バーとホテルと農業と…           ほんまはテレビ

東京から徳島の山奥へ移住したテレビディレクターの田舎暮らしドキュメント。毎日なんやかんややっとることの記録です。

被災地からの報告2 南三陸町にて

2011年04月27日 11時31分38秒 | 被災地報告
23日の夜、コンサートを終えた遠藤さん、影山さん、きただにさんらと別れて一人で気仙沼へ向かった。

今まで東北地方(特に三陸海岸)にはあまり縁がなかったのだが、
地震以来気仙沼のことはずっと気になっていた。
僕が住んでいる東京目黒では毎年秋に「目黒のさんま祭り」が行われる。
(『目黒のさんま祭り』HPの「気仙沼の心意気」是非見て下さい)

この祭りでさんまを無料で提供してくれていたのが、気仙沼の漁協の人たちだった。
もくもくと立ち上る炭火の煙の中、さんまを焼いてくれたのも気仙沼の人たちだった。
少ししか話したことはないが
「夜みんなでバスに乗って来るんです。今日の祭りが終わったらそのままバスに乗って気仙沼に戻ります」
と言っていた。
そんな気仙沼も今回の大地震で大きな被害を受けた。
夜、街が炎に包まれ燃え上がっている映像をテレビで見た。
 
石巻から気仙沼まで車で普通なら1時間半、
道は多分大丈夫だろうと聞いていた。
三陸自動車道を北上し、南三陸町に入った。
あるところから突然、町の明かりがほとんど見えなくなった。
暗闇の中、車のライトに浮かび上がったのは瓦礫の山だった。
至る所の道路が水没し寸断されていた。
訳も分からず迂回路に入った。
その先には燃え上がる炎が見えた。
僕は恐怖で車を止め、そこから先に行くことを断念した。

来た道を引き返し、暗闇の中に明かりの灯った一つの建物を見つけた。
建物の前まで行ってみると、そこは地域の公民館で避難所になっていた。
建物から出て来た50代の男性は、僕のことをうさん臭そうに見つめた。
恐る恐る外の駐車場に車を止めて寝ていいか、聞いてみた。
男性は仕方ないと言った様子で許可をくれた。

その男性に話しを聞かせてもらえないか?と頼んでみた。
「別に話すことはない」と男性は奥に消えた。
所在なく立ち尽くす僕に、別の男性がソファに座りなさいと言ってくれた。
その男性も50代半ば、仮にAさんとさせて頂く。

東京から来たと僕が言うとAさんは「私も出稼ぎで20年東京に行っていました」と話し始めた。
レインボーブリッジや東京湾アクアラインなどの工事に携わり、
5年前に奥さんと子供が待つふるさと南三陸町に戻ったのだと言う。
地震の時、海岸近くの工事現場にいたAさんは慌てて車に乗り、会社のある高台に向かった。
携帯電話で何度も自宅に電話を掛け、やっと一度だけ繋がったが誰も出なかった。
もう逃げたんだろうと少し安心をした。
車の後ろから津波が迫ってくるのが分かった。
猛スピードで坂を上り切り、振り返るとすぐそこが海になっていた。
それから数日間、高台の上で水が引くのを待ち続けた。

子供たちは無事だったが、奥さんの行方は分からなかった。
思い当たる所を探しにいったが、一面の瓦礫の山を前に何も出来なかった。
そして、僕が訪れた1週間程前、奥さんと思われる遺体が見つかったと連絡が入った。
顔の半分、口から上はぐしゃぐしゃになっていた。
仕事の為につけていたネームプレートがあったおかげで、本人だと確認できた。
A さんは表情を変えずに淡々と話し続けた。
僕はAさんの顔を見つめながら、それ以上何も言うことは出来なかった。

Aさんが立ち上がり、最初に話しをした男性が戻って来た。(仮にBさんとさせて頂く)
 
Bさんは町役場に勤めていて、夜になると避難所の責任者としてここに来るのだと言った。
どんな援助が必要ですか?と聞くと、
「水や毛布などはもう足りています。食料なら米と野菜、なんとか食べていけるようになると人間は少しでも美味しい物が欲しくなるんです」
カップラーメンやインスタント食品ばかりの毎日がもう一ヶ月近くも続いているそうだ。
「あとは子供のお菓子やおもちゃ・・・でも一部の人にだけ与えると、他の人たちから文句が出るんです。平等にしなければいけないのが大変なんです」
例えば一つの避難所で一人一人に1万円が支給されたとする。
すると他の避難所からは必ず文句が出る。
南三陸町にある避難所は現在40カ所ほど。
大きな避難所にはテレビの取材や芸能人がやってくる。
全国から様々な支援物資も届く。
しかし、その全てに芸能人が来る訳ではない。
その全てに炊き出しが来る訳ではない。
50人ほどが暮らす小さな避難所にはなかなか援助の手は回ってこない。

今回の震災で問題とされていることの一つが「格差」だ。
大きな被害を受けた岩手、宮城、福島、それぞれの県で事情は全く違っている。
宮城県の中でも石巻とこの南三陸町の事情は全く違っている。
石巻では被害を受けた海岸部以外、商店や飲食店は徐々に再開し始めている。
石巻ではビールを飲みながら回転寿しで食事が出来たし、
コンサートが行われたイオンには華やかな商品が並び人々の表情も明るかった。
しかし、南三陸町では町の中心が海の近くだったため、
役場も商店もホテルも飲食店もガソリンスタンドも全て壊滅した。
例えお金を持っても、買い物をするためには車に乗って1時間以上離れた隣町まで行かなければならない。
しかし、町でガソリンを入れることは出来ず、多くの人はその車さえ津波で流されてしまった。
人々は何もすることが出来ず、避難所で待ち続けるしかない。
数日前に電気は復旧したが、水はまだ出ない。
Bさんの表情は重く暗かった。

「私も母はまだ行方不明で弟は死にました。でも悲しいという感情にならないんです。弟の遺体を見ても涙も出ない」
淡々とそう語った。
役場に勤める人間として休日返上で働き、夜は避難所で寝ている。

今、この人たちに必要なのは、一人で思いっきり涙を流すための「家」と「時間」なのではないだろうか?
Bさんの話しを聞きながら、そう思った。
彼らには今、涙を流すための場所も時間もない。

全国から集まった義援金はまだ被災者に支払われていない。
支払われたとしても家が全壊した家族にわずか35万円だ。
財産のすべてを失った人が、元通りの生活を出来るようになるために僕たちが出来ること・・・その一つは義援金を送り続けることだと思った。
一度、募金をしたからと言って満足をしてはいけない。
彼らが家を建て、車を買い、酒を飲みながら美味しい食事が出来るようになるまで、
支え続けることが必要だと思った。

「みんなから忘れ去られるのが怖いんです」
今回出会った多くの被災者はそう言っていた。
テレビでは被災者の話しは減り、原発の報道が中心になりつつある。
別の大事件が起これば、被災地の現状を伝えるニュースはさらに減るだろう。
1年や2年で人々の生活は元通りにはならない。
被災地の全ての人に笑顔が戻るまで、彼らのことを忘れないこと。
僕にはそれだけの覚悟があるだろうか?
道のりはあまりにも長く遠い。

翌朝6時、目を覚ますと避難所の人々は掃除を始めていた。
川から汲んだ水を仮設トイレに運び、玄関を掃除し、ゴミの分別をしていた。
小学生ぐらいの子供が給水タンクからペットボトルに水を汲み、室内に運んでいた。
「そろそろたらの芽を取りに行かねば」一人の男性が言うと周囲の人々が初めて少し笑った。
ここで出会った人たちの顔を忘れてはならない、そう思った。

気仙沼に向けて車を走らせると、無惨に変わり果てた町が延々と広がっていた。

(被災地報告その3へ続く)










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1 コメント

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長い目で見てます (shalala 木村)
2011-04-29 01:53:49
最低でも10年は、かかると知人に言われてます。 
それを支える側と感じています。

これからのほうが、大変ですし、勝負と思ってます。

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