渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

往復書簡 その後

2003年10月17日 | 内的独白

娘が交換日記をやめたらしい。
毎朝、一緒に学校に登校していたクラスの子と交わしていた交換日記だった。
朝、学校に行くのを見送ると、いつも一緒だった子の姿がない。
訳を娘に尋ねると、もう学校にも一緒に行かないのだ、という。
彼女たちは始業時間の1時間前に学校に行って、校庭で一輪車の練習をした
り、教室でいろいろな創作遊びをしていた。
そうしたことが彼女たちの一日の始まりだった。
ところが、一緒に通学していた相手から突然
「私が一番最初に学校に入りたいから、もうあなたとは一緒に行かない。
これからは一人でもっと早い時間に行く。だから一緒に来ないで」
と告げられたという。
教師の話によると、娘は「誰とでも仲良くする子」らしいが、「誰」の方で
は「誰とでも仲良くする」ことをあまり歓迎していないのかも知れない。
娘の弁によると、クラスにはいくつかの「仲良しグループ」があって、それ
のどれにも属さないで接しようとしていると、逆に孤立してしまうという。
そして、そのグループには何かで「一番」の人がいて、それを以って人を束
ねているらしい。
「でも、私は特定の人とだけ仲良くするのは嫌なのだ」ともいう。
いろいろ彼女の話を聞いていたら、他人と自分を比較した「競争」に自分が
入り込んで行くことを嫌うという傾向があることが判った。

それでいいと思う。
一番になろうと求めることは、二番、三番を作り出すことだし、「一番」は
「一番以下」を存在させてはじめて存在し得る。
秀でることと順列は必ずしも同じ概念ではない。
むしろ、順列の概念に縛られて、その概念があたかも蓋然性があることのよ
うにして、つまり、当然のことのように思い込むことに心奪われるほうが危険だ。
古きものを確かめながら手に取るのはよいが、何の疑問も持たずに諸手で受
けとめるのは気持ちが悪い。
社会とは既存のものを無頓着に受け入れることではなく、常に疑問を持って
「自ら作っていく」ものだと思う。
古い船を動かすのは古い水夫ではないだろう。
そして、動かすクルーは、すべてクルーであって、同時に全員が主役たり得る。
船頭多くて船進まず、というのはそこにクルー間の暗黙の秩序がないからだ。
人は、得てして、そこに階級的順列を持ち込もうとする。
それが人をまとめるのには簡単だからだ。
そして、人はそれが虚構であることから目をそらしたがる。


この記事をはてなブックマークに追加