渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

暗殺剣  士の一族

2017年02月22日 | 文学・歴史・文化


居合の剣は如何なる剣か。
一概に括ることはできない。
土佐英信流には、討ち取り対象を人混みの中に発見し、人混みを両手で
押しのけるようにかき分けて突進して斬り伏せる業が今でも残っている。
金正男氏の件もあるので、今これを書くのは生々しいが、あの暗殺と
同じような目的を達するためにその業はある。

日本には「本音と建前」という外国人には理解が及ばない精神文化が
ある。
武術の教義においても、現代武道の場において「この業は殺人目的を
完遂するためにこうやる」などという解説は一切なされない。
そのため、本当のことはオブラートなどという薄い物ではなく、深く
厚く押し包んで隠し、本質については語らずに健全な建前が述べられる。
だが、これを間に受けていたら、大間抜けも甚だしい。武術の根幹は
生きるか死ぬかの戦闘メソッドであり、いわば死闘の技術であることが
中核だからだ。
そして、武家政権時代にあってはそれが兵法の存在意義であった。

ある時、師に禅問答のように問われた。
「抜刀する時は如何なる時ぞ」と。
「己の命を守る時」と私は答えた。
答えは「否」であった。
師曰く、江戸期の武士は喧嘩両成敗であり、抜いた者は、どちらも
ただでは済まなかった。悪くすると切腹である。言いがかりをつけ
られてこちらが抜き受けても「不覚悟」とのそしりを受けることさえ
ある。
理非の問題ではない。現代感覚での現代人には到底理解が困難な、
武家には武家の独特の価値観がある。

昭和初期生まれの士族である師の言は妙に重たかった。
師は主家の家中に伝わる新陰流の目録を得ている。

而して、師の問いの答えとは、如何に。
解答は、「上意討ちなり」である。
主命を帯びた暗殺剣のみが抜刀斬殺の責を問われない。

師は言う。
敵の殺気を感じたら、避けるなり流すなり、外せばよい、と。
対峙状態において害意認知の後にこちらが行動してから殺ら
れる馬鹿な敵などいない、と。
また、「もたもたしていたらこちらが殺られてしまう」と明確に
師は言う。
居合はすべて「先(せん)先の先」であると、師筋の先達も言う。

そこで、師は更に私に問うた。
「こちらから先に仕掛けて相手を討ち取って、それで罪に問われない
士の状況とは如何なるものか」

まさに主命を帯びた上意討ちしかない。
繰り返すが、昭和初期生まれの士族の言は重い。
私は戦後生まれなので士族ではないが、師の言わんとする深いところ
は、痛いほどよく解る。
また、表向きの処世としての発表と、真の真の趣意は必ずしも同一
とはならない。
それを弁えないと、現代感覚のみに捉われた浅はかな武術解析と
なってしまう。

香具師が士族になれることは存在しない。これは、個人の力でどんなに
捏造で作り話を仕立てようとも、どうにもできない絶対事項であるから
だ。
士の流れに無い者は、本質的根幹部分になかなか理解が及ばないので、
詮無き捏造を設えて唯一の自己の拠り所としたいのだろうが、とにかく
よく嘘をつく。嘘をついて己の系脈に高貴性を後付けで付与させようと
する。この傾向性は捏造を専らとする者たちに共通している。それで
自分に箔がついたとでも勘違いしているのだろう。実は真逆であるのに。
士の流れに無きそうした者たちがその士の系脈の中に己がいると創作
したがる傾向が強いゆえに、捏造でっち上げが、士なき現代においては
あちこちでまかり通っているようだ。
江戸期には絶対に許されない(たぶん捕縛される)だろうことも、現代
社会においては武士が消滅したために、適当にでっちあげて私称すること
がまかり通っているのが実情だ。
また、事情を知らない多くの人々が、それに騙されたりする。時代劇の
創作物語が現実の我々日本人の過去であったかのような錯覚に陥って
いたりすることも多い。
だが、真実の士の歴史は、「即座に切腹できるか否か」というところに
こそある。
その心、現代においてコスプレ感覚で武士を騙る者たちにいかほど残って
いようか。残るどころか、真似っこだから、最初から微塵もない。人に対
し偉そうにしたいために過去の武士の存在を利用して集客しているだけ
なので、端から士魂などは一切存在してはいない。根っからのカタリなの
である。

漢字の原意で「吉」はなぜハピネスな文字とされるのか。
それは士が口にすること、つまり先生の教えである、と漢字の原意は
しているからである。
そして、本物の士の一族である私の師の言は、士に関する事柄について
とても重たい。
昨今流行りの、コスプレ感覚や、捏造僭称により自分が偉そうに人の
前で振る舞いたいだけの傾向とは全くの異次元に士の一族の精神性は
立脚している。

だが、こういうことは、ことさらに設えて演技しても致し方ない。
幼少からの親の躾と流れる血が士らしいか否かを大部分において
決定づけるからである。
付け焼刃や泥縄でどんなに武士を装って武士らしく見た目を取り繕おう
とも、ニセモノは贋物でしかないので本物ではなく、必ずチグハグで
頓珍漢な辻褄の合わない事が現出する。
だが、それは、真に士の流れにある者たちにとっては、無関係な縁のない
出来事なのである。

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