渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

鉄を探る 〜日本最古の製鉄遺跡・小丸遺跡(広島県三原市)〜

2011年06月30日 | 日本刀

今はなき日本刀探求舎の一門下として、鉄の研究を個人的に再開している。
考古学の学識経験がないため、かつて大学で学んだ社会科学系に依拠しての
文献史学(考古学と史学はしばしば学問的に対立する)に頼るしかない。
また、大学や民間研究機関に属する学究の徒ではないため、フィールドワーク等
もできず、独学の限界性を感じる。

学会に属していないため、現在一般的に入手できる文献はどれも古く、例えば
『たたら製鉄と日本刀の科学』(鈴木卓夫/雄山閣/平成2年発行)にしても1990年の
発行であり、執筆自体はその数年前になされたと思われる。
この書は、発行の2年後に続く『作刀の伝統技法』(鈴木卓夫/理工学社/平成4年発行)
の素地としてだけでなく、日本の古代製鉄を探求する点において、積極消極含めて
参考になる深い研究考察を展開した書といえる。(内容的には誤謬、誤認も多く、
現代刀分析の書であり、古代製鉄の研究書ではないが、現在の日刀保がどのような
固定概念に固執しているかを理解するには良書といえる)
「たたら製鋼=良質な鋼」という思考の轍からは脱し切れていない点において
は大きな問題を残す。
そして、決定的な問題は(これはいたしかたないのだが)、この書が「古い」ということ
である。
この書が執筆された時点では、日本の製鉄の歴史の起源は、学術的には「5〜6世紀
以降」とされており、『たたら製鉄と〜』もこの学説に拠って論述されている。

平成2年(1990)〜平成4年(1992)の発掘調査により、広島県三原市八幡町から
とてつもない遺跡が発掘された。
これはこれまでの学説を根本からひっくり返すものだった。
三原市の小丸遺跡からは、3世紀の製鉄炉が発見され、これにより日本国内の製鉄は
弥生時代後期から開始されていたことが明らかになったのである。
当初「縄文まで遡るか」とも報道されたが、その後の年代測定により、平成7年(1999)に
弥生後期と比定された。いずれにせよ、日本最古の製鉄遺跡は現在のところ三原の
小丸遺跡の西暦200年頃のものとなっている。
これは、これまでの「日本の製鉄開始は6世紀の古墳時代から」という学説に根本から
の見直しを迫る一大発見だった。

広島・小丸遺跡 日本で最古の製鉄炉を発見 3世紀に工具類作る?
(1995年1月13日 朝日夕刊)

小丸遺跡(2004年5月14日 大阪夕刊)

製鉄のはじまり(日立金属)

私がここで注目し、今後の研究課題としたいのは、「日本(倭)の国内製鉄が
必要とされた原因」と「国内産刀剣の起源と主流の歴史は、輸入鉄材料=舶載鉄が
主か国産鉄か」という点である。
また、3番目のリンクは、小丸遺跡に関して、「マスコミに騒がれた」として、単にマスコミ
が騒ぎ立てただけで学術的見地はないかのようなニュアンスを読者に与えるが如き
主観的な恣意を感じる文脈として記載されており、それが日刀保たたらと深く関わる
日立金属の公式サイトによってなされている点を見逃せない。これは、現状の砂鉄還元
たたらでの製鋼を「伝統的で古式」であるとしたい企業の意図が内包されている。

砂鉄であるか、鉄鉱石であるかは、その後の国産和鋼のあり方を問う
重要な学術的な焦点である。
これは冶金学の面のみならず、堅牢性を具備した日本刀は「本当は何で
造られていたのか」という、日本刀の本質に迫らざるを得ない視点を
喚起する。


また、その後の調査で、今世紀に入り、続々と遺跡が発掘されている。

元岡遺跡群(福岡市教育委員会文化財部)

古代製鉄の研究

これらによると、福岡市西区の糸島半島の九州大学移転予定地から出た元岡遺跡
から7世紀頃のものと思われる大規模なコンビナート様の「たたら」が発見された。
そして、糸島には韓鍛冶(からかぬち)卓素の一族が関与したと思われる戸籍が
発見されている。
時期的には、百済滅亡に伴う百済人大量移入の時期であり、やはり、この一時期
大陸半島からの紗鋼鉄の輸入が困難(一種の経済封鎖)になった政治経済状況
が国産たたら製鉄の大規模工場建設に繋がっていったと思われるが、「古代製鉄
の研究」で筆者の奥野氏が「今後、冶金学、金属学、鉱山学など専門家をそろ
えた研究体制を作っても二、三十年はかかるに違いない」と記している通り、
学術的研究が一定程度の成果をみるには30年は軽くかかると思われる。
近年、邪馬台国の場所はほぼ畿内説が定説としての地位を得ようとしているが、
これなどは100年余に及ぶ北九州説との研究の拮抗があった。(私自身は
北九州→神武東征→ヤマタイ=ヤマト畿内屹立の説を支持する。
「邪馬台国=ヤマタイコク」は略字および類推読みで、『魏志倭人伝』では
「邪馬壹国」、『後漢書』では「邪馬臺国」と記したため後者から「台」の字を当て
たが、本来の読みは「ヤマト」であろう)

日本の鉄の歴史研究において、学識経験者にも多く見られる学術研究の弊害
としては、「たたら製鉄=良質の鉄」、「和鋼=世界に冠たる優秀な鋼」という
呪縛に凝り固まっていることが挙げられる。
学術研究には、私などが言うまでもなく、こうした先入観や偏執は瞼につけた
鱗以外の何ものでもなく、学問の真理探究の大きな弊害となる。
ただし、大抵の学者は理系にしろ、医学せよ、社会科学においてさえ「権威」
というものに弱く、そうした旧弊然とした価値観を包括的に解体しきれなかった
ところに、戦後日本の抵抗主義的社会運動の限界性を私は見る。
近代リアリズムの派生としての1960年代末期の全共闘運動のルネッサンス的
要素とアプローチに、ある種の「可能性の時代」を感じ取り、新たなる世界の
建設に期待した人間は多かったが(それはフランスのソルボンヌ大学を起点
として)、破壊が建設を凌駕するそのムーヴメント様式は、内実として、自ら
精神主義に陥り、学術においても「学問の真理探究」をスローガンやプロパガンダと
しては掲揚しながらも、ミイラ取りがミイラ以上に干からびてしまったというのが、
私自身の1960年代抵抗主義的社会運動に対する総括だ。
ゆえに、あの闘いは、政治的にも学問のあり方を問うという深層においても、
明らかに完全な「敗北」である。
彼らの敗北の後には、累々たる夢の屍と、象牙の塔の補強が古代遺跡の
スラグ(鉄滓=鉄屎(かなくそ))の如き残滓として残り、その後、雨後の
筍のように本質的には箸にも棒にもひっかからないような擬似国粋主義の
大衆的勃興というある種のファシズム状況を呼ぶに至ってしまっている。

日刀保たたらで操業に従事する方々や日々鍛刀に没頭して日本刀を探求して
いる刀工ならびに関係諸氏、そして日本刀を真に研究しようとしている
愛刀家や研究者には私は敬意を払うことを忘れずにいたい。
ただし、日本刀研究・日本における鋼の歴史の解明にあたり、「和鋼絶対神話」
という固定概念に固執して別な論説を排撃することは、百年の計として見た場合、
刀剣界の健全な発展には繋がらないと思えるのだ。
ましてや、たたらの鋼を使用して積層構造にした造りこみこそが「伝統的技法」と
するに至っては何をか況やと思量する次第なのである。「それは歴史の中で時
代が要求した一工法でしかない」と。一時代の中での全学連のゲバ棒と同じなのだ。
それに不朽性があるかの如き視点で普遍的に捉えようとするのは、科学的で
理知的な思考の発動とはいえず、ごく主観的な手前味噌の希望主義という
枠から抜け出すことはできない。
しかし、「日本刀の形状や存在意義は美術性の希求にこそあった」とする埒外な
誤認を以って他の日本刀研究者を排撃することを実行している者等は論外だが、
説の対立はあれど、真理探究と真相解明の視点に立つ限り、たたら神話信奉者
(概ね美術刀剣論者)と舶載鉄使用説支持者(概ね実用刀剣論者)の
両者の
確執は高次に融合して対立の止揚ができると私は信じている。
そのための前提としては、独善と先入観からくる固定概念を捨て、
歴史的事実を科学的に解明して認知する立脚の視座が必要となる。
私としても、なにも「たたら製鉄」の鋼が何が何でも悪いと言っているのでは
ない。
ただ、現今の日刀保の鋼で作られた刀があまりに脆いという動かせない現実と、
南北朝以降、とりわけ江戸期における先達の研究および太平洋戦争(大東亜
戦争)の際の多くの記録の符合を鑑みると、日本刀の本質を改めて科学的に
再検証する必要を痛感しているだけだ。

路が拓けるのは遠い。
あらゆる意味で、龍馬が望んだ日本の夜明けは、未だ到来しておらず、
今はまだ夜明け前の段階だと私は感じる
 。


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徒然日記引越し

2011年06月30日 | 一般

レンタルしていたさるさる日記が本日2011年6月30日12:00をもって
サービス終了となりましたので、こちらの日記に移動しました。
多くの方の閲覧、ありがとうございました。
今後はこちらgooでの「渓流詩人の徒然日記」をよろしくお願いいたします。

なお、画像・リンク貼りペースト不能等、動作不安定に時間を取られ、
旧日記のデータをすべてこちらの新日記に移動でき切れていません。
お詫び申し
上げます。
過去記事はHTMLデータですべて手元に保存してあります。
「さるさる日記」はキャッシュも切っているようですので、検索しても
過去ログはヒットしません。
追って、随時、過去の日記記事を新日記に移して行きますので、
何卒ご理解賜りますよう、お願い申し上げます。

                 2011年6月30日12:30  管理人@渓流

 

 


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アメブロのアクセス数

2011年06月29日 | 時事放談

面白い記事を見つけたので紹介します。

アメブロのアクセス数

なるほど〜(笑)

「電脳に人が支配されるという未来を先取りしたサイバーエージェントの
先取の気風には敬意を払いたいと思います。 」

いや、私は敬意でなく、警戒心を払いたいと思います。


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からかぬち

2011年06月28日 | 日本刀

「からかぬち」についてメモを取りながらお勉強。


「からかぬち」とは、弥生時代あたりから日本に渡来した朝鮮半島の
産鉄技術民の主に後世(4〜5世紀)の呼び名のこと。
日本刀の研究には「やまとかぬち」と「からかぬち」は外しては
通れない。
「からかぬち」は「韓鐵師(からかなじ)」「韓鍛」「韓鍛冶」「韓鍛人」
などの漢字があてられている。鍛錬の「金(かね)打ち」から来る。
当時の日本は統一されておらず、北九州と本州西端の一部を「倭」、
それより東の西日本は「東鯷(とうてい)」と呼ばれていた。

弥生時代の後期、朝鮮半島南部は韓(かん、から)といい、辰韓、弁韓、
馬韓に分かれていた。
AD313年に高句麗が南下侵攻してくる。そうした中、四世紀半ばに三韓
から新羅(しらぎ)、伽耶(かや、伽羅)、百済(くだら)という国が興る。
百済は高句麗の南侵に対し三国+倭国の連合で対抗しようとするが
新羅が高句麗に下ってしまい、百済と伽耶を侵略してきた。倭は伽耶
の任那(みまな)に日本府を置いてたびたび遠征し援軍を送る(当時は
「日本」という呼称も概念も存在しないので当時の日本府を何と呼んだ
かは浅学ゆえ不知)。
そもそも当時の国家は、現在の島国としての日本がイコール倭では
なく、北九州・朝鮮南部を中心とする一大共同文化圏がクニの主要な
範囲だった。日本に独立国家としての意識と概念と体裁ができるのは
律令体制に入る7世紀からだ。

5〜6世紀、多くの半島技術者が朝鮮半島から倭国に俘囚として、あるいは
移住者として渡来した。
その中には馬を連れて来た阿智吉師(あちのきし)、論語十巻と千字文
をもたらした和邇吉師(わにのきし)などがいた。
そして、注目すべき「からかぬち」がいた。
『古事記』の応仁天皇段には「また手人韓鍛(からかぬち)、名は卓素。
呉服(くれはとり)、西素(さいそ)二人を奉りき」とある。日本の記録で
からかぬちの個人名は古事記のこの記載が初見とされている。(『日本
書紀』の十五年八月条と十六年二月条に同様の記事あり)
AD372年、百済の王が東晋に遣使し「七支刀(しちしとう、ななつさやの
たち)」(AD369年製)を授かり、さらにこれの複製を倭の王に贈っている。

この頃、百済・伽耶・倭連合vs高句麗・新羅連合で対立していたが、
AD562年に伽耶が新羅に滅ぼされ、倭人は本国の島に帰ってくる。さらに、
AD660年には新興の唐が百済を滅ぼす。

AD663年、百済の残兵と倭国軍連合が白村江(はくすきのえ)で、唐・新羅
連合軍との決戦に臨むが、歴史的な大敗を喫してしまう。
結果、百済から大量の百済人が倭に移住してくる。
これは数百数千とかいう単位ではない。百済人貴族をはじめ夥しい数の
百済人が日本に移住した。
縄文時代の後期から稲作文化等をもたらした渡来人は、倭百済連合の敗戦
により一気に増大したといえる。

日本の中央政府は、今までの「倭」という語が実は属国である意味、
またあまり芳しくない意味を含むことに気付き、律令体制の整備と共に
国号として「日本」という名称を自ら選んで用いるようになっていった。

「からかぬち」は日本の鉄器文化に無視できない深い影響を及ぼした。
稲作や漢字や仏教伝来などと同じく、当時最先端技術だった韓鍛の製鉄の
技術を日本は積極的に援用しようと試みた。
渡来人は他には土器製作技術、農工技術、土木技術、養蚕、機織り、医学
などをもたらした。
倭国が「日本」になるにあたり、一番の歴史的改革は大陸の「律令制度」
を採り入れたことだろう。これにより日本は出雲、吉備、熊襲、隼人などの
独立勢力を完全消滅させ、統一された独立国家となった。

但し、何故日本では大陸型の効率が良い鋼の製法が普及しなかったのか
については、学術的な研究を俟つ。
それは単純に「輸入による良質の鋼が入手できていたから」という答え
だろうが、それが学説として正しく導き出されて斯界の常識となるには、
もう少し待たないとならないかも知れない。
いずれにせよ、考古学、史学界で言われるところの「謎の4世紀」がきちんと
解明されないことには、定見とするのは今の段階では危険だ。
とにかく、現状は、大型の天秤鞴による「たたら製鉄が最良の鋼を造る」という
誤った認識が定式化している段階を抜け出てはいないことだけは確かだ。

私個人としては、古代から日本刀に適した材料は「産鐵」で得られ、
たたら和鋼は文字通り「産鉄」で供された、という認識が強い。
「金(かね=はがね)の王(おう)哉(なり)」と「金を失う」では、中身が
まるで違うどころか位相が180度対極にある。
略字の「鉄」は近江守藤原継廣の新刀に「地鉄ヲロシ以鍛之」という銘の
作が存在するし、虎徹興里の作にもみられるので、江戸初期の寛文時代
(1661〜1672)には既に使われている。「卸し鉄製法」の作にその字を使う
とは、まるで鐵が鉄となった歴史の真実を見抜いていたようにも思える。

国産和鋼については、白村江での大敗から国産化の必要が生じたように、
江戸期も鎖国によって鋼を国産でまかなわなければならなくなったこと
から永代たたらが登場した。戦後も、日本刀素材が枯渇することを防ぐ
ために日刀保たたらが1977年に復活した。
たたら製鉄は、いわば「已むに已まれぬ事情」の落とし子だ。
たたら和鋼に共通するのは「非常に脆い鋼である」ということだ。
日本刀が古来から外国産の鋼を主としていたことが事実だとすれば、和鋼
たたら製法神話崩壊となり、これはかなりの事件だ。
だが、性能面からみれば、戦時中の東郷ハガネによってこの事実は証明され
てしまっている。また、同時に内外の古代からの遺跡や文献からも、日本刀
の主材料は国産和鋼ではなく、輸入による鋼を使用していた歴史事実が解明
されつつある。
しかし、何故だか、和鋼とたたら製鉄が日本刀の歴史の主役であるとする
これまでの説を曲げようとはしない勢力が斯界では未だに権威を持っている。

からかぬち卓素の系譜は、その後、九州北部の糸島の「嶋郡」に居住し
倭国の製鉄に影響力を持ったようだ。
律令制以降に制定された古代の戸籍にある戸主「嶋郡大領」の「肥君
猪手(かのきみのいのて)」の母の氏名として「宅蘇吉士須彌豆売(たくそ
きしすみずめ)」というのがある。
さらに、妾(も戸籍に入り記載される)の一人も「宅蘇吉士橘売
(たくそきしたちばなめ)」と記載されている。つまり両名の祖は
「宅蘇吉士(たくそきし)」であり、からかぬちの血脈であることを示す。

「吉士(きし)」は、馬をもたらした阿智吉師(あちのきし)、論語十巻
をもたらした和邇吉師(わにのきし)の名にもあるように、渡来人を表す
名だ。
「吉」の漢字の原意は漢和字典を引くと明らかだが、「士の口=士の言葉」
であり「先生の教え」という意味を表す。その「吉」にさらに「士」が
加えられた「吉士(きし)」という言葉が古代渡来人を称する名称だった。
最先端技術と学識を倭国にもたらした渡来人が当時どのような位置を
占めたかを垣間見ることができる。

日本の古代製鉄の歴史についてはこちら
製鉄技法の渡来と古代考察の陥穽(かんせい=落とし穴)
をご参照ください。

日本刀を深く的確に研究するためには、日本の歴史と周辺諸国の歴史と
文化を理解しないと達成できないある「ハードル」が存在することを痛感
する。


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日曜劇場 「JIN -仁- 完結編」最終回

2011年06月27日 | 映画・ドラマ


公式サイトhttp://www.tbs.co.jp/jin-final/

昨夜日曜劇場「JIN -仁-」の第二部の最終回が放送された。
第一部の時から欠かさず観ていた。作りが丁寧で、近年珍しく
とても好感が持てるドラマだったからだ。
原作も全巻持っている(実は家内の所有)。

CGも素晴らしいが(第二部はCG場面では原色のコントラスト
を強くし過ぎる加工ぎみで、ややそれが目障りだが)、細々
した刀や小道具の登場アイテムも時代考証がしっかりしている
最近では珍しいドラマだった。
そして何よりも役者がいい演技をしている。
原作とはだいぶ違うので毎回次回はどうなるのかと気を揉んだ。

このドラマは江戸の人たちの明るい面に原作以上に光を当てている。
「江戸の人たちは笑顔が上手だから」と大沢演じる主人公南方仁が
無理に笑顔を作ろうとしたり、その笑顔の仕草を橘咲が真似ようと
してみたり、原作にない演出に、このドラマ独自の視点と温かみを
強く感じる。
個人的な思い入れとしては、私自身の血が江戸とは深い関係で、
一族同士で官軍と幕軍に分かれて戦ったのを除いたとしても、
92年後に生まれた私が育って暮らした場所が旧江戸で、高校大学も
江戸のど真ん中だし、社会人になってからの仕事場もモロ江戸の街跡
(虎ノ門)だったので、このドラマには思い入れが強かった。
江戸側の血族は、上野の御山の戦、函館の後には新政府に出仕し、
逓信省に入り北品川に住した。江戸期には本所吉岡町に住んでいた。
役目は江戸城切手門番頭で蔵米取りだが知行換算すると石高は凡そ
「JIN」の橘家と同じ位になる。

原作とドラマでは大筋においては同じだが、かなり設定が異なる
部分もある。原作・ドラマとも未解決の整合性のない部分もある。
かいつまんで整理すると以下の通り。

<原作>
・上野の戦の最中に南方仁は橘咲に求婚、咲はそれを受ける。
後に仁は橘家に婿養子で入籍。

<ドラマ>
・仁は咲に求婚するも、「私個人よりも医学のために先生は必要」と
結婚を断られる。仁が現代に戻った後、仁の存在は歴史の「修正力」
で消去されており、足跡だけが現代に残る。

<原作>
・龍馬が書いたのは史実通り「船中八策」。

<ドラマ>
・龍馬が書いたのは仁から教えられた保険制度を盛り込んだ
「船中九策」。仁が現代に帰った後、それは医療費が0円という
シーンで描写され、仁の存在が消されても足跡が残った証として
表現されている(現代病院で「東洋内科」の表札があるのも同)。
 

<原作>
・橘恭太郎は上野の戦争に参加せず、死亡。

<ドラマ>
・恭太郎は上野の戦争に参加。だが、連れ戻そうとした咲が
負傷したことにより(これが深い意味を持つ)、戦を放棄。
明治まで存命し、明治時代の橘の家の写真に咲と安寿と共に
洋装で写る。

 
<原作>
・未来(みき)は出てこない。

<ドラマ>
・仁の恋人未来の手術失敗のトラウマを持つ仁が第一シリーズで
の負い目の精神背景として描かれるが、完結編のラストですべて
説明。未来は未婚の咲が養女にした野風の子安寿の子孫だった。

(コメント)
安寿のことを「祖母」と説明する現代の未来がドラマ最終回で
登場する。
安寿は幕末1868年生まれ。2010年設定現代の未来が孫だとすると
年齢が合わないが、これは、養子もしくは安寿が高齢で養子を
取り、その子(男子)が高齢で女子を生ませた、もしくは更に
養子を取ったとすれば不都合は生じない。
ただ、ドラマの現代の戸籍制度がリアル社会と同じだとすると(我々
とは異なるパラレルな世界に帰って来たとの設定だが)、やや問題は
残る。
つまり、昭和23年以降は日本の戸籍は「家制度」はなくなった。
だから、咲が野風の子(安寿)を養子とした場合、未来の親は
戸籍上の戸主であるところの橘恭太郎家の子孫とはならない。
つまり橘家当主の子孫とはならないのだ。
しかし、江戸期と同じ屋敷跡地に橘医院があり、「安寿が先祖」と
いうのならば、いつの時代からか、橘恭太郎筋の直系子孫(血の繋がりは
関係ない)がそこの住居の主ではなく、子孫である恭太郎の妹咲の筋
=安寿の子の筋が橘家の住居を相続(あるいは居住)したことになる。

いずれにせよ、橘咲の養子の安寿の孫が未来というのは、
安寿(女子)→実子の女子→という流れは年齢的にはあり得ず、
安寿→実子の男子→父高齢時の実子もしくは養子=未来という
設定ならあり得る。

他にもいろいろ原作とドラマでは設定が異なり、各々整合性の
ないところもあるが、割愛。

ただ、その場合も、橘本家を恭太郎筋が継いでいないという設定に
なってくるので、これの解決の道は

1.恭太郎が明治初期以降に早世→橘咲が女性戸主(まれに存在する)
として東京市士族橘家を継ぎ、現代まで橘本家は江戸期と同じ地所に
住す。
2.恭太郎筋の本家は他所に転居。代わって妹の咲-安寿筋が江戸期の
屋敷跡に住す。
3.戸主橘家の本家とその戸籍に入っていた安寿が同居。戦後の戸主
→筆頭者(所帯単位)となっても恭太郎子孫と安寿子孫が同居。
4.安寿が咲の死後、恭太郎家に養子縁組→本家として居住。

という設定が導き出される。
しかし、皇居まで焼けて被災122万戸だった1945年の東京大空襲で
橘の家は焼け出されなかったのだろうか。
元幕臣の血筋が江戸期と同じ屋敷の跡地に住するというケースは
現実世界では皆無に近い。
なぜならば、江戸期の住居は「拝領屋敷」であり、官軍新政府と
なってからはすべて召し上げられたからだ。
だから、考えられるケースとしては、明治期の早い時期に橘家が
元の江戸時代の拝領屋敷の土地を個人で購入したケースしか現実には
あり得ない。
「うちは代々ここで医院をしていた」というドラマ最終回での未来の
言葉にあるように、明治の初期に土地を買い取って、そこに住んだ
という設定と思われる。

ドラマの設定とラストシーンは原作と大幅に異なる。
原作でのラスト間際、官軍が診療所に押し入るシーンで、咲が
和宮から拝領した櫛を見せて追い払う場面がある。
それは「公武合体」を意味する象徴的な下賜された一品だった。
ドラマでは、恭太郎に対し仁が訴える。
「貴方が守ろうと命を掛けて来たのは徳川ではなく、橘の家では
なかったのか」
恭太郎は「ガーン!」となり、自分の本心に気づく。
原作では過分に当時の時代状況にマッチした政治背景を描いて
いる。つまり、勤王も左幕もなくそれを超えるものとして生きる
ことの大切さを訴えた原作のクライマックスに対し、ドラマでは
皇室の扱いは禁忌として一切触れずに、「守るべきは徳川ではない」
というテーマを「家族愛」とリンクさせて描写している。
私は、ドラマの仕立てには、どうにもいかにも現代チックなマスコミや
スポンサー(ブルジョアジー)に阿る姿勢が見え隠れして、単純には
首肯できない。

なぜならば、原作ではとっとと上野戦争に不参加を決め、刀までも
腰から捨てた恭太郎に死を呼ぶことで複雑な「武力放棄の悲哀」を
描写するが、ドラマでは上野戦争に参加しながら、女子(おなご)で
ある咲が戦場に兄を捜しに来て被弾した(あり得ない程非現実的)こと
により恭太郎は戦線を離れる決意をしたからだ。
そこには、どうにも陳腐な安ドラマ的な「家族愛」で幕末のあの情勢を
オブラートに包んで「あの戊辰の役は権力闘争であった」というドラス
ティックな本質を隠してしまっている。まあ、ドラマだからしかたが
ないといえばしかたがないのだが。
映画だったらこのような描き方、脚本は許されない・・・て思ってたら
やっぱりこのドラマの脚本は女かよ(-_-)

(以下の段は私個人の女嫌いの発露ですので、<いや、マジで
最近の凛としたところのないゴロニャン女やデレデレ男って大嫌い
なんだってば>読み飛ばして下さい)

別段ね、女性を蔑視する訳でもなんでもないのよ。
ただ、作り手の手法を見ていたら、どこかに「女みたいな」とか
いう部分て見えちゃうのよね。
俺個人の思い入れだけど、そういうのってプロの仕事ではないと思う。
よくあるじゃない?一億総著述業勘違いの現今では。ブログなる物でも。
くっだらない文章書いているのが大抵は女。
女の文章は大抵読んでいて「女」だと分かる。女言葉を使わなくても。
市井でのブログ群では、まず多いのが下品な体言止めの連発がほぼ女の
書き手だ。
そして、「○○といえば、△△!さすがです」とかいう陳腐全開の文章も
まず女。「最近のおすすめといえばこれ。」や「ご趣味は○○だとか。」みたい
なのね。
そして、下らんブログはどんどん自分大好きのナルちゃん文章の羅列に
なって、大抵はメシネタのみで文章自体も「小学生か?」みたいな駄文で
知見も何もなし。
一般人はまだ趣味で勝手に書いているからいい。俺もそうだし。
ただ、モノカキのプロがそれやっちゃアカンやろ、と思える。
昔の文壇の女たちはそういうことを一切感じさせないで女性独自の知性を
文章に滲ませていた。
今の女は、まるで安キャバのねーちゃんみたいなゴロニャン文章を
書くのが女らしいとか思ってるのか、どうにもオツムの中身がまずそうで
いただけない。
分かり易く言うと橘咲さんとは対極にいるのが昨今の女なんだわ、これが。
いや、冗談ではなく。
男も草食ってる系のつまんねぇ野郎ばっかだけどな。
野郎どもが食ってるのは道草かと思っちまう。

さて、ドラマ「JIN -仁-」で特筆すべきことに、役者の演技が挙げら
れる。
橘咲役の綾瀬はるか(広島市出身)は、原作の咲とは似ても似つかない
のだが(原作の咲は離れ目系)、独自の咲を極めてハイレベルな演技で
醸し出していた。プロだね。
しかも、現実では本人はポヤァ〜ンとした「変人」というか不思議系の
人なのに、もうドラマの中では原作以上に旗本橘の娘、という感じだった。
最後に仁に抱きしめられた時も、「医者がそんなこと言ってどうするの
ですか」と、喜びを殺して仁の心の言葉を噛みしめながらも嬉しさに
満ちた気持ちのまま仁を諭す(ここ名場面。咲の表情の変化に注目)。
原作では一途に仁に付き従うのが咲だったが、ドラマの咲の方が
アイデンティティにおいて格段に味がある。綾瀬、なかなかやる。
映画『おっぱいバレー』での演技も良かったが、古い時代のいい女の
役作りが巧いのか?

そして対照的なのが、ドラマの南方仁そのもので、原作ではドジながら
ドッシリとした面が強いが、大沢の仁は頼りなくて、悩んで、しかもいつも
周りから勇気づけられたり背中を押されたりしている。
この演技が大沢が実に巧い。役を離れた大沢とあまりに違うのでこれも
プロの仕事だ。

だが、この大沢の仁の演技が最後の最後に意味を持つ伏線となる。
最ラストシーンは、脳腫瘍で橘未来が病院に運び込まれ、その執刀を
現代に戻った南方仁が名乗り出て、執刀を始めようとする手術室の
シーンでエンディングとなる。いいねぇ。
そして、そこに立つ仁にはもう迷いはない。江戸で多くの経験をして、
泣き、笑い、人を愛し、傷つき、人の命の重みと自分の役目を深く自覚し、
人間として大きく成長した仁となっていたからだ。

このドラマ、私個人はとんでもない名作だと思う。
さらっとしていた原作の終わり方に比べて、かなり胸に迫るラスト
の展開だった。
あるテレビの調査によると、「歴史に残したいドラマ」の1位に
輝いたそうだ。
ちなみに第2位は「3年B組金八先生」だという。

でもこのドラマの脚本に不満は残る。
原作では、仁と咲は結ばれて幸せになった。
二人に子どもはできなかったが、共に添い遂げられた。
二人は不幸な過去を持つ喜市少年を養子にしている。
ドラマでは仁と咲の二人は別れ別れになっただけでなく、過去の
歴史から仁の存在自体が消去されてしまった。
『時をかける少女』の「土曜日の理科の実験室」のように祈る
南方仁は江戸時代に戻れなかった。「絶対に戻ります」と咲に約束
したのに。仁は「咲さん、ごめんなさい」と泣きながら崩れる。
(もうこのあたりからじわじわと涙腺緩む)
かろうじて咲の記憶にのみ仁の残像が残り、それが消え去るのを恐れた
咲は、いつの時代かわからないどこにいるのかわからない人へ手紙を
残す。自分が心から愛していた人への手紙を。原作のように二人は
添い遂げさせてあげたかったがぜよ。
142年後、その手紙を咲の子孫の橘未来から受け取った仁は、
その手紙を読み号泣する。おい。俺も泣けたぜ。バッキャロー。
おなごの脚本にしてやられたわい。
おいらのイトコは某大新聞の重役なんぞやってるが、やはりこのドラマ
の大ファンで、先月都内でこのドラマの話題になった時、彼が言う。
「予想として、咲さんが未来さんに繋がるのではないかなぁ」
私は「ええ〜?」と答えたが、こちらも読みに鋭い兄貴にしてやられた
わい。

心に残る作品だった。
このドラマが記録的な高視聴率を得たのは、日本人が忘れかけていた
良質な心づかいを江戸期の人々を通して描くことにより、視聴者が「心の
ふるさと」に似た郷愁めいたものを感じたからではないだろうか。
タイムスリップした南方仁が、現代医療で江戸時代の人を多く救いながら
も、実は江戸の人から多くのことを学んだという仁の視点に「相互の理解」
と「心の不朽性」が存在し、それを描くことで観る者に大切な何かを運ん
できたのだと思う。
ドラマを観る人たちは、まるで自分が江戸時代にタイムスリップした
ような気持ちになって感情移入し、仁友堂の人たちと共に生きている
錯覚が生まれたのではないか。
それは同時に、我々日本人に心のふるさとの旅をこのドラマは与えて
くれたことにもなる。
観終わった後の清涼感たるや、稚拙な筆力の私には表現できない。

このドラマ作品は世界80ヶ国で放送が内定しているという。
人の心のふるさとへの時空を超える旅のチケットは、龍馬が求めた
ように国境という垣根を越えて、世界の人々にも届くのだろうか。

南方仁役の大沢たかおは、咲からの手紙を事前に知りたくはない
とのことで、彼の台本の手紙の部分だけは白紙だったという。
ラストシーン、大沢たかおは本番で初めて咲からの手紙を読んで
号泣する。
大沢仁が見せた涙は本物の涙だった。

橘咲が仁にあてた手紙をここに記す。
(江戸の旗本言葉ではなく現代語ではありますが)

○○先生へ
先生 お元気でいらっしゃいますでしょうか
おかしな書き出しでございますこと 深くお詫び申し上げます
実は 感染症から一命を取り留めたあと どうしても先生の名が
思い出せず 先生方に確かめたところ 仁友堂には そのような
先生などおいでにならず ここは わたくし達がおこした治療所だと
言われました
何かがおかしい そう思いながらも わたくしもまた 次第にその
ように思うようになりました 夢でも見ていたのであろうと
なれど ある日のこと 見たこともない 奇妙な銅の丸い板を
見つけたのでございます
その板を見ているうちに わたくしは おぼろげに思い出しました
ここには 先生と呼ばれたお方がいたことを
そのお方は 揚げだし豆腐がお好きであったこと 
涙もろいお方であったこと
神のごとき手を持ち なれど 決して神などではなく
迷い傷つき お心を砕かれ ひたすら懸命に治療に当たられる
仁をお持ちの人であったこと
わたくしはそのお方に
この世で 一番美しい夕日をいただきましたことを 思い出しました
もう名も お顔も 思い出せぬそのお方に 恋をしておりましたことを
なれど きっとこのままでは わたくしは いつかすべてを忘れてしまう
この涙のわけまでも失ってしまう
なぜか耳に残っている 修正力という言葉
わたくしは この思い出を無きものとされてしまう気がいたしました
ならばと 筆をとった次第にございます
わたくしがこの出来事にあらがうすべはひとつ
この思いを記すことでございます
○○先生
改めて ここに書き留めさせていただきます
橘咲は 先生を お慕い申しておりました
                         橘 咲


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安芸国にて気銃遊戯

2011年06月26日 | アウトドア


4ヶ月ぶりの気銃遊戯に御座る。
この銃はフィンランドのバルメ。

電動ブローバック。
一般的には「電動ブローバック」と呼ばれるものは電気で
機械をスライドさせるだけで、どこもブローバックして
いない。だから「ブローバック」というのは誤りで、正確
には「電動スライドアクション」だった。
このバルメはなんとホンマもんのブローバック。

発射用のピストン&シリンダーの上部に、コッキングボルトを
作動させるためのエアシリンダーと実銃のようなピストンロッドを
装備している。

ピストンロッド

「玩具でそこまでやるか!」というような機構。
ま、いわゆる変態ですな(^^;

わくわく倶楽部への本日の参加は40名ほどだったのですが、
午後からの大雨予想で、半数以上が帰宅しました。
残った10数名の有志で、フラッグ戦ではなく赤・黄に分かれて
の殲滅戦をやりました。結局雨降らず。

左が私。

これがことのほか面白い。5対7〜6対6程度でのゲームです。
狙撃手(別名PPスナイパー)の独壇場という場面が多く、
私は背中を射抜かれたり、耳直撃弾くらったりした。
私もやられっぱなしというのもなんなので気を入れて、走り
ながらマグチェンジして横に回りこんで射撃したり、大いに
動きました。1ゲーム4人討ち取りや、何ゲームも狙い撃ちされた
PPスナイパーの背後からビシューッとも(本人曰く「袈裟切りに
切られたみたい」)。
ラストゲームは皆さんが土手上から見守る中、一人、また一人と
討ち取って、最後は一騎打ちで、側面から忍び寄った私が敵の
横腹にシュボボッと。
なんだか、大昔のエアコッキングガン時代のサバゲを思い出す
ような楽しいゲームでした。
これ、人数が20名以下で少ない時は面白いかも。
土手上で観戦できるのもいいね。観戦するだけでも、各人の動き
が見えるから楽しい。

テントの下にはこれ。

震災義援金受付が終わるまで私たちは続けます。

午後ゲーム参加者有志。Bee MAX + α


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移設作業 〜さるさる日記からgooブログへ〜

2011年06月25日 | 内的独白

さるさる日記自体が消滅してしまうので、日記の移設作業をしている。
知人のアドバイスも参考にして、いろいろなレンタルブログを
あたってみた。
ブログ自体は「渓流詩人の散歩道」と「たまたま玉日誌」で二つ程
管理しているのだが、これはココログというサービスで、作動が重い
のが難点だ。利点はテンプレートが豊富なこと。

新日記は検討した結果、機能は少ないがgooブログを借りること
にした。
さるさる日記のよかった点は、当時ブログなるものは存在せず、
テンプレートもないため、それが逆に大キャンパスに自在に文字を
書くようなダイナミックさを獲得した。
(ブラウザの右上□をクリックして画面をモニター一杯に広げると、
さるさる日記のダイナミックさがわかります。
仮にブラウザ一杯に広げて、下の方の過去記事を見てみてください。
このような視覚的広がりはブログでは無理なのです)

ネット上での文章編集は改行を適宜行なわないと読みにくい。
よくネット文章を書き慣れていない人は、一文を次の句点
までだらだらと改行せずに繋げてしまうが、画面が広がる
パソコンのモニターでは非常に読みづらい文章になる。
塀の中に長く入っていた浦島太郎のおっさんのS元議長のブログ
など読めたものではない。あれでは理論以前に、人心を掌握する
ことなど夢のまた夢だ。

さるさる日記にはこの広大な大屏風に自由に自分で改行を
行なって書けるという楽しみがあった。だから、さるさる日記
でも改行や文章書きに慣れない人はダラダラと一文を繋げて、
非常に読みにくい日記になっていた。
ネット上の文章は、それが掲示板であろうとサイト文章で
あろうとメール文であろうと、書き手がリターンキーで
適宜改行するのが基本中の基本で、それは読み手への礼儀
でもある。

しかし、さるさる日記とは違い、2005年頃から流行し出した
ブログというものは、インターネットに不慣れな人向けに開発
されたツールなので、段枠で仕切られるフォームが多い。
つまり、さるさる日記のようにモニター画面一杯に広がる背景
の好きなところに文字を書いて大きな画像を貼ることができない。
さるさる日記の閉鎖は実に惜しまれる。
ブログというシステムは、見た目には整っては見えるが、とても
こじんまりとして、視覚的にはダイナミックさに欠ける。
それも時代というものなのか。


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渓流詩人の徒然日記

2011年06月24日 | 一般

レンタルさるさる日記が6月30日でサービスを終了しますので、
「渓流詩人の徒然日記」は7月1日から以下のURLに引っ越します。

(新)渓流詩人の徒然日記
http://blog.goo.ne.jp/kelu-cafe

現在、過去記事移設中です。

なお、多くの方から、コメントがつけられる「ブログ」にしてほしい
とのご意見をいただきました。新日記ではコメント機能付にしようか
とも検討しました。
また、ある時は「コメントもつけられない日記で何好き勝手に自分の
理屈を振り回してるんだ」との御意見も賜りました。
大変申し訳ありませんが、「渓流詩人の徒然日記」は団体や芸能人、
著名人のオフィシャルブログなどではなく、あくまで市井の一個人の
日記、独白ですので、今後もコメント機能は設置しない予定です。

コミュニケーションにおいては、私本人が人とはじっくりとお話し
したいという希望があるのと、よく世間一般のブログにあるような
賛同の意を述べるだけだったり、簡易な一言コメントで流されるのが
非常に好きではない。
これは私個人の感性なのだからどうしようもない。
それをもって「コメントつけられない日記で云々」と言われても
困っちゃうんです。
仮に個人の独白である日記について一言コメントされても、それに
対するコメント返信をするつもりもまったくありません。日記は
日記で備忘録ですし、思うところあれば編集もすれば削除もします。
利益団体の宣伝サイトでもありません。あくまで個人の日記です。
ですので、この点のみはご期待に添えませんのでどうかご諒解ください。

ご意見やコメントをご希望の方は、別途掲示板3個所、コメントが
できるブログ「渓流詩人の散歩道」をご用意してありますので、
そちらにコメントしてくださるよう宜しくお願い申しあげます。
どんな御意見でも承ります。
掲示板、ブログでのご質問、ご意見等には誠心誠意お応え
したいと思います。
(散歩道は日記と重複することもありますが、主に趣味系列
の話題を載せます)

なお、メールにてもご意見を承りますので、よろしくお願い
申し上げます。

渓流カフェトップページ
http://kelu-cafe.com


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日本刀の堅牢性 〜わが短刀と軍刀サイト〜

2011年06月23日 | 日本刀

この短刀を購入したのには、実は訳がある。


(過去記事)
無銘短刀の記録 〜その1〜
無銘短刀の記録 〜その2〜
無銘短刀の記録 〜その3〜

江戸期の拵(こしらえ=外装)入りで、差表に笄(こうがい)、差裏に
小柄と小刀がついていながら格安価格だったこともある。
しかし、それよりも、刀屋さんが「刀身がかなり傷んでおりますので
外装を楽しむためのツナギにとお考えください」と言っていたその
刀身そのものに注目したのだ。
刀屋が示す写真ではそれとははっきりとは判らなかったが、ピンと
来るものがあった。美術的価値がないので、刀身はタダ扱いである。
(今夜私が撮影。縮尺をかけたため若干歪んで見える)

刃長28.8センチ。九寸五分。短刀の別名でもある九寸五分である。
ハバキ上10センチのところの鎬を蹴った(鎬のラインを割って
研いでしまうこと)痕は購入前に確認していたので、素人が
砥石に当てて押したことが判る。

私が注目したのは、棟にあった無数の疵だ。

何か堅い物に刀身を打ち付けた痕である。
私の大刀は新作現代刀を除き、すべて実戦を経た疵痕が刀身に
残っている。それは矢目と呼ばれる矢を受けた痕だったり、
刀を弾いた棟の切れ込み痕だったりする。これらは尚武の証として
日本刀界では美術的価値は下がらない(そんな金額絡みの価値観には
興味がないのだが)。
これらは折れない頑丈な刀であることの証明であり、むしろ歓迎すべき
ことだ。
だが、この短刀は争闘の疵痕ではない。道具として何かを強く叩いた
感のある疵痕なのだ。

しかし、以前にも書いたが、通常の刀で棟をぶっ叩くと簡単に
日本刀は折れる。短い短刀でも同様だ。
だが、この短刀は73箇所にも渡り無残な食い込み疵があるにも
拘わらず、反りも目立つほど延びていなければ、折れもしていない。

この疵と錆の状態により美術的価値は無に等しい。
だが、この疵は私個人にとっては大きな意味を持つ。

戦時中、旧来の日本刀を仕込んだ軍刀が多く折損する報告があり、
軍部は本腰を入れて強靭な日本刀造りに腰を上げた。
元々、新刀以降の日本刀は折れやすいものだ。これは幕末に水心子
正秀も研究している。
帝国陸軍が課した耐久試験は熾烈を極めた。検査方法は、墜撃試験、
巻き藁切り(斬りではない)、そして鉄板切りという三段階だった。

この試験機で12kg程のオモリを何度も落下させる。それにより刀の
折れ曲がりを試験する。まず、平打ち、次に刃打ち、そして棟打ち。
大抵の刀は折れたり曲がったりする。
この過酷な試験をパスした物のみが軍刀身に合格とされた。
仮にガラスのような脆い現代刀でこの試験をしたら、殆どの刀が
「ハイ、サヨウナラ」だ。また、仮にそのような刀を武士が腰に
して斬り合ったら、自分の命がサヨウナラだ。死ぬのは厭わないが、
役目も果たせぬ場合、士道不覚悟も甚だしい。誰がそんな刀を
好き好んで自分の差料などにするか。
軍刀は古今東西、日本刀の究極の性能を追求したものであり、
偏執的美術刀剣論者は、戦後GHQへの対策である一過性の「日本刀
美術刀論」を歪曲して日本刀を芸術の代表であるかの如く捉える
ことにより、日本刀から本質的存在意義を意図的にどんどん乖離
させようとしている。ゆえに、真の日本刀のあるべき姿を希求した
軍刀をあらゆる手で排斥しようとする。

しかし、日本の歴史の中で、実用に一番信頼が置ける日本刀は軍刀
である。
そして、究極の論としては、本来、日本刀とはすべてが「軍刀」なの
である。つまり、モノノフが手挟む軍刀(いくさがたな)なのだ。
それはある時は使用を前提とはしない象徴的な存在として求められも
しただろう。江戸期の殿中での小さ刀や宮中での儀仗、あるいは戦時中の
戦闘機の飛行士や海軍の短剣などがそれにあたる。
だが、本質は、「杖刀人」(じょうとうじん)の首(おびと)として
朝廷に仕えた武人が持つ武器である。

私の短刀の話に戻る。
刀屋さんが「ツナギ代わりに」と言うこの刀身は、あまりに棟打ちの
疵が多いのに多少驚いたが、光に透かしてみて、特徴的な刃文に
目が釘付けになった。
無銘で錆身で地肌も判別がつかない。
しかし、刃文はこうだった。


「あ・・・」と思った。
典型的な特徴、蟹の爪だからだ。
そして、あることを思い出した。
先述の軍刀サイトにあった
「日本刀の常識を問う」というページの
中の記載が記憶に蘇ったのだった。
そこには、日本刀の造り込みとして心鉄の有無についての検証の
中で、小林康宏と並んで備前長船祐定が紹介され、顕微鏡による
断面図と共に次の一文があった。

一枚鍛え:祐定(舶載炒鋼、焼入に工夫)、祐定は舶載鉄の
長期使用を裏付ける。


改めてサイトを確認し、唸った。
私の短刀が祐定であるとするならば、外来の精錬鋼を用い、無垢
ながら堅牢性の高い(いや、むしろ良質な鋼を使っているため無垢
だからこそ堅牢な)刀身ということになる。
そして、この堅物に叩き付けた無残な無数の棟打ち疵は、堅牢性を
証明すると同時に、氏の研究の祐定部分の証左ともなる。
私は個人的に「本質的な日本刀」を入手した喜びもさることながら、
私心を捨て、これがひとつの検体として、些少なりとも氏の研究の
一助にはならないだろうかと思うに至った。
研ぎにかけない限り地肌がはっきりしないので祐定との真贋鑑定は
出来かねるが、少なくとも、皮肉にも過去の所有者によってかなり
傷めつけられた(しかも73箇所も)結果、堅牢さは十二分に確保して
いる刀身であることは今の状態のままの方が証明できる。
だが、祐定であるか否かの真贋を判定するためには研ぎ上げねばなら
ない。
研ぎ上げる場合は、鎬を蹴っている部分を含めて、棟の完全整形まで
完体に再生させることを視野に入れていたが、検体として残す場合には、
棟だけは衝撃耐性の証左として疵を残したままの研ぎ上げという選択
の余地もある。

祐定についてもう十分な資料が揃っているならば、検体としての役目は
ないので完全体を狙った研ぎ上げでOKという方針が選択可能だし、研究
資料の一端になるのであれば、どのような方向で研究に寄与できるか、
これはご本人に方針を仰ぐとしよう(^^)


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鳥取出張

2011年06月22日 | 外出・旅

一昨夜の食事は、ホテルの裏にあるカウンターだけの
小料理屋に行った。
酒も結構飲んで一人5000円強。
東京から来た会社の若い衆は滅茶苦茶喜んで、美味い美味いを
連発していた。よかったよかった。どんどん飲んでどんどん
食ってくれ。
はたはた寿司、ノドグロ、アゴとイカの造りも美味いし、
カレイの焼き物も煮つけも良かった。
最後の締めは、店主と奥方のすすめでオリジナル丼を食した。

「カニトロまぶし」という名だそうだ。

1杯860円。絶品!今まで食べた丼物の中で五本の指に入る。
タレがオリジナルのタレで、特許を取っているらしい。
なんでも、ズワイガニのみを煮込んだら醤油のようになる
という。一切調味料は使っていないとのこと。
このタレが抜群に美味い。しかし、素材煮込んだだけで
よく特許とれたなぁ(^^;

酒も入って歩くのがかったるいので、タクシーを呼んでもらい
近所の玉撞き屋へ三人で行く。

外見は雰囲気がある店。新しい店らしい。
なんと1台店!今時テーブル1台でやって行けるのかと
思ったら、ダーツとお酒が主体なのだそうだ。
ただ、テーブルの周りは広くて撞きやすかった。

会社の社員は1979年生まれと1989年生まれだ。
一人はなんと平成生まれ。ついに平成生まれの人と一緒に仕事する
年になっちまったい(笑
埼玉工場の現場の子って、他の奴らもそうだけど、この二人も全然
人間がスレてなくて素直でいい子だな。でも、こういうのが本当
というか普通なんだろうな。
埼玉・東京から出たことがなかった新任の品質管理課長を3月に連れて
岡山地方を廻ったけど、感想訊いたら「どいーひっひ」と笑ってた。
「今後はあんまし行くことがないことを期待してますから」とのこと。
その本人も鳥取と岡山の感想を訊くと「人柄が全然違いますね。
あれ、なんなんですかね」と。俺にはわからん。俺も無垢の状態で
こちらに赴任して、半年後位からいろいろ思い知らされたから。
最初は先入観も何もなかった。だけど、深くつきあえばつきあう程
理解不能な岡山人の人間性が見えて来たっていう寸法。だから理由
なんてわからん。ただ、現実的な事実があるのみ。

今回の製品上のトラブルにしても、これが岡山で起きていたら、
「新車持って来い」とか「社長が来て詫びて永久補償(永久保証でない
ところがポイント)のハンコ押せ」とかになっていたに決まってる。
なんせ、過積載しておきながら、「タイヤが減るのはおめぇんとこの
車が重てぇからじゃ。さらのタイヤ持って来んかい」とか交換時期が
来てオイルが汚れてもメーカーのせいにする土地柄だ。俺の仕事の
業界だけがそうかと思ったら、形を変えてすべてが万事そのような
ことを「当たり前」として要求する土地柄なのだ、岡山は。日本の常識が
岡山ではまったく通用しないと思った方がよい。横浜から赴任した別な
上場会社の支店長は、送別会の時に泣きながら(嬉し泣き)で横浜に
帰って行った。

「岡山の二度泣き」という諺がある(「岡山 二度泣き」で検索されたし)。
これは、他地方から岡山に赴任なり転勤なりで移り住んだ人が
岡山の人間性に触れて散々な目に遭って泣かされて、元の場所に
帰れる時に嬉し泣きでまた泣く、というもの。岡山市のサイトでは
岡山県人に訊いても知らないとする。知るわきゃないだろ。自分が
泣いたことないんだから(絶望的苦笑)。
「そんなことあるのかなぁ」とかこちらに赴任した時は半信半疑
だったが、今は確証をもって言える。「世間一般で言われている
岡山のことは確かである」と。
「岡山県人が通った後にはペンペン草さえ生えない」とも。これも
頷ける。まあ、そんな土地柄。
しかし、根拠のないプライドだけは日本一高い御立派な土地で御立派な
人柄の人たちが群生している。
そして、一切自分への反省は寸毫たりともしない。それが岡山人。
関東の人間などは岡山のことを知らないが、周辺の中四国地区で岡山が
嫌われる筈である。耳を疑ったりしたが、目にすることが耳にすること
その通りなのだから。
う〜ん、どう言ったらよいのか・・・。他の地区でも通用する良い人と
いうのは1000人に1人くらいはいるかも、岡山県には。他の999人は
全員が底意地が考えられないくらいに悪い。お国柄なのだろう。
スリーナインで縁起がいいやい。ちなみに日本全国で、街宣車右翼が
一番多いのが岡山県。

一昨日、昼過ぎに岡山駅で東京組二名をピックアップし、夕方鳥取に
着いたらまだ日があるので、若い衆の希望もあり(京都以西に来るの
は生まれて初めてとのこと)、鳥取砂丘に行った。

 

砂丘に周遊観光の日本馬がいた。ラクダいない。

ごんた君。かわい。連れて帰りたい。

日本とは思えない風景。

はるかな丘を数十分かけて登った。丘の上からは砂の断崖で、
水際に続く。

本日、仕事を無事終え、東京組二名は鳥取空港から羽田へ。
私は帰りに鳥取大学の向かいにある
湖山池に行ってみた。

広すぎてびっくり。

帰りには高速の中国道まで下道を通ってみた。
途中、自称「武蔵の生誕地」に寄った。

川は奇麗だ。岡山で良いのは水と刀のみ(あれ?増えたか?)。
ここはアユ釣り場。この地点から3キロ下流が「武蔵生誕地」。
町興しで大きな武道館を建てたり地酒を売りだしたりしている。
事実とは違うことを鵜呑みにしているので気の毒になったが、
岡山県では「事実」や「歴史の真実」は関係ない。そういう気風は
日常的によく見て来ているし、実際につい最近も経験した。

九州の私の上司は、私が岡山営業所に赴任する前に一時期岡山を
受け持ったことがあり、私以上に岡山を知っている。
その上司が言う。
「宮本武蔵ってのはな、たぶん美作の出身かもよ。そして、
回国修行で各地を回って、いかに岡山が嫌われているか、いかに
自分がトンデモ人間か悟ったんだよ。だから自分の出身を隠して
自書に『播磨の武士』としたんだ。きっとそうに違いねぇ」
その珍説、それは言い過ぎかと・・・(^^;
でも、それに十分頷きたくなってしまうのも、岡山力学てやつだね、
きっと。岡山って団結力あるもん。表面上の皮一枚の上っ面は。
だけど、刀の諺で「地金が出る」というのがあるけど、あれは
表面の上っ面の鋼の皮がすり減ったらすぐに中の増量材の汚い
鉄が出てくることを言うんだよね。
刀も人も、本当は「無垢」が一番強いのさ。素材が良いとね。


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岡山弁「やっちもねえ」

2011年06月21日 | 内的独白

昨日から鳥取に出張で、明日まで滞在。

埼玉本社工場から二名が来て、広島から自分含めて二名、計四名で
仕事。
昨夜は小料理屋でノドグロなる魚をはじめ、珍しい魚料理を食す。
総じて真に美味なり。
食後、三人で撞球す。

深夜宿に帰りて網波乗りしてみる也。
食事中、話題になりし方言につき、偶然回答を得た。
それは岡山弁(吉備弁)の「やっちもねえ」(しょうもない)
という語源について。

坂本龍馬の後輩の土佐藩士に吉田数馬というのがいて、それが
生前の龍馬のことを回想して弟子に語ったことが川田正澂の記録
『吉田数馬先生』という書に記載されている。
それによると、こうある。

「少年の時分、二、三の友人と共に坂本先生に伴はれて種崎へ
桃見に行った。其の休息した掛け茶屋の女は嘗て、坂本先生の
家に奉公したものであったが、坂本先生が黒に盲縞の羽織袴を
着けて居るのを見て、『坂本の旦那、弥智がないじゃありませ
んか(とんでもないの意)』と言ひしが、坂本先生は只にやり
にやりと笑いながら、何も答えはしなかった。帰途についた時、
坂本先生は『今日は下駄が三分で刀が二朱じゃ。滔々たる天下只、
奢侈隠避を是事としてゐる。世の先覚者は率先して、三百年の
惰眠を打破せねばならぬ。それで俺は女の注目を惹く様な縞柄
の着物は着ぬ』と云った」(川田正澂 『吉田数馬先生』)

ここで出てくる土佐弁の「弥智がない」は岡山で云うところの
「やちもない」と同義で符合すると思われる。
字からして土佐人は意味が解って使用していたことが読み取れる。

ただ、岡山については、どうでもいい。
江戸っ子も土佐人と同じく「べらぼう」の意味が解って使うが、
「やっちもない」の「やち」とは何であるのか意味が解って使っている
岡山県人などついぞ会ったことがないから、どうでもよい。
どうせ岡山人らしき説教じみたお為ごかしを並べて他人を見下す感性の
発露であることは想像に難くない。
「べらぼう」とは語意に於いても本質的に出だしからして位相が異なる。
江戸と岡山は人が違う。
多くの土佐人とはつきあって感性の共鳴はあったが、岡山人は本質的に
俺とは感性が交わらないから、どうでもいい。

それにしても、鳥取でも岡山人はとてつもなく嫌われていることを
昨夜実感。さもありなん。
岡山で良きは刀ばかりにて御座候。


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ネット情報 〜日本刀〜

2011年06月20日 | 日本刀

幕末に四谷正宗と謳われた男がいた。
大酒をくらい、奔放に生き、幕臣窪田清音の庇護の下での武器講にて
百口の刀剣を受注するも1作作ったのみで長州に出奔、2年後に
江戸に戻りて窪田に詫びて斬罪を免れて作刀に勤しむが、43歳の
時に、四谷伊賀町の自宅の雪隠で割腹自刃にて死んだ。
名を山浦内蔵助、後に環(たまき)、刀工名を源清麿(みなもとの
すがまろ)という。
現在は刀工名は俗読みの「きよまろ」の方がいつの間にか一般化
してしまった。
清麿については、さまざまな研究がなされているのでここでは
説明は省略する。

隆慶一郎の小説に『鬼麿斬人剣』という作品がある。
これは、漂泊の民サンカに育てられ、その後浮浪児同然だった
主人公が稀代の名工源清麿の弟子となり、師匠清麿の頓死以降、
清麿がこの世に残した数打ちの手抜き刀を名折れだから折れとの
師の遺言を実行するため、入念か手抜き作かを見極めながら、
一本ずつ切り折っていく旅を続ける物語だ。
主人公は師匠清麿から鬼麿という刀工名をもらった。
鬼麿を暗殺しようと狙う伊賀忍軍の追跡と戦いながらも、伊賀の
首領の娘と情を通じた鬼麿は、師匠清麿の刀を探して苦難の旅を
続けるのである。

さて、現実の世界では源清麿には幾人かの弟子がいた。
その中の初期の弟子の一人に刀工名の号が鬼晋麿という者がいる。
文化11年(1814)生まれ。
下総関宿城主久世出雲守広運の八男で、後に幕臣旗本岩井平左衛門
克匡の養子となり、苗字を岩井として江戸柳原(現千代田区神田の
神田川沿い)に住した。
作刀歴は、細川正義、大慶直胤に学び、後に源清麿、鈴木正雄に
学んでいる。
元治2年(1865)に没す。
この年は4月8日に元号が慶応元年に改元されている。元治2年2月日
の作品が確認されているから、作品の年記が正しければ、1865年の
2月から4月の間に死亡したことになる。
初銘を「秡國」、後「正俊」。南総での駐槌の銘もあるので、各地
で作刀したようである。作風は清麿というよりも鈴木正雄に最も近く、
幅広で切っ先の延びた豪刀で、地鉄は板目に地沸がつき、沸づいた
互ノ目乱れで、砂流し、金筋のかかるものが多い。
銘の例「江府住岩井鬼晋麿源正俊作之」「岩井鬼晋麿源正俊作之」
「江府住岩井鬼晋麿正俊於南総作之」「鬼晋麿正俊」「岩井鬼晋麿
源秡國」「江府住岩井鬼晋麿源正俊 万延二年二月日以南蛮鐵精鍛之」。

個人的には岩井鬼晋麿にとても注目している。
何故ならば、師匠の清麿は切れ味で有名だが、造り込みは
「真之四方詰」とし、幕末に水心子が唱えた鍛法を素地として
いるのに、弟子の鬼晋麿は洋鉄である南蛮鉄を使って入念に
精鍛したとの作があるからだ。そして、見るからに切れそうだ。

歴史的事実や事象は、図書館に通って広く文献をあたったり、
ぜひともご自身の足で動いて裏を取って欲しいと思う。
前述の隆慶一郎の『鬼麿斬人剣』に出てくる主人公の鬼麿は、
実在の清麿の弟子の岩井鬼晋麿に名が似ている。
それを以って、私が某所に「鬼麿のモデルは岩井鬼晋麿」と
書いたら、それが情報として一人歩きしてしまっているようだ。
まるで、宮本武蔵の生国は播磨であるのに、吉川英治が自分の
創作作品で適当に作州としたらそれがあたかも事実のように信じ
込む人間が増殖し、鉄道の駅まで「宮本武蔵駅」としてしまった
例のように。武蔵作州出身説の出典原典の時期等を照査すれば、
武蔵が美作で生まれたとする説は科学的に成立しないのに、誤った
歴史を検証もせずに鵜呑みにする人のいかに多いことか。
だから、ネットのどこの誰だか判らない奴が書き込んだ情報など
風評と変わらないのだから、信用しては駄目なのだってば(苦笑)
鬼麿モデル説は、あれ、俺が書いたんだから。

インターネットは、あくまでもツールとしてご利用ください。
出典が明らかでないもの、匿名であるものなどは、学術的根拠も
ないので、必ずご自身で資料を汗水たらしてひもといて、裏を
取る、つまり、多角的に検証するその作業を通して見識として
深めてください。

よろぴこ♪

 


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腰の物

2011年06月19日 | 日本刀

古典落語『井戸の茶碗』(←クリックで名人五代目古今亭志ん生の「井戸の茶碗」)
でも出てきますが、「被り物を取れい!」というのは時代劇でよくある
台詞ですが、「腰の物を取れい!」というのはあまり聞きませんな。
それどころか、そんな台詞を言うと、腰の帯を引っ張ったりして、
相手がクルクル回って「あれ〜。お戯れを〜」とか言いそうです。

てな艶与太を飛ばしていないで、え〜と、腰物の話です。
御腰物とは目上の相手に使う言葉で、日本語は自分のことや身内の
ことを人に話す時に御はつけません。最近自分の妻のことを
人に話す時に「私の奥さんが」とかいう人が増えていますが、
変な日本語です。子どもや若い芸能人が人に自分の父のことを
話す時に「私のお父さんが」とか平気で言ってますが、やはり
これも変です。

ということで(どういうことで)、以前、日本刀探求舎鍛人に
通いつめていた頃は、そうした話も含めて、鍛人代表の栗原
さんとはよく話をしました。
彼とは、よく話というかウマが合いました。国を憂うという点で。

私の腰の物です。長い方。短いのや他は、今、昼寝中。

普段は、刀身は休め鞘としての白鞘に入れて刀掛けか
刀箪笥に収まっています。居合や斬術に使う刀も絶対に
休め鞘の白鞘を用意した方がよい。拵えだけの人は、是非
白鞘を新調されることをおすすめします。でないと、油で
鞘の漆が傷みます。白鞘でも油をどんどん吸って色が濃く
変色するくらいですから。
で、鯉口には
「鯉口くん」をよろしくね(^^) 私の発明(笑)

左から安芸宗重、備前則光、小林康宏の初期外装(外装のみ)。

二代目康宏は斬術試斬の役目を終え、今は極上研ぎを経て
高級時代金具で拵えを誂えて、白鞘に入ってちょいと離れた
場所の刀箪笥でお休みしています。現代刀でも、あまりにも
地肌が綺麗だから、引退してもらったのよ。もう数え切れない
くらいに切って切って切りまくって活躍してくれたし。
もう、これは外に出さない、見せない、触らせない(笑)
私の中では国宝級のマイ・トレジャーなのです。

真ん中の刀の鍔は、神奈川の平野政美教士七段(故人)からの
頂き物。古金工師の作で、薄くシンプルなのが気に入ってます。
氏曰く、なんでも「選手用」だそうで、薄手で軽くなおかつ
機能重視の鉄の平鍔なのだそうで。
左の鍔は現七段の昔の道場の2ヶ月先輩からの頂き物(貰って
ばかりだな)。赤銅魚子地に鳳凰の高彫り。覆輪が回ります。
これは実は鍔の大切な機構で昔の武士の服がこすれて擦り切れ
るのを防止するための金工師の工夫なのです。間違ってもかしめて
動かなくしたりしたら駄目ですよ。
中身の古刀刀身は居合の1年先輩からの頂き物(ほんまじゃ。
貰ってばかりだ)。
柄は私の考えで目貫は背の低い時代物で、指の邪魔にならない
位置に配置しています。
右の柄の中の目貫は柳生連也考案の逆目貫にしましたが、
あまりしっくりこなかったので、一気に左のような仕様に
なりました。
右の鍔は私がいたずらで作ったやつね。


注目してほしいのは、この刀につけた切羽(せっぱ)。
「切羽詰まる」という諺がありますよね。
あれは、刀に外装をつける際に、切羽が装着されたら、もう
ハバキや上の切羽や鍔の外装組み立ての道程が進行してしまって
いて、あとは下の切羽と柄だけなので、引き返すにはまた装着
した切羽を外さなければならないことから「過ぎてしまった時間
=もう大分先に事態が進んだ時」のことを指すようになったもの
です。

この刀の切羽は特製なんです。

日本刀の世界は「掟」というものがあって、まあ、こういうのは
日本刀だけでなく伝統工芸全般がそうなのですが、工法や製法
には決まりがあるんですよね。
例えば、切羽などは形は平べったい板だというのは決まっている。
でも、刀身と鍔の穴のサイズが合わないことはよくある。
鍔の穴が小さい時には鍔の穴を削るなんてことは文化遺産の損傷
ですので私はできません(する人もいますが)。そういう場合は
その鍔を装着するのは諦めます。
しかし、鍔の穴が大きすぎた場合、これはどんなに切羽(=スペーサー)
でぎゅうぎゅうに詰めても、刀を振り回すうちに鍔が緩んできます。
よく時代劇で刀を返すと「チャリ」と音がしますが、あれは鍔が
緩んでいるのね。これはいけません。まして、斬術や居合で刀
を振り回すには危険すぎます。鍔が緩むと目釘も傷みます。しいては
重大な事故を惹起する恐れが強い。武人が所持する刀の外装は
ひとつも緩みがあってはならないものなのです。

そして、鍔の穴が大きすぎた場合、「責金(せめがね)」という銅を
かませたり鏨で穴を縮めたりするのが一般的でしたが、時代物を
そうするのはさすがに躊躇われる。仕方なく、私は経木を何枚か
重ねて切って、スペーサー代わりに鍔の穴の隙間に詰めてました。
だけど、この画像の刀の鍔は、そうしたスペーサーを使用せずに
穴が大きいのにガッチガチに固定できています。なぜか。

それは鍛人代表の栗原さん(故人)が、掟を外して一工夫して実用
一点張りの切羽を作ってくれたからです。
構造は、平らな切羽に壁となる銅のフラットバーを垂直に設置し、
それが鍔の穴にピタリときつく入り込むようにしてあるのです。
「あくまで、この方法はイレギュラーだよ。一般の刀装具では
許されない実用重視の俺の発案」とのことでした。
「あげるから使ってみて。そして具合を教えてくれ」と。
またまた頂いちゃいました(^^;)
てか私の為にわざわざ作ってくれたんだよなぁ。
初作は少しズレがあったので、工夫して改良して、今着いている
のはセカンドバージョンです。
本当は外装から外して写真を撮ってご覧に入れたいのですが、
ガッチガチに固定されるので分解はご容赦ください。
銃と同じで、分解組み立てを何度もやると、小銃でさえがたつきが
発生したりします(参照:64式小銃開発報告)。レーサーのエンジン
ではないのですから、柄と鍔はガッチリ固定された後は、あまり何度
も分解しない方がいいのです。
外すのは刀身部のハバキ下を手入れする時くらいでしょうか。

今から考えると、私の刀は、刀身、柄、縁頭金具、鞘、鍔、切羽、
下げ緒と、頂き物ばかりです(全部やんか!)。
しかも、「これを使って頑張れ」とエールと共に多くの方から
贈り物として授かりました。
本当に有難いことで、その恩は逆に今度は私が若い人たちに返して
伝えていかねば、と今まで思ってきました。
そういう人の気持ちの表れを贈ることは、後世に残し伝えたい
日本の美だと私は思うのです。
結納や祝儀や中元・歳暮、何かと日本人は人に物を贈るのが好きで、
知り合いのアメリカ人やオーストラリア人など不思議がってました。
でも、冠婚葬祭とは別にしても、人の為にと心を込めて品を送る、
これもまた日本人の心の伝統だと思うのです。
ですから、今、いろいろと先輩たちからしてもらっている若い世代
の人は、時が過ぎたら、今度は自分が若い世代の人たちにそうして
あげて欲しいと思うのです。

 


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<歴史散歩> 謎の鬼の石碑 〜三原市宮浦〜

2011年06月18日 | 文学・歴史・文化

私の親が住む家の近所に、35年ほど前から気になっていた
謎の石碑があります。
新幹線の高架下の隣りの町内会館の敷地にそれはあります



石質と刻まれた文字から江戸時代もしくは新しくとも大正時代までに
建てられた石碑と思われます。
北東・南西・北西・南東にきっちりと向いていて、四面にそれぞれ文字が
彫られています。

生前の父に訊いても、伯父に訊いても、この石碑の存在すら
知りませんでした。

刻まれた文字が何かとてもおどろおどろしいのです。
北東と南西で同じ言葉、北西と南東で同じ言葉が刻まれています。
右面=南西側
左面=北西側


北東側


南西側


刻まれている文字は変体仮名というものです。
江戸時代の一般的な仮名文字で、大正時代くらいまで
使われました。いわゆる、江戸時代の「読み書き」とは
この変体仮名が読めることを言います。
相続人確定などの仕事を進める時には、戸籍簿に書かれた
この変体仮名の解読が不可欠です。なぜならば、昔の人の
名前(特に女性)などは変体仮名で書かれていることが
とても多いからです。

この謎の石碑に書かれた文字を解読してみましょう。
まず、北西・南東面は「南無」と刻まれています。
「無」が変体仮名です。無双直伝英信流の仮名字体や書でよく
見るので、これは前後の文字の並びで推測を挟まなくても
すぐ読めます(笑)

気になるのが北東・南西側の恐ろしげな言葉。
北東面


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南西面

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「鬼」の後に続く二文字が変体仮名です。
平仮名の「つ」に見える二文字目は「川」
の変体仮名で「ツ」と読みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


連続すると「鬼(き)・川(つ)」となります。
そして最後の文字。これは最初「祢」に見えました。
「祢」ならば「鬼・川・祢」で「キツネ」と読むことが
できる。
でも、どうにも左の偏が「弓」に見えます。すると
「弥(み)」ですが、実際の石碑を指でなぞると
偏はさんずいで「流」とも読めます。

しかし、どう見ても祢でも流でもなく弥に読めます。
仮に「弥」であるならば、漢字の意味には以下が
あります。
弥:あまねし、いや、いよいよ、とおい、ひさ-しい、
ひさし、ひろ、みつ、や、よ、わた-る、わたる

ふと閃きます。「わたり/わたし」だろうか、と。
となると「鬼(き)の川(つ)弥(わたり/わたし)」となり、
鬼の通り道という意味が浮上する。
しかし、石碑の最後の文字が「流」で「ル」と読むと
すると、「鬼(キ)・川(ツ)・流(ル)」で、意味不明に
なってしまう。
これは更なる探求が必要なようです。

いずれにせよ、鬼門に当たる北東の面と裏鬼門に
「鬼川○」の文字を
配しています。明らかにそこに謎を解く鍵が隠されて
いるように思われます。

私は、石碑の鬼門・裏鬼門方角の文字は第三文字目を「弥」と読み、
「鬼川弥」で「おにのかわわたし(わたり)」もしくは「おにのつ
わたし(わたり)」あるいは、「きのつわたし(わたり)」、さらに
一歩解釈を進めて、「きつみ=鬼つみ」と読み解くのですが、
いかがでしょうか。
日本神話に登場する海の神である綿津見(わだつみ)、海神(わたのかみ)
は元来「海(わた)つ霊(み)」と記しました。
それと同じように「鬼(き/おに)つ霊(み)」なのでは。
それに「わたし(=渡し)」をかけて「鬼の通り道」として霊を祀り鎮め、
鬼門と裏鬼門の方位に鬼への道標として「鬼川弥(きつみ)」と刻んだ
のでは、と私は解析します。

鬼門とは、北東(艮=うしとら。丑と寅の間)の方位のことで、
陰陽道では鬼が出入りする方角であるとして万事忌むべき方角と
されています。
また、鬼門とは反対の南西(坤=ひつじさる)の方角を裏鬼門と呼び、
この方角も忌み嫌われます。
逆に鬼門は神々が通り抜ける方角、あるいは太陽が生まれる方位(生門)
であるために、清浄の気を保たねばならぬという考えも古代にはあった
ようです。
日本の建築物はすべてこの方位の考えをもとに方角を定めて建築されて
来ました。中国から来た考え方ですが、この考えによって建造物の
方位を決めるのは沖縄を除く日本独自の文化のようです。

さて、この石碑は、鬼門と裏鬼門の方角に「鬼川■」、北西・南東
には「南無」とある。
明らかに宗教的な意味を持った石柱でしょうが、市内の古老に尋ねても
誰も知らない。折りをみて図書館で徹底的に調べてみたいと思います。
なぜこの場所にあるのかも謎です。この石碑は備後国と安芸国の国境
のライン上にありますので、意味がある筈。

同じ備後・安芸国境=ボーダーのライン上に、大正時代に建てられた
石碑があります。鬼の石碑から1キロ程南西のライン上の街道沿いです。

石碑には「是従東 備後国」「是従西 安芸国」と刻まれています。
南側面には大正時代の建立とあり、「是従東 備後国御調郡西野村」
「是従西 安芸国豊田郡長谷村」と刻まれています。
現在、県立広島大学に続く低い丘の道の途中にあります。
前述した鬼の石碑やこの旧国境石碑の辺りは、江戸時代には一面に
広がる田園地帯でした。

三原とは三つの原のことで、湧原(現三原市中之町)、駒ヶ原(現三原市
駒ヶ原町)、小西原(現三原市西野)の谷に流れる小川で出来た扇状地の
平地が寄り添うようにしてあったことから「三原」と呼ばれるように
なりました。猫の額のようなとても狭い土地です。
近隣に御年代古墳をはじめとする縄文・弥生・古墳時代の遺跡が数多く
残されており、その後、大和〜平安時代かけても畿内と九州を結ぶ
拠点であり、さらに四国と連絡する海上交通の要衝として栄えました。
私の住まいの裏山(三原駅に一番近い山)の頂上には、中世に山名氏
が築城した城跡があります。こちらの歴史散歩現地レポートはいずれ。

う〜む。謎解きの歴史散歩は面白い。
つーか、鬼の石碑のこと誰も知らないの?
誰かおせーて。

(追記)
2011年11月28日、解決しました。
文字は単なる草書で「鬼門除」と読むそうです。
記事はこちら→
2011年11月27日の日記

 


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あぢさゐ 〜花の色〜

2011年06月17日 | 内的独白


アジサイの季節ですね。
この雨が駆け抜けた後には夏が来ます。
梅雨の季節を嫌う人は多いようですが、私は好きです。

実は、世にある色彩の中で今の季節に咲くアジサイの花の色が
一番好きな色なのです。
高校の時、よく北鎌倉にアジサイを見に行きました。
北鎌倉は初夏のこの時期にはとても清清しい気持ちにさせて
くれますし、夏でなくても、冬の鎌倉もいいものです。
昔は、友人としょっちゅう鎌倉に行ってました。
初めての幕府が出来た場所であるというのも思い入れのひとつかも。
その鎌倉幕府方に弓引いた和田勢にわが軍勢は3000騎を率いて
加勢し
由比ヶ浜に参集して北条方と死闘を繰り広げるも、武運つたなく、
部隊はほぼ全滅に近い形で潰走でしたが・・・。
今は平氏本家も源氏本家も滅んで800年以上も経っているし、その後の
執権北条に対しても何ら遺恨はないのですが、北条のあまりにもの
仕打ちと一矢報いんとした和田方の心をたどりながら由比ヶ浜の渚を
歩くと、いろいろと往時が偲ばれたりもするのです。

近所の三原城下の旧武家地の路地のアジサイは
きょうはまだ薄紫色には咲いていませんでした。



あじさいは七変化とも言われ、咲き始めと咲き終わりで色が段々
変わっていきます。変化に富んでやがて散る花に、なぜか凛とした
清さと儚さを感じます。
青いアジサイは酸性の土壌、赤い花の色はアルカリ性の土壌に咲く
らしい。

アジサイの色が好きな理由としては、ぼんやりした何色ともつかぬ
パステルトーンが単純に好きだというのもありますが、アジサイを
見ていると、刀の下げ緒を思い出すからかもしれません。


短刀の下げ緒。いい色です。和の色です。

刀の下げ緒は、元々は鞘が腰から抜け落ちないようにしたり、襷に
したりするためのものですが、刀の下げ緒を使った武技も江戸時代
にはかなりあります。

会津藩では、階級と役職により下げ緒の色が決められていました。

紫色

家老(千石高)、若年寄八百石高)のみ。

御納戸色(おなんどいろ)

【高士】
家老、若年寄、三奉行(三百石高)、城代(五百石高)、大目付
(三百石高)、軍事奉行(三百石高)、学校奉行(三百石高)。

黒色

【一の寄合以上】
一般の武士(上士)。

紺色

猪苗代城在勤の猪苗代十騎のみ。

花色(縹色(はなだいろ)

【二ノ寄合】
厩別当、勘定頭、納戸、御側医師、駒奉行、武芸指南役。

茶色

【三ノ寄合】中士。

萌黄色(もえぎいろ)

【年割】中士。
(萌黄色と呼ばれる和色は二種類あります)

浅葱色(あさぎいろ)

【月割】中士。
(新選組羽織と同色)
 
私の愛刀の下げ緒の色は何色なのだろう。

御納戸色でしょうか?(道明作)
絹の下げ緒というとごわごわした物が多いのですが、さばきが
良いように、とてもしなやかな正絹を選んで組んでいます。
昇段祝いにと、昔、全日本選手権準優勝二回の師範代(故人)が
ご自分の下げ尾を下さったもので、形見としてずっと愛用しています。
繊細な組紐は日本が誇る和の伝統です。
いつか、悲願達成の暁には、私も自分で池之端の道明で誂えた
下げ緒を着けるのがささやかな夢です。
三原は広島藩家老が城代だった三万石の城下町なのですが、広島藩
にも下げ緒の色の定めがあったのかどうか、よく知りません。

雨露に濡れるアジサイは、何ともいえない切なさを感じさせます。


でも、食べたら駄目ですよ。毒花ですから。
それでも、アジサイは日本人に平安以前から親しまれてきました。

 あぢさゐの 花のよひらにもる月を
       影もさながら 折る身ともがな(源 俊頼)

 


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