渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

先達の言

2016年10月18日 | スポーツ・武道など



まるで、「その足は悪しゅう御座る」と足を師の高弟にぶっ刺さ
れた江戸時代の逸話みたいだ(^^;


ただし、言われたことを素直にやらない時点でそもそもが駄目な
ような気が私にはする。
「日に500本抜け」と言われたら、私はそれを信じてその通りに
居合を抜いた。何も考えなかったし、迷いもなかった。

時間を作るには、睡眠時間を削ればいい。私はそれを実行した。

「年間100万円を撞球代に使え。それほど撞き込めば拓ける」
と撞球の師匠に言われた。
月に17万円ほど撞き込んだ。年間365日のうち360日くらい
撞いた。
剣道の立ちきり稽古と同じで、撞ききり稽古では30時間不眠
で撞ききった。
気付くとマスワリがポンポン出ていた。手玉も自在に操れる
キューさばきになっていた。
いつしか「キュー切れの鋭い撞球者」と呼ばれるようになって
いた。

居合に関しては、当時の貯金を切り崩してどうにか今生きて
いるようなものだ。

ただ、居合の「500本抜け」は、それはそれでいとわないし、
寝る間を惜しんでその通りに稽古した。
だが、その後に言った人間の実体が判明した時にはよくなかった。
曰く「1日500本抜いた?そんなことできる訳ないじゃないか。
嘘つくな」
言った本人の言である。
その瞬間、「これは詐欺師の手口だ」と見破った。
その後様子を見ていたが、やはり門下生に対しひどいことを
連続してやっているので、私はスパリと脱会し、斎戒沐浴後に
墨を磨り現在の師匠に生まれて初めて書く誓詞をしたためて
入門した。幸いにして師匠は私を直門に取り立ててくださった。
また、最初の段階で、最初の人には師弟関係という形を結んで
いなかったのも幸いだった。
一度師弟関係を結んだら、破門にならない限り、関係は死ぬ
まで続く。師弟とはそういうものだろう。関係は親子夫婦より
濃い。


居合において、私は真剣を使うことを否定しない。
なぜならば、上掲の青森の方のツイートのような稽古者ばかり
になると居合の本道から外れると私個人は思うからだ。
真剣に真剣日本刀を抜くから本物に近づける。真剣という言葉
の意味が本物になる。

きっちりとできている人が模擬刀を使うのならばなんの問題も
ないのだが、「切れない日本刀形の模型」として模擬刀を使う
ことは私は否定する。
模擬刀は大いに利用価値がある。形稽古に真剣は必要ない。
しかし、真剣日本刀を使用した際に手を切ったり、おぼつかな
かったりしたのでは、まったく居合どころか居合以前の話であり、
換言すれば、話にならない。


なので、私は、「真剣日本刀と模擬刀を適宜稽古内容によって
使用するのが妥当性がある」と考えるものである。
これまでの居合歴28年から思うに、個人的にはどちらか一辺倒
はよくないと思っている。

ちなみに、私は真剣日本刀の抜刀・納刀において、手を切った
ことはただの一度もない。
それは、わずかの期間の模擬刀時代だったが、その時に正しい
操刀法を徹底的にマスターしたからだ。真剣日本刀は初段審査
直前から使用している。
数をこなせばよいというものではないが、こればかりは基礎訓練
なので、絶対に数だ。数なくば練りは生まれない。

現在、抜刀道や最近派手に宣伝している嘘流派などの人たちを
見ると、まともに抜刀納刀ができていない。まともどころかまったく
刀の操作ができていない。まるでド素人と同列なのに宗家等を
名乗っている人たちが大勢いる。これは現実にそうなのだから
悪口でもなんでもなく、現実を私は述べている。
たぶん、地道な基礎訓練をまったく経てこなかったのだろうと思う。
そして勝手に宗家などを名乗り出したものだから、実力のないまま
お山の大将になったので、今さら数をこなす基礎訓練などやれない
のだろう。世間体やくだらないプライドなどで。
悪循環でどんどんごまかしの嘘の上塗りが開始される。
いくら写真で強面作ってポーズ決めたつもりになっても駄目なのだ。
中身が無いのは中身が無いので、中身が無いという現実は覆らず、
どんなに格好つけようとも、真実は中身がすっからかんであるのだ
から。

土台の基礎工事がきちんとしていない建物は、ちょっとした揺れで
すぐに倒壊する。
自明の理である。

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