愚者千慮必有一得

日々思うことを書いていきます。
何か一つぐらいヒントがあるかもしれません。
お暇な方はお読みください。

桜のラインを関東〜東北へ

2012年04月11日 18時30分15秒 | 社会
2012年4月6日(金)から8日(日)の間、岩手県大槌町を中心にボランティア活動をさせていただきました。

今回は、「世界の医療団」と協力しながら現地で頻繁に活動している友人に誘ってもらって、施設や仮設住宅で運動教室をさせていただきました。

「世界の医療団」の活動例

6日午後、7日午前午後、8日午前と計4回の運動教室でしたが、参加していただいた皆様はとても楽しんでいらした様子でした。

これも、私の友人や、現地で運動教室をされていて今回参加されていた講師の方々のお力と思います。
私は今回のような活動は初めてだったので、最初は大変戸惑いましたが、最後の頃にようやくペースがつかめたような気がします。

私が普段接するような元気な方とは違って、今回参加された方は(元気ですが)ご老人が多く、また女性が多くて、少しの運動でも結構お疲れになられていました。
他の講師の方々が実践される運動を見たり体験させていただき、「なるほど、こういう運動もあるのか」と大変勉強になりました。

次回は6月にまた参加させていただく予定なので、それまでにいろいろと自己を高めておこうと思います。




今回の活動の中で、現地の方からいろいろなことをお話しいただきました。

震災当初のことや、その後のこと、そんな中での感情やストレスのことなど。

私なんかには全く想像もつかないようなことで、現地の皆様は今も心を痛めておられ、日々を過ごされています。

そんな方々にこちらからお話しできることなどほとんどありませんが、私がご一緒させていただく時間の中だけは、少しでもそのような感情が和らぎ、身体を動かすことに集中できるようにしてあげられれば、と思いました。




そんな中で、一つ「これはいいなぁ」と思うご提案があったので、ぜひ進まないかなと思いました。

それは、陸前高田市ではすでにプロジェクトとして立ち上がっているもので、津波がきたラインを桜でつなごう、というものです。

桜ライン311

これを、大槌にお住まいのある方は「今回津波の被害に遭った関東〜東北までずっと全部つなげないだろうか」とおっしゃっていました。 
「(津波がきたという)石碑は見る人しか見ないけど、桜のラインがあれば、「あそこまで逃げろ!」といえばすぐに分かる。そういうものを作れないのか」と。
陸前高田市ではすでにプロジェクトとして動いていることもご存じで、「この地区でもできないのか」とおっしゃっていました。

これは、ぜひとも実現してもらいたい話だなぁと思います。

どこに持って行っていいのか分かりませんが、少しでも可能性のある方がこのブログを見て、どこかにつないでいただけないかと思います。




3日間の短い期間でしたが、大変勉強になりました。
またぜひ、ちょっと違った形で向こうに行くことができれば、と考えています。
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テレビの字幕と学生の変化

2011年07月21日 13時24分39秒 | 社会
先日の「今を生きる人の集い」の中で印象深かったのは、関根先生のお話。「テレビが、コメントを字幕で表示し始めてから、確実に学生が話を聞いてるようで聞いていない、頭に入っていない状況が増えた」とのこと。これは、私の実感ともとても重なる。

大学でも、事務の方や私などが学生にあることを説明すると、終わってからすぐに「これはどうすればいいんですか?」と、さっき説明したでしょ?というようなことを平気で何十人も聞いてくることがある。これは、妻が事務をしていたR谷大学でもあった現象。おそらく、音声だけで言われたことを頭に入れる、という能力が低下しているのだろう。

字幕のことは、音声が聞き取りづらい方などもいるので一概に悪いとは言えないのだが、しかしこういうことにつながっている可能性は否定できない。




これに似たことは、多くのところで起こっているのではないだろうか。技術が進み、押し売りのように便利さを売りにすることで、人間の方の機能が低下してしまう、ということが。

例えば靴。「運動会で速く走れるように」と、カーブに強い靴が開発されていたり、クッションだけよくしたようなふにゃふにゃの靴が開発されたり。これらは、「曲がる」ということや「まっすぐ歩く」などの人間的な機能を損なう方向にしか働かないのではないか?と危惧する。

他にも、電車や車の登場によって人は確実に遠くまで歩いたり走ったりして移動をすることができなくなっている(やろうと思えばできるだろうが、相当苦労するだろう)。

マッチやライターの出現で、火を起こすことはとても簡単なことになってしまった。先日体験した「火起こし」などは、体験してみて初めてやり方が分かったが、この経験が無ければ、例えば電気もガスも止まったときに火を起こそうとしたとき路頭に迷っていただろう。そのくらい、先日の火起こしの体験は「こんなに注意点があるのか!」という体験だった。




これだけいろいろなことが進歩してしまった世界で、いろいろなことを捨てていくことは難しいのかもしれない。しかし、なにか便利そうなものを取り入れるときに、「それは自分の人としての機能を損なわないのだろうか?」ということを一瞬でも立ち止まって考えてみることは、必要なのではないだろうか。
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大阪大学 鷲田総長の卒業式式辞

2011年03月26日 13時22分59秒 | 社会
大阪大学総長の鷲田清一氏が卒業式で語られた式辞を読んだ。

式辞

朝から、涙が出そうになった(いや、実際に出た)。



いてくれることの大切さ(copresence)

専門知識だけではどうにもならないこと

誰もがリーダーになりたがる世の中はすぐに壊れる、ということ

よきフォロワーの存在が重要である、ということ

パナソニックの創業者、松下幸之助さんが自社の管理職員の前で話した「成功する人が備えていなければならないもの」
(1)「愛嬌」(2)「運が強そうなこと」(3)「後ろ姿」

(軸がぶれない、統率力がある、聴く耳をもっているなどといった心得も、たしかに大事でしょう。
が、この隙間、この緩み、この翳りこそ、人の関心を誘いだすものなのです。組織とは言うまでも
なく人の集団です。そして、一人一人が受け身で指示を待つのではなく、それぞれにそれぞれ
の能力を全開して動くそのときに、組織はもっとも活力と緊張感に溢れます。上司の命を待つの
ではなく、一人一人が自分の頭で考え、へこたれずに行動できる組織がいちばん活力がある
のです。getting things done by others. そういう意味では、リーダーがいなくていい組織を作れ
るのが真のリーダーだと言えるかもしれません。 )




そして一番ぐっときたのは、「請われれば一差し舞える人物になれ」という言葉。
文化人類学者の梅棹忠夫さんが亡くなられる直前のインタビューにおいて語られた、教養のあるフォロワーシップについての言葉。



いつでも請われるような、そして請われたときに一差し舞えるような、そんな人物になりたいと、心の底から思いました。




すばらしい式辞でした。
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東北地方太平洋沖地震への義援金 TEAMJAPAN#forSPORTS

2011年03月14日 19時44分59秒 | 社会
為末大選手がツイッターを通して、東北地方太平洋沖地震への義援金の呼びかけを行いました。

その名も「TEAMJAPAN#〜」。

#の後に、各自でスポーツ名や個人名をいれて募金を集めよう、という活動です。

これに賛同し、この度「TEAMJAPAN#forSPORTS」を立ち上げました。

東北地方太平洋沖地震の被災者に少しでも力を送りたいと思っています。

もしよろしければ、ぜひ皆様も募金をお願いいたします。


TEAMJAPAN#forSPORTS
http://justgiving.jp/c/2164




紹介文:
◎為末選手が被災者支援 アスリートに寄付呼び掛け
(共同;JST:1103132302)

 陸上男子400メートル障害の日本記録保持者で世界選手権の銅メダルを
2度獲得した為末大選手(32)は13日、東日本大震災を受け、自身の公式サイト
を通じて「地震救済チャレンジ『TEAM JAPAN』」と題した寄付金を募
る活動を開始した。競技の枠を超え、多くのアスリートに参加を呼び掛けている。

 為末選手のマネジメント会社によると、既に水泳やゴルフなどトップ選手から
も賛同者が集まり、13日夜の時点で寄付金が200万円を超えたという。為末
選手は「日本を一つに」と、スポーツ選手からも被災者支援の輪が広がることを
求めている。
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寛容、臨機応変、専門家への委託(内田先生のブログ)

2011年03月13日 19時55分07秒 | 社会
東北地方太平洋沖地震を受け、阪神大震災の被災者でもあった内田樹先生がブログを書かれています。

未曾有の災害の時に(3月13日)

(1)寛容のところで書かれていることは、本当に私もそうだなと思いました。



(1)寛容
茂木健一郎さんも今朝のツイッターで書いていたけれど、こういう状況のときに「否定的なことば」を発することは抑制すべきだと思う。

いまはオールジャパンで被災者の救援と、被災地の復興にあたるべきときであり、他責的なことばづかいで行政や当局者の責任を問い詰めたり、無能力をなじったりすることは控えるべきだ。彼らは今もこれからもその公的立場上、救援活動と復興活動の主体とならなければならない。不眠不休の激務にあたっている人々は物心両面での支援を必要としている。モラルサポートを惜しむべきときではない。

「安全なところにいる人間」と「現地で苦しんでいる人間」を差別化して、「苦しんでいる人間」を代表するような言葉づかいで「安全なところにいる人間」をなじる人間がいる。

そういうしかたで自分自身の個人的な不満や攻撃性をリリースすることは、被災者の苦しみを自己利益のために利用していることに他ならない。
自制して欲しい。




また、(3)専門家への委託についても、まさにその通りだと思います。

私たちにはできないことというのが数多くあります。

私たちにできないことをしてくれている専門家の方々を信頼し、その方々の力とモラルを信じるしかありません。



そんな中、私も「募金活動をしたい」と考えていましたがどのようにしてよいか分からなかったところ、為末大選手がツイッターで呼びかけられていた「TEAMJAPAN」活動に賛同し、活動することにしました。形は違いますが、これも専門家に任せることになるかなぁと。

このブログをご覧の方で、もしご協力いただける方がおられましたら、以下のサイトから募金をお願いいたします。



TEAMJAPAN#forSPORTSのチャレンジ
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子供の体力が危ない!という記事

2011年03月02日 15時28分31秒 | 社会
こんな記事が回ってきたので、掲載します。深刻な問題だと思います。



◎子供の運動量は、二五年前と比べて半分に落ちています
(2011/03/01 プレジデントファミリー)

便利な生活は、子供の敵(田端広英=文)

 運動量が多少減っても、死ぬわけではない。時代が違うのだから仕方がない
−。そう思っていませんか?実は、想像以上に深刻な問題のようです。

汗をかけない子が増えている
 一九七九年二万七六〇〇歩、二〇〇七年一万三〇〇〇歩。図1は子供の一日の歩数を調べたデータである。約三〇年前、つまり親世代が子供だった頃と比べると、子供たちの歩数は半分以下になっている。
 東京都江東区立南砂小学校が実施した歩数調査の結果には、このような現代っ子の実態がはっきりと表れている。全校児童三九六人のほとんどが周囲の高層マンション・団地に暮らす南砂小学校は、六年生の三〜四割程度が中学受験をするという典型的な都市型小学校。牛島三重子校長が赴任した五年前は、「男女を問わず休み時に外遊びをする児童が少なく、けがも多くひ弱な傾向が心配」という状況だった。
 昨年度東京都スポーツ推進校の指定を受けた同校が、ある年の四年生を対象に行った調査結果(図2)は、平均歩数一万二四六五歩。これはあくまで平均値で、男子と女子(男子平均一万三〇四〇歩、女子は一万九四八歩)、多い子供と少ない子供(最多一万六四六四歩、最少九六五四歩)など、個人差が大きい。学校側の取り組みで、始業前や休み時間に外に出る子供は増えたというが、活動的な児童とそうでない児童の二極化が問題となっている。
 文部科学省の「平成二二年度全国体力・運動能力、運動習慣等調査」でも、学校の体育を除く一週間の運動時間が六〇分未満の子供は、小学五年男子で一〇・五%、中学二年男子で九・三%。女子は小学五年が二四・二%、中学二年では三一・一%に上っている。「夏も冬も冷暖房が設置された教室から出たがらない児童がいる一方で、水泳やサッカー、野球だけでなく、テニスやゴルフなど、スポーツを習う子供は増えています。放課後や土日に活発に体を動かしている児童は、休み時間も活動的。非活動的な子供との差がますます開く傾向にあります」(牛島校長)
 
歩数の減少が示すのは、単に子供が歩かなくなったという事実だけではない。運動量の低下が子供の体にもたらす影響については、これまでも指摘されてきたことだ。七八年からの三〇年間で「肥満傾向児」は約四・二ポイントも増加。近年では子供の生活習慣病が大きな問題になっている。
「体温変動異常(一日のうちに体温が一度近く変動する)や汗腺異常(汗をかけない)の子供も増えています。幼少時に十分な運動経験をしていないため、体温調整機能が十分に発達していないことが原因と考えられます」と話すのは、さまざまな調査から現代の子供たちの体の問題を明らかにしてきた山梨大学教育人間科学部の中村和彦准教授だ。
 ことは生活習慣病だけにとどまらない。「歩数はあくまで運動量の目安です。歩数減少のデータには、運動量の低下と、それによる基本的動作の未習得・未発達という、現代の子供が抱える二つの”危機”が表れているのです」(中村准教授)。
 全国の小学生の九九・九%が加入する災害共済給付制度の運用を行う、日本スポーツ振興センターの調査によると、小学生のけがの発生件数は七八年には三四万四三八〇件だった。ところが〇八年には、少子化が進んだにもかかわらず、四四万三七二九件にまで増加している。この数字は保険金の給付を行った人数のため、病院に行かず、保健室だけで処置をした人数は含まれていない。近年のほうが「念のため病院に」という傾向が強いにせよ、実際のけがの発生件数はもっと多いことが想像できる。「転んでも手をつけない子供、階段から飛び降りただけで骨折するような子供の存在は、二、三〇年前から気になっていましたが、とくに最近は、活動量が比較的多い男子でも、頭や鼻、歯、目のけがが多くなっている印象です」と、前出の牛島校長は話す。
 こうした現場の実感は、データからも裏付けられる。日本スポーツ振興センターの調査によれば、顔のけがは三〇年間で約一・七三倍に、頭のけがは約一・一五倍に(図3)。骨折の件数は約一・七倍になっている。頭や顔は体の中でも重要な器官が集まっている場所だ。本能的に防御できるはずだが、転んで頭や顔面を打つのは珍しくなく、上手に身をかばえないため鼻の骨や歯を折るケースも多い。また、ボールを顔面に当てて鼻血を出す程度ならまだしも、まばたきすらできないため眼球損傷や、ひどい場合は失明に至る事故も報告されているという。
「このような事故は、日常生活や将来の仕事のため、つまり生きていくうえで必要となる基本的な体の動かし方が、しっかり身についていないことから起こっていると考えられます」(中村准教授)
 
ボールに反応しない子が増えている
 
中村准教授によれば、基本的動作は大きく三六の動きに分類されるという。「その中でもとくに大切なものが、(1)走る、(2)跳ぶ、(3)投げる、(4)ボールをつく、(5)ボールを取る、(6)でんぐり返し、(7)バランスを取るという七項目。これらの重要性は、新しい『小学校学習指導要領』の中にもはっきりと位置づけられています」(中村准教授)
 多様な基本的動作を身につけ、それを洗練させていくのに最も適しているのは、二、三歳から一一、一二歳までの幼少期。ところが、八五年と〇七年の幼稚園児の動作の洗練度を比較した中村准教授の調査によると、「現在の年長児は、約二五年前の年少児と同じ程度の運動の仕方にとどまっています。小学校中学年になっても幼稚園児レベルの子供がいても不思議ではありません」(中村准教授)というのが現状だ。
 基本的動作の未習得・未発達は、日頃、体を動かさない子供だけの問題ではない。スポーツ少年団などに所属して体を動かしているからといって安心はできない。「スポーツをすれば、運動量は確保できるかもしれません。しかし、基本動作の多様性は単一の競技スポーツを学んでいるだけでは身につかない。競技に必要な技術練習に偏ってしまうからです」と中村准教授は注意を促す。「昔の子供たちは、一日の中でも、鬼ごっこや缶蹴り、縄跳びやゴム段、三角ベースなど、いろいろな遊びをすることで動きの多様性を身につけていきました。そして、負けたくない、上手になりたいと工夫することによって自ら動きを洗練化させていったのです」(中村准教授)

 昔の子供たちは、こうした外遊びやスポーツに加え、お使いや掃除などの家の手伝いも含めた生活全体の中で体を動かす機会が多かった。その結果として、「歩数」という数値が高まり、基本的動作も自然に身につけた。
 ところが、近年、子供が体を動かす機会が失われつつある。中村准教授によれば、「三間」が失われているからだ。「『時間』『空間』『仲間』という三つの『間』がそろわなければ遊びは成立しません。『三間』が失われたことによって、子供たちの遊びは大きく変容しています」(中村准教授)
 現在の小学生の遊び場と、四〇歳代、六〇歳代の男女の小学生時代の遊び場を比較すると、「室内」の割合が大きく増えて、反対に「自然的場所」が減っている(図4)。全国で”都市化”が進んだ結果と考えれば仕方がないが、「人工的場所(校庭や公園、公共グラウンドなど)」の世代間による差は大きく変わっていない。
 だが、その実態は、「外で遊んでいるからといって、必ずしも体を動かしているわけではありません。公園に集まっても、カード対戦ゲームや携帯型ゲーム機で遊んでいる場合も多いようです」(牛島校長)というもの。
 また生活そのものに体を動かす機会が減っている。ベッドと布団、和式トイレと洋式トイレの違いでも、一日の運動量は大きく変わる。帰宅したら家を一歩も出ないという日もあるだろう。
「当校の場合、高層住宅住まいのため『外に出るのが面倒』という児童が多く、保護者にも安全面への配慮から子供を外に出したがらない傾向があります。高学年になるにつれて塾や習い事で忙しくなるため、学校でアポをとっておかなければ放課後に近所の公園で一緒に遊ぶこともできないような状況です」(牛島校長)
 都会だけの問題ではない。地方では登下校手段も変わってきた。通学圏が広い地方ほど、電車・バス通学、親の送り迎えによる運動不足は深刻だ。
 東京大学大学院生(教育学専攻)で、日本学術振興会の研究員でもある本多卓也さんが〇六年に島根県内の一小学校で三年生以上の児童を対象に行った、通学方法と日常の運動量・体型との関連調査がある。学校と家との距離が一・九キロ以内と以上、自動車・バスの使用があるかないかで児童を分け、児童の学校内・放課後・休日、課外活動を調べ、運動量と肥満度を調査したものだ。
 それによると「徒歩通学で、その距離が長い児童ほど、通学以外の一日の運動量が多いことが明らかになりました」(本多さん)。この学校は運動に力を入れているため、もともと肥満児は少なかったが、調べてみると、徒歩通学時間が長い児童ほど体型もスリムだったという。
「徒歩通学時間が長い児童ほど、休み時間や放課後に自発的に体を動かしていました。このような子供たちは、無意識のうちに規則正しい生活習慣が身についている印象を受けました」(本多さん)
 学校での活動量の多さは、授業中の学習意欲や集中力にも影響してくる(図5)。中村准教授の調査によれば、登校時に「ねむけ」と「だるさ」を覚えている子供たちが非常に多いという。
「運動量が少ない子供は登校時より下校時の疲労感が増しています。つまり学校にいる間にますます疲れてしまうわけですが、運動量の多い子供は下校時のほうが疲労感が減っています。休み時間に体を動かすことで疲労感が解消されているのです」(中村准教授)
 生活環境やライフスタイルの変化といえばそれまでだが、「生活の便利さを追求してきたことが、結果的に子供たちの遊びや運動の機会を失わせてしまった。すでに体ができあがっている大人はいいですが、これから成長する子供は最も被害を受ける存在だということを保護者は認識しておくべきです」(中村准教授)
 とくに、年齢が上がるにしたがって運動量が低下する傾向にある女子(前出「全国体力テスト」)の場合は要注意だ。中高生になるとダイエット志向が強くなるため、それまでにしっかり体づくりができていなければ健康を損ねるリスクがより高くなる。「出産時に必要な体力がつかないまま大人になってしまう可能性もあり、非常に心配な状況です」(牛島校長)

 子供の運動量を確保し、このような危機的状況を改善するためには、家庭での取り組みが欠かせない。
 中村准教授によれば、「四五分間の体育の授業中に、個人が体を動かす時間は器械運動や陸上競技で平均わずか一〇分程度」。それ以外の時間は、教師の説明や順番待ちで過ぎていくという。牛島校長も学校側の取り組みに限界があることを認めたうえで、保護者の協力が必要だと語る。
「学校で運動時間を確保できるのは体育の授業と休み時間が中心です。本校でも〇五年度からさまざまな取り組みを実施して体力向上に努めてきましたが、文部科学省の『新体力テスト』の結果は東京都の平均並み。つまり全国的に見たら低い状況にとどまっています。家庭での運動量を増やすことが、引き続いての課題となっています」(牛島校長)「三間」が失われつつあるなか、子供の運動量を確保することはますます難しくなっている。そこで手をこまねいているのではなく、まず保護者の運動に対する認識を変えること。それが、危機にさらされたわが子の体を救う第一歩になるのではないだろうか。
・歩いていける距離でも、すぐ車に乗ってしまう
・ちょっとした階段でも、エスカレーターやエレベーターを使ってしまう
・照明の点灯・消灯、テレビの電源はすぐ手の届くリモコンで行う
・買い物は宅配を利用している
 これらの項目に身に覚えのある人は要注意だ。
 また、親の運動やスポーツに対する関心のありようが、子供の活動性に大きく影響するという文部科学省の調査結果もある。幼少期の子供たちは保護者と行動を共にする時間が長いので、親の生活習慣が強く影響する。スポーツ番組の視聴時間が長い家庭、あるいはスポーツの話題が豊富な家庭ほど子供の運動量が多くなるというのだ。
 無理強いして子供だけに運動させるのは、子供が運動嫌いになり、逆効果となる可能性も高いが、親が日常的に動いていれば、おのずと子供も動かざるをえない。子供と一緒のときにはとくに、親も意識して体を動かしてみてはいかがだろう。

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1000円割引とはなんだ?

2009年05月04日 22時06分54秒 | 社会
今日は福知山まで高校野球を観にいって、帰りに敦賀で魚を買って帰ってきました。

福知山から高速に乗って終点で降りたときに、前の岡山ナンバーが「割引1000円」でした。遠いところからご苦労様でした。

因みに僕は「割引850円」。なんか理不尽だ(笑)。



そして大飯から敦賀まで下道がだだ混みで、2時間かかりました。

買い物をして、敦賀から家までも2時間。

行きは2時間半だったのに…。



こんなに車が出ていて、日本の「二酸化炭素排出量」は大丈夫なんですかね?

その議論はもう終わったのでしょうか?



割引するなら高速じゃなくて一番二酸化炭素を出さない電車だったのでは?と、今更ながら思いました。



やはりこの国の政策には、100年の計も哲学もなにもない、いきあたりばったり政策だということがよくわかります。

でも民主党は「高速無料化」がマニフェストか…。



選挙どうしようかな…。
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空き地連盟

2009年04月02日 08時15分33秒 | 社会
茂木健一郎さんのブログに、とても気に入った記事がありました。



空き地連盟




なんというか、いいなと思います、こういうことのできる人。
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ガソリン代が上がった

2008年05月01日 20時33分13秒 | 社会
今朝大学に来る途中のガソリンスタンドでは、軒並み上がっていた。

153円/L。大体予想通り。滋賀は多分安い方だと思うから、ちょっと高いところでは間違いなく160円ぐらいになっているだろう。

昨日の夜は、スタンド前に長蛇の列ができていた。私は一昨日夜に入れておいたので並ばなかったが、今朝すでにメーター一つぐらい減っていた(苦笑)。




福田総理は、「スタンドがすでに備蓄している分があるから、価格が上がるのはGW明けになると思いますよ」みたいなコメントをしていたが。

この辺りが、全く現場を見ていない人間の発想である。

きっと、自分でガソリンを車に入れることなどないのだろう。

この男は、どこまでウソをつけば気が済むのか。それとも、「周りにつかされているウソ」だからなんの心の痛みもないだけなのか。

結局この1ヶ月で、暫定税率が本当に必要かどうかの議論はほとんどされず、「再開のためのスケジューリング」だけが国会やマスコミの話題の中心になってしまった。

なぜ必要なのか、25円も必要なのか、そういう議論を、もっと重ねてほしかった。





一つ耳を疑ったのは、暫定税率復活が決定した直後の東国春氏のコメント。

「(暫定税率休止中)この間に生じた財政赤字は、国に責任を持って補填してもらいたい」

この人は、いつからお金の話のみをするようになったのか。

しかも、このコメントをするときの目が本当に「嫌な感じ」だった。

道路がほしいのではなくて、公共事業がほしいだけなんだな、と思ってしまった。





この国の政治家には、もはやなにも期待できないところまできているのかもしれない。
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チベット問題について

2008年04月28日 21時25分48秒 | 社会
昨今の「チベット問題」についていろいろ考えるところがあり、更新できずにいます。



田中宇さんの記事によるチベット問題
(田中宇氏「田中宇の国際ニュース解説 世界はどう動いているか」4月18日)

これは、読めば読むほど「外から見た」内容の記事であることがわかる。

そこには非常に客観性に富んだ、ある意味「冷酷さ」が垣間見える。

要するに、「今回の騒動はダライ・ラマがあおっているのではなく、中国を間接的に糾弾したいヨーロッパ諸国やアメリカなどが外側からあおっている」ということである。



しかし、今回日本で行われた聖火リレーにまつわる様々な記事やYou Tubeの映像を見ると、そんな外側からの意見はどうでもよくなるような、正にそこにある「現実」が見えてしまう。


朝日新聞の記事
(ウエブ魚拓により保存)

これは日本の新聞が報道した、ある意味「標準的な」ニュースである。

しかし、この裏には本当に様々な出来事があったことが、いろいろな所で見て取れる。

(mixiには映像がたくさん掲載されているのだが、こちらでリンクなどすることができない・・・)



深夜のサービスエリアで、長野に向かう中国人とチベット支援者が騒動を起こしたり、チベット支援者をほぼ隔離し、中国人の行列は聖火ランナーの横を伴走できるように警察が仕切っていたり。

隔離された状態でも、一生懸命「Free Tibet!」と叫んでいるチベット支援者が大勢いたり・・・。



今は、なにが正しいのか、なにが間違っているのか、さっぱりわからない。

しかし、アルピニスト・野口健さんのインタビュー記事を読むと、声を上げずにはいられなくなる。

わが聖地・チベットの苦しみ:野口健(アルピニスト)(1)

わが聖地・チベットの苦しみ:野口健(アルピニスト)(2)

わが聖地・チベットの苦しみ:野口健(アルピニスト)(3)

わが聖地・チベットの苦しみ:野口健(アルピニスト)(4)

(消えるのがいやなので、ウエブ魚拓で残しました)

(3)の中から引用。

-----------------ここから
山際 アメリカではリチャード・ギアやミア・ファロー、ミア・ファローに煽られたスティーブン・スピルバーグなど、数えきれない人が非難の声を上げています。しかし日本では、町村官房長官が「基本的には中国の国内問題というものの、双方の自制を求める」という、何がいいたいのかよくわからない発言を行なった程度でした。

野口 中国は最初、チベット人が店舗を壊し、物品を略奪する映像を外部に流しました。予備知識なしであの映像に出合えば、おなかをすかせた農民一揆のように見える。それに対して「正当防衛で撃った」というんです。「双方」という言葉を使った時点で、中国に加担していることになる。

山際 そんな状況下、野口さんが声を上げられたのは素晴らしいことだと思います。

野口 じつは登山家は皆、現状をよく知っているんです。チベットと登山家の縁は深く、チベット人に対する思いも同じ。問題は、その思いを公の場でいうか、それともいわないか。僕がチベットについて自分のブログやホームページに書いたときも、「よく書いたな。おまえはもうチベット側から登れないぞ」といわれました。実際にそうだと思います。僕の最終目標はエベレストをチベット側から登ってネパール側に降りることでしたが、それが失われてしまった。登山家の多くが自身の欲望のために発言を控えるのは、ある意味、当然のことでしょう。
しかし、僕はその欲望と、現場を知ってしまった人間の思いのどちらを優先すべきか、自分に聞いたんです。そして、やはり後者を優先すべき、という答えが出た。いま発言しなければ、そのために僕は十字架を背負うことになるんです。
オリンピック選手にしても同じですが、しかし登山家とは違い、彼らは現役年齢が限られている。4年に1度のチャンスを奪うのはきわめて酷な話です。彼らが発言できないならば、代わりに政治家がいえばいいのに、日本はそうしない。
登山家や政治家だけではありません。メディアも一緒です。騒乱が起こる前ですが、ある新聞の取材で「もうすぐチベットで大変なことが起きる、そう書いてください」といいました。しかし「オリンピックの取材許可が下りなくなるから、無理です」と返された。事態はそこまで進んでいるのか、と愕然としましたね。
しかし、本当に日本人はチベット問題に関心がない。一昨年、アメリカのボルダーという町に行きましたが、至るところで「フリー・チベット」という看板を見掛けました。本屋にもチベットの旗がはためいていた。日本でそんな光景に出合うことはないでしょう。

-----------------ここまで

恥ずかしい話、今回の騒動が起こるまで、チベットの事情については「セブンイヤーズ・イン・チベット」で見たような「昔中国が突然チベットに攻め入って、残虐なことをした」ということぐらいしか知らなかった。

しかし、それが今日どのようになっているかは知らなかった。

それを、今回嫌も応もなく知ってしまい、かなり頭が混乱している。



この混乱が収まるには、しばらく時間がかかりそうだ。

しかし、一つだけいえるのは、「知ってしまった以上、黙ってはいられない」ということだろうか。



まずは「チベットの危機に関する声」に書名をするところからスタートしたい。
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先日感じた違和感

2008年02月16日 12時25分06秒 | 社会
先日、歌手・倖田來未さんが問題発言をしたそうですね。

それに関して、相当な批判がでて、ほとんど活動停止状態に追い込まれているように見えます。

公共の電波で、ノリとはいえそういうことをいってしまったことはもう消せないので、まぁ今後頑張ってもらいたいなぁと思います。



自分が感じたのは、今回の騒動の大きさもそうですが、その後のニュースなどでの取り上げ方です。

ニュースキャスター達が、こぞって「倖田來未さんが○○が○○と発言した問題で・・・」と復唱してからニュースを読んでいたところに、どうしても違和感を感じずにはいられませんでした。

「なんだ、あなたたち(キャスター達)はそういうことを言ってもいいんだ」と思ってしまうのです。

「結局、倖田來未さんをいじめたいだけなんだね」と。



だって、「言葉に傷つく」ことに配慮するなら、「倖田來未さんがある言葉を発した問題で」で片がつくはず。

それなのに、わざわざ復唱しているということは、そのニュースを読んでいる人達はさほどこの言葉に問題を感じていない、ということではないでしょうか。



「最近、倖田來未、ちょっと調子に乗ってるよね。出る杭、うっとこうか」ぐらいの感情で、ものすごく多くの人達が、一人の人間を叩いていた、というのが、今回の一件の全容のような気がします。



そんなくだらないことに精を出していないで、もっと伝えないといけないことはたくさんあるでしょうに・・・。

ほんと、くだらない。




最近の日本の社会は、一事が万事こういう流れで動いているように思えます。それほどまでに、日本の社会は「刺激」に飢えているのでしょうか。

次から次へと「カリスマ」を生み出し、「王子」を生み出し、大きくなってきたらたたき落とす。

ただそのうちたたき落とすために、ひたすら持ち上げる。持ち上げすぎて、叩きようがなくなり、もうどうにもならない(新しい人を持ち上げるわけにもいかない)分野もありそうですが。(女子卓球界なんてのはその典型)

そんなやり方に、いつ見切りをつけてくれるのでしょうか、マスコミの方々は・・・。

もうね、飽き飽きしてるんですよ、いい加減。
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やっぱり納得いかない

2008年01月09日 22時37分35秒 | 社会
昨日は勢いで書いたが、今日は少し冷静になった(?)。そして、やっぱり納得いかない。

福岡・車転落3児死亡:「危険運転」認定せず 今林被告に懲役7年6月−−地裁判決

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(記事の一文)
川口宰護(しょうご)裁判長は「酒酔いの程度が相当大きかったとは認定できず、飲酒の影響で正常な運転困難だったとは認められない」と述べ、直接の原因を脇見による前方不注視とした。
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酒を飲み、一般道を100km/h以上で走り、脇見運転をする。この運転のどこに「危険でない運転」とする要素があるのか?


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(記事の一文)
川口裁判長は危険運転致死傷罪の成否について、脇見運転だったとする今林被告の供述の信用性を認め「酒に酔った状態だったのは明らかだが、事故前に蛇行運転や居眠り、衝突事故などはなかった。水の持参を頼んだ言動などから、判断能力を失ってはいなかった」と認定。
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「水野持参を頼んだ言動」から「判断能力を失っていなかった」?判断能力を失っていないことと、正常な判断ができるかどうかは、全くの別問題なのではないか?

「罪を軽くするための工作をする判断」が「正常な判断」なのか?そんなばかばかしい話があるのか?じゃあ、耐震偽装とか消費期限改ざんとか年金問題とか、そういう問題も「罪を軽くするための工作をした正常な判断」として罪が軽くなったか?むしろ余計罪を重くするのではないか、普通は?

挙げ句の果てに、
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(記事の一文)
その上で量刑を「飲酒での高速走行は危険極まりなく悪質で、今回のような重大事故を起こすべくして起こした。厳しい非難を免れず刑事責任は誠に重大。法定刑の上限をもって臨むのが相当」と述べた。
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「今回のような重大事故を起こすべくして起こした」といっているのに、「正常な運転が困難であったとは認定できない」らしい。まるっきり矛盾しているようにしか聞こえない。

刑自体を軽くしておいて、その上で「刑事責任は重大」であり「法定刑の上限」といわれても、「じゃあなんで罪が軽くなっちゃうの?」という疑問しか湧いてこない。



今回の判決が出るまでの過程が適切だったかどうかそんなことは知らない。ちゃんとした手順を踏んで材料を集めてきた結果の判決だからといって、それが納得のいくものかどうかは個人個人の判断にゆだねられるだろうし、それこそ遺族の方々の動向を見ているしかない。

危険運転致死傷罪の適用により懲役20年という判決になったところで、被害者は帰ってこないし、遺族の方々も納得は行かないだろう。

しかし、今回の判決は、はっきりと今後に悪影響を及ぼすことは想像に難くない。

もし泥酔状態で人をひき殺したとしても、友人に「人ひいちゃったよ〜。水持ってきて。そうすれば、7年ですむらしいから」といえば、それが「正常な判断ができる状態だった」と見なされるということだ。逃げた者勝ち。隠そうとした者勝ち。

本気でそういう会話が行われそうな気がしてならない。そうなったら、外なんか怖くて歩いていられなくなる。



今回の件は、「上限(20年)」が足かせになったのではないか?「7年6ヶ月」の上がいきなり「20年」。もし仮にこれが「15年」とかだったら、適用されたのではないか?と思えてならない。

だったら、「罪としては危険運転致死傷罪なんだけど、いろいろなことを鑑みて15年」とか「18年」とかいうことにはならなかったのだろうか?
(誤解されたくないが、この年数が本当に「罪を償う年数」であるとは思っていない。何らかの基準を作らなければならない結果が「年数」であると思うし、この年数を努めた(?)からといって罪が消えるとは思えない)

そういう態度は、司法の場では認められないのだろうか?




今、ふとものすごくおぞましい考えが頭をよぎった。

司法はよってたかって危険運転致死傷罪の適用を減らして、「ほら、刑を重くしたらこんなに危険運転致死傷罪を受ける人間が減ったでしょう?」といいたいだけなのではないか?

もしくは、裁判員制度を推進しようという会派から、圧力でもかかってるんじゃないか?

「こんな判断を司法が下すんなら、裁判員になってちゃんとした判断を下す!」と言い出す人間が出てくることに、期待でもしているんじゃないか?

確かに、自分が裁判員だったら途中で書いた「18年」とかそういうところで意見を述べたかもしれない。

まさかなぁ・・・。でも、そういうことが思い浮かんでしまうぐらい、自分にとっては不思議でしょうがない判決である。どうしても納得がいかない。


ここからは某氏の意見を読んで「なるほど」、と思った部分。
ヨーロッパの方では、すでに「呼気にアルコールが検出されたらエンジンがかからない」システムを開発し、実用化されようとしているというニュースを見たことがある。

確か、この事件が起きた直後ぐらいにどこかのニュース番組でやっていたと思う。

そういうものがすでにあるにもかかわらず、全く世間には出てこない。ここにも、また何らかの圧力がかかっているんじゃないか?という変な勘ぐりを入れたくなってしまう。

100km/hが上限の日本で、180km/hまで出る車が普通に販売されていることも、不思議といえば不思議だ。ETCを普及させるなら、「ETCを無料で全車両に搭載させ、下道では70km/h、高速では110km/hぐらいでリミッターがかかる」ような装置を開発すれば、スピード違反でも無謀運転も相当数が無くなるだろう。

リミッターを切って事故にあったら、そこで「危険運転致死傷罪」。



自転車の傘さしとかイヤホン禁止なんていう細かいことを何十年かぶりに見直すぐらいなら、もっと致死率の高い車の犯罪を撲滅する方向に法改正が進んでもいいのではないか。

「抜本的改革が必要」とかいう政治家が多いわりには、いつになってもすべてが中途半端だ。
(このあたりのことは内田樹先生がブログで記事にされているが)
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この国の司法はだめだ

2008年01月08日 19時08分49秒 | 社会
こんなことがあっていいのか。

福岡・車転落3児死亡:「危険運転」認定せず 今林被告に懲役7年6月−−地裁判決

この事件で適用されない法律(罪状)など、法律ではないと思う。

司法は加害者を守り、被害者を守ってくれないものであることがよくわかった。

この国の行く末が心配だ。
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自然は人間には作れない

2008年01月04日 19時38分13秒 | 社会
こんな記事が。


比叡の「神猿」、群れごと捕獲 餌付け中止後、被害続き
(朝日新聞web→ウエブ魚拓)

確かに、最近猿による被害がよくある。

大学の中で、普通にサルが走り回っていたり。

車の上に乗っかられていたり。

先日も、野球場に向かう途中、10頭を超える群れを見た。大きいのから小さいのまで、様々。



この要因は、この記事の中では「餌付けしていたのをやめたから」とされている。

それもそうなのだろう。



もう一つ、ずっと以前から思っているのは、「野犬が減ったから」ではないのだろうか。

「犬猿の仲」というぐらいだから、サルが下りてきてもワンワン吠える犬がそこらにいれば、おとなしく山に帰っていくケースもあるだろう。

それが、保健所が犬や猫は捕まえていくのに他の動物は捕まえないから、こういうことになるのではないか?というのが、僕の意見である。

これだけとは言い切らないが、これも一つの原因なのではないかと思う。

僕が今住んでいる所では、散歩している犬をよく見かける。でも、みんなペットとなった優しそうな顔をした犬ばかりで、彼ら(彼女ら)がサルを見かけても、サルはきっと怖がらないだろう(犬の方が逃げていきそうだ)。



なにかこう、やりやすいところから人為的に手をつけていった結果が、ここに来て付けとして払わされているような気がする。

そして、最近起きている問題の結構多くが、こういう流れと同じように起きているように思えてならない。



人間が自然のバランスをコントロールしようとするから、こういうことが起こるんだ。

でも、今更「ほっとけばいいよ」と言ったところで、被害は拡大するばかり。

どうしたものか・・・。
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お前らが語るんじゃねぇ

2007年12月25日 14時56分17秒 | 社会
昨日夜みたテレビで、ものすごい不快な思いをした。

なんの番組だったか知らないが、なんとか兄弟が「インド式の教育はすばらしい」とか「日本の教育は駄目だ」とかなんとか言っていた。

その辺までは別に「ふ〜ん」と思っていたのだが、「ゆとり教育」に話題が及んだ瞬間、一気に不快になった。

「ゆとり教育って意味を理解できない先生たちに問題があるのでは?」とバカな兄貴(?)の方がいったかと思えば、隣にいたなんの評論家なのかわからない宮崎某が「その通りです!」と言い出す始末。

いつの間にか、「先生だけが悪い」ことに話がすり替わっていた。

「ゆとり教育とは、教える量を減らして授業時間を同じで保つということで、より深い学びを子供たちに提供することが目的だった」と、もう1人の誰かが言い始めた。

いや、そんなのははっきり言って「後付の言い訳」である。

授業の到達度を下げ、授業時間を減らし、「総合的学習」とかいう名目で「好きにしなさい」と現場に丸投げするような授業を要求され、現場を混乱させるだけ混乱させた状態でスタートした「ゆとり教育」。

恐らく先生たちも試行錯誤を重ねたであろう。そのご苦労には、本当に頭が下がる。

そういう現場のことはな〜〜〜〜んにも考えないで、「子供たちの学力が低下した」、「子供たちの質が低下した」という世論を頼りに「制度の失敗」と断言し、挙げ句の果てに「現場の先生が悪い」と言い放つエセ評論家とバカなお笑い。

開いた口がふさがらなくなった。

バカばっかりが話をしていた場所(のように見えた)で起こっている馬鹿話だから、放っておけばいいのかもしれないが、こんな馬鹿話を公共の放送で流す方も流す方だ。

そんな理由で、最近のテレビ番組のほとんどが、どうも好きになれない。

ニュースかドキュメントを、できる限りキャスターたちの誇張表現などをフィルタリングしながらみるか、スポーツ番組を観るか。そのぐらいしかみない。




テレビといえば、最近「私バカなんです」キャラがはやり出しているようだ。たまにみるクイズ番組などで、彼女ら(彼ら)が繰り出す珍回答が、どうやら面白いらしい。

「バカかわいい」だって。バカじゃないの?(バカなのか)

この「バカキャラ」たちをもって、マスコミが世の中をいったいどうしたいのか、私にはさっぱりわからない。

「バカだけどかわいけりゃテレビに出られるから勉強しなくていいんだよ」と言いたいのか?

「こんなにバカになりたくなけりゃ勉強しないといけないんだよ」と言いたいのか?

教育問題と歩調を合わせたようにはやっているところをみると・・・。




よくわからないが。




言いたいことがよくわからなくなってきた。

とにかく、昨日のテレビでは非常に不快な思いをさせられた。

テレビという場では、もう少しまともな発言のできる人間に発言をしてもらいたいものだ。



「酢を飲んだら身体が柔らかくなるじゃないですか」と、まじめな顔をして語ってしまう(自称)美人医師なんか出しておくんじゃなくて(どこが美人なのかも全くわからないが)。

(これには心の底からあきれかえってしまった)
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