渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

刃物の研ぎ方

2017年07月15日 | 刃物



一昨夜、小倉の友人とナイフの研ぎ方について話をしていた。
「こうやって研ぐのよ~」みたいなことを言っていたら、今まで
考えていた方法と違うのでちょっと驚いた感じだった。
翌朝、「研いでみました」と連絡あり。

なんか、かなり上手いんですけど(^^;


研ぎを教えてほしいとのことで、教えるというほどのことは
できないが、私がやっている研ぎを伝えることはできる。
小倉の友人には「早月流 研磨要諦」を印刷して綴じて送る
ことにした。友人の陸自尉官にはすでに送っている。89式
銃剣もこの解説書に基づいて研ぎ上げるとのことだ。









これは仮印刷の物なのでモノクロだが、完成品はオールカラーだ。

私が私の早月(さつき)流の研ぎで刃物を研ぐとこうなる。
これは全鋼の肥後守だ。


日本刀研磨のように鋼の素顔を引き出す。
同時に切れ味は最良の刃付けを施してあり、この上なく切れる。


かつて戦国時代に切れ物刀鍛冶が名を馳せた地に備後国三原
地区という場所があった。(尾道まで含む)
瀬戸内の湾の入り口の海上に大小の小島岩礁を繋いで埋め
立てて城が築かれた。今から450年前に着工された工事は
天正8年(1580年)に完成し、その後も整備が続けられた。
海に浮かぶように見えたため、人はその城を浮城と呼んだ。
築城したのは中国地区の覇者である毛利の一門、小早川隆景
で、江戸期に入り福島が入封、その後紀州新宮から浅野が安芸
備後に入国して治めた。
その地は広島県東部の一角を成し、1936年(昭和11年)、
三原市となり現在に至る。

なぜ私の研ぎおよび居合剣法を早月(さつき)流と呼ぶのか。
それは、私が現在居住する三原市の花がサツキだからである。
三原は、かつて刀剣王国だった往時の姿はない。
藩の士族の流儀だった新陰系信抜流剣法も槍の佐分利流も
三原には残っていない。寂しい限りだ。
なので、主君が紀州から転入して以来、私の先祖とゆかりある地
でもあるので、私が生まれ育った土地ではないが、思慕の念を
込めて三原=早月(さつき)に心を寄せているというところで早月流
と恥ずかしながら称している次第にて御座候。

※三原城下には本職の刀職としては日刀保の入選研ぎ師がいました。
  兄弟が私の父と同級生で、うちのごく近所に住む士族でした。
  ある日、うちの二階のアパートに住むご家庭の奥さんと駆け落ちで
  逐電して行方不明になってしまった(^^;
  ちょっと艶やかな、かなりの美人さんだった(笑
  地位も名声も捨てての愛の逃避行。世の中わからないものです。
 
   知れば迷い 知らねば迷わぬ 恋の道 
  (土方歳三さん、俳句は上手くないと思う)

というか、職人さんというのは女好きが多すぎ。
そこの刀鍛冶の貴方。しっかりお願いしますよ。 (小林直紀先生じゃないよ)

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