以下は翻刻・現代訳の作業途中のものでルビも読みにくいので、是非、PDF版をご覧ください。
傾城水滸伝(けいせいすいこでん) 初編第壱
曲亭馬琴著 歌川豊国画
乙酉(きのととり/1825年)孟春第一版
通油町鶴喜新鐫
世は、平安の黄昏頃、鳥羽院の御后(おきさき)の美福門院(びふくもんいん)と申し奉(たてまつ)る御方は、御容姿の麗しき事、宝石をも欺(あざむ)くべく、御才知の高き事、男にも勝りたまえり。
されば、帝(みかど)の御寵愛(ごちょうあい)は、世に比(たぐ)うべき者もあらず、折に触れて政治(まつりごと)さえ任せたまいしかば、この時、女謁(にょえつ)※、内奏(ないそう)※とて、位を上げ、司を授け、あるいは民の訴えを聞こし召す事までも、全て御后の御口入れにて定めさせたまうにより、その御后に仕(つか)え奉(たてまつ)る女官達すら、自(おの)ずから権威を振るい、公卿衆(こうしゃくしゅう)、殿上人(てんじょうびと)をも者の数とせず、我がままに振る舞いければ、卑しき者の諺(ことわざ)に、「女、賢(さか)しうして、牛売り損なう」と云うにも似たる事の多かりしとかや。
※女謁:女が寵愛を利用して頼みごとをすること。 ※内奏:内密に天皇に奏上すること。
時に、永久元年(1113年)春、弥生の頃、帝はいささか御悩(ごのう/ご病気)によって、暫く政治を聞こし召さず。その間、可及の事を御后の決断に任せたまう程に到り、例え摂政、関白なりとも、その役に男は憚(はばか)りありと、皆その妻を召さりけり。
しかるに、この頃、五畿内※に時疫(ときけ・疫病)の病が流行し、死する者の多かりければ、名僧、智識(指導者)に勅(みことのり)して、加持祈祷を尽くさせたまうが、させる効験(しるし)も無かりしかば、この事はいかがあるべきとて、重ねて詮議せられけり。
※五畿:京都周囲の山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国の称
時に、関白の藤原忠道公の北の方、井手の政所(まんどころ)が進み出て、聞こえ上げたまう様(よう)、
「今、この疫病(えやみ)を払いはべらんに、例えば比叡山(ひえいざん)、三井寺(みいでら)の名僧もその効験(しるし)無く、廿二社(にじゅうにしゃ/神社の社格の一つ)の神々も感応霊験(かんおうれいげん)※の無き上は、熊野へ勅使(ちょくし)を立て、那智の室長寺(むろおさでら)の住持(じゅうじ/住職)なる無漏海(むろかい)を、京(みやこ・以下都)へ招いて、祈り祓(はら)わせねば、などか効験(しるし)のあらざるべき。そもそも熊野の山聖女(やまひじりめ)の無漏海は、昔、一条院の御時(980-1011年)に、周防(すおう/山口県)の国の室積(むろつみ)なる傾城(絶世の美女)の長(おさ)なりき。
※感応:仏の働きかけと、それを受け止める人の心 ※霊験:神仏などが示す不可思議な力
しかるにその頃、書写山(しょしゃさん)の性空上人(しょうくうしょうにん)は、ある時、夢想(夢)のお告げにより、室積に赴(おもむ)いて、その長(おさ)に見(まみ)えたまうに、長は酒をすすめ、宿をとり、「室積のみたらいに、風は吹かねども、ささら波立つ、あら面白や」と歌いけり。その時、上人が目を閉じたまえば、不思議なるかな、長が姿は普賢菩薩(ふげんぼさつ)※となって現れ、「実相無漏(じっそうむろ)※の大海に、五塵六欲(ごじんろくよく)※の風は吹かずと云えども、随縁真如(ずいえんしんにょ)※の波立たぬ時無し」と聞こえけり。
※普賢菩薩:仏の悟り、瞑想、修行を象徴する菩薩。白象に乗った姿で表される。
※実相無漏:万物の真実の姿は、迷いを離れた清浄の境界(きょうがい)にあるということ。
※五塵六欲:五塵:五塵は塵のように人の心を汚すもと。色、声、香、味、触の五境。
六欲:色欲、形慾(容貌)、威儀姿態慾、言語音声慾、人相慾、細滑慾(美肌)
※随縁真如:絶対不変である真如が、縁に応じて種々の現れ方をすること。
★「実相無漏・・・・・波立たぬ時無し」謡曲「江口」:諸國一見の僧が都から津(三重)の国天王寺への途中、江口の里に来て遊女江口の君の旧跡を弔い、西行法師が昔ここで宿を断られた際に詠んだ歌である「世の中を厭うまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな」と口ずさんでいると、そこへ女が現れて、「それは一夜の宿を惜しんだのではなくて、この世も仮の宿であるから、それに執着しないようにと忠告したまでのこと」と弁解していたが、黄昏時になって「実は、私はその江口の君の幽霊です」と言って消え失せた。その後、旅僧が奇特な思いで弔っていると、江口の君が他の遊女達と一緒に舟に乗って現れ、遊女の境遇を謡ったり、舞を舞って見せたりしていたが、やがて江口の君の姿は普賢菩薩と変わり、舟は白象となって、白雲に乗って西の空へ去って行った。
上人が又、目を開きたまえば、長は元の姿となり、歌う事始めの如し。かかれば、この長は普賢菩薩の化身なりとて、上人は随喜(ずいき)の涙を流して、書写山へ帰りたまいぬ。
その後、長は世を厭(いと)うて、熊野の山へ分け登りぬと、風の便りに聞こえしかば、▼上人は急いで都に上り、事の趣(おもむき)をしかじかと確かに奏聞(そうもん)ありしかば、帝の御感(ぎょかん/天皇が感心すること)は浅からず、よって那智の麓に一座の尼寺を御建立ましまして、長を開基(仏寺を創立すること)に仰(おお)せ付けられ、無漏海仙尼(むろかいせんに)と云う道号を賜(たまわ)りしより、既に早や、御世(みよ)は一百二十余年の久しきに及べども、無漏海仙尼の御容姿は、いささかも衰えず、いと健やかにて御座(おわ)する由、熊野の者は申すなり。
されば、かの尼寺を室長寺(しっちょうじ)と号する由は、室積の長と云う文字を取らせたまえりと伝え聞いてはべりにき。されば、女文字(ひらがな)に軟らげて、むろをさでらとも書きはべり。
かかる般若(権者?)★の寺にしはべれば、都へ招き寄せ、疫病(えやみ)を払わせたまわんに、などか奇特※のあらざるべき」と、故事(ふるごと)をさえ引き出して、聞こえ上げたまいしかば、美福門院は感じ思(おぼ)し召して、
「さらば、使いを遣わせ」とて、立木の局(たつきのつぼね)を勅使(ちょくし)として、熊野の山へぞ遣わしたまう。
※奇特:①言行や心がけなどが褒めるに値するさま。②非常に珍しく、不思議なさま。
さる程に、立木の局は、数多(あまた)の供人にかしずかれ、次の日、都を門出(かどいで)しつつ、夜に宿り日に歩み、ことさら道を急がせて、熊野の那智の麓なる室長寺に着きしかば、当代住持の尼法師は数多の比丘尼(びくに)を引き連れて、鐘を鳴らし香を焚き、山門の外に出て、勅使を迎え奉(たてまつ)り、先に立って案内(しるべ)をしつつ、客殿に座を設け、大方ならずもてなし(接待)けり。
さる程に立木の局は、住持の尼に打ち向かい、
「わらわ此度、都より遙々と来つる由は、すなわち后(きさき)の仰せを受けて、無漏海仙尼を迎えん為なり。その故は斯様(かよう)斯様(かよう)」と、事の趣(おもむ)きを述べ知らせ、
「かの尼聖(あまひじり)は、何処(いずこ)に御座(おわ)する。何故に自らここらに出て、対面したまわぬぞ」と訝(いぶか)り問えば、住持の尼は、
「さればとよ★、無漏海聖は、昔、此山に隠れたまいしより、麓へは下りたまわず。元より五穀※を絶ちたまえば、霞(かすみ)を飲み、露を舐め、或る時は西に在り、又、或る時は東に居ませば、この山の中ながら、その住所だに定かならぬに、よしや后の御使いなりとも、いかで自らここまで出て対面したまうべき。君、もし聖を請いすすめて、都へ伴わんと思いたまわば、只(ただ)一筋に信心して、独りで熊野山に分け登り、尼聖を訪ねたまえ。もし、些(いささ)かも、不信心の心を起こしたまいなば、絶えて対面叶うべからず。御慎みこそ肝要ならめ」と、懇(ねんご)ろに説き示せば、局は「実(げ)にも」と頷(うなず)いて、その夜は一夜さ物忌(ものい)み※し、次の日の明け方より只一人、熊野の奥へ分け入らんとて、虫の垂れ衣(きぬ)※たれ込めし、笠よ、杖よと忙わしく、野装束(のしょうぞく)に裾壷(すそつぼ)折って、勅書(ちょくしょ)の箱を襟に掛け、おぼつか無くも足引きの山路を指して立ちいずれば、住持の尼は八九人の尼法師を伴って、五六町ほど送りつつ、別れんとする時に、又、懇(ねんご)ろに戒(いまし)めて、
「御局。我が尼聖に訪ね会わんと思いたまわば、驕(おご)り高ぶる心を持たず、信心を怠(おこた)りたまいそ。一心誠に叶い◆?たまわば、遠からずして、尼聖に目見(まみ)えたまうべきにこそ」と、返すがえすも戒めて、やがて寺へぞ帰りける。
※五穀:米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)を指すことが多い
※物忌(ものい)み:神事のため、ある期間、飲食・言行などを慎み、心身の穢れを除くこと
※虫の垂れ衣:市女笠(いちめがさ)に苧麻(からむし)で織った薄い布を長く垂らしたもの。
かかりしかば、立木の局は心細くも只一人、馬手(めて/右手)には、▼手香炉(てごうろ)をくゆらせて、弓手(ゆんで/左手)に水晶の数珠(じゅず)を爪繰(つまぐ)り、口に六字の名号(みょうごう)を、間無く時無く念じつつ、九十九折(つづらおり)なる山路(やまみち)を、辿(たど)り辿りも登る程に、僅(わず)かに十町余りにして、ようやく★に疲れしかば、心しきりに苛立(いらだ)って、
「さても、いかなる報(むく)いにて、かく辛き目に会うやらん。わらわは大内(おおうち/皇居)に在りし日は、仮初(かりそめ)の物詣でにも、車に乗らぬ事は無いに、云わんや后の御使いとして、はしたなくも只一人、山路を辿るは何事ぞ」と独り言して行く程に、巌(いわお)の裾なる熊笹が、さやさやさやと鳴るよと見えしに、その様(さま)、牛に等しき大狼が、忽然と走り出て飛び掛からんとしたりしかば、立木の局は「あっ」と叫んで、退(の)け様に倒れたり。
その時、その狼は、紅の舌を長く垂れ、星より輝く眼(まなこ)を怒(いか)らし、しばし局を睨(にら)まえて、前に立ち後に巡り、山彦(やまびこ)に響くばかりの声すさまじく、遠吠えして、何方(いずち)ともなく失せにけり。
立木の局は倒れしより、およそ半刻(はんとき)ばかりにして、ようやく我に返りしかば、頭をもたげ身を起こし、又、手香炉を取り上げつつ、恐る恐る行く程に、いよいよ疲れて立ち休らい、深く住持を打ち恨んで、
「あの、熊野比丘尼(びくに)めが。あくまでわらわを欺(あざむ)いて、猛(たけ)き獣の多かる山に、送りの者をも添えずして、一人使わせし、いと憎さよ。我が身が都に帰りなば、事の由を聞こえ上げ、遂には思い知らせんものを」と、口にくどくど恨みの数々、呟き呟く折しもあれ、山中俄(にわ)かに震動し、行く手の松の茂みより、いと大きなる蟒蛇(うわばみ)が、するするすると這い出して、只、大波の寄せるが如く、立木の局の頭(かしら)を臨(のぞ)んで、既に飲まんとしてければ、局は再び「あっ」と叫んで、生死も知らず伏したりける。
かかりし程に、蟒蛇(うわばみ)は長き紅の舌を出し、局の額を舐め、襟を舐め、しきりに毒気を吹き掛けて、何処(いずこ)ともなく失せにけり。
かくて、立木の局は伏す事、一時(とき)ばかりにして、やや人心地は付いたれど、深く恐れて、これより寺へ帰らんか、なおも聖を訪ねんかと、思い迷って佇(たたず)む程に、女の童(めのわらわ)の声と覚(おぼ)しく、遥かに小歌を唄いつつ、▼此方(こなた)を指して来る者あり。
局は耳をそば立てて、
「・・・・・怪しや。かかる山中に幼き女子(おなご)の声するは、狐狸(きつねたぬき)の業(わざ)なるか」と思えば、襟元ぞっとして、一足も進み得ず。
とかくする程に、早や向かいの木立の隙(ひま)よりして、年十一二の女の童、草籠(くさかご)を負いながら牛を引きつついで来けり。
立木の局はこれを見て、「なうなう(もしもし)※」と呼び止(とど)め、
「そなたはこの山の麓などに居(お)る者か。無漏海聖はいづこに御座(おわ)する。住処を知らば告げよかし」と、云うに、女子は微笑えんで、
「いかでかは知らざらん。わらわは年頃、かの尼聖に使われる者ぞかし。しかるに、聖は先にわらわに宣(のたま)う様、此度は疫病(えやみ)を払わん為に、我が身を都へ召されるなり。かかれば急いで、彼の地へ参(まい)らん。よく留守せよ」と宣いき。思うに聖は鶴に乗って、既に早、今頃は都へ行き着きたまいけん。しかれば御身、今更に、庵を訪ねたまうとも、絶えてその甲斐無きものを」と云い捨てて、又、静々と牛を追いつつ、行き過ぎける。
※なう:もし。もしもし。(呼び掛けに発する)、ああ。おお。(感動して発する)
立木の局は、女の童が答えを聞いて、驚き怪しみ、
「さるにても、無漏海聖はいかにして都より召される事を早くも知って、既にうち発ちたまいけん。実(げ)に、かの聖を普賢菩薩の化身と云うは空言ならず」と腹の内に思案して、そこより麓へ下りつつ、室長寺へ帰りにければ、住持の尼は出迎えて、道の疲れを慰めける。
その時、局は山中にて有りし事を物語り、
「かくも恐ろしき深山(みやま)なるに、などてわらわを欺いて、独り彼処(かしこ)へ遣わせしぞ。わらわもし、運命尽きなば、例え狼に食われずとも、毒蛇の腹に葬られん。后の仰せはこれすなわち勅(みことのり)に異ならず、その御使いは取りも直さず、勅使に等しいわらわなるを、侮(あなど)り欺(あざむ)くうたて(不快)※さよ。もし山中にて、牛飼いの女の童に会わざりせば、留守の庵(いおり)と知らずして、今なお訪ね惑(まど)わんに、幸いにして、かようかようの女子(おなご)に会って、しかじかと云われし事の有るにより、そこより帰り来れり」とて、しきりに恨み憤(いきどお)れば、住持の尼は打ち聞いて、
「御局、さのみな息巻きたまいそ。この山中には、いと猛(たけ)き獣は無きにあらねど、昔より人を害せず。しかるに御身は再びまで、いと危うき目に逢いたまいしは、信心の怠りを聖が懲(こ)らしたまいしなり。思うに、その草刈の女の童と見えたるは、無漏海聖に疑い無し。かの尼聖は、今もなお容姿いささかも衰えたまわず、或る時は二三十なる齢(よわい)とも見え、又、ある時は十二三なる女の子とも見えたまうなり。かくて御身にしかじかと、告げたまいし事あらば、神変自在(しんぺんじざい)※の通力(つうりき)もて、都へ赴きたまいし事、何の疑いはべるべき」と言葉を尽くして、説き諭(さと)せば、局はこれに怒りも解けて、▼勅書をそのまま住持に渡して、一両日逗留せり。
※うたて:①いっそうひどく。②異様に。気味悪く。③面白くなく。不快に。いやに。
※神変:神の霊妙で不思議な変化。また、それを起こす神の不思議な力。
かくて立木の局は、次の日、住持に案内させて、あちこちの霊場を巡り見るに、経堂(きょうどう)の後ろに一宇(いちう)の小堂あり。
戸扉を堅く建て込めて、大きなる錠を下ろし、錠の上には幾つともなく、封印を押したりければ、立木の局は訝(いぶか)って、その事の故(ゆえ)を尋ねれば、住持の尼は進み寄り、
「昔、無漏海聖が衆生済度(しゅじょうさいど)※の大方便(だいほうべん)※もて、周防の国の室積なる傾城長となりたまいし後、当山に隠れたまいし折、万葉集に見えたりし、遊女(うかれめ)※・蒲生(がもう)・土師(はじ)※・婦(おとめ)・末ノ珠名(すえのたまな)※・狭古(さふる)らを始めとして、世々に名だたる傾城(けいせい)の人の妻と得ならずして、苦界(くがい)※の中にて果てたる者の、亡き魂(たま)の宙宇に迷うを、ことごとく封じ込めて、一つの塚に築かせたまいぬ。されば世上にこの塚を、傾城塚と呼び成したり。
※衆生済度:迷いから救済し、悟りを得させること。※方便:人を導くための便宜的な手段。
※遊女(うかれめ):歌舞で楽しませたり、売春する女。遊び女。 ※蒲生(がもう):
※土師(はじ):埴輪等の土器を作ることを司った人。 ※婦(おとめ)
※末ノ珠名(すえのたまな):万葉集より以下意訳。「末の珠名は胸が大きく腰細で容姿が良く、どんな男でもすべての財産を投げ打ってでも惹かれてしまう。」
※狭古(さふる): ※ 苦界(くがい):①苦しみ、悩みの多い人間世界②遊女の辛い境遇。
もしこの塚を暴きなどして、その幽魂を走らせれば、世の中に災いあらんと深く戒めたまいしにより、当寺の代々住持たる尼法師が、かくの如く閉ざしに封して、開く事を許さずはべり」と告げるを聞いて、立木の局は、からからと嘲笑(あざわら)い、
「世に遊び女(め)が若死にして、人の妻とならざりしを妬(ねた/憎し)しと思う事あらば、その亡き後を弔(とむら)って成仏させずに、只、悪戯に幽魂を封じると云う事やはある★。これは無漏海の業(わざ)にはあらず、熊野比丘尼が地獄の絵をもて、婆母(ばばかか)どもを脅すに等しき、後(のち)の住持の業なるべし。わらわは今、目の当たりに、その塚を見たく欲す。さぁさぁ開いて見せたまえ」と云うを、住持は押し止めて、
「その事、夢々叶うべからず。御局(みつぼね)もし疑って、傾城塚を開きたまわば、後悔したまう事あるべし。この義は思い止まりたまえ」と、ひたすら諌(いさ)め争えども、立木の局は聞かずして、まずその錠を押し開かせ、進み入りつつ塚を見るに、いと大きなる▼自然石にて傾城塚と彫(え)りたるが、内暗くして定かならねば、松明(たいまつ)を振り照らさせて、なおあちこちと良く見るに、台石なる亀は早や、半身、土に埋もれて、苔むしたる碑の裏に「遇斧而開(おのにあうてひらく)」という四つの文字が彫ってあり。立木の局はかかる使いに立てられし程あって、男文字(漢字)をも諳(そら)んじけん。その四字を読み下して、
「尼達、これをよく見たまえ。斧(おの)に遇(あ)って開くとあり、斧を呼びて断(た)つ木と云えば、斧も立木(たつき)もこれ同じ。かかればわらわ(立木)がこの塚を、今開くべき事の由を、百年(ももとせ)余りの昔より、無漏海聖はよく知って、しかじかと印したまえり。今この下を開いて見ん。さぁさぁ用意をしたまえ」とて、権威に募(つの)る女の猿知恵。
住持はなおも諌めるを、露ばかりも聞かずに、寺男らを呼び集め、遂に石を倒し、台石を取り除かせて、掘る事六尺余りにして、石の唐櫃(からひつ)在りければ、さればこそとて、立木の局は、息をも付かせず下知するにぞ、人夫らは斧(よき)・鉞(まさかり)を持て、力を合わせて石の蓋を、ひたすら打つ程に、遂に蓋を砕けども底は暗くて見え分かねば、立木は松明を照らさせて、よくよく見んとする程に、忽然として天も挫(くじ)け、大地も落ち入る如き音して、穴の内より一道(どう)の黒雲陰々と立ち上り、家の棟をも突き破り、中空(なかぞら)に棚引きつつ、幾筋ともなく光を放って、四面八方に飛び去りぬ。
まさに、これ、後鳥羽院の御時に、白拍子の亀菊を御寵愛ありしより、世の中乱れ、勇婦烈女(ゆうふれつじょ)ら出現すべき、兆しはここに顕れたり。
これにより人夫らは逃げんとして、躓(つまづ)き転(まろ)んで、傷を被(こうむ)る者少なからず、ことに甲斐無き尼法師は、気絶したるも多かりける。その中に、立木の局は、人に先立ち堂内を、命辛々(いのちからがら)走り出て、茫然として居たりしが、面目無くや思いけん。次の日、熊野をうち発って、都を指して帰りけり。
是より先に、無漏海の尼聖は、通力をもて都へおもむき、一人自ら参内(さんだい)し、帝に謁(えっ)し賜り、大内に壇(だん)を設けて、疫病(えやみ)の神を払いたまいしかば、幾程も無く、五畿内なる悪しき病は皆怠(おこた)りて、万民安堵の思いを成しぬ。
かくて無漏海の尼聖は、再び鶴にうち乗って、熊野山へ帰りたまいしとぞ。
およそこの件(くだり)まで、物語の発端なり。亀菊が事は次に見えたり。▼
されば鳥羽院は、在位十六年◆にして、御位(みくらい)を第一の御子(みこ)の崇徳院(すとくいん)に譲りたまい。崇徳院も、又、在位十八年にして、御弟御子、近衛院(このえいん)に譲りたまい。近衛院は在位十四年にして、崩御(かくれ)たまいしかば、この上の御子、後白河院に御位を継がせたまい。
それより二條院、六條院、高倉院、高倉の御子、安徳天皇が西海に沈ませたまいしかば、後白河院の御計らいとして、安徳天皇の御弟の後鳥羽院を御位に付け奉らせたまいにき。
この帝は在位十五年にして、御位を第一の御子の土御門院(つちみかどいん)に譲らせたまいし後も、なお天下の政治(まつりごと)は先例に倣(なら)わせたまいて、院の御沙汰なりければ、順徳院、九条院の御時まで、時の帝は何事も在るに甲斐無くてぞ、御座(おわ)しける。
しかるに其頃、都の東山の片辺(かたほとり)に、亀菊と云う白拍子(しらびょうし)在りけり。年は二八ばかりにして、容姿ことに麗(うるわ)しく、糸竹の技は、云えば更なり。
香・立花(りっか)、萬(よろず)の雅の技までも、一つとして暗からず、しかも又、客を釣り、男を蕩(とら)かす手練(てれん)に長けて、およそ都にありとある、有徳(ゆうとく)※の者の子供、商人の手代なんども、皆これに惑わされて、家を売り、妻子に離れ、身は落ちぶれて、様々に成り行く者多かりければ、その親たる者、主たる者は、深く亀菊を憎みつつ、遂に六波羅(ろくはら)の決断所(けつだんじょ)へ訴えて、彼女を追わん事を願い申せしかば、六波羅にて詮索の後、事皆、亀菊が非分(ひぶん)※に定まりける。
げに、かかる手弱女(たおやめ)を、都の内に在らせなば、風俗の害なるべしとて、やがて追放せられけり。これによって亀菊は、五畿内の内に足を入れる事叶わず、いささかなる知る辺(べ)を頼りに、越後の新潟へおもむいて、縮唐屋四太郎(ちりからやしたろう)と云う、港芸子(みなとげいこ)の見番宿(けんばんやど)※に身を寄せつつ、ここにて三年(みとせ)ばかり送る程に、都には故(ゆえ)あって、俄かに大赦を行われしかば、亀菊も咎(とが)を許され、世の中広くなりにけり。
これにより亀菊は、都へ帰り上らんとて、四太郎に頼みしかば、四太郎らも不憫(ふびん)に思って、縮(ちぢみ)商人の夏兵衛と云う者を語らい、京六条の辺(ほとり)には、四太郎が知る人あれば、その方へとて書状を添えて、夏兵衛と諸共に亀菊を旅立たせ、都へ帰し使わしけり■
※有徳(ゆうとく):徳がある。富んでいる。富裕。
※非分(ひぶん):①身分不相応。②道理に合わないさま。
※検番/見番(けんばん):①遊里で、芸者の取り次ぎや送迎、玉代(ぎよくだい)の精算などをした所。②「検番芸者」の略。
<翻刻、校訂中:滝本慶三 禁転載 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
傾城水滸伝(けいせいすいこでん) 初編第壱
曲亭馬琴著 歌川豊国画
乙酉(きのととり/1825年)孟春第一版
通油町鶴喜新鐫
世は、平安の黄昏頃、鳥羽院の御后(おきさき)の美福門院(びふくもんいん)と申し奉(たてまつ)る御方は、御容姿の麗しき事、宝石をも欺(あざむ)くべく、御才知の高き事、男にも勝りたまえり。
されば、帝(みかど)の御寵愛(ごちょうあい)は、世に比(たぐ)うべき者もあらず、折に触れて政治(まつりごと)さえ任せたまいしかば、この時、女謁(にょえつ)※、内奏(ないそう)※とて、位を上げ、司を授け、あるいは民の訴えを聞こし召す事までも、全て御后の御口入れにて定めさせたまうにより、その御后に仕(つか)え奉(たてまつ)る女官達すら、自(おの)ずから権威を振るい、公卿衆(こうしゃくしゅう)、殿上人(てんじょうびと)をも者の数とせず、我がままに振る舞いければ、卑しき者の諺(ことわざ)に、「女、賢(さか)しうして、牛売り損なう」と云うにも似たる事の多かりしとかや。
※女謁:女が寵愛を利用して頼みごとをすること。 ※内奏:内密に天皇に奏上すること。
時に、永久元年(1113年)春、弥生の頃、帝はいささか御悩(ごのう/ご病気)によって、暫く政治を聞こし召さず。その間、可及の事を御后の決断に任せたまう程に到り、例え摂政、関白なりとも、その役に男は憚(はばか)りありと、皆その妻を召さりけり。
しかるに、この頃、五畿内※に時疫(ときけ・疫病)の病が流行し、死する者の多かりければ、名僧、智識(指導者)に勅(みことのり)して、加持祈祷を尽くさせたまうが、させる効験(しるし)も無かりしかば、この事はいかがあるべきとて、重ねて詮議せられけり。
※五畿:京都周囲の山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国の称
時に、関白の藤原忠道公の北の方、井手の政所(まんどころ)が進み出て、聞こえ上げたまう様(よう)、
「今、この疫病(えやみ)を払いはべらんに、例えば比叡山(ひえいざん)、三井寺(みいでら)の名僧もその効験(しるし)無く、廿二社(にじゅうにしゃ/神社の社格の一つ)の神々も感応霊験(かんおうれいげん)※の無き上は、熊野へ勅使(ちょくし)を立て、那智の室長寺(むろおさでら)の住持(じゅうじ/住職)なる無漏海(むろかい)を、京(みやこ・以下都)へ招いて、祈り祓(はら)わせねば、などか効験(しるし)のあらざるべき。そもそも熊野の山聖女(やまひじりめ)の無漏海は、昔、一条院の御時(980-1011年)に、周防(すおう/山口県)の国の室積(むろつみ)なる傾城(絶世の美女)の長(おさ)なりき。
※感応:仏の働きかけと、それを受け止める人の心 ※霊験:神仏などが示す不可思議な力
しかるにその頃、書写山(しょしゃさん)の性空上人(しょうくうしょうにん)は、ある時、夢想(夢)のお告げにより、室積に赴(おもむ)いて、その長(おさ)に見(まみ)えたまうに、長は酒をすすめ、宿をとり、「室積のみたらいに、風は吹かねども、ささら波立つ、あら面白や」と歌いけり。その時、上人が目を閉じたまえば、不思議なるかな、長が姿は普賢菩薩(ふげんぼさつ)※となって現れ、「実相無漏(じっそうむろ)※の大海に、五塵六欲(ごじんろくよく)※の風は吹かずと云えども、随縁真如(ずいえんしんにょ)※の波立たぬ時無し」と聞こえけり。
※普賢菩薩:仏の悟り、瞑想、修行を象徴する菩薩。白象に乗った姿で表される。
※実相無漏:万物の真実の姿は、迷いを離れた清浄の境界(きょうがい)にあるということ。
※五塵六欲:五塵:五塵は塵のように人の心を汚すもと。色、声、香、味、触の五境。
六欲:色欲、形慾(容貌)、威儀姿態慾、言語音声慾、人相慾、細滑慾(美肌)
※随縁真如:絶対不変である真如が、縁に応じて種々の現れ方をすること。
★「実相無漏・・・・・波立たぬ時無し」謡曲「江口」:諸國一見の僧が都から津(三重)の国天王寺への途中、江口の里に来て遊女江口の君の旧跡を弔い、西行法師が昔ここで宿を断られた際に詠んだ歌である「世の中を厭うまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな」と口ずさんでいると、そこへ女が現れて、「それは一夜の宿を惜しんだのではなくて、この世も仮の宿であるから、それに執着しないようにと忠告したまでのこと」と弁解していたが、黄昏時になって「実は、私はその江口の君の幽霊です」と言って消え失せた。その後、旅僧が奇特な思いで弔っていると、江口の君が他の遊女達と一緒に舟に乗って現れ、遊女の境遇を謡ったり、舞を舞って見せたりしていたが、やがて江口の君の姿は普賢菩薩と変わり、舟は白象となって、白雲に乗って西の空へ去って行った。
上人が又、目を開きたまえば、長は元の姿となり、歌う事始めの如し。かかれば、この長は普賢菩薩の化身なりとて、上人は随喜(ずいき)の涙を流して、書写山へ帰りたまいぬ。
その後、長は世を厭(いと)うて、熊野の山へ分け登りぬと、風の便りに聞こえしかば、▼上人は急いで都に上り、事の趣(おもむき)をしかじかと確かに奏聞(そうもん)ありしかば、帝の御感(ぎょかん/天皇が感心すること)は浅からず、よって那智の麓に一座の尼寺を御建立ましまして、長を開基(仏寺を創立すること)に仰(おお)せ付けられ、無漏海仙尼(むろかいせんに)と云う道号を賜(たまわ)りしより、既に早や、御世(みよ)は一百二十余年の久しきに及べども、無漏海仙尼の御容姿は、いささかも衰えず、いと健やかにて御座(おわ)する由、熊野の者は申すなり。
されば、かの尼寺を室長寺(しっちょうじ)と号する由は、室積の長と云う文字を取らせたまえりと伝え聞いてはべりにき。されば、女文字(ひらがな)に軟らげて、むろをさでらとも書きはべり。
かかる般若(権者?)★の寺にしはべれば、都へ招き寄せ、疫病(えやみ)を払わせたまわんに、などか奇特※のあらざるべき」と、故事(ふるごと)をさえ引き出して、聞こえ上げたまいしかば、美福門院は感じ思(おぼ)し召して、
「さらば、使いを遣わせ」とて、立木の局(たつきのつぼね)を勅使(ちょくし)として、熊野の山へぞ遣わしたまう。
※奇特:①言行や心がけなどが褒めるに値するさま。②非常に珍しく、不思議なさま。
さる程に、立木の局は、数多(あまた)の供人にかしずかれ、次の日、都を門出(かどいで)しつつ、夜に宿り日に歩み、ことさら道を急がせて、熊野の那智の麓なる室長寺に着きしかば、当代住持の尼法師は数多の比丘尼(びくに)を引き連れて、鐘を鳴らし香を焚き、山門の外に出て、勅使を迎え奉(たてまつ)り、先に立って案内(しるべ)をしつつ、客殿に座を設け、大方ならずもてなし(接待)けり。
さる程に立木の局は、住持の尼に打ち向かい、
「わらわ此度、都より遙々と来つる由は、すなわち后(きさき)の仰せを受けて、無漏海仙尼を迎えん為なり。その故は斯様(かよう)斯様(かよう)」と、事の趣(おもむ)きを述べ知らせ、
「かの尼聖(あまひじり)は、何処(いずこ)に御座(おわ)する。何故に自らここらに出て、対面したまわぬぞ」と訝(いぶか)り問えば、住持の尼は、
「さればとよ★、無漏海聖は、昔、此山に隠れたまいしより、麓へは下りたまわず。元より五穀※を絶ちたまえば、霞(かすみ)を飲み、露を舐め、或る時は西に在り、又、或る時は東に居ませば、この山の中ながら、その住所だに定かならぬに、よしや后の御使いなりとも、いかで自らここまで出て対面したまうべき。君、もし聖を請いすすめて、都へ伴わんと思いたまわば、只(ただ)一筋に信心して、独りで熊野山に分け登り、尼聖を訪ねたまえ。もし、些(いささ)かも、不信心の心を起こしたまいなば、絶えて対面叶うべからず。御慎みこそ肝要ならめ」と、懇(ねんご)ろに説き示せば、局は「実(げ)にも」と頷(うなず)いて、その夜は一夜さ物忌(ものい)み※し、次の日の明け方より只一人、熊野の奥へ分け入らんとて、虫の垂れ衣(きぬ)※たれ込めし、笠よ、杖よと忙わしく、野装束(のしょうぞく)に裾壷(すそつぼ)折って、勅書(ちょくしょ)の箱を襟に掛け、おぼつか無くも足引きの山路を指して立ちいずれば、住持の尼は八九人の尼法師を伴って、五六町ほど送りつつ、別れんとする時に、又、懇(ねんご)ろに戒(いまし)めて、
「御局。我が尼聖に訪ね会わんと思いたまわば、驕(おご)り高ぶる心を持たず、信心を怠(おこた)りたまいそ。一心誠に叶い◆?たまわば、遠からずして、尼聖に目見(まみ)えたまうべきにこそ」と、返すがえすも戒めて、やがて寺へぞ帰りける。
※五穀:米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)を指すことが多い
※物忌(ものい)み:神事のため、ある期間、飲食・言行などを慎み、心身の穢れを除くこと
※虫の垂れ衣:市女笠(いちめがさ)に苧麻(からむし)で織った薄い布を長く垂らしたもの。
かかりしかば、立木の局は心細くも只一人、馬手(めて/右手)には、▼手香炉(てごうろ)をくゆらせて、弓手(ゆんで/左手)に水晶の数珠(じゅず)を爪繰(つまぐ)り、口に六字の名号(みょうごう)を、間無く時無く念じつつ、九十九折(つづらおり)なる山路(やまみち)を、辿(たど)り辿りも登る程に、僅(わず)かに十町余りにして、ようやく★に疲れしかば、心しきりに苛立(いらだ)って、
「さても、いかなる報(むく)いにて、かく辛き目に会うやらん。わらわは大内(おおうち/皇居)に在りし日は、仮初(かりそめ)の物詣でにも、車に乗らぬ事は無いに、云わんや后の御使いとして、はしたなくも只一人、山路を辿るは何事ぞ」と独り言して行く程に、巌(いわお)の裾なる熊笹が、さやさやさやと鳴るよと見えしに、その様(さま)、牛に等しき大狼が、忽然と走り出て飛び掛からんとしたりしかば、立木の局は「あっ」と叫んで、退(の)け様に倒れたり。
その時、その狼は、紅の舌を長く垂れ、星より輝く眼(まなこ)を怒(いか)らし、しばし局を睨(にら)まえて、前に立ち後に巡り、山彦(やまびこ)に響くばかりの声すさまじく、遠吠えして、何方(いずち)ともなく失せにけり。
立木の局は倒れしより、およそ半刻(はんとき)ばかりにして、ようやく我に返りしかば、頭をもたげ身を起こし、又、手香炉を取り上げつつ、恐る恐る行く程に、いよいよ疲れて立ち休らい、深く住持を打ち恨んで、
「あの、熊野比丘尼(びくに)めが。あくまでわらわを欺(あざむ)いて、猛(たけ)き獣の多かる山に、送りの者をも添えずして、一人使わせし、いと憎さよ。我が身が都に帰りなば、事の由を聞こえ上げ、遂には思い知らせんものを」と、口にくどくど恨みの数々、呟き呟く折しもあれ、山中俄(にわ)かに震動し、行く手の松の茂みより、いと大きなる蟒蛇(うわばみ)が、するするすると這い出して、只、大波の寄せるが如く、立木の局の頭(かしら)を臨(のぞ)んで、既に飲まんとしてければ、局は再び「あっ」と叫んで、生死も知らず伏したりける。
かかりし程に、蟒蛇(うわばみ)は長き紅の舌を出し、局の額を舐め、襟を舐め、しきりに毒気を吹き掛けて、何処(いずこ)ともなく失せにけり。
かくて、立木の局は伏す事、一時(とき)ばかりにして、やや人心地は付いたれど、深く恐れて、これより寺へ帰らんか、なおも聖を訪ねんかと、思い迷って佇(たたず)む程に、女の童(めのわらわ)の声と覚(おぼ)しく、遥かに小歌を唄いつつ、▼此方(こなた)を指して来る者あり。
局は耳をそば立てて、
「・・・・・怪しや。かかる山中に幼き女子(おなご)の声するは、狐狸(きつねたぬき)の業(わざ)なるか」と思えば、襟元ぞっとして、一足も進み得ず。
とかくする程に、早や向かいの木立の隙(ひま)よりして、年十一二の女の童、草籠(くさかご)を負いながら牛を引きつついで来けり。
立木の局はこれを見て、「なうなう(もしもし)※」と呼び止(とど)め、
「そなたはこの山の麓などに居(お)る者か。無漏海聖はいづこに御座(おわ)する。住処を知らば告げよかし」と、云うに、女子は微笑えんで、
「いかでかは知らざらん。わらわは年頃、かの尼聖に使われる者ぞかし。しかるに、聖は先にわらわに宣(のたま)う様、此度は疫病(えやみ)を払わん為に、我が身を都へ召されるなり。かかれば急いで、彼の地へ参(まい)らん。よく留守せよ」と宣いき。思うに聖は鶴に乗って、既に早、今頃は都へ行き着きたまいけん。しかれば御身、今更に、庵を訪ねたまうとも、絶えてその甲斐無きものを」と云い捨てて、又、静々と牛を追いつつ、行き過ぎける。
※なう:もし。もしもし。(呼び掛けに発する)、ああ。おお。(感動して発する)
立木の局は、女の童が答えを聞いて、驚き怪しみ、
「さるにても、無漏海聖はいかにして都より召される事を早くも知って、既にうち発ちたまいけん。実(げ)に、かの聖を普賢菩薩の化身と云うは空言ならず」と腹の内に思案して、そこより麓へ下りつつ、室長寺へ帰りにければ、住持の尼は出迎えて、道の疲れを慰めける。
その時、局は山中にて有りし事を物語り、
「かくも恐ろしき深山(みやま)なるに、などてわらわを欺いて、独り彼処(かしこ)へ遣わせしぞ。わらわもし、運命尽きなば、例え狼に食われずとも、毒蛇の腹に葬られん。后の仰せはこれすなわち勅(みことのり)に異ならず、その御使いは取りも直さず、勅使に等しいわらわなるを、侮(あなど)り欺(あざむ)くうたて(不快)※さよ。もし山中にて、牛飼いの女の童に会わざりせば、留守の庵(いおり)と知らずして、今なお訪ね惑(まど)わんに、幸いにして、かようかようの女子(おなご)に会って、しかじかと云われし事の有るにより、そこより帰り来れり」とて、しきりに恨み憤(いきどお)れば、住持の尼は打ち聞いて、
「御局、さのみな息巻きたまいそ。この山中には、いと猛(たけ)き獣は無きにあらねど、昔より人を害せず。しかるに御身は再びまで、いと危うき目に逢いたまいしは、信心の怠りを聖が懲(こ)らしたまいしなり。思うに、その草刈の女の童と見えたるは、無漏海聖に疑い無し。かの尼聖は、今もなお容姿いささかも衰えたまわず、或る時は二三十なる齢(よわい)とも見え、又、ある時は十二三なる女の子とも見えたまうなり。かくて御身にしかじかと、告げたまいし事あらば、神変自在(しんぺんじざい)※の通力(つうりき)もて、都へ赴きたまいし事、何の疑いはべるべき」と言葉を尽くして、説き諭(さと)せば、局はこれに怒りも解けて、▼勅書をそのまま住持に渡して、一両日逗留せり。
※うたて:①いっそうひどく。②異様に。気味悪く。③面白くなく。不快に。いやに。
※神変:神の霊妙で不思議な変化。また、それを起こす神の不思議な力。
かくて立木の局は、次の日、住持に案内させて、あちこちの霊場を巡り見るに、経堂(きょうどう)の後ろに一宇(いちう)の小堂あり。
戸扉を堅く建て込めて、大きなる錠を下ろし、錠の上には幾つともなく、封印を押したりければ、立木の局は訝(いぶか)って、その事の故(ゆえ)を尋ねれば、住持の尼は進み寄り、
「昔、無漏海聖が衆生済度(しゅじょうさいど)※の大方便(だいほうべん)※もて、周防の国の室積なる傾城長となりたまいし後、当山に隠れたまいし折、万葉集に見えたりし、遊女(うかれめ)※・蒲生(がもう)・土師(はじ)※・婦(おとめ)・末ノ珠名(すえのたまな)※・狭古(さふる)らを始めとして、世々に名だたる傾城(けいせい)の人の妻と得ならずして、苦界(くがい)※の中にて果てたる者の、亡き魂(たま)の宙宇に迷うを、ことごとく封じ込めて、一つの塚に築かせたまいぬ。されば世上にこの塚を、傾城塚と呼び成したり。
※衆生済度:迷いから救済し、悟りを得させること。※方便:人を導くための便宜的な手段。
※遊女(うかれめ):歌舞で楽しませたり、売春する女。遊び女。 ※蒲生(がもう):
※土師(はじ):埴輪等の土器を作ることを司った人。 ※婦(おとめ)
※末ノ珠名(すえのたまな):万葉集より以下意訳。「末の珠名は胸が大きく腰細で容姿が良く、どんな男でもすべての財産を投げ打ってでも惹かれてしまう。」
※狭古(さふる): ※ 苦界(くがい):①苦しみ、悩みの多い人間世界②遊女の辛い境遇。
もしこの塚を暴きなどして、その幽魂を走らせれば、世の中に災いあらんと深く戒めたまいしにより、当寺の代々住持たる尼法師が、かくの如く閉ざしに封して、開く事を許さずはべり」と告げるを聞いて、立木の局は、からからと嘲笑(あざわら)い、
「世に遊び女(め)が若死にして、人の妻とならざりしを妬(ねた/憎し)しと思う事あらば、その亡き後を弔(とむら)って成仏させずに、只、悪戯に幽魂を封じると云う事やはある★。これは無漏海の業(わざ)にはあらず、熊野比丘尼が地獄の絵をもて、婆母(ばばかか)どもを脅すに等しき、後(のち)の住持の業なるべし。わらわは今、目の当たりに、その塚を見たく欲す。さぁさぁ開いて見せたまえ」と云うを、住持は押し止めて、
「その事、夢々叶うべからず。御局(みつぼね)もし疑って、傾城塚を開きたまわば、後悔したまう事あるべし。この義は思い止まりたまえ」と、ひたすら諌(いさ)め争えども、立木の局は聞かずして、まずその錠を押し開かせ、進み入りつつ塚を見るに、いと大きなる▼自然石にて傾城塚と彫(え)りたるが、内暗くして定かならねば、松明(たいまつ)を振り照らさせて、なおあちこちと良く見るに、台石なる亀は早や、半身、土に埋もれて、苔むしたる碑の裏に「遇斧而開(おのにあうてひらく)」という四つの文字が彫ってあり。立木の局はかかる使いに立てられし程あって、男文字(漢字)をも諳(そら)んじけん。その四字を読み下して、
「尼達、これをよく見たまえ。斧(おの)に遇(あ)って開くとあり、斧を呼びて断(た)つ木と云えば、斧も立木(たつき)もこれ同じ。かかればわらわ(立木)がこの塚を、今開くべき事の由を、百年(ももとせ)余りの昔より、無漏海聖はよく知って、しかじかと印したまえり。今この下を開いて見ん。さぁさぁ用意をしたまえ」とて、権威に募(つの)る女の猿知恵。
住持はなおも諌めるを、露ばかりも聞かずに、寺男らを呼び集め、遂に石を倒し、台石を取り除かせて、掘る事六尺余りにして、石の唐櫃(からひつ)在りければ、さればこそとて、立木の局は、息をも付かせず下知するにぞ、人夫らは斧(よき)・鉞(まさかり)を持て、力を合わせて石の蓋を、ひたすら打つ程に、遂に蓋を砕けども底は暗くて見え分かねば、立木は松明を照らさせて、よくよく見んとする程に、忽然として天も挫(くじ)け、大地も落ち入る如き音して、穴の内より一道(どう)の黒雲陰々と立ち上り、家の棟をも突き破り、中空(なかぞら)に棚引きつつ、幾筋ともなく光を放って、四面八方に飛び去りぬ。
まさに、これ、後鳥羽院の御時に、白拍子の亀菊を御寵愛ありしより、世の中乱れ、勇婦烈女(ゆうふれつじょ)ら出現すべき、兆しはここに顕れたり。
これにより人夫らは逃げんとして、躓(つまづ)き転(まろ)んで、傷を被(こうむ)る者少なからず、ことに甲斐無き尼法師は、気絶したるも多かりける。その中に、立木の局は、人に先立ち堂内を、命辛々(いのちからがら)走り出て、茫然として居たりしが、面目無くや思いけん。次の日、熊野をうち発って、都を指して帰りけり。
是より先に、無漏海の尼聖は、通力をもて都へおもむき、一人自ら参内(さんだい)し、帝に謁(えっ)し賜り、大内に壇(だん)を設けて、疫病(えやみ)の神を払いたまいしかば、幾程も無く、五畿内なる悪しき病は皆怠(おこた)りて、万民安堵の思いを成しぬ。
かくて無漏海の尼聖は、再び鶴にうち乗って、熊野山へ帰りたまいしとぞ。
およそこの件(くだり)まで、物語の発端なり。亀菊が事は次に見えたり。▼
されば鳥羽院は、在位十六年◆にして、御位(みくらい)を第一の御子(みこ)の崇徳院(すとくいん)に譲りたまい。崇徳院も、又、在位十八年にして、御弟御子、近衛院(このえいん)に譲りたまい。近衛院は在位十四年にして、崩御(かくれ)たまいしかば、この上の御子、後白河院に御位を継がせたまい。
それより二條院、六條院、高倉院、高倉の御子、安徳天皇が西海に沈ませたまいしかば、後白河院の御計らいとして、安徳天皇の御弟の後鳥羽院を御位に付け奉らせたまいにき。
この帝は在位十五年にして、御位を第一の御子の土御門院(つちみかどいん)に譲らせたまいし後も、なお天下の政治(まつりごと)は先例に倣(なら)わせたまいて、院の御沙汰なりければ、順徳院、九条院の御時まで、時の帝は何事も在るに甲斐無くてぞ、御座(おわ)しける。
しかるに其頃、都の東山の片辺(かたほとり)に、亀菊と云う白拍子(しらびょうし)在りけり。年は二八ばかりにして、容姿ことに麗(うるわ)しく、糸竹の技は、云えば更なり。
香・立花(りっか)、萬(よろず)の雅の技までも、一つとして暗からず、しかも又、客を釣り、男を蕩(とら)かす手練(てれん)に長けて、およそ都にありとある、有徳(ゆうとく)※の者の子供、商人の手代なんども、皆これに惑わされて、家を売り、妻子に離れ、身は落ちぶれて、様々に成り行く者多かりければ、その親たる者、主たる者は、深く亀菊を憎みつつ、遂に六波羅(ろくはら)の決断所(けつだんじょ)へ訴えて、彼女を追わん事を願い申せしかば、六波羅にて詮索の後、事皆、亀菊が非分(ひぶん)※に定まりける。
げに、かかる手弱女(たおやめ)を、都の内に在らせなば、風俗の害なるべしとて、やがて追放せられけり。これによって亀菊は、五畿内の内に足を入れる事叶わず、いささかなる知る辺(べ)を頼りに、越後の新潟へおもむいて、縮唐屋四太郎(ちりからやしたろう)と云う、港芸子(みなとげいこ)の見番宿(けんばんやど)※に身を寄せつつ、ここにて三年(みとせ)ばかり送る程に、都には故(ゆえ)あって、俄かに大赦を行われしかば、亀菊も咎(とが)を許され、世の中広くなりにけり。
これにより亀菊は、都へ帰り上らんとて、四太郎に頼みしかば、四太郎らも不憫(ふびん)に思って、縮(ちぢみ)商人の夏兵衛と云う者を語らい、京六条の辺(ほとり)には、四太郎が知る人あれば、その方へとて書状を添えて、夏兵衛と諸共に亀菊を旅立たせ、都へ帰し使わしけり■
※有徳(ゆうとく):徳がある。富んでいる。富裕。
※非分(ひぶん):①身分不相応。②道理に合わないさま。
※検番/見番(けんばん):①遊里で、芸者の取り次ぎや送迎、玉代(ぎよくだい)の精算などをした所。②「検番芸者」の略。
<翻刻、校訂中:滝本慶三 禁転載 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>