渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

心のよりどころ

2003年08月30日 | 内的独白

葉月ももう終わりだ。
きょうは、空気が重いな、と思っていたら、案の定夕方から雨が降り始め
た。
この八月は、時の流れがとても速く感じた。
歳をとるにつけ、時間がゆっくりと流れていくように感じていたのに、こ
の夏の時の流れが速く感じたのは、今年が夏らしい夏でなかったからか。
いや、きっと、歳をひとつとる毎に、子どもの時に特別な存在だった夏が
自分の中でどんどん薄れていっているからかも知れない。
古い友との突然の再会が、季節を重ねる毎に、まるで「再会」のときの感
動が薄れていくように、僕の心の中で、時の密度の緩急が生じているから
なのだろうか。

しかし、宇宙は不思議だ。
宇宙は膨張しているという。広がっているという。
通常の概念だと、膨張すれば、風船の表面のように密度は薄くなっていき
そうに感じるが、宇宙の膨張に密度の変化はないという。
どういうことなんだろうか。
広がれば広がるほど、質量が増していって、相対的に密度に変化がみられ
ないのだろうか。
つまり、広がっていけば、それだけ相対的には濃くなっていくということ
か。
人と人との関係も、ひょっとしたら、こういう宇宙の法則に似ているのか
も知れない。

我々が我々の星から見ている月の顔は、いつも美しい。
だが、普段、地球からは見ることのできない月の裏側は、宙からの落下物
等でとても荒れており、お世辞にも美しい姿とはいえない。
また、美しく見える月の「表」も、宇宙船で近くに行って見たら、美しい
姿とはいい難い。
そして、宇宙から見る地球は、その眼下で醜い争いごとが起こっていると
は思えないほど青く、美しい。
「遠くにありて思うもの」が視覚的な美しさだけを基準軸にしたものであ
るならば、訪れる現実は極めて残酷だ。
だが、月は月だし、地球は地球だ。
本質的には、それとして存在している。
川の流れは、初めは澄んだ水滴から始まる。
それが、長い流れのうちに、支流からよい水も流れ込めば悪い水も混じる。
そうしたすべてが混ざり合って、大きなひとつの奔流となって水は海に注
ぐ。
すべての現実をそれとして受け止めて、
「遠くにありても、近くにありても」思えるもの
こそが、僕にとってのホント心のよりどころなのだと、僕は感じている。


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夫婦喧嘩の功罪

2003年08月20日 | 内的独白

夫婦の絆てなんだろう、と考えることがある。
僕自身は、社会運動の同志のように、共に生き、共に死ねたらどんなにか、
と思う。
「添い遂げる」とはそういうことではないのか。
夫婦生活は共同生活なのだから、相互扶助という点では、社会運動のそれ
に近いものがあると思う。
どちらかが一方的に全権を掌握することではない。

「つれあい」ということばが空虚になって久しい。
陳腐な表現だが、互いの感情に齟齬が生じたとしても、それが自然に軌道を
回復していくのが夫婦の心の結びつきというものだと思う。
感情的対立が生じたとき、冷静に状況を俯瞰してみると、必ずしもどちらか
一方に非があるケースは少ない。
また、それを認めたくないがため、互いに意固地になったりするのだろう。
もし、仮に、自分が死ぬときに思い浮かべる人が今いる自分の伴侶でない
とするならば、それは、その夫婦関係が表面上はどんなに仲むつまじく見え
ても、内実として終焉している関係が表面化していないだけなのかも知れない。
まして、「夫婦喧嘩」のときに、自分の相手の存在を否定する、あるいは、
婚姻生活の中で置かれている相手の立脚基盤を認めないような物理的行動に
出たらどうなるのか。
それこそ、「痴話喧嘩」ではない、「夫婦の終焉」を演出することにはなり
はしないか。
何でもありの戦争ではないのだから、自己の安全圏を確保しつつ、物理的
精神的に相手の弱いところを衝くといった行為だけは、僕はどんなことが
あっても、例え「夫婦の別れ」の最後の一幕においても、演じることはした
くない。
これは奇麗事とか、そんなものではない。
僕の「夫婦観」であり、僕自身の生き方のスタンスだ。

かつて、法律事務所に勤務していたときに、イヤという程、離婚案件を見て
きた。
ケースは様々だが、別れゆく夫婦にひとつだけ共通していることがある。
それは、好きで一緒になった二人なのに、離婚の間際、自分のみが正しいと
して、相手を傷つけることをするのだ。
離婚するには事由があるのだから、それはそれでいたしかたないことかも
知れない。
しかし、終わった関係ならば、別れるときくらい、自分にも刃を向けて冷徹
に洞察することをしたい。

夫婦はもともと血のつながらない他人である。
くっつくのも簡単だが、切れるのも簡単だ。
だからこそ、真摯に相手を見つめ続けたい。


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辞するとき -メタファの迷路-

2003年08月18日 | 内的独白

人が人にいとまを告げるとき、人はなんとするだろう。

実際には存在しない国境という線を勝手に越えたとき、人は罪人とされる。
「フロイトの体系の欠点は、社会をその現実において考察し、それを心的内容
に織り込みえなかったということではなく、社会における幻想的共同性が、
家族あるいは一対の男女における幻想対の表出と逆立ちするものであるとい
うことを洞察しなかったところにあった」と吉本隆明は言う。

吉本は、こうした国家-法律を形成する共同幻想を乗り越えるのは、対幻想
と個的な幻想以外にはない、と言った。
つまり、恋愛(対幻想)と表現(個的な幻想)だけが制度を超克するとした。
彼はしかし、『共同幻想論』をその後『マス・イメージ論』で修正・補完
していく。
マス・イメージとは、テレビ等のメディアで創られるイメージのことだ。
現代においては、インターネットが新しい力として、それにとって変わる勢
いだ。ネットも共同幻想を震撼させうる力を秘めているといえるのだろうか。
ネット社会は、現実をも見えなくさせる巨大な力、あたかも、共同幻想であ
ることを形成するようなことになりはしないか。
つまり、単なるリアルな知己であるというものを越えて、一対の男女の対幻
想の表出と対峙すべき共同幻想というものの要件を形成し得る現象が惹起
されるのではないか。
それは、ネット・アイドルに象徴されるように、受け手の諸個人の中で幻影化
された情念が、家族あるいは一対の男女の対幻想を崩壊させ、まさに共同体
意識の家族感として共同幻想を構成していくことだ。
今まで何度も経験したが、人気サイトが閉鎖されるときに見られるサイトファ
ンの嘆く様は、まるで敗戦直後の国家という大家族が崩落するのを目の当
たりにして皇居前にて泣き伏す人々のそれに似ている。
サイトファンは、そのサイトの存在そのものによって、自己の中にある種の
幻想を創出しており、ここでは一切、管理者やそのネット・アイドルのリアル
なアイデンティティーは否定されていく。
しかし、現実的には、サイトを閉じても、その管理者は個人として生きている
訳であるし、その人の暮らしは、ある。
共同幻想をつき崩す力を秘めたインターネットが、知らず知らずのうちにそ
の存在により人間疎外を形成し自己矛盾を構成しているとしたら、それに気
づいたとき、運営者としてはたまったものではない。


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「従容として」

2003年08月17日 | 内的独白

時は流れ 季節は移ろいゆく
朱夏 白秋 玄冬と
しかして また 蒼き春 来たるなり
いまの死をあがいても せんなきこと
その生命 一堂に会することなく
一人一人 没するなり
なれど切りはなすことのできぬ 輪廻なりしや
                     (拝一刀)


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敗戦記念日

2003年08月15日 | 内的独白

動かざること山の如し。
侵略せざること山の如し。。
徐(しずか)なること山の如し。。。
遅きこと山の如し。。。。。


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私の夢が見えてきた

2003年08月08日 | 内的独白

夢がある。
ずっと見続けている夢がある。
しかし、若い頃のようにそれを声に出しては、言わない。
薄れゆく同時代性の中で、ずっと見続けている夢がある。
かつて、去っていった人たちが口にした。
「貴方は、ずっと、遠くを見ている」と。
その見ている遠くが、近いもののように感じて、
まだ若い時の中で、
僕はそれをありきたりのことばのロール紙で包んで、
強大な力に向かって投げつけることをしていた。
けれども、その遠いものの姿が、だんだんと見えてきた。
僕には、ずっと見続けてきたものが見えてきた。


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『なごり雪』秘話

2003年08月01日 | 音楽

昨日、3時の休憩時間にTVをつけたら、たまたま「なごり雪誕生秘話」という
特集をやっていた。
イルカさんが『なごり雪』を歌うまでのいきさつを中心にまとめられた短編の特集
だった。
彼女は「この曲はかぐや姫のもの。そのイメージを崩したくない」とのことで、
ずっと、『なごり雪』を歌うことを辞退していたそうだ。
でも、作者の伊勢正三さんがぽつりとスタジオの片隅で
「イルカがこの曲が好きで、歌ってくれるなら、僕は嬉しいな」
と言ったことばを素直にイルカは聞けて、歌うことにしたそうだ。

番組の中で、伊勢さんご本人が『なごり雪』についてインタビューに答えていた。
やはり、この日記の2003年5月16日に僕が書いたことと同様の、僕がずっと感じて
いた視点を伊勢さん本人は『なごり雪』の中に置いていた。
彼いわく、
「列車に乗って行ってしまう。自分ひとりで乗っている。
 それを見ている僕がいる。
 いつでも、そうした情景を見ている僕がいる」
情景の中に自分がいるのを、さもすべてを静かに見つめられるようになった「自分」
がそれを見ている。
「いつも、そういう自分がいる」
とも伊勢さんは言う。
「その場所を離れる」という自分を「君」に置き換えて、正やんの『なごり雪』は、
ことばのあやとりを解きほぐすように綴られていく。
そして、そこには、あらゆるすべてを静かに見つめている自分がいる。

すこし微笑んだのが、『なごり雪』の最初に浮かんだ元の歌詞は
「今起きたばかりのおばあちゃんも 夢の中で」
というものだったそうだ(思い出し思い出し語っていました-笑)。
でも、「ああ。この曲はこういったほのぼの系ではないな」と感じていたところ、
まるで白い紙の上にあぶり出しのように詩が浮かんできたという。
やはり、歌詞と曲が同時にできるときの「自然さ」のもつ力のようなものを
僕は伊勢さんの話に感じた。

僕が正やんに惹かれるのは何故だろうと考えたことがある。
人が人に惹かれて、その理由を探すのはとても意味のないことのようだが、
ふと考えてみたことがある。
そして、すこしだけ、気づいた。
彼の作品が他の多くのアーティストのそれとは違って、作品自体が彼そのものと
切り離せないものだから、彼に惹かれるのだと僕は気づいた。
彼の歌は彼自身なのだ。

僕が彼と自然に出逢えるいつかの予感を、僕は今、感じている。


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