渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

刀の切れ味 〜信州松代藩の荒試し〜

2006年09月16日 | 日本刀

「日本刀は強靭である」という神話は作られたものだ。
そこらの一般的な刀は簡単に折れる。
特に現代刀などは、信じがたいが、部屋の蛍光灯のナイロン紐を切っても
刃こぼれする。
戦国時代の刀剣はそのようなことはない。
しかし、江戸期の新刀・新新刀、現代刀の作品は概して実に脆い。
但し。
江戸期でも現代でも、強靭な日本刀は存在する。
だがそれは極めて稀有な存在で、1000人刀工がいたら、刃味よく頑強な性質
を持つ作を作れる刀工は十指に満たない。
現在国内には300人程刀工がいるが、本来の日本刀としての性能を具備してい
る作を作り出せる刀工はほんのごく少数だろう。

きょう、TVの「何でも鑑定団」で日本刀の鑑定をやっていた。
銘によると「大慶直胤(たいけいなおたね)」。
幕末の復古刀の推進者水心子正秀の高弟で沸物(にえもの)の相州伝を
焼かせては当代随一とされた。
沸(にえ)とは、加熱して面心立方格子のオーステナイト(γ鉄)から体心
立方格子のマルテンサイト(α鉄)に変わる(変態という)際のマルテンサイ
トの粒が大きな状態をいう。
その粒が大きめに刃縁に表出する刀の出来のことを沸(にえ)出来という。
見た目には極めて華やかだが、硬い部分が大きく分布しているので、物理的
には実に折れやすい。
これに反して、マルテンサイトの粒が肉眼では確認できないほど細かく、
うっすらと朝霧が差して来た様な出来の作を匂出来(においでき)という。
こちらは硬いマルテンサイトの周りにトルースタイトという鋼の状態が包む
ように固着しており、強靭性を発揮する。
但し、見た目はボヤッとしていて覇気がないように見え、鑑賞刀としては
江戸期〜現代まで人気がない。
しかし、武用としては、沸出来は折れやすいので、匂出来の刀の方が適して
いると古来から言われていた。
命を賭けた武士の表芸の際に刀が折れては一大事だからだ。

本日の鑑定団の直胤、「偽物(ぎぶつ)」との鑑定だったが、それで良かっ
たのではないか。
実は、直胤は江戸期〜現代でも、鑑賞好きな人間にとっては高値の刀で、
投資目的の商人たちの物件としては適しているのだろうが、武士の差し料と
しては、大いに問題があるからだ。
私などは100両付で差し上げると言われても辞退する。
その訳は幕末まで遡る。

それはなぜか。
少し長くなるが、日本刀剣史上、後々まで語り継がれた信州松代藩の荒試し
の模様を紹介しよう。
日本刀の実体とはどんなものかを少しでも知りたい方は必見である。
以下の記述は、松代藩武具奉行金児忠兵衛の筆録『刀剣切味並折口試之次第』
という精密な記録及び四谷正宗と呼ばれた幕末の優秀刀匠源清麿研究の第一
人者花岡忠男の試刀会記録写本からの引用、清麿の兄である刀工山浦真雄の
自著『老いの寝覚(おいのねざめ)』、更に福永酔剣『日本刀の斬れ味』、
隆慶一郎『鬼麿斬人剣』を参考にした。

幕末の信州小諸の名工山浦真雄は、江戸で「四谷正宗」と呼ばれた源清麿
(本名山浦環(たまき))の兄である。
真雄は信州の郷士の嫡男で、初め剣を志し、江戸下谷練塀小路の一刀流中西
道場で学んだ。心形刀流と真心流剣術も修めた。
やがて彼は、剣士にとって生命ともいうべき刀の目利きに異常に執着し、
試刀を繰り返す。しかし、本当に気に入った刀がどうしても見つからない。
そこで、遂に自分が刀工になってしまったのである。
小諸藩一万五千石牧野家の扶持を得て鍛刀に励んだが、やがて信州上田藩
五万三千石松平家に移った。
信州において、「信州正宗」の評判を得た真雄が隣藩の松代に出かけて行っ
た際、松代十万石真田家から招聘の話が起こったのは嘉永6年(1853)2月頃
だったらしい。
松代にいる真雄に真田家家老真田志麻が試し切り、打切り試しを命じた。
しかも、沸出来が得意か匂出来が得手かとわざわざ尋ね、真雄が
「沸出来は姿は華美だが自分は得意ではない。実戦用には匂物がよいと
 思うし、これなら得手である」
と答えたのに対して、それならその不得手な沸出来の刀で試したい、と申し
入れ過酷な条件を付加したが、これには実は訳があった。

それより20年も前の天保4年(1833)、松代藩主真田幸貫は、せまる外敵から
の危機を予見して藩内の武器拡充策を計った。非常時における藩士用の長巻
(ながまき=なぎなたに似た刀剣)と刀を大量に注文したのだ。
この時、その仕事を一手に引き受けた刀工が、華美な刀剣を嫌って古伝の鍛
刀に戻れと自著『刀剣武用論』で気を吐いた水心子正秀(本名川部儀八郎)
の下に集まった百余名の弟子のうちの一人、出藍の誉れ高いと謳われた江戸
の大慶直胤(たいけいなおたね)であった。

直胤は当時の真田家江戸家老千四百石矢沢監物がひいきにしていた江戸随一
といわれていた刀工だった。
その関係で真田藩の上士たちは、江戸に出れば直胤の刀を手に入れたという。
この注文によって長巻50振り、刀100振り以上が直胤により真田藩に納められ
た。

その直胤の刀が、松代で脆くも折れた事件が起こった。
何人かの武士がこの噂をききつけ、自分の差し料の直胤で試した。
やはり簡単に折れる。
大騒動になった。
平山行蔵の高弟だった山寺常山は、真田藩の寺社奉行を務めていたが、噂を
聞いて早速試した。
古刀五郎入道正宗との比較も試み、このためあたら正宗を一振り廃物にして
いる。
この結果、激怒して大慶直胤を「大偽物(おおにせもの)」と罵倒し、
「十年前に戻れるなら、評判に惑わされた世人の目を醒まさせるために、
 直胤の刀を真っ二つに叩き折ってやるところだが、今、目の前にいなく
 て本人も運のよい男だ」
と手紙に書いているほどだ。
直胤の庇護者の矢沢監物が死ぬと、松代藩と大慶直胤との縁はぷつりと切れ
たという。
こうした歴史があったので、松代藩は真雄に過酷な条件を強いたのである。

真雄は、この注文を押し返した。
沸出来の刀は、焼き入れが高温のために焼きが深くなり、匂出来よりも折れ
易くなって実用に向かないのは古来の定説である。どうしてもというのなら
ば、得意の匂出来の作と両方作らせて欲しい、と要求した。
彼のこの要求は受け容れられ、真雄は二振りの刀を松代で28日間で仕上げて
いる。

嘉永6年(1853)3月24日、試刀会は松代藩武具奉行金児忠兵衛の表柴町の
邸内で行われた。集まった藩士は120名を上回った。
10人が選ばれて目付役となった。
試し役は7人で、いずれも家中手練(てだれ)の者だ。
研ぎ師が2人、外科医が1人臨席した。刀が折れて怪我人が出たときのためで
ある。
山浦真雄本人は麻裃(あさかみしも)姿で縁側に座っていた。裃の下に密か
に白無垢を着込んでいたと伝えられる。己の刀が無様な姿を見せた場合は、
即座に腹を切る覚悟だったという。

試刀が開始された。

第一は問題の大慶直胤作2尺3寸8分、天保6年作、荒沸出来の刀。
長巻師範の柘植嘉兵衛が俵菰(たわらこも)2枚束ねの干し藁を切ると八分
切れに止まった。切れ味は「中位」と記された。
次に斉藤増吉が厚さ8厘(りん)、幅3寸の鍛鉄に切りつけると、刀は鍔元
7、8寸のところから二つに折れた。折れ口は氷のようだった。荒沸出来で
美術刀論者はよだれを流しそうな刀だったという。

第二は、同じ直胤作、2尺3寸の匂出来の刀。
柘植嘉兵衛が最初に干し藁を一太刀斬ったら、刀身が反り伸びた。
そのまま5人で交代で切ってみたが、いずれも8分切れだった。
次に鉄砂を詰めた陣笠を高野車之助が斬ったら、一太刀で反ってしまい、
ニ太刀目には刃切れが入り刃がこぼれる。
更に鹿角に三太刀、鍛鉄に三太刀。鍛鉄を少し斬り割りヒビをいれたが刀
も刃切れが多く出た。
次いで金児忠兵衛が兜に一太刀加えると、大いに伸びる。
それを鉄敷(かなじき)棟打ち七太刀、平打ち返し打ち四太刀で折れた。
匂出来だけあって、よく耐えたというべきである。

第三が同じ直胤作の長巻。
干し藁をニ太刀斬っただけで刀身は曲ってしまった。
しかも切れ味も5分しか斬れていない。

第四が直胤の別の長巻。
干し藁への一太刀で曲り強しとある。切れ味も5分。

第五も直胤作長巻。
干し藁にニ太刀、5、6分切れ。
鹿角にニ太刀、一太刀目で刃こぼれの上、大いに伸びる。
ニ太刀目にて伸びて刃切れ大きく入り、曲り大にして強く、切る事不能。
鉄敷棟打ち三つ、平打ち二つで刃切れ口大いに相成り、曲りぐだぐだにて
其儘(そのまま)に差置く。

この5振りの大慶直胤は、いずれも城方常備として納められた品である。
そのうち、辛うじて合格といえる物は、たった一振り、第二の匂出来の刀
だけで、あとはすべて腰が弱すぎて実用にはならない。
積年の大慶直胤への不信感が一気に実証されたようなものだった。
直胤といえば新新刀の巨匠として幾多の「名作」を遺しているが、武士が
腰にする日本刀としては失格、単なる見てくれの、いわゆる美術刀に過ぎな
いことになる。

次いで、第六に真田家御用鍛冶の多々良弘一の刀。
鍛鉄を斬ったところで折れた。

第七の同じく御用鍛冶朝日喜市の刀は兜試しのところで折れた。

第八の古刀の長巻と第九の奥州物の古刀は、一振りは干し藁だけで止め、
一振りは同じ竹入干し藁に一太刀あびせただけで大曲りとなる。

十振り目の大阪新刀とみえる無銘の刀は、四分一(しぶいち=銅と金の合金)
の厚さ1分3厘の大透かし刀鍔を斬ったところ、モノウチから折れて飛んだ。

十一振り目は長さ2尺の胤長作の山刀。
革包鉄胴に三太刀で刃切れが入った。
胤長は直胤の弟子だから、脆さは師匠譲りということになる。

そして、十二振り目に登場したのが、山浦真雄の長さ2尺1寸5分の荒沸出来の
刀である。
荒沸(あらにえ)は折れやすいと評判のものであり、真雄が得意ではないと
ことわった作風であった。真田藩抱え工採用試験だからこそ、あえて注文
通り鍛えてみせた刀だった。

試しは俵菰2枚重ねの干し藁から始まった。

  「一、干藁 一太刀 但九分切」
『切味宜(きれあじよろし)』と記帳された。

  「一、同 十太刀 何れ(いずれ)も八、九分切」
10回切ったが、誰がやっても8、9分は切れ、切れ味は変わらなかった。

  「一、竹入藁 六太刀 但七、八分切」
更に中に青竹を入れて6回も切ったが、17太刀目でわずかに切れ味が鈍った
だけである。
ここで砥ぎ師が刃を付け直した。これからは堅物(かたもの)の試しに入る
ためだった。

  「一、古鉄厚一分幅七分 一太刀 但左右へ切れて飛ぶ 刃切れ入る」
鉄は古いほど鉄性が精良で新鉄に勝る。それを完全に両断したのである。
さすがに初めて刃切れが入ったが、驚くべき切れ味であり、強靭さも他の
刀とは別物だった。

  「一、鹿角 六太刀」

ビクともしないので、そのまま竹入藁に切りつける。
  「一、竹入藁 二太刀 但刃コボレの儘にて六分切
   一、鉄砂入張笠 二太刀
   一、古鉄胴 二太刀
   一、四分一鍔 一太刀」
これは既に切れ味試しではなく打ち折り試しの限界への挑戦に入っている。

  「一、再び四分一鍔 一太刀
   一、鍛鉄 一太刀
   一、兜 一太刀 但鉄槌にて曲りを打直し切る」

鉄兜切りつけでようやく曲りを生じたのを鉄槌で打ち直して使用したので
ある。
それでもまだ折れない。驚くべき粘着性だった。
以上の34太刀の切りつけで「切りつけ試し」を終わる。
これから先は完全な打ち折り試しである。
長さ5尺5寸、重さ830モンメの鉄杖で刀の弱点とされる刃部の反対側、つまり
棟(峰、背部)や平面(鎬=しのぎ)を強打して折るのである。

さて。。。

  「一、鉄杖 棟より充分に七つ棟打を切入る
   一、同 平より六つ充分に打つ」
これは手に持った刀を鉄杖で強打したものだ。

  「一、鉄敷 棟打六つ
   一、鉄敷 棟打七つ」
ここで刃切れ、つまりさけた口がようやく広くなったという。

  「一、平打三回して裏返し打つ事二回にして折る
     棟切三ツ刃切れ十ニ有之(これあり)」

最後の試しの模様は、この短い記述から充分に中身を察することができる
と思う。
試し手はほとんど躍起になっている。
息を切らせ、これでもか、これでもかと殴り続けている。
それでも折れてくれない真雄の刀に、試し手は恐怖さえ感じただろう。その
伝承が『古老証話』にある。
 「その折の模様は洵(まこと)に峻烈を極め、見物の諸士も
  進行につれて真剣そのもの。手に汗を握るが如く、肌に粟
  を生ぜしが如く」

これが刀剣史上に後々まで語り継がれた「松代藩荒試し」の模様である。
真雄の刀の不死身の強靭さには、勘定奉行、武具奉行、山野奉行をはじめと
して、百人余の見物人が顔を見合わせて「何と恐ろしい刀よ」と舌を巻いて
いたという。
なお、真雄の鍛えたもう一振りの匂出来の刀については、試すに及ばず、と
なった。不得手だという沸出来の刀でさえこの結果なのだから、得意の匂出
来については試す必要なしという訳だ。
真雄はこの試刀会以降、「洛陽国広以来の一人」と讃えられた。
「東の虎徹、西の国広」と並び称された新刀期の名工堀川国広以来の名人と
謳われたのであった。
試刀会の翌日、家老の真田志麻から長巻100振りの鍛造が申し渡されている。
しかも、真雄が上田に帰る時、真田藩の武具奉行から高野車之助と小野嘉平
太の二人が同道した。
真雄が再び松代に戻らぬことを恐れた家老真田志麻の処置であった。
実際に真雄の奪い合いで上田藩と松代藩の争いがあったようだが、真雄は
息子の兼虎を上田にとどめ、自らは松代に移った。
日本刀剣史上最も鮮烈な「松代藩荒試し」の顛末は以上の通りである。

真の日本刀とは、山浦真雄作のような刀のことである。
切りつけて折れるような刀は、どれほど見た目が良くても刀ではない。
話が最初に戻るが、刀の偽銘というものは刀を金づると考えている人間達の
人を騙す詐欺行為の表れで、目的はただ単に「カネ」だ。
偽銘の直胤。偽銘と判ってよかったと思う。
偽名のままならば、さすがに直胤としても不本意だろう。

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