渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

鞘はカタパルト

2016年09月19日 | スポーツ・武道など



アーティストのアートの話ではなく、戦闘武技の話である。
「居合において、刀の鞘はカタパルトである」。
私が師匠から口やかましく教えられたことである。
これは厳密には、付言すると、「カーブしたカタパルト」という
ことになる。

私の抜刀と納刀がスムーズなのは、刀身の反り、鞘道と
刃道を合わせているからだ。

これは斬鉄剣康宏の鞘。数十万回の納刀のうち、20回近く
ミスしている。




しかし、納刀ミスは数十万回のうち20回弱程はあれど、抜刀
においては鞘内は削っていない。摩耗により緩くなった
鯉口
は経木で補修してあるが、鞘は刀身では削らない。

なぜか。
刀身の反り、鞘の反り、刃道が合っているからだ。
刀は左手で抜き、左手に納める。道筋に沿ってだ。
だからスムーズな抜刀と納刀が可能になる。


これの訓練としては、鞘ではなく左手で鯉口を握る形を
作って、そこに納めるようにする。通常の納刀の速さでだ。
刃道が合っていないとできない。鞘は帯びずにこれをやる。
また、当然にして、鞘ではなく左手で鯉口を作って抜刀をする。
これも鞘を帯びずに。

これまた刀理にそぐわないと左手を切る。

きちんと抜刀抜きつけ・納刀ができる居合剣士は誰でもできる
ことである。
だが、こうした訓練、基礎稽古をみっちりと積んでいない人は、
ほぼ全員が「回し抜き」をやっていて、反りのある刀の切先で
鞘内の棟側を擦るか、あるいは回し抜きによって鞘内の刃側を
削り
まくるか、さらには鯉口握りができていないから鯉口を刃で
削りながら抜くか、もしくは抜刀において手を切ったりしている。

私は抜刀・納刀において28年間で一度も手を切ったことがない。
鞘内も削らない。
それは、きちんと師匠から教えられた通りの剣の理に合致した
ことを実行しているからだ。
鞘内を削れ、手を切りながら刀を抜け、などという教えは居合
には一切存在しない。
これは居合術でも居合道でも存在しない。

存在しないことを実行しようとするのは誤りである。
誤りは正しいことではないので、結果もそれなりの正しくない
結果しか招かない。鞘内を削りまくり、鯉口をこすり、手を切る。
「真剣には怪我がつきもの」などという自分にぬるい言い訳を
したりして、剣技における正しい道筋にはいない自分を赦したり
する。
本筋での大成はない。



おもしろい話をもう一つ。
数ある球技の中で、バスケットというものは「バスケットを本当に
やったことがあるかどうか」ということはすぐに見て判る。
やったことがない人は正しいドリブルができないし、ボールの保持
方法やパスやシュートも適性さを大きく欠いた仕草をするからだ。

剣技の場合、一見本筋に近いような「のようなもの」がとても多く、
粗見すると形(かたち)になっているように見えたりすることがある。
実は剣技は居合などの場合は極めて高度な技術を要するのだが、
「できている」ように見えてしまうことがある。その実はまったくできて
いなくとも。
バスケットの場合は即断で、てき面に経験と技術の有無が判る。
だが、実は高度である刀を使った操刀というものは、それが瞬時
には判断できないことが時々ある。(見る人が見たら即断だが)
バスケットも居合も、どちらも極めて高度な技術を要するという点
では共通であるのだが、この両者の差異がおもしろい。

似たものに撞球(どうきゅう)=ビリヤードがある。
これもバスケと同じで、キューを握って構えた瞬間に「できる者」か
そうでないかは瞬時に判断できる。
また、フォームができている者でも、ひと撞きすればすぐにどれ程
の技量かが判断できる。

だが、大切なことは、そうした低レベルでの「できるできない」では
なく、「できることは大前提」で、さらにその大分上の「かなりできる者」
たちの中で技量がどうか、ということだ。
例えば、できない者たちの集まりの中での偏差値70であることと、
とてもできる者(例えば全国偏差値としてそれが70の者)の中での
偏差値70では、数値をみるだけでは同じ70だが、中身は雲泥の差
がある。高度な位置でのできる者同士の競い合いと、できない者の
集団での競い合いの中で「できたできた」と喜んでいるのでは、
世界がまったく異なるのである。
鎬を削るとはまさにそれで、高度な腕の者同士の戦いを指す。
箸が持てないと米は食えない。
だが、剣技における技術の巧拙については、箸が持てるか持てない
かというそういうレベルの話ではないのである。
ここ、結構大切。
なぜ大切かというと、見抜けるか見抜けないかという判断力のスキル
のことだけではなく、真の剣技ができるできないは、即、命が無くなる
かどうかに繋がっていたことだから。
居合の試合で負けようが、抜刀がそれほどできていなかろうが、
畳表が切断できたかできないかとか、低レベルの中でできたできな
かったたと一喜一憂していようが、それで命が無くならないでしょう?
そういうところでやってるでしょう?
関係ないんです、そういうのは本当の武闘技術とは。生きるか死ぬか
を分ける武人の武技とは無縁のことなんです、そういうの。
本物の武士がいた時代は、日々がまじもんの真剣勝負なんです。
ぬるかったり、トロかったりしたら、死んじゃうんですから。
居合の試合でもいますよね。特に居合人ではない試合人などに。
隣りの選手が敵だとか勘違いしている奴。まったくもって、てんで
道を外している。発想からして。そういうのは居合などやめたほうが
いいと思う。そもそもがボタンの掛け違え、心得違いしてるのだから。
業の想定での仮想敵を仮想敵としては捉えられずに、心の中で隣りの
選手を仮想敵にしてしまっているのだから、もうそこには居合は成立
していない。

本当の抜刀術を会得していれば、高速飛来する6ミリ程の球体を
抜き打ち斬りで切断することも可能だろう。
できないのは、己の抜刀術が至らないからだ。それだけのことで
ある。
己の未熟に自ら刃を向けて見つめ直すことなく、如何なる言辞で
あろうとも正道の剣技について非難めいたことをなそうとするのは、
それは抜刀術者としてはあまりもそらぞらしいことだ。

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