内田樹先生のブログに、面白い記事が載っていました(すべて面白いのですが、特に、ということです)
7月6日ブログ 「微熱の中で」
研究者の定義について内田先生なりに語られています。
引用『「研究者としての適性」とは、ひとことでいえば「開放性」である。
外部に向けて開かれていること。
それに尽きる。』
この点に関して、非常に目を開かれた気がしました。
僕の中では、内田先生が後に語られている、
引用『日本の学者の相当数は幼児的で、粘着的で、閉鎖的である。
それを「学者に固有の属性」と思っている人がいるが、それは勘違いというものである。
その勘違いこそ日本が知的立国において先進諸国に大きくビハインドを負っている理由の一つなのである。』
という勘違いに完全にはまっていたように思います。
というか、そういう勘違いを勘違いではなく本当のことだとして受け止めないと、研究者としてはやっていけないと思っていました。
そして、これこそが僕が最近研究というものに嫌悪感にも似た感情をもってしまう原因でもあるのかもしれないなぁ、と思いました。
引用『私がビジネスマンだった場合にその学生が来年四月から来る「新入社員」として使えるかどうか、それを基準に私は院生を査定している。
「使える」というのは何か特殊な才能や技術を「すでに」有しているということではない。
「まだ知らないこと」を「すぐに習得する」ことができるかどうかである。
学部教育程度で身につける学術的な知識情報のほとんどは「現場」では使いものにならない。
だから学部教育が無意味だというようなことを言っているのではない。
見なければいけないのは、大学でその知識情報を身につけるときにどのような「ブレークスルー」を経験したか、である。
もしその学生が中学生・高校生のときに設定した知的枠組みを少しも壊されることなしに、無傷で大学四年間を過ごしてきたとしたら、そのような学生はどのような種類の仕事であれ(ビジネスであれ、学問研究であれ)適性を欠いている。
この知識技術を身につけておくと「金になる」とか「就職に有利」とか「偉そうにできる」というような幼児的な動機で勉強している学生は、どれほど努力しても、それこそ体が壊れるほど勉強しても、それによっていかなるブレークスルーも経験することがない。』
このあたりは、まさに現在の大学院生に非常によく当てはまることではないかと思います。
「とりあえず論文さえ書ければいい」、「だからそんなに新しいことはしなくても、論文としての体裁を整えたい」、「でも実験したり結果出したり考察したりはしないといけないから、そのための作業に何日も徹夜したりしないといけない」、「そういうことを先延ばしにするから、どんどん作業が遅れていく」、「でもとりあえず論文だけ・・・(以下同文)」
そんな思いの見え隠れする論文が、面白いはずはないなぁと、改めて思いました。こういうスパイラルを経験する大学院生が最近非常に多いことは事実ですが。(でもしか院生?)
自分も、そういうスパイラルに、知らないうちにはまりこんでいたなぁと、実感しています。そこからどう脱却するか、という点が非常に難しいのですが。
研究者としての脱却ではなく、別の面で脱却してしまったからなぁ・・・。
引用『ブレークスルーとは「脱皮=成熟」ということだからである。
一度でも脱皮=成熟を経験したことのあるものは、脱皮=成熟が「どういうこと」であるかを知っている。
経験したことのないものにはその感覚がわからない。
自分の知的枠組みの解体再構築を喜ぶのは、ポストモダニストが言うように、エゴサントリックな知的秩序を自己審問することが知的=倫理的だからではない。
単に「それが楽しいから」である。』
単に研究が楽しいから、研究をしている。
そういう感覚で研究をしていた時期も、確かにありました。
でも、今はそうではないんですねぇ・・・。少なくとも今の状況で論文を書いている点に関しては。
それよりは、古武術を学んでいく中で学ぶことのできた身体操法を、いろいろな分野で生かすという作業の方に、圧倒的に大きな魅力を感じるし、そちらの研究に関しては楽しいことこの上ないです。
これがもし、内田先生のいわれる「脱皮=成熟」に少しでも当てはまっているならば、非常にうれしく思うのですが・・・。
引用『だから、私が若い人の成熟度を判定するときは、「その人がそれまで聞いたことのない種類の言葉」を聞いたときに「耳をふさぐ」か「耳を開くか」その瞬間的な反応を見る。
「知らないことば」にふれたとき「思わず微笑んでしまう」かどうかを見るだけで成熟度の判定には足りるのである。。』
最近、僕も同じような尺度で物事を見ているような気がします。
「古武術」という言葉を聞いた瞬間に、凍り付くか表情がゆるむか。
僕の周りの院生には、凍り付く人の数が圧倒的に多いように感じます。きっと、得体の知れないなにかを感じてしまっているのでしょう。彼らは、きっと自分が今までに考えてきたこと、やってきたことに対する執着があり、それにすがりたい、他のものには目も耳も傾けたくない、そんな気持ちがあるのでしょう。そういう人には、最近なにも言いたくなくなってきました。
逆に、指導などで呼んでいただいたときには、表情がゆるむ人が多いように感じます。『ほんの少し、これまでと違う感覚で身体を使うだけで、なんとなく違うことができるような気がする。』そんな経験を、受講者の方にしていただけているのかもしれません。そして、その方達には、『思わず微笑んでしまう』だけの成熟度があるということなのかもしれません。こういう方達とは、本当にいつまででも話し続けたいし、一緒に稽古し続けたいと思います。
こういう時点で、すでに僕の成熟度が足りないのかもしれませんが(苦笑)。
7月6日ブログ 「微熱の中で」
研究者の定義について内田先生なりに語られています。
引用『「研究者としての適性」とは、ひとことでいえば「開放性」である。
外部に向けて開かれていること。
それに尽きる。』
この点に関して、非常に目を開かれた気がしました。
僕の中では、内田先生が後に語られている、
引用『日本の学者の相当数は幼児的で、粘着的で、閉鎖的である。
それを「学者に固有の属性」と思っている人がいるが、それは勘違いというものである。
その勘違いこそ日本が知的立国において先進諸国に大きくビハインドを負っている理由の一つなのである。』
という勘違いに完全にはまっていたように思います。
というか、そういう勘違いを勘違いではなく本当のことだとして受け止めないと、研究者としてはやっていけないと思っていました。
そして、これこそが僕が最近研究というものに嫌悪感にも似た感情をもってしまう原因でもあるのかもしれないなぁ、と思いました。
引用『私がビジネスマンだった場合にその学生が来年四月から来る「新入社員」として使えるかどうか、それを基準に私は院生を査定している。
「使える」というのは何か特殊な才能や技術を「すでに」有しているということではない。
「まだ知らないこと」を「すぐに習得する」ことができるかどうかである。
学部教育程度で身につける学術的な知識情報のほとんどは「現場」では使いものにならない。
だから学部教育が無意味だというようなことを言っているのではない。
見なければいけないのは、大学でその知識情報を身につけるときにどのような「ブレークスルー」を経験したか、である。
もしその学生が中学生・高校生のときに設定した知的枠組みを少しも壊されることなしに、無傷で大学四年間を過ごしてきたとしたら、そのような学生はどのような種類の仕事であれ(ビジネスであれ、学問研究であれ)適性を欠いている。
この知識技術を身につけておくと「金になる」とか「就職に有利」とか「偉そうにできる」というような幼児的な動機で勉強している学生は、どれほど努力しても、それこそ体が壊れるほど勉強しても、それによっていかなるブレークスルーも経験することがない。』
このあたりは、まさに現在の大学院生に非常によく当てはまることではないかと思います。
「とりあえず論文さえ書ければいい」、「だからそんなに新しいことはしなくても、論文としての体裁を整えたい」、「でも実験したり結果出したり考察したりはしないといけないから、そのための作業に何日も徹夜したりしないといけない」、「そういうことを先延ばしにするから、どんどん作業が遅れていく」、「でもとりあえず論文だけ・・・(以下同文)」
そんな思いの見え隠れする論文が、面白いはずはないなぁと、改めて思いました。こういうスパイラルを経験する大学院生が最近非常に多いことは事実ですが。(でもしか院生?)
自分も、そういうスパイラルに、知らないうちにはまりこんでいたなぁと、実感しています。そこからどう脱却するか、という点が非常に難しいのですが。
研究者としての脱却ではなく、別の面で脱却してしまったからなぁ・・・。
引用『ブレークスルーとは「脱皮=成熟」ということだからである。
一度でも脱皮=成熟を経験したことのあるものは、脱皮=成熟が「どういうこと」であるかを知っている。
経験したことのないものにはその感覚がわからない。
自分の知的枠組みの解体再構築を喜ぶのは、ポストモダニストが言うように、エゴサントリックな知的秩序を自己審問することが知的=倫理的だからではない。
単に「それが楽しいから」である。』
単に研究が楽しいから、研究をしている。
そういう感覚で研究をしていた時期も、確かにありました。
でも、今はそうではないんですねぇ・・・。少なくとも今の状況で論文を書いている点に関しては。
それよりは、古武術を学んでいく中で学ぶことのできた身体操法を、いろいろな分野で生かすという作業の方に、圧倒的に大きな魅力を感じるし、そちらの研究に関しては楽しいことこの上ないです。
これがもし、内田先生のいわれる「脱皮=成熟」に少しでも当てはまっているならば、非常にうれしく思うのですが・・・。
引用『だから、私が若い人の成熟度を判定するときは、「その人がそれまで聞いたことのない種類の言葉」を聞いたときに「耳をふさぐ」か「耳を開くか」その瞬間的な反応を見る。
「知らないことば」にふれたとき「思わず微笑んでしまう」かどうかを見るだけで成熟度の判定には足りるのである。。』
最近、僕も同じような尺度で物事を見ているような気がします。
「古武術」という言葉を聞いた瞬間に、凍り付くか表情がゆるむか。
僕の周りの院生には、凍り付く人の数が圧倒的に多いように感じます。きっと、得体の知れないなにかを感じてしまっているのでしょう。彼らは、きっと自分が今までに考えてきたこと、やってきたことに対する執着があり、それにすがりたい、他のものには目も耳も傾けたくない、そんな気持ちがあるのでしょう。そういう人には、最近なにも言いたくなくなってきました。
逆に、指導などで呼んでいただいたときには、表情がゆるむ人が多いように感じます。『ほんの少し、これまでと違う感覚で身体を使うだけで、なんとなく違うことができるような気がする。』そんな経験を、受講者の方にしていただけているのかもしれません。そして、その方達には、『思わず微笑んでしまう』だけの成熟度があるということなのかもしれません。こういう方達とは、本当にいつまででも話し続けたいし、一緒に稽古し続けたいと思います。
こういう時点で、すでに僕の成熟度が足りないのかもしれませんが(苦笑)。












北九州から戻りました。
内田先生のお話・・・これは大学の教授陣にも当てはまる事です、今新しい概念から眼や耳をそらしているのは大学の教授体制から生まれた事無かれ主義年金奪取派閥教授会ではないですか?
過去の実績だけで毎年同じ授業をしている教授がいませんか?
そのてん韓国とヨーロッパは厳しいです、パフォーマンスの出来ない教授は駄目だとはっきり定義されているし韓国では学生の評価も取り入れてます。
>自分の知的枠組みの解体再構築を喜ぶのは、ポストモ>ダニストが言うように、エゴサントリックな知的秩序>を自己審問することが知的=倫理的だからではない。
>単に「それが楽しいから」である。』
まさにその通りですね。
仙堂
4年間、なにをされていたのだろう?と、当時は思いました。
ある程度原理・原則を明らかにしたような研究を題材とする授業ではそれもまたしょうがないか、と、今では思うことがあります。基礎研究の多い体育系の研究としては、やむ無しの面もあります。
しかし、それに該当しない、なんのために大学で・・・(以降禁句)という先生方がおられることもあります。
諸般の事情(部活を強化しているとか、外部の人間とのやりとりが多いとか)があるとはいえ、それはあくまで諸般の事情であり、それが研究活動をしなくてもよいということとは決してイコールになってはいけないと思うのですが・・・(この辺は自戒も込めて)。
もうしばらくは、そういう風潮が続きそうですね。でも、僕はもう授業は受けていないのでわかりませんが、最近は大変工夫された授業をされる先生も増えてきています。徐々にではありますが、新しい波が(ここつくばでは)おこっているようです。
僕らの時にそういう波があれば・・・。残念です。