渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

「碇島跡」 ~三原市~

2016年09月15日 | 文学・歴史・文化

今までまったく存在を知らなかった新しい石碑を見つけた。


「碇島跡 古代三原湾内の島 江戸時代水哉盧」とある。


横には
「伝 神功皇后 朝鮮出兵時、軍船の碇をおろす。
 宮沖干拓(一七〇〇年)後、藩主の狩の休み所。」
とある。


裏には
「平成十二年建立
 みはら歴史と観光の会」
とある。その横は寄贈者個人名が刻まれている。








場所はここになる。


実に嘘くさい。この場所は確かに古代においては湾内で、
その後、中世末期に急激に沼田川の土砂が堆積して湿地
帯のようなデルタ地帯が広がり、江戸元禄期に干拓された
新開(しんがい)地ではある。
しかし、ここに島があったということは、現在は低地の
平地であるので、いつの時代にか平らに均したということ
だろうか。ここに碇島なる島が存在したということは、
何に基づくものか、史料を調査しないと判らない。
そして、「藩主」とは、この地においては正確には広島本藩
の浅野安芸守のことを指すところ、たぶん三原の家老城代の
ことを「藩主」と呼んで碑に刻んでいるのだろう。
だが、三原は広島藩の出城であり、「一国一城」の原則の
イレギュラーとして熊本県の八代と同じように家老居宅と
して城が取り壊されずに残されたものであり、あくまで藩主
というのは主城内の御殿にいる。安芸備後を治めた広島藩の
場合は藩主は広島城にあり。
この三原市宮浦にある石碑が三原三万石の家老の狩の際の
休息所の場所ということをいうのであるから、何らかの文献
史料等が残されているのかもしれない。
まさか、単に「そのような云い伝えがある」ということでは
あるまいが、何の根拠もなしに石碑等が建てられることは
とても多いので、これを即座に歴史的事実とすることは俄か
には措信しがたい。

三原市内には糸崎に「刀工三原正家の井戸」なる物もあり、
地元の観光協会の看板があるが、こちらも
実に嘘くさい。
こちらは、江戸末期に藩庁からの命令で調査がなされたが、
「伝承あり」のみの報告がなされている。しかし、明治大正
頃と思われる井戸垣が設えられて「正家焼き入れの取水井戸」
などとされてしまっている。江戸期の調査では「正家淬刃の
伝承のある清水があったとされる」との旨の報告のみがある
のに、清水がいつの間にか近代様式の井戸が造られて「ここ
が鎌倉時代の井戸」などと確定事項の歴史事実のような看板
設置がなされてしまっている。

これと同じように、尾道市内には、刀工三原正家の子孫を
自称する者が勝手に石碑を建てて、三原正家は天平年間の
人物であり、我が家はその子孫であり、これは事実だ、と
いうような公言をするに至っている。
尾道市の行政側は「学術的根拠はない」と明言している。

この手の類は地方を散策すると、実に多い。


地方の田舎に多い特徴の一つに、「貴種降誕」という奇譚
創作と、歴史事象での地元自慢というものが必ずある。
こうしたことはすべて時の権力者とどれほど自分たちの
土地が近しかったかというようなことを何の根拠もなく
でっちあげて自慢している。
三原に関しては、邪馬台国三原説という物まであったりする。
私はこれらの地元身贔屓のような感覚が虫唾が走る程に嫌い
である。
だが、そのような感覚でおらが自慢をしたがる人間はこの
日本にはごちゃまんといる。武術系などはそのような人たち
全員集合!という感じだ。

ところで神功皇后というのは、実在が確認されたのか?
「聖徳太子」のようなものではないのか。

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