渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

2004年03月31日 | 内的独白

うちの猫にその季節がやってきて、夜な夜な鳴き通す。

ウニャ~ン、ウニャ~ン、ヴヴニャウ~ン。

結構やかましい。
なぁ、猫さん。
呼んでも、君の求める牡は残念ながらこの部屋にはいないのだよ。
いる牡は、あそこのベンチチェアの下でイビキかいているあいつくらいさ。
でも、あいつ、犬だよ。
もうそんなに鳴かないで、寝ておくれよ。
あ。ああ。
寝ているワンコにすりすりして起こしてしまった。
お。犬は「やめれ」とばかりウウッと唸る。
猫、離れました。
犬、3秒後にはイビキです。
猫、また鳴き続けております。
む。鳴くのをやめました。
う。そんな目でじっと見ないでおくれ。

さ。僕も寝ようかな。
チビちゃん。寝るよ。おいで~。


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化粧

2004年03月30日 | 内的独白

何も貴金属と晴れ着で着飾らなくていい。
化粧をすることは、化粧をすることで綺麗になることよりも、
化粧をして綺麗になりたいと思う心が綺麗なのだと僕は思う。
きっと、そうした心の女性は、素顔のままでも素敵だ。
そして、実際に女性はどんどん綺麗になっていく。
そんな女心をほんの少しでも垣間見ることができたとき、
凄く素敵だよと感じていても、男は照れくさくって
「素敵だね、レディ」
とはとても言えない。
ほんの些細な化粧の変化も、すべて感じ取ってわかってはいても、それを
男の方から口にすることはできない。
嬉しいことを言ってくれるなぁ、と強く感じても、それを嬉しいとは
あからさまに表明できない。
男にできるのは、カウンターでグラスを傾けながら、独りその嬉しさの
思い出に浸り、時を刻む時計を憎ましげに眺めることぐらいだ。
素直な気持ちを表現するのは、男より女の方が上手なのだろう


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土方歳三

2004年03月28日 | 内的独白

八木源之丞の遺族から取材した子母澤寛の『新選組始末記』によると、
山南敬介との確執で山南を切腹に追い込んで、その場に土方歳三が現れたと
き山南は「出たな九尾の狐」と呼んだという。
後年作家たちによって土方像はかなり脚色されていくのであるが、実録の彼
の姿を見る限り、僕は生々しくも毒々しい土方歳三が限りなく好きだ。
彼が蝦夷共和国で死に僕が生まれるまで100年も経っていない。
ほんの数世代前の時代。
歴史上の人物というには近すぎる。
だが、「過去にいた男」で、土方歳三が一番好きである。

http://www.tamahito.com/toshizo.htm


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葉書

2004年03月25日 | 内的独白

古い友人から一通の葉書が届いた。
今から10数年ほど前、ある居合の大会に出たことがあった。
500人くらいの参加者の前での決勝戦、僕は正座から刀の柄に手をかける前に
前髪が気になって右手で髪を払った。
敗戦後、見知らぬ高段者の先生から指導を受けた。
髪を払ったことには触れず、心持ちについての指導だった。
数年後、紆余曲折あって、僕は東京都の某区の代表選手を辞して、この道で
の掟を破って、私淑していた神奈川県のある先生に師匠代えをした。
東京都の属籍を脱するときには揉めに揉めた。
当時全日本剣道連盟の重鎮だった居合道範士の柳家小さん師匠に中に入って
もらい、事の顛末を納めてもらった。
晴れて神奈川県の居合道講習会に出席したとき、件の先生が指導者として出
席していた。
爾来、その先生にとても可愛がってもらった。
ある日先生は50代にして不帰の人となってしまった。
僕の師匠が提案して、川崎の神社で追悼演武会を開いた。
僕は正装で奥伝の技を抜き、追悼の自作和歌を詠んだ。
追悼演武会には先生のご子息と奥様が列席された。
先生にはひとりだけの直門がいた。
その門下生は僕より歳がふたつ下で、段位も僕より下だが、この道の例外的
表現として僕のことを「○○クン」と呼んで、とても親近感をもって接してくれ
ていた。
参列者の演武終了後、先生の奥様が突然、深い赤色の鞘に納められた先生の
愛刀を彼に進呈した。
友人は予想だにしない事態に戸惑い、とても、と一旦は辞退した。
しかし、奥様の「あなたに使ってもらわなければ」との申し出に、彼はありがたく
その刀を頂戴した。
以来、彼はその刀を分身のように大切に扱った。
先生の葬儀の出棺のとき、海自の第一礼装に身を包み、制帽を目深に被って
唇をかみしめて、いつまでも去り行く棺に敬礼してしていた彼の姿が忘れら
れない。
届いた葉書は、彼の転属の報告だった。
誤解を恐れずに明かすが、常々、戦闘部隊よりも救難救助に命を賭したいと、
飲むたびに僕に語っていた彼は、いつの間にか救難飛行隊に希望転属して
いたらしい。
そして、このたび、硫黄島航空基地隊救難飛行隊に転属になったとの葉書が
届いたのだ。
硫黄島。
その歴史はともかく・・・そうそう彼と会うことは叶わなくなった。
しかし、彼の思いを知る一人として、僕はいつまでも彼とありたいと思った
のであった。


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急逝

2004年03月24日 | 内的独白

古い友人が亡くなった。
俺の一番鮮烈な記憶の時代に一緒にいた人だった。
中野にある古い寺の坊主だった。
バイク乗りだった。
俺と同じYAMAHA-RZ乗りだった。
ちょっと身体の具合がよくないから病院行ってくらぁ、
と病院に行ったら入院して、俺を追い越してそのまま走り抜けてしまった。
急性白血病。
坊主よ。
早く走りたがってたあんただが、こういうのは早すぎる。
暫くそちらでエンジン温めたまま待っててくれ。
俺はまだ、こちらのコーナーを走っているから。

藤木坊主よ、永遠に。


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勝負における集中力

2004年03月21日 | 内的独白

何かに集中しているときというのは、自分の中に張り詰めた緊張感が伴い、
後で振り返るとその状態が心地よいとしみじみと気づく。
それを求めて彷徨ってさえいるような気がする。

昨日、とあるお店のナインボールのハウストーナメントで優勝した。
試合後の帰り道、夜明け前、友人とファミリーレストランで感想を述べあっ
た。
友人は試合中、態度の悪いA級の人がいて、とても気分を害したと言う。
そのため自分のプレーのとき非常に腹が立ったという。
その件の人は準々決勝で僕が下したのだが、僕はそういう印象はなかった。
なぜだろう、と考えた。
僕はビリヤードの試合等で、相手のことはまったく眼中にないことが判った。
対戦した数々の相手の顔も覚えていない。
相手の腕より先のキューとテーブル上の玉の動き、配置だけをじっと凝視し
て、それしか見ていない。
相手の態度や顔やアクションなどは、僕に巡ってくる玉配置の状況には全く
関係のないものだから見る必要がないのだ。
ビリヤードの試合で「相手を威圧するフォーム」だとか「風格に圧倒され
る」とかいうことをたまに聞く。
剣の試合でも同様のことが聞かれ、「格で威圧して抑える」などといわれ、
それらが推奨されたりする。
何のことだか僕にはよくわからない。
僕の場合はプロであれ誰であれ対戦するときの心境に差異はない。
仮にそんな相手の表層に捉われることがあるとしたら、する方もされる方も
そうした世界に住む人にしか通用しない薄っぺらな事柄だ、と思う。
真の技と技のぶつかり合いは、そうしたこととは関係なく、もっと向こうの
世界にあると感じる。
剣の世界でも全く同じだと思う。
本当の斬り合いでは、相手の剣先から発する押し出しに威圧されるとした
ら、それはそれだけの精神的練度でしかないのだ。
実際には切り結んでみないとどちらに勝機があるかはわからない。
相手がどうだでなく、ただ、自分の本来の力量をどれほどいかんなく臨機応
変に発揮できるかに集中し、それにこそ主眼が置かれて精神的支柱を形成
していくべきだと僕自身は思っている。
宮本武蔵の教えに「観の眼強く、見の眼弱く」ということがある。
対決のときは、相手を見るが、見るところを間違えると、相手に翻弄されて
しまうことがあるらしい。
だが、実は相手に惑わされるのではない。

敵は自らの中にいると知るべし。


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きょうの夢

2004年03月19日 | 内的独白

変な夢見て目が覚めた。

古い友人がいる。
高校時代からのつきあいの友人だ。
夢の中では、彼は何故か某巨大新聞のコラム欄を受け持っているフリーの
ライターだった。
その彼が最近ノイローゼ気味だという。
きけば、彼に困難な相談を持ちかけている人がいるようで、彼はいつもの
彼らしくなくヒステリックというか精神的に疲弊する状態に陥っているら
しい。
さらには、最近知り合った彼の知人が同様にいろいろな相談事を持ちかけ、
彼は全く仕事が手がつかず、ヘロヘロ状態になっているそうな。
「この依頼者(「依頼者」というあたりが、まさに夢らしく辻褄が合わな
いのだが・・・。笑)のおかげで時間がとられて俺は仕事がまったく進まん!」
と彼は言う。
「ほ~。そりゃ大変だね」と私。
彼は言下に怒鳴る。
「依頼者のひとりは、おまえの彼女だよ!」
そこで目が覚めた。

ううむ。首、寝違えそう。


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夢の続き

2004年03月18日 | 内的独白

昨夜見た夢には続きがある。
(夢の内容は省略)

そして、何かの集まり?がお開きになって、その夫妻たちはタクシーに乗って
帰って行った。
私は独りその場に残るのであるが、それを遠目で見ている老夫婦がいる。
二人ともにこやかに笑顔を浮かべている。
その男性の方は、白髪であった。
しかし、よく見るとそれは未来の私であったのだ・・・・。


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眠った

2004年03月14日 | 内的独白

泥のように眠った。


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寝た

2004年03月13日 | 内的独白

ひたすら寝た


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ビリヤード

2004年03月09日 | 内的独白

ビリヤード。
紀元前400年頃ギリシアで原形が起こり、日本の鎌倉時代にクロケットから発
展してその後戦国時代末期に競技規則が定められた。
米国では1565年にスペイン人が始めてビリヤードを持ち込み、1850年代には
ポケット・ビリヤードが大流行した。
後年、穴に落ちた玉が溝を通って手元に集まってくるように台が改良された
ので、米国でポケット・ビリヤードはプールと呼ばれるようになる。
日本では、江戸初期には長崎出島でオランダ人が玉撞きをやり、明治4年に
銀座に初めてホテル以外に撞球場を備えるレストラン「三宣亭」が開店した。

ビリヤードには大別してふたつの種類がある。
台上に穴が空いていて、玉を棒で撞いて別の玉を落としていくポケット・ビリ
ヤード。
台上に穴がなく、3個もしくは4個の玉を使って玉と玉を当てて点数を競う
キャロム・ビリヤード。
起源が一緒なので同じ「ビリヤード」でくくれるが、実際は似て非なるものだ。

キャロムは玉は台上にいつまでも残っている。
プールは玉がどんどん台上からなくなっていく。
ひとつひとつ落とす度に、本来なら嬉しいはずが、僕は撞いていて悲しみに
似た感情にとらわれることがある。
なくなっていく玉たち。
でも、最後の点玉を他人に落とされるのは断じて嫌だ。
この最後の点玉だけは僕のもの。
最後の君は僕だけのもの。
決して他人に渡しやしない。

そして、ビリヤードは対戦形のスポーツだが、実は対戦していない。
すべてのミスは自分の責任なのだ。
自分がキューを握っている間は、対戦相手は待機しているだけ。
負けるのは相手に負けるのでなく、自分に負けるのだ。
「だって君がああしたから僕がこうなった」というのが一切通用しない世界。
だれのせいにもできない。
自分の脚で立って、自分でキューを握り、自分が撞く。
ほら、スタンスが違うよ、玉を重ねる厚みが違うよ、撞く点が違うよ。。。
自分に言い聞かせるけど、人がこうしてくれと頼んだ訳ではない。
すべて自分が選んだことを自分がしていく。

でも。
ポケット・ビリヤードは、最後の点玉は落ちた後ゆっくりと転がって、手元
の大きなポットに戻ってくる。
消えてなくなったのではないのだ。
そして、落とすのは彼ではない。
僕だ。

玉撞きは、生死に関わる問題ではない。が、それ以上に重大な問題なのだ。

最後の玉は持って帰っちゃいたい。


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縦割り垂直思考

2004年03月08日 | 内的独白

メール・掲示板を含めてネット上での言い争いというものがままある。
いずれも縦割り垂直思考で譲らない。
言い争いになって相手に感情のつまずきを生じさせるとき、それは単に
「ことば」に対して他人がある種の感じを抱くのでなく、そのことばの向こ
うに存在する「意識」「態度」の見え隠れに対してではないだろうか。
いくら丁寧なことばを使っても、慇懃無礼であれば人は不快に感じるだろ
うし、無頓着ならば腹立たしい。
更に縦割り垂直思考が見受けられたら、人はなおさら不愉快になるだろう。

縦割り垂直思考。
人との関係において、同位置に目線を置いて考えるのでなく、自分は人よ
り偉いのだという意識性の表れ。
至って本人は全くそれに気づいていないことが多い。
これは自己中心的とかそういったものでなく、完全に人を見下す位置に、
意識せずとも己が立っていることを指す。
そうした意識性は、ときとしてことばや態度の節々からにじみ出てくる。
それについて人が不快感を感じ取ったとしても、また不快に感じたことを
それとなく知らせても、縦割り垂直思考にとらわれた人は全く意に介さな
い。
逆に「なぜそんなことを私が言われなくてはならないのだ。私が」となる
ことが往々にしてある。
口に出す出さないは別にして、もし、そのように「なぜ私が!?」と思っ
たときには、自分が人を見下したようなところ(潜在意識)がなかったか
どうか胸に手を当ててみることが大切なのでは?
「なぜ私が?」の以前に、「私が何をしたか(言ったか)」に思いが至ら
ない限り、手前味噌の自己完結の世界から解き放たれることはない。
知識の有無だとか教養があるとかないとか、そうしたことは人の「徳」
とは関係ないことだ。

水平思考で人と接することができるように、人を愛したい。
すご~く、僕自身が自己完結にときとして陥るから。
無意識に発したことばで傷つけている。
ゆっくり膝割りで、ネット以外の世界で目の前で腹を割って話せばすぐに
修復できるやりとりも、メールや掲示板では限界がある。
常に一方的な伝達形態。
着信拒否も送信も、常に一方向の意思下に置かれる。
CDよりライブの方がよい。
まして、好きな相手なら、なおさらだ。

ピアフの謳う『愛の讃歌』には、縦割り垂直思考は微塵もない。
愛されるよりもまず愛することの強さを彼女は知っていたのだろう。


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リペア

2004年03月07日 | 内的独白

リペア。
壊れたものの再生。

長年愛用したショーンキューのバットキャップ爆裂をリペアに出した。
「犬がかじったみたい」
あ。たしかに。言い得て妙なり。
ねえ、犬かじりとは思いつかなんだよ(笑)

リペア職人の仕事ぶりを見ると、かなりしっかりした仕事をしているのが
わかる。
ひとつひとつのデータも、設計図面を起こして、とても細かい字でびっし
りと詳細に作業内容と状態が書き込まれている。
僕も職業柄、設計の図面をよく見るのだが、そのデータ帳を見てこの職人
が只者ではないと思い知らされた。
元々設計の仕事をされていたそうな。やはり。
江戸誂え鍛冶職人が自分の仕事のデータを文字通り几帳面に帳面に書いて
いるが、それを髣髴とさせる分厚いファインダ。
聞けば僕と同じ年という。
しかも、勤めていた場所も極近所で、さらに、僕のこのキューそのものが
ある全米女子プロとの対戦で使われたその試合を彼はたまたま目の前で見
ていたという。
偶然というか、これも何かの縁?
互いに認識はしていなかったが、過去に二人は同じ時間、同じ場所にいた
のである。
メールのやり取りでも、彼は極めて丁寧な応対だ。
キューを愛する人たちの「相棒」でいたいと、屋号をBuddyとしたらしい。
仕事ぶりを見て、安心して依頼者が信頼を寄せる。
いい世界に彼は生きていると思う。

リペア。
壊れたものの再生。

人の心も再生できるだろうか。

●Buddy's キューリペアワークショップ●
      ↓↓
http://buddy.bigmountain.cc/


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ことばは空ろなもの?

2004年03月06日 | 内的独白

誓いというのは、誰かにたてるのでなく、自分自身にたてるものだと
信じていたい。

きょうは晴れ。
10時40分。
日が照っているのに、今、雪が降ってきた。
3月の雪。
この春最後の雪だろうか。
ああ。雪は舞いだした。
日の差す風に舞う雪。

さようなら。
気紛れなお天気さん。

 

(2011年6月評:本当に疲れきっている)


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ディスタンス

2004年03月05日 | 内的独白

身近にいても距離を感じることがあるとしたら、人は寂しいね。
でも、こんなに身近にいればいるほど距離を感じないんだ。
遠く離れていても距離を感じないとしたら、暖かいね。
でも、すれ違うたびに距離は感じはしないのに
寂しくなるのはなぜだろう。
きっと目を見て話すことができないからかも。
実際にそこにいる姿を見るだけで、わかりあえることってあるみたい。
ふと振り返ったら本当にそこにいた、というだけで。
つながりって、瞬間瞬間の点でなくて、溶け合ってしまっていること。
だから、すれ違っても、すれ違っても、もう溶けて混ざり合っているから
分離はしない。
不協和音も和音のひとつ。
そういえば、JAZZのブルーノートはあえて不協和音を作ることによって、
ありきたりの安寧でなく緊張感を作り出していたっけ。
安寧に向かおうとする心が人にはあるから、緊張感というものを感じる
のかも。
見詰め合って寄り添う、我が儘な音たち。
それでも、音は重なって、溶け合い、時を紡いでいく。

心に置く、ってわかっているようでわかっていない。

All of me, why not take all of me.
Can't you see I'm no good without you.

 


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