渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

結界を越える ~抜刀道と居合剣法の違い並びに試斬と居合斬術の違い~

2016年10月18日 | スポーツ・武道など

私の切りをご覧になった方は、「あれ?何か違う」と思われた
方が多いのではないかと思う。

私は、刀を抜いて、間合いを計って、そして足を止めて、腕の
振りだけで畳表を切ることをしないからだ。


私の場合はここから切る。


居合斬術 -二代目小林康宏-
① 1992年 Samurai Sword Katana Cutting - Iai - 2 dan


水平返しの一例のみを除いて、足を止めて、居着いてから

腕の振りだけで切るということを私は一切しない。


斬術 -二代目小林康宏- ③ 1992年 Katana Cutting - Iai -

つまり、私の切りは、抜刀して、構えて、足を止めてから畳表
を切ることとは別なことをやっている。
「切るため」を目的として「切る」ことをしていない。
先述の弓聖の言葉の教えに繋がる部分があるかと思う。

私が行なっていることの核心は、居合∋居合斬術なのであり、
物切り≠居合なのだ。後者は私の思惟ではなく定理である。
従って、私はすべて一足一刀の敵の間合いの外から、結界を踏み越えて
斬撃しているのである。(諸手水平返しのみは除く)
立ち技においては、剣術的要素を多分に採り入れている。


逆を言うと、私は刀を抜いて、立ち止まって、畳表を切るという
ことはやらない。できないのではなく、やらない。
剣技において意味がないと私は思っているからだ。
畳表はこちらに攻撃して来ることはないが、ただそこに地蔵の
ように居着いている敵などはいない。
足を止めて、静止物体を切るのは、それは後ろ手に縛った捕虜
を首打ちするかの如しだと私自身は思っている。
捕虜斬殺とは異なる居合剣士の「介錯」の業は唯一「敵」を相手
にしていないものだが、それとて、足の踏み出しと同時に(英信流
本伝では)片手で刀を振り、切る瞬間に両手を添えて切り止める。
足を居着かせて腕だけで刀を扱うことはしない。

空気切りのカタチ居合を嘆いて抜刀道という武門を完成させたのは
中村泰三郎氏だが、その後試斬を剣技として採り入れる人たち
がかなり増えた。抜刀道連盟は分裂を繰り返したが、試斬術は
現在も「抜刀道」という居合や剣術とは別のジャンルとして大いに
盛んに行なわれている。居合そのものよりも、人気があるほどだ。

だが、私自身は「居合」をやっている。「抜刀道」はやっていない。
私の物理的な物切りは「居合」のカテゴリーの中の一稽古科目
として位置付けている。
ゆえに、私は私自身の物切りを「居合斬術」と名付けている。
私が捉えている「居合剣法」とは、「居合体術・居合刀術・居合斬術」
のどれが欠けてもだめで、それらが三位一体となり剣技たる「居合
剣法」を構成していると捉えているからだ。
最大の特徴は、「足を止めて被切断物の前に仁王立ちに立ち止まり、
そこから腕の振りだけで切る」ということを一切やらないことである。
私の切りのすべては、敵との結界の外から結界を踏み越えて己の
身を間合いに踏み込みながら切っている。結界の外から結界を
自ら越えて行くのである。心と技を融合させた静から動への
転であり、間合いを体で切るのである。それは当然、敵の刃も
我に届く距離に踏み出すことになる。刃が届く距離は、そこは
安住の地ではなく死界でもある咫尺(しせき)の間であり、そのボーダー
たる死線を越えるところに我が身を入れてそして敵に対することが
私の居合剣法の最大特徴となっている。
つまり、私の物切りは、「結界を超える」、「間合いの外から間合い
の中に入る」という点において、居合そのものなのである。
私の剣法は安全地帯からのロングディスタンスファイトは想定
していない。すべてインファイトだ。
そのことは「抜きながら切るのが居合」という物理的な一側面に
矮小化されるものではない、大きな意味を含む。
結界を越える際にも、私は、「踏み出し」「踏み込み」「踏みきり」を
明確に自分の中で区別している。自己認識に識別があるから区別
と弁別ができる。
こうしたことも、私の「切り」は据え物切りではない「居合」であるからだ。
剣技なのである。
当然「居合の抜きつけ」「居合の抜き打ち」でも切りつけるし、諸手
からの剣術操刀法でも、居合剣法としての武技の一環として術技
の根幹から外れないようにしている。
理由は、私がやること、やろうとしていることは、抜刀道ではなく「居合」
であるからだ。

これが抜刀道と私がやる居合剣法との大きな違いである。
私の物体の「切り」を見て「何か抜刀道と違う」と思った方は多いかと
思う。何かしらの違和感も感じることだろう。
だが、要点はそこだ。
立ち止まって仁王立ちから静止物体を切っても、私がやる居合剣法
としては剣技として得るものは無いと私は考えているので、私はそう
した物切りはやらないのである。

斬術 -二代目小林康宏- ⑧ 1993年 Katana Cutting - Iai -


普段の斬術稽古には軽く刃引きをした「切れない刀」を使用して

斬術を剣技の稽古として行なうが、キンキンに刃を立てた刀での
試斬の「刃味の確認」のためのゆっくりとした「物切り」においても、
一足一刀の間合いからの「結界を越える」動作を基本に置いている。

(上掲の複数動画から20年後の切り動画)
刀の刃味を確かめながら斬ってみた 2013


ただし、こうした私のコンセプトで巻き畳表に向かう人は、国内では
私以外に見たことがない。実に多くの物切りをする人たちと接したが、
まず見たことがない。私の仲間内の試斬稽古グループの中でも、
私のように捉えて畳表を切る人は皆無であった。皆が足を止めて
据え物切りをしていた。
どの連盟であろうと、連盟に属していなかろうと、居合をやっている
人でさえも、畳表を切る際には、足を止めてそこから刀を構えて
畳表を切っている。
唯一、林邦史朗先生が存命の頃の全日本刀道連盟の林最高師範
の切りと、曽我師範代の切りの設定が私自身の切りの
コンセプトに
近いものだった。

しかし、基本的に私のような設定と視座で畳表を切る人はまず見かけ
ない。
ゆえに、私の方法は圧倒的なマイノリティであり、今ウケはしない。
しかし、それでいい。
私は「居合」をやるのであるから。
畳表を切断できることを第一義として切るための特殊刃物を製造させ
て使用したり、足を居着かせて、畳表を据え物切りすることをやろう
とは私は寸毫たりとも考えていないし、望んでいないからだ。
私は「居合剣法」をやるのである。すべてはかつての武士の時代の
対敵武技の稽古の一環として捉えて研鑚を続けている。

そして、よく「そういう形(かた)があるのですか」と訊かれるが、私の
切りに形(かた)はない。
何故ならば、畳表を「切る」ことが目的ではないからだ。
そこが弓聖が言う「
的に中てようと思うな」、「自分を離れて弓を射よ」、
「貴方の矢が的まで届かないのは、貴方の精神が的まで届いていない
からです。弓道の奥義は、的のことを関知しません」ということに合致
する。

切ることを目的にしない。だが、切ること一点に己のすべては集約
されている。
禅問答のようだが、この核心部分の実体を私は掴みたいと思って
私は剣を取る。



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