渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

居合と試斬

2011年05月31日 | 日本刀


(動画)小学生の女の子による抜刀術

うひゃひゃひゃ。かわい♪
しかし、周りの連中がうるさすぎ。
納刀が終わって後ろに下がって礼をして退場し終わるまでが「演武」
であり業なのだから、切断直後に冷やかしすぎだよ、これ。
余計なことをペチャクチャと。本人、一所懸命にやってるのに。
節目、けじめをつけないと、場が「ただ切るだけ」という大道芸の
世界になってしまう。そうなると武道ではなくなってしまう。
剣道ではガッツポーズしたら負け判定になるが如く、そういう精神の
教育というのは、大人にも必要だと思う。

こちらは、新陰流居合の演武。

(動画)『新陰流兵法 居合(抜刀)』演武

すご・・・。
やるな新陰流。というか、この演武者の先生が凄いのか(^^;
この演武を拝見すると、「刀術とは体術=柔である」ということが理解
できる。
初太刀で抜刀しながら斬りつけないのが英信流などの林崎系居合とは
思想が異なるのも判る。馬上に対する斬りつけなどもあり、新陰流
居合は非常に興味深い。

ただ、本来の新陰流抜刀術は秘伝口伝のため実は失伝しており、
現在の新陰流居合は、二十代柳生厳長先生が新陰系柳生制剛流の
業名のみを用いて明治以降に創作したもので、厳密には正伝古流
新陰流居合とは呼べない。
その意味では、わが無双直伝英信流も十七代大江正路先生が明治期
に再編集したものなので、古伝ではなく現代居合であるといえる。
英信流も大江先生さえ剣術、和術、棒術を学んでいなかった為に
失伝により現在は居合のみが残る。
英信流には元々正座居合は存在しなかったが(武士が大刀を帯刀して
座すことはあり得ない)、大森流(新陰系抜刀術と小笠原流礼法を
江戸期に合体させた)の正座居合を「初伝」として英信流が採り
入れた。いわゆる正座大刀居合は練習技だった。
正座ならば屋内での小刀脇差を用いた業こそ会得すべきだが、英信流
でも小刀業の大剣取はほぼ失伝、柔は完全失伝している。

道統の秘術というのは門外不出で口伝ばかりだったので、何流にしろ
現在まで正確に残っているものは極めて少ない。
世の中いろいろ。
道はすべてが繋がってはいない。


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立脚点 〜道であるか余事の作業であるか〜

2011年05月31日 | スポーツ・武道など


試斬失敗→刀を大曲げ




あがががが!
これはひどい・・・・。
曲がった刀でさらに畳表をぶっ叩いている。
や、やめてくれ・・・(涙)

刀を曲げるのは、刀が悪い以前に、「刃筋」というものが
まったく通ってないからだ。
居合での運刀の訓練を積んでいない刀の使い方を知らない
初心者や素人は大抵はこのように刀を曲げてしまう。
剣道高段者でも、竹刀剣道しか知らない者は刃筋ということを
知らないので、この動画のように刀を曲げてしまう。
中には居合人の中でも刀を曲げてしまう者もいるが、それは
普段抜く居合においても刃筋が立っていない見かけ倒しの
居合なのだろう。

この紹介動画がヒドいのは、野球帽を被って刀に接して・・・(極めて
無礼な行為)、刀を曲げて、さらに曲がった刀で必死に畳をぶっ叩い
ている。
これは何なのか。
「道」でなく、単なる物斬り志向になるとこうなる。

刀も、安く買い漁る前に、まず「刀」や「刀法」とは何であるのかを
理解する方が良いと思われる。
自由主義の世なので誰が何をやろうが勝手だが、これでは、刀が
あまりにもかわいそうだ。
作った刀の作者も本当にかわいそうだ。
ぶっ叩きさん本人のサイト 
これまた・・・ヒドい。
オークションで日本刀を入手しては散々こんな試しをやって刀を傷め、
後は適当に直して模擬刀の拵を着けて転売しまくっている。それが趣味
らしい。鉄目釘の作り方も、炭素鋼でない釘に焼きが入ると思ってか。
焼き戻し含め熱処理の知識もなく、あらゆることすべてが出鱈目。危険
すぎる。鉄目釘は生鉄を使うんだよ(><)
素人研ぎで刀すべて駄目にしてるし・・・。
自分で持ってるならかまわないけど、駄目にしたら転売、というのが
犯罪的だ。目釘なんてプラスネジ入れてるしさぁ。鞘もツギハギで
作って外側塗って売ってるし、とにかくあらゆる意味で悪質すぎる。
ホントに単に物としか刀を扱ってない。
こういうのは日本刀武用論とも全く次元が異なる。

刀を神格化したり精神主義的に捉えるのはとても危険なことだが、道具
とはいえ、その道具を所持した人がかつてどんな人間たちだったかを
考えると、敬意を払わない刀への接し方は、やはり排除されるべきだと
私は考える。だからこそ、武人は演武の前後には「刀礼」で刀の作者へ
の礼をとる。刀は産鉄者から始まり、最後の鞘塗師まで丹精込めた十数名
の手を経て初めて完成する。
武家がいた時代、行儀は幼少時から徹底的に仕込まれた。
だが、自由となった現代、誰でも金さえ出せば刀を持てる。幼い時から
躾教育を受けていないから箸もまともに持てない、室内で帽子も取らない
ような非常識な人間が増えて、金さえ出せば刀を持てる。そして、刀を
単なる物として扱う。刀は便所スリッパと同列に置かれる。
これが自由主義の世界というものか。

礼なき所作は「作業」でしかない。
刀趣味も結構だが、刀に接する人は、道を誤ることなく厳粛な気持ちで
接してほしいと思う。
刀とは人の命の与奪に深く関わって来たものなのであるから。


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刀の切れ味

2011年05月31日 | 日本刀

キルという字は二種類ある。
「斬る」は斬り裂くこと。
「切る」は切断すること。
だが、こんにち、このふたつはよく混同されて使用される。
しかし、この二種の漢字の意味を厳密に捉えることは、
日本刀を手にして刀術を習う者は覚えておいた方がよい。
なぜならば、業によって明確に二種類の「きり方」が
あるからだ。
これを理解していない指導者などは、切っ先で斬った後に
二太刀目で切る業のことも「最初から一刀両断に切る」などと
誤った見識で指導したりするので注意が必要だ。

誤解の多くは連続袈裟斬りの際に「肩から腹まで切り下げる」と
思いこんでいること。刀身が体内に残っていては次の動作が
できない。この場合は「切り下げ」でなく「斬り下げ」が
正しい。肩から肋骨すべてを裁断してなお刀が抜ける為には、
胴体を斜めに半分に完全に両断するまで切断しなければならず、
水平に刀を止めての連続切りはできない。理合(りあい)に無理
がある。
剣士が剣の刀法の本質を見極めたいならば、己の中でも
「斬」と「切」を弁別して理解する必要がある。

刀は「切っ先三寸」では「切る」ことはできない。
「物打(モノウチ)」という刀の場所についても多くの誤解
があるため「物打=切っ先三寸」と多くの人が認識している。
正確な物打とは、「刀身の半分部分と切っ先の中間点」だ。
胴を切る場合も、切っ先三寸では斬れるだけで切断はでき
ないし、小手斬りなども切断はできない。
切断のためには、物打から対象に刃を喰いこませ、切り抜く
時に切っ先が物体の外側をトレースするようにする。
当然太い物を切る際は、もっと刀身の下部から物体に切り込む。
だから、「切っ先三寸」は「斬」のための規定であって、
「切」のためではないことを知らないと、巻藁(畳表)を
切る時にも、切っ先がかすめるだけで切断できずに畳を裂い
たりする。

試斬(据物)で初心者が失敗しがちなのは、「引き切り」に
なってしまうことだ。刀身は物体に対して出来るだけ90度の角度
(=切っ先が鍔元と水平になる位に)で入射していくのが好ましい。
それでも刀には反りがあるので自然と引き切りになる。意図的に
刀を引こうとすると切っ先が上がった斜めの「なで斬り」になって
しまい、物体の表面をツーッと刃がなぞるだけで切断はできない。
剣道で言うと竹刀の切っ先が勢いで相手の面の後ろまで回り込む位
の水平角度で刀も運刀しないとうまく切断はできない。

そして、切るのは刀で切るのではなく、体で切るイメージ
で運刀を行なう。
よく、切った後に肩が思い切り切っ先方向に向けて下がる
人がいるが、これでは隙だらけで、空振りでもしたら
相手に「いらっしゃい」で一刀のもとに自分が斬り倒されて
しまう。体が崩れてはならない。

畳表2枚程度までは切断するのに力はいらない。まして、抜き
打ちや体転の稽古でよく使う半巻きなどは、普段の居合の形と
同じ体の決めで切らなければならない。
さすがに三巻重ね(1巻を3本並べではない)などは、多少の
力がいるが、基本は体で切る(=臍下丹田で切る)ことに変わり
はない。

重ね重ね言うが、切り抜いた後に切っ先が流れたまま止まって
はいけない。切断物体を切った直後の位置で刀を止めるか
(体はぶれない)、もしくは刀勢を利用して刀を回転させて
隙を作らずに次の斬撃が行なえる位置に刀を持って来る。
例えば袈裟で切ったならそのまま刀を回して八双や上段に
取るか、若しくは切った位置からすぐに正眼に構える。
ただ切ることだけを目的とするのでなく、あくまで「業の内」
を練磨するために試斬を行なう心構えが必要だ。
だから、試斬ばかりでなく、居合をみっちりやった方が良い。
さらには、居合だけでなく、古式剣術や剣道(剣道は意識
しないと当てっこ競技になってしまうので、かなり目的意識的な
慎重さを要する)を行なうことが大切である。
ただ切るだけならば、刀には刃がついているので、正しい刃筋と
刀勢(力ではない)があれば、女子供でも切ることができる。
だが、ほんの少しでもブレたり、必要以上の力があると
刀は簡単に折れたり曲がったりする。
強靭な鋼の刀とはいえ、あれだけ長い物体を思い切りヒラに
叩きつけたらそりゃ曲がる。(曲がらない刀もあることはある)

そして、切る際の刀勢について、最初から最後まで同じ速度で
刀を振るとあまりきちんと切れない。
抜刀斬撃の要諦と同じで、「除・破・急」が必要だ。
つまり、ローからトップに段々加速して行く。
それが、物体に刃が当たる瞬間に最大速度になるようにする。
ここでいう最大速度とは「絶対速度」のことではない。
ひと振りを振り下ろす一動作の中での最大速度を物体に刃が
喰い込む瞬間に持って来るのだ。これを「拍子」という。
武蔵も言っている拍子である。つまりリズムとタイミング。
これを体さばきの中で刀を運刀させて合わせて行く。

つまり、ゴルフのティーショットのように、インパクトの瞬間が
一番大切で、刀の水平度合いと入射角と刃筋、体がブレない
安定感、小指のみの絞め、目線、揺れない首上、等が一体となって
はじめて「技」として切断することができる。
その際には、足のつま先の向き(流派により異なる)、足の
親指は上げるのか踏ん張るのか等も切断力に大きく関係して
くるのでよくよく研究を要する。
それらすべての意味(理合=りあい)を考察し、悟り、体得する
ことにより、自然と技前を発揮することができるようになる。
「無になれ」とはよく言うが、それはある一定の水準に達した
練達者に対しての教えであって、やはり最初は基本的には
いろいろ研究して沈思黙考し、洞察しなければ上達は遠のく。


試斬はただ切るのでなく、業の一過程として
捉える心構えと技前が大切だ。居合なので納刀も
次の斬撃に備えて素早く行なう。ただし、残心は
忘れてはならない。

刀の切れ味について、ネット上で波乗りすると、「刀はどれくらい
切れるのか」という質問がかなり多い。
可笑しいのが、それについて答えている人の殆どが、文章を
読めば判るが、まず日本刀を所持して居合なり試斬なりをしたことが
ない人たちが回答している。しかも、殆どが何かの聞きかじりか伝聞。
知らなければ書かなければいいのに。知ったかぶって・・・。
しかも誤った情報を・・・。

刀はかなり切れる。
刃がついている刃物なのだから当然だ。
ただし、どの刀も一様に同じ鋭利な切れ味を持つかというと、
これは話が大分変ってくる。

切れ味に関しての「刀工位列」という物がある。
幕末に山田浅右衛門が編集した『懐宝剣尺』と『古今鍛冶備考』
が有名で、刀の切れ味でよく引き合いに出される。
ただし、山田の書には注意が必要だ。
それは刀の切れ味ランキングを記したのではなく、「品質の
均一さ」を記した情報だからだ。
例えば、一番切れる「最上大業物」には古今東西14の刀工を
掲げているが、これは「10本のうち9本が最上によく切れる
刀を製作した作者」という規定で編集されている。製品の
クオリティーのことを指している。
だから、10本の作品のうち、ズバ抜けて切れる刀を1本だけ
作った作者がいても、それは最上大業物には選ばれない。

刀は手作りなので、品質にばらつきがあるのだ。
だが、均質に上質の利刃を製作できる作者の作を選べば「外れ」
が少ないことにもなるので、そうした意味では山田浅右衛門の
書は反響を呼んだ。

刀の個体の利鈍については、「裁断銘」というものがある。
これはルイス・フロイスが述べていたように、戦国期から
日本人は刀の利鈍を人体で確認することを盛んにやっていた。
江戸期においても、江戸初期から幕末までその風潮は続く。
将軍家や大名家が古刀新刀にかかわらず新しい刀を入手した
際には「御様役(おためしやく)」が刀の切れ味の試験を
行なった。それには人体が使用された。
記録に残る最高の切れ味は、「七ツ胴」である。
人体を七人縦に重ねてそれを切断したものが残っている。
三ツ胴以上になるととても高く積み上げることになるので、
台の上から飛び降りざまに切り下げる。
切るには「切り柄」と呼ばれる硬木で作られた専用の柄を
用い、鉛の大鍔(何種類かある)を嵌めて試斬に臨む。
通常の使い方を超えた試し物をして何の意味があるのか
よく分からないが、性能試験の極致と考えれば分かり易い
かも知れない。

私も、今までの経験で、数限りなく様(ためし)をした。
正直言うと「切れる刀」と「切れ味の悪い刀」という物は
確かに存在する。
一時、切りの稽古のためにわざと刃引き(砥石で刃を潰すこと)
した長船を畳表の試斬で使っていた。刃引き以前は、硬い枯れ竹
のみか丸太や釘まで斬ったことがある長船刀だった。
ある試斬稽古会で、その刃引きした刀でサクサク切っていたら、
私の居合の師匠である範士八段を交えた門下生たちで、いろいろ
各人の差し料を試してみようということになった。
私の備前長船を手にする前に師匠が「これは切れる?」と尋ねたから
「ええ、けっこう切れ味いいです」と答えて渡した。
師匠は何度か切ってみて、畳はすべて切断したが、
「(^^;)これ本当に切れるの?ホントォ?」と言った。
他の人がやると畳を弾いてしまう。まったく切れない。
そりゃそうだろうなぁ。刃引きだもの・・・。

ところが、刀というのは刃引きでも切れる。
平山行蔵などは刃こぼれを防ぐためにあえて刃引きにしたし、
捕り方同心なども刃引きの刀を帯びていた。
私は切り覚えの手の内の鍛錬のために刃引きにしていたが、
刃引きしていない別な所有刀と比較して手の内や切り様を
研究していた。

日本刀は実によく切れるものだ。
刃引きでも巻き藁(畳表)を切断できるくらいだから、薄刃仕様
の合金の模擬刀でも切れるかというと、これが小枝などは全く
問題なく切れる。真剣切り以前には、居合で使う薄刃の模擬刀で
散々枝切りを庭先で稽古した。これだと刃筋が狂って刀身を傷めても
懐に影響が少ないので身は痛まない。

私は初段審査直前の試合から真剣を使いだした。
一番最初は模擬刀で徹底的に刃筋と体さばきを覚え、同時に形の
腰が出来てきたら試斬を開始した。無段の時から真剣で試斬して
いたことになる。人の練度により異なるが、真剣使用には早めに
移行した方がよい。(東北大会の居合道初段の部で、試斬した痕が
残る樋無しの真剣刀身での演武を見た審判の先生が、「ニヤリ」と
しながら演武を見守り、判定で私に旗を挙げ、私は決勝まで進んだ
のをよく覚えている)

真剣で意外と切りにくいのは、新聞紙を硬く丸めた物だ。
紙は元々木なので、硬く巻いた新聞は実に切りにくい。
そして、カラカラに乾いた畳表もかなり切りにくい。あたら
刃を傷めるだけなので、あまり実のある試斬対象とはいえない。

さて、今まで沢山の刀を手にして切ってきたが、今までの経験の
中で一番切れた刀があった。
それは、幕末水戸藩の勝村徳勝(のりかつ)の万延年間の年記がある
二尺二寸の刀だった(正真)。地は地沸がびっしりとついて、刃文
は楕円形の数珠を並べたような互の目乱れだった。一般には折れ易い
とされる沸物だった。
だが、強靭でよく切れた。物凄く切れた。
どれくらいの切れ味だったかというと、半巻の畳表などは、私が
畳から3センチくらいの距離に刀をヒラにして停止させて、ポンと
横に振るだけで切断できた。しかも一番切断し難い横切り。
まるで、こんな感じ↓

(とみ新蔵『柳生連也武芸帖』より)

その時の様子はビデオ映像にも残してある。
拳ひとつも離さない位置から平にした刀身を横に振るだけで
畳表が横に切れるなどというのは、実際に切っている私自身
にも信じがたいことだった。
誰もがその刀を自分で試し、驚愕した。
こんなことは他の刀でやっても全く不能だった。
一体どういうカラクリならこんな切れる刀を作ることができる
のだろうと、その夜眠れなかった。
寝ても覚めても、その謎を解くことに思いを馳せたが、
まったくもって暗闇の出口は見えない。今もなお。

師匠も試斬した。
師匠には「切れる刀」とは言わないまま、次の試斬稽古の時に
評価をもらおうと仲間内で示し合わせていて、予告なく使って
もらった。
普段ニコニコ顔で冗談ばかり言う師匠が、ひと太刀切った瞬間に
表情が真剣になり、声を押し殺したように、
「切れる!これは切れる!今までの刀で一番切れる!」
と言った。
師匠の試斬経験は50年に及ぶ。その中で一番切れるという。
この刀は道場の同僚が懇意にしている射撃仲間から格安で譲り
受けた物だった。
すぐに黒田藩御家老の血筋の師匠は、その刀を所望した(^^;)
「まあ、先生なら買った値以下で」ということで、同僚はその刀
を放出価格で師匠に渡した。
すると、幾日か経って、試斬稽古に参加し出した高段者の女性
(御夫婦で居合をなさる)がその刀に惚れ込んだ。
師匠もかなり気に入っていた刀だったので直門以外の方に刀を
譲るのを逡巡したらしいが、結局、御夫人の熱意に打たれて手放
した。
あの刀は実に切れた。しかも幕末水戸物なので、過酷な強度試験
も経ている筈だ。水圧(みずへし)といって、胸まで水に浸かって
刀を水面にヒラで叩きつけたり(大抵の刀は折れる)、石垣に
刀をヒラに指し込んでその上に乗ったり等、水戸の試験は過酷
で有名だ。

勝村徳勝は文化6年(1809年)に水戸で生まれた。通称を彦六という。
刀剣好きの水戸藩主徳川斉昭(烈公)の鍛刀の向こう槌を務める
などし、水戸藩士や浪士に愛用され、桜田門外の井伊大老暗殺の
際にも徳勝の刀が使用された。
私たちが出会った徳勝も、すさまじい切れ味を示した。
後にも先にも、あれ程の切れ味の刀には未だに出会っていない。

(クリックで拡大)

ただ、オークションなどでは正真物の水戸徳勝(すこぶる健全)が
40万円程度で
落札されたりしている。
こういう正真物でしかもめったに出回らない健全な作品、特別貴重
刀剣の鑑定書付がサラリーマンの給料一ヶ月分位の値段で買える。
こういうのこそ掘り出し物だろう。現代刀の半値以下だ。
しかもあの水戸徳勝だ。
そうそうこのような出物は出ないだろう。

嗚呼、私も欲しかった(^^;
でも、貴重刀剣だから、試斬はダメよ(笑)

 


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日本刀 <郷土の刀> 〜三原〜

2011年05月29日 | 日本刀

私が居合道で使用する刀は、天正八年(1580年)に作られた安芸国大山住仁宗重の打刀(うちがたな)だ。
信長が死ぬ2年前の2月に作られた。
大山とは、安芸広島から山陽道を東に進み、最初の峠にある山で、その山麓に延道という名字の刀工が九州から移り住んで一族は江戸初期まで作刀した。
430年の時を超えて、今私がその刀を使っている。
全国で十数口しか発見されておらず、私の差し料は県内保存会の18口目として保存会記録に登録された。
同作者の健全な個体は県重要文化財に指定されている。
かつて私は埼玉で別な個体を見たことがある。同作者の天正年間の作ですこぶる健全、長さ二尺三寸五分。
しかし、1992年時で販売価格が650万円した。私の宗重が8口買えてしまう。地方の無名刀工の作としては、異例のことだ。作風は極めて三原風の出来で、三原と大山鍛冶に何らかの技術交流があったことを感じさせる。

日本人として、日本にいて、日本刀が所持できるのが嬉しい。
日本刀には車の車検証のような「登録証」という物がついていて、誰でも何の許可もなく所持できる。刀を入手した時にその登録番号を文部科学省管轄の教育委員会に所定の書式で届け出を提出するだけで所有することができる。
これは戦後GHQに消滅させられかけた時に佐藤寒山博士と本間順次博士(両人とも文学博士)の尽力によってGHQを説き伏せた功績による。この御二方がいなければ、日本刀は地球上から消滅していたかもしれない。

私が生まれてから38年間住んだ東京から広島県の三原に引越して来るに当たり、何の抵抗もなかったかといえば嘘になる。
だが、三原という寂れた地方都市に移住することを決断させたのは、三原という刀の存在だった。
古くから大和官領だった三原は、真言宗と共に産業面でも大和勢力の影響が強かった。


そして三原地方山間部には南北朝の頃から三原鍛冶と呼ばれる刀工群が住した。
その刀工群は戦国末期まで三原〜尾道周辺各地において盛んに作刀を続けた。作風は大和伝の影響が色濃く出ているが、青江の気風もある。鑑定上は「三原」と分かる特徴がいくつか指摘されている。
備後の三原尾道福山地区は備前福岡長船と並ぶ大刀剣産地だったのだ。
それだけではない。
現在のところ、学問上、日本最古の製鉄遺跡は三原から出土した製鉄炉とされている。この発見により、日本の製鉄開始時期はそれまでの古墳時代から弥生時代へと繰り上がった。

日本の歴史に深く関わる三原という土地。
私は期待に胸を膨らませて移住した。
だが・・・。

三原の人で三原地方が三原物と呼ばれる刀の産地だったことを知る人は少ない。

そして、現在の三原という地方都市は歴史をからきし大切にしない風土だ。
そもそも広島藩の支城の城郭(本丸敷地面積日本一)の真上に鉄道を敷設
して駅を作ってしまう時点で、100年後の今の風潮のレールは敷かれていた
のかもしれない。
城下町なのに、尚武の気風が残っているわけでもない。
江戸期においては、廻国武者修行の剣士は三原を通り抜けるのには数日を
要したとされる武道が盛んな城下だった。

さらに殆どの三原市民がまず知らないだろうことがある。
それは、柳生石舟斎が天狗と剣術勝負したとされる刀が南北朝期の三原の
正家作の刀であり、その刀は柳生宗矩(十兵衛の父)に伝わり、宗矩が家康
の家臣として関が原で戦った際に佩用したということ。

(動画)柳生の宝刀 大天狗正家
柳生石舟斎が選んだ刀が「三原」の刀だった。
だが三原の人は、多分誰も知らない。
さらに、幕末に山田浅右衛門が記した刀剣の利鈍を調べた『懐宝剣尺』
という有名な書において、三原正家は最上大業物に指定されている。

刀剣の業物位列

三原は刀の地である。
中国地方で良質な原料が採れた南北朝からそれは戦国末期まで連綿と
続き、日本の歴史に名を残した。

三原は刀の町である。
いつまでも取ってつけたように「タコの町」とか言ってる場合じゃ
ないだろう。

三原市観光協会サイト
(江戸期城内探訪のCG動画は面白い)

40年前の列島改造論のような街頭演説をしている市会議員に市民が
拍手を送るような土地柄だから、前途は暗い。
事実、今の三原市内を自転車で走ってみると、淀んで風化して
死滅していくのを待つだけのような暗さがある。
そこはまるで、福永武彦の『廃市』に出て来た町よりも暗く寂しい。

だが、私は胸を張って「住まいは三原」と人に言う。
なぜならば、三原には三原の刀の歴史があるから。
日本と日本刀を愛する人がいる限り、未来永劫まで残される
三原の刀がこの世にあるから。


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先祖の血と刀の切れ味の話 <芸州正光>

2011年05月28日 | 日本刀

 以前、広島県北によく釣りに行った。
 フライフィッシングという西洋毛鉤の釣りだ。渓流で
 ヤマメやアマゴを狙う。
 よく行く渓流のほとりにはロッジがあって、そこには地元
 の釣り仲間たちや広島市内や遠方から来たフライマン
 たちが集まり、そこのバーカウンターで食事をしたり飲ん
 だりした。
 芸北の友人とは一緒に温泉に入ったり、三原のうちに
 泊まりに来たりの仲だった。
 つきあい初めて2年ほど経った頃、あれは飲んでいる
 時だったろうか、芸北の友人がぼそりと「うちの先祖は
 なんか刀鍛冶だったみたい」と言った。「広島城に展示
 してあるよ」とのことだ。展示してあるくらいならば野鍛冶

 仕事ではない。
 「御城行ったら子孫だからとお茶出してくれる」とも。
 え?と思い刀工名を尋ねてみたら「うう〜ん。なんて
 ゆぅたかよう覚えとらん(笑)」とのこと。広島藩領内に
 いた刀工名を片っ端から私が言ってみた。
 するとモデルのようなハンサムボーイの彼は「あ、それ!
 マサミツ」と答えた。

 驚いた。
 彼のつい数代前の先祖が刀鍛冶、しかも、幕末に中国
 地方で名を馳せた刀工だったとは。

 だが、よくある話だが、自らの家の来歴を知悉している
 人は少ない。これは士族であってもだ。高級士族であっ
 てもこの傾向がまま見られる。そういう場面に何度も私
 は遭遇した。
 家康四天王の一人で江戸期には幕府勘定奉行(将軍
 から数えて三番目の地位)の先祖のことを詳しく知らな
 かったり。
 秀吉の旗本で有名な武将の直系子孫で(本家は大名
 だが)、後に現岡山県の大名に仕えたのを指して「岡山
 だから池田か?」と私に尋ねるから「いえ、御家は足守
 藩の御家老にござりまする」と私が説明した博士がいた
 り。
 あるいは、先祖は幕臣だが子孫は御家人と旗本の区別
 がつかず、都内にある墓石の形状と名を見て私が旗本
 名鑑で確認して旗本であることを説明したり、二千石以
 上の大身旗本であることは分かっていても役職を知らな
 かったから訊かれて私が説明したり等々、枚挙に暇がな
 い。
 禄高の大小、家格の高低に関係なく、先祖が武家であっ
 ても、どこの誰だか知らない人は実に多い。簡単に言っ
 てしまえば、興味がないのだろう。

 しかし、有名武家であるならば、先祖が何かしらの功績
 を実現したから今の子孫があるのだろうし、それについ
 て無関心というのも、何だか私にはよく分からない。
 でも、案外そんなものなのかも知れない。私などはガキ
 の時から歴史オタだから、父や祖父からの口伝や伝来
 を興味津津で聴いていたし、中学以降は文献などで調
 べたりした。
 こっちの方がマイノリティなのかもしれない。

 広島芸北の友人も、先述した上級武家の子孫たちと同
 じで、さっぱりとしている。
 刀工の来歴を確認したら「う〜ん。うちは元々島根にい
 たと聞いてたと思うけど・・・」と言う。ううむ、よく知らない
 みたい。
 お〜〜い(^^;

 刀工銘鑑にも詳しくは記載されていないので知っている
 ところを説明する。
 芸州正光は名字を石橋といい、元々尾張に住した。そ
 の後長門に移住して盛んに鍛刀し、後に安芸国に住す。
 幕末には広島藩御抱となり禄を食む。出雲大掾を受領
 (ずりょう)し、天保から明治までの作品が現存している。
 広島御府内での作刀時以外の居住地は山県郡高野だ。
 作風は実用に突出した切れ物の作風だ。
 幕末に長州にて鍛刀しているから、もしかしたら源清麿
 とも何らかの接点があったかも知れない。正光の地鉄
 を見たらただものではないことがすぐに分かる。
 地には地沸(ぢにえ)がびっしりとウロコのようにつき、
 まるで虎徹の如し。小板目が精緻によく詰み、刃文は
 広直刃を得意とし小沸出来、まれに乱れ刃を焼き、切
 先はやや伸び、茎(ナカゴ)は長く先がやや細まり尻は
 栗尻。典型的な武用刀であるが美術的にも卓越してい
 る。私が経眼した正光の作はすべて肉置きが豊かでプッ
 クリ としていて蛤刃だった。
 正光の刀は、幕末動乱の時代に憂国の士によって好
 まれた体配だったろう。作品を観ていると、かなりの
 上手で、華美な技巧に走ることはせず、実用性を重ん
 じている。
刀を観ただけで、正光という作者が「どのような方向に視点
を向けていたか」ということが150年の時を超えてひしひしと
伝わってくる。

「なんだぁ。よく知らないのかぁ。すんげ〜刀を作る人だよ」
と私が友人に説明したら「へえ〜。そうなんだ」ときょとんとしていた。そして
「そういえば、うちに刀残ってたなぁ。なんか古文書みたいのも」。
お〜い!!
そういうのは、歴史遺産なんだから、研究してちょんまげ!(^0^)
まあ、うちみたいに3日間も古文書焼き捨てるアホちんよりは
いいけどさ(^^

それにしても、芸州正光、人気が出ないことを切に望む。
なぜならば、隠れたお宝だからだ。
幕末水戸の刀は強靭性に富み、武用刀を好む剣士や好事家にひっぱりだこで
値が一気に高騰した。
また、九州肥後の同田貫なども、劇画とドラマの影響で価格は数倍に跳ね上がった。
同田貫正国などは昭和50年時に60万円だったものが、現在は300万円位に跳ね
上がっている。
日本刀の価格のほとんどが昭和50年当時の半値になっているという現状の
中でだ。

また、最近、歴史ブームの影響か、居合や抜刀試斬が人気を集め、現代刀でも
武用刀の人気がかなり高まっている。
そのため、現代刀工220人のうち、武用に的する強靭性と切れ味を持つ数名の
刀工の作は品薄と高値で入手困難という状態だ。(月に2口しか国から製作承認
が下りない)
むしろ、現在は明治以前の刀の方がぐっと安値で刀剣愛好家が入手できるという
状態になっており、特に地方の無名の刀工、しかも武用に特化した作りの刀工の
真面目な作が格安で入手し易い。

武用特化の刀工群がいた地域としては古刀期(慶長以前)の備前が有名だが、
備前刀で安価で入手できるのは「数打ち」という大量生産の刀だ。
「束刀」とも言われ、ひと山いくらで取引された。
数打ちといっても、きちんと作ってあるから武用にはまったく差し支えない。
これらは戦国時代に貿易で朝鮮や大陸におびただしい量が輸出された。
これらの刀
は「倭刀」と呼ばれた。

このような備前の日本刀や奈良刀が半島に残存していることを以って
韓国などは「日本刀韓国起源説」などを主張したりしている。
だが、朝鮮半島には日本刀の研ぎ師が存在しなかったため、武器としての
日本刀は朽ちていったし、韓国が日本刀の起源などというトンデモ説は、歴史的
資料も存在せず、荒唐無稽な小中華思想も甚だしい。

実用的な日本刀と出会うのはネットだけでは限界性がある。
機会ある度に博物館や刀屋めぐりをして多くの刀を見て
目を養った。足を棒にすることが刀剣研究には絶対に必要だ。
まず実見しないと始まらない。

そして、行きついた結論は、「刀は古刀に限る」。
しかも戦国期の刀工群居住地産の物、もしくは幕末の水戸物
という見地に至った。
作りはボヤ〜ッとした冴えない眠い刃の方が切れ味が鋭い
のはこれ不思議。舞草刀のような匂口が沈みごころの物が
よく切れる。派手派手しいのは見かけ倒しであまり切れない
どころか、直径1ミリのナイロン紐を斬っても大欠けすること
がある(実見)。
現代刀の中には指で刃を押しただけで刃こぼれする沸出来の
作もある(実見)。
総じて匂出来で眠たい物が良く切れ、粘りもある。
焼刃の幅は8ミリ以内の狭い方がよい。
刃は欠けるよりもまくれる刃の方が刃持ちもよく、またよく
切れる。
といった具合。
突き詰めて行くと、要求性能は自ずと軍刀のそれになっていく。

ただ、軍刀といってもすべて頑丈という訳ではない。
軍刀の中には地は墜撃試験に耐えて丈夫でも、刃が欠けやすい
物もある。それも多く見た。
刀は折れないことが第一だが、刃がなくなっては切れない。
軍刀の中にも刃が欠け易い物もあるので注意を要する。
(実は刃を欠けないようにするマル秘チューニングがあるのだが、
誤解を招く恐れがあるため公開しない)

刀の話で、強靭性について最近誤解している人が多いようだ。
軍刀サイト主宰の方や私(ネットでかなり検索されている)が、
「刀は無垢が強靭である」と繰り返し述べているからか、単純に
「すべての刀は無垢一枚鍛えが一番強い」と考える人がいるようだ。
それは違う。
なぜ、無垢鍛えが古刀初期までに多いのか、街道整備と市の
発達後にはなぜ三枚系やまくりや甲伏せ(かぶせ)が採用された
のか、その意味を考えてほしい。

要はある時代から「鋼」が違うのだ。
戦国時代の到来により、おびただしい刀剣重要に応えるためには、
貴重な鋼のみで作った刀では材料が間に合わないので材料節約の
為に刀身にアンコの低炭素鋼=包丁鉄を用い出したと推定される。
これは吉原義人刀匠はじめ多くの刀工たちも首肯しているところだ。
そして、半完成品としての「鋼」の流通が始まる。それも大量に。
大量生産に向かないたたら製法で量産が求められ、鋼は品質を落とす
ことになる。大量生産以降の和鋼は輸入物の南蛮鉄より質が低下した
と思われる。

これは「最近は質の良い南蛮鉄が入らないから良い刀が作れなく
なった」という江戸期の刀工(誰か失念)の言葉にもみてとれる。
虎徹の手癖である弱い地鉄の働きは、製法の謎を解く鍵のような気がする。
彼はテコ鉄を発明したが、テコまで敏感な鋼を
虎徹の言う古鉄(初期銘)とは南蛮鉄、もしくは卸し鉄ことではないか。
南北朝以前の鉄のことを古鉄と呼んだのでなく、自分より古い時代の
戦国期の中では良質だった舶載鉄や卸し鉄ことを指して。
柳生連也が愛した切れ物の秦光代なども南蛮鉄を盛んに用いていた。

たたらの砂鉄還元製鋼ではなく、戦国期から輸入された精錬鉄で
ある南蛮鉄の方が丈夫で大切れする刀の素材だったとしたら、うか
うか安心してもいられない。「日本刀は和鋼を素材とする」という
現代刀製作の現行法規も歴史的日本刀のあり方を否定することになる
からだ。南蛮鉄は洋鋼であるのだから。

従って、現在日本刀の製作方法として「折れず曲がらずよく切れる」
ためにはアンコを硬い鋼で包むのだというのは、それは戦国中期の
材料節約以降の量産製法であり、また幕末に水心子が研究した手法で
あることからも、「日本の伝統的古式鍛造」とはいえない一時代の狭い
時期の製法であって、「古式」の表現は虚偽であると言わざるを得ない。

オール鋼の無垢鍛え(別名丸鍛え、本鍛え)が根源的な製法だからと
いって、現代の日刀保鋼で無垢で作ったらどうなるか。
何がなんでも無垢が良いという訳ではない。現在の配給鋼を使用する
限り、その鋼なりに見合った複合製法で作らないと折損に対する耐久性
は著しく低くなると思われる。

また、現代刀はなぜか刃を低く焼いても、折り返しの問題なのか
鋼の質の問題なのか、あるいは300度脆性を知らない刀工なのか、
ポロポロとよく欠ける刃が多い。ボロッと大欠けすることがある
ので困惑する。これはかなり高名な無鑑査の幾人かの刀工の作
でもそうなることを私は目の当たりにした。やはり、現代刀の
沸物は怖くて使えない。

かといって、無垢鍛えを主とした刀工の作においても、折れ易い
作と全く折れない粘り強い作があるのはどういうことか。製作過程
で密閉炉とオープン炉(一般的なホド)の違いからくるものなのか、
定かではない。
(折れ難い強靭な刀身を作る刀工が好んで密閉炉を使うことには、
材料の問題と併せて何らかの鍵があるだろう)

我が家の家伝の大刀に備中水田住山城大掾源国重という刀がある。
これの造り込みが無垢鍛えであることは判明している。
新刀水田派国重は、「新刀四天王」と呼ばれる沸出来の派手な
作風で、銘を消されて相州伝上位刀に化かされることがある。
だが、独特の大粒の荒沸が見られるので看破することは困難では
ない。
新刀水田国重は奈良で文珠重国の小刀を削って見せたりしたくらい
切れ味が抜群の刀だったが、折れ易いともされた。(三原辰房派
から分派した古刀国重派の作風が三原風から相州風沸物に変化
したのは四代目大月与五郎からで、以降一派は沸物となった)
薩摩藩では折損懸念から水田派国重の刀の所持が禁止された。
だが、高木仁衛門が吉原で死んだ時の国重はささらのように
なっても折れず、また谷干城なども自刀国重を使い「折れない」
と言っている。(私は薩摩藩の措置は侍士から国重を取り上げるための
策略だと推理している。理由は磨り上げ相州伝上位に化かすためだ)
国重には無垢と積層がある。寛永元年(1624)に大与五国重が書いた
鍛法書や沼田直宗の説では「三枚鍛え」となっている。
だが、我が家の国重が無垢であるように、無垢でも折れない国重と
いうものもあるのではないか。

備中水田国重に関しては、このような脇差も存在する。

(クリックで拡大)

裏銘には「於備後福山帯車落」とある。
この裁断銘が正真ならば、福山城下にて罪人の死体で
試斬し、帯車というから山田流の試刀術でいうところの
両車を両断したことを示す。

つまり、この国重は一番切りにくいとされる骨盤部分まで
切断して落したということになる。


(幕府御様(おためし)御用、
九代目
山田浅右衛門吉亮。
大刀はカンヌキ差し)


刀の利鈍は
試せば分かる。
折れ易い刀は簡単に折れるので、骨を断つなどということは到底
できない。

私の現代刀の二代目康宏では、畳表の上側から段々切り下げていき、
下に行き過ぎて畳表だけでなく置き台の芯棒まで一緒に切断して
しまった時などは、その硬くて太い丸棒をそのまま左右に何度か
袈裟で切って先を尖らせて畳表の刺し棒として再生させたりした。
普通の現代刀では刃が弱くてこんなことはできない。
現代刀でも、清心子貞寿か南紀貞行あたりなら、これ位のことは
苦も無くこなすだろうが。貞寿や貞行は、実用刀として優れている
のみか観賞にも十分耐える。特に貞寿は切れ味だけでなく、その
強靭性は斬り業界では知る人ぞ知る。
だが、多くの現代刀は昭和50年頃を境に耐久性において信頼できない。

無垢鍛えの新刀水田国重には折れ易い物と、折れ難いどころか両車
まで切断する物まで存在するのが何故なのか、興味は尽きない。

そして、日本刀の歴史の中で、圧倒的に強靭性において突出
していたのが昭和の軍刀であった。
だが、軍刀は美術刀剣界からは蛇蝎のように嫌われている。
美術品ではなく戦場刀だからだ。
指揮に用いられたり、飛行士や艦船乗組員のために作られた
軍刀は確かに「精神の象徴」であったが、刀というのは、
儀仗刀でない限り、基本は斬るための武器である。

ところが、狂信的な美術刀剣論者は軍刀を忌み嫌う。
ひどいのになると、武家政権時の刀も「あれは武器ではなく
侍という為政者の権力の象徴だった」とか述べたりする。
戦国時代や幕末の動乱を知らんのか。武士人口の何十倍もの
刀が存在しているのはなぜだ。みんな芸術が大好きだったのか?
「刀は戦では使われなかった」という美術論者もいる。
ならばなぜ戦場に研ぎ師が同行したり、どうして武将が何口も
刀を小者に運ばせたりしたのだ?
槍や薙刀のように主力武器ではないにしろ、要は太刀も打刀も
武器として使用して損耗するからだ。

「刀は美術品であり、芸術である」という自説に拘泥するあまり、
何が何でも脳内の希望を歴史的事実に置き替えたがる。
そういうのは日本刀偏執狂であるとさえいえる。
それを考えると、先に述べた先祖が有名武将であったことを
よく知らないとか、優れた刀剣を製作した刀工であったのを
知らないとかいうことは、牧歌的な心の健康を保全している
側面もあるように思える。

言えることは、「美術品ならば腰に差して町を歩いても問題ない
でしょう?」ということ。骨董書画や焼き物茶碗や扇子を持って
歩いていても咎められないように。
現実は異なる。刀を腰にして町を歩いたら、即御用だ。
そして街中で桐箱を開けて茶碗を眺めても問題はないが、刀を
街中で抜刀したらどうなるか。
そんなことは幼稚園児でも分かるし、法律を知る大人ならもっと
現実的に理解できる。
日本刀は、一千年以上前に日本に生まれた時から現在に至るまで
「武器」であるのだ。
ただ、武器である刀剣を携行していた時代が終わったので、法律で
所持は許しても携帯は禁じているだけの話だ。美術品という言い回し
は、戦後GHQが地球上から日本刀を消滅させようとしたことを阻止
する敗戦国のウルトラCの便法だったに過ぎない。

確かに、日本刀には世界に類を見ない「鋼の変化」が肉眼で見られる。
これが芸術的な見所として評価されてきた。刀を観賞するのは
後醍醐天皇の古き時代からあった。
だが、観賞のために刀鍛冶は刀を作ったのではない。古には文字も
書けなかった刀鍛冶が稚拙な筆致で必死になかごに銘を刻んだのは、
好寄者金持ちの道楽美術品としての用に供するためでは決してない。

ところが、現代刀工の中には「この刀で試斬はしないでください」
と銘に切ったりする刀工もいるのだから困ってしまう。
最初銘を見た時、「うっそ?」と思ったが、そういう刀工もいる。
また、有名刀工で「キャンバスのように刀身に絵を描くように
刃文を表現したい」と言う芸術家もいる。そして、およそ帯刀
できないような長大な刀を作る。
勝手にやっててほしい。
武人とは無縁の鋼の延べ棒の焼き物のことは、俺、よく分からん
から。

名刀という言葉がある。
何を以って名刀というのだろうか。
残念ながら、現代美術刀剣界においては、100%「見てくれ」と
同義語として使われている。
そして高値で取引される。国宝や重文以上は取引に法的制約が
あるが、商売の利鞘も大きい。
かつて、私がたまたま手にして観賞した備前守家(花押銘)は、
銘鑑にも載っている有名な刀で、販売価格は6600万円だった。
傑出したかわずこ丁子(ちょうじ)で、子どもの時から図鑑
などで見ていた個体だった。作者の執念が手に伝わり気絶しそう
になった。
だが、値段を聞いても「ふ〜ん」という風にしか思わなかった。
「高いなぁ」とは思ったが、その程度だ。
好みもあるが、虎ノ門の刀屋にあったもっと安い1800万円の
虎徹の方が欲しいな、と思った。もっと欲しい虎徹は、1976年
に里帰り展でボストン美術館から一時日本に帰国した上野松坂屋
の名刀展で見た虎徹だった。
ウインドガラス越しに刀の前で50分くらい凝視して観察して
いたら警備員が来た。高校1年のことだった。

確かに武器としての公的な役割を終えているので、刀が美術品
というのもあながち外れではない。刀を持っていてもくその役
にも立たない。絵画と同じである。絵では心は豊かになっても
腹は膨らまない。だから武士も食えなくなると、伝来の刀を
泣く泣く手放した。江戸時代から腹が膨れているのは商人だけ
だし、事実多くの「名刀」は大商人が現在も所有している。
でっもぉ〜。
武道で剣術やってるなら、刀って必要なんだよ。
まして居合道や抜刀試斬や刀道などでは、刀がなくては竹刀
なしの剣道、キューなしのビリヤード、バットとボールなしの
野球とまったく同じ。
こうなると、日本刀というのは剣士にとっては「必要欠かざる
べきもの」となってくる。あったりまえのことだけど。
美術品という立場に置かれるよりも、本来の姿を日本刀はそこで
得ているような気がする。

はあ。長い徒然日記だった(^^;


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ホンモノ【現代長船刀工】

2011年05月27日 | 日本刀

岡山県長船の刀工、上田祐定さんのブログ


自身で武道もされ、自作刀でもちろん試し斬りもする。
作刀=小鍛冶には、日刀保の「配給」玉鋼を使わず、自らたたらで砂鉄還元
製鋼=大鍛冶にて得た自家製鋼を以てあたる。
つまり、街道整備と楽市楽座成立による製品鉄材流通以前の古刀の鋼を
探究している。
2006年から続くブログの過去ログを読んでいると、自分が深く関わる
自分側の組織についても憂いを述べる。
美術刀剣論者の刀工のことも、自分の刀の切れ味も知らない、
と鋭く切る。
武道歴40年という歴史がそうさせるのではない。
自身の作の立脚点が日本刀の本質に近接しているからこそ、この刀工を
して同業のニセモノを歯に衣着せず切らせしめている。
そこに悪意は感じない。私には真意が汲み取れるからだ。
岡山にもこの刀工のようなホンモノがいる。(高知県出身だが)

ホンモノが書いたブログは面白い。口先だけのお為ごかしの大嘘を並べ
続けるニセモノと違い、ホンモノだけが持つ魂の鼓動を感じる。
このブログ主の作品を実見したが、実体と文章に乖離はない。それは、
人物がインチキではない、ということだ。

この刀工、最近、病で目がやられて来て仕事がままならないらしい。
お弟子の成長も順風満帆ではないようだが、中からは見込みのある者が
刀工免許を得たようだ。
長船鍛冶。
ホンモノの心を持った本物の息吹が末永く続くことを期待する。

刀工は「目を盗られる」といって、火を凝視するからやがては視力に
障害が起きる。失明したりもする。鍛冶神の天目一神(あめのまひとつの
かみ)が片目であるのはそれを表している。
民俗学的に言えば、一目小僧も鍛冶神とつながっている。
視覚障害に対する差別表現で「メッカチ」という言葉があるが、これは
「目鍛冶(メ・カヌチ)」から来た言葉だ。
古代において鍛冶職はオロチ(古代モンゴル語で鍛冶のこと)であり、
山に籠って火を吹く様は、ある時には「鬼」であるとされた。
産鉄を知らない平地の土民からすれば、大鍛冶は恐ろしい鬼であり
蛇であった。砂鉄採取のためカンナナガシで河川が真っ赤に染まるのは
まさに鬼が人を喰った血の流れあり、また、製鉄炉からノロという不要
溶解クズを流し出す際の灼熱の真っ赤な流れは、恐ろしげな燃える蛇の
うねりだったろう。

古代中央権力のヤマトに武力制圧された産鉄民の土地は制圧者と赤子たる
入植者(オオミタカラ)によって「蛇」「鹿」「竜」「鬼」と貶められ、現代
まで全国各地に地名を残す。
だが、制圧後も反乱が恐ろしかったのだろう。被制圧側を懐柔する必要が
ヤマトにはあった。
こうして、かつてヤマトの最大脅威だった出雲国には「神」が集まり
伺いを立てる月を設けた。
それは一番鉄の製造に適した月が選ばれた。
このため、十月はヤマト圏内では「神がいない月=神無月=かんなづき」と
呼ばれ、出雲のみが「神がいる月=神有月(神在月)」と呼ばれるように
なった。
神無月はカミナシではなくカンナと読む。
砂鉄採取の鉄穴(かんな)流しのカンナである。
複数の意味を含めて当て字で神無とされたことは想像に難くない。
私が育った神奈川も現横浜市神奈川区のカンナガワ(神流川)からきており、
ヤマトから見たら荒ぶる神エミシが住む産鉄地域であったことだろう。
古代吉備国もヤマトに拮抗した大勢力が存在したことは知られているが、備前
福岡の福岡は「真金吹く岡(陸)」という意味であり、産鉄勢力とヤマト
の鉄をめぐる対立の土地だったことを示す。
やがて、勝った側には桃太郎というヒーロー伝説が作り出され、負けて支配
された旧産鉄勢力側は「鬼」とされた。

刀工は現在も金屋子神を神として崇めお参りする。
意外だろうが、鉄と火を扱う自動車製造メーカーの工場でも「ふいご祭」を
必ず行なう。私が勤務するメーカーでも毎年それを行なう。
そして、三種の鎌や剣を形どった金属加工物を貼りつけた盾を奉納して
マツル。
祭るは「祀る」であり「奉る」であり「纏る」であるのだ。そして祀るは
ホフルでもある。中央権力側から見たら産鉄民はホフル対象であり、
被征服者の反乱の怒りを鎮めるためには祀ることが必要で、やがて祀りは
祭りとなっていった。
このことに古代製鉄民族とヤマト中央の関係性をみてとることができる。

ニセモノがホンモノ面してはびこる今の日本。
せめて長船からは魂の火を絶やさないで欲しい。


ウエブサイト 孤高の刀工 上田祐定

備前長船日本刀傳習所

長船包丁店


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