傾城水滸伝をめぐる冒険

傾城水滸伝を翻刻・校訂、翻訳して公開中。ネットで読めるのはここだけ。アニメ化、出版化など早い者勝ちなんだけどなぁ(^^)

傾城水滸伝 初編 之壱

2013-01-11 17:38:19 | 初編
以下は翻刻・現代訳の作業途中のものでルビも読みにくいので、是非、PDF版をご覧ください。


傾城水滸伝(けいせいすいこでん) 初編第壱
曲亭馬琴著 歌川豊国画
乙酉(きのととり/1825年)孟春第一版  
通油町鶴喜新鐫

 世は、平安の黄昏頃、鳥羽院の御后(おきさき)の美福門院(びふくもんいん)と申し奉(たてまつ)る御方は、御容姿の麗しき事、宝石をも欺(あざむ)くべく、御才知の高き事、男にも勝りたまえり。
 されば、帝(みかど)の御寵愛(ごちょうあい)は、世に比(たぐ)うべき者もあらず、折に触れて政治(まつりごと)さえ任せたまいしかば、この時、女謁(にょえつ)※、内奏(ないそう)※とて、位を上げ、司を授け、あるいは民の訴えを聞こし召す事までも、全て御后の御口入れにて定めさせたまうにより、その御后に仕(つか)え奉(たてまつ)る女官達すら、自(おの)ずから権威を振るい、公卿衆(こうしゃくしゅう)、殿上人(てんじょうびと)をも者の数とせず、我がままに振る舞いければ、卑しき者の諺(ことわざ)に、「女、賢(さか)しうして、牛売り損なう」と云うにも似たる事の多かりしとかや。
※女謁:女が寵愛を利用して頼みごとをすること。 ※内奏:内密に天皇に奏上すること。

 時に、永久元年(1113年)春、弥生の頃、帝はいささか御悩(ごのう/ご病気)によって、暫く政治を聞こし召さず。その間、可及の事を御后の決断に任せたまう程に到り、例え摂政、関白なりとも、その役に男は憚(はばか)りありと、皆その妻を召さりけり。
 しかるに、この頃、五畿内※に時疫(ときけ・疫病)の病が流行し、死する者の多かりければ、名僧、智識(指導者)に勅(みことのり)して、加持祈祷を尽くさせたまうが、させる効験(しるし)も無かりしかば、この事はいかがあるべきとて、重ねて詮議せられけり。
※五畿:京都周囲の山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国の称

 時に、関白の藤原忠道公の北の方、井手の政所(まんどころ)が進み出て、聞こえ上げたまう様(よう)、
「今、この疫病(えやみ)を払いはべらんに、例えば比叡山(ひえいざん)、三井寺(みいでら)の名僧もその効験(しるし)無く、廿二社(にじゅうにしゃ/神社の社格の一つ)の神々も感応霊験(かんおうれいげん)※の無き上は、熊野へ勅使(ちょくし)を立て、那智の室長寺(むろおさでら)の住持(じゅうじ/住職)なる無漏海(むろかい)を、京(みやこ・以下都)へ招いて、祈り祓(はら)わせねば、などか効験(しるし)のあらざるべき。そもそも熊野の山聖女(やまひじりめ)の無漏海は、昔、一条院の御時(980-1011年)に、周防(すおう/山口県)の国の室積(むろつみ)なる傾城(絶世の美女)の長(おさ)なりき。
※感応:仏の働きかけと、それを受け止める人の心 ※霊験:神仏などが示す不可思議な力

しかるにその頃、書写山(しょしゃさん)の性空上人(しょうくうしょうにん)は、ある時、夢想(夢)のお告げにより、室積に赴(おもむ)いて、その長(おさ)に見(まみ)えたまうに、長は酒をすすめ、宿をとり、「室積のみたらいに、風は吹かねども、ささら波立つ、あら面白や」と歌いけり。その時、上人が目を閉じたまえば、不思議なるかな、長が姿は普賢菩薩(ふげんぼさつ)※となって現れ、「実相無漏(じっそうむろ)※の大海に、五塵六欲(ごじんろくよく)※の風は吹かずと云えども、随縁真如(ずいえんしんにょ)※の波立たぬ時無し」と聞こえけり。
※普賢菩薩:仏の悟り、瞑想、修行を象徴する菩薩。白象に乗った姿で表される。
※実相無漏:万物の真実の姿は、迷いを離れた清浄の境界(きょうがい)にあるということ。
※五塵六欲:五塵:五塵は塵のように人の心を汚すもと。色、声、香、味、触の五境。
      六欲:色欲、形慾(容貌)、威儀姿態慾、言語音声慾、人相慾、細滑慾(美肌)
※随縁真如:絶対不変である真如が、縁に応じて種々の現れ方をすること。

★「実相無漏・・・・・波立たぬ時無し」謡曲「江口」:諸國一見の僧が都から津(三重)の国天王寺への途中、江口の里に来て遊女江口の君の旧跡を弔い、西行法師が昔ここで宿を断られた際に詠んだ歌である「世の中を厭うまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな」と口ずさんでいると、そこへ女が現れて、「それは一夜の宿を惜しんだのではなくて、この世も仮の宿であるから、それに執着しないようにと忠告したまでのこと」と弁解していたが、黄昏時になって「実は、私はその江口の君の幽霊です」と言って消え失せた。その後、旅僧が奇特な思いで弔っていると、江口の君が他の遊女達と一緒に舟に乗って現れ、遊女の境遇を謡ったり、舞を舞って見せたりしていたが、やがて江口の君の姿は普賢菩薩と変わり、舟は白象となって、白雲に乗って西の空へ去って行った。

上人が又、目を開きたまえば、長は元の姿となり、歌う事始めの如し。かかれば、この長は普賢菩薩の化身なりとて、上人は随喜(ずいき)の涙を流して、書写山へ帰りたまいぬ。
 その後、長は世を厭(いと)うて、熊野の山へ分け登りぬと、風の便りに聞こえしかば、▼上人は急いで都に上り、事の趣(おもむき)をしかじかと確かに奏聞(そうもん)ありしかば、帝の御感(ぎょかん/天皇が感心すること)は浅からず、よって那智の麓に一座の尼寺を御建立ましまして、長を開基(仏寺を創立すること)に仰(おお)せ付けられ、無漏海仙尼(むろかいせんに)と云う道号を賜(たまわ)りしより、既に早や、御世(みよ)は一百二十余年の久しきに及べども、無漏海仙尼の御容姿は、いささかも衰えず、いと健やかにて御座(おわ)する由、熊野の者は申すなり。
 されば、かの尼寺を室長寺(しっちょうじ)と号する由は、室積の長と云う文字を取らせたまえりと伝え聞いてはべりにき。されば、女文字(ひらがな)に軟らげて、むろをさでらとも書きはべり。
 かかる般若(権者?)★の寺にしはべれば、都へ招き寄せ、疫病(えやみ)を払わせたまわんに、などか奇特※のあらざるべき」と、故事(ふるごと)をさえ引き出して、聞こえ上げたまいしかば、美福門院は感じ思(おぼ)し召して、
「さらば、使いを遣わせ」とて、立木の局(たつきのつぼね)を勅使(ちょくし)として、熊野の山へぞ遣わしたまう。
※奇特:①言行や心がけなどが褒めるに値するさま。②非常に珍しく、不思議なさま。

 さる程に、立木の局は、数多(あまた)の供人にかしずかれ、次の日、都を門出(かどいで)しつつ、夜に宿り日に歩み、ことさら道を急がせて、熊野の那智の麓なる室長寺に着きしかば、当代住持の尼法師は数多の比丘尼(びくに)を引き連れて、鐘を鳴らし香を焚き、山門の外に出て、勅使を迎え奉(たてまつ)り、先に立って案内(しるべ)をしつつ、客殿に座を設け、大方ならずもてなし(接待)けり。

 さる程に立木の局は、住持の尼に打ち向かい、
「わらわ此度、都より遙々と来つる由は、すなわち后(きさき)の仰せを受けて、無漏海仙尼を迎えん為なり。その故は斯様(かよう)斯様(かよう)」と、事の趣(おもむ)きを述べ知らせ、
「かの尼聖(あまひじり)は、何処(いずこ)に御座(おわ)する。何故に自らここらに出て、対面したまわぬぞ」と訝(いぶか)り問えば、住持の尼は、
「さればとよ★、無漏海聖は、昔、此山に隠れたまいしより、麓へは下りたまわず。元より五穀※を絶ちたまえば、霞(かすみ)を飲み、露を舐め、或る時は西に在り、又、或る時は東に居ませば、この山の中ながら、その住所だに定かならぬに、よしや后の御使いなりとも、いかで自らここまで出て対面したまうべき。君、もし聖を請いすすめて、都へ伴わんと思いたまわば、只(ただ)一筋に信心して、独りで熊野山に分け登り、尼聖を訪ねたまえ。もし、些(いささ)かも、不信心の心を起こしたまいなば、絶えて対面叶うべからず。御慎みこそ肝要ならめ」と、懇(ねんご)ろに説き示せば、局は「実(げ)にも」と頷(うなず)いて、その夜は一夜さ物忌(ものい)み※し、次の日の明け方より只一人、熊野の奥へ分け入らんとて、虫の垂れ衣(きぬ)※たれ込めし、笠よ、杖よと忙わしく、野装束(のしょうぞく)に裾壷(すそつぼ)折って、勅書(ちょくしょ)の箱を襟に掛け、おぼつか無くも足引きの山路を指して立ちいずれば、住持の尼は八九人の尼法師を伴って、五六町ほど送りつつ、別れんとする時に、又、懇(ねんご)ろに戒(いまし)めて、
「御局。我が尼聖に訪ね会わんと思いたまわば、驕(おご)り高ぶる心を持たず、信心を怠(おこた)りたまいそ。一心誠に叶い◆?たまわば、遠からずして、尼聖に目見(まみ)えたまうべきにこそ」と、返すがえすも戒めて、やがて寺へぞ帰りける。
※五穀:米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)を指すことが多い
※物忌(ものい)み:神事のため、ある期間、飲食・言行などを慎み、心身の穢れを除くこと
※虫の垂れ衣:市女笠(いちめがさ)に苧麻(からむし)で織った薄い布を長く垂らしたもの。

 かかりしかば、立木の局は心細くも只一人、馬手(めて/右手)には、▼手香炉(てごうろ)をくゆらせて、弓手(ゆんで/左手)に水晶の数珠(じゅず)を爪繰(つまぐ)り、口に六字の名号(みょうごう)を、間無く時無く念じつつ、九十九折(つづらおり)なる山路(やまみち)を、辿(たど)り辿りも登る程に、僅(わず)かに十町余りにして、ようやく★に疲れしかば、心しきりに苛立(いらだ)って、
「さても、いかなる報(むく)いにて、かく辛き目に会うやらん。わらわは大内(おおうち/皇居)に在りし日は、仮初(かりそめ)の物詣でにも、車に乗らぬ事は無いに、云わんや后の御使いとして、はしたなくも只一人、山路を辿るは何事ぞ」と独り言して行く程に、巌(いわお)の裾なる熊笹が、さやさやさやと鳴るよと見えしに、その様(さま)、牛に等しき大狼が、忽然と走り出て飛び掛からんとしたりしかば、立木の局は「あっ」と叫んで、退(の)け様に倒れたり。

 その時、その狼は、紅の舌を長く垂れ、星より輝く眼(まなこ)を怒(いか)らし、しばし局を睨(にら)まえて、前に立ち後に巡り、山彦(やまびこ)に響くばかりの声すさまじく、遠吠えして、何方(いずち)ともなく失せにけり。

 立木の局は倒れしより、およそ半刻(はんとき)ばかりにして、ようやく我に返りしかば、頭をもたげ身を起こし、又、手香炉を取り上げつつ、恐る恐る行く程に、いよいよ疲れて立ち休らい、深く住持を打ち恨んで、
「あの、熊野比丘尼(びくに)めが。あくまでわらわを欺(あざむ)いて、猛(たけ)き獣の多かる山に、送りの者をも添えずして、一人使わせし、いと憎さよ。我が身が都に帰りなば、事の由を聞こえ上げ、遂には思い知らせんものを」と、口にくどくど恨みの数々、呟き呟く折しもあれ、山中俄(にわ)かに震動し、行く手の松の茂みより、いと大きなる蟒蛇(うわばみ)が、するするすると這い出して、只、大波の寄せるが如く、立木の局の頭(かしら)を臨(のぞ)んで、既に飲まんとしてければ、局は再び「あっ」と叫んで、生死も知らず伏したりける。
 かかりし程に、蟒蛇(うわばみ)は長き紅の舌を出し、局の額を舐め、襟を舐め、しきりに毒気を吹き掛けて、何処(いずこ)ともなく失せにけり。
 かくて、立木の局は伏す事、一時(とき)ばかりにして、やや人心地は付いたれど、深く恐れて、これより寺へ帰らんか、なおも聖を訪ねんかと、思い迷って佇(たたず)む程に、女の童(めのわらわ)の声と覚(おぼ)しく、遥かに小歌を唄いつつ、▼此方(こなた)を指して来る者あり。

 局は耳をそば立てて、
「・・・・・怪しや。かかる山中に幼き女子(おなご)の声するは、狐狸(きつねたぬき)の業(わざ)なるか」と思えば、襟元ぞっとして、一足も進み得ず。
 とかくする程に、早や向かいの木立の隙(ひま)よりして、年十一二の女の童、草籠(くさかご)を負いながら牛を引きつついで来けり。
 立木の局はこれを見て、「なうなう(もしもし)※」と呼び止(とど)め、
「そなたはこの山の麓などに居(お)る者か。無漏海聖はいづこに御座(おわ)する。住処を知らば告げよかし」と、云うに、女子は微笑えんで、
「いかでかは知らざらん。わらわは年頃、かの尼聖に使われる者ぞかし。しかるに、聖は先にわらわに宣(のたま)う様、此度は疫病(えやみ)を払わん為に、我が身を都へ召されるなり。かかれば急いで、彼の地へ参(まい)らん。よく留守せよ」と宣いき。思うに聖は鶴に乗って、既に早、今頃は都へ行き着きたまいけん。しかれば御身、今更に、庵を訪ねたまうとも、絶えてその甲斐無きものを」と云い捨てて、又、静々と牛を追いつつ、行き過ぎける。
※なう:もし。もしもし。(呼び掛けに発する)、ああ。おお。(感動して発する)

 立木の局は、女の童が答えを聞いて、驚き怪しみ、
「さるにても、無漏海聖はいかにして都より召される事を早くも知って、既にうち発ちたまいけん。実(げ)に、かの聖を普賢菩薩の化身と云うは空言ならず」と腹の内に思案して、そこより麓へ下りつつ、室長寺へ帰りにければ、住持の尼は出迎えて、道の疲れを慰めける。
 その時、局は山中にて有りし事を物語り、
「かくも恐ろしき深山(みやま)なるに、などてわらわを欺いて、独り彼処(かしこ)へ遣わせしぞ。わらわもし、運命尽きなば、例え狼に食われずとも、毒蛇の腹に葬られん。后の仰せはこれすなわち勅(みことのり)に異ならず、その御使いは取りも直さず、勅使に等しいわらわなるを、侮(あなど)り欺(あざむ)くうたて(不快)※さよ。もし山中にて、牛飼いの女の童に会わざりせば、留守の庵(いおり)と知らずして、今なお訪ね惑(まど)わんに、幸いにして、かようかようの女子(おなご)に会って、しかじかと云われし事の有るにより、そこより帰り来れり」とて、しきりに恨み憤(いきどお)れば、住持の尼は打ち聞いて、
「御局、さのみな息巻きたまいそ。この山中には、いと猛(たけ)き獣は無きにあらねど、昔より人を害せず。しかるに御身は再びまで、いと危うき目に逢いたまいしは、信心の怠りを聖が懲(こ)らしたまいしなり。思うに、その草刈の女の童と見えたるは、無漏海聖に疑い無し。かの尼聖は、今もなお容姿いささかも衰えたまわず、或る時は二三十なる齢(よわい)とも見え、又、ある時は十二三なる女の子とも見えたまうなり。かくて御身にしかじかと、告げたまいし事あらば、神変自在(しんぺんじざい)※の通力(つうりき)もて、都へ赴きたまいし事、何の疑いはべるべき」と言葉を尽くして、説き諭(さと)せば、局はこれに怒りも解けて、▼勅書をそのまま住持に渡して、一両日逗留せり。
※うたて:①いっそうひどく。②異様に。気味悪く。③面白くなく。不快に。いやに。
※神変:神の霊妙で不思議な変化。また、それを起こす神の不思議な力。

 かくて立木の局は、次の日、住持に案内させて、あちこちの霊場を巡り見るに、経堂(きょうどう)の後ろに一宇(いちう)の小堂あり。
 戸扉を堅く建て込めて、大きなる錠を下ろし、錠の上には幾つともなく、封印を押したりければ、立木の局は訝(いぶか)って、その事の故(ゆえ)を尋ねれば、住持の尼は進み寄り、
「昔、無漏海聖が衆生済度(しゅじょうさいど)※の大方便(だいほうべん)※もて、周防の国の室積なる傾城長となりたまいし後、当山に隠れたまいし折、万葉集に見えたりし、遊女(うかれめ)※・蒲生(がもう)・土師(はじ)※・婦(おとめ)・末ノ珠名(すえのたまな)※・狭古(さふる)らを始めとして、世々に名だたる傾城(けいせい)の人の妻と得ならずして、苦界(くがい)※の中にて果てたる者の、亡き魂(たま)の宙宇に迷うを、ことごとく封じ込めて、一つの塚に築かせたまいぬ。されば世上にこの塚を、傾城塚と呼び成したり。
※衆生済度:迷いから救済し、悟りを得させること。※方便:人を導くための便宜的な手段。
※遊女(うかれめ):歌舞で楽しませたり、売春する女。遊び女。 ※蒲生(がもう):
※土師(はじ):埴輪等の土器を作ることを司った人。 ※婦(おとめ)
※末ノ珠名(すえのたまな):万葉集より以下意訳。「末の珠名は胸が大きく腰細で容姿が良く、どんな男でもすべての財産を投げ打ってでも惹かれてしまう。」
※狭古(さふる): ※ 苦界(くがい):①苦しみ、悩みの多い人間世界②遊女の辛い境遇。

もしこの塚を暴きなどして、その幽魂を走らせれば、世の中に災いあらんと深く戒めたまいしにより、当寺の代々住持たる尼法師が、かくの如く閉ざしに封して、開く事を許さずはべり」と告げるを聞いて、立木の局は、からからと嘲笑(あざわら)い、
「世に遊び女(め)が若死にして、人の妻とならざりしを妬(ねた/憎し)しと思う事あらば、その亡き後を弔(とむら)って成仏させずに、只、悪戯に幽魂を封じると云う事やはある★。これは無漏海の業(わざ)にはあらず、熊野比丘尼が地獄の絵をもて、婆母(ばばかか)どもを脅すに等しき、後(のち)の住持の業なるべし。わらわは今、目の当たりに、その塚を見たく欲す。さぁさぁ開いて見せたまえ」と云うを、住持は押し止めて、
「その事、夢々叶うべからず。御局(みつぼね)もし疑って、傾城塚を開きたまわば、後悔したまう事あるべし。この義は思い止まりたまえ」と、ひたすら諌(いさ)め争えども、立木の局は聞かずして、まずその錠を押し開かせ、進み入りつつ塚を見るに、いと大きなる▼自然石にて傾城塚と彫(え)りたるが、内暗くして定かならねば、松明(たいまつ)を振り照らさせて、なおあちこちと良く見るに、台石なる亀は早や、半身、土に埋もれて、苔むしたる碑の裏に「遇斧而開(おのにあうてひらく)」という四つの文字が彫ってあり。立木の局はかかる使いに立てられし程あって、男文字(漢字)をも諳(そら)んじけん。その四字を読み下して、
「尼達、これをよく見たまえ。斧(おの)に遇(あ)って開くとあり、斧を呼びて断(た)つ木と云えば、斧も立木(たつき)もこれ同じ。かかればわらわ(立木)がこの塚を、今開くべき事の由を、百年(ももとせ)余りの昔より、無漏海聖はよく知って、しかじかと印したまえり。今この下を開いて見ん。さぁさぁ用意をしたまえ」とて、権威に募(つの)る女の猿知恵。

 住持はなおも諌めるを、露ばかりも聞かずに、寺男らを呼び集め、遂に石を倒し、台石を取り除かせて、掘る事六尺余りにして、石の唐櫃(からひつ)在りければ、さればこそとて、立木の局は、息をも付かせず下知するにぞ、人夫らは斧(よき)・鉞(まさかり)を持て、力を合わせて石の蓋を、ひたすら打つ程に、遂に蓋を砕けども底は暗くて見え分かねば、立木は松明を照らさせて、よくよく見んとする程に、忽然として天も挫(くじ)け、大地も落ち入る如き音して、穴の内より一道(どう)の黒雲陰々と立ち上り、家の棟をも突き破り、中空(なかぞら)に棚引きつつ、幾筋ともなく光を放って、四面八方に飛び去りぬ。
 まさに、これ、後鳥羽院の御時に、白拍子の亀菊を御寵愛ありしより、世の中乱れ、勇婦烈女(ゆうふれつじょ)ら出現すべき、兆しはここに顕れたり。

これにより人夫らは逃げんとして、躓(つまづ)き転(まろ)んで、傷を被(こうむ)る者少なからず、ことに甲斐無き尼法師は、気絶したるも多かりける。その中に、立木の局は、人に先立ち堂内を、命辛々(いのちからがら)走り出て、茫然として居たりしが、面目無くや思いけん。次の日、熊野をうち発って、都を指して帰りけり。

 是より先に、無漏海の尼聖は、通力をもて都へおもむき、一人自ら参内(さんだい)し、帝に謁(えっ)し賜り、大内に壇(だん)を設けて、疫病(えやみ)の神を払いたまいしかば、幾程も無く、五畿内なる悪しき病は皆怠(おこた)りて、万民安堵の思いを成しぬ。
 かくて無漏海の尼聖は、再び鶴にうち乗って、熊野山へ帰りたまいしとぞ。

 およそこの件(くだり)まで、物語の発端なり。亀菊が事は次に見えたり。▼

 されば鳥羽院は、在位十六年◆にして、御位(みくらい)を第一の御子(みこ)の崇徳院(すとくいん)に譲りたまい。崇徳院も、又、在位十八年にして、御弟御子、近衛院(このえいん)に譲りたまい。近衛院は在位十四年にして、崩御(かくれ)たまいしかば、この上の御子、後白河院に御位を継がせたまい。
 それより二條院、六條院、高倉院、高倉の御子、安徳天皇が西海に沈ませたまいしかば、後白河院の御計らいとして、安徳天皇の御弟の後鳥羽院を御位に付け奉らせたまいにき。
 この帝は在位十五年にして、御位を第一の御子の土御門院(つちみかどいん)に譲らせたまいし後も、なお天下の政治(まつりごと)は先例に倣(なら)わせたまいて、院の御沙汰なりければ、順徳院、九条院の御時まで、時の帝は何事も在るに甲斐無くてぞ、御座(おわ)しける。

 しかるに其頃、都の東山の片辺(かたほとり)に、亀菊と云う白拍子(しらびょうし)在りけり。年は二八ばかりにして、容姿ことに麗(うるわ)しく、糸竹の技は、云えば更なり。
 香・立花(りっか)、萬(よろず)の雅の技までも、一つとして暗からず、しかも又、客を釣り、男を蕩(とら)かす手練(てれん)に長けて、およそ都にありとある、有徳(ゆうとく)※の者の子供、商人の手代なんども、皆これに惑わされて、家を売り、妻子に離れ、身は落ちぶれて、様々に成り行く者多かりければ、その親たる者、主たる者は、深く亀菊を憎みつつ、遂に六波羅(ろくはら)の決断所(けつだんじょ)へ訴えて、彼女を追わん事を願い申せしかば、六波羅にて詮索の後、事皆、亀菊が非分(ひぶん)※に定まりける。
 げに、かかる手弱女(たおやめ)を、都の内に在らせなば、風俗の害なるべしとて、やがて追放せられけり。これによって亀菊は、五畿内の内に足を入れる事叶わず、いささかなる知る辺(べ)を頼りに、越後の新潟へおもむいて、縮唐屋四太郎(ちりからやしたろう)と云う、港芸子(みなとげいこ)の見番宿(けんばんやど)※に身を寄せつつ、ここにて三年(みとせ)ばかり送る程に、都には故(ゆえ)あって、俄かに大赦を行われしかば、亀菊も咎(とが)を許され、世の中広くなりにけり。
 これにより亀菊は、都へ帰り上らんとて、四太郎に頼みしかば、四太郎らも不憫(ふびん)に思って、縮(ちぢみ)商人の夏兵衛と云う者を語らい、京六条の辺(ほとり)には、四太郎が知る人あれば、その方へとて書状を添えて、夏兵衛と諸共に亀菊を旅立たせ、都へ帰し使わしけり■ 
※有徳(ゆうとく):徳がある。富んでいる。富裕。
※非分(ひぶん):①身分不相応。②道理に合わないさま。
※検番/見番(けんばん):①遊里で、芸者の取り次ぎや送迎、玉代(ぎよくだい)の精算などをした所。②「検番芸者」の略。 

<翻刻、校訂中:滝本慶三 禁転載 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>

傾城水滸伝 初編 之弐

2013-01-11 17:38:03 | 初編
けいせい水滸傳初編第二だん
曲亭馬琴著 歌川国安画
通油町 鶴屋喜右衛門版

 此の頃、都の室町のほとりに小間物屋雛右衛門(こまものやひなえもん)と云う者あり。元は越後の者なるが、いと若き頃、都に上って商人の家に奉公せし。こと年頃になりしかば、その親方の助けによって、ここらに小間物店を開きしより、商いのお得意が数多に出来て、然(しか)るべき者とぞ成りぬ。かかれば、この雛右衛門と新潟の四太郎は、竹馬の友でありけるに、縮商人(ちぢみあきんど)夏兵衛も同国の好(よしみ)あれば、およそ年の夏毎に、都へ上って縮を売る時、この雛右衛門を宿として、四五か月づつ逗留す。なれば四太郎は、この便宜(べんぎ)をもて、此度、亀菊を都へ返すに、商いの為に都上りする夏兵衛に頼みつかわし。又、雛右衛門に書状を送って、亀菊が向後(こうご/今後)の事を、うち任せてぞ頼みける。
 さる程に亀菊は、夏兵衛に伴われて、都の小間物屋に着きしかば、雛右衛門は対面して心の内に思う様、
「・・・・・此の亀菊はその始め、都に在って客を蕩(とろ)かせ、若者共の身上(しんじょう)を幾人(いくたり)となく粉に振るわせし白拍子なりけるに、かような者を我が家に留め置かんは難儀なり。しかれども、我が故郷の四太郎が、遙々と頼み来せし者なるに、彼が親には我も又、恵みを受けし事あれば、さすがに否(いな)とは云い難し。要こそあれ」と思案をしつつ、いとまめやかにもてなして、四五日を経て後に亀菊を招き近づけ、
「御身(貴方)は我が竹馬の友より頼み来されし人なれば、いつまでここに居るとても、些(いささ)かも厭(いと)うにあらねど、見られる如く我が家は、萬事(よろず)に勤(いそ)しき商人にて、とても御身の立身出世の便宜(よすが)となるべき者に非ず。六条のほとりなる医師(くすし)深根▼長彦(ふかねながひこ)という人は、公卿(くぎょう)、殿上人に招かれて、広く療治をしたまうに、我も年頃、仲疎(うと)からねば、御身が事を深根氏へ頼み遣わさんと思うなり。此義に従いたまわんや」と問えば、亀菊は一議に及ばず、
「誠に不思議の御縁にて、かくまでお世話になる上は、何をか否(いな)みはべるべき。兎も角(ともかく)も」と答えれば、雛右衛門は次の日に、長彦へ書状を送り、亀菊に小者(こもの)を付けて、深根が宿所(住宅)へ遣わしけり。

 かくて長彦は、その書状を見るに、
「此の女子(おなご)が宮仕えの有り付きの在らんまで、そなたへ留め置かせたまいて、手引きしてたまわるべし。衣食の費用(ついえ)はこなたより、ともかくも仕(つかまつ)らめ。しかじか」と書いたるを、繰り返しつつ読み終わり、腹の内に思う様、
「・・・・・此の亀菊は、音に聞こえし、いと婀娜(あだ)めきたる乙女なるに、我が家に留め置かば、年若き弟子どもの身の為に良き事あらじ。為(せ)ん術(すべ)あり」と一人うなずき、やがて返事を書きしたためて、小間物屋の小者を返し、さて亀菊に対面して、
「そこもとには、糸竹の技をもて、止(や)ん事無き方様へ宮仕えを願いたまわば、幸いの事こそあれ。今、坊官にて一二を争う、法眼顕清(ほうがんけんせい)と聞こえたまうは、院の御所に仕えまつりて、勢いある歴々(身分の高い人々)なり。しかるにかの方様には、糸竹に妙(たえ)なる女子を召し抱えんと宣うなり。それがしは此の年頃、療治の得意なるを持て、その事を承り、をさをさ尋ねる最中なれば、手引きせん事いと易し。しかし先様の御好みは、十六ばかりの振袖をと、予(か)ねて注文したまうに、留袖にてはいかがあるべき。その余の事は障(さわ)りはあらじ」と云うに、亀菊微笑んで、
「年は十九になりはべれども、女子(おなご)は拵(こしら)え様にも寄れり。先様へは十六とも十七とも申させたまえ」と云うに、長彦は喜んで、次の日、顕清の屋敷へ行って事良く拵(こしら)えたりければ、目見(めみえ)の日さえ定められて、既にその日になりしかば、亀菊は大島田に振袖の衣を装い、長彦に伴われて、その屋敷へ赴きけり。

 実(げ)に亀菊は、その始め、白拍子なりければ、わざを着慣れしその装い。さながら二八(十六)の乙女と見えたり。
 されば、その日は老女いでて、その芸能を試みられしに、琴、胡弓(こきゅう)、笙(しょう)、又、舞唄いの今様(いまよう)まで、秘術を尽くしたりければ、顕清は障子を隔てて、これを聞きつつ感じ、且つ喜ぶ事大方ならず。見参の首尾整いければ、三四日を経て亀菊は、その屋敷へ引き移り越し、元の舞姫らとうち混って勤めるに、早くも主人(あるじ)の心を知って、いと甲斐甲斐(かいがい)しく立ち振る舞えば、顕清いよいよ愛(め)で喜び、要用(ようよう)の事などを、皆亀菊に云い付けたり。

○そもそも後鳥羽院の御想い者(愛する人)、尾弘の局(おひろのつぼね)と聞こえしは、法眼顕清の娘にて、此の御腹に朝仁(ともひと)親王と申せし、男御子さえ産まれさせたまいしかば、父顕清も娘に付いて自ずから勢いあり。常に親しく院の御所へ参り仕えたりけるに、元より歌を好んで詠み、又、古筆(こひつ)を好みしかば、世に珍しき物どもを、集めんと思う程に、近頃、紀貫之(きのつらゆき)の自筆の土佐日記、又、躬恒(みつね)の短冊など、数多得たりしかば、ある日、御物語のついでに、
「顕清こそ、かかるものを得て候(そうら)え」と誇り顔に申し上げしかば、院は聞こし召して、
「そはいと珍しき物なり。送りて見せよ」と仰するにぞ、顕清いたく喜んで、やがて宿所に退きつつ、その次の日に、尾弘の局にしかじかと消息(せうそこ/手紙)して、その古筆を叡覧(えいらん)に供えんとするになん。この使いには、心利(き)いたる女子(おなご)ならではと思いしかば、亀菊を呼び近づけて事の心を得させつつ、その消息をもたらして院の御所へ遣わしける。

 さる程に、亀菊は下部(しもべ)に、唐櫃(からひつ)をかき担わせて、尾弘の局へ参りしに、取り次ぎの女中が立ちいでて、
「尾弘の局は院に召されて、梨局(なしつぼ)に御座(おわ)すめり。すべり出たまうには、いとしばらくの程あるべし。緩(ゆる)やかに待ちよ」と云うを、亀菊は押し返し、
「こは私(わたくし)の使いにはべらず、御所様へ参らせたまう云々(しかじか)の物をなん、もたらしてはべりにき。願わくばこの由を、急ぎ伝えてたまわれかし」とひたすらに請い求めしかば、
「しからば彼処(かしこ)へおもむいて、又、取り次ぎを頼むべし。これ持て行きね」と云い掛けて、切手形の木札一枚(ひとひら)を亀菊に渡しつつ、唐櫃負わせし者、両三人に担わして、折戸口まで遣わしけり。

 されば又、後鳥羽の院は文の道を好ませたまいて、御詠み歌の妙なるは、云うも更なり。又、武芸をも好ませたまい、その上、種々(くさぐさ)の遊芸さえ、一つとして捨てたまわず。
 しかれども、女御(にょうご)※、更衣(こうい)※の止(や)ん事無き※高官を、余所余所(よそよそ)しくて遠ざけたまい、怪しの賊(しず)の女なりとも、品形(しなかたち)麗しく、一芸に優れし者は、御側(おそば)近くはべらせて、御遊びの伽(とぎ)とさせたまうに、香、立花(生け花)は、さま★で興(きょう)無し。鞠(まり)は殊更(ことさら)良き物なれども、女子に鞠を蹴させるは無惨なるべし。鞠の遊びに代えんには、賊(しず)の子供が春にする、遣り羽子(やりはご)こそ良からめと、ひたすら羽根を突かせたまうに、その法式を立てられて、種々の手を尽くさせたまえば、上を学ぶ下々まで遣り羽子の遊びを旨として、その技、都鄙(とひ/都と田舎)に流行りけり。
※女御:(にょご):天皇の寝所に侍した高位の女官 ※更衣:(こうい):女御に次ぐ女官
※止んごとなき:高貴の身であるという意味。

 これはさて置き亀菊は梨局のほとりに参って、取り次ぎを尋ねるに、此の時、院は尾弘の局、その余の官女にうち交じって、遣り羽子の御遊びに興(きょう)ぜさせたまう程に、取り次ぐ者も無かりけり。
 さる程に、一院は瀧子と云える舞姫の、突き渡し奉るその羽子を、胡鬼板(こぎいた)で跳ね返えさんとしたまいしに、亀菊が成り出る時運やここに至りけん。その羽子は逸(そ)れて築垣(ついがき)の戸の方へ閃(ひらめ)き飛んで、折戸の彼方につい到る。亀菊が頭(こうべ)の上に、落ちかからんとしたりしかば、亀菊ここぞと、ちっとも透かさず、右手(めて)に持ったる切手の札持ち、その羽子を丁と受け、舞雲雀(まいひばり)と云う手をもって、二つ三つ四つ突き上げて、程を測って彼方(かなた)なる院に突き返し奉りしかば、一院の御感(ぎょかん)大方ならず、
「そも、築垣の▼彼方(かなた)に在って、朕(ちん)が逸(そ)らせし遣り羽子を、突き返すのは何者やらん。尋ねてみよ」と仰するにぞ、一人の女官が折戸を開いて、亀菊に会釈しつつ、ここへ参りし事の由を静々と尋ねれば、亀菊は恭(うやうや)しく
「これは法眼顕清が、貫之、躬恒(みつね)の筆の跡を、叡覧(えいらん)に供えん為、尾弘の局へ消息(手紙)せし、その品々を捧げまつる使い女(め)の亀菊と申す者にはべり。先に局へ参りしかど、梨局の方に居ますと、ある女房が云うにより、時の遅れん事の惜しくて、切手をたまわり、覚束(おぼつか)無くも、ここまて推参したれども、折から御遊(ぎょゆう)の最中(もなか)と覚しく、いで来たまう人無きにより、しばらく待ちてはべりにき」と恐る恐る答えるを、一院は遙かに聞こし召し、
「顕清の使いならば、いささかも苦しからず。その者を呼べ」と御辺(ほとり)へ間近く招き寄せさせたまいて、その容姿を見そなわするに、いと艶(あで)やかなる雅女(みやびめ)なれば、たちまちに愛でさせたまいて、
「汝は羽子に妙ある者なり。突いて見せよ」と仰するにぞ、亀菊は再び三度、いろひ★奉るを許したまわず、さのみはかしこかるべしとて、ようやくに立上がり、飛ぶ馬、河堀、嵐の木の葉、燕返りなどと云う手をもて、秘術を尽くして突きしかば、院はいよいよ感じたまいて、
「なお、この他にも覚えたる芸能ありや」と問わせたまえば、
「糸竹(和楽器)の技、男舞いは、幼きより習いはべりしかど、いと拙(つたな)くはべり」と申す。
「さらば誠に要ある者なり。朕(ちん)に仕えよ」と仰せあって、尾弘の局に預けたまいて、遂に宿所へ帰したまわず、その夜も御遊の席に召されて、舞い歌わせて叡覧あるに、堪能の者なりければ、御寵愛大方ならで、御側(かたはら)らを離ちたまわず。

 顕清はかかる事とも知らず、その日亀菊が帰らざりしを、訝(いぶか)しく思いしかば、次の日院の御所へ参って御気色を伺えば、一院はうち笑ませたまいて、
「昨日は予ねて約束の珍書どもを見せられしな。ついて、その使い亀菊とか云う者は、芸能ある女子(おなご)なるに、今より朕に仕えさせよ。まづしばらくは尾弘の局を、局親にしてあるべし。朕は貫之が筆の跡より、かの亀菊こそ得ま欲しけれ」とうち戯れてぞ仰せける。
 顕清これを承って、亀菊が心利(き)いたる御寵愛の者となれば、我が娘尾弘が為に良き事あらじと、心の中にはいと悔しくは思えども、今更に詮方(せんかた)無ければ、「誠に彼女が幸いにて、いと有難き事にこそ」と、御受けを申しつつ、苦笑(にがわら)いして退いたり。

 かかりしかば、一院は幾程も無く亀菊を五節(ごせち)※の歌書(うたがき)★と云う司になされて、あまつさえ女武者所(おんなむしゃどころ)の別当(べっとう)※を兼ねさせたまえば、勢い典待(すけのつぼね)※に等しく、果たして尾弘の局を始め、院の御情けを受け奉りし女房達は、皆こと如く捨てられて、二千の後宮(こうきゅう)に顔色(がんしょく)絶えて無き如く、亀菊一人に蹴押されたり。
※五節(ごせち):新嘗祭(しんじょうさい)・大嘗祭に行われた舞を中心とする儀式行事。
※別当(べっとう):親王家・摂関家などの政所(まんどころ)の長官。
※典待(すけのつぼね・ないしのすけ・てんじ):内侍司(後宮)の次官(女官)。

 されば又、中頃より禁裡(きんり)※院中には、北面(ほくめん)の武士※を置かれて、非常を戒めたまいしに、後鳥羽の院の御時に、又、西面(さいめん)の武士を置かせたまい、あまつさえ国々より、武芸力量の女を召されて、▼女武者所に据え置かれ、その女武者の采女(うねめ)※らを預かり司る女官を武者所の別当と称せらる。
 しかれどもその采女らは、あるいは縁故(ひき)を求め、依怙(えこ)の沙汰もて、選み取られし者どもなれば、させる武芸のあらぬ者も、かの武者所にはべりしに、一人綾梭(あやおさ)と云う采女のみ、十八番の武芸に長けて、男も及ばぬ所あり。
※禁裡(きんり):《みだりに入ることを禁じる意から》 皇居。禁中。御所。
※北面の武士:院の御所の北面に詰め、院中の警備にあたった武士。
※采女(うねめ):天皇・皇后の側近に仕え、日常の雑事に従った者。

 故(ゆえ)あるかな、綾梭が父は筑井兵衛太郎(つくいひょうえたろう)とて、関東の武士(もののふ)なりしに、武芸の聞こえあるにより、先に都へ召し上して、西面に成されしに、近き頃に身罷(みまか)りぬ。されば綾梭は女ながらに父の武芸を受け継いで、技に優れし者なりければ、院の御所に仕えまつりて武者所にはべりしに、久しく病に犯されて、故郷へまかりて籠もり居たれば、亀菊が武者所の別当に成りしと聞きつつ寿を述べるに及ばず。
 亀菊は綾梭が来たり見(まみ)えぬを訝(いぶか)って、采女らに由を問うに、彼女は久しく病あって、故郷にはべりと答えしかば、亀菊は聞いてあざ笑い、
「彼女、死ぬ程の事はあらじを、なお引き籠り居(を)る者は、わらわを密かに侮(あなど)るならん。よしよしその儀ならば、詮術(せんすべ)あり。打捨てて置きね」と云う気色、只ならずと見えしかば、采女ら密かに危ぶんで、やがて人を走らせて、綾梭にかくと告げれば、綾梭も驚いて、止む事を得ず病を押して、亀菊に目見えしかば、亀菊はひたすらに、はしたなく罵って、
「そもじが親の、筑井の兵衛太郎は、させる武芸も無き者なりしに、鎌倉よりの推挙によって、西面に成されしすら、なお上も無き御恩なるに、云わんやそもじの端(はした)武芸を親の子と思(おぼ)し召して、采女に成されし身の程をわきまえず、虚病(そらやまい)を申し立てて、わらわを侮(あなど)る不敵さよ。さぁさぁ六波羅へ引き渡して、罪を糾(ただ)さん」と怒りしを、朋輩(ほうばい)の采女、これを諌(いさ)めて、
「君、今こよなき司に成されて、事に目出度(めでた)き事の始めに、人を罪ないたまわんは、宜(よろ)しき性とも覚えはべらず。願わくば、綾梭が怠(おこた)りを許したまえ」と、代わる代わるに詫びしかば、亀菊ようやく怒りを納めて、
「しからば此度は許しはべらん。この後もなお、僻事(ひがごと/不備)※あらば、得こそ許すまじけれ」と云う時に、綾梭は初めて頭(こうべ)をもたげつつ、その面(おもて)を見てけるに、あに図らんや、我が支配の別当になりたる女官は、先に父兵衛とともに、六波羅に在りし時、余所(よそ)ながら見知りたる、白拍子の亀菊なれば、心の内に大きに驚きけり。
※僻事(ひがごと):間違っていること

 やがて宿所へ立ち帰り、母にしかじかの由を告げ、
「かの亀菊は、その初め白拍子なりし時だに、数多の人を害(そこな)いしに、云わんや今は、一院の御寵愛を被(こうむ)りはべれば、彼女が憎しと思わん者の、安穏(あんおん)には余もあらじ。かかればわらわは彼女が為に、遂には無実の罪を得ん。此はいかにすべき」とうち嘆(なげ)けば、母親聞いて打ち驚き、
「しかる時はうかうかと、都に在らんはいと危うし。三十六の計り事も、逃げるを良しとすと云えば、親子密かに▼他郷に走らんと思えども、いかにせん。我が身は脚気の持病あって、道一里とは行く事叶わず。うたてき(情けない)※老の身にこそ」と云い掛けて、早や涙ぐめば、綾梭これを慰めて、
「しか思(おぼ)し召すならば、わらわ密かに栓術(すべ)あり。かようかよう」と囁けば、母親しきりに頷(うなず)いて、閑談(雑談)時を移しけり。
※うたてし:①情けない。②気に入らない。③気の毒だ。④気味が悪い。

 かくて又、綾梭は近きほとりに、借馬引きの鞍八と云う者を、その夕暮れに招き寄せ、
「我が母は脚気の持病あり。わらわも又、先つ頃より久しく病に犯されて、ようやくに怠り(回復)しを、石山寺の観世音へ予ねて掛けたる願解(がんほど)きに、母諸共に明日の頃、参らんと思うなり。しかれども我が母は、駕籠乗り物を嫌いたまえば、馬になりともうち乗せて、具して行くより他の事なし。口取りの男は此方(こなた)にあり。良き馬あらば明日一日、貸してたびね」とこしらえれば、鞍八はその心を得て、
「幸いに良き馬あり。駆けなどには向かねども、鞍の上静かにして、遠乗りには極めて良し。先に値(あたい/値段)五両にて、売らんとは思いしかど、なお売りかねて、飼いたて置きぬ。今宵より貸し参らすべし」と答えて、宿所に立ち返り。その夕暮れにその馬を引きもて来つつ、貸しにければ、綾梭は深く喜んで、次の日の朝未(まだ)きに、母親を馬に乗せて、家に一人の下部なる留守介(るすすけ)と云う者に、馬の口を取らせつつ、石山寺の方を指して、三里ばかり行きし時、留守介を出し抜いて宿所に帰して、綾梭は馬を追い道引き違(ひきちが)えて、木曽路の方へ走る程に、なおも追手のかからんとて、髻(たぶさ)を切り、姿をやつして、しきりに道を急ぎけり。

 これより先に、綾梭は母親を馬に乗せ、石山の方を指して三里ばかり行きし時、馬の口取りの下部留守介を忙わしく呼び止めて、
「あな、いかにせん。忘れたる事こそあれ。今朝しも物に取り紛(まぎ)れ、石山寺へ参らする布施物(ふせもつ)を持て来ざりき。そなたはここより引き返して、布施物を取りて来よ。そはしかじかの所にあり。しかりとも、わなみ親子は今宵、御堂に通夜すなれば、そなたは急いで来るにも及ばず。今宵は宿所に休息して、明日は努めて迎えに来よ。その来んとする時に、これを借馬の鞍八に確かに届けよ」と云い付けて、いと固く封したる文箱(ふばこ)を渡せしかば、留守介は心を得て、そこより宿所に立ち帰り、さて云われたる所は更なり、あちこちを尋ねしかども、布施物と思(おぼ)しき物は無し。
 かくて又、明けの朝も、残る隈(くま)無く尋ねしに、それかと思う物も無ければ、詮方尽きて、そのまま石山寺へ迎えに行きしに、綾梭親子は御堂に居(お)らず、心いよいよ疑い迷って、堂守を尋ねるに、「通夜せし者はあらず」と答える。

 これにより留守介は、空(むな)しく国へ帰る程に、三条の橋詰めにて、鞍八に行き会いぬ。その時、鞍八は、留守介を呼び止めて、
「心得難き事こそあれ。借馬の賃(ちん)は一日に、五百文と定めしに、今朝和殿に持たせたまいし文箱を開いて見しに、内には黄金五両あり。馬の値と記されたり。しからば昨日貸したる馬を、買い切りにせんとの事か。いぶかしき事限り無ければ、参って尋ね申さんとて、今立ち出(いで)し所なり。和殿はその訳を知らずや」と問われて、▼留守介は眉をひそめ、
「それにて思い当たる事あり。その故はかようかよう」と、綾梭親子が石山寺に、参らざりし事の趣(おもむき)の始め終わりを説き示して、
「察するに、おらが旦那は、親子密かに示し合わせて、逐電(ちくでん/逃亡)したまいけん。あな笑止(ばかばかしい)なや」と囁けば、鞍八も驚き呆れて、その日は留守介と諸共に、あちこちを訪ね巡りしに、絶えて行方の知れざれば、止む事を得ず、留守介は或る人に語らって、その事の趣(おもむ)きを女武者所へ聞こえ上げ、鞍八は又、六波羅の決断所へ訴えけり。

 さる程に、亀菊は綾梭が母諸共に逐電せし由を聞いて、いよいよ憎み憤り、俄(にわ)かに一院の仰せと称して、六波羅へ下知を伝え、
「綾梭親子を召し捕って、参らすべし」と催促せり。
 これにより六波羅の決断所には、伊賀の判官光季(みつすえ)が、組子(くみこ/手下)※を四方へ走らせて、綾梭を追わせしかども、既に両三日を経たりしかば、行方は絶えて知れざりけり。この故、光季は留守介、鞍八を呼び寄せて、なお詮索を問ぐると云えども、彼らが知る事ならざれば、詮方無くて止みにけり。
※組子(くみこ):徒組(かちぐみ)・鉄砲組などの組頭の配下にある者。組下。組衆。

 この時に、世を厭(いと)うたる或る物知りが、或る人に囁きしは、昔、鳥羽の院の御時に、美福門院の御沙汰として賞罰に僻事(ひがごと)多かり。さるにより、後、遂に、保元の戦(ほうげんのいくさ)起こって、崇徳院は流されたまいき。今は又、亀菊が院の御寵愛をこうむって、御政治(まつりごと)に僻事多し。しかのみならず、鎌倉には、頼朝の後家(ごけ)政子の前、武家の賞罰(しょうばつ)を執り行って、尼将軍と称せられる。されど京も鎌倉も、萬(よろづ)女の沙汰により、世の中の勇婦(ゆうふ)賢妻(けんさい)が、無実の罪に身を置きかねて、世を憤(いきどお)る者あるべし。
 これしかしながら、その昔、立木の局が過(あやま)って、傾城塚(けいせいづか)を開いた祟(たた)りならんと云いけるとぞ。(留守介、鞍八らが事は、この後に物語り無し)

○さる程に、綾梭は髻(たぶさ)を切り、姿をやつし、母を乗せたる馬を追って、信濃路へ走りつつ、小道、枝道、そこはかとなく、山又山に旅寝(たびね)を重ねて、信濃の国の水内郡(みのうちぐん)戸隠山(とがくしやま)の麓を過(よ)ぎる時、日は暮れなんとするに、思わず宿を取り遅れて、あちこちと尋ねる程に、道のほとり一町ばかり引き入れたる木立の元に、一構(かま)えの冠木門(かぶきもん)の見えしかば、ようやくに辿(たど)り着いて、一夜の宿を求めしに、主人は六十路(むそじ)ばかりなる翁(おきな)にて、いと情けある者なりければ、快(こころよ)く引き受けて、召し使う女どもして、綾梭親子を風呂に入れ、夜食をすすめ、馬にも馬草を飼わせなどして、懇(ねんご)ろにもてなしければ、綾梭親子は情けを感じて、臥し所(ふしど)に入りて眠りにつきぬ。

 その明けの朝、主人の▼翁は、とく起きいでしに、早や日の昇る頃おいまで、旅の女が未だ起きねば、屏風のこなたより、しわぶき(咳払い)して、
「いかに人々、起きたまわずや。早や夜は明けて候」と云う声聞いて、綾梭は忙わしく走り出て、
「わらわは、とっくに起きはべりしかど、この頃、旅の疲れにや、母なる者が暁(あかつき)より、痞(つか)え※起こりて苦しめり」と云うに、主人は驚いて、
「そはいと、難儀におわするならん。幸いに我が家には、癪(しゃく)、痞えの妙薬あり。たてつけて、すすめたまえ」と云いつつ、やがてその薬を女どもに煎じさせ、しきりに勧めいたわって、
「旅にて病むのは、便無きものなり。いつまでも逗留して、静かに保養したまえ」と云い慰めたる人の情けに、綾梭親子は深く感じて、此の所に足を留め、しばらく保養したりしかば、およそ十日ばかりにして、母の病は癒えにけり。
※痞(つか)え:病気・心配などで胸がつまるような感じ。

 これにより綾梭は、明日は努(つと)めて予ねてより志(こころざ)す方へ発たんとて、泥に汚れし我が脚絆(きゃはん)を、洗わばやと思いつつ、背戸(せど)の方に立いでて、と見れば方辺(かたへ)の空地にて、年十七八と見える女子の男めきたる装(よそお)いして、独り武芸の稽古をしつつ、木太刀を使って居たりけり。
 綾梭しばしこれを見て、「・・・太刀筋は器用なれども、まさかの用には立ち難し」と、独り言せし声が漏れ、その女子は見返って、
「あの女、何をか云う。わらわが技を拙(つたな)しと思いなば、いざ立ち寄って勝負を決せよ。ここへ来ずや」と息巻く声を、主人の翁は聞き受けて、忙わしく走り出で、
「女中よ。心に掛けたまうな。彼女は我らが娘なるに、生まれつきたる性にやあらん。糸繰(いとく)り、機(はた)織る業はせず、幼(いとけ)なきより武芸を好んで、男魂あるに似たり。母はそれを苦に病んで、一昨年の秋、身罷りぬ。しかれ共、それがしは、彼女がまにまに止めもせず、両三人の師匠を取らせて、いささか武芸を習わせたり。女中も定めて、武の技に心掛けありと思わる。所詮、彼女の望みなれば、打ち殺したまうとも苦しからず、一太刀当ててたまいね」と、只ひたすらに請い求めるにぞ、綾梭は両三度、辞すると云えども許されねば、
「しからば是非に及び難し。お相手になりはべらん。無礼は許したまいね」と会釈をすれば、その娘は、「云うにや及ぶ」と勢い猛(たけ)く、そのまま家に走り戻って、壁に掛けたる薙刀(なぎなた)と木太刀を取って走り出て、
「長き短き、いずれなりとも選び取られよ」と云うに、綾梭微笑んで、
「わらわは打ち物に嫌い無し。御身まず取りたまえかし」と譲るに怯(ひる)まず、その娘は樫の木にて作りたる薙刀をかい取って、水車の如く回しつつ、隙を計って駆けんとするを、綾梭は木太刀を持て、たちまち丁と払い除け、付け入って一打ちに打ちなば、打ちも倒すべけれど、身を痛めずして勝ちを取らんと思いにければ、あしらって二足三足しさり(後ずさり)にければ、その娘は踏み込んで、再び駆けんとする所を、綾梭すかさず跳ね返せば、娘が持てる薙刀は、遙か後ろへ消し飛んで、その身も共に横ざまに、はたと転(まろ)びて伏しければ、綾梭は木太刀を捨てて、走り寄りつつ引き起こし、
「痛みはせずや。怪我はせずや。許したまえ」と会釈をすれば、その娘は膝立て直して、
「わらわ眼(まなこ)は有りながら、人をも知らず身をもはからで、此上(こよ)なき無礼をしはべりぬ。許させたまえ」と額(ぬか)突いて、身の過ちを詫びるになん。
 父の翁は、且つ感じ、且つ喜んで、綾梭にうち向い、
「それがしは、家代々が村長(むらおさ)を承って、陸見庄内(くがみしょうない)と呼ばれる者なり。又此の所の里の名を、女郎花村(おみなえしむら)と呼びなして、いかなる故か知らねども、古(いにしえ)よりして、この村には男子(おのこ)少なく女子(おなご)多し。又、北隣りなる一里を、鬼無里村(きなさむら)と呼びなして、そこには男子多くして、女子は極めて少なかりき。ここをもて、昔よりかの村と我が里人と、婚縁を結ぶなり。それがしは、幸なくて、只この娘一人を持てり。早や年頃になりぬれば、婿を取らんと欲(ほ)りすれども、只今見そなわする如く、女子に似気無(にげな)き武芸を好んで、人の妻となる事を願わず。人も又、その猛きに恐れて、婿にならんと云う者無ければ、事整わずうち過ぎたり。又、我が娘は物毎に、環龍(たまりゅう)の模様を好んで、衣(きぬ)にまれ帯にもあれ、龍の縫い物のある物を着たれば、里人らおしなべて、浮潜龍衣手(ふせんりゆうころもで)と、あだ名を負はして呼んで候。思うに君は、世の常の婦人にては御座(おわ)すべからず、願わくば実を明かして、なおこの所に逗留したまい、娘に武芸を教えたまわば、この上も無き幸いなり。やよ衣手。今日よりして、この方様を教えの親と頼み申せ」と云うに、衣手は喜んで、綾梭を伏し拝み、師弟の契りを請い願えば、綾梭は否(いな)むに由無く、主人親子にうち向かって、
「今は何をか包み(隠し)はべらん。わらわは西面の武士なりける、筑井兵衛太郎(つくいひょうえたろう)が娘にて、綾梭(あやおさ)と云う者なり。父の兵衛太郎が身まかりし頃、家を継ぐべき男子(おのこ)無ければ、わらわを女武者所に召し置かせたまいしに、かようかようの事により、▼亀菊に憎まれて、災(わざわ)い此の身に迫りしかば、止む事を得ず、母を伴ない父方の縁(ゆかり)ある武田殿に身を寄せん為、わざと小道をへ巡りて、宿り遅れし夕暮れに、恵みを受けしのみならず、思い掛け無き母の病を緩(ゆる)やかに保養させて、遂に快癒(おこた)り果てし事、大方ならぬ情けによれり。かくまでの恩返しに、わらわが覚えし技の限りは、御息女に指南せん。衣手殿がこの年頃、習いたまいし太刀筋は、華やかなるを旨(むね)とせしのみ。まさかの用には立ち難し。今少し習いたまわば、妙所に至りたまうべし」と云うに、親子は益々喜び、庄内は娘が為に、その日酒宴の席(むしろ)を開いて綾梭親子をもてなしつつ、師弟の契りを結ばせける。

 さる程に、綾梭は父の兵衛が伝えたる、十八般(じゅうはっぱん)の武芸の秘術を、日毎に衣手に教えしかば、およそ半年余りにして衣手の武芸は上達し、侮(あなど)り難く見えにけり。かかりしかば綾梭は、ある日、衣手親子に向かって、月頃の待遇(もてなし)を喜び聞こえ、
「今は早や、衣手殿の芸術も上達したまいたれば、いささかも欠けたる事無し。かかれば予ねて云いつる如く、明日のころ袂(たもと)を分かって、初めより心ざす武田殿へおもむくべし」と云うに、親子は理(わり)無く止めて、
「願わくば、此の所に一期を過ぐしたまえ。させるもてなし有らずと云うとも、ともかくもして、御二方を養い参らせん」と云うを、綾梭聞いて、
「さればとよ、我らは惜しくはべれども、とても留まる身にあらねば、明日は努めて立いでなん。落ち着いて後にこそ、文持て安否を問うべきに。自ら愛したまいね」と、ねんごろに別れを告げて、留まる気色も無かりしかば、衣手は詮方無くて、父と図って餞別(はなむけ)に謝金二十両を贈りけり。
 その明けの朝、綾梭は月ごろ馬屋に飼い置かれし、我が馬を引き出して、母親を助け乗せ、庄内と衣手に暇乞(いとまご)いして立ちいずれば、衣手は道の程、一里ばかり送りつつ、涙を流して別れけり。(綾梭が事、この後に物語り無し)

○かくて今年も、儚(はかな)く暮れる、その師走の初めつ方に、父の庄内は風邪の心地とて、仮初め(かりそめ/一時的)にうち臥したるが、医療の効験(しるし)あらずして、終に虚(むな)しくなりしかば、衣手は打ち嘆きつつ、亡骸(なきがら)を野辺送りして後、懇(ねんご)ろに弔いけり。
 しかれども、この時まで、定まる婿の無きにより、家に久しき手代の螻蛄平(けらへい)という者を、仮に庄役代として耕作の事を司どらせ、衣手はなお綾梭に教えられたる武芸のみ、折々に復しつつ為す事も無く月日を送るに、春は経ち夏は過ぎ、秋七月の頃になりぬ。残る暑さの耐え難かれば、衣手は門(かど)のほとりに、竹の床几(しょうぎ)※を置き渡し、尻うち掛けて只一人、そよ吹く風を待つ程に、表の方よりうそうそ(きょろきょろ)※と、厨(くりや)のほとりを覗く者あり。
※床机(しょうぎ):一人用の折り畳み式の腰掛け。尻の部分に布や皮を張り、脚を打ち違えに組んである。
※うそうそ:そわそわ(と)。きょろきょろ(と)。うろうろ(と)。

 衣手早く透かし見て、「そは何者ぞ」と咎(とが)めれば、その人、急に見返って、
「否(いな)、横七にて候」と云いつつ、やがて近づくを、よくよく見れば折々来ぬる杣木樵(そまきこり)の横七なり。衣手はあざ笑って、
「あな、黄昏に何事ぞ。きょろきょろ、そこらを差し覗くは、わらわの足元を見ん為にか」と云われて、横七は頭をかき、
「否、何事も候わず。ここの男衆の鋤蔵(すきぞう)を誘い出して、一杯飲まんと思い、来た事は来たれども、御身がそこに居たまえば、なお呼びかねて、隠れしのみ」と云うに、衣手気色を和(やわ)らげ、
「そはそれにてもあるべきが、そなたは年の夏毎に猪茸(ししたけ)、岩茸(いわたけ)、椎茸などを、折々持て来て売りたりしに、今年は何とて持て来ぬぞ」と問われて、横七は
「さればとよ。定めて聞きも及ばせたまわん。近頃、戸隠山に、三人の鬼女(きじょ)棲んで、夜な夜な近き里にいで、人を殺し財(たから)を奪う。その猛き事は大方ならず、昔かの山に棲みたる鬼女が維茂(これもち)殿に討たれしは、只一人とこそ伝え聞きしに、彼女らは元より眷属(けんぞく)多かり。この故に守護目代(しゅごもくだい)より、百貫文の褒美銭(ほうびせん)を懸けさせたまいて、彼女らを絡め捕らせんとしたまえども、誰とて向かう者は無し。かようの障(さわ)り有るにより、椎茸などは愚かな事、木を切る事も叶い難し」と告げるを、衣手うち聞いて、
「我も又、かの山に女盗人(おんなぬすびと)どもが、棲む由を聞かざるにはあらねども、さほどの事とは思わざりき。もし良き椎茸、岩茸あらば、持て来よかし」とあつらえれば、横七は心得て、暇乞(いとまご)いして帰りけり。
 かかりしかば、衣手は、思う旨あるをもて、次の日酒食を用意して、一村なる女どもをこと如く呼び集め、
「おのおのも、予ねてぞ知らん。近頃、戸隠山なる女盗人らが、あちこちの里々をうち騒がして、人を殺し、物を奪うと風聞(ふうぶん/噂)は、既に隠れ無し。しからば、彼女らが我が村へ押し寄せ来んも計り難し。わなみは女子なりと云えども、家は代々村長なり。かつ此村には男子少なく、しかも皆、惰弱(だじゃく)なり。し奴らもし、寄せ来るならば絡め捕って、公(おおやけ)へ渡し奉らんと思うなり。おのおのも、皆で合図を定めて、賊婦らが来ると知らば、早く拍子木を持て、人を集め、力を合わせて働きたまえ。打ち物には稲穂を粉(こ)なす殻棹(からざお)※に、増すもの無し。皆、殻棹を用意して、只ひら打ちに打ちたまえ。その時わなみは先に進んで、賊の大将を生け捕るべし」と、手に取る如く指し示せば、女輩(おんなばら)は一議に及ばず、
「我々は愚かなる者なり。とにもかくにも嬢様の指図には、漏れはべらじ」と、皆諸共に答えしかば、衣手は下男、下女らに、用意の酒食をいだたせて、上戸には酒を飲ませ、下戸には餅を食わせれば、皆喜んで飲み食いしつつ、おのれおのれが宿所へ帰りぬ。

 ここに又、近頃戸隠山に砦を構えて、おのおの鬼女と言い触らし、数多の手下を集めたる三人(みたり)の賊婦あり。その第一の頭を、野干玉黒姫(ぬばたまのくろひめ)と呼べり。此は近き頃、謀反によって滅びたる城(じょう)の小太郎資盛(こたろうすけもり)が家の何がしかの後家にして、年は三十五・六なるべし。させる勇力(ゆうりき)無しと云えども、思慮あって謀(はか)り事を好めり。第二番の頭を、越路の今板額(こしじのいまはんがく)とあだ名せり。これ又、資盛が余類(よるい/縁者)にて、力猛く武芸を好めり。第三番の頭を、戸隠の女鬼(とがくしのしこめ)と云えり。これも近頃滅びたる、梶原(かじわら)が残党にて、力強く心巧みなり。
 およそこの三人の悪たれ女、身の置き所無きままに、戸隠山に立て籠り、数多の手下を集めつつ、おのおの異様の扮装(いでたち)して、辺りの里を脅(おびや)かし、人を屠(ほふ)り、物を奪って、山の砦に蓄えたり。
 かくて黒姫、今板額、女鬼(しこめ)ら三人の賊婦は、ある日酒盛りして遊ぶ程に、今板額が言いけるは、
「此の頃、我が砦には兵糧、既に乏しくなりぬ。いづれへなりとも働いて、盗り入れんこと肝要(かんよう)ならん」と云うを、女鬼は聞き敢(あ)えず、
「しからば川中島へ赴(おもむ)いて、数多の米を借り持て来ん。しばしも猶予すべからず」と逸(はや)るを、黒姫押し留めて、
「川中島へ働かば、その道のほど便(たよ)り良けれど、同じくは黒姫山より近道を打ち越えて、越後の国へ赴くべし。その故(ゆえ)は、かようかよう」と、利害を説いて諭(さと)せども、女鬼はしきりに苛立(いらだ)って、少しもこれを聞かざりけり。
※殻棹(からざお):脱穀に用いる農具。竿の先に枢(くるる)を設けて打棒を取り付けたもの。打棒を回転させながら振り下ろして穀類を打つ。

 さて、この下りの問答は、第五★の巻にて解きわくべし。およそ此の度、新版の初編は、全て八冊なるを、長物語は御退屈と四冊に引き分けたり。又、此の次を御覧じて、二編三編、その先の先々までも、御評判、御評判。■   

<翻刻、校訂中:滝本慶三 禁転載 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>

傾城水滸伝 初編 之参

2013-01-11 17:37:47 | 初編
傾城水滸傳初編第三
曲亭馬琴翻案 式陽齋豊国画 仙鶴堂綉梓

その時、黒姫は、女鬼(しこめ)が逸(はや)るを押し止めて、
「川中島へ働くは、その利あるに似たれども、女郎花村(おみなえしむら)を過(よ)ぎらねば、彼処(かしこ)へは赴き難し。かの村には音に聞こえし、浮潜龍衣手(ふせんりゅうころもで)あり。彼女いかにして、おめおめと見つつ我々を通すべき。かかれば越後へ赴くに増す事あらじ」と諌(いさ)めるに、今板額は「実(げ)にも」と悟って、
「姉御の意見、極めて良し。衣手は、その力並々ならぬのみならず、武芸も又、類稀(たぐいまれ)なり。近き世の、巴板額にも劣らずとこそ聞きたるに、なまじに彼処(かしこ)を過ぎれば、毛を吹き傷を求める※なり。思案をすべき事なり」とて、諸共に諌(いさめ)るを、女鬼は聞かず、うち腹立てて、
「などてや御身二方は、他所(よそ)の武勇をのみ誉めて、自分の勢いを落としたまうぞ。我々女子なりと云えども、ここらに名立たる武士(もののふ)すら、誰とて討っ手に向かう者無し。云わんや、一人の小娘なる衣手が何とかすべき。よしよし、その儀ならば、姉御たちをば、一人も得こそ頼むまじけれ。我れが衣手をうち殺して、川中島へ働くを高嶺で見物したまえ」と、勢い猛く立ち上がるを、今板額、黒姫は、左右より引き止めて、なお様々に諌めれども、女鬼はいよいよ怒り狂って袖振り放ち、忙わしく表の方へ走り出て、俄かに下知を伝えつつ、ひしひしと身を固め、馬にひらりとうち乗れば、手下の山賊七八十人、前後左右に従って、鐘(かね)、太鼓を打ち鳴らし、麓を指してぞ馳せ下る。
※毛を吹いて傷を求める:人の欠点をあばこうとして、かえって自分の欠点をさらけ出すことのたとえ。

 さる程に、女郎花(おみなえし)の村人は、戸隠山なる山賊らが、こなたを指して押し寄せ来つる事の体たらくに、怖じ恐れて、男は急を告げんとて、▼水内(みのうち)なる目代※の屋敷へとてぞ奔走す。しかれども、此の村の女らは、予ねて衣手が示し合わせし、合図を違(たが)えず、家毎に拍子木を持って、群を集め、手に手に殻棹を引き下げて、またたく間に衣手の宿所へ走り集まりければ、衣手深く喜んで、小手、脛(すね)当てに身を固めて、父の時より飼い立て置きたる、馬にゆらりとうち跨がって、小薙刀を脇挟み、数十人なる賤の女を馬の前後に従えて、村外れまで押し出して、寄せ来る敵を待つ間程無く、早くも近づく賊の大将。
※目代(もくだい):国守の代理として任地に派遣されて国務を代した私的な役人。

女鬼がその日の扮装(いでたち)は、面(顔)に鬼女(きじょ)の面を掛け、身には白き綸子(りんず)※の内着(うちぎ)に、金糸をもて鱗形(うろこがた)を隙無く縫わせたるを装って、緋の袴(はかま)のそば高くとり、萌黄縅(もえぎおどし)の腹巻して、髪を後ろ様に振り乱し、樫の木の長き撞木(しゅもく)※に、磨き白の薄金を寄り掛けたるを、左手(ゆんで)にかい込み、栗毛の馬に馬具足(ばぐそく)掛けて、辺りも狭しと歩ませたる。
※綸子(りんず):繻子(しゅす)織りの地にその裏組織で地紋を織り出した絹織物。
※撞木(しゅもく):仏具で、鐘・半鐘などを打ち鳴らす棒。丁字形。突棒(つくぼう)。

その手に従う山立ち(山賊)ども、おのおの鬼女(きじょ)の面を被(かぶ)って、突棒(つくぼう)よりも厳(いか)めしき、撞木を手に手に引き下げたり。げに事の体たらく、大江山の童子ならずば、又、これ鈴鹿の山に籠もりし、千方(ちかた/藤原千方)※が類(たぐい)なるべしと、思うばかりに怪しくも、いと恐るべき装束(いでたち)なり。
 その時、女鬼(しこめ)は馬を進めて、衣手を差し招き、
「我が身、元より此の村の人を喰う心無し。川中島へ赴いて、糧(かて)を借らんと思うのみ。道を開いて通せかし。迷いを取って妨(さまた)げせば、皆、肉醤(ししひしほ)にならんず」と声高やかに呼ばはれば、衣手も又、静々と馬を陣頭に乗り出して、
「愚かやな賊婦ども。汝ら鬼女の装束(いでたち)して、愚民を脅し、あまつさえ謀反を起こすと聞こえしかば、絡め捕って公けへ引きもて行かんと思いしに、ここらへ来つるは夏の虫、自ら飛んで火に入るなり。我が身は女子なりと云えども、家は代々村長たり。いかでかおめおめ此所を通さんや。川中島へ行かんとならば、頭(かしら)を置いて行けかし」と、あくまで嘲笑(あざわら)いつつ、騒ぐ気色は無かりけり。
※千方(ちかた):豪族・藤原千方が四人の鬼を従えて朝廷に反乱を起こしたという伝承。

 女鬼はこれを聞きあえず※、
「憎き女(あま)めが広言※かな。その儀ならば思い知らせん。そこ動くな」と息巻いて、撞木形(しゅもくがた)なる金尖棒(かなさいぼう)を、水車(みずぐるま)の如く振り回し、▼衣手目掛けて討って掛かれば、衣手早く迎え進んで、薙刀を持て受け止めて、人混ぜもせず只二人、しばらく挑み戦う程に、女鬼が苛(いら)って打ち込む棒を、衣手は早くやり違わして、左手(ゆんで)の方へ身を引けば、女鬼は空をはたと打つ、勢い留め難くして、衣手が右手(めて)の方へ、馬を乗り付けたりければ、衣手得たりと拳(こぶし)を固めて、女鬼が棒を打ち落とし、怯(ひる)む所を付け入って、高紐※むづとかい掴んで、目上(まなうえ)高く差し上げて、矢声を掛けて投げたりければ、味方の賤の女折重なって、押さえて縄を掛けたりける。
※あえず:しようとしてできない。…し終わらないうちに。…するや否や。
※広言(こうげん):あたりをはばからず偉そうなことを言うこと。また、その言葉。
※高紐:鎧(よろい)の胴の綿上(わたがみ)と胸板とをつなぐ紐。

 賊の大将、既に早や生け捕られたりければ、手下の大勢驚き恐れて、立つ足も無く逃げ走るを、味方の賤の女、どっと叫(おめ/叫ぶ )いて、殻棹を持て短兵急※に、ここに打ち、彼処に追い詰め、殴り立て立て、息をも付かせず追ったりける。
 既にして、衣手は早や十分に勝ちたれば、揚げ貝を吹き鳴らさせて、味方の女子を一つに集め、生け捕りし女鬼を引き立てさせて、宿所を指して練り行きぬ。
※短兵急(たんぺいきゅう):(刀剣などを手に)いきなり敵に攻撃をしかけるさま。

 この時、戸隠山の砦には、野干玉黒姫(ぬばたまのくろひめ)、越路今板額(こしじのいまはんがく)ら、鬼女が戦(いくさ)を危ぶんで、噂をしつつ居(お)る程に、討ち散らされたる賊婦ども、命からがら逃げ帰り来て、女鬼が敢え無く衣手に、生け捕られたる体たらく、しかじかなりと告げしかば、今板額は驚き騒いで、
「今は早や、是非に及ばず。なおも手下の数を尽くして、我々両人馳せ向かい、衣手と勝負を決して、女鬼を救い取らんのみ。さぁ用意をせよ」と急がせば、黒姫急に押し止めて、
「その事決して無用なり。我、初めより云いつる事よ。女鬼は衣手の相手にあらず、我々とても、かの女子に力を以って勝つ事難し。かようかように謀りなば、万に一つも謀りおおせて、女鬼を救う事もあらん。これより他に手立てはあらじ」と思い入りて囁くにぞ、今板額はその儀に従い、誰をも具せず只二人、女郎花村(おみなへしむら)へ赴きけり。

 さる程に、衣手は、女鬼を宿所へ引かせ帰って、書院の柱へ厳しく繋(つな)がせ、
「今二人の賊婦らをも絡め捕って、諸共に公けへ訴えまつらん。おのおの休息したまえ」とて、俄かに粥を炊かせ、酒を温めさせて、賤の女らを労(ねぎら)う程に、先より遠見に出して置きたる、男螻蛄平走り来て、
「戸隠山なる今板額、黒姫と共に来たれり」と慌(あわただ)しく告げるにぞ、衣手は又、勢揃いして打ちいでんとする程に、その賊婦は只二人、すごすごとして背戸口より、書院の庭へ進み入り、大地にはたとひれ伏して、しきりに涙を流すにぞ。
 衣手は案に相違して、まずその故(ゆえ)を尋ねれば、二人の賊婦は頭をもたげて、
「先には女鬼、我々が諌めを絶えて用いずして、果たして虜(とりこ)になりはべりぬ。これはこれ、かの者の自業自得なれば、いかがはせん。▼只うち嘆くべき事は、我々は謀反(むほん)の残党、上に夫と頼む者無く、下には頼る子とても無し。身の置き所無きままに、戸隠山に籠もりし日より、三人(みたり)で固く義を結び、姉と称(とな)え妹と呼び、例え同じ日には生まれ得ずとも、只同じ日に死なんと誓えり。しかるに、女鬼は遠からず、頭をこそ刎(はね)らるべけれ。さればとて、君に向かって、恨みを返すに力は及ばず、救わん事はいよいよ難し。所詮三人諸共に、御手に掛かって死なんのみ。よって推参しはべりぬ。さぁさぁ頭を刎(はね)たまえ」と云いつつも、又、降り注ぐ、涙に暇は無かりけり。

 衣手つくづくうち聞いて、心の内に思う様、
「・・・・・およそ此の者どもは、女には相応(ふさわ)しからぬ、謀反人の骨頂なれども、義を思う事、かくの如きは、益荒男(ますらお)※にも勝れる事あり。しかるを我、今此の者どもを絡め捕って、罪し殺さば世の人に蔑(さげす)まれん。密かに放ち返さばや」と腹の内に思案をしつつ、黒姫、今板額にうち向って、
「おことらが云う所、我が心に感ずる由あり。「窮鳥懐ろに入る時は、狩り人も捕らず※」と云わずや。わらわいかでか、おとこらを絡め捕って目代(もくだい)に渡すべき。よって女鬼を放ち許して返さんと思うかし」と云われて、二人の賊婦らは、ようやくに涙を止めて、
「御志はありがたく喜ばしくははべれども、しかる時は嬢様を巻き添えするの咎(とが)あらん。只、諸共に縛(いまし)めて、目代へ引き行きたまいね」と、言葉ひとしく覚悟の気色に、衣手いよいよ感嘆して、遂に女鬼が縛(いまし)めを解き許しつつ、黒姫と今板額をも招き近づけ、
「我が心は、巌(いわお)の如し。今さらに転(まろ)ばすべからず。我が言葉は矢の如し。放ちて再び返すべからず。既に女鬼を許したり。さぁ伴って行けかし」と云うに、三人はひれ伏して、
「再び生きるの大恩を、いつの時にも忘れん」とて、又、感涙に咽(むせ)びけり。
※益荒男(ますらお):雄々しく強い男。立派な男。←→たおやめ(手弱女)
※窮鳥懐に入れば猟師も殺さず:窮地に陥った者が助けを求めてきたら、どんな理由があろうとも助けてあげるものだということ。

 衣手これを慰めて、「折ふし酒もここに有り。おことら酒を飲むや」と問えば、三人等しく言葉を揃えて、
「死する事だも厭(いと)わぬものを、ましてや君の賜る物を、否(いな)み申さんや」と答えれば、衣手は彼女らに酒を飲ませて、放して山へ帰す時、ねんごろに戒めて、
「おことらは、謀反の残党なりとも、友を思い義を知る事は、賢妻烈女に恥じざる者なり。今より不義の心を止めて、誠の道を守れかし」と、教訓を加えしかば、三人はしばしば拝んで、戸隠山へ帰りけり。

 かくて今板額、鬼女らは、黒姫と共に、戸隠山の砦へ帰って、両人ひたすら黒姫の謀り事を誉めしかば、黒姫聞いて、
「さればとよ、我が身苦肉の謀り事をもて、辛く女鬼を救いしかども、衣手が義に勇んで、誠を感ずる心無くば、何でふ放ちて帰さんや。実(げ)に衣手は有難き勇婦ならずや」と諭(さと)せしかば、今板額は女鬼と共に、大方ならず感服して、「誠にさなり」と答えける。

 その後、十日ばかりを経て、黒姫は女鬼、今板額と相談して、衣手が大恩に些(いささ)か報(むく)いをすべけれとて、その手下なる山賊に謝金三十両をもたらして、女郎花(おみなへし)村へ使わしけるに、衣手これを受けずして、そのままに返せしかば、黒姫はその心を悟って、更に一斗の椎茸と雉子(きじ)五番(つがい)を贈り遣わし、
「これは山にて得たる物なり。掠(かす)め取りたる物にあらねば、願わくば収めたまえ」とねんごろに云いせしかば、衣手ようやく▼これを受けて、使いに来つる山賊に、豆銀一包みを取らせつつ、「姉御達によく云え」と労(ねぎら)い立ててぞ帰しける。
 既にして、秋も早や八月十日余りになりしかば、衣手心に思う様、
「・・・・・先には戸隠山の黒姫らから贈り物を受けたるに、未だその報いをせず、この十五夜には彼女らを招いて杯をすすむべく、共にその夜の月を見ん」とて、十三日の昼過ぎて、手紙を書きしたため、老僕(おとな)※螻蛄平(けらへい)に、よくその心を得させつつ、戸隠山へ使わしければ、黒姫らの三人は衣手が手紙を見て、喜ぶ事限り無く、使いに立ちし螻蛄平を、ねんごろにもてなして思いのままに酒を飲ませ、返事(かえりごと)を書きしたためて、螻蛄平に渡す時、金三両を取らせしかば、螻蛄平大きに喜んで、女郎花村へ急ぐ程に、道にて既に日は暮れたり。
※老僕(おとな・ろうぼく):年老いた下男

 十三夜の月に送られて、独り山路を下るにぞ。山風に吹かれるままに、酒の酔(え)いいたく昇って足元も定まらず、一人よろよろひょろひょろと、麓の裾野を過(よ)ぎる程に、松の株(くいぜ)に躓(つまづ)いて、たちまちはたと転(まろ)びけり。
 酔うたる者の癖なれば、既に一度(ひとたび)転んでは、再び起きる事叶わず、そのままそこに眠りこけ、前後も知らず伏したりける。
 かかる所に、木こり横七は麓の小柴を刈り暮らして、家路を指して立ち帰るに、と見れば道野辺の草むらに倒れ伏したる者あるを、立ち寄って月影に、その面をよく見れば、予て相知る螻蛄平なり。酒の香ぷんと鼻をうがちて、酔い伏したりと見えたるに、その懐より銭財布の半ば顕れいでたるを、横七密かに引き出すに、かの黒姫らが返事の文も財布と共にいでにけり。その時、横七は、これかれ共に取り上げて、まず銭財布を探り見るに、内には金三両と銭弐百余りあり。
 又、その文を開いて見るに、女文字(ひらがな)すらよくは知らねど、黒姫、女鬼、今板額らの名のみ定かに読めしかば、且つ驚き且つ喜んで、腹の内に思う様、
「・・・・・去(い)ぬる頃、衣手は我を漫(そぞ)ろに疑って、足元を見送りなんど、口さがなく咎(とが)めしかど、彼女は却(かえ)って、謀反人なる戸隠山の黒姫らと忍びやかに交われり。今、此の事を訴え申せば、かねては褒美の定めあり。此は思い掛けも無く、金の蔓(つる)にあり付いたり。仕合わせ良し」とうなずいて、文も財布もそのままに、奪い盗りつつ足早に、見返り見返り立ち去りけり。

 さる程に螻蛄平は、その夜、亥(い)中の頃おいに、ようやく酒の酔い醒めて、慌(あわ)てふためき身を起し、懐を探り見るに我が銭財布も文も無し。「こは、そもいかに」と、驚き憂(うれ)いて、独りつらつら思う様、
「・・・・・金は失うとも惜しむに由無し。返事の文を落としては、立ち帰って言い訳あらず。いかにすべき」と胸を痛めて、ようやくに思案を定め、飛ぶが如くに道を急いで、村の宿所へ帰りしかば、▼衣手これを労(ねぎら)って、「いかに、返事は来ずや」と問うに、螻蛄平答えて、
「さん候。かの三人の姉御たちは斜めならず喜んで、返事を参(まい)らせんと云われしかど、それがしそれを押し止めて、只今返事をたまわって路に不慮の事あらば、後悔そこに絶ち難し。此の十五夜に来まする事の相違だに無く候わば、口上にてこそしかるべけれと、かくの如くに申せしかば、しからばそなた良き様に、伝えてくれよと云われたり」と、誠しやかに云いくろむれば、衣手しきりにうなずいて、
「そちは我が父の時よりして、家の事を任せられしが、果たしてかかる才覚あり。いみじく計らいける者かな」と、ひたすら誉めて止まざりけり。

とかくする程に、十五夜になりければ、黒姫、今板額、女鬼らは、その夕暮れより山を下り、共に衣手が宿所に来にければ、衣手これを、東面(おもて)の奥座敷に迎え入れ、用意の酒肴を置き並べ、様々にもてなして隈無き月を賞する折から、水内(みのうち)の目代、縄梨氏内(なわなしうじない)、軍兵を数多(あまた)引き連れ、衣手が宿所を取り巻いて、
「戸隠山の謀反人、女鬼、黒姫らの三人。今宵、此の所にある由を、訴人(そにん)あって確かに知れり。早く絡め捕って渡せば良し。異議に及ばば家内の者まで、一人も残さず縛めん。いかに、いかに」と呼ばはったり。
 黒姫、今板額、女鬼らは、その声を遙かに聞いて、
「事既に、ここに及べり。早く我々に縄を掛けて、目代に渡したまえ。巻き添えせられたまうな」と云うを、衣手聞きあえず、
「いかでかは、さる事をせん。逃(のが)るべくは共に逃(のが)れ、逃れ難くば、共に死なん。しばらくここに待ちたまえ」と云いかけて、走りいで、物見の窓を押し開き、
「人々聊爾(りょうじ/失礼)※したまうな。わらわが家に黒姫らを、匿(かくま)ったる覚え無し」と云わせもあえず、氏内はからからとうち笑い、
「やをれ、衣手陳ずるな。証人はそこに在り」と指さす辺りに、木こりの横七、したり顔に進み出て、
「去ぬる夜、かの黒姫らが汝(なんぢ)に送る返事の文を、かようかようの事により、図らず我が手に入たれば、逃れる道は無し。覚悟をせよ」とぞ罵りける。
 衣手これを聞きあえず、そのまま内に走り入り、螻蛄平を呼び近づけて、
「汝は掛かる事や有りしか。さぁさぁ云え」と責められて、螻蛄平、今は隠すに由無く、
「その夜、道に酔い伏して、返事の文を失いし、事のおもむきしかじか」と、初めて白状したりしかば、衣手怒りに耐えずして、
「主を欺く不忠の痴(し)れ者。観念せよ」と息巻きながら、懐剣(かいけん)ひらりと引き抜いて、只一討ちに螻蛄平を、ばらりずんと斬り倒し、再び物見の窓に立ち、氏内にうち向かい、
「事、既に顕れたれば、今は早、是非に及ばず。黒姫らの三人を絡め捕って、出しはべらん。囲みを少し退けたまえ」と呼ばはりながら身を固め、太刀を横たえ薙刀を脇挟み、家の四方へ火を掛けさせて、煙の内より斬っていづれば、黒姫、今板額、女鬼らも、太刀抜きかざして皆遅れじと、多勢が中へ割って入り、縦横無碍(じゅうおうむげ)※に斬って回れば、寄せ手の大勢辟易(へきえき)して、討たれる者ぞ多かりける。
※聊爾(りょうじ):①失礼なこと。ぶしつけなこと。②軽はずみなこと。
※縦横無碍(じゅうおうむげ):妨げるものがなく、自由自在である・こと(さま)。

 その事の体たらく、叶うべくも見えざれば、氏内は馬を飛ばして、命の限りに落ち失せけり。激しき四人が働きに、横七は驚き恐れて引き返して逃げんとしつつ、衣手に斬り伏せられて、二つになって死んでけり。
 衣手は思い掛けなく、水内の討っ手に取り囲まれ、難に望んで仮初めにも逃れる事を欲(ほり)せざる。男魂あるをもて、止む事を得ず、先に進んで討っ手の多勢を斬り散らし、黒姫、女鬼、今板額ら諸共に、家内(やうち)の(ぬひ)を引き連れて、戸隠山へぞ落ちたりける。

 かかりし程に、黒姫らは、恩に応えて義を思い、▼衣手を敬(うやま)いつつ、日毎のもてなし浅からず。しかれども衣手は、心にこれを喜ばず、つくづくと思う様、
「・・・・・我が身は元、これ一村の長たる者の娘にして、犯せる罪は無かりしに、人に誠を失わじと、思うばかりに大方なる罪人となりにたり。さればとて、今更に謀反人の群れに入って、世に汚(けが)れたる業をせんやとばかりにして、なかなかに立ち帰るべき家も無し。我が師なりける綾梭殿は、甲斐の武田に身を寄せると、予(かね)て云われし事あれば、かの地にこそ在るべけれ。尋ね行ってともかくも、身の成行きを頼まばや」と、ようやく思い定めしかば、遂に黒姫らに別れを告げて旅の用意をする程に、黒姫、女鬼、今半額らは、等しくこれを押し止めて、
「姉御、何とて慌(あわただ)しく、甲斐へ赴かんとしたまうぞ。願うはここに留まって、浮世を安く送りたまえ。我々今より御手に付いて、砦を譲り参らすべし。もし又、不義の行ないを嫌いたまう事あらば、木を樵り、衣を織り紡(つむ)いでも、諸共に世を渡るべし。まげて此義に従いたまえ」と言葉を尽くして止めれども、衣手は既に早や思い定めし事なればとて、些(いささ)かも聞き入れず、
「この所まで、従い来つる(ぬひ)らは、寄る辺無き身となりぬ。彼らが事は、ともかくも宜しく頼み参らする」とねんごろに、その意を述べて、早や発ちいでんとしたりしかば、黒姫らは別れを惜しんで、その日は様々にもてなしつつ、金一包みを贈りけり。
 かくて衣手は、その明けの朝未(ま)だきより、戸隠山の砦を出て、忍んで甲斐へ赴くにぞ。らは名残を惜しみあえず、黒姫、女鬼、今板額ら諸共に、麓の野辺まで送りつつ、涙を流して別れけり。

 ああ、衣手は心映え、男にも稀(まれ)なるべき世に潔き勇婦なりしに、図らずも罪を醸(かも)して万里の旅路に彷徨(さまよ)う事、そもそも何かの業因ぞや。
 これしかしながら、その昔、かの古塚を暴かれたる、代々に名だたる傾城の、その亡き魂の性を引き、彼女と生まれ、これとなりたる因果をここに果たすなるべし。さる程に、衣手は夜に宿り日に歩み、その長月の半ば頃、武田家の城下(しろした)なる甲斐の府中に着きにけり。

 ここは国主の城下とて、市街の賑わしきに、山もて包める繁華の地なれば、軒を並べし商人(あきにん)の種々(くさぐさ)なるその中に、と見れば、道の巷(ちまた)の方辺に、尻掛けの床几を二つ三つ置き並べ、御休憩所(おいこいじょ)と記(しる)したる行灯(あんどん)を柱に掛けて、煎じ茶を売る家あり。衣手そこに立寄って、床几に尻をうち掛けて、汲み出す茶を飲みながら、茶店の母(かか)にうち向かい、
「此城中に、去年(こぞ)の頃、都より来ましたる▼綾梭と云う婦人は在らずや。¥剣術、柔術(やわら)を良くしたまえば、隠れはあらじ。いかにぞや」と問われて、母(かか)は頭を傾け、
「この城内なる女中たちに、剣術、柔術の良きもあり、力の強きも少なからねど、さる名の女中は知らずはべり」と、事なれ顔に答える折から、肥太り色黒き大女の年は三十路(みそじ)ばかりなるべし。
 八丈絹の格子縞なる小袖二つ三つ重ねたる、上には同じ縞柄(しまがら)の羽織を着て、繻子(しゅす)※の帯を、脇の辺りに結び下げ、髪の結び様、何くれとなく、異風の扮装(いでたち)したる者、この茶店に立寄って床几に腰を掛けしかば、茶店の母(かか)は会釈して、茶を汲みて出だしつつ、衣手を見返って、
「この女中は城内にて、かようかようの方様なり。只今、問わせたまいし事をも、良く知りて御座(おわ)すべけれ」と云うに、衣手は頷(うなず)いて、床几を離れて小腰を屈(かが)め、
「いと卒爾(そつじ)には、はべれども。わらわは遙々(遥々)信濃路より、人を尋ねて来つる者なり。都より来ましたる綾梭と云う女中は、城中には御座(おわ)さずや」と問われて、その大女も床几に片手を付きながら、忙わしく会釈して、
「その綾梭と云う女中は、わらわも予ねてその名を聞きぬ。そは筑井氏の娘にて、女武者所に召されしに、亀菊に憎まれて遂に都を逃れたる、綾梭殿の事なるべし。近頃、人の噂するを聞きたるに、その綾梭は若狭なる武田殿に在りと云えり。武田は一つ家なれども、甲斐と若狭に分かれて在り。御身は若狭へ行かずして、この地を尋ねたまいては、絶えて逢瀬のあるべからず」と云うに、衣手うち案じて、
「さては思い違(たが)えしなり。武田と聞きしを心あてに、若狭か甲斐かと問わざりしは、いと浅はかにはべりにき」と、しきりに後悔したりしかば、大女は微笑んで、
「そは今更に悔やんで詮無し。今つらつらと見はべるに、御身も又、世の常の女中には在るべからず。苦しからずば名乗りたまえ」と問われて、衣手は辞するに由なく、
「今は何をか包みはべらん。わらわは戸隠山の麓、女郎花村(おみなへしむら)の長の娘にて、衣手と呼ばれはべり」と名乗るを聞いて大女は、思わず横手をはたと打ち、
「さては近頃ここらまで、世の風聞に聞こえたる、浮潜龍衣手殿にて御座(おわ)せしよな。わらわは国主の母君様に、仕え奉りし端(はし)た者ではべりしを、母君亡くなりたまいし後は、宮仕えを辞し参らせて、城の長屋に一人居(を)り、見られる如き武骨者。十六七の時だにも、色も香も無き者なれば、人あだ名して花殻のお達(はながらのおたつ)とは呼ぶぞとよ。縁無くば、いかにして御身とここで面を合わせん。なお語らうべき事もあらんを、此所は端近※(はしちか)なり。いざ諸共に立ちたまえ。行って一献酌(く)むべきに」と、割なく袖を引き立てれば、衣手も又、喜んで立ちいでんとする時に、お達は後辺(あとべ)を見返って、
「茶代は、明日又来る時に、我が身一緒に置くべきぞ」と云うを、女房は聞きあえず、
「何かは茶代に及ぶべき。戻りにも又、寄らせたまえ」と答(いら)えて、やがて見送りけり。
※端近(はしちか):①縁側など外に近いこと ②浅はかで軽率なこと

 かかりしかば衣手は、花殻のお達に誘(いざな)われ、行く事▼五六町にして、いと広やかなる巷(ちまた)の辺(ほとり)に、力持ちの技をして、大太刀を抜き、薙刀を回しなどして、香具(こうぐ/香道具)を商う女あり。
 立ち混みたる人の後ろより、何ごころ無く覗いてみれば、初め衣手が居合の師なりし、人寄せの友代と云う者なり。これにより衣手は、やがてその名を呼び掛けて、ほとり近く立ち寄りつつ、別れし後の恙(つつが)無きを、互いに寿き祝するを、お達はうち見て声を掛け、
「友代、わらわはこの姉御を伴って、青善(あおぜん)へ赴くなり。おことも共に行かずや」と云われて、友代は小腰を屈(かが)め、
「そはしかるべき事にこそ。わらわは楊枝、歯磨きを、今少し商って、後より参りはべらん」と答えて、再び諸人に、物を売らんとする程に、お達は待ちわび苛(いら)立って、
「友代、行くなら早く行け。此の人々も何事ぞ。物をば買わで、いつまでか立ち竦(すく)みになるやらん。日の短きを知らずや」と、大声上げて睨(にら)み散らせし気色に、群集は肝を潰して、皆散り散りになりしかば、友代は是非無く物片付けて、方辺の茶店に預け置き、お達、衣手とうち連れだって、青善楼(あおぜんろう)へおもむきけり。

 そもそもお達は、その始め、国主の母君に仕えし時、安達(あだち)と呼ばれし端た者なり。彼女あくまでに力あって、三斗の米を張りたりし立ち臼を、あちこちと持ち運ぶを自在なり。それのみならず、朝夕に、棕櫚(しゅろ)※の箒(ほうき)を持ち、おのずから棒の手を手練して、一家中の武士だにも、及ぶ者無きに至れり。国主は此由を聞きたまいて、
「今、都には院の御所にて、女武者を召されると承る。云わんや武家に於いてをや、取り立てほとり近く召し使わん」と宣(のたま)いしを、安達は固く辞し申して、なお、そのままでありけるに、母君亡くなりたまいし時、武田殿は惜しませたまいて、安達に身の暇(いとま)をたまわらず、
「しかるべき家中の武士に、嫁らせてたまわるべし」と仰せくだされたりけれども、安達はこれさえ辞し申して、
「かく我ままなる気質なるに、顔形の人並みならねば、生涯人の妻としもなるべくは思いはべらず、御側近く召し使われし、女中たちにはべりなば、仕えし君の菩提の為に、尼法師ともなりはべらんに、いと末々(すえずえ)なる者なれば、それさえ許させたまはぬなるべし。所詮、御館(みたち)の外様に在りて、一期を送りはべらまし」と思い入りて願いしかば、武田殿は感じたまいて
「誠に奇特(きとく)の者なれば、彼女が願いに任せよ」とて、城の内に宿所をたまわり、
「宮仕えする女子共の、武芸を心掛けんと思う者には、手鎌、寄棒、居合の技を教えよかし」と仰せられて、月毎の扶持米(ふちまい)、衣服の料まで、あて行われたりければ、安達は達(たつ)と名を改めて、城外にいで歩くに、異風の装束(いでたち)なりければ、人皆これを知らざる者無く、市街(いちまち)の悪戯者も、全てお達に怖(お)ぢはばかりて、喧嘩口論まれなれば、武田殿喜びたまいて、彼女が漫ろにいで歩くを、いささかも咎めたまわで、全てその意に任せたまうに、お達はその性(さが)騒がしくて、一日も籠もり居(を)る事得ならず、又、只、酒を好みしかば、酔うたる事は常なれども、さりとて過(あやま)ちある事無ければ、男勝りの大女とて、その名は高く聞こえけり。
※繻子(しゅす):繻子織りにした織物。 ※棕櫚(しゅろ):ヤシ科の常緑高木。

 これはさて置き、お達はその日、衣手、友代を伴って、青柳町の橋詰なる青善と云う酒楼におもむき、数多の酒肴をいださせて、人に勧め我も飲み食いなどするに、お達はその身の事を物語り、衣手は又、戸隠山なる黒姫、女鬼、今板額らが事のおもむき、▼我身は義により誠を感じて、討っ手の大勢を斬り散らし、戸隠山にも留まらず、遙々ここまで来つる由を、少しも包まず告げにければ、お達はひたすら衣手が人の為に難を思わず、その家をさえ失いし心栄えをぞ感じける。

 かかる所に、隣座敷に人在って、泣く声しきりに聞こえにければ、お達はたちまち興を醒まして、手底(たなそこ)を鳴らしつつ、この仕出し屋の小者を呼んで、
「我が身、客人(まれびと)を伴い来て盃をすすめるに、汝達(なんたち)は何の為に、隣座敷に人を泣かせて、酒宴の興を醒まさせたる。わなみを女と侮りてか。その訳聞かん」と息巻けば、小者は手を擦り、頭を掻いて、
「御腹立ちは道理(ことわり)なり。彼は日毎にここに来て、お客方の招きに応ずる色子にて候が、心に悲しむ由もあれば、うち泣きたるにやあらんずらん。童に等しき者なれば、無礼は許させたまえかし」とひたすらに詫びしかば、お達は聞いて、うちうなずき、
「そは、その色子は何かの故に、深く悲しむ事あるやらん。とくこの所へ押し出して、わらわに見せよ」と急がすにぞ、小者は一議に及ばずして、心を得てぞ退きける。

 かくてしばらく待つ程に、年十四五なる美少年と六十路(むそじ)余りある老女(おうな)とが、淑(しと)やかにいで来たりて、お達らにうち向かい、
「お客様方、お揃いにて、よくこそ居らせたまいぬ」と、云いつつ頭を下げしかば、お達は間近く呼び寄せて、
「おことらは、いかなる悲しみあって、声うち立てて泣きたるぞ。その訳包まず告げよかし」と云われて、婆は目を押し拭(ぬぐ)い、
「わらわは鎌倉の者にはべるが、これなるは一人子にて、優之介(やさのすけ)と呼ばれたり。幼き頃より田楽(でんがく)※の芸能を習わせて、世渡りしてはべりしに、いささか障(さわ)る事あって、鎌倉を立ち退き、この地の縁(ゆかり)を心あてに、親子遙々来たれども、縁の人は去年(こぞ)の冬、世を去りにきと聞こえしかば、又、鎌倉へ立ち帰らんと思う折から、図らずも、わらわは俄かに病み患って、長き旅寝に多くもあらぬ路用を使い果たしたり。
※田楽(でんがく):農耕行事に伴う歌舞から起こり、平安中期から流行した芸能。

 しかるに、ここより程遠からぬ、海老根橋のほとりなる塩物問屋に、貝那(かいな)と云えるは後家持ちの商人にて、その後見(うしろみ)をする男を、代野介兵衛(だいのすけべい)と云えり。さて、かの貝那は先つ頃、童田楽(わらべでんがく)の金主※をするに、一人の太夫不足なり。優之介を抱えんとて、その談合(だんごう)に及びしかども、その事遂に成就せず、しかるに貝那は、優之介が給金百両の手形を書かせて、金をば未だ渡さざりしに、既に金は渡せしとて、責め徴(はた)る事大方ならず。
※金主(きんしゅ):興行や事業などに資金を出す人。金方(きんかた)。銀主。

 いと口惜しく思えども、優之介は年まだゆかず、わらわは女の事なるに、元より此の地は旅にして、相談相手となる者無ければ、今更、誠空言(そらごと)を云い諦むる事叶わず、只その負い目を償う為に、日毎にここの座敷を借りて、優之介が糸竹(いとたけ)の調べを当座の便宜(よすが)にて、来たまう客主を慰めつつ、いささかなる花をたまわり、その半ばを旅籠(はたご)の料とし、その半ばを百両の利息に貝那に渡せども、もし一日でも後に遅れれば、責め徴(はた)られて耐え難し。しかるに此両三日は、させるお客の無きにより、貝那にいたく徴(はた)られて、いかなる辛き目をや見んと、思う苦労の胸に満ち、打ち嘆きてぞはべりしが」と云えば、又、優之介も
「只今、母の申せし如く、由無き嘆きに声を漏らして、御機嫌を損ねしは、大方ならぬ過ちなり。許させたまえ」と諸共に、詫びつつ、涙にかきくれけり。

 お達は、是を聞く程に、憤(いきどお)りに耐えずして、思わずも吐息を付き、
「おことら、心を安くせよ。事の皆、我が身に引き受け、志す方へ発たせん。いづこを宿にして居(を)るぞ」とねんごろに尋ねれば、親子は喜びひれ伏して、
「もししからんには、再び生きる御恵みにこそはべるなれ。ここよりは五丁目なる、寝倉屋(ねぐらや)宿六(やどろく)と云う旅籠屋を宿にしてはべる」と云う。
 その時、お達は懐ろより、金三両をいだしつつ、衣手を見返って、
「我は今日、ちとばかりの呉服物を買わんと思って、持ち合わせしはこれのみなり。御身の路用を貸したまえ。明日は必ず返すべし」と云うに、▼衣手うなずいて、
「そはいと易き事なり」とて、小判十両取り出して、脇取り盆の上に置きぬ。
 お達は又、友代に向かって、「そなたも少し貸せ」と云えば、友代は渋き顔をして、僅かに金弐分を渡せしかば、お達はこれを投げ返して、十三両を一つにしつつ、優之介親子に取らせ、
「おことら、これを路用にして、明日は此地を立ち去れかし。夜も明ければ旅宿へ行って、わらわが見立てて発足させん。今より心構えをして、わらわを待ちね」と懇(ねんご)ろに諭(さと)せば、親子は伏し拝んで、喜び勇み、人々に暇乞いして忙わしく、旅宿へとてぞ退きける。

 お達はしきりに、かの事の腹立たしきに耐えざれば、再び小者を呼び寄せて、僅かに残せし小粒二つを、紙に捻(ひね)って投げ与え、
「今日、持ち合わせは、これのみなり。足らずば宿所へ取りに来よ」と、云うに小者は受け戴いて、「これでは余り候はん」と云うをばよくも聞かずして、「いざ」とてやがて立ち上がれば、衣手、友代も諸共に、続いて下屋へ降り立ちつつ、門より各々(おのおの)引き別れて、衣手は旅宿へおもむき、友代はおのが出張りする元の巷(ちまた)へ急ぎけり。

 かくてお達は明けの朝、優之介らが旅宿(りょしゅく)する寝倉屋へ行って見るに、その親子は予ねてより、旅立ちの用意をしつつ、宿銭などもその宵の間に、残り無く主人(あるじ)に渡して、密かにお達を待って居(を)れば、忙わしく出迎えて、その厚恩(こうおん)の喜びを述べるをお達は聞きあえず、「そは益(やく)も無き口義なり。さぁさぁ行きね」と急がすにぞ、優之介は母親諸共に草鞋(わらじ)の紐(ひも)を引き結んで、暇乞(いとまご)いしていでんとするに、主人の宿六驚いて、慌ただしく押し止め、
「御身親子は、なまよみ屋に百両の負い目あり。しかるを他国へ放ちやっては、我その祟(たた)りを逃れ難し。その金の済むまでは、何処(いづこ)へかやるべきぞ」と、言葉せわしく息巻いて、引き戻さんとしてければ、お達は眼(まなこ)を怒らして、
「その百両は、わらわが返さん。かくても聞かず止(とど)めるか」と、睨(にら)み付けたる勢いに、宿六は思わずも後ずさりをする、その暇に、優之介らは走り去って、相模路指して急ぎけり。
 お達は心にかの親子を、遠く走らせんと思うをもて、店先に尻を掛け、いつまでも出でて行かねば、宿六はその由を、貝那に告げんと思えども、お達がここに居(を)るをもて、その事も叶わねば、気をのみ揉んで時を移すに、正午(まひる)の頃になりしかば、お達は良き程なるべしと、思えばここを立ちいでて、又、なまよみ屋へおもむきけり。

 折から、貝那は店に居(を)り、只今お達が来つるを見て、忙わしく小腰をかがめ、
「お達様、珍(めずら)かに何の御用で来ませし」と問えば、お達は
「さればとよ、奥方様の御用あり。塩鮪(まぐろ)の血合い無き所を、一升(ます)ばかり賽(さい)の目に、よく刻んで参らせよ」と云うに、貝那は心得て、男妾(おとこめかけ)の介兵衛に切らせんとしたりしを、阿達は急に押し止めて、
「否(いな)、余の人の切りたるは御用には立ち難し。そなた刻んで参らせよ」と云うに、貝那は止む事を得ず、自(みずか)ら鮪を細かに刻んで、大きなる竹の皮、三つばかりに包み重ねて、渡すをお達は引き下げて、
「これのみにては、なお足らず。塩鮪の血合いばかりを、よく刻んで参らせよ」と云うに、貝那は呆れ果てて、
「などてさのみは、戯(たわむ)れたまうぞ。鮪の血合いを何にかせん」と一言返せば、又一言、言葉の争い募(つの)りしより、貝那はお達にいたく打たれて、遂に命を落としたる。
 その絵を右に著(あらわ)すのみ、なおその事のおもむきは、又、此次に説きわくべし。絵組の他に物語ある、心を付けて見たまえかし■      

<翻刻、校訂中:滝本慶三 禁転載 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>

傾城水滸伝 初編 之四

2013-01-11 17:37:22 | 初編
けいせいすいこ傳 初編第四
馬琴作 豊国画 仙鶴堂梓

貝那は、そうなく★鮪(まぐろ)の血合いを、切らんともせざりしかば、お達は眼(まなこ)を怒(いか)らして、
「などてや、刻んで参らせぬ。上の御用を知らずや」と声荒立てて、「さぁさぁ」と催促するに、詮方無く貝那は血合いを細かに刻(きざ)み包んで、「いざ」とて渡せしかば、阿達はこれをも引き下げて、
「また、この他に望みあり。塩鮪の骨ばかり、一升刻んで参らせよ」と云うに、貝那はむっとして、
「などてや、さのみ戯れたまうぞ。上の御用を権にきて、強請(ゆす)りに来たか」と呟(つぶや)けば、お達はこれを聞きあえず、
「強請りに来たとは誰が事ぞ。おのれら如き衒妻(げんさい/卑しい女)※に、戯(たわむ)れ云うとも誰が咎(とが)めん。今一言返してみよ。返事をせずや」と罵(ののし)ったる、怒りに耐えず引き下げし鮪をはたと投げ付ければ、貝那は目面(めつら)を痛く打たれて、包みは解けてあちこちへ。散り乱れ飛ぶ塩鮪の血合い。才覚もいでばこそ、貝那も今は堪(こら)えかねて、
「おのれ、尼めが何するぞ」と息巻きながら脅しの包丁を閃(ひらめ)かし、打たんと進むを、お達は得たりと引き外し、刃(やいば)を丁と打ち落とし、怯(ひる)む所を胸倉(むなぐら)掴(つか)んで塩物台の片隅へ、早や押し付けて動かせねば、介兵衛「あなや」と驚き騒いで、引き離さんとて立ち寄るところを、お達は右の足を飛ばして、たちまちはたと蹴たりしかば、介兵衛は金玉を蹴られて、「あっ」と叫びもあえず後ろ様(ざま)にぞ倒れける。

 これより先に、宿六は、優之介(やさのすけ)親子が事を、早く貝那に告げんとて、この店先まで来たれども、お達がここに来て居(を)れば、そうなくは入りかねて、塩物俵(たわら)を楯(たて)にして、此の有り様に驚き恐れて、立ちも得去らず息もせで、▼なおも様子をうかがいける。
 その時、お達は声振り立てて、
「貝那、手並みは知りつらん。汝に罪咎(つみとが)数多あり。貧しき者に銭を貸して、利を貪(むさぼ)ること甚(はなは)だしく、徴(はた)る(催促)※事も酷(ひど)ければ、遂に子を売り家を失い、路頭に立つ者少なからずと世の風聞(ふうぶん/噂)に聞こえたり。それのみならず近き頃、優之介親子を強(し)いて貸しもせぬ、百両の負い目を負わし、利息を徴(はた)って、彼ら親子に難儀を掛け、かの身の油を絞り取りしは、これ上も無き非道ならずや。且つ、汝は数にも足らぬ、商人の後家にして、甲斐の城下に在りながら、なまよみ屋※と家名したるは、身の程知らぬ僭称(せんしょう)※なり。 かくまで犯せる罪咎の、天罰思い知らせん」と、罵り攻めたる拳(こぶし)を固めて、眉間をはたと打ちしかば、鼻血たくたくと流れ伝って、蘇芳(すおう/赤紫)※の徳利を倒せし如く、目の玉高く飛びいでて、壁より落つる蝸牛(かたつむり)に似たり。
※なまよみ:甲斐国の枕詞。※僭称(せんしょう):身分を超えた称号を勝手に名乗ること。

 貝那は既に大力に胸倉を取り詰められて、息も絶え入るばかりなるに、今、又、眉間を痛く打たれて、いかでかはたまるべき。たちまち「うん」と仰(の)け反るところを、お達はなおも怒りに任して、続けて三つ四つ打ちしかば、脆(もろ)くも息は絶えにけり。

 阿達もこれに驚いて、
「此衒妻(げんさい)めが、術(じゅつ)なきに空死(そらし)にをしたればとて、誰かはそれを誠にすべき。此由を訴え申して、明(あか)さ暗さを立つべきぞ。覚えていよ」と罵りながら怯(ひる)まぬ様に歩みいでて、やがて宿所に帰りしかども、心の内は安からで、独りつらつら思う様、
「・・・・我が身一時の怒りに任せて、貝那をうちも殺せしは、女に似気無き過(あやま)ちなり。さればとて、彼女らが為に下手人(げしゅにん)とならんは口惜し。只、速(すみ)やかに難を逃れて、又、ともかくもならばや」と、心ひとつに思案をしつつ、ちとの路用(ろよう)を腰に付け、早くも逐電(ちくでん)したりける。

 さる程に、寝倉屋の宿六は、阿達がいでて行くを遅しと、その事の体たらくを辺りの人に告げ知らせて、諸共に呼びいくるに、貝那は眉間を打ち破られ、目の玉さえに飛びいでて、死に絶えたれば術(すべ)も無し。介兵衛は、ようやく息を吹き返し、お達が事のおもむきを、又、人々に説き示し、さて宿六を証人にて、国守(こくしゅ)へ訴え申しけり。

 されば又、甲斐の国主の武田殿は、この訴えを聞きかたまいて、密かに思いたまう様、
「・・・・その達は、力強くて男魂ある者なるに、酒を貪(むさぼ)る癖あれば、さる過(あやま)ちをしいだしつらん。誠に不慮の事なりき」と、心に哀れみたまえども、さてあるべきにあらざれば、「まづ早や、喧嘩の相手なる達を絡めよ」とぞ仰せける。

 これにより市の司なりける、跡部今之進(あとべいまのしん)は承って、組子をお達が宿所へ使わし、絡め捕らせんとしたりしに、お達は既に逐電して行方知れずと聞こえしかば、この詮索に日を送りて、事果つべくもあらされば、介兵衛は恨み憤(いきどお)り、
「相手が身内の女なれば、行方の知れぬを幸いに、贔屓(ひいき)の沙汰をせられるならん。所詮、鎌倉へ赴(おもむ)いて、愁訴(しゅうそ)※をせん」とぞ息巻きける。
※愁訴:同情を求めて訴えること。

 こと今更に、私(わたくし)にうちも置くべき由の無ければ、武田殿よりしかじかと鎌倉へ聞こえ上げて、公沙汰(おおやけざた)に任せらる。さるにより、鎌倉の執権(しっけん)北条義時(よしとき)主の下知として、▼早や国に触れ流し、お達が行方詮索の事厳重にぞなりにける。

 かかりし程に、花殻のお達は甲府を出でしより、さして行方は定めねど、足に任せて走りつつ、行き行って近江なる大津の宿を過(よ)ぎる折、札の辻とか云うほとりに、新たに掛けし高札(こうさつ)あって、見る人数多佇(たたず)めり。
 「こは何か」と思うにぞ、お達もそこに立ち寄って、笠押し上げて仰ぎ見るに、元より無筆なりければ、何の故(ゆえ)とも知る由無きを、人に問うのはさすがにて、なおつくつくと見る折から、たちまち後ろに人あって、
「お花女郎、うかうかと何してござる」と呼び掛けながら、背中を叩く者ありけり。
 阿達はこれに驚いて、忙わしく見返れば、この人はこれ、思い掛け無き優之介が母親の葉山(はやま)なり。こはいかにと問わんとするを、葉山は目交ぜ(めまぜ/目配せ)※で押し止めて、人無き所へ伴いつつ、辺りを見返り、声を潜(ひそ)まし、
「お達様、いかなれば身をも思わで大胆なる。あの高札は、御身が行方を尋ね求める人相書きにて、絡め捕って参らせば、百貫文の褒美銭をたまわらんとある下知文(ふみ)なり。さても危うい事なりき」と云うにお達は初めて悟って、
「さては、我が身の上なりけり。わらわは、去ぬる日、そなた衆を発たせし後も怒りに得耐えず、かようかようの事により、貝那をうちも殺せしかば、罪を逃れる由の無さに、その日甲府を立ち去って、行方(ゆくえ)定めぬ旅人となってここらを過ぎるなり。さてもそなたは、いかなれば、鎌倉へ帰らずして、この地に居(を)る事やらん」と訝(いぶか)り問えば、
「さればとよ★。わらわ親子は過ぎし頃、そなた様の大恩にて、鰐(わに)の顎門(あぎと/あご)※を逃れしより、鎌倉へおもむく折、幾程も無く道にして、故郷(ふるさと)人に行き会うたり。さてその人の云われしは、遊芸をもて世を渡らんには、鎌倉へ帰らんより都の方こそ便り良かめり。我も商いの為、遙々と都へおもむかんとする折なり。いざ伴わん」と云われしかば、遂にその意に任しつつ、この大津まで来て杖(つえ)を留め、都の便宜(びんぎ)を求める程に、ここより一二里上方(かみがた)なる、山科(やましな)の片ほとりに、百倉長者(ももくらちょうじゃ)と呼ばれたまう、家富み栄える郷士(ごうし)あり。その長者は近き頃、顔形良き少年の小鼓(こつづみ)に妙(たえ)なる者を、童小姓に求めたまうとて仲立ちする者あるにより、幾程もなく優之介は、百倉殿に参り仕えて、不便(ふびん/寵愛)の者にせられたり。しかるに大津と山科の間(あわい)にて、近江と山城の国境を追分の里と云う。かの追分に百倉殿の別荘のはべるなる。されば長者は優之介を寵愛のあまり、わらわが事さえ世に頼もしく聞こえさせて、母親の世に在らん程は、豊かに養(やしな)い得させんとて、追分の別荘をわらわ親子に守らせて、折々通いたまうのみ。優之介は、はかばかしき奉公と云う事も無く、母さえ豊かに暮らす事、百倉殿の恵みなれども、始めをおせば御身の大恩、いつの世にか忘れはべらん。追分へは程近し、優之介にも対面して、長途(ちょうど/長旅)の疲れを休らえたまえ」と、涙ながらの身の上話に、他事無く袖を引き立てて、かの別荘へぞ伴いける。

 お達は思い掛け無くも、由ある人に巡り会い、その有り様を再び見つ、その物語りを聞くにつけ、実(げ)にも葉山が身の回り、甲斐の旅宿に在りし日の、やつれし体(てい)に似るべくも無く、「・・・・さてしも人の行く末ばかりは、予ねて得知られぬものなりき」、と心の内に感嘆しつつ、伴われつつ行く程に、早や追分の里に来にけり。
 巷(ちまた)より南の方に、一町ばかり引き入りたる冠木門(かぶきもん)※の一構えは、これ百倉が別荘なり。 
※冠木門:笠木を柱の上方に渡した屋根のない門

葉山は先に進み入り、
「優之介は御座(おわ)さずや。大恩人の来ませしに、さぁ出迎えたまえ。やよなうなう(もしもし)」と呼び立てれば、優之介は忙わしく、玄関めきたる所なる小障子を押し開いて、お達をうち見て、且つ驚き、且つ喜んで走りいで、
「こはそも、神の導きにてや。よくこそ遙々来ましたれ。いざ」とて奥へ伴って、親子右より左より、そのもてなしは浅からず、
「我々親子がかくまでに、世を安らかに送る事、そなた様の御恩によれり。しかるに御身は人殺しの罪人となりたまいし事、この里までも隠れ無く、百貫文の褒美をかけて、今、公(おおや)けより尋ねたまうを聞くに付けても、胸苦しさは短き言葉に尽くし難し。主にて御座(おわ)する百倉殿にも、予ねて御身が心栄(こころば)え、我々親子が大恩を受けたる事のおもむきを、忍びやかに告げ申せしに、富みたる人には御座(おわ)すれども、男気のある性なれば、しきりに感じ哀れんで、「哀れそのお達とやらんが、ここらへ来つる事あらば、ともかくもして匿(かくま)うべし」と、世に頼もしく宣いき。かかれば密かにかの方様に、御身に巡り会いぬる由を告げ参らせば、大恩を返す縁(よすが)となりもやせん。まづ寛(くつろ)いで語らいたまえ」と、代わる代わるに慰めて、肴を整(ととの)え、酒を温め、二階座敷へ席を設けて、もてなし大方ならざれば、お達はうかりしこの頃の、旅寝(たびね)の疲れを忘れるまでに、杯を傾けて、かの日は胸のもやくや(もやもや)※と、なお憤(いきどお)りの治まらねば、なまよみ屋へおもむいて、思わず貝那をうち殺したる、その体たらくは、かようかようと始め終わりを物語れば、優之介も母親も、肝を潰してその勇力を、しきりに驚嘆(きょうたん)したりける。

 かかる所に表の方に、俄(にわ)かに数多の人音して、「盗人(ぬすびと)女を逃がすな」と下知する声と諸共に、捕(と)り手か勢子(せこ)か六七人、「承りぬ」と答えもあえず、二階を目掛けてむらむらと打ち昇らんとぞ犇(ひしめ)いたる。
 お達は早くこれを見て、
「さては、我が身の上の事なりけり。いで打ち散らして逃れ去らん。物々しや」と云いもあえず、方辺に在りける銚子を掴(つか)んで、礫(つぶて)に打たんと立ち上がるを、葉山は急に押し止め、
「逸(はや)って過(あやま)ちしたまうな。あれは主屋(おもや)の人々なり。定めて事の訳あらん。まず待ちたまえ」と云いかけて、走り下りつつ表に立ちいで、捕り手の大将めきたる人に、「何事やらん」と囁けば、又、かの人も囁いて、打ち笑うまで心解けけん。手の者どもを退かせ、葉山と共に内に入りぬ。
 その時、葉山は忙わしく、元の二階へ上り来て、
「お達様、心安かれ。来ませし人は別人ならず、優之介が主なりける百倉の君なりけり。小鳥狩りの帰るさ(途中)に、この別荘へ立ち寄らんとしたまう折、供に立ちたる人々が早くも御身と優之介が、酒盛りするを仰ぎ見て、しかじかと告げしかば、百倉殿がいぶかって、さては優之介が鎌倉に在りし時、馴染みの客なる後家などが、都上りの折を得て、立ち寄りたるにあらんずらん。そはともあれ、かくもあれ、人の秘蔵の美少年を、我が者顔に遊び戯れ、我が別荘を踏み荒らすは憎むべき痴(し)れ者なり。詮索せよと下知したまえば、若き供人勇みたち、ひしめきたるにはべるとよ。しかるにわらわがしかじかと、主に囁き申せしかば、且つ笑い且つ喜んで、共人らを押し止め、彼らをばこと如く、山科へ帰したまいつ、百倉殿只一人、御身に対面すべしとて、下座敷に御座(おわ)するなり。気使いたまう事ならず」と言葉せわしく▼説き諭せば、阿達は聞きつつうち微笑んで、
「さては間違いなりけるか。由なかりき」と襟(えり)かき合わせて、元の座席に着く程に、百倉長者は静々と箱梯子(はこばしご)を昇り来て、阿達に向って慇懃(いんぎん)に、
「予ねてその名は隠れ無き、優之介らが恩人なる花殻殿にて候よな。それがしは百倉なり。御身が武芸に優れたまえる男魂ある由は、これなる親子の物語りに伝え聞いて候いき。しかるに御身は彼らが為に、罪人となりたまいし事、心苦しき限りなり。それがし一重に優之介が男色(なんしょく)に惹かれる故(ゆえ)に、かくの如く云うには非(あら)ず。身不肖には候えども、義の為には財を惜しまず、多く得難き義女と知りつつ、ちとの助けにならざらんや。ともかくもして匿(かくま)わん。この地に留まりたまえ」と云う、人の誠の大方ならぬに、お達は喜び感激して、計らず葉山に巡り逢ったる、この日の事をぞ物語る。

 かくて又、百倉長者は葉山親子に心を得させて、肴を添え杯を改め、さらにお達をもてなす程に、早や黄昏(たそがれ)になりにけり。その時、長者はお達に向かって、
「この所は大津へ近く街道へも程遠からねば、隠れ家によろしからず。かかれば今宵、山科なる我が母屋へ伴うべし。御身が心、いかにぞや」と問えば、お達は一議に及ばず※、
「我が身は網を漏れたる魚なり。いかでか住処(すみか)を嫌うべき。ともかくも」と答えしかば、百倉はその夕暮れに密かにお達を伴って、山科の宿所へ帰りぬ。
※一議に及ばず:議論するまでもなく。相談するまでもなく。

 しかれども、お達は姿むくつけき、よしや義勇の女なりとても、身近く置くのはさすがにて、女子部屋のほとりなる一間を起き伏しの所と定めて、朝夕は妻に預け、百倉は昼の程、酒肴を用意させて、日毎に自らお達をもてなし、武芸勇力の物語に、をさをさ興(きょう)を催(もよおす)す折から、優之介は母親諸共、追分の里より来て、主の百倉に囁く様、
「先の日、君が別荘へ立ち寄らせたまいし時、女を絡めて詮索せよとて、供人に下知したまいしに、又、故も無く押し止めて、かの人々をばそのままに、主屋へ帰したまいしを▼辺りの者が垣間(かいま)見て、疑(うたが)わしくや思いけん。さしたる用も無き者が、問い訪ねる事もあり、ある日は背戸(せど)よりうそうそと、奥を覗(うかが)う事もあり、油断のならぬ人心、此所さえ嗅ぎ付けなば、事の災い図り難し」と告げるをお達もうち聞いて、
「さては早や人が知りつらん。しかるをここに忍び居て、長者一家を巻き添えせば、後悔そこに立ち難からん。日頃の恵みは忘れる時無し、。再会は只、天に任せて、速(すみ)やかに立ち去るべし」と云いつつ帯を結び添え、早や発ちいでんとしたりける。

 お達は人を巻き添えさせじと思えば、急に身拵(みごしら)えして、暇乞いして出んとするを、百倉長者は押し止めて、
「さのみは先を急ぎたまうな。甲斐一国の沙汰にはあらで、今鎌倉より国々へ残る隈無く触れ示されし、御身が行方の詮索は、いづこの浦とて安穏なるべき。さるを知りつつ放ちやりなば、優之介親子は更なり、それがしとても義に背く、心にこころ良しとせんや。それがし一つの謀り事あり。御身を遠くやらずして、追捕の沙汰を逃るべし。なれども御身の気質にて得心(とくしん)無くば詮方無し」と云うを、お達は聞きあえず、
「我が身は死すべき罪人なるに、幸いにして事無くは何をか否み嫌うべき。まづ、試みに打ち出して、説き示したまいね」と答えて元の座に返れば、百倉長者は喜んで、
「その一議は別事にあらず。この所より程遠からぬ、白川の山中に龍女山無二法寺(りゅうにょさんむにほうじ)と云う尼寺あり。これはこれ鳥羽の院の御時に、待賢門院(たいけんもんいん)の御願所として、七堂伽藍(しちどうがらん)の大寺なり。
 保元、平治の乱れより、坊寮なども退転(たいてん/修行を怠る)とて、すこぶる衰えたりし時、故あって我が祖父の百倉太夫と云いし者、伽藍を再興しつるにより、今それがしに至っても第一の檀越(だんえつ/檀家)なり。しかるに我が母が世に在りし時、父祖九族の菩提(ぼだい)の為に、一人の女子を剃髪させて、かの無二法寺の尼に成さんと、思い起こせし事ありながら、その人を得ざりしかば宿願も空(むな)しくなりにたり。御身、今、かの寺におもむいて、剃髪して尼とならば、追捕の沙汰を逃るべく、我も又、亡き世の宿願を果たす喜びあり。かかれば、萬(よろず)の料足(りようそく)は、それがし全て賄(まかな)うべし。この義に従いたまわんや」と問われて、お達は一議に及ばず、
「そは我が予ねての願いなり。初めより武田殿の御母君に仕えしに、母君亡くなりたまいし時、御菩提をも▼得ともらわざりしは、身の賎(いや)しきによりてなり。されども一生不犯(ふぼん)★にして、人の妻とはなるまじけれと思い定めし事なれば、誠に勿怪(もっけ)の幸(さいわ)いなり。ともかくも計らいたまえ」と云うに、百倉喜んで、俄かに度牒(どちょう/出家証明)※、袈裟(けさ)、衣(ころも)、布施物(ふせもつ)までも用意しつつ、次の日、お達を一挺(てい)の乗り物にうち乗せて、その身も等しく乗り物にて、供人数多に用意の品々、布施物なんどをかき担(にな)わせて、無二法寺にぞ、おもむきける。
※不犯(ふぼん):異性と交わらないこと

 かくて早や、山門近くなるままに、予て案内したりしかば、無二法寺の知客(しか/接待役)の尼、両三人の比丘尼(びくに)達を引き連れて、門内まで出迎えて、まづ時候(じこう)を述べ、安否(あんぴ)を尋ねて、さて客殿へぞ誘(いざな)いける。
 その時、お達はあちこちと、その風景を見返るに、十六間の本堂には丈六※の観世音(観音様)を安置して、七間の経堂(きょうどう)あり、六角の輪蔵(りんぞう)あり、五重の塔は雲を貫き、一滸(いっこう)の池水は、影さえ見えていと清し。
 いわんや、又、霞み込めたる学寮には、無明(むみょう)の酔いを醒ますべく、蓮の糸繰る織殿には、当麻寺(たいまでら)の昔も偲ばるる。時知り顔に咲く花は、松、檜(ひのき)の間(あわい)を彩り、友呼び交わし鳴く鳥は、迦陵頻伽(かりょうびんが)※もありやと思わる。とうとうたる滝の糸、爛漫(らんまん)たる藤葛(かづら)。かれは白妙これは紫、いづれか糸を乱さざらん。まことにこれ奇麗、壮観、目を驚かす大寺なり。
※丈六(じょうろく):仏像の大きさ。一丈六尺(4.85m)。
※迦陵頻伽(かりょうびんが):①想像上の鳥。極楽にいて、美しい声で鳴くという。上半身は美女、下半身は鳥の姿をしている。②美しい芸妓。また、美声の芸妓。

 されば住持の尼法師は齢(よわい)六十余りにして、妙真大禅尼(みょうしんだいぜんに)と称せらる、道徳無双の知識なり。今日しも当山第一の檀那(だんな)なる百倉長者が参詣の由、その聞こえありしかば、方丈に招き入れて、茶をすすめ、菓子をすすめ、いとねんごろにぞもてなしたまう。その時、百倉は膝を進めて、
「それがし、今日の参詣は別義にあらず。召し連れたるは従姉妹(いとこ)めにて、初めの名を安達と云えり。二親早く世を去って、兄弟も短命なりき。親同胞(おやはらから)の菩提の為に、尼にならん事を願えり。それがし即(すなわ)ち施主となって、諸事(よろず)を賄(まかな)い候わん。御弟子と成し下されて、御寺に留め置かれなば、此上も無き幸いなり。この義、御許容あるに置いては、今日(けふ)しも吉日、良辰(りょうしん/吉日)※なり。剃髪の儀を仰せ付けられ下さるべし」と述べ終わり、数多の布施物を取り出して、うやうやしく参らせれば、妙真禅尼はうなずいて、
「大檀那の所望と云い、年若き身が世を厭(いと)いて尼にならんと願わるは、真に殊勝の事なりかし。さらばまず、その用意をせん。小座敷におもむいて、齋(とき)※を参って休息あれ」と、容易(たやす)く請け引きたまいしかば、百倉長者はお達と共に、小座敷に退きつつ、人無き折を見合わせて、お達が耳に口を差し寄せ、
「御身、今この無二法寺の弟子となって、教えを受ける身を持ちながら、我等と同じく押し並んで、住持の禅尼に向かっても、頭も下げず横柄なるは片腹痛き事なりかし。今より萬(よろず)に慎んで、同宿の比丘尼達に笑われたまうな」と囁けば、お達は「実(げ)にも」とうなずいて、これより後は、百倉が後に付いてぞ居たりける。
※齋(とき):僧侶や修行者が戒に従って、正午前にとる食事。時食。おとき。

 これはさておき、知客の尼、その夜、年老いたる比丘尼五六人、密かに住持のほとりに参って、
「今日、剃髪の願いを許されたる、お達とやらん云う女を見はべるに、身の丈高く色黒く、眼(まなこ)つぶらに肥え太り、▼世の常ならぬ面魂の立ち振る舞いさえ無骨なり。かようの女子を出家させて、当山に留めたまわば、遂にいかなる災いを引きいださんも計り難し。御思案あらま欲(ほし)けれ」と、言葉ひとしく申すにぞ。妙真禅尼は聞きあえず、
「人は形によるものならず。よしや醜き女子なりとて、その剃髪を許さずば、今第一の檀越なる百倉長者が恨みやせん。さる時は寺の為によろしかるべき事にはあらず。我まず彼女が行く末を考え見ん」と宣いつつ、香を焚き、秘文(ひもん)を唱え、しばらく定(じょう)に入り※て、又、比丘尼達に示したまう様(よう)、
「彼女は古(いにしえ)世に名だたる傾城の再誕なり。先の世の業因にて、今は仕合せ悪けれど、行く末必ず仏果※を得つべし。後に思い合わするを、待つこそ良けれ」と示したまう。
※定に入る:精神を統一して何事にも気持ちを動かされない境地に入る
※仏果(ぶっか):仏道の修行によって得た仏の境地。

 かくて早や時刻にもなりしかば、鐘を突かせ、太鼓を鳴らせば、数多の尼達整々(せいせい)と、本堂に集うにぞ。百倉長者は衣服を改め、お達を引き連れ、本堂に進み入り、香を焚き、仏を拝み、更に住持に敬礼して、設けの席に着きしかば、一百余人の比丘尼達、二側に並び立ち、合掌、礼拝、規律を守って、鉦鼓(しょうこ)を鳴らし、整々と経読む声ぞ澄み渡る。

 かくて二人の稚児が進み出て、お達を高座のほとりに誘(いざな)い、膝まつかせたりければ、介添えの尼が立ち寄って、お達が練りの帽子を脱がせ、髻(たぶさ)を解いて、あちこちと、分かちて九つにわがね(束ね)しかば、剃り手の比丘尼は後ろより、剃刀を手合わせして、お達が黒髪剃り落としぬ。
 その時、妙真禅尼は高座に在って、偈(げ)を唱(とな)え、すなわちお達に法名を、妙達(みょうたつ)と授けたまい、まづ三帰(さんき)をぞ示したまう。
「すなわち、三帰は帰依僧、帰依仏、帰依法、これなり。又、五戒を授けたまう。いわゆる五戒は、一に殺生する事なかれ、二に盗みをする事なかれ、三に色欲邪淫を慎め、四に酒を飲む事なかれ、五に虚言(そらごと)を云う事なかれ」と、いと厳(おごそ)かに示したまうに、お達は剃られし黒髪の今更に惜しければ、ひたすら頭(かうべ)を撫で回し、云われる事が耳に入らねば、介添えの尼、方辺より、「よくすや、否や申さずや。これなうなう」と教えるにぞ、阿達はようやく心付き、「呑み込みました」と答えしかば、皆々思わず吹き出して、しばし笑いが絶えざりけり。

 かくて法縁こと果てければ、百倉長者は比丘尼達に布施を引き、喜びを述べ、住持に別れを告げ申して、山科へとて立ち帰るに、妙達の新尼(にいあま)は、知客の尼達諸共に、山門のほとりまで▼送りけり。その時、百倉は妙達を方辺に招いて、
「御身、既に頭を剃って、仏の道へ入りたれば、昨日までのお達にあらず。万事(よろづ)我侭(わがまま)を慎んで、姉弟子たちに疎(うと)まれたまうな。我又、折々食物と衣服を送り使わすべし。堅固(けんご)に修行したまえ」とねんごろに教訓して、別れて山をぞ下りける。
 かくて同宿の比丘尼達は、妙達を学寮に伴い、朝夕の勤めを指南して、ひとつひとつを教えれども、妙達はよくも聞かず、只うそうそと立ち歩き、ある日は欲しいまに昼寝して、我儘(わがまま)にのみ振る舞えば、同宿の尼、気疎(けうと)く思って、妙達を呼び覚まし、
「全て女子は起き伏しに、行儀を慎むものぞかし。まして尼法師たらん者は、智慧を磨いて、かの岸へ至るべき工夫にのみ暇(いとま)無き者なるに、昼寝する事やある。いと漫(そぞろ)※なり」と恥しめるに、妙達は聞いて頭をもたげ、
「我もそこらの工夫をせんとて、心を鎮めて居(を)るものを、妨げすな」と腹立てば、同宿の尼はうなずいて、「良きかな、良きかな」と讃えしを、妙達はなお呟(つぶや)いて、
「我等は薪を割りには来ず。斧(よき)を尋ねて何にかせん。知らず知らず」と答えしかば、皆々どっと笑いけり。これのみならず妙達は、学寮の後ろにいでて、小便を垂れ散らし、無礼大方ならざれば、監主の尼達こらえかね、住持に訴え申せども、妙真禅尼は取り上げたまわず。結句(けつく)※比丘尼ばらを、なだめたまえば、さては禅尼の片押しに、彼女をのみ引きたまうとて、憤(いきどお)りに耐えねども、又、詮方も無かりけり。
※漫ろ(そぞろ):心のおもむくまま。 ※結句(けっく):とどのつまり

 かくて早や、五六か月を送る程に、神無月の初めとなって、小春の空の暖かなれば、或る日、妙達は山門のあなたなる腰掛けに立ち出て、独り風景を眺めるに、冬の日は影の短くて、七つ下がりになりにけり。かかる所に麓の方より
「燗酒、燗酒、黒麦(くろむぎ)」と、二声(ふたこえ)三声(みこえ)呼びながら、荷桶(におけ)と箱蒸篭(はこせいろ)様の物を担いだる一人の商人(あきにん)、石坂を昇り来て、山門のほとりに休みぬ。妙達はこれを見て、つくづくと思う様、
「・・・・我身、甲斐の府中に在りし日は、日毎に巷(ちまた)にいで歩き、酒を飲まざる事無かりしに、百倉長者が我をすすめて尼法師と成せしより、一滴も酒を得飲まず、生臭物は目にも見ず、気力衰え骨離れして、口中空しく糞水を流すのみ。云わんや又、近頃は、百倉長者が疎々(うとうと)しくて、煮染(にしめ)一重贈られねば、喉を潤す手段(よすが)も無し。良き物来たり」と喜んで、かの商人を招き近づけ、
「おことが売るは酒なりとか。二合半(こなから)ばかり温めて、蕎麦切りも、さぁ持て来よ」と云うに、商人呆れ果て、
「御身は未だ知らでやをわする。この御寺の尼達は、酒を飲む事を許されず、それがしは只、門番の下男、飯炊き掃除の男たちに、これらの酒を売れるのみ。もし尼達に売る時は、御寺より咎めを受けて、世渡りを成し難し。その故(ゆえ)を、いかにとなれば、それがしは、この麓なる寺領の内の借家に居(を)り、商いの元手まで、この御寺より貸したまわりて妻子を養う者なるに、今この酒を御身に売らんや。嬲(なぶ)りたまうな」と呟けば、妙達いよいよ好も(ま)しくて、
「それらの謂(い)われ在りとても、此所には人も無し。誰が見咎め、誰に告ぐべき。さぁさぁ酒を飲ませよ」と、云うを商人聞かぬ振りして、早や立ち去らんとする程に、妙達こらえず、つと寄って、腕(かいな)をしかと取り止めれば、商人は大力に二の腕を取り詰められて、「痛し、痛し」と叫びもあえず、引き離さんともがくにぞ。妙達は「左(さ)もこそ」と、向かう様に突き放せば、三間余り消し飛んで、しばしは起き得ざりけり。
 その暇に、妙達は荷桶に在りし、三つ四つの徳利を手早く取り出して、手酌に茶碗へ傾け傾け、幾杯となく飲みければ、片荷の酒は一と雫も、残さぬまでに飲み干したり。
 その時に燗酒売りは面をしかめ、膝を摩(さす)って、ようやくに身を起こすを、妙達は見返って、「酒の値は明日取らせん。寮まで取りに来しかし」と云うをば聞かで、商人は忙わしく荷をかき担(にな)い、
「いかでか酒の値を取るべき。忘れてもこの事を人に沙汰ばしたまうな」と云いつつ、やがて石坂道を、麓路指して馳せ下りぬ。
 その時、妙達は後ろ影を見送って、からからとうち笑い、なおあちこちと徘徊しつつ、半時ばかり過ごす程に、酒の気、次第に湧き上り、いたく酔いたる癖なれば、よろよろひょろひょろとして、足の踏む所を覚えず、既にして入相(いりあい)の鐘、かうかうと鳴る頃に、▼裳裾(もすそ)を掲(かか)げ腕まくりして、やや門内へ入らんとするを、門番うち見て大きに驚き、慌(あわ)てふためき、両三人が走りいでて押し止め、
「汝も此御寺に居(を)れば、寮毎に掛けられたる法度書きは読みつらん。五戒を破り、酒を飲む尼法師のあるならば、袈裟衣を剥ぎ取り、追い出すべしとなり。しかるに、今食らい酔いて帰り来つる汝を許して内へ入れなば、我々が落ち度となる。後日の咎めを逃れ難し。さぁさぁ足の向く方へ立ち去らずや」と息巻いて、追い出さんとしたりしかば、妙達猛って眼(まなこ)を怒(いか)らし、
「小賢(こざか)しい破戒呼ばわり。我酔って我帰るに、汝ら何の落ち度があらん。妨げすな」と罵って、掻(か)き分け張り退け、よろめき進む。勢い当たり難ければ、一人は走り行って、監主の尼にかくと告げ、二人は棒を突き立てて、なおも入れじと支えれば、妙達はますます怒って、やにわに棒を引きたぐり、滅多打ちにぞ打ち散らす。さる程に、監主の尼は、門番の知らせによって、驚き騒いで、あちこちより下部共を呼び集め、「破戒の比丘尼、妙達を捕り鎮めよ」と下知する程に、妙達は早や門番を、東西へうち走らせたる、勢いに任しつつ、学寮指してよろめき来つれば、同宿の比丘尼達、あわやとばかり恐れ立って、押し合いへし合い逃げ迷い、蔵の内へと閉じ篭るを、妙達はなお逃がさじとて、蔵の網戸を打破り進み入らんとする程に、下部共は妙達が武芸力量あるのを知らず、酔って狂うと思うのみ。追っとり込めて押さえんとて、皆むらむらと立ち寄る所を、妙達はおっとおめいてかい掴(つか)んでははたと投げ、或るいは蹴散らし張り飛ばす。女に似気無き勇力、早技、叶うべくもあらざれば、只蜘蛛の子を散らすが如く、皆八方へ逃げたりける。

 この時、妙真大禅尼は、二人の小比丘尼を従えて、渡殿のほとりに立ちいで、
「妙達、などて騒ぎ狂える。無礼なせそ」と制したまうに、妙達は酔いたれども、禅尼なりと見てければ、たちまちに跪(ひざまず)き、
「先には、わらわ徒然(つれづれ/退屈)の余り、門外へ立ち出て、ちとの酒を飲みたれども、無礼とてはせざりしに、監主、同宿、故も無く、下部共をかりもよおして、絡め捕らんとしつるにより、事のここに及べるなり。よくよく察したまえかし」と、陳ずる舌も回らねば、禅尼はにっこと微笑んで、
「例え言い分ありとても、我に免じて堪忍(かんにん)せよ。さぁさぁ退(まか)りて休みてよ」と寄らず障らず、宥(なだ)めたまうに、妙達はなおくどくどと、繰り返しつつ呟(つぶや)くにぞ、禅尼は侍者(じしゃ)の尼を呼び、彼女を臥所へ伴わせ、ようやく無事に静まりけり。

 かかりし程に監主の尼は、同宿の比丘尼と共に、数多禅尼のほとりに参って、妙達が無礼を訴え、
「始めよりかの者を寺に差し置きたまわん事は、よろしかるまじき由を申せしかども、禅尼が聞き入れたまわずして、遂にこの騒ぎに及べり。今、追い出したまわずは、またまたいかなる災いを、引き出さんも計り難し」と言葉ひとしく申しけり。禅尼はこれをうち聞いて、
「我、先にも云いつる如く、彼女は前(さき)の世の業因にて、とかくに口説(くぜつ/言い争い)ありと云えども、遂には仏果を得つべき者なり。何事も大檀那なる百倉長者の面に愛でて、まづ此度は許せかし」と答(いら)えて、取り上げたまわねば、監主、同宿は目を見合わせて、只これ禅尼の片贔屓(かたひいき)ぞと、思うものから詮方も無く、あざ笑いつつ退きけり。
 かくて明けの朝、齋(とき)も既に果てし頃、禅尼は侍者の尼をもて、妙達を呼ばせたまうに、妙達は未だ起きず、しばらく覚めるを待つ程に、妙達ようやく目を覚まし、むっくと起きて、学寮の後ろへ走り行きしかば、侍者の尼らは驚いて、後ろに付いてうかがうに、妙達は背向(そがい/後ろ向き)に立って、着物の尻を摘(つま)み上げ、長小便を垂れにけり。
 侍者(じしゃ)は笑いを忍びつつ、元の所へ帰るを待って、しかじかと告げしかば、妙達は衣を打ち着て、方丈へ参るになん。禅尼は近く▼招き寄せ、
「先に我、おことが為に五戒を授けて、酒を飲む事なかれと云いしに、おことは昨夜、酔い狂い、蔵の網戸をうち破り、下部共に怪我をさせしは、尼法師の所業に非ず。我もし百倉氏の面に愛でずば、追い出すべきものを」と、苦々(にがにが)しげに叱りたまえば、妙達は謝り入って、
「以後を慎みはべるべし。許させたまえ」と侘びしかば、禅尼は彼女が愚直を哀れみ、しばらく方丈にはべらせて、斎(とき)を食わせ、なお此の後を戒めて、学寮へ返したまいぬ。

 これより後の物語りは、第二編に著(あらわ)すべし。又来ん春を待ちたまえ。
 そもそもこの草紙は、水滸伝を取り直して、女の上に綴(つづ)り成せば、差し支(さしつか)える事のみ多くて、いと為し難き戯作なり。水滸傳を諳(そら)んじたる人々の、こは、かの小説に等しくて、珍し気無しと云われんは、作者の苦心を得知らぬなるべし。唐土(もろこし)ぶりの物語りを、ここの女に書き換えたる、細工は流々(りゅうりゅう)仕上げまで見て、御評判を願うのみ。目出度(めでた)し、目出度し■   

<翻刻、校訂中:滝本慶三 禁転載 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>