渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

ブッシュクラフトと武術から何を学ぶか

2017年07月29日 | アウトドア


ケラム製J.P.ペルトネン(フィンランド)。軍人からの頂き物。

北欧系ナイフ=puukko ナイフは、軍用ナイフであっても、
ベースはラップナイフ(フィンランドの民族ナイフ)であり、
そのままの形状でブッシュクラフトに適している。

ラップナイフ(マルティーニ/フィンランド)




ラップナイフは元々は実用ナイフであるので、金額は高くはない。
だが、最近は北欧ナイフブームであるので、普通に1万円を超える
価格で日本では販売されていたりする。私が頂いたプッコも日本
国内で入手しようとすると日本円では2万円近くしてしまう。
だが、一般的に北欧現地で手に入るラップナイフは日本円にすると
3,000円~5,000円程だ。
しかし、金額ではない。実用性は非常に優れている。ある場面では
アメリカンナイフよりもずっと優れている。

北欧のナイフの形状は日本刀にどことなく似ている。
プッコについての過去記事 ⇒ プッコ

ラップナイフの典型的な姿。
このナイフなどは、とてつもなく使い勝手がよさそうだ。

日本の和式刃物(短刀を含める)に太めの柄を着けたような姿だ。
この太い柄というのはとても大切で、北欧の樹木を削ぎ落す作業
では細いハンドルだと力負けしてしまうため、この太さは必須なの
である。物理的な必要性からこの形状が誕生した。手の内を利か
せるために細い柄に進化した日本刀の柄の思想とは用法が違う
ために物理的な姿も違う物となっており、これは比較文化として
非常に面白い現象だ。

フィンランドのエンゾーも非常に日本刀の形に似ている。
私のプッコとほぼ同形状といえる。こういうことから、北欧ナイフは
何を求めて進化したのかという点に考察が及ぶ。


ブッシュクラフト三点セット。
斧、ナイフ、ククサ。なぜククサかというと、現代化学素材を極力
忌避するという思想性がブッシュクラフターの心の中にはあるから
である。そのために、ファイアークラフトにおいても、ガスライター
や着火剤は使わずに、極力火打石と火口(ほくち)を用いて着火
し、火を育てるワーキングを行なうのがブッシュクラフターだ。


私のプッコで火口(ほくち)であるフェザーを作る。かなり使い易い。


シュッシュとフェザーが作れる。


火口は火山の噴火口ならば「かこう」、鍛冶炉の空気穴ならば
「ほぐち」、火の焚き付けならば「ほくち」と読む。それぞれ全部
意味が異なる。
日本語の場合、「音(おん)」が同じならば漢字の区別には厳密
さは求めないという文化が明治までは存在した。
そのため、音が同じであれば借り物の外来文字である漢字など
はどうでもいい、というのに近い感覚があった。松五郎は末吾郎
でもよいし、満津五朗でもよかったのである。
また、逆に、音が違えば別な事象を表していることが日本語には
多い。
そのため、当て字である漢字による表記は、どのように読むかに
よって意味がまるで異なる別な事象を表現しているケースが日本
語には多い。
本数の読み方のように、別音ながら同じ意味というケースは、日本
語ではあまり多くはないのである。

[本の読み方]

1・・・ぽん
2・・・ほん
3・・・ぼん
4・・・ほん
5・・・ほん
6・・・ぽん
7・・・ほん
8・・・ぽん
9・・・ほん
10・・・ぽん

これには外国人は非常にとまどうらしい。
そして、「火口」は焚火においては「ほくち」と読み、焚き付けの
火種のことである。

ブッシュクラフトにおいて木片を削りそいでフェザーを作るのは、
着火し易い形状に木片を変化させるのが目的であり、フェザー
を作る事そのものが目的ではない。
ここ、結構大切で、この本質を心得違いすると、フェザーを作る
ことが目的化して、ブッシュクラフトを単なる小手先の表層を求
めることに矮小化してしまい、ブッシュクラフト本来の思想性と
大きく乖離してしまう。
それらは道具自慢のキャンプや庭先友人バーベキューで高級
ワインを開ける方向と同じ方向性に視点が向くことになる。
ブッシュクラフトはそうしたことをやるアウトドア活動ではない。
フェザーを作ることが目的化するということは、着火においても
ガスバーナーでもよいということに繋がる。
理由は、本来の目的が目的として意味を成していなくなるからだ。
買い物をするのは、その物品を入手することが目的であり、その
物品の入手目的は何かにその物品を供するためである。
ところが、買い物そのものが目的となり、買ったらポイ、次に
また別な物に目が移り買うということになってしまったら、それは
一種の精神的な病気なのだといえる。
さらに喩えるならば、例えばフライフィッシングにおいて、綺麗で
見栄えの良いフライを巻くことが目的化して毛鉤のフライタイ
イングに精を出すようなもので、絶対的に本末転倒なのだ。
フライフィッシングのフライ=毛鉤はトラウトという鱒類の魚を
釣るために作製される。毛鉤を作るために毛鉤を作るのでは
ないのである。
ここのところをブッシュクラフターはよくよく自問することが結構大切
なことだろうと私は思う。

武術馬鹿、武道馬鹿には愚にもつかぬ知識のコレクターが多い
のだが、それらは目的と手段が逆転して本末転倒になっている
ため、道を見誤って大きな心得違いをしている。
ゆえに、結果として武道馬鹿、武術馬鹿は人格的にも人として
下の下を地で行くという人間ばかりになる。
要するに、本質性の希求から乖離して目的と手段を逆転させる
からそういうことになる。どの分野でもただの知識のコレクション
などはそれの典型例で、実にくだらない。

ブッシュクラフトにおいて、火を熾すためではなく、フェザースティック
を作ることが目的となってしまうような精神性というものは、武術馬鹿
の下の下の人の道から外れた人間の道と同じ精神領域に繋がる
危険性があるので、アウトドアマンはブッシュクラフターとなりたいの
であるならば、充分に自問して自戒する必要がある。道具自慢や
知識自慢の知識収集家と何ら変らない行為はブッシュクラフトに
おいては「愚」そのものであるのだ。そういう暗愚に包まれて前後
不覚になるためにブッシュクラフトがあるのではない。
ブッシュクラフトに「こうあるべきだ」という定義も縛りも規則も何も
無いが、何も無いがゆえ、なおさらに、ブッシュクラフターたらんと
するアウトドアマンは、己の立ち位置、精神性に確固たる思想性が
必要となってくるのである。
それは何か。

フェザースティックはナイフの刃付けや断面形状により簡単に出来る
場合と出来ない場合がある。
手持ちナイフでフェザーがうまく作れなかった場合は、このようなチップ
でもよいのである。目的はフェザーを作るのが目的ではないから。


フェザーはあくまで「火口(ほくち)の一つ」なのだとしっかりと捉える
ことが必要なのである。
フェザースティックでなくとも、解いたヨリ縄でもよいし枯葉でもよい。
枯草などは最適だし、松類等の針葉樹林は油分が多く燃えやすい。
「目的は何か」ということを見失わないことが、ブッシュクラフトで得よう
とする人としての学習のコア部分なのだ。

なぜか。
ブッシュクラフトはサバイバルワークではないあくまで「趣味」「嗜好」
の領域に属するものであるが、「ブッシュクラフトから何を学ぶのか」
ということこそがブッシュクラフトの目的だからだ。
無論、ブッシュクラフトによって心の癒しを感じる人もいるし、そうで
なくストレスを感じる人もいる。
しかし、それらを行なっているのは「人」である。
人について見つめ直す時間と行為、これこそがブッシュクラフトの
中心領域を構成しているのである。
フェザースティックはなぜ必要なのか。では、火口はなぜ必要なのか。
さらにならば火はなぜ必要なのか。ナイフはなぜ絶対に必要なのか。
そうしたことを常に感知して体感して、そのアウトドアワークから人が
人として生きることの意味を学ぶのがブッシュクラフトだ。

武術、武道において目的が「稽古すること」や「知識を集めること」と
いうようなことに矮小化された本末転倒現象が起きるのは、武術の
本当の目的が現代社会においては物理的に認められないこととも
大きく関係がしている。それは人の死を直接司ることがかつての
武術の存在意義であったからだ(武道にしても根源的には同)。
だが、人を殺してはいけないこととなった現代であるからこそ、なお
さら武術の持つ意味をしっかりと捉える必要が生じてくる。これは
ある意味、武術の単純目的通りに完遂してそれが良とされた時代
よりも厳しい視点と自覚が現代人には問われているということでも
ある。
そのことをどれほどの武術を行なう人が自覚しているのか。

現代において武術、武道を何の為に修練するのか。
無論、鍛練・訓練・修練・稽古することが目的ではない。では何か。
かつて人の死に直截に関与した武術という物を現代人が学ぼうと
するのはなぜか。その目的は何か。何を得ようとしているのか。
それは、武術がかつて持っていた本質的目的の自己否定化に
向かわない限り、現代における武術修練の意義は見いだせない。
武術の神髄を知れば知る程、習得すればする程、目を逸らさずに
人の死と面と向かうことになり、人を大切することの重要さを思い
知ることになる。
そうしたところが見えていない者は武術餓鬼となり、「強くなること=
偉いこと」とか「人を虐げること」とか「人より優越している」などと
いうことを嗜好する方向に精神が向かい、心はダークサイドに支配
される。
暗黒面に心が支配された武術馬鹿は非常に多く、武術をやっている
ことが偉いことであるとか、人より優れているとか大きな勘違いをして
人格が破たんして行く道を自分で選ぶ。
暗黒面に心が支配された武術馬鹿は、かつて本来人の死を司った
武術の表層面だけを形だけなぞって、武術家にでもなったような
つもりになる。
暗黒面に陥った愚者の行ない、大きな心得違いは個人的な問題
だけではなく、社会的な問題性を惹起する。
これは現実にあちこちで発生しており、人が人を傷つけ、踏みつけ、
愚弄し、嘲笑し、罵り、睥睨し、差別して排外することを好む人間が
自称武術家を名乗っていたりするという現象を生じさせる。

武の象徴の一つを剣とするならば、剣は心である。心正しからずん
ば剣また正しからず。
そして、現代剣士は剣士であるがゆえ、換言すれば武人であるが
ゆえを以って人の上に立つものではない。人は人であり皆同列だ。
やっと人が人として認められ認め合うことが許される時代が来たの
である。
現代武術者は、心得違いをして人の道を外してはならない。

ブッシュクラフトというアウトドア活動は、自然の中で人間が生活時間
を持つことで、危険や死を身近に意識して、それを回避し、人として
生き延びることの意味を自問する環境に自らを置く。
そこで得るものは、現代人が武術修練で得る本質的なものと共通する
精神的な面が非常に強い。
「人を大切にすることの重要さ」
これを得ない現代における武術修練やブッシュクラフトなどは、一切
意味を持たない。

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