愚者千慮必有一得

日々思うことを書いていきます。
何か一つぐらいヒントがあるかもしれません。
お暇な方はお読みください。

すごくないですか?

2005年02月19日 19時55分12秒 | 古武術
2月18日付の内田先生のブログを読んで、びっくりです。

2005年02月19日 原稿作成機械の最期
(引用)
>「破滅的な状況」とさきに記したのが決して誇張ではないことがみなさんにもおわかりになるであろう。
>このような状況にある人間に対して新規の仕事を依頼するというのが、どれほど「非人間的な」所業であるか、関係各位にはよくよくご周知願いたいと思う。
>というわけではなはだ唐突ながら、本日2月19日を以て新規の原稿・講演・対談依頼の類はメディアの種類を問わずすべてお断りすることにいたしました。
>次回の「お仕事受け付け窓口の営業再開」は夏期休業中の7月26日から9月25日までとさせていただきます。
>それでは、みなさんさようなら。

ここまできっぱりと、仕事を切ってしまう方がいらっしゃるのですね・・・。しかもブログで。

甲野先生に同じことをしていただきたい(笑)。
でも、そうなるときっと出版界その他大混乱だろうなぁ・・・。
4月から、と明言している甲野先生は、すごく優しいというか、丁寧というか、すごいですね。
(内田先生がそうでないといっているのではありません(^^;;)。
ここから2ヶ月弱で、駆け込み乗車的に仕事を持ち込む編集者がいないことを祈ります。

休業期間は、ぜひご自身のしたいことをしていただきたい・・・。
キーワード
駆け込み乗車
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9 コメント

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ごげっ!!! (清水)
2005-02-19 21:28:55
内田先生の文章は、どこかで見たようなものなので、笑ってしまいました(失礼)。売れっ子(何とお呼びしたらよいのか)は、大変なんですね〜。そうなる心配も才能もない私はのん気なものですが、それでも15種類の研究プロジェクトを同時にこなし(つまり、15種類の実験を同時にやっている)、教授ほどではないけれど、大学の仕事(教授の代理を含む)に追いまくられ、ぼろぼろになっているのですから、内田先生や甲野先生って、超人です!
そういえば (たたりもっけ)
2005-02-19 22:22:44
初めて書き込みします。
このところ、休業宣言をする人が多いですね。といっても自分が見ているところだけですが。甲野先生もそうですが、馬貴派八卦掌のことをときどき書いている夏目房之介さんのブログでも3月からの休業が書かれていました。その間はブログも休むかもと言う徹底ぶり。みんな壊れない程度に休むのがいいですね。 
みなさますごい・・・ (けいぞう)
2005-02-20 12:13:35
>清水先生
プロジェクト15個ですか・・・。
僕なんかが忙しいといったら笑われてしまいますね。
自分の研究ぐらいさっさと終わらせないと・・・。

>たたりもっけさま
初めまして。
ひずみのくる時期なのでしょうか?
甲野先生はここ2年ご一緒させていただいて本当につらそうですからね。
ぜひここでしっかりと充電していただきたいなと思います。
基礎と型の意味 (清水)
2005-02-20 14:34:10
甲野先生も、内田先生も、明らかに急がしすぎです!異常事態です。どちらも、売りたい、売れたい、っていう方じゃないですから、使命感と、お人がよすぎるせいです。私が臨床に人間なら、強制的に病院に隔離するのですが・・・。

またまた、おかしなことを考えてしまいました。相変わらずのばかのひとつおぼえです。

甲野先生が、一般には強調される基礎や形式(型)という概念に一義的な重きを置かれないのは、甲野先生の技がテンセグリティー構造によるものであるからです。以下に、バックミンスター・フラーの「宇宙エコロジー」(梶川泰司訳)のフットノートに梶川氏が書かれた解説を引用します。これは、甲野先生の武術の特質と背景を、はっきりと表しているように思われるのです。つまり、重力に依存する術理を基盤とする限り、「基礎」や「型」を必要とするということです。それが人間として当然(必然ではない)なのです。重力に依存するためには(利用するにしても、対抗するにしても)、はっきりとした数式(メソッド)が必要ですし、それを作ることが可能です。どれだけ重力を利用できるかは、その数式がどれだけ完全なものであるかに依存します。すなわち、どれだけ「基礎」を確かなものにするか、どれだけ「型」を確かなものにするかによるのです。甲野先生は重力に依存しなくなったので、いわゆる「基礎」も「型」も必要としなくなったのです。数式化が不可能になり、無意味になったのです。もちろん、甲野先生が重力を利用していないことはありません。テンセグリティー構造にも、重力は働いています。しかし、甲野先生もテンセグリティー構造も、重力に支配されてはいない、依存してはいないということです。外力のひとつとして、利用しているだけだということです。

サンピエトロ寺院に見られる巨大な大理石とブロンズの球面は、大地震のない場所で今でも良好な状態を保っている。そのもっとも製作が困難な球面の円蓋やそれを支える石壁による垂直な壁面や円筒は、大地震には抵抗する力がほとんどない。地震によって垂直に保持された石壁がばらばらに破壊されようとも、重力に依存しようとしてきたおよそ三百万年続いた石器時代の経験から、人間は不幸にもそれ以外に空間を確保する方法を学んでこなかったからなのかもしれない。こうして重力というエネルギーは、依然、建築家たちがクライアントから依頼されて建造する重厚な石の建造物を地球内部の中心に向かって圧縮しつづけることのみに利用された。その重力によって建造物が地球の中心に向かって垂直に沈んで行く現象を食い止めるために、人間は全ての建造物を「基礎」の上に建てなければならなかった。基礎こそ、より重い石で造られてきた。災害発生後に主に設置される現代の比較的軽量な仮設住居でさえ、法律で基礎が義務づけられている。
 「基礎」を重視する態度が社会で重要視されるようになったのは、建物の「基礎」の手抜きから倒壊した苦い経験から生じている。特に権力機構は、敵の攻撃に対してより耐久・耐火性があり、戦闘意欲が失せるほど重量のある堅牢な石材で砦や城壁を築く必要があった。生命と権力を守る建物を、石よりも軽々しい素材に期待することは非現実的であった。
 (中略)張力は、あらゆるシステムに対して統合的に作用しながら、システムの内部に対しても統合する力となる。基礎に依存しないこれらの大地から自立した新しい構造は、もはや外的な重力にも依存しない。重力が内部化された張力こそ、不可視な構造の強度を生む。
 ジオデシック・テンセグリティーの発明まで、圧縮を主にした伝統的な専門性は、人間が造る石の建造物は強風では決して振動したり空中に移動したりしないという前提条件や、石は水に浮かばないという明白な事実から守られてきた。その結果、「構造工学」は、何ひとつ新しい構造原理やテクノロジーを予測すらできなかった。なぜならば、原理を発見することほど、非専門的な行為はないからである。包括的な思考だけが原理に遭遇する
僕の理解では・・・ (けいぞう)
2005-02-20 17:55:54
>清水先生
非常に興味深い考察ですね。甲野先生が最近非常によく言われる「石垣」の話は、もしかしたら梶川さんのお話から発想されたのかもしれませんね(もちろん他のことである可能性は多分にありますが)。

甲野先生が「浮くしかない」と考えられたのには、「重力場にいてはこれ以上発展はない」と考えられてのことなのだと思います。足裏の垂直離陸という、普通では絶対考えつかないことを利用した術理である段階で、すでに重力には逆らっていますしね。

なるほど、テンセグリティーにはまだまだたくさん甲野先生の術理とつながる何かが隠されていますね・・・。それを一つ一つ探り当てるのは、宝探しのようで面白いですね。

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甲野先生が型稽古をされない理由について、一応僕の理解を書きます。間違っていたら、どなたかご指摘をお願いします。

甲野先生が型を重要視しない(しないわけではないのかもしれません)のは、多分何かの本に書いてあるのですが、甲野先生自身が「今の技をよく思っていない」からであると僕は思います(何かの本で読んだからそう考えているだけかもしれません)。

「武学探究」を読む限り、韓星橋老師が形体を編み出されたのは、その昔は站椿だけで換勁できたのが、現代人はできないからまず形体で、ということのように思います。つまり、「換勁をおこなうことで何かを得られる」という明確なものがあったからだと思います(韓氏意拳をされている方々、間違っていると怒らないでくださいね)。

甲野先生の場合は、現在進行形でどんどん変化されています。それ故に、「これをやればこうなるよ」というものが、まだ見つかっていないのだと思います(韓氏意拳ですでに見つかっているということではなく・・・。もちろんまだまだ進化されていると思います)。なので、稽古方法は考えつくけど型を作ろうという気になれないのではないかと思います。

あとは、やはり「型だけやってればうまくなる」という変な逃げに門下生(というか共同研究者)が走らないように、という戒めもあるように思います。最近形体とか站椿とかやるようになり、「ただやっては絶対だめ」ということを痛感しています。まさしく、「形同実異(形は同じ、されど実質は異なる)」になってしまいます。しかし、現代の人はマニュアルが好きですから、「これをやっていればいいですよ」といわれるとそれしかやらなくなりますよね。甲野先生は、それを危惧されているのではないかとも思います。
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しかし、こうして述べてきて、僕の答えには発想がすごく乏しいですね。多分、甲野先生の本を読んでその中に書いてあったことがそのまま言葉になっているだけなのでしょう。そう、まさに「そうだね。それで?」という感じですね。

清水先生のように、もっと自由な発想ができないと、僕の技も行き詰まりますね・・・。といって考え込んだらだめなのでしょうが。
修羅 (清水)
2005-02-20 20:44:20
けいぞう様>

 言われるとおりだと思います。「基礎」ばかり意識してしまうと、そこから全てが始まらなくてはならなくなります。その基礎が間違っていたら(たいてい、間違っています)、目も当てられません。よく、基本に戻れ、などと言いますが、何が基本かわかる人が、はたしてどれだけいるでしょうか。果たして、私たちに「基礎」などあるのでしょうか。それがわかる人は、ものすごくレベルの高い人でしょう。例えば、キャッチボールは野球の基礎といわれますが、本当にそうですか?もどるべきキャッチボールとはどのようなものかがわかる人が、どれくらいいるでしょうか。私の世界でもそうですが、人は「基礎に戻る」、「基礎を大切にする」と言って、安心します。何か、悪い自分をリセットしたような気になってしまいます。しかし、それは自分のごまかしです(もちろん、私は自身、ごまかしています)。
 私たちは、甲野先生やその他の非常にレベルの高い先生の「基本」や「型」の話を、ともすると誤解、曲解してしまいがちですね。とにかく人間は頼るものがほしいですから、そういった「概念」によりかかってしまいます、安心してしまいます。これは、基礎や型に限らず、私は誰々の弟子とか、何々派とか、そういう意識も同じでしょう。武術に限りません。なんとなく、それで安心するのです。師匠なり師範と同じ道(それに続く軌道)に乗ったような気になってしまう。同一化(あるいは同一視)でしょうか。そうやって人間は安心を感じ、ある意味、自我を感じます。甲野先生は、いわばそういった安心を捨てているのだと思います。これは、よく考えると、想像できないくらい厳しく、恐ろしいことです。自分しか頼るものがいないということを、実践しているのです。誰も助けれはくれないということです。その実践のひとつが、一連の公開稽古(講習会)です。私のように、変わり者とはいえ、組織にどっぷりと漬かっている人間には、想像だにできない本当の修羅の世界です。修羅の世界で、常に自分を否定し、生存のために自分を造り直していくということは、本当に恐ろしいことです。

 私のは、自由な発想ではありません。ただの思い付きです。ただ、甲野先生の何かによって、自分の既成概念が、音を立てて壊れて行くのがわかります。そして、今までになかった中身が出てくるのがわかります。繰り返しますが、私の「たわごと」は、私の稽古です。どうか、お許しください。
「完璧な」キャッチボール (けいぞう)
2005-02-20 22:05:55
>清水先生
先生のおっしゃるとおりだと思います。
「完璧なキャッチボール」、そんなものが、存在するかどうかはわかりません。が、存在しないからこそ、追い求めることができるのではないかとも思います。そして、その追い求め方に、妥協を入れるか入れないか、そこが超一流と二流・三流の違いではないかと思います。すべてのことがそうですよね。

甲野先生は、昔のすごいといわれる武術家の動きをおいもとめ、そしてそこに妥協を一切はさまないからこそ、今のようなスタイルで自分を強く持って生きていくことが出来ているのではないかと思います。自分の中に少しでもごまかしがあると、他人に対して自分を強くさらせなくなりますよね。負い目があるというか。そういうところがなく、自分に対して常に厳しくある人間が、きっと超一流になるのだと思います。

かくいう自分はごまかしばかりですが・・・。

型は、きっと、戻るところではなく追い求めるものなのだと思います。キャッチボールも、ただやるのではなく、常に相手の取りやすい位置に投げる、確実に取る、この二つを完璧にするべく追い求めることが、野球の技術向上に繋がるはずです。そこは、戻る場所ではないはずです。先日守若旦那とお会いしたときも、「挙式が完璧に出来る人は、他もすべて出来る」とおっしゃっていました。やはりそういうことなのだと思います。そして、完璧に出来ないからこそ、皆さんがひたすら追い求めているのではないかと思います。
迷走 (清水)
2005-02-20 23:27:53
けいぞう様>

その通りだと思います。基本に戻るとは、今、これを何のためにやっているのか、もう一度我に返ることだと思います。研究を仕事にしていると、単純な操作でさえ、あれっ、これ何のためにやっているんだっけ?と、わからなくなることがしばしばです。漫然とやっている、もしくは、操作自体が目的と化しているのです。やっていること自体で満足してしまう。武術で言えば、型をやっているだけで、やっているつもりになってしまう。あれっ、オレは今何をやっているんだっけ? こうなるとバーティゴの始まりです。自分がどこにいるのか、わからなくなります、「何のために」は、高尚なことではなくてよいのです。けいぞう様言われる、キャッチボールの目的、でよいのだと思います。それを、簡単にわすれてしまいますね。
呆然 (清水)
2005-02-20 23:58:50
テンセグリティーは、私にとっては発展では更々なく、スタートラインへ戻ってしまったと同じです。知らなければ、そして私の頭がビジョンを描き出すことがなければ(これは、全く甲野先生のおかげです)、今までの道を突き進んで、「この道を極めたい」」などとうそぶいていればよかったのですが、そういうわけにはいかなくなりました。ですから、これで科学がわかるとか、甲野先生の技がわかるという喜びではなくて、「うへっ、これで考えなければならないのか・・・」と、呆然としている状態です。確かに、以前よりも「凄さ」はわかったかもしれませんが、自分との距離が無限大に広がってしまった感じで、呆然というのが正直なところです。仕事においても、テンセグリティーと疾患概念ということについて、友人と取っ掛かりの論文をつくるつもりですが、さて、これから自分はどうやっていけばよいのか、まだ方向と方法が見えていません。まさに、部分は全体を示唆しないのです。私、どうすればよいのでしょうか・・・(ため息)。

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