渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

春風亭昇太

2017年05月15日 | 職人技



春風亭昇太の落語と「おも城はなし」という講演を聴いた。
前座の開口一番では昇太弟子の春風亭昇吉が古典落語
「つる」を演った。国立岡山大学を卒業後に東京大学に入学
し東大経済学部を主席で卒業したという
変り種の弟子だ。
父親が警察官というのも落語家としては変わっており、それを
ネタに噺のまくらに持って来ていた。

昇吉は、まくらはとてもよかったが肝心の噺の部分が良くな
かった。
なによりも「間(ま)」がよくない。まだ二つ目というのも判る噺
だったが、今後に期待。
というか、自分が馬鹿になるところがどうにも馬鹿になりきれて
いない。間抜けを演じるのがまさに「演技」に見えてしまう。
間抜けを演じるには間抜けになり切るのだが、それは間抜け
ではできない。そこをあたかも本物の間抜けであるかのように
見せるのがプロの職人芸だ。そこに落語の上手い下手がある。
そして、江戸古典落語には、間抜けだろうが頭の弱い奴だろうが、
それを包む周りの人間像の温かさがある。それが江戸古典落語
の息遣いだ。江戸落語の江戸の登場人物たちは、長屋の頭の
弱い奴をのけ者にしやしない。
そうした息遣いが昇吉の落語からは微塵も感じられなかった。
これはもしかすっと、東大卒だからとかいうのではなく、岡山県人
特有のヒエラルヒーを心の常とする人を見下す睥睨感の気質が
いつまで経っても根っこにあるからかも知しれない。
となると、絶対に昇吉は落語家として大成しない。一皮も二皮も
剥けて、江戸古典落語の神髄を極めてほしいと心から期待する。


昇太師匠の落語は新作落語で「ストレスの海」を演った。上手い。
後の講演の「三原城は海の上にあった」というテーマともかけて
いるのだろうニクい選択を感じた。

まくら部分で年末の紅白歌合戦の審査員に選ばれた時のエピソード
を語った。
昇太師匠の噺は爽やかな明るい毒があるのがいい。

落語のまくらで会場を笑いに引き込むために「AKBをこの(至近)
距離で見た
人、ここにいますか!?」というネタを800名程の観客
会場に振った。いわゆる自慢ネタだ。
その時、前のほうの客席にいた私は、咄嗟に「はいっ!」と大声で
手を挙げようかと
思った。
そして昇太師匠が「ええっ?あなたあるの?(◎.◎)」と言ったら、「ええ。
夢の中で」というオチを言おうかと思った。
しかし、現実ではそういう「壊し」は私はやらない。いくらウケても
それは職人の噺を壊す野暮だからだ。
よく一般的な世界でも、面白話をしてネタを出した時に「そういうのは
ここにもありますよ」と資料やネタを返す人がいるが、それらは野暮
の極みであって、そういうのをプロの噺の前でやっては野暮以下の
ゲス
になってしまう。
立川談志の高座で時そばか何かの噺の時に、本当に席でそばを
食い出した客がいて、談志はぶち切れて怒ったというエピソードが
ある。それは下衆だからだ。当然。
私も下衆にならずに良かったというオチ。


昇太師匠の噺のまくらの中で、面白い一節があった。
紅白の審査員の控室での相互挨拶の時のこと、並びいる美女たち
のその向こうに天童よしみさんがいた、ということを絶妙の間(ま)で
言った。

会場では大爆笑が起きた。
すると昇太師匠は「私はありのままの事実を言ってるだけで、もし
悪魔がいるとしたら、みなさんの心の中に悪魔が住んでいるのだと
思いますよ」と。

ここでも会場は大爆笑だった。
私が感じ入ったことがある。
それは、ここでの師匠のネタそのものが本当は天童さん
いじりなのだが、文字言葉上はまったくいじりを構成しておらず、それが
話の置き方と間(ま)によってのみの手法で観客いじりに転じるという
スライド技法が職人技として非常に
面白いと私は感じ入ったのである。
落語家のハナシの職人技を堪能した。

それに昇太師匠はホントにとても「間(ま)」がいい。いらぬくすぐりを
入れずに
ハナシだけで単発的にテンポよく、どんどん笑いを取って
行く。本当のプロの職人である。

昇太師匠は年齢は私の一つ上だが、とても若く見える。
いつまでも人に笑いをもたらす仕事を続けてほしいと心から願う。

昇太師匠をメインとして城郭ライターの萩原さちこ氏を招いての三原
城講演(1時間)では、
三原城の解説としてはwikiペディア以下の
内容しか語られず、また
城郭ライターとしての萩原さんにしては、
あまり知らないのかな?と
思われる部分も多くあり、名店でぬるい
蕎麦を出されたような印象
を受けた。
昇太師匠も城郭マニアで有名で著書まであるのだが、三原城に
ついてはよく知らなかったようだ。
ただ、三原城の本当の良さについては鋭く指摘して、「ここが三原城
の特筆すべき点」とステージで解説していて、さすがなりとこれまた
感じ入った。


また、なぜ一国一城令の下、福島という太守が安芸備後に赴任した
中、広島本藩の広島城があるのに三原城は取り潰されなかったのか
についても、卓見を昇太師匠は披露していた。
ただ、師匠は言わなかったが含みを持った発言をしていた。「何かある」
と。
私も「何かある」と思う。
同国内で江戸期に城が二城ある例は肥後熊本-八代にもあるが、
三原城の場合も、特殊なある事情が徳川政権が高度な政治判断で
下したことだろうと思う。
それは毛利を懐柔させるため、ということには当てはまらないと思う。
なぜならば、一国一城令の時には毛利は長州に減封されていたから
である。毛利一門小早川家が愛した三原城はすでに毛利一門の城
ではなくなっていた。
その歴史上の「何か」とは何であるのか。

こうした疑問を解く好奇心から歴史研究などは進められるのだろう。

私が今残されている三原城の本丸石垣について私も感心するのは、
北面左右両端で詰まれた時代が異なる(過去の自身による崩落等
によると推定)のだが、一部とはいえ戦国期~江戸ごく初期の石垣
が現存しているということ自体に驚く。
こうした例は実は全国でも非常に少ない。
福島正則の石工職人集団の築城技術に私は驚愕するのである。

職人技というものは、本当にとてつもなく大きい。技のスケールがでかい!
たとえかんざし職人は小さな細工物を手掛けていても、超絶技巧の
スケールにおいてはものすごく大きなことを成し遂げている。
他の職人たちも然りなのである。
職人、凄し!

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