朝日新聞10/26の文芸時評で斎藤美奈子女史が「文藝」、「すばる」、「新潮」の受賞三人組を紹介していた、三人とも若い男の子でアタマがよくて生意気君で前途有望の可能性が高い(前例の一人が平野啓一郎というのはちょっと・・・だが私は「日蝕」しか読んでないんだから意見を保留すべきだろな)
「すばる」の澤西は平野啓一郎の後輩、これは誰の目にもそう、物語作者として能力は後輩の方がずっと上だと思うけど(前の記事参照)
「新潮」の滝口は保坂和志のタイプ、「本人は違うというだろうが」とのことだが私もちょっと違うと思う、と言っても私は保坂の作品を群像の連載3回分だけしか読んでない(今月号はまだ読んでない)けど、確かにちょっと前のことを回想しつつ意識があっちこっち飛びまくるお話の組み立て方は似てるのかもわからんけど、保坂が描くキャラはヒトもネコももうちょっと現実の生物っぽいしワケもなく無意味な行動はしない(と思う)、また「私」の視点はネコになったり全知の神様になったりしない(と思う)、そも「未明の闘争」はナンセンスファンタジーをめざしてないのじゃなかろうか、どっちがいいかは好みの問題だろうけど、私にはまだ保坂の方が受入れ可能かも(私ごときにそう言われたって全然うれしくないだろが)、今月も読まねば・・・・
おっとハナから話がそれた
文藝賞受賞 今村友紀「クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰」-斎藤によると彼は舞城王太郎に似てるとのこと、私は舞城と言えばJDCトリビュートの「九十九十九」(ツクモ・ジュークと読む)しか読んでない、いかにもJDCらしくシッチャカメッチャカでありながらキッチリ物語として完結してるところは本家よりずっと上でこれは並でない能力の持ち主と見たがその後読む機会がなかった、だからこれについでは判断保留、言おうと思ったらイカちゃんが「舞城王太郎のエピゴーネン」と断定していた、そっか、読んでるヒトがそう言うのならそうなんだろな・・・
ただ若い女の子視点の文体とピッカーン、バリッガシャバチャーンという擬態語擬音語の連打(こういうのちょっと苦手)でいささか読みにくくなってるものの、また若い女の子どうしが何の脈絡もなく突然レスビアンセックスを始めて(読者サービスのつもりか?)とまどうこともあるものの、アイディアとストーリーはわりとオーソドックスにSFしてるのじゃあるまいか、わけのわからんものに攻撃されてひたすら逃げまくるだけのパニックもの(そういう一面は確かにあるが)ではないのである
私の偏見かもしれないがこの作者が一番影響を受けた作家は小松さんじゃないかと思う、世界からヒトがほとんど消えちゃったり(こちらニッポン)、ある地域が霧状のモノに覆われて連絡つかなくなったり(首都消失)、意識は連続してありながら似てはいるけど別人として多くの世界をさまよったり(ト・ディオティだったと思う、記憶定かならず)、そんな先人のアイディアをうまく組み合わせて独自の宇宙を構築してると思う、若い作家の例に漏れずいささかラノベ的=大きななことを小さく小さなことを大きく描く傾向があるとは言え
なぜかガラスがこわれまくって散らばり(これがクリスタル・ヴァリーの由来、どうでもいいけどガラスは結晶=クリスタルじゃないぜとムダなツッコミ)、そこに映る向こう側が全てこことそっくりでありながらどこか違う異次元の世界、多くの世界をさまよい続ける自分とほんのわずかな周囲の人物、気がつけば恋人のことも忘れてる、しっかしあれだけおおぜいいた渋谷近辺の住人はどこへ行っちゃったのか、また降って来る灰は何なのか、疑問はヤマほどあって、だけど説明はない、案外ないからいいのかもしれないね・・・・
話変わって斎藤美奈子は「恋する原発」を評価している、「物語としての完成度を捨てても言いたいことというものはある」とのこと、それ「震災後の文学」についての議論?そこ以外はひたすらちんぽとまんこしか言ってないと思うけど