〜

2012年05月26日 | 時事放談

(以下抜粋)


国内で日本刀がネットオークションに出品されるオークションサイトは少ない。
ヤフーオークションは日本刀の出品そのものを現在は禁止している。
他には、店舗系オークションが細々と独自オークションを運営しているくらいだった。
そんな中、ビッダーズだけは真剣日本刀が全国から広く出品され、多くの
美術刀剣が流通した。多くの刀剣商もビッダーズのオークションを利用して
日本刀を提供してファン層の裾野を開拓してきた歴史があった。

だが、本年2012年9月をもって、ビッダーズのすべてのオークション機能が
廃止となる。日本刀を取り扱う最大手のオークションが廃止されることにより、
今後は、日本刀専門サイトの日本刀オークション(出展数が実に少ない)が
数点残るのみとなる。
ビッダーズで日本刀を買ったことはないけど、なんだか寂しいなぁ。
いろいろな刀を画像入りで見ることができるだけでも楽しかったのに。
今後は、ほぼ店舗のウェブサイトの刀しか見ることができなくなる。
ビッダーズには数千点が出品されていたから、一気にその数千の刀が
見られなくなることになるわけで、これは痛い。
なぜなら、店舗系は「商品」としてまともな物しか画像アップしないからだ。
オークションのように錆身であったり、傷のある物をそのまま紹介することは
殆どないから、何というか、幅としては10年前の状態に逆行だね。
かといって、日本刀の価格が上昇して刀剣商が潤うという状況にはならない
と思うよ。

今飛ぶ鳥を落とす勢いのIT業界が今ひとつ信用できないのは、どんどん
吸収合併していってるから、ユーザーサービスをユーザーの立場など考え
ないで(IT企業の企業姿勢はそれ)、どんどんサービス内容も切り捨てたり
くっつけたりを「利益主体」で追求するんだよね。だから、サービスが突然停止
したりすることがしょっちゅうある。ブログサービスや情報サービスなどは
そんなのばかりだよね。
それが怖いから、私は有償で自己サーバーを借りてドメインを取得して
そこにデータを置いてブログ日記を「サイト内の一コンテンツ」としてサイト作りを
しているけど、これとていつサービスが打ち切りになるかわかったもんじゃない。
ブログだけやっている人が今は殆どだけど、突然サービス終了を一方的に
告知されてもどうするんだろう?
でも、IT業界なんてそんなもんだ。
なんでもかんでもアメリカ式商売というのはどうなのかねぇ。
あんまりいいことないと思うのだけどなぁ。
老舗やお得意さんとか関係ないもんね。
世界中で「老舗企業」が一番多いのは日本なんだって。「日本式企業精神」は
情念だけでなく、歴史的な成功をこれまで収めてきたのだけど、今大きな転換期を
僕らは経験しようとしているのかも知れない。

なんというか、50年生きた感想としては、どんどん世の中悪くなって行ってるよ。
特にここ15年くらいは加速度的に。

電子機器や交通機関というツールの機能は発達して行ってるのに、アホな
ネオコンのグローバリズムを盲目的に模倣しようとするから、どんどん人間
不在
の儲け主義大国ニッポンになってきている。企業人向けの雑誌見ていても、
明らかに数年前とは論調が変わってきて、なんというか、「米国盲従ポチ」
まっしぐらでトホホだよ。新幹線内にある雑誌なんかもそんな内容のばかりで
気持ち悪くなる。
私からすると、「混迷」にしか見えないのだけどなぁ。笑える今の政治と同じで。

きょう、古本屋で、単行本で『大江戸仙境録』と『大江戸仙界紀』を買ってきた。
これは『大江戸神仙伝』(1979年/石川英輔)の続編にあたる江戸時代への
タイムスリップ小説で、3作とも四半世紀前に読んだことがある。
当時は「こりゃ面白い」とワクワクしながら読んだ。主人公が江戸時代と
現代を行ったり来たりする小説なのだが、作家が江戸文化研究家でもある
ので、幕末の江戸の人物風景がかなり正確に考証されていて読み応えが
ある。「です」という表現は幇間(たいこもち)などの「でげす」と一緒で
とても下品な言葉なので江戸時代には一般人は使わなかったというのは
四半世紀前に石川先生の作品で初めて知った。

今回読み直してみて(現在進行中)、書かれた1980年代というのが、今の時代と
社会状況が全く異なることがよくわかる。
どう違うかというと、「エコ」などの発想はまだ社会全般では広まっていなかった。
(環境問題を考えようと主張していたのは当時日本では新左翼くらいだった。
意外と知られていないが、無農薬有機農法を国内に広めたのは三里塚の空港
反対派の農民たちだった。
当時は反原発を訴えるのも「反社会的勢力」と捉えられ、一般社会からも
国家権力からも排除されていた。「原発こそが危険で反社会的だから脱原発を」
という主張が広く認知されるためには、日本人が自ら痛みを自分で味わう
30年後の昨年まで時間がかかったといえる。それは、戦争に負けて初めて
平和の尊さと戦争の罪深さに日本人が気づいたように、実に愚かしいことの
ように私には思える。人を殺してから人を殺した罪の深さを悟っても遅いのだ。
数十年前、戦争に反対する国民がすべて「非国民」として排除され、時には
虐殺されていったという社会が実に恐ろしい。そのような社会を作っていたのは
何も軍部や右翼の連中ではなく、町の商店街の気のいいおっちゃんだったり、
普通の主婦だったりしたのだ。そうした社会状況の「日常性」が実に恐ろしい。
だが、こうした一般国民の罪悪という視点を初めて打ち出したのは色川大吉で、
それは何と1970年代末期だった。
それまでは、戦後革新勢力の側にも戦争責任を軍部に求める視点ばかりで、
「国民自らの日常性」の犯罪性を自省的に見つめなおす視点はあまり存在して
いなかったのである)

この小説を読んでいると、高度経済成長の残像の延長線上にあるのが
1980年代の一般的な日本国内の社会情勢だったことが作品から読み取れる。
作者は何度も作品中において「江戸期の良質な環境対策能力」を主張して
紹介している。「江戸から学べ」と言わんばかりに。

今でこそ、エコブーム(いやだね〜。ブーム好き、流行好きの体質は)で
日本人誰もが「エコ」「エコ」言ってるが、実はエコは儲かるから企業は
エコを売り物にしているのだ。騙されちゃいけない。国民の側から起きた
エコブームではない。大昔の「省エネルック」のような陳腐な「上から」の
働きかけであることを国民は見逃してはならないと私は思う。
ただ、無駄な電力消費などは避けたほうが良いことは明白で、だが、そんな
ことはずっと前から心ある人たちは「反社会勢力」とレッテルを貼られながらも
訴え続けていた。
ただ、私は今の日本の「エコブーム」が静かな集団ヒステリーのようで恐ろしく
感じるのだ。カルト宗教のように、見えないグルに操られて、グルとグルなの
ではないかとさえ思えるほどに危険な匂いを感じるのである。
だが、脱原発の観点は、それを主張した1970年代末期から私はひとつも
変わっていない。イデオロギーではない。安全性が確保できないうちは
原子力などは使えないからだ。だが、「儲け」のために原子力は推進された。
(国民の経済利益のためでないことは、今回の放射能事故で明らかにされたの
だが、そんなことは30年前から明らかだったし、心ある人たちはそれを訴え
続けていた。生きるために必要と毒を子どもたちに好んで食らわす親はいない
のである)
また「平和利用」というデマゴキーに騙されて革新勢力たちも原発を容認・推進
する側に回っていた。それが今ではあたかも最初から「反原発」だったような
顔をして「国民の安全を」などと主張している。
あとどれくらい犠牲者を出して痛みを知ったら、われわれ日本人は気づくと
いうのだろうか。


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波平さん、被害に遭う

2012年05月26日 | 時事放談



東京都世田谷区桜新町にあるサザエさん一家銅像のうち、
波平さんの毛が何者かによって強奪された。
これで被害に遭うのは2度目だ。
こういうの、ホントにやめろって。
貴重な脳天の1本なのだから(^^
ツルッパの波平さんは波平さんじゃないみたいだし、
やめてちょんまげ。


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出生地と出身地

2012年05月26日 | 内的独白

最近、ウェブ(特にWikipedia)を読んでいてとても疑問に思うことがある。
それは「出生地」と「出身地」を分けて記載していることだ。
この両者にどんな違いがあるのか、よくわからない。
記載の文意を斟酌するに、どうやら生まれたところを「出生地」として、
育ったところを「出身地」と規定しているようだ。

このような規定に基づく使い方はごく最近登場した表現方法だ。
相撲の呼び出しを聞いてもわかるように、かつては「北海道○○郡出身」と
いうように、生まれた場所を「出身」とするのが慣用的な日本語だった。
仮に「育った場所」を「出身」とするのであるなら、私のように幼い頃に
各地を転々としていた人間などはどこを「出身地」とすればいいのか。
やはり、生まれた土地を「出身地」とするのが正しい日本語のような気がする。
ただし、法律用語では「出生地」を以て規定している。「出身」という表現は
曖昧さを伴うので使用を避けている。それを勘案すると、「出身」という
言葉はそもそもが不確定要素の強いものであることを証左していることに
なる。
私の場合、東京都目黒区で生まれ、3歳の時に神奈川県藤沢市に移住し、
その後神奈川県横浜市に移住した。さらに小学校高学年で埼玉県大宮市
に移り住み、さらに埼玉県川口市に転居した。その後は埼玉、神奈川、東京
と往復するように転々としている。齢半百になる今は父親の出生地である
広島県三原市に居住している。最近のネット表記によると「出生地東京都目黒区、
出身地神奈川県藤沢市」となるのだろうが、どうもしっくりこない。「出身東京」
がピンとくる。

ただ、こうした人間の観念上の表現は時代とともに変節するので、「これが正しい」
ということは言えない。
最近の免許証では「本籍地」が記載されなくなった。実はこれは法律上も
大事件なのである。詳しい法律論はここでは割愛するが、かつて「人定」の
最大データソースは「本籍地」であったからだ。IT技術が進んだことにより、
人定特定が簡易になったので文言上の記載がなくともよくなったのだろう。
住民票を置いた場所(=転居した場所)をたどるには「戸籍の附票」をたどる。
ただし、本籍地というものは、日本全国どこにでも任意の場所に定めることが
できる。極端な話、皇居の中でもよいし、北方領土でもよい。日本への領土
返還を
求める意思を込めて、北方領土に本籍地を置いている元新左翼活動家
もいるようだし、
朝鮮民主主義人民共和国でも韓国でもなく「朝鮮」とだけ
旧免許証に記載された実例もある。
そうなると、本籍地の要件と法的効力というのは一体なんであるのかと疑問が
わくのだが、かつては最近の「出身」の概念と同じように、「本籍地=出身地=
出生地」であるような扱いを世間では慣用的にしていた。これは法的な規定とは
別な意識として。
高校1年の時に、自動二輪の免許を取るために目黒区役所に行ったら、私の
本籍地が目黒区青葉台から広島県三原市に移されていてびっくりした。
理由は、私が高1の時に、四男の父親が本家相続のために三原に転居して
私は両親と別居を始めたので、私の住所は三原ではないが親は本籍地を
目黒区から三原市に移したのである。未成年は特別養子手続きの一過程等の
特殊なケースを除き親の戸籍に入っているので、いかんともしがたい。ただ、
目黒区役所に行って「あががが」となったのは確かである。除籍簿を元に
新しい本籍地の場所を特定して三原市役所から新戸籍を取り寄せるしかなかった。
私の仲の良いイトコなどは、どこに移住しようが「本籍地東京都文京区」の
ままにしている。私個人としては、戸籍簿取り寄せの面倒を抜きにすれば、
こちらのイトコのケースの方がすんなりとなじめるのだが・・・。

最近の「出生地」と「出身地」を分ける表現は、居住地の自由と多様性という
時代の流れを代弁しているのだろうか。
そういえば、「本貫(ほんがん)」などという概念どころか用語も知らない日本人
が増えている。
また、古代はともかく、中世以降は、家の系統が藩の記録等に残っていてはっきり
していても、「養子」が多かったりするので、血脈として
ルーツが存続しているここと
同一とはいえない。
江戸期にあっても「御家人株」を「購入」
することや、「婿入り」によって家を存続
させることが一般的に行われたので、家系=血脈的
道統が保たれていることには
ならない。極端な話、「家の先祖」は「血の先祖」と
同一が担保されていないという
行政機構上の問題を日本は古代から有していたのだ。

家系がはっきりと辿れても、それが自分の実両親のルーツと同一とは限らないの
である。中世以降はいわゆる「入り婿、入り嫁」を同時に迎えて家を存続させる
ケースもあり、あくまで「御家大事」であり「家系=血脈」ではないことに気をつける
必要がある。

家父長制を解体した現在でも、戸籍制度においては「養子縁組」により「苗字」を
存続させることが可能であるが、現行戸籍では「家父長制解体」が主たる
目的のために血脈重視であり、相続権を有するのは血脈および戸籍簿記載の
相続権者
(含養子等)としている。
(話が逸れるが、「夫婦別姓」に反対する人々はその主張の根幹において
右傾化思想に感化されて「古き良き日本=家父長制」をイメージしているフシが
あるが、かなり見当違いな情念であり、はなはだ笑止といえる。なぜならば、
江戸期にあっては、武家などは行政上は夫婦別姓であったからだ。
また逆に、夫婦別姓を推奨する勢力も、夫婦別姓があたかも「革新的」で「人権的」
だと思いこんでいるフシがあり、こちらも笑止の限りである。歴史性を厳密に吟味
して夫婦別姓論を展開しなければ、まったく本末転倒といえる)

閑話休題。
これらの現行戸籍制度には、詳しく言うと法律上も矛盾が生じている。

たとえば、戸籍には「長男」「二男」という記載が現存するが、これは現行法律上
の効力としてまったく意味をなさない。長男と二男の間には法律的権利に
差異は存しないのに弁別して記載するのは家父長制であった旧戸籍法の
残滓であるからだ。
かつて旧戸籍にも同様の法律的矛盾があった。そのよい例が「族称欄」であり、
「士族」などは戸籍上に記載されていてもなんら法律的効力はなく、族称欄の
存在そのものが大正時代には大問題とされて議論されている。法律は
整合性を完備するのが旨であるので、法律的に意味のない表記は矛盾以外の
なにものでもないからだ。
ただし、「華族」の場合は貴族院議員との関係があるので戸籍上の法的効力が
あった。しかし、華族であっても分家したら族称は「平民」となった。ここにこそ、
矛盾が表れている。つまり、明治期の西欧主義的近代行政構築期の中にあっても
「家系=血脈」ではないという旧機構を部分的に継承構築しようとした法的な
苦しさ、潜在矛盾を明治政府は抱えていたのである。法律は文化ではないので、
和洋折衷という訳にはいかないのである。フランス法とプロシア法を参考に
近代日本の法整備はなされたが、そもそもが法律というものの立法経緯が
異なるので、民主主義の歴史が存在しなかった日本に西欧の法律を持って
くること自体が無理があるのだが、野蛮な絶対君主制の封建時代に別れを
告げて、文明開化により近代先進国の仲間入りをするためには、西欧型の
法律によって国を治めることが絶対条件だったのである。
だが、いろいろ法律的な矛盾は今も残っている。戸籍でいえば、一番の問題は
子の長幼順列を記載していることが挙げられる。地方自治体によっては、
住民票においては戸籍法の管轄外なので、子どもの表記を単に「子」として
いるところがあるが、法律的な整合性からいうとこちらが正しい。「継子」という
表現は人道上の配慮からすでに戸籍からは削除されるに至ったが、「長男-二男」
という表記は法律的に意味をなさないので早々に法律表記上は廃止される方向に
向かうだろう。なぜならば、
相続順位は出生順位とは関係なく、別な順位を現行法
は規定しているからだ。

また、出生の順番は生年月日記載欄を見ればすぐに判別がつくので長幼順位の
記載は必要がない。(ただし、相続人確定はさらなる厳密さを要求されるだろう)

個人的にはっきりしていることとして、出身地と出生地の表記を分ける最近の
インターネット上の表現は、私にはどうにもなじめない。
論理的に整理してはいないが、この手のモヤモヤを感じる場合は、ひとつひとつ
論理で解析すると、大抵の場合は論理的欠缺(けんけつ)が存していることが多い。
ただそれを素肌で感じるだけだ。それ以上の段階に進むか否かを決定づけるのは
「気乗り」と「必要性」でしかない。
論理は意思や情念とは別に確固としてそこに存在しているものであり、あとは
人間がそれをいかほどにきちんと理解して、どう解り易く説明するかだけの
問題なのである(後者は「論理の存在」とは別な次元の事柄である)。




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備前長船祐定の系譜 〜日本刀〜

2012年05月25日 | 日本刀

昨日付の記事は日記ではなく、書き溜めてたエッセイ記事のアップで
ごめんちゃいね。

実は、一昨日からPC離れて夜なべしてゴショゴショとあるものを
作っていた。作っていたというか、研究の一環としてやっていた作業
といった方がいいかも知れない。
それは、備前長船鍛冶の名跡で「祐定」という刀工群がいるのだけど、
南北朝時代から明治までの「祐定」を名乗る鍛冶の数といったら、
数十名いるのね。
しかも、刀工銘鑑に載っている祐定は「初代」というのがやたら多いの。
なぜかというと、備前長船の刀工銘の「祐定」は、個人名というよりも、
ブランドというか文字通りの名跡として代々受け継がれてきた銘である
のと同時に、別家がいろいろ興って、それを「初代」とする例が多いの
ですよ。祐定を名乗ったのは60数人いるようだけど、その関係性の
すべてが明らかになっている訳ではない。銘鑑にも「〜の子」とか
「〜の養子」とか俗名で関係を示しているだけなのね。
でもって、人数が多すぎるから、正系と傍系が頭の中で整理できない。

この本で調べている。

厚さ5センチ近い英和辞典のような書籍。中身はすべて刀工銘が記載されて
いる。いわゆる「刀工銘鑑」というもので、全796ページある。日本の刀鍛冶の
名前辞書みたいなものなのです。
古今東西の日本刀の刀工を網羅しており、編集者には頭が下がる。
書名は『刀工大鑑』(得能一男著/光芸出版)という。1万円くらいするけど、
日本刀研究者は絶対に所蔵しておかないとならない必須の書といえる。
それでも、いわゆる銘鑑漏れの刀工がときどき出てくるので、気づく度に
この書に手書きで書きこむことにしている。1977年までの現代刀工も網羅
しているところはありがたい。

で、長船祐定なんだけど、整理つかないのなら整理つくようにすればよい。
ということで、この書に記載されている祐定をすべてピックアップして、
系図(相関図)を作ったのさ。
かな〜り時間かかったけど、これで、今度から祐定の作を見たら、年紀在銘物
なら、この系図を見ればどの時代のどこに位置する祐定かすぐに判るよ(^^)

なげ〜(笑)

関係性を整理するのにかかった時間も、なげ〜(笑)
ただただ根気です。こういうのは。
まあ、昔やってた戸籍簿読んでの相続人確定の仕事みたいなもんで(^^;
出納計算や事務処理作業みたいに物理的にパッパとできないところが
なんともアナログなのだが、こういう集中力がいる作業も何かの
稽古のうちと思えば心も弾む。

室町時代に中川家から横山家に「祐定」の名跡は移って、
「長船千軒」といわれた備前長船鍛冶が繁盛したのだけど、
天正時代の大洪水で地域一帯がほぼ全滅しちゃったんだよ。
岡山県の吉井川の流れが現在の位置に数キロも変わるほどの
未曾有の大災害だった。町が消滅しちゃったんだ。
だけども3人ほど数キロ流されて、かろうじて生き残ったのだけど、
その中に祐定がいたのね。その祐定が江戸期に頑張って、備前
鍛冶を再興させたのよ。そして、後世まで残る名作を作り続けた。
歴史の表には出て来ないいろいろな苦労があったろうし、並大抵の
ことではなかったろうと思うけど、東日本大震災のことを思っても、
やはり、悲しみを乗り越えて力強く生きて行くと、きっと明るい未来が
あると僕は思う。

現代刀工で、長船日本刀伝習所代表の刀工でもある
上田範仁(うえたのりひと)先生は、長船の名跡である「祐定」を
数年前から名乗っている。
長船祐定の直系は大正時代に鍛冶を廃業しているから、血脈的
繋がりはないけれど、高知出身で岡山市内の高校を卒業した
上田氏は3人の刀匠に師事して長船の地に移住した。氏は備前長船
鍛冶が消滅しかけていたのを救った故今泉俊光刀匠の門下となって
長船鍛冶の火を消さないことに生涯をかけた。
2006年(平成18年)には伝習所に8名の入門者があり、現在まで
7名の刀工を輩出しているようだ。
昭和22年生まれの上田刀匠は、今、刀鍛冶の宿命ともいえる「眼病」を
患っている。刀工は長年火を見続けるから白内障になってしまうのだ。
これは天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の神代の時代からの鍛冶職の
職業病ともいえる。「多摩の絆」を夫婦で作った高野政賢(まさかた)刀匠も
晩年は白内障でほとんど視力がなかったし、他の高名な刀匠も目を
盗られてしまう人が多い。
上田刀匠のブログを拝見していると、満身創痍で命がけの刀造りの
息遣いが伝わってきて目がしらが熱くなる。本心では「お願いだから
もう刀を造るのやめて、休んで」と叫びたくなるが、命をかけた刀匠は、
最後の最後まで命の刀工であり続けるのだろう。
お弟子さんたちも、どうか頑張って、一日も早く独り立ちできる刀工に
なってほしいと切に願う。


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そろそろなの? キャバリアちゃんいらっしゃい!(ワクワク)

2012年05月24日 | ポチたま


(2006年、撞球室にて撮影)
家庭名:Ark Landwalker

登録名:レディーキラー・オブ・シンマルソー
性別:♂

生年月日:1996年6月8日
死亡年月日:2009年11月16日

こいつは与太郎だけど、トボけた性格で憎めなかった。
シンマルソーとは愛知県の犬舎の名で、金髪の美女という
意味がある。そこのレディーキラーって、どういう名前なんやねん(笑)
この子はいわれあるいきさつで我が家に来た。
我が家にいた3頭のキャバリアは、「普通の」いきさつで生活を
共にしていなかった。紆余曲折、数奇な運命といったら大げさだが、
いろいろあった。

我が家には、娘が生まれる前に1頭のキャバリアがいた。
1995年1月21日生まれ、1996年2月16日死亡。
シンマルソー犬舎のブレンハイム(白と茶色の毛色でブレンハイム城の名前がある)
のキャバリアだった。
家庭名をLuke Landwalkerといった。ルーク・スカイウォーカーから取った。
なぜ1歳になったばかりで死んだかというと、娘(人間)が95年12月に
生まれた時に、犬仲間の家に1週間程好意であずかってもらったら、
酔ったホモサピエンスに殴り殺されてしまったのだ(詳細省略)。

そのルークが生前出会ったことがあるトライカラー(黒、白、茶の三色)の
雌のキャバリアが中野のペットショップにいた。
聞くと、飼い主が飼えなくなったので1年以上店のケージという檻の中にいたそうだ。
(ゲージとの誤謬が日本では多いが、「カゴ」という意味なのでケージが正しい)
足腰はとても弱っていた。歯もボロボロだった。年齢は5歳を過ぎていた。
犬に服着せて記念撮影をして「芸能人の○○様も当店で御買い上げ」などと
宣伝しているような店だった。大昔の勘違いブーム=本質は動物虐待のナメネコ
じゃないつーの。
「気に入らなかったらいつでも引き取りますよ」と店主は言った。
ルークが死んで、途方に暮れてフラフラとルークと歩いたことのある
原宿や中野の街を彷徨っている時に入ったショップでのことだ。
ルークとも新宿から中野まで何度か散歩途中で訪れたことがある店だ。
トライカラーの5歳の子とはその時ルークも会ってケージ越しにコンニチハ
していた。
店主の言にカチンときた。
「犬は中古車じゃねーよ」と思い、その場で引き取ることを瞬時に決めた。
トライカラーのその女の子の値段は15万円だった。15万払おうとしたら
「5万円でいいですよ。5歳だし」と店主は言う。5万円を置いてすぐに家に
連れて帰った。
その子は以前の名前である「くるみ」という名をそのままつけた。
この女の子は食い意地がかなり張っている以外は、ルークと同じく悠然として
気品あるキャバリアの良質を備えていた。とにかく、多少のことではおじけ
づかないし度胸があった。
死んだルーク(愛知県出身)の6代前の父親とくるみ(群馬県出身)の3代前の
父親は同じキャバリアだった。つまり、ルークとくるみはラインが繋がっていた。

しかし、どうしても聡明だったルークのきょうだいに近い血のキャバリアを家に
迎えたかった。しかも愛知シンマルソーから。
ショップでは通常こうしたブリーダーを特定しての注文は受け付けていない。
しかし、横浜二俣川のルークを迎えたショップは、事情を知って特別なはからいで
シンマルソーでルークのイトコが生まれた時に連絡をくれた。異例のことである。
すぐに妻とまだ乳幼児の娘の3人で見に行った。それがアークだ。父親は
アイルランド出身だった。
新宿の自宅から横浜の店に着いたら、シンマルソー生まれの♂の子が2頭店に
来て元気にじゃれあっていた。生後2カ月にやや満たない。少し早いかもしれない。
他のお客さんが愛おしそうに抱いていた。「あうあう、やばい。これを逃したら
もうルークと同じ血筋のキャバリアと会うのはいつになるかわからない」と
思って焦った。そのお客さんが一旦ケージにキャバリアを戻した時、2頭を
見比べた。う〜ん、どちらもルークの赤ちゃんの時より格段に器量が悪い!(笑)
ガッツ石松みたいな顔している・・・(ガッツさんごめんなさい)。
少しかまってみた。
すると、2匹とも元気よくじゃれついてくる。
そこで、次なる試験で、2匹を高く持ち上げてみた。この時、1匹の方がまるで
ビビらなかった。そちらに決めた。それがアークであり本名レディーキラー(笑)だった。

くるみちゃんは前の飼い主さんがしつけをしていたからか、性格ができた犬で、
アークが来ても面倒見よく接したが、あるていど距離を置いて「自分は自分」と
泰然と構えた。私の娘に対する態度となんら変わらない。女ボスみたいな風情だった。
外出の時も、車のドアをあけると、パッと飛び乗って助手席に陣取り、1分もしない
うちに眠りだす。ルークやアークは、流れる景色を目で追ってキョロキョロと
落ち着かずにはしゃいでいたが、くるみはデ〜ンとしていた。私はどこに行くにも
くるみを連れて行った。


結局、考えたら、我が家にはシンマルソーから2頭、群馬から来た1頭のキャバリア
は全員親戚というか同じラインブリードだったことになる。特徴としては、顔立ちが
とてもよい。ただし、シンマルソーのキャバリアは顔は男前だが、完全なオーバー
サイズだった。
実は、ルークの兄弟が横浜に住んでいて見たことがあるが、その子もかなりの
オーバーサイズだった。キャバリアは5〜8Kgがスタンダードだが、ルークなどは
太っていなくて筋肉質なのに13Kg台の体重だった。もうこうなると中型犬なみだ。
ドベッとロケット型に寝てるのを見た友人は「で、でかい!」と言っていたし、実際、
小さめのイングリッシュ・スプリンガー・スパニエルくらいあった(苦笑
スタンダードから大外れだが、ショードッグではないからいいのだ。大きく生まれて
きたのだから仕方ない。テンソクみたいなことはしたくない。普通に食べて普通に
遊んで、普通に運動して、普通によく寝てよく育った。アークも筋肉質で11kgあった。
こちらもオーバーサイズ。けれども運動量が半端なかったので、体は締まっている。
運動能力はルークもアークも高く、室内愛玩犬というイメージではなかった。アウト
ドア大好き犬だった。ルークなどはフリスビーまでやっていたので、なんというか、
変なキャバリアだった。

生後6ヵ月頃のルークと初夏の神奈川県江ノ島を歩く。
まだ小さい。(だが既に普通の成犬キャバリアなみ)
初めて見た海だったからか大喜びで波打ち際を走り回った。


くるみは5.5kgだった。この子はジャスト・スタンダード。そして、部屋の中が好きな
子だった。こちらがキャバリアのスタンダードなのかねぇ・・・。
アークを連れていると「太ってますね」とよく言われたが、太っているのではない。
スタンダードを外れた大型なのだ。だが、それはそれで足腰が丈夫だし、
一緒にアウトドアに出るととても互いに楽しめた。エアソフトゲームのない休みの
日などは、一緒に山岳フィールドをアークと探索したりした。くるみも行きたがった
が、くるみは足を傷めているので家で御留守番だった。アークは愛想がいいので、
広島実家のワンコ小太郎や藤丸とも仲が良かった。くるみちゃんは「興味ないわ」
という感じで、アークと小太郎、藤丸を無視していた。無駄吠えは一切しない。
アークは感情豊かで、いろいろな声色や態度で気持ちを表現していた。
アークの外見上の特徴としては、イングリッシュコッカーの血が濃いのか、
全身がカーリーヘアーのようにクルクルと巻いた癖っ毛だった。これもキャバリアの
スタンダードからは外れているのだろうが、なかなか愛きょうのある容姿だった。
そして、背中の模様は白い部分が冗談抜きで「へこ」という文字になっており、
これは大いに笑った。娘の大きな犬のぬいぐるみ枕を自分の物として娘から
取り上げ、いつもそれに乗っかってヘコヘコやっていたからだ。
そして「おまえ、何やってんだよ〜」と私が言うと、一瞬こちらをパッと見て動きが
止まるが、またすぐにヘコヘコをやりだすのだった。男同士だから、君の気持ちは
わかるけどね(苦笑)。

これではよくわからないが、首が起きている時に真後ろから見ると
まさに「へこ」という白い字が背中にあった。

3頭のキャバリアと暮らしてみて、キャバリアの個体差に驚いた。勉強になった。
それは、体格もともかく、気質が3頭でまったく異なることだ。これは多分持って生まれた
ものだろうと思う。
人間でも性格の悪い人間(絶対に反省しない人間等、M.スコット.ペックの『平気で
うそをつく人たち』の中で「邪悪な者たち」とされる領域の人間)は生まれながら
だろうと私は思う。絶対に自分の非を認めず、一切反省をしない人間というのは
世の中にかなり存在する。ペックは精神疾患とは区別して(当時はカテゴライズが
なかったからだと私は思う。現在では境界例がそれに相当するのではと思われる)、
煮ても焼いても食えない自省なき人間を「邪悪な者」と規定した。
犬の場合、そういう状態の精神の犬は狂犬の類に加えられるのだろうが、「しつけ」に
よってある程度は矯正することができる。しかし、食い意地は直らない(苦笑)。
人間も、業(ごう)の強い者は、あらゆる欲が前面に出てくる。通常は教養や理知で
それを自覚的に制御したりするのであるが、人間と違い犬の場合は「訓練」が必要
になる。
人間の場合は、よほどの馬鹿でない限り、成長とともにあらゆる社会性や道徳や
人智に触れて「自ら学ぶ」ことを開始していく。人間はそれが3歳あたりから始まると
される。俗に言う「三つ児の魂百まで」というのがそれだろう。そういう意味では、
人間も社会的な「しつけ」がとても大切になってくるし、それを学び身につけるのは
家庭であり、学校教育の場であろう。
キャバリアの個体差というものは、私個人は「生物の個性」として、とても楽しく思え、
同時に喜びの時間として接することができた。生き物なのだから金太郎飴では
つまらない。人もそうだが、全員が同じ色で同じ服着て同じ方向を一糸乱れず
見る、などというのは気持ち悪くて仕方がない(人間界には、それに快感を見出す
グループもいるようですが、私は明らかに不快になるグループに属するようです)。
犬種によっては、ビーグルのように個体差が極度に少ないために、動物実験に
常用される犬種もいて、なんとも心が苦しくなる。犬の犬種というものは神が造り
たもうたものではなく、人間が「作出」したものだからだ。
キャバリアは、1945年に復活した種であるので、「未完成」の楽しさがあった。
ルークが生まれた頃は日本にキャバリアが1700頭しかいなかった。くるみの
時代には700頭に満たなかった。

だが、折からのペットブームと無理なブリードによりキャバリア特有の心臓疾患を
抱えたまま繁殖させることを人間はしてしまった。10歳になるまでに100%の
キャバリアが心臓疾患に罹患し、すべてのキャバリアが苦しみもがきながら
死んで行くのである。これを改善して中世英国貴族が愛した頃の元祖キング・
チャールズ・スパニエルに戻すためには、心臓疾患が遅く現れる個体を
繁殖犬として適切なブリーディングで健康なキャバリアを増やすしかない。
だが、現実は犬は「商品」として扱われるので、かなり乱繁殖で悲惨な状態と
なっている。毎年行政によってやむなく殺される「捨て犬」の中でも純血種が
いかに多いかが、その「売り手」と「買い手」の金銭本位主義を表している。
「飽きたからもういらない」、「俺が金出したのだから俺の物。どう扱おうと
指図されるいわれはない」というカネに縛られた人間たちが己の身勝手な
理屈で動物の命をもてあそぶ。飽きたらポイだ。悲しいことだが、現状を見ると、
世の中そんな現実だらけだ。私が住むマンション(犬猫同居可の分譲物件)でも、
隣りから鳴き声がうるさいとクレームつけられて飼い犬の柴犬の声帯を
つぶした飼い主がいる。しかも、共用部分の廊下で繋いだままで飼っている。
私がマンションの階段を通るたびにその子は「遊んで遊んで」と尻尾を振りながら
ハフハフと声にならない声を出す。人間の身勝手さに涙が出てくる。

この例は特異なことではない。人間の都合などというのは、そんなものなのだ。
どこにでも転がっている現実だ。広島県三原に引っ越した時に、近所に鳥カゴに
マルチーズを入れっぱなしで飼っている家がありかなり驚愕したが、何てことは
ない。申し訳ないが、三原ではそんなのばかりだ。15年前に引っ越して来た
時には、街中は飼い犬の排泄物(大)だらけだった。うちの近所でも散歩で
ウンチを取る家などなかった。これは本当にそれが現実だった。
三原がひどいわけではない。大なり小なり、同じような構造の現実が日本国内
いたるところにある。
ただし、都心部よりも、地方は30〜40年ほど人権意識や動物愛護意識が
遅れているというのは確実に感じ取れる現実である。これは地方の人は言い逃れ
できない。目の前に横たわる現実がすべてを物語っている。

ルークとくるみは、気質的には申し分なく良い犬だった。
コンテストに出すのではないから、スタンダードを大きく外れてもそれでよかった。
丈夫で、キャバリアとしての気質を持っていてくれればそれだけでよかった。
ビーグルなら強靭な脚力と山の向こうまで響く鳴き声、というように、JKC規定の
見た目の模様や体型を基準とはせず、犬種の気質の特徴を体現してくれて
いればよかった。
ルークなどは大柄なキャバなので珍しかったし、新宿区早稲田の戸山公園で毎晩
ゴールデンたちと取っ組み合いのじゃれあいしていても、互いにそこそこ楽しんで
いたようだ。駿足で地来欲(じらいよく。物をレトリーブ=主人の元まで持ち帰る意思)
も強く、また泳ぎも好きで、変わったキャバリアだった。犬に詳しい人も「いい犬だね」と
言っていた。まるで「小型愛玩犬?へん。俺はスパニエル。鳥猟犬だ。猟犬と呼んでくれ」
というような毅然とした態度と体躯がなかなか魅力だった。ヘナチョコなところが一切
なかった。
アークは、とぼけた性格で、いつまで経ってもチョロマツのように落ち着きがなかった。
それはそれで可愛かった。ダメな子ほどかわいいとはいうが、長屋の与太郎の
ようで憎めなかったのである。アークは死ぬ間際まで私のメガネや小物を自分の
居場所に隠し持って行って、そこでニタ〜リとしているような奴だった。「こら!」と
言うと、表情を変えてショボ〜ンとそれらを私の元まで持ってくる。そして腹を見せて
ゴロ〜ンとなる。年くって、比較年齢が私より上になってもそんな感じだった。
そして、どこででも寝る。定位置はあるにはあるのだが、「ハウス」はない。
「はい。向う」と言うと、椅子の上かテレビの前か、リビングのベンチの上か下に
潜るかしておとなしくする。眠った時のイビキはひどいものがあった(笑)
「これはこうでしょ」と言って聞かせることをしていると、スワレの姿勢のまま
タヌキ寝入りするのもアークの得意技だった。ルークはアイコンタクトを外さず
「何を言ってるのだろう?」と最後まで注意力をそらさなかった。
犬と猫の共通の特徴。それはよく寝ることだ。

アークはルークと違い、カールした体毛が特徴のキャバリアだった。
日本では英国発音のカヴァリエとは呼ばれないが、正確には多分カヴァリエだろう。

ただひとつアークにはスパニエル種として決定的な欠点があった。
それが「ガン・シャイ」だった。火薬の破裂音を極度に嫌う。ギターやピアノを横で
ジャンジャン弾いても笑い顔みたいな顔で見てるだけだが、これが破裂音となると
パニックになる。ビリヤードの玉のぶつかる音ではなんともない。とにかく火薬の
破裂音が大嫌いなのだ。家庭花火も駄目だし、花火大会の音も駄目だし、ガストイ
ガンの発射音(火薬音に近い)でさえパニくって怯えて走り回って物陰に入る。
一度キャンプの時に花火をやったら逃亡して探すのに一晩かかった(コテージ裏の
水田に浸かってぶるぶる震えながら隠れていた)。
ルークもくるみもまったく火薬音には動じなかった。これらも生まれもっての気質だろう。
くるみは1990年3月31日に生まれ、1996年2月末にうちの住人となり、2000年12月
16日に広島で死亡した。その9年後にアークが死亡した。
くるみとアークの死亡は、キャバリア特有の心臓病だった。
キャバリアは全頭が100%僧帽弁閉鎖不全で苦しみながら死んで行くのがとても
かわいそうだ。実はアークは呼吸が止まって死にかけたが、鼻から思いっきり息を
吹きかけたら心臓がまた動き出した。それから1年を生きた。1年後の最期は
「死にたくない、死にたくないよぉ」みたいな感じで、目をむいてこちらを見つめながら
足をパタパタさせて、そして死んでいった。家族3人の腕の中で。
ルーク、くるみ、アークの亡骸は三原の家の庭深く眠っている。
アークは足掛け14年というキャバリアでは長寿のほうだろう。
犬も猫も、命を共にして家族となったからには、死ぬときまできっちりと共に家族で
いてあげなければならないと私は思う。くるみはうちに来て幸せだっただろうと
信じたいし、「じゃあまた明日ね」と預けた知人宅で別れる時のルークの寂しげな
顔が忘れられない。アークは「なんじゃこりゃ〜。く、苦しいがな。助けてくれ!」
みたいな感じの最期で13年半の季節を閉じた。毎年数回のドクターによる心臓
チェックと晩年の処方箋でなんとか普通のキャバリアよりも数年長く生きながらえた。
できるかぎりのことはしたが、やはり最期は心臓疾患には勝てなかった。
最期、呼吸が止まる時、家族が全員見守って、腕の中で目を閉じることができたのが
せめてもだった。
アークはうちに来た時からくるみも娘も家内もいたので、寂しい思いをしたことは
なかっただろう。ルークは、僕らが共稼ぎだったから、留守番ばかりさせて、ごめんね。

ネットでシンマルソーのワンコつながりのキャバリアのオーナーの方がブログを
書いているが、出てくる主人公のトライカラーのキャバリアはルークやくるみや
アークに顔がとてもよく似ている。やはり同系の血筋なのだろうか。犬舎は違うみたい。
埼玉生まれの子かなぁ。そのブログは私は楽しみに時折読んでいる。
妻もブログを読んで「ここのキャバリアくんは幸せそうだね」と言う。確かに(^^)
最近、妻がネットでキャバリアの仔犬新生情報をよく見ている。
「ああ・・。男の子かぁ。女の子がいいのよねぇ」などと呟きながら。
あ、もしかして、もしかする?
もうすぐ、ブリーダーさんとのタイミングが合えば、キャバリアを?
ぜひトライカラーの女の子で頼むよ(^^)
こんな感じの。マロみたいな眉毛のある子で。あ、麻呂は男か(笑


ワンコについて書いた過去の日記⇒ 2012/2/29付 「ねえマリモ」


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高校バスケ選抜2011 ウインターカップ総集編

2012年05月24日 | スポーツ・武道など

高校バスケ選抜2011 ウインターカップ総集編


なんか感動した。
京北高校の田渡凌くんって、すごくいい選手だなぁ。

京北って、私の高校の隣りだったけど、昔は国士館と並んで
ツッパリ兄ちゃんしかいなかった。けれども、バスケは都内でも
常にトップだった。(うちは剣道とボクシングが強かった)
1970年代の京北のバスケの強さは、当時の明治大学のように
突き抜けた強さだった。今でも強さの伝統があるのだなぁと
動画を見ていて思った。
長いけど、最後まで飽きずに見ることができた。
女子のほうは、優勝はできなかったけど、桜花の女子高生たち、
なんだかみんな可愛いぞ(^^)


あたくし、中学の時は剣道部にも所属してたけど、剣道まったくせずに
バスケ部でスモールガードやってました。女子が強かったけどね。
関東大会で準優勝2回だから。

高校の時はバイク部でした(ねーよ、そんなの)


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居合の稽古 〜尾道〜

2012年05月22日 | 日本刀


火曜の夜は尾道東高校武道場で居合の稽古です。
東高は小説家の林芙美子さんの母校でもあるそうです。
丘ひとつこえて西側にあるのは尾道北高校で、そちらは
大林監督や漫画家のかわぐちかいじ氏の母校です。
北高も東高もどちらも進学校のようです。
東高での居合稽古は
18:00〜21:00まで。

本日は、日曜の広島県選手権に向けての試合形式で模擬試合を
12セットやりました。
1試合6分で5本の業を抜きます。
全剣連の場合、全居連のように1本の業ごとに号令をかけることは
せず、審判の「初め!」の発言の後には6分後の「判定!」まで、
一切審判から号令はかかりません。その6分という規定時間内で、
正面への礼に始まり、刀礼、帯刀と進んで5本の業を演武し、最後に
刀礼、続いて正面に礼の後に「携刀姿勢」で終わります。そこで審判
3名乃至4名のうち主審が起立して「判定!」と言い旗がバッと白か
赤に上がります。
時間オーバーや短かすぎるのは必ず判定で負けます。自分の中の
体内時計が正確でないとなりません。5分30秒から45秒で終了する
のがベストです。
最初の2本が自分が属する古流の自由業2本、残り3本は全剣連制定
居合の指定業で、今回の稽古では1試合ごとに制定指定業を変更します。

12試合って、かなりしんどかったよ(^^;)
そして、1セット終了ごとに、立会いしていた先生が各人の欠点を
指摘し、次のセットではそこを注意して演武するという方式です。
「入場」から「正面への礼」まで完全試合形式なので、すべての
所作が試合通りの本気モードで、90分以上、まったく隙のない
状態で進めないとなりません。
技だけでなく、精神的なコントロールも必要になります。
勿論、刀を帯に差してから柄をグリグリ回したり、手をブラブラさせたり
の無作法をしたら、その時点でアウトです。常に「御前試合」の
心持ちにて、進むも下がるも止まるも座すも、すべて作法通りの
立ち居振る舞いでないとなりません。
試合会場で、自分の番まで3〜4番あるからと、体をほぐしたり
する人が時々いますが、審判は待機中の選手も見ているそうです。
待機の時点で「控え」の所作ができていない剣士はその時点で
実はアウトなのかも。
刀の技の前に、とにかく「礼法」、「作法」を重んじています。

本日は少し疲れたばい。
普段いかに手抜き稽古していることか・・・。
遥か昔の初段時代に1日500本を抜いていたのが嘘みたい(笑
第一、あたしゃシートだしよぉ〜。
12セットといったら、5×12でたかだか60本だ。
だけど、本気のピーンと気が張った60本というのは、結構ちかれたばい(^^

これは私の愛刀。刀姿はバランスよくて均整がとれていると思う。
刃長二尺三寸三分六厘、うぶなかご、小乱れ混じる直刃(すぐは)です。
自分で使っていると分からなかったが、人が使っているのを見たら、
とてもよく判った。この私の刀、凄く青い。鋼が現代刀とまるで違うことが
傍で見ていて歴然だ。地鉄の鋼の色が青く深く澄んでいる。


居合で真剣を使うことで嬉しいのは、作者である刀工と共にいられると
いうこと。
これ、私個人の密かな喜びでもあるのです。


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金環日食

2012年05月22日 | アウトドア

昨日朝、日本各地で金環日食が見られた。
日本の広範囲で金環日食が見られたのは報道によると
「932年ぶり」とのことだ。
記録によると1080年12月14日(承暦4年11月1日)に金環食正見
が起きていて、中国奥地に始まり九州、四国、本州南半分を覆って
アリューシャン列島付近に達したらしい。

その後で有名なのは約100年後の1183年の源平の戦いの時に
起きた日食で、NEWSでも「その日食により源氏が驚いて負けた」
とか言っていたけど、やめとくれ(笑)
この話は、水島の海戦で源氏の軍が
びっくらこいたけど平家は
なぜか日食を
知っていたので遅れは取らずに逆に源氏軍を攻め
立てた、と世間で言われているオハナシのことだ。

wiki によるとこうだ。
「当時、平氏軍の拠点は讃岐の屋島にあった。平氏を追討するため、
寿永2年(1183年)9月20日に源義仲軍は都を出発して屋島方面へ
進軍していったが、閏10月1日、四国へ渡海する前に、水島付近で
平氏軍に敗れた。義仲軍を率いていたのは、義仲の武将足利義清・
海野(うんの)幸広である。
平氏は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、陣を
構築した。源平両軍の船舶が接近し、互いに刀を鞘から抜いて、今
にも白兵戦を始めようかという時、平氏の射手が義仲軍へ矢を浴びせ
かけて戦闘が開始した。平氏軍は船によく装備された馬を同乗させて
おり、その軍馬とともに海岸まで泳いで上陸した。最終的に平氏軍は
勝利し、義仲軍は足利義清・海野幸広の両大将や足利義長(義清の弟)、
高梨高信といった諸将を失い壊滅、京都へ敗走することとなった。
この勝利により平氏軍は勢力を回復し、再入京を企て摂津福原まで戻り、
一ノ谷の戦いを迎えることとなる。
なお、この戦いの最中に95%ほど欠けた金環食が起こったことが、
『源平盛衰記録』等の資料によって確認されている。」

不思議なのは、平氏がこうした軍船有効利用のトリッキーな戦法を
なぜ壇ノ浦では採れなかったのかということだ。
もっとも、壇ノ浦では圧倒的に源氏軍勢の兵数・軍船数が勝っている
ので、矢尽きた平家軍の壊滅はクラウゼビッツの理論を俟たずとも
時間の問題だった。要は「多勢に無勢」だったことが大きな敗因であり、
側面攻撃の陸地を押さえた源氏軍の戦術的勝利であったと思われる。
平家は上述の水島の海戦において高度な戦術的展開を見せている
のに、壇ノ浦では愚策のような展開をしているのも「兵力の差」という
物理的要素が強く影響していると思われる。
また、冒頭に書いたように、水島の戦いでは源氏が金環日食に驚いて
負けたというのは、富士川の戦いで平氏が水鳥の飛び立つ音に
びっくりして敗走したというのと全く同じく、後世の作り話であろう。
大体からして、武者である武装集団が日食に驚いて負けたり、鳥の
飛び立つ音に驚いて敗走したりとかではオハナシにならない。だが、
オハナシにならないことを面白く脚色することで当事者以外はお噺に
してしまうのが歴史の常だ。
源氏も平氏も、武者という連中は平安貴族のような歌詠みしてよすがを
過ごす連中とは違って、戦闘殺戮を本業とする連中だ。武士ではない
階層の一般感覚で作り話をもってきても根本からズレていることが
現代でも往々にしてある。その典型例がゼニカネに執着する心根で、
多数ヒットのサイト(youtube動画やブログ等)の事実を知ると「広告で
稼げるのになぜしないの」とかアドバイスしてくる人がいるが、私など
からすると「はぁ?」なのである。根本的に感覚が異なる。ところが、
なんでも金儲けに繋げる判断軸で物事を考えるのが一般的な心情
らしい。何とも理解に苦しむ、というか、感覚がよくわからない。
そして、噺は思いつきでいくらでも作ることができる。
たとえば、「水島の海戦で敗北した武将の海野(うんの)という名は、津地
という名と同じく、読んで字の如く英国海兵隊がラテン語で示すところの
    PER MARE PER TERRAM
であり、つまり「海と陸」を司る名を我が名としている。「海へ陸へ」
という軍事色の強い名なのであるが、実戦において海野は水島の
海戦で敗北を喫した。就中、名前負けの極みである。」
とまあ、このようにこじつけだろうと皮肉と悪意を込めて後世の余人は
いくらでも噺を作ることができるのだ。
そして、逆もまた真なりだったりもする。歴史的真実は、虚言に惑わされず、
物理的な事実の痕跡を冷徹に分析すること抜きにして見定めることは
できないのである。


昨日の金環食は900数十年ぶりに列島各地で見られた。
私の家内も朝近所の小学生から「おばちゃんにも見せて」と言って
専用グラスを借りて観てみたそうだ(苦笑。私は食事していた)。

横浜あたりは真ん中ズドンだね。
残念ながら、広島県は部分食となった。
NEWSとかを見ていると、子どもたちが「わ〜。三日月になった〜」とか
言っているのが微笑ましいというかおかしかった。月じゃないでしょ、月では(^^;





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心に残る曲 『M』(プリンセスプリンセス )

2012年05月21日 | 音楽

どうせyoutubeでも削除されてしまうだろうから、いまのうちに
紹介しておく(笑)

1990年になるかならないかの頃だったと思う。
居合の稽古の帰りにいつも仲間で寄っていた焼鳥屋があった。
そこにプリンセスプリンセスのポスターが貼ってあった。
「あ、赤坂小町」と私が言ったら、「よく知ってるね」とマスターが
言う。そして「この子、俺の姪だからよろしくね」とメンバーの
ある子を指した。最初冗談かと思っていたが、いろいろ訊いてみると
どうやら本当のことらしい。

彼女たちは最初所属会社の販売戦略路線ではまったく売れなかった。
インディーズ系のバンドが台頭してきた時代に歌謡路線と同じメジャー
戦略ってどうよ?みたいにうちのガッコのバンドの連中は言っていた。
チェッカーズはカルコークの頃の高校の時から実力あるバンドだったけど、
83年にメジャー商業路線で売れたので、「チェッカーズの女版?」なんて
感じで。けれど商業戦略は結果として成功して、最初からメジャーで
「創られたバンド」だったが、彼女たちは80年代後半に入り名実共に売れた。
インディーズのままだったら、奥居をはじめ彼女たち一人一人の才能は
開花しなかったかもしれない。80年代末期のインディーズとメジャーが
融合する音楽シーンという国内の空気醸造以前には、メジャーと一線を
画そうとするバンドが大勢いたからだ。まだJ-POPなどという名称がなかった
時代。←しかし水面下ではバンドマンたちは使っていた。半ば嘲笑に似た
含みを以て。ただし、これらの感慨は今でも定理に近いものがあると確信
している。けだし、売れる物が良いのではなく、人の心の歴史に残るのが
良い曲なのだ、と。


その焼鳥屋でマスターからプリプリのあるメンバーの生い立ち等を聞かされた
時から何年か経って、夜道をある人の部屋に向かって歩いていた。

その時、道に面した店からカラオケで女の子が歌う歌が漏れ聞こえてきた。
奥居本人が歌っているのではと思うくらいに上手かった。思わず立ち止まって
聴き入った。待っている人がいなければ、店に入ろうとしたくらいだ。
プリプリの『M』という曲だった。プリンセスプリンセスの曲の中では
一番好きな曲だった。
「きょんちゃん。もったいないよ、詩書きなよ。あたしがいい曲つけてあげるから」
奥居が言ってこの曲が出来上がった。


youtubeではいろんな人が歌っている。無論素人だ。
その中でもこの人の歌はいいな、と思っていた。
M プリプリ 復活記念公開 カバー

奥居の雰囲気が出ている。
けれど、本当はうたうたいなら自分調の歌いこみで曲はうたってほしかった。
インスパイアとは本来そういうもののように僕は思う。
それでも、篠崎愛ちゃんが歌う『M』よりずっとこの人のボーカルの方が
心に届く。
ただ、何が引っかかるかというと曲の一番のクオリティと二番以降の差が
ありすぎるのだ。何度も聴くとそれがよく判る。一番の感じのままで
二番以降からラスメロのサビまで行って欲しかった。感情表現も一番と
それ以降ではまったく違う。一番のみは最高にイイ♪


と思って、本家プリプリのラストステージの奥居の歌を聴いてみた。
M ~Last message~ プリンセスプリンセス / PRINCESS PRINCESS

なんなんすかね〜、奥居のこの良さというか世界観は。

ハスキーな声の女性が好きで、それを言うと「けいうんすく?」とか
からかわれたりするのだが、実は奥居香の声が一番私は好きなのだ。
(実は松田聖子ちゃんもとんでもなく本当はハスキーボイスだったりする)
ちなみに私のかみさんはアニメ声・・・。ハスキーとは程遠い(笑)

『M』は、きょんちゃんの実体験を詩に乗せた切ない心がよく表現されていて、
それを
はすっぱな奥居がよくぞ歌い上げたという名曲に仕上がっていると
私は思う。
徳永さんはじめ、いろいろな人がカバーしているが、本家奥居のが
私は一番好きだ。

こちらは、ベテランであるTHE NOLANSがカバーした『M』だ。
プリンセス・プリンセス カバー - 「M」 英語版


このところ、外国人によるJ-POPの逆カバーが流行っているが、
まさかシスターのノーランズが『M』をカバーするとは思わなかった。
他にも男性もカバーしているが、歌詞はこちらのノーランズの方が
よいように思える。
奥居のようなギュウギュウの直情的な失恋の苦しさではなく、まるで
竹内まりやの『September』のように軽いカレッジでの恋の終わりの
ような雰囲気に仕上がっている。これはこれでありのような気がする。
発音はアイリッシュなので、米語に慣れた日本人には少し音が
「立つ」ように聴こえるかも知れないが、訳詞はよいセンスだと思う。

心に残る曲というのは時代を経ても心にずっと残っている。
『M』が20年以上前の曲だなんて、はたと思って、時の流れの中で
まだ彷徨っている自分の心に気がついた。


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