約束の地をめざして

I STILL HAVEN'T FOUND WHAT I'M LOOKING FORー めぐりあう人々と出来事とともに

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長いお休みですみませんーブログ閲覧者のみなさまへ

2012-09-01 17:38:09 | 新ブログスタートの所信表明
ご無沙汰しています。
長い間ブログ更新が出来ておらず、申し訳ありません。

私は現在、所属大学の大学院二年で、卒業のための修士論文作成の真っ最中です。ブログも書きたいのですが、時間的にとてもきちんと書ける状況ではありません。ゆえに、140字以内で投稿できるツイッターをこれまでもよく利用してきました。しかし、そのツイッターもなかなかできる状況ではなくなってきました。

修士論文の提出締め切りが9月15日。またその作成を優先してきたため、そのほかやらねばならない仕事やレポートが先送りされています。ゆえに、落ち着けるのは10月に入ってからになると思います。そのときには、徐々にブログもまた書ければ幸いだと思っています。(どうかそのとき、人生が暗闇に陥っていませんように!!)

そのようなわけで、もうしばらくブログを(ツイッターなども)お休みいたしますが、どうかよろしくお願いいたします。またお会いできる日を楽しみにしています。

みなさんの人生に幸あれ!
天に栄光、地に平和。

Kei Sato

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クライマックスシリーズ開催反対!

2011-11-07 18:36:27 | スポーツ・格闘技
 今日は、いち野球ファンとして。

 みなさん、プロ野球のクライマックスシリーズ(以下CS)の開催に反対しましょう。今回はセパ両リーグ1位のドラゴンズとホークスがCSを勝ち上がってきたから、このあとの日本シリーズも意味あるものになりましたが、1リーグ6球団しかない中でいつかみたいに3位のチームが短期決戦のCSと日本シリーズを制して日本一になってもどれだけの価値があるのか。1年通じて闘いきってリーグ1位になったチーム同士が日本シリーズで真剣勝負で闘うから、野球好きなサラリーマンが、「今日は早く仕事片づけて帰って日本シリーズ観よう。」ってなるんですよ。僕はサラリーマン時代そうでした。

 興行収入めあてに野球ファンの純粋な想いを踏みにじって、CSを開催して、たまたま短期決戦でリーグ1位のチームが日本シリーズに出ることができない、そんな心のないプロ野球はやめてくれ。どんなに日本人選手たちが米メジャーリーグに進出しても、それを見返すくらいの価値がある試合がなされるのが日本シリーズだと思ってます。
 目先の人気取りや、収益におどらされず、多少苦しいときがあっても、これまで日本で築いて来た野球文化を大切に継続していってほしいなと思います。だれが言ったか忘れましたが、数年前、野球は国技だ、って言ってた人がいるくらいですから。

It's only Baseball.
But I Like it.
I Like it,Yes I Do!
(かつて所属していた中央大学軟式野球同好会ルーキーズの合言葉より♪)

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路線変更

2011-10-31 20:34:53 | 日記・エッセイ
 秋深まる中、久々のブログ更新です。更新できていない中でも本ブログを閲覧し、ご訪問してくださる多くの方々に感謝が堪えません。どうもありがとうございます。
今日は何を書くかというと、若干の近況報告と自分のこれからのネット関連発信の展開について少々書かせていただきます。

 今年の春、卒業が無事決まった東京神学大学にて、さらに同大学大学院に進学して学べることが決定して、震災後の余波がまだ震災後と言えないほど引き続く中、しかし夢と希望をもってさらなるあと二年間の学びに船出いたしました。始まってみたら、学部時代と違って先生方が、学生がノートをとるのは待っていないで、どんどん講義したり問いかけて行き、ほぼ円卓授業なので基本顔を上げていないといけないようなシュチュエーションでの学びが日々続いて行きました。
 この大学院の授業は、演習中心で専門的かつ学術的、発表重視、予習必要!(できないこともありますが^^;)という、学部時代の神学全般を知識的、手法的なものを体得していくやり方から、いよいよ必要な知識をもとに、根拠のある自分の考察を展開できるように、という学びとなっています。

 そして夏休み前は、学内の礼拝委員会という、学内チャペルにて週4回ある礼拝の”水を汲むしもべ”として(日本で普通に言うと、おそらく”黒子”にあたるだが、キリスト教的な文化の言い方ではこの表現のほうがピタッと来る。ちなみに以前のサッカー日本代表監督のオシム氏が、この表現をサッカーの戦術上である選手の役割を語るためにこの表現を用いたと聞いたことがある。気になる方は新約聖書のヨハネの福音書2章を参照のこと。)の作業をおもな仕事とする委員会の長として、細かな仕事がいろいろあり、ただでさえ、日々の学びに今まで以上にウェートが置かれる中、気がついたら週二くらいで完徹かほぼ徹の夜が続いていました。でもまあなんとかからだは持ったんですね。

 それで夏休みは以前もお伝えしたように、本大学および大学院時代に二度体験しなければならない夏の教会実習の二回目があり、海がきれいな神奈川県・二宮町の教会での実習を終え、また未熟さを体験し(うおー)、その後はいつ寝ていたかわからないような凄まじい前期期末レポート提出のための作成期間を過ごし(その間、同級生、特に同じ専攻の仲間はほとんどみんな青い顔で過ごしていました)、その後三日間くらいいちおう休める日はあったのですが、しかしたまっていたやることをこなしたり、約束していた原稿書きなどをやっていたら、休む間もなく過ごしていたら、たぶんその夏の実習ころからこの10月末までに、きちんと休んだのは三日間くらいか、いや二日くらいか。そしてついにこの10月末に、学校でも教会でもミスが起こしてしまい、抱えた責任事項が抱えきれなくなった状態だと言うことが判明してしまいました。この10月は十日間くらい徹夜だったと思います。今月は委員会の長としての仕事はあまりなくて助かったのですが、もともと作業が遅い自分が、たいそう時間がかかる勉強での発表準備と三回の日曜日にわたるそれぞれ違う教会での説教の準備などのため、限界線を超えてしまったようです。。

 まあでもその中で夏休み前に本格的に始めてみたFacebookで、これまでそのよしあしを味わいましたし、まあいい使い方をしている人、なんでこんな使い方をしているのかなという正直あきれたり(ごめんなさい、でもほんとです。ソーシャルメディアをどう使うかは、その人の性格や人格が出ますので、自分も含めてよく考えて用いたほうがいいですよね。自分も陰ながら指摘を受けることありなので。。)もしましたが、その中でも久しぶりにFBで再会した方にその後リアルでも再会したり、またそれまでツイッターで親しくなった方とFBは基本顔出しなので、FBでさらに親しくなり、その後リアルで初めて出会ってドラマを感じたり…いやいや凄い時代になったものです。昨日もツイッターで、自分が大学院で研究している内容に近いことをやっている方と出会ったりつながったりして、今勉強中心というか、ほぼすべてその生活をしている自分としては、このソーシャルメディアをうまく使うことによって新しい世界の広がりと、コミュニケーションが始まることで、研究以外の視野も与えられて行くことはうれしい限りです♪

 それで今日のブログタイトル「路線変更」なのですが。
正直、大学院での学び、特に後期スタート以来本当に厳しかった!し、今も厳しい。とにかく学ぶ量が多く、かつ時間がかかる。逆に言うと、これだけ重厚な学びをあと1年半しかできないことを残念に思うし、またじゃあこの1年半一生で一番勉強してやる!とも思う。…ということはつまり今まで自分が理想として書いてきたコラムのスタイルのブログをまともに書くことは1年に二、三度しかできないのではないか、と思うようになりましたし、たぶんそうだと思います。しかしそれで本ブログが開店休業であるのは、今ままでこのブログを大事にしてきた者としては悲しい限り。そこで基本コラムを書くのは時間的にむずかしいのですが、ツイッターは140字以内だし、FBは誰が読んでいるかわかっているし、また関係を大事にして書くものと自分は思っているので、そんなに無茶苦茶なものは書けないので、そこでブログが一番自由に書けるんだな、ということを改めて認識しました。別に無茶苦茶なものを書こうと思っているわけではないのですが。

ということで、これからブログ更新もそれなりにして続けていきたいので、持論のコラムを展開するのはややあきらめて自由にこういうブログにするというコンセプトを持たずに書いていきたいと思います。1年半に一回くらいコンセプト変えてる気がしますが、こんどのは一番長持ちしそうです。だって自由ですから。ってことはやっぱり無茶苦茶だったりして。^^:

 公務員を辞して、牧師をめざすようになってはや10年目。正式な大学院まで行くとは思いませんでした。そして最近、人生で自分がやろうとしていることが四つあるんだなあと思わされていて、その四つは牧師として行うことも、個人として行うこともあるんですけど、僕はその中の一つだけでも自分の限られた力では全う出来ないけれど、神様が力を与えてこの世界で自分が必要な貢献ができるように導いていてくださっている、ということを感じ始めています。(バッハの対位法みたい♫ NHK Eテレ・スコラより。)10月は最後転覆して終わっちゃいましたが、それをいい糧にして1年半後少しは成長して旅立っていきたいと思っています。ぞと。


おまけ 
これはいい番組だぞと。「schola 坂本龍一 音楽の学校」http://www.nhk.or.jp/schola/


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追悼 伊良部秀輝

2011-08-02 19:28:50 | スポーツ・格闘技


 いま自分は所属大学の課題である夏の教会実習に取り組んでおり、なかなか世の中のニュースを逐一チェックできる状態にない。ただその実習先からいったん学生寮にいま戻っているが、そのなかでインターネットでニュースをチェックしたら、目が固まって動かなくなってしまったー、そんな記事を発見した。

伊良部秀輝が自殺―。

 僕にとって伊良部は、特にファンであった野球選手ではない。最も印象深いのは千葉ロッテのエース時代だが、むしろ好きなロッテで好きな投手は、まったくタイプの違う小宮山であった。しかし、伊良部秀輝、彼の存在は二つの点で自分と接点があった。

 一つは彼と僕は同い年、同級生だということだ。
彼は1987年の夏の甲子園大会に尽誠学園のエースとして、しかもその大会最速の投手として注目されていた。その時、彼と自分は同じ高校3年生。そしてその大会には、僕の母校である上田高校が同じく甲子園大会に出場しており、同級生やクラスメイトの野球部員が甲子園で戦っていた。(初戦で習志野高校に敗れた。)その上田高校野球部が長野県大会で優勝し、甲子園出場を決めた日に、僕は同じ上田高校の軟式野球部員として同部初の公式戦として県大会1回戦を懸命に戦った。0-6で残念ながら敗れたが、9イニング戦いきったことに燃焼感を覚えたのを今も思い出す。

その日は、もう一つ野球で大きな歴史を作った日でもあった。プロ野球オールスターゲームで、桑田vs清原のKK初対決が実現し、清原がみごと桑田からホームランを打ってみせた日でもあり、野球づくしの夏の一日であった。
その夏の甲子園大会は例年より高校球児が豊作の年で、その秋のドラフトに指名されプロに行った選手には、PL学園からの立浪(中日)、野村(横浜)、橋本(巨人)、また大卒後には片岡篤史(PL-同志社―日本ハム)もいた。そのほか城(習志野―ヤクルト)、鈴木健(浦和学院―西武)、芝草(帝京―日本ハム)、島田直也(常総学院―日本ハム)らがいた。そして伊良部秀輝(尽誠学園―ロッテーヤンキースー…ー阪神…)がいた。

 伊良部と僕の接点の二つ目。それは、僕は80年代後半~90年代前半の黄金時代の西武ライオンズの大ファンであったが、その西武打撃陣、特に主砲・清原和博に伊良部は150キロ台後半の豪速球を持って立ち向かって行ったというその動かせない記憶である。
当時、それは野茂vs清原と並んで平成の名勝負と言われていた。正直僕は同い年でありながら、伊良部は好きでなかった。当時の千葉ロッテファン以外ではそういう人は多いだろう。彼は実力がありすぎるヒール(悪役)だったと言っていいからだ。野茂は無骨ながら、その個性あるピッチングゆえにチームを超えて愛される投手であったのと対照的である。
そしてその後、平成の名勝負と言われた対決は松坂vsイチローのみである。その一角を伊良部秀輝は占めているのだ。

 その後の彼の人生はここではくわしく書くことはしない。ヤンキースに行くときも物議をかもしたし、彼の強い性格のゆえ、何かと問題を起こしやすかったのは野球ファンならご承知であろう。もしそれらをあまり知らない方がいたら、ここでその詳細を書くことを控えることをお許しいただきたい。ーそしてその後、阪神で優勝に貢献した後は、彼はかなりの野球ファンでないとわからないくらい引退したのかしないのかわからないような人生を送る。
そんな中、この衝撃のニュースが飛び込んで来た。僕は2~3日遅れでそれに気づいたのだ。

ここまで書くと、伊良部に僕がそんなに想い入れはなかったんではないかと思われるであろう。それはそうかもしれない。しかし彼が死んだということ、しかもおそらく自殺であるということは、とても驚き、また赤の他人ではない、よく知っている故郷の同級生が亡くなったような、そして42歳という人生の途中で自らその人生を止めてしまったというところに、他人事ではない悲しさと痛みを覚えたのであった。一歩何かが崩れたら、自分もこうなるのではないかーという。

伊良部よ、なぜあなたは人生を終わらせてしまったのか。

 僕が10年近く前に市役所職員(地方公務員)を辞めるときに、すでに牧師をめざすために専門の学校に行くことにしたことを公表していたが、同僚の先輩の方からこのような言葉をそのときにいただいた。
「佐藤くん、第二の人生もがんばってください。」
その方はきっと何の悪気もなくそう書いてくださったのだろうから、そのことにとやかく言う気などないが、自分の中では、公務員を辞め牧師をめざすことが第二の人生である、という意識はなかった。自分にとってはそのときどきに自分が置かれたところが、いわば第一の人生なのである。だから公務員であったことも、いま牧師をめざしていることもそれぞれが第一の人生である。あるいはそうではなく、いま人生を全うする仕事として牧師になろうとしているのだから、そうであれば公務員時代はむしろその備えの時であったと言えるのかもしれない。
僕は来年度までは今の大学院で学ぶので、最短で牧師になれたとしても再来年度だから、そのときは43歳かー。
 
 いずれにせよ自分は来月で42歳を向かえる今、まだ第一の人生を生きている。しかし彼は、プロの野球人として日本と世界の第一線で戦い抜き、そして第一線ではなくとも現役で新たな歩みをしつつある中で、その歴史を閉じてしまった。遺書はないと聞く。彼はどんな想いでその生涯を終えようとしたのか。
いや、そんなに冷静だったのではないはず。

 衝撃のニュースを目にした後、いくつかネットニュースとそして在住している学生寮でとっている朝日新聞をチェックした。自殺の原因として推測されうる様々な情報がある中で貴重なコメントがあった。元阪神捕手で伊良部とバッテリーを組んでいた矢野氏のコメントである。読まれた方も多いであろう。

「体のケアや投球フォームなどすごくこだわりがあって、投手としてすごく繊細。それが悪い方向に出てしまったのかもしれない。」(朝日新聞7/30朝刊より)

そしてその上にあったコラムでの西村欣也編集委員の言葉が胸に響いた。
「(彼は)野球が心底好きだった。…野球に(現役に)最後までこだわった。
 再び、米国に戻って、心に空洞ができたのだろうか。繊細さがタフさを上回ってしまった。こんな男はもう現れない。」

 伊良部秀輝よ、スケールの違いこそあれ、あなたに自分自身を重ね合わせてしまうのは僕だけではあるまい。それは誰にだって起こりえることだ。
 あなたは一人の男として、野球人として人生を生きようとし、そのことを最後まで感じさせてくれた。残念だった話はもうやめよう。あとは生きている者がせいいっぱい、悔いなく生きるだけだ。 (一部敬称略)




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夏色の海

2011-07-29 20:14:31 | 日記・エッセイ


「きみは実習中なのに忙しくないのか!」
とどこからか言われそうだが、今月24日(日)から始まった、我らが東京神学大学の夏期伝道実習(教会での実習)中のブログ更新です。ふだんなかなか更新できていないだけに、よけい貴重である。

いや、やる課題はいっぱいあるんですよ。ただいつからか忘れたが、実習前からずっとやるべきことが途切れなくて、睡眠不足が当たり前の状況で生きていたので、今日7/28(木)に実習中の二回目の大きなヤマが終わったので、そのあと少し休憩したあとで、町内の図書館に行って次のヤマのために準備しようと思っていたら、もうすっかり集中できず、たぶん心身がもうストップをかけたのだろう、次のために本を開いて取り組むことができずに、なぜか「めぞん一刻」を読んでいた。そこにあったので。響子さん。五代さん。

そのあと宿泊先のそうじをする約束だったので、それを果たし、子どもたちとも約束の将棋等々もちゃんとやったので、そろそろ勉強再開…と思ったが、どうも今日はもう頭がヒートしたようで、もう今夜だけは無理せずやめよう、ということで気分転換にこの夏色の海と言うブログを書こうと思ったんであります。

 まあ当然このタイトルは、昨年発表された大貫妙子&坂本龍一の何年経っても色あせない感のあるアルバム『UTAU』に、大貫妙子さんの曲で「夏色の服」が収録されていましたので、当然そのタイトルから今日の題は影響されたわけで。そして今の宿泊先のおうち(○○先生、感謝します)から徒歩5分弱のところがとてもきれいな海辺なので、それもあったな。
ぼくは長野県出身なので、そこには海は無い。また人生の中でも海辺に住んだことがない。だから海辺に行くと不思議な感覚におそわれる。まあもちろん海辺に住んでいる人も、ふだん見ていても海はやっぱり特別なんだろうけど。

 で、せっかくなので少し実習自体のことも書くと、昨年もそうだったが、この夏の実習はけっこうきつい。派遣された教会で、そこで実習生である自分与えられた課題(礼拝や小さな集まりでの説教など)をこなしていくのだけれど、それをきちんと準備してきちんとその使命を果たさなければならない。当たり前のことなのだが、それを29日間、ある程度睡眠もとり、とどこおりなく果たす、そのことができるかどうか。その当たり前のことがさりげなくできるのがプロであり、僕のようにできると思って直前でまだあわててしまう、あれが足りなかった、これが間に合わなかった、と言っているのがまだアマチュアなんだろう。くやしい。

その実習の様子は、断片的ではあるが、ツイッターをメインに、Facebookも利用しながら時折報告していくとして、今日もっとも書こうと思っているのは、最近始めたFacebookについてのことだ。いわゆるソーシャル・メディアについて言えば、僕はもともとこのブログから始めて、そして昨年夏からツイッターを始め、そしてそのツイッターの持つソーシャル・メディアのパワーの現状最大限の体験をしたのが、(残念ながら一部の注目した方々しか知らないであろう)昨年から今年始めにかけての一連の坂本龍一のライブUstreamでのツイッター等を介しての無限大の人々とつながっていく体験であった。

「え、そんなの知らない人同士で、でしょ?しかも匿名の人が多いでしょ。」
確かにそういう部分もいくらかはある。しかしそこで大事であったのは、坂本龍一とか、大貫妙子とか、平野友康とか、それからほかにもたっくさんそれに関係して尽力したひと達はいるけれど、もちろん彼らには感謝しているけれど、大事だったのは、その共感した輪の無限大の広がりの事実とその感覚であったのだ。

 本ブログを読んでいる方ならわかるでしょうが、ぼくはプロテスタントのクリスチャンである。クリスチャンって日本じゃ少ないけど、でも少ないなりに、その少ないひと達が集まったり、関係を取り合ったりしたら、けっこう多い人数のはずなんです。そして僕が約25年間活動的なクリスチャンとして生きて来た中で、そんな風に多くのクリスチャン同士で連絡や関係を大切にしてきたことはもちろんで、特にそういうお互いの関係を盛り上げるイベントにも参加したりしてきたが、…それでもあの坂本龍一関連のUstream(sakamoto social project 略して skmts=スクムトゥス)から味合わった共感性はこれまでにないものであった。しかもそれをネットで体験した。リアル(生)ではなかったのに、である。この説明はまだでききれていない。

 それで話はFacebookに戻るが、どうだろう、まだ僕はFacebookを始めて1週間くらいだが、正直あまりおもしろくないのである。「友達になる」をクリックして、相手が自分を友達として承認してくれたらお互いに友達になる、というスタイルだ。いやもちろんそれだけじゃなくて、もっといろいろな利用方法があるし、ベテランユーザーが知っているような楽しみ方を自分は知っていないのであろう。
それで自分がFacebookに登録してログインしていると、どんどん友達になれる可能性のある人を紹介してもらえる。そしてその中で実際にリアル(現実)で知り合い、あるいはネット上で知り合いでないと友達申し込みはできないのである。利用している人には説明不要ですが。。

たぶん自分がいくらか期待して始めたFacebookがつまらない一番の理由は、「知っている人同士でつながりあっているところが圧倒的に多い」からだと思う。もちろんそれは悪いことではない。知っている者同士、あるいは友達同士でFacebook上でもつながりあったら、それはそれで良いことだと思う。友情も深まるかもしれないし、それまでそこそこの知り合いあった者同士がこれを期にさらに仲良くなるかもしれない。それもまたよし。ぼくはそれをひとりの人間としても、ひとりのクリスチャンとしてもGoodなことだと思う。

しかし自分個人の感覚として、それはどうしても必要なことではなく、刺激があまりないことなのだ。あえてしなくてもいいことなのだ。だって友達はネットでたとえつながらなくても友達だし、また「友達になる」を期に単なる知り合いとFacebook友達になっても、そんなに必要なことだろうか。友達ってそんなに軽いのか。写真付きの婚活サイト的な感じがしてしまう。もちろんそれを期に、知り合いからリアル友達に発展してくこともあるだろうから、決して否定はしないが。

Facebook創始者のマーク・ザッカーバーグ氏を主人公にした大ヒット映画『ソーシャル・ネットワーク』を僕は人生上のとある理由である人と映画館で観た。(まわいくどい書き方だな)まあその人生上の理由は終わったが(よく終わりますね)とにかく観た。賛否両論あれ、あの映画は僕にはとても面白い映画だった。で、あの映画の内容がどこまで事実かはわからないので、歯がゆいところだが、もしある程度事実であったとしたら、Facebookは、ザッカーバーグ君がふられた彼女を取り戻したいため、また大学生同士で交際相手を見つけるためのものとして立ち上げたソーシャルメディアであり、SNSだということになる。となると、それがいいとか悪いとかじゃなくて、やっぱりそういう創設時の性質は残り、誰かの愛をほしいためのサイト、ということになる。

でもね、愛って、そういうのもいわゆる愛、大きな意味では愛、であるけれど、それはほんとの愛じゃないんだよ。ほんとの愛は、自分が欲しがる愛じゃなくて、自分はどうなってもいい、あなたは大丈夫なのか、あなたのために自分は犠牲になってもいい。あなたに幸せに生きてほしい…。むずかしいことかもしれないけど、やっぱりそれが本当の愛のはず*。Facebookは確かに便利で良い面もあるし、僕もこれからも使っていくけれど、他のソーシャルメディアと何か違和感のあるのは、おそらくこの点が根っこにあるからなんだろう、と思わされている。

それからもう一つ不思議なことは、Facebookを使っている人の多くが、Facebook以外のソーシャルメディア(ブログ、ツイッターなど)を使っていないという印象を受けることだ。二人に一人以上はそうではないだろうか。これがFacebookに対するもう一つの違和感である。これはなぜか。もちろん絶対的な答えは出せないが、これも自分のことを愛してくれる人とだけつながりあおうとする自己愛が無意識にあらわれているからじゃないだろうか。それが悪いことだというんじゃなくて、無意識のそういうあらわれじゃないかな、ということを言いたいんだけど。
まあうまく使えば、Facebookは本当の友情をよりよく築き上げる助けにもなるだろうけど。

 夏色の海というタイトルのわりに、まったく違うことを書いた気もしないではないが、ただ関係しているかな、と思うところは、Facebookに感じた違和感ではない、同じソーシャルメディアでもいまだかつてないつながりと夢を感じさせてくれたきっかけとなった大貫妙子&坂本龍一のアルバム曲に似たタイトルをつけたということと、海は一人で行っても、そこに知り合いや友達がいなくても、新たな思いを与えてくれていい意味で独りになれる、というところが必要以上のつながりから自分を解放してくれるような空間、ということだろうか。
また!…実習がんばります。(7/28(木)記)


<↑実習先教会:にのみや聖書教会Son Chapel>

※冒頭の写真は、宿泊先の家から5分弱の二宮町の海岸です。
*「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(新約聖書 ヨハネによる福音書15章13節)

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とりあえず近況報告

2011-07-14 20:30:49 | 日記・エッセイ
(このブログはいったんUPした後、数時間後に誤字を含め文章を一部修正しました。お許しください。では本文スタート! ↓)

 こんばんは。村上春樹『1Q84』BOOK1ーBOOK3を約半年かかって完読して以来、本当はそのあたりを書きたい気持ちがあるんですが、なかなかブログ書くところまでたどりつけないんで、とりあえず今日は箇条書きみたいな近況報告をします。

<最近取り組んでいること>

・学校の授業と、その予習と、課題作成。
 ぼくが思うに、うちの学校はいくらかの学力とけっこう努力が必要です。(ぼくひとりの感想であって、一般化できないかもしれませんが。)祈りながらがんばっていくしかないです。でもやりがいはありますが!やるぞー!

・学費と生活費の足しにするためにアルバイト
 あまり長時間アルバイトやることもできない(勉強が遅れる)ので、決して高い額ではありませんがボディーブローのように効いてくる額となる分を、学内の図書館と、学生寮のボイラー係(=お風呂をわかす)にて働かせてもらっています。感謝。。

・学内の礼拝委員会での働き
 比較的学内アウトローな自分に似合わず、礼拝委員会という毎日の学内礼拝の準備や片づけをおもな働きとする委員会の委員長に今年の春からなってしまいました。なったからにはやる。やるからにはみんなで楽しく委員会する、を目標に、目標になかなか届きませんが、ぐあんばってます。

・月2回、神奈川県の教会への派遣奉仕
 ぼくはふだん東京は上野にある「上野の森キリスト教会」というプロテスタントの教会のメンバーとしてそこに通っていますが、サッカーでいうレンタル移籍みたいな感じで、今年4月から神奈川県内の看板を出してまだ1年という若い教会に月2回上野から派遣されて行っています。湘南を過ぎた少し山あいの小さな町のかわいい教会です。東京・上野とのコントラストを楽しみながら、途中に通る湘南の風を楽しみながら出かけています。

・修士論文関係の学び
 修士論文提出は来年秋だが、しかしあと14か月しかないというのもまた事実。尊敬している○○教授のもと、「まあ夏休みまでに忙しいだろうけどこのくらいは読んでおかなきゃ」というやるしかない励ましのもと、とりあえす今はアウグスティヌスとカパドキア教父のものを読んでいます。。

・その他
 余暇・趣味はほとんどなし。きゃー。でもツイッターを少々と、学内の仲間たちとのお茶のひとときや、そしてときおり、ちょうどよいタイミングで都内の夕暮れの雑踏のなか響く、プロストリートミュージシャン・アルトサックスプレイヤー中村健佐氏のサックスに足を止め、しばし聴き入り、心洗われるような気持ちで電車に乗り込んでいます。

…なんかせきららにいろいろ書いてしましましたが、自分の場合、教会の活動や、神学の勉強は言うまでもなく最も力を入れていることですが、それがもっと見える形で、多くのニッポンの人々にわかる形でそれらを生かしていきたいんですね!その一つとして今はほそぼそとこのブログを書いていくぞと思います。
今日はとりあえず最近の状況をお伝えしました。またまたまた。

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6/19匿名のメッセージ送信者への返答

2011-06-21 22:55:00 | お知らせ
 今回は通常更新ではなく、以下のメッセージがメールにて私宛に6月19日に届きまして、その方への返答方法が、このようにブログ更新記事として載せるしかなかったため、以下にそのメッセージ本文を記載し、それについて返答をさせていただきます。通常閲覧者のみなさんには申し訳ありません。(通常更新は近日中にしたいと思っております。書く内容が決まりましたので。しばしお待ちください。)


▼ お知らせメール ─────────────────────────────

・メッセージを送信した人
匿名

・件名
質問

・本文
学校名や個人名をブログに載せていらっしゃいますが、学校関係者など、貴方の周りの方に迷惑がかかることがあるという事実について、どうお考えですか。貴方のブログが及ぼす影響について、考えたことがありますか。


<本ブログ執筆者・佐藤計からの返答>
メッセージ受け取りました。匿名の方ということで、私が実際に存じ上げている方か、まだお会いしたことのない方かわかりませんが、真摯にご質問されている様子を感じましたので、私からの返答がお気に召すかどうかはわかりませんが、こちらとしても誠実にお答えしたいと思います。

まず私が所属学校名や個人名、そしてよくブログを見ていただければわかると思いますが、またクリスチャンとしての所属教会名(上野の森キリスト教会)まで載せています。これはなぜかと言うと、私は本ブログではまったくの個人的なことから、学校や世間一般のこと、またキリスト教徒としての考えをあらわすにあたって、ニックネームやハンドルネーム、あるいは匿名で行うことはかえって無責任であると私は考えているため、あえて自分の名前、プロフィール、所属先を記しております。

ただし匿名様、貴方がおっしゃるように、私が立場を明確に記し、ブログやツイッターにて発言していることのゆえに、例えば所属学校である東京神学大学やその関係者の方に迷惑がいっさいかかっていなかったという保証はありません。だから貴方のおっしゃるように、もし実際に迷惑がかかった方がいるなら、その理由によっては私はその方に謝らねばならないでしょうし、その原因となった記事や発言をネット上から削除し、場合によってはネット上でも謝らねばならないでしょう。そう思います。

それから「貴方のブログの及ぼす影響について考えたことがありますか」とのことですが、もちろん考えています。ただしそれが貴方と同じ角度かどうかはわかりません。
私はブログやツイッターで発言するにあたって、すべての人の賛同を得ようとは思っていません。私のような人の顔色を伺わない、あくまで自分の考え、信じたことを賛同者の有無を問わず、発信したいと思っている人間に反対者が出るのは、むしろ当然のことだと思います。それは仕方がありません。また、それとは別に今まで、同じ大学の関係者には本ブログはかえって良い感想をいただいていたということも、ここで公平に記しておくことをお許しください。

しかし最後に、貴方に質問をいただいて私が今回反省させられたことを書かせていただきます。
それは、私が上記のような思いでブログを開始した2007年から(実名で改めて始めたのは2009年から)今に至るまで、その思いは変わっていませんが、ただ自分がどれだけこの思いの通りやってきたかどうかが問われたということです。
時にはいいかげんな文章になっていなかったかーいや、それは表現方法ではなく、書いた時の気持ちのことでー、その結果、誰かに私の知らないところで迷惑がかかっていなかったか。それを今回は問われました。ご指摘ありがとうございます。これを期に今後は、今まで以上にそのところを注意していきたいと思っています。今後も、すべての人の賛同は得られずとも、自分がその時点で確かに人々に発信するべきと思ったことを責任をもってさせていただきたいと思っています。また先ほども申しましたように、過去の記事で、もしどなたかに実際にご迷惑をおかけした記事があるならば、そのご理由を検討の上、必要なら削除させていただきます。その際はご一報ください。

以上につき、お気に召されるかどうかわかりませんが、お答えさせていただきました。どうぞよろしくお願いいたします。

佐藤 計
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脱サラ10年目

2011-05-30 21:40:36 | ライフスタイル&キリスト教
 こんばんは。今日は何を書こうかな、と思っていたら、いま適当にかけていたBGMの自主編集オムニバスMD(MDですよ、MD!)から、ザ・ブームの「♪風になりたい」がかかっていた。そしたらふとこんなタイトルをつけてしまった。(宮沢和史、野外フェスで一度だけ生で聴いたことがあります)

 さて昨日は日曜日。日曜日は僕はあいかわらず、教会でいろいろな活動や奉仕をしており、そこで気持ちを入れている間はいいのだが、上野駅で仲間たちと別れた後に、急にどっと疲れが出る。そして中央線に乗ると間もなく寝ていて、地元の武蔵境駅を通り過ぎてから、おっと!目覚めることがあり、うおーッ状態で武蔵境駅まで引き返すーという人生送っている。それで翌月曜午前は、寮にいると心身が戻るまで何をするともなく時間が過ぎてしまうので、今日は気分転換に朝マックをした。カフェとかの方がもちろんかっこいいのだが、学費と預金通帳をにらめっこして負けないように生きているので、朝マックとなったのです。それで普段はまた神学書とにらめっこをしてるので、今朝は結論が気になってしょうがない村上春樹『1Q84 -BOOK3- 』の続きを読んでいました。あれ、面白いですね。(結末知ってる人言わないでください!)

 で、ふとそれを読んでいると、元々の設定が27年前の話なので、読み止めて昔のこといろいろ思い浮かべてしまうのだ。そうすると、またふと、あれ自分はきょう月曜日に何でこんなところで朝マックしてんだろ、とか思うわけです。。もっともツイッターにも書きましたが、今は入ったばかりの大学院の勉強に追いつくのに日々必死で、「貫徹」ならぬ、「ほぼ徹」を週二回くらいやってる状態で夜なべをしてるので、月曜日に数時間休んでも赦してもらえるだろうと思っておりますが、1969年生まれの男が普通の月曜日朝10時半に、カジュアルな服装で、マックでソーセージエッグバーガーを食べているという。…うーん、1Q84の数少ない登場人物もけっこうやや普通っぽくない生き方をしてるが、僕は見た目は幼く見られることもあるが、でも40代に入り、神学生であり、大学院生であり、まあそういう人生だから。でもあれかな、自分は働いていた年月と、学んでいる年月とどっちが長いんだろうと考えた。数えてみたら、最初の大学入ってからもう24年目。早いものだ。それで公務員を10年やり、バイトとパートだけで生きた1年もあり、あと教会のスタッフを3年…。なるほど、働いていたのが14年間、学生生活(大学&神学校)は今年で人生丸10年目だとわかった。それからこの5月末をもって、公務員を辞してから10年目に入ったことにも気づいた。

 この春大学院に入って、家事、事務処理、寮での作業、アルバイト、学校の委員会の仕事、それが終わったら、やっと勉強と教会で担当していることの準備をする。またその合間に聖書を読み、祈り、少しでも静まる時間を持つ。それから行き詰まるとちょっとツイッターしたりする!という、そんな生活を今送っています。
 来月6月半ばには、学校で大きな行事があって、それに向けてこれから時間を割きながら、また日々の勉強をこなしていく。どんなに窮地に追い込まれても、お金が苦しくなってもこの9年間、なんとか乗り越えられてきた。いろんな人がいろんな形で支えてくださった。怒ってくれた人もいた。それらすべてが益となってここまで来た。神様の愛がいつもそこにあった。

 大学院入学後、かつての恩師S先生が僕に本をたくさん無償で送ってくださったので、少し時間は経過してしまったが、ぜひお礼だけでもお伝えしようと思って、先週金曜日夜、そのS先生自身が聖書からのメッセージとギターによる讃美歌を演奏する集いに出席するため、僕は御茶の水まで出かけて行った。そこでS先生は次のような話を語られた。

「ぼくは若いころ大学終わってから、お金は全然持っていなかったのに、以前お世話になったオーストラリアの宣教師とその宣教師の友人・知人たちが奨学金を工面してくれて、無償でオーストラリアの神学校に留学することができたんです。ぼくはその学校のアジア人初めての留学生となって、彼らの愛を体験することができ、本当に素晴らしい学びの時となったんです。みなさん、ぼくらは誰かに支援され、サポートしてもらって生きているということをぜひ数え上げてみませんか。でももしそれがなかったとしても、神様があなたをどんな時も支えてくれているんですよ…。」

 S先生は、そのような自らの体験を踏まえたメッセージを、その晩語られた。その話を聞いた僕は、自ら今大学院で学んでいることの恵みとこの9年間の奇跡の日々を思い起こして泣いてしまった。 そしてS先生は最後にこの歌をギターで歌ってくれた。その先生自身が作詞をされた、ジャパニーズ・ゴスペルであった。この歌は僕はよく知っているのだが、まるで初めて聴いたかのように感動でまた涙が出てきてしまった。↓
http://www.youtube.com/watch?v=XhVQOVCgPxc

さて、ほぼ徹の日が今週もあるかもしれないけど、多くの方々のサポートと神様に支えられていることを感謝しつつ、また毎日やっていこう。よし、10年目スタート!

三鷹市大沢、東京神学大学学生寮裏の杉林のそよぐ音を聴きながら。。


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私たちの価値観は変わるかー3・11大震災以後

2011-05-09 17:28:40 | 日記・エッセイ
 ついに終わりそうでなかなか終わらないこのブログも再開後二回目の更新です。自分は休み時間をとるのが下手なので、これを書くことで気分転換(休み)にしたいという思いもあり、今日も書いています。
 3・11東北関東大震災の直後は、僕が住む東京でさえ二次災害を受けていた。それは米やパンのカップラーメン、、ミネラルウォーター、電池などの不足、計画停電、また一時的ではあったが今住んでいる三鷹市でも乳児には水道水を飲ませるのを控えるように指示が出された。が、今振り返っても(やっと振り返れるくらいになったということか。ここ数日は東京では余震もないように思える)一番受けた影響は、あのテレビ絶え間なく流れている被災地の惨状を見続けたことにより受けた精神的ショックであった。もちろん阪神大震災、米ニューオーリンズの津波被害の映像も見ていたが、それを上回る重さ、あれはきっと東京も当日長く揺れたことと、その夜の交通機関のストップから始まる二次災害を受けていたことが視角に加えて、環境的にも揺り動かされたことが響いたゆえだろう。思えば特に四月に入ってからは、僕の場合大学院生活がスタートしたため、そちらの授業準備、事務手続き等で期限との闘いに入ったので、いくらかの余震でも不安になっていられないという状態で四月いっぱい走っていたため、以前ほどは震災について心配もできず、そしてGWは長野の実家に行っていたため、こうしてGW以後になってみて初めて冷静に震災について振り返っているのを感じている。

 震災後、ネットや雑誌で著名人・識者の様々な寄稿文を読んだ。村上龍、ビートたけし、山折哲雄(宗教学者)、細川護煕(元総理)。村上龍のものは、僕が彼のファンだということもあるが特にインパクトがあったので、またどこかで話すか書くことになると思うが、今日ここで取り上げたいのは山折哲雄氏がAERAのたしか4/4号だったかな、そこに書いてあった寄稿文について。
 美容院で髪を切っていただいている時に読んだものなので、手元に今それ自身が無いので記憶でたどるしかないが、宗教学者の視点で書かれているだけあって(おそらく彼は神道)、仏教的な視点やキリスト教的な視点それぞれから今回の震災と被災者に対する見方を記してあった。僕はクリスチャンであるので、クリスチャンではない視点で、山折氏がキリスト教的視点においても語っておられるところが、非常に客観的な内容であり、すべて同意できるわけではなかったが、頷かされるところが多々あり、目を開かされる内容であった。
 さて、そこで山折氏が強調していたのは、日本人はこういう災害に強いということ、その理由は日本人には古来より「無常」「無常観」というものが精神構造のベースになっており、キリスト教のように「救い」をもたらそうとか「解決」をもたらそうとせず、その厳しいあるがままの震災の状況を、大きな自然の現象として、いわば、いた仕方ないもの、それと共存して生きていこうとするという現状と環境に対する無常観がいい意味で作用しているのではないか、という意味のことが書かれていたと記憶している。克明にはここで記せないが。そのわけは、災害後の被災者の?避難所の?人々の様子が、しばらく前に津波被害にあった米ニューオーリンズの様子と、今回の東北の人々との様子が違っていたところから、日本とアメリカ(キリスト教が強い国)の精神的・宗教的ベースの違いがそれに影響しているのだろう、ということを述べており、かつ、だから日本人のこのような時の強さ(=いたずらに解決のみを求めない、現状を受け入れる強さ)についてを今回の被災と我らが日本に対する励ましのメッセージとして書かれていたと思う。なんとかあの記事手に入れたいとは思っているが。
 
 この山折氏による寄稿文については、今も述べたが、頷かされるところもあった。またこの記事については、思いがけず、僕の属する東京神学大学大学院1年のクラスの、年度始めの懇談会(担任教授二名同席)においても僕のほか担任教授の一人からも触れられ、山折氏とは違う理解でのコメントがなされた。おそらく僕のようなキリスト者でさえ、その記事に目が留ったのだから、多くの日本人であの記事を読んだ方は共感されるところが多かったのではないだろうか。ただし、実際の被災者の方々はあの記事をどう思うだろうか。たとえば、ご家族をこの震災で亡くされた方はどうだろうか。無常観はある部分確かに力にはなるだろう。復興まであとどのくらい時間がかかるのかわからないが、これを乗り越えたときに、やはり日本は強かった、となるのだろうか。それはそれで悪いことではなく、むしろ誇れることかもしれない。しかしそれが今回壊され、痛んでしまった建物や必要な物資や、社会システム(経済、学校等)が回復していくことのみであったら、壊されたものを作り直したのにすぎず、そこでまたいつか崩れることがあったらどうすれば良いのか。また無常観に立ち返るのだろうか。
 
 細川護煕元総理が、先月半ばの朝日新聞の中のインタビューで22世紀、23世紀を見据えての、新しい日本の国づくりを価値観の再構築からも論じていたかと記憶の中にあるが、価値観の再構築ということになると、それは今あるものを元通りにすることが単に復興なのではなく、建物や物資や、社会システムは人間がどんなにがんばっても崩されることがあり、その崩された時でさえも、私たちが立ち行いていくことのできる価値観、別の言い方で言えば幸福観、が必要であるということだと思う。無常観に優る希望をもしわれわれが持てたとしたら、その時に起こる私たちの絆はどんなにか強いだろうか。しかし「これこれこうなったら幸福である」という”幸福の条件”の中で私たちが生きていくとしたら、その幸福はおそらくいつか崩れてしまうことになり、そのときにその絆はどこまで残るだろうか。目に見える現世利益的な幸福感にはどうしても限界がある。無常観も確かに助けになる部分もあるとは思う。
 ただ幸福とは、目に見える状態がいい時を表すのでも、苦しみがあったらそれを受け入れていくーというだけでもなく、それに優るもの、いつもそこに変わらない安心感があるものなのではないだろうか。人はそんな幸福を求めて生きているのではないだろうかー。そんなことを考えて、また自分も学んでいきたいと思います。今日はここまで。

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ブログ再開

2011-05-05 03:32:05 | 日記・エッセイ
ブログを書けなくなって二ヶ月が経過した。その間あまりにもいろいろなことがあった。遅い時間だが、更新がなかなかできなかったので、少し思い出しながら書くことにする。

まず3月2日。大学院に合格した。
本当にほっとした。もっと楽に合格できるはずだったのに、ここには書けないほど追いつめられたこともあって、合格できなかったときの人生のサイの振り方を二つ考えておいての合格発表を待った。そしてその結果、同じ東京神学大学の大学院であと二年学べることになった。よかった。
ただ僕と同じく進学希望した同級生のうち、残念ながら不合格となった同級生もいた。彼らの気持ちを思うとこっちもやりきれない。ただ、自分も落ちる可能性を抱え、だめだったときの生き方も考えておいたので、同じ教室で学んだ仲間として、誇りをもって強く生きていってほしいなと思う。

 大学院で何を学ぶかはまたそのうち書くとして、その次は3月9日。勉強のかたわら、昨年秋から個人的に人生を変えるほど刺激を受け、新たな世界ーソーシャルメディアとそれによる世界の広がりと人々との出会い、つながりーに目を開かせた「サカモト・ソーシャル・プロジェクト ”skmts”」のネット上のReunion(再会の集い)がUstreamで行われた。くわしくは僕の昨秋からの過去記事を読んでいただければと思うが、当日はUst中継地ではskmts中心スタッフたちの”寿司パーティー”の中継となってしまったりして、坂本龍一教授本人もUst視聴者となり、そこにツイッターで「マイケル・ジャクスシ!」などのつぶやきを連発し、そこに参加者も「私もスシラー(マイケルのスリラーのこと)買いました」的な書き込みで答える…というこう書いても見た人しかたぶんまったくおもしろくないんだろうが、まあとにかくあの昨秋から今年の1月9日までの北米~日本国内~韓国ソウルのサカモトツアーUstを媒体としたソーシャルメディア体験は、バーチャルでないリアルな人生体験として忘れられないもの、新たな世界観、思考回路の始まる時だったから、そんな寿司Ustすらこの春の大事な記憶となってしまった。それにやんなくてもいいReuion、でもみんなやりたかったReunionを平日の夜だったのに、3月9日に行えていたことが、今思えば本当に意味深い。

 そして3月11日。この日が3・11としてこれからずっと記憶される、胸に刻まれ続けるとは誰が予想し得たであろう。その日は、僕らの東京神学大学は卒業式だった。主には学部で終える学部生、修士を納めた大学院生の卒業生のための式だ。多くのそれらの方々の関係者や父兄が遠方からやってきていた。その卒業式のさなか、学長による聖書からの説教の最中であった。大学の当然チャペルだけない、校舎のすべてが揺れた。長い揺れだ。僕はチャペル内に入れず、別室のモニターで卒業式を見ていた。学長はそのまま微動だにせず講壇に立っている。しかし揺れは続きに続く。

その後まさか宮城沖でそんな大地震が起こったとはわからなかったため、そんな僕らを動揺させまいと学長のリラックスを与える説教で、卒業式はなんとか執り行われていったようだった。しかしその後の立食パーティーで、すべてが明らかになった。

 それから二ヶ月近く立つ。4月からは大学院の授業が始まった。学部のとき以上にハードで、かつ質の違う勉強が始まった。予習時間が格段に違う。そしてほとんどが演習形式の授業で各人の発表が多い。また同時に来年度の修士論文の準備も、授業関係とは別に進めねばならない。時間は大変だが、それはまあ望むところだが!そのために進学したのだから。

 震災のこと。大学院のこと。今感じている人生のこと。家族のこと。リアルでもネットでも感じる日本人の道徳的・精神的危機についてのこと。神学書のかたわらで移動時間に読んでいる1Q84のこと。人々との新たな出会いや、自分の将来に向けた新しい動きのこと。。それからツイッターはどうしてこんなに面白いのかということ!

いろいろ書いておきたいこと、中には書けないこともあるけれど、みんなみんなひとつひとつ大事なことが動いている。そういう年齢なのか。しかし大事なものが多すぎてつぶれないようにしたい。軽やかにかろやかに与えられた人生を楽しんで生きていきたい。これからまた少しずつ、書いて行きます。。


何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。
(旧約聖書『コヘレトの言葉』3章1-8節/新共同訳)

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