Notebook

自分のノートが汚くて読めないので代わりのメモです。

7月

2017-06-30 23:52:16 | その他

ニューヨークで知り合ったある友人は、最後まで本名を教えてくれなかった。僕の前ではMattと名乗っていたけれど、違う場所では違う名前を使っているそうだ。日本のことに詳しくて、話を聞いてみるとしょっちゅう日本に来ているらしく、しかも僕がかつて住んでいた街に滞在していたという。じゃあ、あそこのガストわかる? えー、わかるわかる、よく行ってたよ、とか、そんな話で盛り上がった。2015年7月、約1年間のアメリカ滞在が終わる直前の短いあいだ、僕たちは時々会っては雑談する仲だった。

   ◼︎

一度だけ、Mattの部屋に行った。タイムズスクエアにほど近い、すごくいい場所だったのだけれど、彼の部屋は日本人の感覚から言ってもかなり狭かった。四畳半とか、そのくらい。部屋は散らかっていて、椅子もないから、Mattはベッドの上に、僕は座っていいと言われた段ボールの上に腰を下ろした。ちょっと待ってて、と言って、Mattはミキサーで野菜ジュースを作ってくれた。見たことのない緑色の野菜を使ったジュース。名前も教えてもらったけれど、忘れてしまった。ちょっと苦かった。それからMattはオレンジ色の錠剤を取り出して、飲む? と聞いた。僕は反射的に、え、要らないと答えた。ビタミンDだよ、とMattは言った。これ毎日飲んでると、ガンになる確率が40%減るんだ。そうなの? そうなんだよ、そんな簡単なこと、もっと早く知っていれば、母さんは死ななくて済んだと思う。Mattは本当に悔しそうな表情をした。もちろん僕には40%という数字が、本当に根拠のある数字なのか、わかりようもない。母親に限らず、Mattは親戚を何人もガンで亡くしていた。だからすごく怖い、死ぬのが怖いんだ、とMattは教えてくれた。これ見て。Mattが指差したのは壁に貼られた大きな水彩画だった。草原のなかに一軒の家が描かれた、とても爽やかできれいな絵。母さんが描いたんだよ、と彼は愛おしそうに言った。いい絵だね、と僕は言った。彼は優しい顔で、静かにうなずいた。僕はその絵と、そのときのMattの表情を、ときどき思い返す。

   ◼︎

Mattは健康オタクだった。野菜ジュースとサプリの錠剤ばかり飲んでいた。そして、日本のとある宗教を信仰していた。修行のためにたびたび日本に来ているのだった。ニューヨークにもその宗教の施設があって、たまに集会に誘われたけれど、僕は一度も行かなかった。強引な勧誘はしてこなかった。心細さや、死への恐怖、切実さが、会話や行動の節々から伝わってきた。優しくて、神経質だった。あるとき、電子レンジは絶対病気のもとだから使っちゃだめだよ、と言われた。でも君が好きなガストでも電子レンジ使ってるよ、と僕は何の気なしに言った。Mattの表情がみるみるこわばるのがわかった。もう二度とガストには行かない。Mattは悔しそうにそう言った。目がぎらついていた。ガストを好きだった過去の自分と、電子レンジを使うことに不安を抱いていない僕が、許せないみたいだった。Mattの不安と恐怖がありありと伝わってきた。僕には返す言葉がなかった。それからほどなくして僕は日本に帰国した。Mattもちょこちょこ日本に修行に来ると言っていたけれど、あれ以来、僕たちは会っていない。彼が信じているもの。信じていないもの。その思いの強さが、ただ強烈に僕のなかに焼き付いている。少しでも不安のない生活を送れているといいのだけれど。

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