渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

映画『オイディプスの刃』

2007年01月28日 | 映画・ドラマ



主演:古尾谷雅人、清水健太郎、京本政樹、北詰友樹、佐藤友美、五月みどり、田村高廣
製作:角川春樹
原作:赤江 瀑
脚本:中村 努
成島東一郎
監督:成島東一郎
音楽監督:山本邦山
1986年角川映画

<あらすじ>
瀬戸内に面したある旧家に一口(ひとふり)の太刀がやって来た。
資産家である主は刀剣収集家としても著名な人物で、若く美しい妻は調香師
として香水の研究を続けていた。旧家に来た南北朝時代の太刀をめぐり、
ラベンダーの香りのする邸宅の中で、様々な惨劇が繰り広げられる。
そして長い時が過ぎ、生き残って大人になった3人の兄弟たちにこの妖刀は
またも惨劇をもたらすのだった。

1986年に観て以来、すぐにビデオを買った作品だ。
何度も観て来たが、また観た。
原作者の赤江瀑は1933年下関生まれ。1970年、『二ジンスキーの手』を小説現代
に発表し、小説現代新人賞を受賞した。1973年に『罪喰い』で直木賞候補、1974年
『オイディプスの刃』で角川小説賞を受賞、1975年『金環食の影飾り』で直木賞候補、
1983年には『海峡』『八雲が殺した』の両作品で泉鏡花文学賞受賞という経歴だ。
赤江作品は、触れていてどうにも気持ちが悪くなるのだがやめられない。
言い知れない不快感を伴うのに赤江の世界から読者は抜け出せない。
瀬戸内晴美は赤江を指して「泉鏡花、永井荷風、谷崎潤一郎、岡本かの子、三島由紀夫
といった系列の文学の系譜のつづき」として「中井英夫についで、この系譜に書き込まれる
のはまさしく赤江瀑であらねばならぬ」としている。(講談社文庫『罪喰い』解説)
ある意味、三島よりもじわじわと人知れぬうちに進行する病魔のように赤江の作品は
読者を蝕むように魅了する。
彼の作品は、悪魔の筆だ。
そして、この映画作品はその赤江の世界をよく表現している。
映画『オイディプスの刃(やいば)』は、角川作品の第一回作となる筈だったらしい。
しかし、製作されたのは別な角川第一回作品から10年の時を待たねばならなかった。

オイディプスとは、エディプスとも呼ばれるギリシア神話の登場人物だ。
テーバイの王ライオスとその妻イオカステの間の子で、実の父をそれと知らず殺し、
実の母とそれと知らず交わった。
オイディプスの名は「エディプスコンプレックス」の語源となっている。
私は小3の時、この神話を知りショックを覚えた。
本作はこのギリシア神話を極端に日本美学の螺旋として強引に描いて、ねじった先端を
針のように尖らして何かに向けて突き出している。
外国人に果たしてこの作品が理解できるのだろうか。

瞠目するのは、刀を研ぐシーンが実にリアルに考証されて再現されていることである。
時代劇でさえ多くは研ぎのシーンが出鱈目で、それだけで興ざめだが、この映画は
かなりリアルだ。


しかも登場する刀剣はすべて真剣実物である。(一部模擬刀)
研ぎ師の役で出演した渡辺裕之は今でも自己紹介で「得意なことは日本刀の研ぎ」
とする。この映画で研ぎ師に数ヶ月師事し日本刀が研げるようになった、と公言する。
しかし、リアルな研ぎシーンとはいえ、よく見ればまったく素人が刀を押していることは
一目瞭然で、あれ位の技量で「刀が研げる」とは言うべきではない。
また、日本刀の研ぎはただの研ぎとは異なる高度な特殊技術で、研ぎ如何で刀は
生きも死にもするのだ。
生と死をつかさどる刀の生と死を握るのが、刀剣の研ぎなのだ。

映画『オイディプスの刃』でのラストシーンの不条理は、カミユが『異邦人』で描く実存
主義的な不条理観とも異なる。
まさに「三島」的なのだ。
なぜ、ラストがああならねばならないのか。
ただし、三島の場合、「終わらすことによって終えること」に酔う人間を見る時の不快感
が伴うのだが、赤江の場合は不条理のまま突き進む。
三島が「強制的終了=デリート」によって「永遠性の完結」を保全しようとする徹底した
ナルシズム、換言すれば、ただ自己の欲望にだけ忠実な強烈なエゴイズムというものに
立脚しているのに対し、赤江の場合は、最後の場面を越えてもなおその不条理が不条理
として独立して進行するのである。
赤江作品の読後は、三島作品の後味の悪さと別な意味で極めて後味が悪い。
「映画は原作を超えない」とは巷間、人口に膾炙されてきた事柄だが、この映画作品は、
その赤江の世界を実によく表現した作品となっている点において、大変評価できるもの
であると私は感じる。


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