傾城水滸伝をめぐる冒険

傾城水滸伝を翻刻・校訂、翻訳して公開中。ネットで読めるのはここだけ。アニメ化、出版化など早い者勝ちなんだけどなぁ(^^)

[現代訳]傾城水滸伝  初編ノ壱・二

2017-09-05 05:15:32 | 初編
[現代訳]傾城水滸伝  初編ノ壱
 曲亭馬琴著 歌川豊国画
 文政八年(1825年)乙酉(きのととり) 春正月吉日新版
 江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓               ▼:改頁

「実相無漏の大海に 五塵六欲の風は吹かずと云えども 随縁真如の波立たぬ時無し」
(能「江口」より)
行脚の僧が京から摂津の天王寺への途中で遊里で有名な江口の里に来て、遊女江口の君の旧跡を弔い、西行法師が昔ここで宿を断られた時に詠んだ歌「世の中を厭うまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな」を口ずさんでいると、そこへ女が現れて、「それは一夜の宿を惜しんだのではなくて、この世も仮の宿であるから、それに執着しないようにと忠告したまでのこと」と弁解し、「実は、私はその江口の君の幽霊です」と言って消えた。その後、旅僧が奇妙な思いで弔っていると、江口の君が他の遊女達と舟に乗って現れて、遊女の境遇を謡ったり、舞を見せたりしていたが、やがて江口の君の姿は普賢菩薩に変わり、舟は白象となり、雲に乗って西の空へ去って行った。

(ここから本文)
世は平安の黄昏頃、鳥羽院の御后(おきさき)の美福門院は容姿麗しく才知の高さは男にも勝った。されば帝(みかど)の御寵愛は比べる者もなく、折に触れて政治(まつりごと)さえ任せれば、位を上げ、司を授ける事、民の訴えを聞き上げる事までも御后への口入れで全て定まるに至り、仕える女官達は自ずから権威を振るい、公卿衆、殿上人をも者の数とせず、我がままに振る舞えば、卑しき者の諺(ことわざ)の「女、賢 (さか)しうして牛売り損なう」と云うに似た事も多かった。

時は永久元年(1113 年)弥生の頃、帝は病気によってしばらく政治を行えず、可及の事を御后の決断に任せる程になり、例え摂政、関白でもその役に男が就くのは憚(はばか)りあると皆その妻がその役に就くにいたった。この頃、山城、大和、河内、和泉、摂津の五畿内に疫病が流行し、名僧らに勅(みことのり)して加持祈祷を尽くさせたが目立つ効果も無く、この事をいかがすべきと詮議が重ねられた。
その詮議の場で関白藤原忠道公の北の方の井手の政所(まんどころ)が進み出て、
「今、この疫病を払うには比叡山、三井寺の名僧でもその効果無く、 二十二社の神々でも霊験無い上は、熊野へ勅使を立て、那智の室長寺(むろおさでら)の住職の無漏海(むろかい)を都へ招き、祈り祓わせれば何か効果があるべき。熊野の山聖女(やまひじりめ)の無漏海は、昔、一条院の御時(980-1011年)に周防(山口県)の国の室積の絶世の美女の長(おさ)だった。書写山(しょしゃさん)の性空(しょうくう)上人が、ある時、夢のお告げによって室積に赴いて、その長に会うと、長は酒をすすめ、 宿をとり、「室積のみたらいに風は吹かねどもささら波立つあら面白や」と歌った。その時、性空上人が目を閉じれば、不思議にも長の姿は普賢菩薩となり、「実相無漏の大海に五塵六欲の風は吹かずと云えども随縁真如の波立たぬ時無し」と聞こえた。そして上人が又、目を開けば長は元の姿となり、歌う事は始めの如く。さすればこの長は普賢菩薩の化身なりと上人は随喜の涙を流して書写山へ帰って行った。その後、長は世を厭って熊野の山へ分け入ったと風の便りに聞き、▼性空上人は急いで都に上り、事の趣(おもむき)をしかじかと申し上げれば、帝は深く感心され、那智の麓に一座の尼寺を建立され、長を開基(かいき)に仰せ付けられ、無漏海仙尼と云う道号を授けしより既に早や百二十余年の時を経れども、無漏海仙尼の容姿はいささかも衰えず、健やかに御座( おわ)すると熊野の者は申すなり。その尼寺を室長寺(しつちょうじ)と号するのは室積の長と云う文字から取らせたと伝え聞いた。このような権化の寺であれば、都へ招き寄せて疫病を払わせれば何か効果があるべき」と故事さえ引き出して申し上げれば、美福門院は感心して「さらば、使いを遣わせ」と立木(たつ き)の局(つぼね)を勅使として熊野の山へ遣わされた。

さる程に立木の局は多くの供人にかしずかれ、次の日に都を出発し、夜に宿り日に歩み、道を急いで熊野の那智の麓の室長寺(むろおさでら)に着けば、当代住職の尼法師は多くの比丘尼 (び くに)を引き連れて鐘を鳴らし香を焚き、山門の外で勅使を迎え、先に立って案内しつつ、客殿に座を設けてもてなした。立木の局は住職に向かい、
「私 わらわが此の度、都より遙々(はるばる)と来た由は后の仰せを受けて無漏海仙尼を迎える為なり。その故(ゆえ)は斯様斯様(かようかよう)」と事情を述べ、「尼聖(あまひじり)は何処におわするか。何故に自ら対面されぬか」といぶかり問えば住職は
「無漏海聖は昔、この山に隠れしより麓へは下りたまわず。元より五穀を絶ち、霞を飲み、露を舐め、或る時は西に在り、又、或る時は東にあれば、この山の中ながらもその住所も定かならぬに后の御使いなりとても、いかで自らここまで出て対面できようや。もし聖に請いて都へ伴わんと思われるなら、ただ一筋に信心して独りで熊野山に登り、尼聖を訪ねたまえ。もし、いささかでも不信心の心を起こされれば、対面は叶うべからず。御慎みこそ肝要なれ」と ねんごろに説けば、局は「実(げ)にも」とうなずき、その夜は一夜断食し、次の日の明け方より只一人で熊野の奥へ分け入らんと虫の垂れ衣(ぎぬ)垂れ込めし、笠よ、杖よと忙わしく野装束(のしょうぞく)に裾壷(すそつぼ)折って勅書(ちょくしょ)の箱を襟(えり)に掛け、おぼつか無くも山路を指して出発すれば、住職の尼は八九人の尼法師を伴って五六町ほど送りつつ、別れる時に又、ねんごろに戒めて、「御局、尼聖に訪ね会わんと思われるなら、おごり高ぶる心を持たず、信心を怠りたまうな。一心真(まこと)にかないたまえば、遠からずして尼聖に目(ま)見えたまうべきに」と返すがえすも戒めて、やがて寺へと帰っていった。
かかりしかば、立木の局は心細くも只一人、右手には▼手香炉(てごうろ)をくゆらせて、左手に水晶の数珠(じゅず)を爪繰(つまぐ)り、口に六字の名号(みょうごう/南無阿弥陀仏)を間無く時無く念じつつ、つづら折りの山路を辿り辿るとわずかに十町余りで早くも疲れて心はしきりにいら立って、
「さても、いかなる報(むく)いでかく辛き目に会うやらん。私(わらわ)が宮中に在りし時は仮初(かりそ)めの物詣でにも車に乗らぬ事は無いのに、云わんや后の御使いとして、はしたなくも只一人で山路を辿るは何事ぞ」と独り言していると、巌(いわお)の裾の熊笹がさやさやさやと鳴ると見えると、牛に等しき大狼がこつぜんと走り出て飛び掛からんとすれば、立木の局は「あっ」と叫んで倒れ込んだ。 その時、その狼は紅(くれない)の舌を長く垂れ、星より輝く眼を怒らせて、しばし局を睨んで前に立ち後に巡り、山彦 (やまびこ)に響くばかりの声すさまじく遠吠えして何処ともなくいなくなった。
立木の局は倒れてからおよそ半刻(はんとき)ばかりでようやく我に返れば、頭をもたげ身を起し、又、手香炉を取り上げて、恐る恐る行く程にいよいよ疲れて立ち休らい、深く住職を恨みつつ、「あの熊野比丘尼めが。あくまで私(わらわ)を欺いて、猛獣の多い山に送りの者をも添えずして、一人使わせし憎さよ。都に帰れば、事の由を聞こえ上げ、遂には思い知らせんものを」と口にくどくど恨みの数々、 呟き呟く折しもあれ、山中にわかに震動し、行く手の松の茂みより大きなうわばみがするするすると這い出して、大波が寄せるが如くに立木の局の頭をのぞんで、呑まんとすれば、局は再び「あっ」と叫んで、生死も知らず倒れてしまった。うわばみは長い紅の舌を出し、局の額を舐め、襟を舐め、しきりに毒気を吹き掛けて何処ともなくいなくなった。
かくて立木の局は倒れる事、一刻ばかりにしてやや人心地は付けども、深く恐れて、これより寺へ帰るか、なおも聖を訪ねるかと思い迷ってたたずむ時に女の童の声で小歌を唄いつつ、▼此方を指して来る者あり。
局は耳をそば立てて、 「・・・・・怪しや。かかる山中に幼き女子(おなご)の声するは狐狸 の業(わざ)なるか」と思えば襟元ぞっとして一歩も進めず。とかくする程に早や向かいの木立の間より、年十一二の女子が草籠を負いながら牛を引きつつ来た。
立木の局はこれを見て「もしもし」と呼び止め、「そなたはこの山の麓におる者か。無漏海聖 は何処におわする。住処を知れば教えなさい」と云うと女子は微笑んで、
「いかでかは知らざらん。わらわはその尼聖に使われる者ぞ。聖が先にわらわに宣うには、この度は疫病を祓(はら)う為に我が身を都へ召されるなり。かかれば急いであの地へ参らん。よく留守をせよ」と宣った。思うに聖は鶴に乗り、既に都へ着きたまいけん。しかれば貴方は今更に庵(いおり)を訪ねてもその甲斐無いものを」と云い捨てて又、牛を追いつつ行き過ぎた。立木の局は女子の答えを聞いて驚き怪しみ、
「・・・・・無漏海聖はいかにして都より召された事を早くも知って既に出発されたのやらん。実にあの聖を普賢菩薩の化身と云うのは空言(そらごと)ならず」と腹の内に思案して、そこより麓へ下りつつ室長寺へ戻れば、住職の尼が出迎えて道の疲れを慰めた。その時、局は山中での出来事を物語り、「かくも恐ろしき深山(みやま)に何故に私(わらわ)を あざむいて独りで彼処へつかわせた。わらわがもし、運命尽きれば例え狼に食われずとも毒蛇の腹に葬(ほうむ)られん。后の仰せはすなわち勅(みことのり)に異ならず、その御使いは取りも直さず、勅使に等しいわらわなるにあなどり欺く不愉快さよ。もし山中で牛飼いの女子に会わねば、留守の庵と知らずして今なお訪ね惑(まど)っていたが、幸いにして斯様斯様の女子に会って、しかじかと云われたにより、そこより帰り来れた」としきりに恨みいきどおれば、住職の尼は聞きながら、
「御局、左様に息巻きたまうな。この山中には獰猛(どうもう)な獣が無きにあらねども、昔より人を害することはなし。しかるに貴方が二度までも危うい目に逢いたまうのは信心のおこたりを聖が懲(こ)らされたなり。 思うにその草刈の女子と見えたのは無漏海聖に疑い無し。あの尼聖は今もなお容姿はいささかも衰えず、或る時は二三十の齢(よわい)と見え、又、ある時は十二三の女子とも見えるなり。かくて貴方にしかじかと告げし事もあれば、神変自在の神通力で都へおもむきたまう事に何の疑いあるべきか」と言葉を尽くして説きさとせば、 局はこれに怒りもとけ、▼勅書をそのまま住職に渡し一両日そこへ逗留した。

かくて立木の局は次の日、住職に案内させて、あちこちの霊場を巡ると経堂の後ろに一宇(いちう)の小堂(しょうどう)あり。戸扉を堅く閉め大きな錠を下ろし、錠の上には幾つともなく封印あれば、立木の局はいぶかってその事の理由を尋ねれば、住職の尼は進み寄り、
「昔、無漏海聖が当山に隠れられた折、万葉集に見えた遊女(うかれめ)、蒲生(がもう)、土師(はじ)、婦(おとめ)、末ノ珠名(すえのたまな)、狭古(さふる)らを始めとして、 世に名だたる美女(傾城)ながらも人の妻にならずして苦界(くがい)の中で果てた者の亡き魂が宙宇(ちゅうう)に迷うのをことごとく封じ込め、一つの塚を築かせた。さればこの塚を傾城塚と呼んだ。もしこの塚をあばいてその幽魂(ゆうこん)を走らせれば、世の中に災いあると深く戒められたにより、当寺の代々の住職の尼法師がこのように閉ざしに封して開く事を許さずに来た」と告げるのを聞いて、立木の局はからからと嘲笑(あざわら)い、
「世に遊び女が若死にして人の妻となれぬのを憎しと思う事あれば、その亡き後を弔(とむら )って成仏させずに、只、いたずらに幽魂を封じる事があるか。これは無漏海の業(わざ)にはあらず、熊野比丘尼が地獄の絵で婆母(ばばかか)どもを脅すに等しく、後の住職の業なるべし。わらわは今、目の当たりにその塚を見たく欲す。さぁさぁ開いて見せたまえ」と云うのを住職は押し止めて、「その事、夢々叶うべからず。御局 、もし疑って傾城塚を開きたまえば、後悔されるべし。この儀は思い止まりたまえ」とひたすらいさめ争えども立木の局は聞かずに、まずその錠を開かせて、進み入りつつ塚を見ると、大きな▼自然石で傾城塚と彫りたるが内側は暗くて定かに見えねば、松明(たいまつ)を振り照らさせてあちこちと良く見ると台石(だいせき)の亀は半身が土に埋もれて、苔むした碑の裏には「遇斧而開(おのにあうてひらく)」という四つの文字が彫ってあった。立木の局はこのような使いに立てられる程あって、男文字(漢字)をもそらんじられた。その四字を読み下して、
「尼達、これをよく見たまえ。斧(おの)に遇(あ)って開くとある。斧を呼んで断(た)つ木と云えば、斧も立木(たつき)もこれ同じ。さればわらわがこの塚を今開くべき事の由を百年余りの昔より無漏海聖はよく知って、しかじかと印された。今、この下を開いて見ん。さぁさぁ用意をしたまえ」と権威につのる女の猿知恵。住職はなおもいさめるのを露ばかりも聞かずに寺男らを呼び集め、遂に石を倒し、台石を取り除かせて掘る事六尺余りにして、石の唐櫃(からひつ)が在れば、さればこそと立木の局は息をも付かせず下知(げち)すると人夫らは斧(よき)・鉞(まさかり)で力を合わせて石の蓋をひたすら打ち、遂に蓋を砕いたが底は暗くて見え分からねば、立木は松明を照らさせてよくよく見んとすると、忽然(こつぜん)と天もくじけ、大地も落ち入る音がして、穴の中より一道(いちどう)の黒雲が陰々と立ち上り、家の棟をも突き破り、中空(なかぞら)に棚引いて、幾筋ともなく光を放って四面八方に飛び去った。まさにこれ、後鳥羽院の御時に白拍子(しらびょうし)の亀菊(かめぎく)を御寵愛(ごちょうあい)されたことにより世の中乱れ、勇婦烈女(ゆうふれつじょ)らが出現すべき兆(きざ し)がここに顕(あらわ)れた。
これにより人夫らは逃げようとして、つまづき転んで、怪我をする者少なからず、ことに尼法師らは気絶した者も多かった。その中で立木の局は人に先立ち、堂内を命辛々(いのちからがら)走り出て、茫然(ぼうぜん)としていたが、面目無いと思ったか次の日、熊野を出発し都を指して帰って行った。

これより先に無漏海の尼聖は神通力で都へおもむき、一人自ら参内(さんだい)し、帝に謁( えっ)したまわり、大内に壇を設けて疫病の神を払えば、いくほども無く五畿内の悪しき病は皆回復し 、万民安堵の思いをなした。かくて無漏海の尼聖は再び鶴に乗って、熊野山へ帰られた。 およそこのくだりまで、物語の発端なり。▼

されば鳥羽院は在位十六年にして位(くらい)を第一の御子(みこ)の崇徳院に譲られ、崇徳院も又、在位十八年にして弟御子の近衛院に譲られ、近衛院は在位十四年にして崩御されれば、この上の御子の後白河院に位を継がせた。それより二條院、六條院、高倉院、高倉の御子 の安徳天皇が西海に沈まれれば、後白河院の御計らいで安徳天皇の弟の後鳥羽院を位に付けられた。この帝は在位十五年で位を第一の御子の土御門院(つちみかどいん)に譲られた後もなお天下の政治(まつりごと)は先例にならわせて、全てが院の御沙汰により、順徳院、九条院の時までは時の帝は在るに甲斐無きありさまだった。
しかるにその頃、都の東山に亀菊と云う白拍子がいた。年は十六ほどにして容姿うるわく、和楽器の技はもちろん香、立花(りっか)、 萬(よろず)の雅の技までも一つとして苦手なく、客を釣り、男を蕩(とろ)かす手練にたけて、およそ都にありとある裕福な家の息子、商人の手代なども皆これに惑わされて家を売り、妻子と別れ、身は落ちぶれて、様々に成り行く者が多ければ、その親、主人は亀菊を憎みつつ、遂に六波羅の決断所へ訴えて、彼女を追う事を願い申せば、六波羅で詮索の後、事皆、亀菊の罪に定まった。かかる優美な女を都の内に在らせれば、風俗の害なりとやがて追放させられた。これによって亀菊は五畿内の内に足を入れる事を叶わず、ささやかな知人を頼りに越後の新潟へおもむいて、縮唐屋(ちりからや)四太郎と云う港芸子の見番宿(けんばんやど)に身を寄せて、ここで三年ばかり暮らす後に都ではゆえあって、大赦が行われれば、亀菊も咎(とが)を許され世の中広くなりにけり。これにより亀菊は都へ帰ろうと、四太郎に頼むと、四太郎も不憫(ふびん)に思って、縮(ちぢみ)商人の夏兵衛という者に頼み、京六条のほとりに四太郎が知る人あれば、その方へ書状を添えて、夏兵衛と共に亀菊を旅立たせ、都へ帰し使わした。


[現代訳]傾城水滸伝
初編ノ二 曲亭馬琴著 歌川国安画

此の頃、都の室町のほとりに小間物屋雛右衛門と云う者あり。越後の出身で若い頃に都に上って、商人の家に奉公した。年頃になった頃、その親方の助けによって、ここらに小間物店を開いてより商いのお得意が多く出来、しかるべき者と成った。かかれば、この雛右衛門と新潟の四太郎は竹馬の友であったので、縮商人夏兵衛も同国のよしみあり 、夏毎に都へ上って縮を売る時に、この雛右衛門の所を宿として四、五か月も逗留した。なれば四太郎はこの便宜(びんぎ)で、この度、亀菊を都へ返すのに、商いの為に都上りする夏兵衛に頼み、雛右衛門に書状を送って亀菊の今後の事を任せて頼んだ。 さる程に亀菊は夏兵衛に伴われて、都の小間物屋に着けば、雛右衛門は対面しつつ心の内に思う様、
「・・・・・この亀菊は昔、都で客をとろかせ、若者共の身上(しんじょう)を幾人となく粉に振るわせた白拍子なのに、斯様な者を我が家に留め置くのは難儀なり。されども我が故郷の四太郎が遙々と頼み寄越した者でもあるし、彼の親には我も恵みを受けた事あれば、さすがに嫌とは云い難し。」と思案をしつつ、いと丁寧にもてなして四五日を経た後に亀菊を招き近づけ、「貴方は我が竹馬の友から頼まれた人なれば、いつまでここに居るとてもいささかも厭(いと)うにあらぬが、見る如くに我が家は萬事に忙しき商人で、とても貴方の立身出世の便宜(よすが)となるべき者にはあらず。六条のほとりの医師深根▼長彦という人は公卿、殿上人に招かれて広く療治をしたまうに、我も年頃、仲疎(うと)からねば、貴方の事を深根氏へ頼みつかわそうと思う。此の儀に従いたまわんや」と問えば亀菊は一議に及ばず、「まこと に不思議の御縁にて、かくまでお世話になる上は何をか否(いな)みはべるべき。ともかくも」と答えれば、 雛右衛門は次の日に長彦へ書状を送り、亀菊に小者を付けて深根の自宅へ遣 つかわした。
かくて長彦がその書状を見ると、 <この女子が宮仕えの有り付きの在るまで、そなたへ留め置かせたまいて手引きしてたまわるべし。衣食の費用はこちらよりともかくもつかまつらん。しかじか>と書いてあるのを繰り返しつつ読み終わり、腹の内に思う様、
「・・・・・この亀菊は音に聞こえた、いと婀娜(あだ)めきた乙女なるに、我が家に留め置けば、年若き弟子どもの身の為に良い事あらじ。詮術(せんすべ)あり」と一人うなずき、やがて返事を書きしたためて、小間物屋の小者を帰し、さて亀菊に対面して、
「そなたは和楽器の技でやん事無き方へ宮仕えを願えば幸いの事あれ。今、坊官で一二を争う法眼(ほうがん)顕清(けんせい)と聞こえるは院の御所に仕えて勢いあるお歴々なり。しかるにあの方は和楽器に技持つ女子を召し抱えんと言われるなり。それがしはこの頃、療治のために度々尋ねることあれば、手引きする事いと易し。しかし、先様の好みは十六ほどの振袖をとかねて注文されるに留袖にてはいかがあるべきか。その他の事は問題あらじ」と云うと亀菊は微笑んで、「年は十九になれども女子はこしらえ様によれり。先様へは十六とも十七とも申したまえ」と云うと長彦は喜んで、次の日、顕清の屋敷へ行って、事良く話せば、目見えの日さえ決められて、亀菊は大島田に振袖の衣(きぬ)を装い、長彦に伴われてその屋敷へ赴いた。

亀菊はその始め、白拍子なれば、俳優(わざおぎ)慣れたその装い。さながら十六の乙女と見えたり。その日は老女が対面し、その芸能を試したが琴、胡弓(こきゅう) 、笙(しょう )、又、舞唄いの今様(いまよう)まで技術を尽くせば、顕清は障子を隔ててこれを聞き、感激し、大いに喜んだ。その後、見参(けんざん)の首尾が整えば、三四日を経て亀菊はその屋敷へ移り住み、元の舞姫らと混って勤めていると早くも主人の心を知って、甲斐甲斐しく立ち振る舞えば、顕清は愛(め)で喜び、要事などを皆、亀菊に云い付けた。
○そもそも後鳥羽院の想い人の尾弘(おひろ)の局(つぼね)は法眼顕清の娘で、その御腹には朝仁(ともひと)親王と申せし男御子が産まれれば、父顕清も娘に付いて自ずから勢いあり。常に親しく院の御所へ参りつかえるに、元より歌を好んで詠み、又、古筆(こひつ)を好めば、世に珍しき物を集めんと思う程に、近頃、紀貫之(きのつらゆき)の自筆の土佐日記、又、躬恒(みつね/歌人)の短冊など多く手に入れれば、ある日、御物語のついでに、「かかるものを得て候え」と誇り顔に申し上げれば、院は聞こし召し、「それはいと珍しき物なり。持参して見せよ」と仰するに、顕清はいたく喜び、やがて自宅に戻りつつ、その次の日に尾弘の局にしかじかと手紙を送り、その古筆を叡覧(えいらん)に供えんとする。この使いには賢い女子ならではと思えば、亀菊を呼んで事の心を得させつつ、その手紙を渡して院の御所へ遣わした。

さる程に亀菊は下部(しもべ)に唐櫃(からひつ)を担(にな)わせて、尾弘の局へ参りしに取り次ぎの女中が立ち出て、「尾弘の局は院に召されて梨局(なしつぼ)におわす。戻られるにはいとしばらくの間があるべし。ゆるやかに待ちよ」と云うのを亀菊は押し返し、「これは私(わたくし)の使いにはべらず、御所様へ参らせたまうしかじかの物をもたらしてはべりにき。願わくばこの事を急ぎ伝えてたまわれかし」とひたすら乞い求めれば、「しからばかしこ へ赴いて、又、取り次ぎを頼むべし。これ持て行きね」と云いながら切手形(きりてがた)の木札一枚を亀菊に渡しつつ、唐櫃を端者(はしたもの)に担わして折戸口まで遣わした。
されば又、後鳥羽の院は文の道を好まれて、御詠み歌が妙(たえ)なるは云うも更なり。又、武芸をも好まれて、その上、種々の遊芸さえ、一つとして捨てたまわず。しかれども女御 、更衣のやん事無き高官をよそよそしくて遠ざけて、怪しの賊(しず)の女なりとも品形 (しなかたち)麗しく一芸に優れし者は御側近くはべらせて、御遊びの伽(とぎ)とさせたまうに、香、立花(生 け花)には興味なし。鞠はことさら良き物なれども女子に鞠を蹴らせるのは無惨なるべしと鞠の遊びに代えて子供が春にする遣羽子(やりはご)は良からめと、ひたすら羽根を突かせたまうに、その法式を立てられて種々の技を尽くされれば、上を学ぶ下々まで遣り羽子の遊びを旨として、その技は都と田舎に流行した。
これはさて置き、亀菊は梨局のほとりに参って取り次ぎを尋ねると、此の時、院は尾弘の局とその他の官女にまじって、遣り羽子の遊びに興されていて取り次ぐ者も無かりけり。さる程に院は瀧子という舞姫が突いたその羽子を胡鬼板(こぎいた)で跳ね返えさんとしたまいしに、亀菊が成り上がる時運がここに至りけん。
その羽子それて築垣(ついがき)の戸の方へひらめき飛んで、折戸の彼方の亀菊の頭の上に落ちかからんとし、亀菊はここぞと右手に持った切手の札持ち、その羽子を丁(ちょう)と受け、舞雲雀(まいひばり)と云う技で二つ三つ四つ突き上げて、程を測って彼方の院に突き返せば、一院の感激は大方ならず、「築垣の▼彼方に在って朕(ちん)がそらした遣り羽子を突き返したのは何者やらん。尋ねてみよ」と仰するに、一人の女官が折戸を開いて亀菊に会釈しつつ、ここへ参りし事の由を尋ねれば、亀菊はうやうや しく「法眼顕清の貫之、躬恒の筆の跡を叡覧(えいらん)に供える為に尾弘の局へ手紙を送ったその品々を捧げまつる使い女(め)
の亀菊と申す者にはべり。先に局へ参れども、梨局の方に居ますとある女房が云うにより、時の遅れる事が惜しくて切手をたまわり、おぼつか無くもここまで推参したれども、折から御遊の最中とおぼしく、いで来たまう人無きによりしばらく待ちてはべりにき」と恐る恐る答えるのを院は遙かに聞いて、「顕清の使いならば、いささかも苦しからず。その者を呼べ」と間近く招き寄せさせ、その容姿を見るに、いとあでやかな雅女(みやびめ)なれば、たちまち愛でさせたまい、 「汝は羽子に技ある者なり。突いて見せよ」と仰するに、亀菊は再び三度 、固辞したが許されず、さのみはかしこかるべしとて、ようやく立ち上がり、飛ぶ馬、蝙蝠(こうもり)、嵐の木の葉、燕返りなどと云う技で秘術を尽くして突けば、院はいよいよ感激され、 「なお、この他にも覚えた芸能ありや」と問われ、「和楽器の技、男舞いは幼きより習いしどもいとつたなくはべり」と申す。「さればまことに要ある者なり。朕に仕えよ」と仰せあって、尾弘の局に預けられ、自宅へは帰されず、その夜も御遊の席に召されて舞い歌った。
堪能の者なれば、御寵愛(ごちょうあい)は大方ならず、御側を離されなかった。
顕清はこんな事とも知らずに、その日亀菊が帰らぬのをいぶかしく思えば、次の日、御所へ参って気色を伺えば、院は笑いながら、「昨日は予ねて約束の珍書を見せられしな。ついてその使いの亀菊とか云う者は芸能ある女子、今より朕に仕えさせよ。まずしばらくは尾弘の局を局親(つぼおや)にするべし。朕は貫之の筆の跡よりあの亀菊こそ得ま欲しけれ」とたわむれて仰せける。顕清はこれを承って、亀菊が御寵愛の者となれば、我が娘の尾弘の為に良い事あらずと心の中にはいと悔しくは思えども、今更に詮方(せんかた)無ければ、「まことに彼女の幸いにて、いとありがたき事にこそ」と御受けを申しつつ、苦笑いして退いた。

かかりしかば、院は幾程も無く亀菊を五節(ごせち)の歌垣(うたがき)と云う司にされて、あまつさえ女武者所(おんなむしゃどころ)の別当(べっとう)を兼ねさせれば、勢いは典待(すけのつぼね)に等しく、果たして尾弘の局を始め、院の御情けを受けし女房達は皆こと如く捨てられて、三千の後宮(こうきゅう)に顔色(がんしょく)絶えて無き如く、亀菊一人に気圧(けお)された。
されば又、中頃より御所の院中には北面(ほくめん)の武士を置かれ、非常を戒(いまし)められしに、後鳥羽の院の時には又、西面の武士を置かせ、国々より武芸力量ある女を召され、▼ 女武者所に置かれ、その女武者らを預かり司る女官を武者所の別当と称せられた。
しかれどもその女武者らは縁故や依怙(えこ)で選ばれし者どもなれば、させる武芸のあらぬ者もその武者所にはべりしが、一人綾梭(あやおさ)と云う女武者のみが十八番の武芸に長けて、 男も及ばぬ力があった。
故(ゆえ)あるかな、綾梭の父は筑井(つくい)兵衛太郎(ひょうえたろう)という関東の武士で武芸の聞こえあるにより都へ召し上げられ西面の武士に成されたが、近き頃に亡くなった。
綾梭は女ながらに父の武芸を受け継いで、優れた技の者なれば、院の御所に仕えて武者所にありしが、久しく病に犯されて故郷へ引き籠もり居れば、亀菊が武者所の別当に成りしを聞きつつ寿を述べるに及ばず。しかし亀菊は綾梭が来て会わぬのをいぶかって、采女(うねめ)らに理由を問うと彼女は久しく病あって、故郷におりと答えれば、亀菊はそれを聞いてあざ笑い、 「彼女は死ぬ程の事はあらぬを引き籠りおるのは私(わらわ)を密かにあなどるらん。よしよしその儀ならば、詮術(せんすべ)あり。打ち捨てて置きね」と云う気色が只ならずと見えれば、采女らは密かに危ぶんで 、人を走らせ、綾梭にかくと告げれば、綾梭も驚いて、止むを得ずに病を押して、亀菊に目見えするが、亀菊はひたすらはしたなく罵って、「そなたの親の筑井の兵衛はさせる武芸も無い者なりしに、鎌倉からの推挙によって西面の武士に成されしすら、なお上も無き御恩なのに、云わんやそなたのはした武芸を親の子と思し召して、 采女に成された身の程をわきまえず、虚病(そらやまい)を申し立て、私(わらわ)を侮る不敵さよ。さぁさぁ六波羅へ引き渡して罪をたださん」と怒るのを朋輩(ほうばい)の采女がこれをいさめつつ、
「君、今こよ無き司に成されて、事に目出度き事の始めに人を罪ないたまわんはよろしき性とも覚えず。願わくば、綾梭の罪を許したまえ」と代わる代わるに詫れば、亀菊もようやく怒りを納めて、「しからば此の度は許さん。この後もなお不備あれば許すまじ」と云う時に綾梭は初めて頭をもたげて、その面を見ると、あに図らんや、我を支配の別当になった女官は前に父兵衛とともに六波羅に在りし時、よそながら見知った白拍子の亀菊なれば大きに驚いた。
やがて自宅へ帰り、母にしかじかと告げ、「あの亀菊は白拍子の頃に多くの人を害したのに、云わんや今は一院の御寵愛を受ければ、彼女が憎いと思う者の安穏は余もあらじ。かかれば私(わらわ)は彼女の為に遂には無実の罪を得ん。こはいかにすべき」と嘆けば、母親は聞きつつ驚いて、「しかる時はうかうかと都にいるのはいと危うし。三十六の計り事も逃げるを良しとす」と云えば親子は密かに▼他国に逃げようと思えども、「我が身は脚気(かっけ)の持 病あり道一里とも行く事叶わず。情けない老いの身にこそ」と云い掛けて涙ぐめば、綾梭はこれを慰めて、
「そう思われるならば、私(わらわ)、密かに妙案あり。斯様斯様」と囁けば、母親はしきりにうなずいて雑談時を移しけり。

かくて又、綾梭はその夕暮れに借馬(しゃくば)引きの鞍八(くらはち)を招き寄せ、
「我が母には脚気(かっけ)の持病あり。私(わらわ)も又、先頃より久しく病に犯されて、ようやくに回復したのを石山寺の観世音へ予ねて掛けた願解(がんほど)きに、母諸共に明日、参らんと思うなり。しかれども我が母は駕籠(かご)乗り物を嫌えば、馬にでも乗せて行くより他なし。口取りの男はこちらにあり。良い馬あれば明日一日、貸してたび」とこしらえれば、鞍八はその意を得て、
「幸いに良い馬あり。駆けには向かねども、鞍の上は静かにして遠乗りには極めて良し。値段五両で売ろうと思えど、売りかねて飼い置いていた。今宵より貸すべし」と答えて自宅に立ち返り、夕暮れにその馬を引きつつ貸せば、綾梭は深く喜んで、次の日の朝未明に母親を馬に乗せて、下部の留守介(るすすけ)と云う者に馬の口を取らせつつ、石山寺を指して三里ばかり行きし時、馬の口取りの下部留守介を呼び止めて、
「あな、いかにせん。忘れた事こそあれ。今朝、物に取りまぎれ、石山寺へまいらせる布施物を持て来ざりき。そなたはここより引き返し、布施物を取って来よ。それはしかじかの所にあり。われら親子は今宵、御堂で通夜すれば、そなたは急いで来るにも及ばず。今宵は自宅で休息して、明日は努めて迎えに来よ。来んとする時に、これを借馬の鞍八に確かに届けよ」と云い付けて、固く封した文箱を渡せば、留守介は心を得て、そこより自宅に立ち帰り、さて云 われた所はもちろん、あちこち探せども布施物とおぼしき物は無し。又、翌朝も残る隈無く探せども、それかと思う物も無ければ、詮方尽きて、そのまま石山寺へ迎えに行きしも綾梭親子は御堂におらず、心いよいよ疑い迷って、堂守 (どうもり)を尋ねると、「通夜せし者はあらず」と答える。
これにより留守介はむなしく国へ帰るが三条の橋詰めにて鞍八に行き会った。その時、鞍八は留守介を呼び止めて、
「心得難き事があり。借馬の賃は一日に五百文と定めたが、今朝渡された文箱を開いて見ると中には黄金五両あり。馬の値段と記されたり。しからば昨日貸した馬を買い切りにするとの事か。いぶかしき事限り無ければ、参って尋ね申さんと、今立ちいでし所なり。その訳を知らずや」と問われて▼留守介は眉をひそめ、「それには思い当たる事あり。その故(ゆえ)は斯様斯様」と、綾梭親子が石山寺に参らざりし事のおもむきの始め終わりを話して、「察するに、おらが旦那は親子密かに示し合わせて逃亡したならん。ばかばかしや」と囁けば、鞍八も驚き呆れて、その日は留守介と諸共にあちこちを訪ね巡りしが絶えて行方が知れざれば、止む事を得ず、留守介は或る人に頼んで、その事を女武者所へ報告し、鞍八は又、六波羅の決断所へ訴えた。

さる程に、亀菊は綾梭が母諸共に逃亡した事を聞き、いよいよ憎み憤り、にわかに院の仰せと称して六波羅へ下知(げち)を伝え、「綾梭親子を召し捕って参らすべし」と催促した。これにより六波羅の決断所では伊賀の判官光季(みつすえ)が手下を四方へ走らせて、綾梭を追わせども既に三日を経ていれば、行方は絶えて知れざりけり。この故(ゆえ)、光季は留守介、鞍八を呼び寄せて、なお詮索をすれども彼らが知る事なければ、詮方無くて止めにけり。
この時に世を厭(いと)うある物知りが囁いたのは
「昔、鳥羽の院の御時に美福門院の御沙汰として賞罰に僻事(ひがごと)多かり。さるにより、後、遂に保元(ほうげん)の戦(いくさ )起こって崇徳院は流された。今は又、亀菊が院の御寵愛を受け、御政治に僻事多 し。しかのみならず、鎌倉では頼朝(よりとも)の後家政子が武家の賞罰を執り行って、尼将軍と称せられる。されど京も鎌倉も萬(よろず)に女の沙汰により、世の中の勇婦賢妻(ゆうふけんさい)が無実の罪に身を置きかねて、世をいきどおる者あるべし。これしかしながら、その昔、立木の局があやまって傾城塚(けいせいづか)を開いた祟りならん」と云うとぞ。(留守介、鞍八らの事はこの後に物語り無し)

○さる程に綾梭は髻(たぶさ)を切り、姿をやつして、母を乗せた馬を追い、信濃路へ走りつつ小道、枝道、そこはかとなく山又山に旅寝を重ねて、信濃の国の水内(みのうち)郡戸隠山 (とがくしやま)の麓をよぎる時、日が暮れようとするに思わず宿を取り遅れ、あちこちと尋ねると道のほとり一町ばかり引き入れた木立の元に一構(かま)えの冠木門(かぶきもん)が見えれば、ようやくにたどり着いて、一夜の宿を求めると、主人は六十路ばかりの翁(おきな)で情けある者なれば、こころよく引き受けて、綾梭親子を風呂に入れ、夜食をすすめ、馬にも馬草を飼わせなどしてねんごろにもてなせば、綾梭親子は情けを感じて寝所に入って眠りについた。
その翌朝、主人の▼翁は日も昇ったのに旅の女がまだ起きねば、屏風のこなたより咳払いして、「いかに人々、起きたまわずや。早や夜は明けて候」と云う声聞いて綾梭は忙わしく走り出て、「 私(わらわ)はとっくに起きしが、旅の疲れにか、母が暁(あかつき)より痞(つかえ)起こって苦しめり」と云うと主人は驚いて、
「それはいと難儀(なんぎ)におわす。幸いに我が家に癪(しゃく)、痞(つか)えの妙薬あり。用いたたまえ」と云いつつ、やがてその薬を煎じて、しきりに勧めいたわって、「旅にて病むのは便(びん)無きものなり。いつまでも逗留して静かに保養したまえ」と云い慰める人の情けに綾梭親子は深く感じて、しばらくここに足を留め、保養し、およそ十日ばかりにして母の病は癒えた。
これにより綾梭は明日には予ねてよりこころざす方へ発たんと、泥に汚れた脚絆(きゃはん)を洗えばやと思いつつ、背戸の方に出て見れば方辺(かたへ)の空地で年十七八と見える女子が男めいた装(よそお)いして、木太刀(こたち)を使って独りで武芸の稽古をしていた。綾梭はしばしそれを見て、「・・・太刀筋は器用なれどもまさかの用には立ち難し」と独り言した声が漏れ、その女子は見返って、「女、何をか云う。 私(わらわ)の技をつたな しと思われれば、いざ立ち寄って勝負を決せよ。ここへ来ずや」と息巻く声を主人の翁が聞き付けて、忙わしく走り寄り、
「女中よ。心に掛けたまうな。彼女は我の娘だが生まれつきの性(さが)にやあらん。糸繰り、機(はた)織る事をせず、幼無きより武芸を好んで、男魂あるに似たり。母はそれを苦に病んで、一昨年の秋に亡くなった。されども、それがしは彼女がまにまに止めもせず、三人の師匠を取らせて、武芸を習わせたり。女中も定めて武の技に心掛けありと見える。彼女の望みなれば、打ち殺したまうとも苦しからず、一太刀当ててたまいね」と請い求めると綾梭は三度辞するも許されねば、「しからば是非に及び難し。お相手になりはべらん。無礼は許したまえ」と会釈をすれば、その娘は「云うにや及ぶ」と勢い猛(たけ)く、そのまま家に走り戻って、壁に掛けた薙刀(なぎなた)と木太刀を取って走り出て、「長き短き、いずれなりとも選び取られよ」と云うと綾梭は微笑んで、「 私(わらわ )は打ち物に嫌い無し。御身(おんみ)がまず取りたまえ」と譲ると怯(ひる)まず、娘は樫(かし)の木で作った薙刀を取って水車の如く回しつつ、隙を計って駆けんとするのを綾梭は木太刀でたちまち丁と払い除け付け入って、一打ちに打つならば打ち倒せれども、身を痛めずして勝ちを取らんと思えば、あしらって二足三足と後ずさり、その娘は踏み込んで再び駆けんとする所を綾梭がすかさず跳ね返せば、娘が持った薙刀は遙か後ろへ消し飛んで、その身も共に横ざまにはたと転んで伏しければ、綾梭は木太刀を捨てて走り寄り、「痛みはせずや。怪我はせずや。許したまえ」と会釈をすれば、その娘は膝立て直し、「私(わらわ)はまなこありながら、人をも知らず身をもはからず、こよ無き無礼をしはべりぬ。許させたまえ」 と額突(ぬかつ)いて身のあやまちを詫わびた。
父の翁は感じ、且つ喜んで、綾梭に向い、
「それがしは家代々が村長(むらおさ)を承って陸見庄内(くがみしょうない)と呼ばれる者なり。又此の所の里の名を女郎花村(おみなえしむら)と呼び、いかなる故(ゆえ)か知らねどもいにしえよりこの村には男子(おのこ)少なく女子(おな ご)多し。又、北隣りの一里を鬼無里村(きなさむら)と呼び、そこには男子多くして女子は極めて少ない。これをもて昔よりあの村と我が里人と婚縁を結ぶなり。それがしは幸なくて、只この娘一人を持てり。早や年頃なれば婿を取らんと思えども、只今見そなわせる如くに女子に似合わず武芸を好んで、人の妻となる事を願わず。人も又、その猛(たけ)きに恐れて婿にならんと云う者無ければ、事整わず時過ぎたり。又、我が娘は物毎に環龍(たまりゅう)の模様を好んで、衣(きぬ)にも帯にも龍の縫い物のある物を着れば、里人らは浮潜龍衣手(ふせんりゅうころもで)とあだ名を呼んで候。思うに君は世の常の婦人にはあらず、願わくば実を明かして、なおこの所に逗留し、娘に武芸を教えたまえば、この上も無き幸いなり。やよ、衣手。今日よりしてこの方様を教えの親と頼み申せ」と云うと衣手は喜んで綾梭を伏し拝み、師弟の契(ちぎ)りを請い願えば、綾梭も否むに由無く主人親子に向かって、
「今は何をか隠しはべらん。私(わらわ)は西面の武士の筑井兵衛太郎の娘で綾梭と云う者なり。父の兵衛太郎が亡くなりし頃、家を継ぐべき男子無く私(わらわ)を女武者所に置かせたが斯様斯様の事により▼亀菊に憎まれて災い此の身に迫れば、止む事を得ず、母を伴ない父方の縁(ゆかり)ある武田殿に身を寄せる為にわざと小道を巡って、宿取り遅れし夕暮れに恵みを受けたのみならず、思い掛け無き母の病を保養させ、遂に快癒した事、大方ならぬ情けによれり。かくまでの恩返しに私(わらわ)が覚えた技の限りは御息女に指南せん。衣手殿がこの年頃に習いし太刀筋は華やかなるを旨(むね)とせしのみでまさかの用には立ち難し。今少し習いたまえば、妙所に至るべし」と云うと親子は益々喜び、庄内は娘の為にその日酒宴を開いて綾梭親子をもてなしつつ、師弟の契を結ばせた。

さる程に綾梭は父の兵衛が伝えた十八般の武芸の秘術を日毎に衣手に教えれば、およそ半年余りにして衣手の武芸は上達し、あなどり難くなりにけり。かかりしかば綾梭はある日、衣手親子に向かって日頃の待遇を喜び伝え、
「今は早や、衣手殿の技術も上達すれば、いささかも欠けたる事無し。かかれば予ねて云う如く、明日には袂(たもと)を分かって初めよりこころざす武田殿へおもむくべし」と云うと親子は理(わり)無く止めて、
「願わくば、此の所で一期を過ごしたまえ。させるもてなし有らずと云うとも、ともかくもして御二方を養い参らせん」と云うを綾梭は聞いて、「さればとよ、我らは惜しくはべれども、とても留まる身にあらねば、明日は努めて出発せん。 落ち着いて後に、文で安否を問うべきに。自ら愛したまいね」とねんごろに別れを告げて、留まる気色が無ければ、衣手は仕方なく父と図って餞別に砂金二十両を贈りけり。その翌朝、綾梭は月ごろ馬屋に飼い置かれた我が馬を引き出して母親を乗せ、庄内と衣手に暇乞(いとまご)いして出発すれば、衣手は道の程、一里ばかり送りつつ、涙を流して別れけり。(綾梭の事、この後に物語り無し)

○かくて今年もはかなく暮れて師走の初めに父の庄内は風邪で臥し、医療の甲斐なく遂に亡くなれば、衣手は嘆きつつ、亡骸を野辺送りしてねんごろに弔った。しかれどもこの時まで決まった婿が無いにより、家に久しき手代の螻蛄平(けらへい)を仮に庄役代として工作の事を司どらせ、衣手はなお綾梭に教えられた武芸のみを折々に復しつつ為す事も無く月日を送ると、春経て夏は過ぎ、秋七月の頃になった。残る暑さが耐え難ければ、衣手は門のほとりに竹の腰掛けを置き、尻掛けて只一人、そよ吹く風を待つ折に、表の方よりきょろきょろと厨(くりや)のほとりを覗く者あり。衣手は一早く気がついて、「そは何者ぞ」と咎(とが)めれば、その者は急に見返って、「否(いな)、横七にて候」と云いつつ近づくのをよくよく見れば時々来る木樵(きこり)の横七なり。衣手はあざ笑って、「あな、黄昏に何事ぞ。きょろきょろ、そこらを覗くは私(わらわ)の足元を見る為か」と云われて横七は頭をかき、「否(いな)、何事も候(そうら)わず。ここの男衆の鋤蔵(すきぞう)を誘い出して一杯飲まんと思い、来た事は来たけれども、あなたがそこに居たまえば呼びかねて隠れたのみ」と云うと衣手は気色をやわらげ、
「そはそれにてもあるべきが、そなたは夏毎に猪茸(ししたけ)、岩茸(いわたけ)、椎茸(しいたけ)などを折々持て来て売りしが、今年は何故に持て来ぬぞ」と問われて横七は
「さればとよ。近頃、戸隠山(とがくしやま)に三人の鬼女(きじょ)が棲み、夜な夜な近い里に出て、人を殺し財(たから)を奪う。その強き事は大方ならず、昔あの山に棲んだ鬼女が維茂(これもち)殿に討たれたは只一人と伝え聞きしに、彼女らは元より手下多かり。このゆえに守護目代(しゅごもくだい)より百貫文の褒美銭を懸けられて、彼女らを絡め捕らせんとすれども、誰とて向かう者は無し。斯様の障(さわ)り有るにより、椎茸などは愚かな事で木を切る事も叶い難し」と告げるを衣手は聞きながら、
「我も又、あの山に女盗人(おんなぬすびと)どもが棲む事を聞かぬにはあらねども、さほどの事とは思わざりき。もし良き椎茸、岩茸あれば持て来よかし」と答えれば、横七は心得て暇乞いして帰りけり。

衣手は考えあって、次の日に酒食(しゅしょく)を用意し一村の女どもを呼び集め、
「各々(おのおの)も予ねてぞ知らん。近頃、戸隠山の女盗人らがあちこちの里々を騒がして人を殺し、物を奪う噂は既に隠れ無し。しからば彼女らが我が村へ押し寄せ来んも計り難し。わたしは女子(おなご)なりと云えども、家は代々村長なり。かつ此の村には男子少なく、しかも皆、惰弱(だじゃく)なり。奴等がもし寄せ来るならば絡め捕って公(おおやけ)へ渡さんと思うなり。各々も皆で合図を決め、賊婦らが来ると知れば拍子木(ひょうしぎ)で人を集め、力を合わせて働きたまえ。武具には稲穂を粉なす殻棹(からざお)に増すもの無し。皆、殻棹を用意して、只ひら打ちに打ちたまえ。わたしは先に進んで賊の大将を生け捕るべし」と手に取る如く指し示せば、女どもは一議に及ばず、「我々は愚かなる者なり。とにもかくにもお嬢様の指図に従わん」と皆諸共に答えれば、 衣手は下男、下女に用意の酒食を出させて、上戸(じょうご)には酒を飲ませ、下戸(げこ)には餅を食わせれば、 皆喜んで飲み食いしつつ、おのれおのれの自宅へ帰った。

近頃戸隠山に砦(とりで)を構えて、自ら鬼女と言い触らし、多くの手下を集めた三人の賊婦あり。その第一の頭(かしら)を野干玉(ぬばたまの)黒姫と呼ぶ。これは近き頃、謀反によって滅んだ城の小太郎資盛(すけもり)の家の家来の後家で年は三十五・六なるべし。させる勇力無しと云えども、思慮あって謀(はか)り事を好めり。第二番の頭を越路の今板額(いまはんがく)とあだ名せり。これ又、資盛の縁者で力強く武芸を好む。第三番の頭を戸隠の女鬼(しこめ)と云う。これも近頃滅んだ梶原の残党で力強く心巧みなり。この三人の悪たれ女は身の置き所無きままに戸隠山に立て籠り、多くの手下を集めつつ、異様な扮装して辺りの里を脅し、人を殺し、物を奪って山の砦に蓄えた。
かくて黒姫、今板額、女鬼ら三人の賊婦がある日酒盛りして遊ぶ折に今板額が言うには 「此の頃、我が砦には兵糧が乏しくなりぬ。いずれへなりとも向かって盗り入れんこと肝要ならん」と云うのを女鬼は聞きながら、「しからば川中島で多くの米を借り持て来ん。しばしも猶予すべからず」とはやるを黒姫は押し留め、「川中島へ向かえば、その道の程便(たよ)り良けれど、同じくは黒姫山より近道を越えて、越後の国へおもむくべし。その訳は斯様斯様」と利害を説いて諭(さと)せども、女鬼はしきりにいら立って少しもこれを聞かざりけり。

さて、この下りの問答は第五の巻にて解き明かすべし。
およそ此の度、新版の初編は全て八冊なのを長物語は御退屈と四冊に分けたり。
又、此の次を御覧じて、二編三編、その先の先々までも、 御評判、御評判。

<翻刻、校訂、現代訳:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
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[現代訳]傾城水滸伝  初編ノ三・四

2017-09-05 04:15:55 | 解説・楽しみ方
傾城水滸伝 初編第三
曲亭馬琴作 式陽齋豊国画 仙鶴堂綉梓

その時、黒姫は女鬼(しこめ)がはやるのを押しとどめ、
「川中島へ向かうのは利があるに思えども、女郎花(おみなえし)村をよぎらねばあそこへは行き難し。あの村には音に聞こえた浮潜龍(ふせんりゅう)衣手(ころもで)あり。彼女がおめおめと我々を通すべきか。かかれば越後へ行くに増す事あらじ」といさめると今板額も「実(げ)にも」と悟って、
「姉御の意見は極めて良し。衣手はその力並々ならぬのみならず、武芸も又、たぐいまれなり。近き世の巴、板額(はんがく)にも劣らずと聞くに、なまじにあそをよぎれば毛を吹き傷を求める(やぶ蛇)なり。思案をすべき」と共にいさめるのを女鬼は聞かず腹立てて、
「何故に二人は他人の武勇のみを誉め、自分らの勢いを落としたまうぞ。我々は女子なりと云えども、ここらに名立たる武士(もののふ)すら誰とて向かう者無し。云わんや、一人の小娘の衣手が何とかすべき。よしよし、その儀ならば姉御たちには頼まん。我れが衣手を殺し、川中島へ向かうのを高嶺(たかね)で見物したまえ」と勢い猛(たけ)く立ち上がるのを今板額、黒姫は左右より引き止めて、なお様々にいさめても女鬼はいよいよ怒り狂って袖振り放ち、忙わしく表の方へ走り出た。鬼女はにわかに下知を伝え、ひしひしと身を固め、馬にひらりと乗れば、手下の山賊七八十人が前後左右に従って、鐘(かね)、太鼓を打ち鳴らし、麓を指して馳せ下る。

さる程に女郎花の村人は戸隠山の山賊らがここを目指して寄せ来る事に恐れて、男は急を告げんと▼水内(みのうち)の目代(もくだい)の屋敷へと奔走す。しかれどもこの村の女らは予ねて衣手が示し合わせた合図を違(たが)えず、家毎に拍子木を持って群を集め、手に手に殻棹を引き下げて、またたく間に衣手の自宅へ集まれば、衣手は深く喜び、小手、脛(すね)当てに身を固め、父の時より飼い置いた馬にゆらりとうち跨がって、小薙刀(こなぎなた)を脇挟み、数十人の賤の女を馬の前後に従えた。
村外れまで寄せ来る敵を待つ間程無く、早くも近づく賊の大将女鬼のそのいでたちは、顔に鬼女(きじょ)の面を掛け、身には白き綸子(りんず)の内着に金糸で鱗形(うろこがた)を隙無く縫わせた物を装って、緋色の袴(はかま)のそば高くとり、萌黄縅(もえぎおどし)の腹巻して、髪を後ろに振り乱し、樫の木を撞木(しゅもく)に磨き白の薄金を掛けた物を左手にかい込み、栗毛の馬に馬具足掛けて辺りも狭しと歩ませる。
それに従う山賊どももおのおの鬼女の面を付け、突棒(つくぼう)よりもいかめしい撞木を手に手に引き下げた。実(げ)にこの有り様は、大江山の童子ならずば、鈴鹿の山に籠もった千方(ちかた/藤原千方)のたぐいと思うばかりに怪しくも恐るべきいでたちなり。

その時、女鬼は馬を進めて衣手を差し招き、
「我らは元よりこの村の人を喰う心無し。川中島へおもむいて糧(かて)を借りんと思うのみ。道を開いて通せ。妨げすれば、皆、肉醤(ししひしほ)にならんず」と声高やかに呼び張れば、衣手も又、静々と馬を陣頭に乗り出して、
「愚かな賊婦(ぞくふ)ども。汝(なんじ)ら鬼女のいでたちし、愚民を脅し、あまつさえ謀反(むほん)を起こすと聞こえれば、からめ捕って公(おおやけ)へ引きもて行かんと思っていたが、ここへ来るのは夏の虫、自ら飛んで火に入るなり。我は女子と云えども、家は代々村長(むらおさ)なり。いかでかおめおめここを通さんや。川中島へ行くならば、頭(こうべ)を置いて行け」とあくまでもあざわらいつつ、騒ぐ気色は無かりけり。

女鬼(しこめ)はそれを聞きながら、
「憎き女の大口かな。その儀ならば思い知らせん。そこ動くな」と息巻いて、撞木形の金尖棒(かなさいぼう)を水車の如く振り回し、▼衣手目掛けて討って掛かれば、衣手は薙刀(なぎなた)で受け止めて、人混ぜもせず只二人、しばらく挑み戦うと女鬼がいら立ち打ち込む棒を衣手はかわして左へ身を引けば、女鬼は空をはたと打つ、勢い留め難くして衣手の右へ馬を乗り付ければ、衣手は得たりと拳を固めて女鬼の棒を打ち落とし、ひるむ所を付け入って高紐むづとかいつかみ、目上(まなうえ)高く差し上げて矢声を掛けて投げ飛ばせば、味方の女が折り重なって鬼女を押えて縄を掛けた。

賊の大将が既に生け捕られれば手下の大勢は驚き恐れ、立つ足も無く逃げ走るのを味方の賤の女がどっと叫んで殻棹で短兵急(たんぺいきゅう)に打ち込んで、殴り立て立て、息をも付かせず追い払った。
衣手は既に十分に勝てば、揚げ貝を吹き鳴らさせて味方の女子(おなご)を一つに集め、生け捕った女鬼を引き立たて自宅を指して練り帰った。

この時、戸隠山の砦(とりで)では野干玉の黒姫、越路の今板額が鬼女の戦いを危ぶんで、噂をしている時に討ち散らされた賊婦どもが命からがら逃げ帰り、女鬼があえ無く衣手に生け捕られた事をしかじかなりと告げれば、今板額は驚き騒いで、
「今は早や、是非に及ばず。なおも手下の数を尽くして、我々二人が馳せ向かい、衣手と勝負を決して女鬼を救い取らんのみ。さぁさぁ用意をせよ」と急がせば、黒姫は押し止めて、
「その事決して無用なり。我が初めより云った事よ。女鬼は衣手の相手にあらず、我々とてもあの女子に力をもって勝つ事難し。斯様(かよう)斯様に謀(はか)れれば、万に一つも謀りおおせて女鬼を救える事もあらん。これより他に手立てはあらじ」と囁くと今板額はその儀に従い、誰をも供せず只二人で女郎花村へおもむいた。

さる程に衣手は女鬼を自宅へ引かせ帰って、書院の柱へ厳しく縛り、
「今に二人の賊婦らも生け捕って、諸共に公へ訴えん。おのおのは休息したまえ」とにわかに粥(かゆ)を炊かせ、酒を温めさせて、女らをねぎらうと先より遠見(とおみ)に出して置いた螻蛄平が走り来て、
「戸隠山の今板額が黒姫と共に来たれり」とあわただしく告げると、衣手は又、勢揃いして打ち出んとする程に、その賊婦は只二人ですごすごと背戸口より書院の庭へ進み入り、大地にはたとひれ伏してしきりに涙を流しはじめた。
衣手は思うに違って、その故(ゆえ)を尋ねれば、二人の賊婦は頭をもたげて、
「先には女鬼が我々のいさめを聞かず、虜(とりこ)になりぬ。これはこれ、あの者の自業自得なれば、いかがはせん。▼只、嘆くべきは我々は謀反(むほん)の残党(ざんとう)、上に夫と頼む者無く、下には頼る子とて無し。身の置き所無きままに戸隠山に籠もりし日より三人で固く義を結び、姉ととなえ妹と呼び、例え同じ日には生まれ得ずとも、只同じ日に死なんと誓った。しかるに女鬼は遠からず、頭をはねられるべけれ。さればとて君に向かって恨みを返すに力は及ばず、救う事はいよいよ難し。ならば三人諸共に御手に掛かって死ぬのみ。よって推参(すいさん)しはべりぬ。さぁさぁ頭をはねたまえ」と云いつつも、降り注ぐ涙に暇(いとま)は無かりけり。

衣手はつくづくと聞きながら心の内に思う、
「・・・・・この者どもは女にふさわしからぬ謀反人の骨頂なれども、義を思う事、かくの如きは益荒男(ますらお)にも勝れる事あり。しかるを我が罪し殺せば世の人にさげすまれん。ひそかに放ち帰さねば」と腹の内に思案をしつつ、黒姫、今板額に向って、
「お前らが云う所、我が心に感ずる由あり。「窮鳥(きゅうちょう)懐(ふとこ)ろに入る時は狩り人も捕らず」と云う。私(わらわ)がいかでかお前らを絡め捕って目代に渡すべき。よって女鬼を放し許して返さんと思う」と云われて二人の賊婦はようやく涙を止めて、
「御志はありがたく喜ばしく思えども、さすれば嬢様を巻き添えにする咎(とが)あらん。只、諸共に縛って目代へ引き出したまえ」と言葉ひとしく覚悟の気色に衣手もいよいよ感嘆し、遂に女鬼の縄を解き、黒姫と今板額を近づけて、
「我が心は巌(いわお)の如し。今さら転ばすべからず。我が言葉は矢の如し。放って再び返すべからず。既に女鬼を許したり。さぁ伴って行け」と云うと三人はひれ伏して、
「再び生きる大恩をいつの時にも我らは忘れん」とまた感涙にむせびけり。
衣手(ころもで)はこれを喜び、「運良く酒もここに有り。お前らは酒を飲むか」と問えば、三人は等しく言葉を揃えて、
「死ぬ事も厭(いと)わぬものをましてや君の賜る物を否(いな)み申さんや」と答えれば、衣手は彼女らに酒を飲ませて、山へ帰す時にねんごろに戒(いまし)めて、
「お前らは謀反の残党なりとても、友を思い義を知る事は賢妻烈女(けんさいれつじょ)に恥じぬ者なり。今より不義の心を捨てて真(まこと)の道を守れかし」と教訓を加えれば、三人はしばしば伏し拝み、戸隠山へ帰りけり。
かくて今板額、女鬼らは黒姫と共に戸隠山の砦へ帰って、二人がひたすら黒姫の謀(はか)り事を誉めれば、黒姫は
「しかしながら、我の苦肉の謀り事で辛くも女鬼を救えども、衣手が義に勇んで、真(まこと)を感ずる心無くば、何で放って帰さんや。実(げ)に衣手は有難き勇婦ならずや」と諭(さと)せば、今板額は女鬼と共に大方ならず感服して「真(まこと)にさなり」と答えける。

その後、十日ばかりを経て、黒姫は女鬼、今板額と相談して、衣手の大恩に報(むく)いをすべけれと、手下の山賊に砂金三十両を持たせて女郎花村へ使わすと、衣手はこれを受けずにそのまま返した。黒姫はその心を悟って、更に一斗の椎茸と雉子(きじ)五番(つがい)を贈りつかわし、
「これは山で得た物なり。かすめ盗った物にあらねば、願わくば収めたまえ」と懇(ねんご)ろに云えば、衣手もようやく▼これを受け、使いに来た山賊に豆銀一包みを取らせつつ、「姉御達によく云えよ」とねぎらって帰した。
既にして秋も早や八月十日余りになれば、衣手は心に思う、
「・・・・・先には戸隠山の黒姫らから贈り物を受けたが未だその報いをせず、この十五夜に彼女らを招いて杯をすすめ、共にその夜の月を見ん」と十三日の昼過ぎに手紙を書いて、螻蛄平(けらへい)によくその意を含ませて、戸隠山へ使わせば、黒姫らの三人は衣手の手紙を見て喜ぶ事限り無く、使いの螻蛄平をもてなして思いのままに酒を飲ませ、返事を螻蛄平に渡す時、金三両を取らせれば、螻蛄平は大きに喜んで女郎花村へ急いだが、道にて既に日は暮れた。
十三夜の月に送られ、山風に吹かれるままに山路を下ると酒の酔いがひどく昇って足元も定まらず、一人よろよろひょろひょろと麓の裾野をよぎる時、松の切り株につまづいてたちまちはたと転びけり。 酔った者の癖なれば、既に一度転んでは再び起きる事叶わず、そのままそこに眠りこけ、前後も知らず伏したりける。
かかる所に木樵(きこり)の横七が麓の小柴を刈り集め、家路を指して帰る途中に、道の草むらに倒れ伏した者あるのを近寄ってその顔をよく見れば、かねて相知る螻蛄平なり。酒の香りが鼻をつき、酔い伏したその懐(ふところ)より銭財布が半(なか)ば顕れ出ているのを横七が密かに引き出すと、あの黒姫らの返事の文も財布と共に出てきた。その時、横七はこれかれ共に取り上げて、まず銭財布を探り見ると内には金三両と銭二百余りあり。又、その文を開いて見るとひらがなすらもよくは知らねど、黒姫、女鬼、今板額らの名のみ定かに読むことできれば、驚き且つ喜んで、腹の内に思う、
「・・・・・この前、衣手は我を疑い、足元を覗くなんどと口さがなく咎(とが)めたが、彼女はかえって謀反人の戸隠山の黒姫らと忍びやかに交われり。今、この事を訴え申せば、かねては褒美(ほうび)の定めもあり。これは思い掛け無く、金の蔓(つる)にあり付いた。運が良し」とうなずいて、文も財布もそのままに奪い盗りつつ足早に見返り見返り立ち去った。

さる程に、螻蛄平はその夜、亥中(いなか)の頃にようやく酒の酔い醒めて、あわてふためき身を起し、懐を探ると銭財布も文も無し。「此(こ)はそもいかに」と驚き憂いて独りつらつら思う、
「・・・・・金は失っても惜しむに由無し。返事の文を落としては帰って言い訳あらず。いかにすべき」と胸を痛めてようやくに思案を定め、飛ぶが如くに道を急いで、村の自宅へ帰れば、▼衣手はねぎらって、「いかに、返事は来ずや」と問うと螻蛄平は答えて、
「さん候。あの三人の姉御たちは斜めならず喜んで、返事をまいらせんと云われたども、それがしがそれを押し止め、只今返事をたまわって路で不慮の事あれば、後悔そこに絶ち難し。この十五夜に来られる事の相違が無くば、口上(こうじょう)にてこそしかるべけれと、このように申せば、しからばそなた、良き様に伝えてくれよと云われたり」とまことしやかに云いくるめれば、衣手はしきりにうなずいて、
「そちは我が父の時より家の事を任せられしが、果たしてかかる才覚(さいかく)あり。いみじく計らえる者かな」とひたすら誉めて止まざりけり。

とかくする程に十五日になれば、黒姫、今板額、女鬼らはその夕暮れより山を下り、共に衣手の自宅に来れば、衣手は東面(ひがしおもて)の奥座敷に迎え入れ、用意の酒肴を置き並べ、様々にもてなして隈(くま)無き月を賞する時に、水内(みのうち)の目代の縄梨氏内(なわなしうじない)が兵を大勢引き連れて、衣手の自宅を取り巻いて、
「戸隠山の謀反人の女鬼、黒姫らの三人が今宵、ここにいる事を訴人(そにん)あって確かに知れり。早く絡め捕って引き渡せば良し。異議に及べば家内の者まで、一人も残さず縛(いまし)めん。いかに、いかに」と呼びはった。
黒姫、今板額、女鬼らはその声を遙かに聞いて、
「事既にここに及べり。早く我々に縄を掛け、目代に渡したまえ。巻き添えさせられたまうな」と云うを衣手は聞きながら、
「いかでさる事をせん。逃るべくは共に逃げ、逃げ難くば共に死なん。しばらくここで待ちたまえ」と云いつつ物見の窓を押し開き、
「人々、無礼したまうな。私(わらわ)の家に黒姫らをかくまった覚え無し」と云わせもあえず、氏内はからからと笑いつつ、
「おのれ、衣手。陳ずるな。証人はそこに在り」と指さすあたりに木樵の横七がしたり顔に進み出て、
「あの夜、黒姫らが汝(なんじ)に送る返事の文を斯様斯様の事により図らず我が手に入れたれば、逃れる道は無し。覚悟をせよ」とののしった。
衣手はこれを聞きながら、そのまま内に走り入り、螻蛄平を呼び近づけて、
「汝は掛かる事や有りか。さぁさぁ云え」と責められて、螻蛄平も今は隠すに由無く、
「その夜、道に酔い伏して、返事の文を失いし事はしかじか」と初めて白状すれば、衣手は怒りに耐えず、
「主を欺く不忠の痴(し)れ者。観念せよ」と息巻きながら懐剣ひらりと引き抜いて、只一討ちに螻蛄平をばらりずんと斬り倒し、再び物見の窓に立ち、氏内に向かい、
「事、既に顕れれば、今は早、是非に及ばず黒姫らの三人を絡め捕って出しはべらん。囲みを少し退けたまえ」と呼び張りながら身を固め、太刀を横たえ薙刀を脇挟み、家の四方へ火を掛けさせて煙の内より斬って出れば、黒姫、今板額、女鬼らも太刀(たち)抜きかざして皆遅れじと多勢の中へ割って入り、縦横無碍(じゅうおうむげ)に斬って回れば、寄せ手の大勢は辟易(へきえき)して討たれる者ぞ多かりける。
その勢いにかなうべくも見えざれば、氏内は馬を飛ばして命の限りに落ち失せた。激しき四人の働きに横七は驚き恐れて引き返し、逃げんとしつつも衣手に斬り伏せられて二つになって死んでけり。衣手は思い掛けなく、水内の討っ手に取り囲まれ、難に臨んでかりそめにも逃れる事を望まぬ男魂(おとこだましい)あるために、止むを得ず、先に進んで討っ手の多勢を斬り散らし、黒姫、女鬼、今板額ら諸共に家内の奴婢(ぬひ)を引き連れて戸隠山へ落ちて行った。

かかりし程に黒姫らは恩に応えて義を思い、▼衣手をうやまって、日毎のもてなし浅からず。されども衣手はこれを喜ばず、つくづくと思う、
「・・・・我は元村長の娘にして犯した罪は無いけれど、人に真(まこと)を失わじと思うばかりに罪人となりにけり。さればとて今更に謀反人の群れに入って、世に汚れた業をできんや。しかしながら帰るべき家も無し。我が師の綾梭殿は甲斐の武田に身を寄せると、かねて云われた事あれば、あの地に在るべけれ。尋ねて行って身の成り行きを頼まばや」とようやく思い定めれば、遂に黒姫らに別れを告げて旅の用意をする時に、黒姫、女鬼、今半額らは等しくこれを押し止めて、
「姉御、何故にあわただしく甲斐へ行かんとしたまうぞ。願うはここに留まり、浮世を安く送りたまえ。我々は今よりあなたに砦を譲りまいらすべし。もし又、不義の行ないを嫌う事あれば、木を樵り、衣を織りつむいでも、諸共に世を渡るべし。まげてこの儀に従いたまえ」と言葉を尽くして止めれども、衣手は既に思い定めた事なればとて、いささかも聞き入れず、
「ここまで従い来た奴婢(ぬひ)らは寄る辺無き身となった。彼らの事はともかくも宜しく頼みまいらせる」とねんごろにその意を述べて、早や発ちでんとすれば、黒姫らは別れを惜しんで、その日は様々にもてなしつつ、金一包みを贈りけり。
かくて衣手はその明けの朝未(まだ)きより砦を出て忍んで甲斐へおもむくに、奴婢らは名残を惜しみ、黒姫、女鬼、今板額ら諸共に麓の野辺まで送りつつ、涙を流して別れけり。
あぁ、衣手は心映え、男もまれな世にいさぎよい勇婦なりしが、図らずも罪をおかして万里の旅路にさまよう事、そもそも何かの業因(ごういん)ぞや。
これしかしながら、その昔、あの古塚を暴かれた代々に名だたる傾城のその亡き魂(たましい)の性(さが)を引き、女と生まれ、これとなりたる因果をここに果たすなるべし。
さる程に衣手は夜に宿り日に歩み、長月のなかば頃、武田家の城下の甲斐の府中に着いた。
ここは国主の城下で市町が賑わしく、繁華の地なれば、軒を並べた商人の種々なるその中に、見れば道の巷の方辺に尻掛けの長椅子を二つ三つ置き並べ、御休憩所としるした行灯(あんどん)を柱に掛けて煎じ茶を売る家あり。衣手はそこに立ち寄って椅子に尻を掛けて、汲み出す茶を飲みながら茶店の母(かか)に向かい、
「この城中に去年の頃、都より来た▼綾梭と云う婦人は在らずや。剣術、柔術を良くすれば隠れてはあらじ。いかにぞや」と問われて母(かか)は頭を傾け、
「この城内の女中たちに剣術、柔術の良いもあり、力の強いも少なからねど、さる名の女中は知らず」と事なれ顔に答える折から肥え太り色黒い大女で年は三十路ばかりで八丈絹の格子縞の小袖を二つ三つ重ねた上に同じ縞柄(しまがら)の羽織を着て、繻子(しゅす)の帯を脇のあたりに結び下げ、髪の結びは何くれとなく異風の扮装した者がこの茶店に立ち寄って椅子に腰を掛ければ、茶店のかかは会釈して茶を出しつつ、衣手を見返って、
「この女中は城内で斯様斯様の方様なり。只今、問われた事をも良く知って御座(おわ)すべし」と云うと衣手はうなずいて、椅子を離れて小腰をかがめ、
「いと失礼にははべれども。私(わらわ)ははるばる信濃路より人を尋ねて来た者なり。都より来た綾梭と云う女中は城中には御座(おわ)さずや」と問われて、その大女も椅子に片手を付きながら会釈して、
「その綾梭と云う女中は私(わらわ)もかねてその名を聞きぬ。そは筑井氏の娘で女武者所に召されたが、亀菊に憎まれて遂に都を逃(のが)れた綾梭殿の事なるべし。近頃、人が噂するには、その綾梭は若狭の武田殿に在りと云えり。武田は一つ家なれども甲斐と若狭に分かれて在り。あなたは若狭へ行かずしてこの地を尋ねては絶えて逢瀬のあるべからず」と云うと衣手は
「さては思い違えしなり。武田と聞きしを心あてに若狭か甲斐かと問わざりしはいと浅はかにはべりにき」としきりに後悔すれば、大女は微笑んで、
「そは今更に悔やんで詮無し。今つらつらと見るに、あなたも又、世の常の女中には在らず。苦しからずば名乗りたまえ」と問われて衣手は辞する由なく、
「今は何をか隠しはべらん。私(わらわ)は戸隠山の麓の女郎花村の長の娘で衣手と呼ばれはべり」と名乗るを聞いて大女は思わず横手をはたと打ち、
「さては近頃ここらまで世の噂に聞こえた浮潜龍衣手殿にて御座(おわ)せしよな。私(わらわ)は国主の母君様に仕(つか)えた端(はし)た者ではべりしが、母君が亡くなられし後は宮仕えを辞して、城の長屋に一人おり、見られる如き武骨者。十六七の時だにも、色も香も無き者なれば、人はあだ名して花殻(はながら)のお達(たつ)と呼ぶ。縁(ゆかり)無くばいかにしてあなたとここで面(おもて)を合わせん。なお語らうべき事あるのにこの場所は道ばたなり。いざ諸共に立ちたまえ。行って一献(いっこん)くむべきに」と割なく袖を引き立てれば、衣手も又、喜んで立ち出んとする時に、お達は後ろを見返って、
「茶代は明日又来る時に、我が一緒に置くべきぞ」と云うを女房は聞きながら、
「何かは茶代を求むべき。戻りにも又、寄りたまえ」と答えてやがて見送った。
かかりしかば衣手は花殻のお達に誘われ、行く事▼五六町にしていと広い巷(ちまた)のほとりに力持ちの技をして、大太刀(おおたち)を抜き、薙刀を回すなどして香具(こうぐ)を商う女あり。
立ち混んだ人の後ろより何ごころ無く覗いてみれば、初め衣手の居合の師だった人寄せの友代(ひとよせのともよ)と云う者なり。衣手はその名を呼び掛け、ほとり近く立ち寄りつつ、別れた後の恙(つつが)無きを互いにことぶき祝うのをお達は見ながら声を掛け、
「友代、私(わらわ)はこの姉御を伴って青善(あおぜん)へ行くなり。お前も共に行かずや」と云われて友代は小腰をかがめ、
「そはしかるべき事にこそ。私(わらわ)は楊枝、歯磨きを今少し商って後よりまいらん」と答えて再び諸人(もろびと)に物を売らんとすると、お達は待ちわびいら立って、
「友代、行くなら早く行け。この人々も何事ぞ。物をば買わず、いつまでも立ちすくんでいるやらん。日の短きを知らずや」と大声上げてにらみ散らすと群集は肝を潰して皆散り散りになれば、友代は是非無く片付けて物を茶店に預け置き、お達、衣手と連れだって青善楼へおもむきけり。
そもそもお達はその始め、国主の母君に仕えた時、安達(あだち)と呼ばれた端た者なり。彼女はあくまで力あって、三斗(さんと)の米を張った臼(うす)をあちこちと持ち運ぶのが自在なり。それのみならず、朝夕に棕櫚(しゅろ)の箒(ほうき)を持ち、棒の手を練習して一家中の武士にも及ぶ者無きに至れり。国主はこの事を聞いて、
「今、都には院の御所に女武者を召されると承る。云わんや武家に於いてをや。取り立ててほとり近く召し使わん」と宣うを安達は固く辞し申して、なお、そのままでありけると母君が亡くなられた時、武田殿は惜しんで安達に身の暇(いとま)をたまわらず、
「しかるべき武士に婚姻させるべし」と仰されたけれども、安達はこれさえ辞し申して、
「かく我ままな気質で顔形が人並みならねば、生涯人の妻となるとは思わず、御側近く召し使われる女中たちにはべれば、仕えた母君の菩提(ぼだい)の為に尼法師ともならんに、私(わらは)はいと末々(すえずえ)の者なれば、それさえ許されぬべし。所詮、御館(みたち)の外にいて一期(いちご)を送りはべらまし」と願えば武田殿は感じたまいて
「真(まこと)に奇特(きとく)の者なれば、彼女の願いに任せよ」と城の内に自宅をたまわり、
「宮仕えする女子で武芸を心掛けんと思う者には手鎌、寄棒、居合(いあい)の技を教えよ」と仰せられ、月毎の扶持米(ふちまい)、衣服の料まであてがわれた。
安達は達と名をあらためて、城外に出歩くが異風の装束(いでたち)なれば、人皆これを知らぬ者無く、市町(いちまち)の悪戯者も全てお達に恐れはばかって喧嘩口論もまれになりけり。武田殿はそれを喜び、彼女が漫(そぞ)ろに出歩くのをいささかも咎(とが)めたまわず、全てその意に任せたまうと、お達はその性(さが)騒がしくて一日も籠もりいる事得ならず、又、只、酒を好めば、酔う事は常なれども、さりとて過(あやま)ち無ければ、男勝りの大女とてその名は高く聞こえけり。

これはさて置き、お達はその日、衣手、友代を伴って青柳町の青善と云う酒楼に行き、多くの酒肴を出させて、相手に勧め我も飲み食いなどするとお達はその身の上を物語り、衣手も又、戸隠山の黒姫、女鬼、今板額らの事、▼我は義により真を感じて、討っ手の大勢を斬り散らし、戸隠山にも留まらず、遙々(はるばる)ここまで来た由を少しも隠さず告げれば、お達はひたすら衣手が人の為に難を思わず、その家をさえ失った心栄えを感じた。
かかる所に隣座敷に人在って、泣く声しきりに聞こえれば、お達はたちまち興(きょう)を醒まして手を鳴らし、この仕出し屋の小者(こもの)を呼んで、
「我が客人を伴い来て盃(さかずき)をすすめるのに、汝らは何の為に隣座敷に人を泣かせて酒宴の興を醒まさせる。我を女と侮(あなど)るか。その訳聞かん」と息巻けば小者は手を擦り頭を掻いて、
「御腹立ちは道理なれども、彼は日毎にここに来てお客の招(まね)きに応じる色子(いろこ)にて候が、心に悲しむ事あれば泣いているにやあらんずらん。童(わらべ)に等しき者なれば、無礼は許させたまえかし」とひたすら詫びれば、お達はうなずきながら、
「その色子は何かの故(ゆえ)に深く悲しむ事のあるやらん。さぁここへ呼び、私(わらわ)に見せよ」と急がすと小者は一議に及ばずに心を得て退(しりぞ)いた。
かくて、しばらく待つと年(よわい)十四五の美少年と六十路(むそじ)余りの老女がしとやかに来て、お達らに向かい、
「お客様方、お揃いにて、よくこそ居らっしゃいませ」と云いつつ頭を下げれば、お達は近くに呼び寄せて、
「お前らはいかなる悲しみあって、声立てて泣きたるぞ。その訳を隠さず告げよ」と云われて婆は目を押しぬぐい、
「私(わらわ)は鎌倉の者にはべるが、これなるは一人子で優之介(やさのすけ)と申す者。幼い頃より田楽(でんがく)の芸能を習わせて世渡りしたが、いささか障(さわ)る事あって鎌倉を出て、この地の縁(ゆかり)をあてにして親子で遙々(はるばる)来たけれども、縁の人は去年の冬に世を去ったと聞かされて、又、鎌倉へ帰らんと思う折から図らずも私(わらわ)がにわかに病み患(わずら)って長き旅寝(たびね)に多くもない路銀を使い果たしたり。
しかるにここより遠からぬ海老根橋のほとりの塩物問屋の貝那(かいな)と云うは後家持ちの商人で、その後見をする男を代野介兵衛(だいのすけべえ)と云う。さてその貝那は先頃、童田楽(わらべでんがく)の興業主をしたが、一人の太夫(たゆう)が不足なりと優之介を抱えんとその談合に及べども、その事は遂に成就せず、しかしながら貝那は優之介の給金百両の手形を書かせて、金を未だ渡さぬのに既に金は渡したと責める事大方(おおかた)ならず。
口惜しく思えども優之介は年まだゆかず、私(わらわ)は女、元よりこの地は旅にして相談相手となる者無ければ、今更、真空言(まことそらごと)を明らかにする事叶わず、只その負い目を償(つぐな)う為に日毎にここの座敷を借りて、優之介の和楽器の調べを当座の便宜(よすが)にて来た客を慰めつつ、いささかなる銭をたまわり、その半分を旅籠(はたご)の料とし、その半分を百両の利息に貝那に渡せども、もし一日でも遅れれば、責め徴(はた)られて耐え難し。しかるにこの三日はさせるお客の無きにより貝那にひどく徴(はた)られて、いかなる辛き目をや見んと思う苦労が胸に満ち、嘆いておりました」と云えば、又、優之介も
「只今、母が申した如く、由無き嘆きに声を漏らして御機嫌を損ねたは大方ならぬ過(あやま)ちなり。許したまえ」と諸共に詫びつつ涙にかきくれた。
お達はこれを聞き憤(いきどお)りに耐えず、
「お前ら、心を安くせよ。我が全て引き受けてこころざすす方へ発たせん。何処(いずこ)を宿にしているぞ」と尋ねれば親子は喜びひれ伏して、
「もししからんには再び生きる御恵みなれ。ここより五丁目の寝倉屋(ねぐらや)宿六(やどろく)という旅籠屋を宿にしてはべる」と云う。
その時、お達は懐(ふところ)より金三両を出し、衣手を見返って、
「我は今日、ちとばかりの呉服物を買おうと思って持ち合わせはこれのみなり。あなたの路銀を貸したまえ。明日には必ず返すべし」と云うと▼衣手はうなずいて、
「それはいと易き事なり」と小判十両を取り出して、脇取り盆の上に置いた。
お達は又、友代に向かって、「そなたも少し貸せ」と云えば友代は渋い顔で、わずかに金弐分を渡せば、お達はこれを投げ返し、十三両を一つにしつつ優之介親子に取らせ、
「これを路銀に明日には親子でこの地を立ち去れ。夜も明ければ旅籠へ行き、私(わらわ)が見立てて出発させん。今より心構えをして私(わらわ)を待ちね」とねんごろに諭(さと)せば、親子は伏し拝んで、人々に暇乞(いとまご)いして忙わしく旅籠へと戻っていった。
お達はしきりにその事の腹立たしさに耐えざれば、再び小者を呼び寄せて、わずかに残った小粒二つを紙にひねって投げ与え、
「今日の持ち合わせはこれのみなり。足らずば自宅へ取りに来よ」と云うと小者は受け戴いて、「これでは余り候(そうら)わん」と云うをもよくも聞かずして、「いざ」とやがて立ち上がれば、衣手、友代も諸共に続いて下屋へ降り立って、門(かど)よりおのおの引き別れ、衣手は旅籠へ行き、友代は己(おの)が出張(でば)りする元の巷(ちまた)へ急ぎけり。

かくてお達は明けの朝、優之介らが宿する寝倉屋へ行って見ると、その親子は既に旅立ちの用意をして、宿銭(しゅくせん)なども宵の間に残り無く主人に渡してひそかにお達を待っていれば、忙わしく出迎えて、その厚恩(こうおん)の喜びを述べるのをお達は聞きながら「それは無用の口義(こうぎ)なり。さぁさぁ行きね」と急がすと、優之介は母親諸共に草鞋(わらじ)の紐(ひも)を引き結び、暇乞(いとまご)いして出ようとすると主人の宿六が驚いて押し止め、
「お前ら親子はなまよみ屋に百両の借金あり。しかるを他国へ逃げさせては我がその祟(たた)りをのがれ難し。その金が済むまでは何処へかやるべき」と言葉せわしく息巻いて引き戻さんとすれば、お達はまなこを怒らして、
「その百両は私(わらわ)が返さん。かくても聞かずとどめるか」とにらみ付けた勢いに宿六が思わずも後ずさりをするその間に優之介らは走り去り相模路指して急ぎけり。
お達は心にあの親子を遠く逃がすために、店先に尻を掛け、いつまでも出て行かねば、宿六はその事を貝那に告げようと思えども、お達がここにいては、その事も叶わねば、気をのみ揉んで時を移すと正午(まひる)の頃になれば、お達はそろそろ良き程なるべしと、思えばここを立ち出て又、なまよみ屋へ向かいけり。

折から貝那は店におり、今、お達が来るのを見て忙わしく小腰をかがめ、
「お達様、珍しく何の御用で来ませしか」と問えばお達は
「然(さ)ればとよ、奥方様の御用あり。塩鮪(しおまぐろ)の血合い無い所を一升(ひとます)ばかり賽(さい)の目に刻んでまいらせよ」と云うと貝那は心得て、男妾(おとこめかけ)の介兵衛に切らせようとするのをお達は急に押し止めて、
「否(いな)、他の者が切るのは御用には立ち難し。そなたが刻んでまいらせよ」と云うと貝那は止むを得ず、自ら鮪を細かく刻んで、大きな竹の皮、三つばかりに包み重ねて渡すのをお達は下げて、
「これのみにてはなお足らず。塩鮪の血合いばかりをよく刻んでまいらせよ」と云うと貝那は呆れ果て、
「鮪の血合いを何にせん」と一言返せば、又一言、言葉の争いついつのり貝那はお達に顔を背けた。

<翻刻、校訂、現代訳:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>


けいせいすいこ伝 初編第四
馬琴作 豊国画 仙鶴堂梓

貝那が無視して鮪の血合いを切ろうとせねば、お達は眼(まなこ)をいからして、
「何故に刻んでまいらせぬ。上の御用を知らずや」と声荒立てて、「さぁさぁ」と催促すると、仕方無くも貝那は血合いを細かく刻み、「いざ」と渡せば、お達はこれをも手に下げて、
「また、この他に望みあり。塩鮪の骨だけを一升刻んでまいらせよ」と云うと貝那はむっとして、
「何故に戯(たわむ)れたまうぞ。上の御用を権にきて強請(ゆす)りに来たか」とつぶやけば、お達はこれを聞きながら、
「強請りに来たとは誰が事ぞ。おのれら如き衒妻(げんさい/卑しい女)に戯れ云うとも誰がとがめん。今一言返してみよ。返事をせずや」とののしった怒りでお達は下げた鮪をはたと投げれば、貝那は顔面痛く打たれて包みは解けてあちこちへ散り乱れ飛ぶ塩鮪の血合い。
才覚あれども、貝那も今はこらえかね、
「おのれ、尼めが何するぞ」と息巻きながら脅しの包丁ひらめかし、打たんと進むをお達は得たりと身をかわし、刃(やいば)を丁と打ち落とし、ひるむ所を胸倉つかんで塩物台の片隅へ早や押し付けて動かせねば、介兵衛は「あなや」と驚き騒ぎ引き離さんと立ち寄るところをお達は右の足を出し、はたと蹴れば、介兵衛は金玉を蹴られて「あっ」と叫んで後ろざまに倒れた。

これより先に宿六は優之介親子の事を早く貝那に告げんとて、この店先まで来たれども、お達がここに来ていれば、入りかねて塩物俵(たわら)を楯(たて)にして、この有り様に驚き恐れて立ちも得去らず息もせず、▼なおも様子をうかがった。
その時、お達は声振り立てて、
「貝那、お前の手並みは知っている。汝に罪咎(つみとが)多くあり。貧しき者に銭を貸し、利を貪(むさぼ)ることはなはだしく、催促もひどければ、遂に子を売り家を失い、路頭に立つ者少なからずと世の噂に聞こえたり。それのみならず近い頃、優之介親子をだまして、貸しもせぬ百両の借金を負わせて利息を取り、彼ら親子に難儀(なんぎ)を掛け、親子の身の油を絞り取ったはこれ上も無き非道ならずや。且つ、汝は数にも足らぬ商人の後家にして、甲斐の城下に在りながら、なまよみ屋と家名(かめい)するは身の程を知らぬなり。 かくまで犯せる罪咎の天罰を思い知らせん」と罵(ののし)り攻める拳(こぶし)を固めて眉間(みけん)をはたと打ち込めば、鼻血たくたくと流れ伝って、蘇芳(すおう/赤紫)の徳利を倒した如く、目の玉高く飛び出して壁より落ちる蝸牛(かたつむり)に似たり。

貝那は既に大力に胸倉を取られて、息も絶え入るばかりなのに、今、又、眉間(みけん)を痛く打たれて、いかでかはたまるべき。たちまち「うん」とのけぞるところをお達はなおも怒りに任して、続けて三つ四つ打てちば、もろくも息は絶えにけり。
お達もこれに驚いて、
「此の衒妻(げんさい)めが、術(じゅつ)なき空死(そらじ)にをしたとて、誰がそれを真(まこと)にすべき。この事を訴え申して明(あか)さ暗さを立つべきぞ。覚えていよ」とののしりながらひるまぬ様に歩み出て、やがて自宅に帰れども心の内は安からず、独りつらつら思う様、
「・・・・一時の怒りに任せて、貝那を殺したのは女に似合わぬ過ちなり。さればとて彼女らの為に下手人(げしゅにん)となるは口惜(くちお)しい。只、すみやかに難を逃れて又、ともかくもせばや」と心ひとつに思案をしつつ、少しの路銀を腰に付け、早くも逃走したりけり。

さる程に、寝倉屋の宿六はお達が出て行くのを遅しと、その事をあたりの人に告げ知らせ、諸共に店に入ると、既に貝那は眉間(みけん)を破られ、目の玉さえも飛び出して、死に絶えたれば術(すべ)も無し。介兵衛はようやく息を吹き返し、お達の事を人々に説き示し、さて宿六を証人にて国守へ訴えた。
されば又、甲斐の国主の武田殿はこの訴えを聞いて密かに思いたまう、
「・・・・その達は力強くて男魂ある者なのに酒を貪(むさぼ)る癖あれば、さる過(あやま)ちをしだしたならん。真(まこと)に不慮の事なり」と心に哀れみたまえども、何ともできねば、「まず早や、喧嘩の相手の達を捕らえよ」と仰せける。
これにより市の司の跡部今之進(あとべいまのしん)は承って、組子(くみこ)をお達の自宅へ使わし、絡め捕らんとすれども、お達は既に逃走して行方知れずと聞こえれば、この詮索に長き日を送り、事果てる様子もあらざれば介兵衛は恨みいきどおり、
「相手が身内の女なれば、行方の知れぬを幸いに贔屓(ひいき)の沙汰(さた)をせられるならん。ならば鎌倉へおもむいて愁訴(しゅうそ)をせん」と息巻いた。
こと今更に私(わたくし)の加減するべき事でも無ければ、武田殿もしかじかと鎌倉へ聞こえ上げて、公沙汰(おおやけざた)に任せられ、鎌倉の執権北条義時の下知として▼早や国々に触れ流し、お達の行方の詮索が厳重になりにける。

かかりし程に花殻のお達は甲府を出てより、さして行方は定めずに足に任せて走りつつ、近江の大津をよぎる時、札の辻と云うほとりで新たに掛けた高札あって見る人多くたたずめり。
「此(こ)は何か」と思うとお達もそこに立ち寄り、笠押し上げて仰(あお)ぎ見るが、元より無筆なれば、何の故(ゆえ)とも知る由無きを人に問うのはさすがにて、なおつくづくと見る折からたちまち後ろに人あって、
「お花女郎、うかうかと何してござる」と呼び掛けながら背中を叩く者ありけり。
お達はこれに驚き見返れば、この人はこれ、思い掛け無き優之介の母親の葉山(はやま)なり。こはいかにと問おうとするを葉山は目配せで押し止めて、人無き所へ伴いつつ、あたりを見返り、声をひそまし、
「お達様、いかなれば身をも思わず大胆な。あの高札はあなたの行方を尋ね求める人相書きで、絡め捕って引き出せば、百貫文の褒美銭をたまわらんとある下知文なり。さても危うい事なり」と云うとお達は初めて悟って、
「さては我が身の上の事なりけり。私(わらわ)はあの日、そなたらを発たせし後も怒りに耐えず、斯様斯様の事により貝那を殺し、罪を逃れるためにその日甲府を立ち去って、行方定めずここらを過ぎるなり。さてもそなたは何故に鎌倉へ帰らずしてこの地におるやらん」といぶかり問えば、
「然(さ)ればとよ。私ら親子はそなた様の大恩で鰐(わに)のあごを逃(のが)れしより、鎌倉へ行く折に、道にて同郷人に行き会うたり。さてその人が云われるは遊芸で世を渡るには鎌倉へ帰るより都の方こそ良かめり。我も商いの為に遙々(はるばる)と都へ行こうとする折、いざ伴わんと云われれば、遂にその意に任しつつ、この大津まで来て杖(つえ)を留め、都の便宜(びんぎ)を求めるとここより一二里上方(かみがた)の山科(やましな)に百倉(ももくら)長者と呼ばれ家富み栄える郷士あり。その長者は近い頃、顔形良い少年で小鼓(こつづみ)に技ある者を童小姓(わらべこしょう)に求めたまうと仲立ちする者があるにより、幾程もなく優之介は百倉殿にまいり仕(つか)えて寵愛の者にせられたり。しかるに大津と山科の間で近江と山城の国境を追分の里と云う。その追分に百倉殿の別荘はある。されば長者は優之介を寵愛のあまり、私(わらわ)の事さえ世に頼もしく思われて、母親が世に在らんには豊かに養えんとて、追分の別荘を私(わらわ)親子に守らせて折々通いたまうのみ。優之介はもちろん、母さえ豊かに暮らす事は百倉殿の恵みなれども始めを云えばあなたの大恩、いつの世にも忘れはべらん。追分へは程近し、優之介にも対面して長旅の疲れを休らえたまえ」と涙ながらの身の上話に他事(たじ)無く袖(そで)を引き立ててその別荘へ伴った。
お達は思い掛け無くも由ある人に巡り会い、その有り様を再び見て、物語りを聞くにつけ、実(げ)にも葉山の身の回りは甲斐の旅籠に在りし日のやつれし体(てい)に似るべくも無く、
「・・・・さてしも人の行く末は予ねて知られぬものなりき」と心の内に感嘆しつつ、伴われつつ行くと早や追分の里に来にけり。
巷(ちまた)より南に一町ばかり入りたる冠木門(かぶきもん)の一構えはこれ百倉の別荘なり。
葉山は先に進み入り、
「優之介は御座(おわ)さずや。大恩人が来ませしに、さぁ出迎えたまえ。もしもし」と呼び立てれば、優之介は忙わしく玄関の小障子(こしょうじ)を押し開き、お達を見て驚き、且つ喜んで走り寄り、
「これはそも神の導きにて。よくこそ遙々(はるばる)来ましたれ。いざ」と奥へ伴って親子右より左よりそのもてなしは浅からず、
「我々親子がかくまで世を安らかに送る事はそなた様の御恩によれり。しかるにあなたが人殺しの罪人となりし事はこの里までも隠れ無く、百貫文の褒美をかけて、今、公(おおやけ)より尋ねたまうを聞くに付けても、胸苦しさは短き言葉に尽くし難し。主にて御座(おわ)する百倉殿にもかねてあなたの心栄(ば)え、我々親子が大恩を受けた事を忍びやかに告げ申せしが、富んだ人には御座(おわ)すれども男気のある性なれば、しきりに感じ哀れんで、「そのお達とやらが、ここらへ来る事あれば、ともかくもして匿(かくま)うべし」と世に頼もしく宣った。
かかれば密(ひそ)かにあの方様にあなたに巡り会った事を告げれば、大恩を返す縁(よすが)となりもやせん。まずはくつろいで語らいたまえ」と代わる代わるに慰めて肴を整え、酒を温め、二階座敷へ席を設けて、もてなし大方ならざれば、お達は憂(う)かりしこの頃の旅の疲れを忘れるまでに盃を傾けて、あの日は胸のもやもやと憤(いきどお)りが治まらねば、なまよみ屋へ行って思わず貝那を殺したその体(てい)たらくは斯様斯様と始め終わりを物語れば、優之介も母親も肝を潰してその勇力をしきりに驚嘆(きょうたん)した。
かかる時に表の方では多くの人音がして「盗人(ぬすびと)女を逃がすな」と下知する声と諸共に、捕り手か勢子(せこ)か六七人が「承りぬ」と答えつつ、二階を目掛けてむらむらと昇らんとひしめいた。
お達は早くこれを見て、
「さては我が身の上の事なり。打ち散らして逃げ去らん。物々しや」と云いながら、方辺(かたへ)の銚子をつかみ取り、礫(つぶて)に打たんと立ち上がるのを葉山は急に押し止め、
「逸(はや)って過ちしたまうな。あれは主の人々なり。定めて事の訳あらん。まず待ちたまえ」と云いかけて走り下りつつ表に出て、捕り手の大将に、「何事やらん」と囁けば、又、あの人も囁いて笑うほどまで心ほどけて、手の者どもを退かせ、葉山と共に内に入った。
その時、葉山は忙わしく、元の二階へ上り来て、
「お達様、心安かれ。来たのは別人ならず、優之介の主の百倉の君なり。小鳥狩りの帰る途中にこの別荘へ立ち寄る折で、供の人々があなたと優之介が酒盛りするのを仰ぎ見て告げれば、百倉殿はいぶかって、さては優之介が鎌倉に在りし時の馴染みの客の後家などが都上りの折を得て立ち寄ったにあらんずらん。そはともあれ、かくもあれ、人の秘蔵の美少年を我が者顔に遊び戯れ、我が別荘を踏み荒らすのは憎むべき痴れ者(しれもの)なり。詮索せよと下知すれば、若き供人が勇みたち、ひしめいたにはべるとよ。しかるに私(わらわ)がしかじかと主に囁き申せば、笑い且つ喜んで、供人らを押し止め、彼らをこと如く、山科へ帰し、百倉殿が只一人、あなたに対面すべしと下座敷に御座(おわ)すなり。気使いたまう事ならず」と言葉せわしく▼説きさとせば、お達は聞きつつ微笑んで、
「さては間違いなりか。由なかりき」と襟(えり)かき合わせて元の座席に着くと、百倉長者は静々と箱梯子(はこばしご)を昇り来て、お達に向って慇懃(いんぎん)に、
「かねてその名は隠れ無き、優之介らの恩人の花殻殿にて候よな。それがしは百倉なり。あなたが武芸に優れた男魂ある事はこれなる親子の物語りで伝え聞いて候。しかるにあなたが彼らの為に罪人となりし事は心苦しき限りなり。それがし一重に優之介の男色にひかれる故(ゆえ)にかくの如く云うにはあらず。身不肖(みぶしょう)には候(そうら)えども義の為には財を惜しまず、多く得難き義女(ぎじょ)と知りつつ、ちとの助けにならんや。ともかくもして匿(かくま)わん。この地に留まりたまえ」と云う人の真(まこと)の大方ならぬにお達は喜び感激して、計らず葉山に巡り逢ったこの日の事を物語る。

かくて又、百倉長者は葉山親子に心を得させて肴を添え盃を改めて、さらにお達をもてなす程に早や黄昏になりにけり。その時、長者はお達に向かって、
「ここは大津へ近く街道へも程遠からねば、隠れ家にはよろしからず。されば今宵、山科の我が母屋へ伴うべし。あなたの心はいかにぞや」と問えばお達は一議に及ばず、
「我が身は網を漏れた魚なり。いかで住処(すみか)を嫌うべき。ともかくも」と答えれば、百倉はその夕暮れに密かにお達を伴って山科の自宅へ帰った。
しかれどもお達は★姿むくつけき、よしや義勇の女なりとても、身近く置くのはさすがにて、女子部屋のほとりの一間を起き伏しの所と定めて、朝夕は妻に預け、百倉は昼に酒肴を用意させ、日毎に自らお達をもてなし、武芸勇力の物語にをさをさ興(きょう)をもよおす折から優之介は母親諸共に追分の里より来て、主の百倉に囁く様、
「あの日、君が別荘へ立ち寄られた時、女を絡めて詮索せよと供人らに下知されながら、又、故(ゆえ)も無く止めてあの人々をそのまま主屋(おもや)へ帰したのを▼あたりの者が垣間見て疑わしく思いけん。さしたる用も無き者が問い訪ねる事もあり、ある日は背戸よりうそうそと奥を覗く事もあり、油断のならぬ人心、この所さえ嗅ぎ付けられれば、事の災い図り難し」と告げるをお達も聞きながら、
「さては早や人が知りつらん。しかるをここに忍びいて、長者一家を巻き添えすれば、後悔そこに立ち難(かた)し。この日頃の恵みは忘れる時無し。再会は只、天に任せてすみやかに立ち去るべし」と云いつつ帯を結び直し、早や発ち出んとした。
お達は人を巻き添えさせじと思えば、急に身拵(みごしら)えして暇乞(いとまご)いして出んとするのを百倉長者は押し止めて、
「さのみは先を急ぎたまうな。甲斐一国の沙汰(さた)にはあらず、今鎌倉より国々へ残る隈無く触れ示されたあなたの行方の詮索は何処(いずこ)の浦とて安穏なるべき。さるを知りつつ放ちやれば、優之介親子は更なりそれがしとても義に背(そむ)く、心にこころ良しとせん。それがし一つの謀(はか)り事あり。あなたを遠くやらずして追捕(ついほ)の沙汰を逃(のが)れるべし。なれどもあなたの気質にて得心(とくしん)無くば仕方無し」と云うのをお達は聞いて、
「我が身は死すべき罪人なのに、幸いにして事無くは何をか否(いな)み嫌うべき。まず、試みに説き示したまいね」と答えて元の座に返れば、百倉長者は喜んで、
「その一議は別事にあらず。ここより程遠からぬ白川の山中に龍女山(りゅうにょさん)無二法寺(むにほうじ)と云う尼寺あり。これは鳥羽院の御時に待賢門院(たいけんもんいん)の御願所(ぎょがんどころ)として建立された七堂伽藍(しちどうがらん)の大寺なり。
保元、平治の乱れより、坊領なども修行を怠り、すこぶる衰えたが故(ゆえ)あって我が祖父の百倉太夫(だゆう)が伽藍を再興したにより、今それがしに至っても第一の檀家なり。しかるに我が母が世に在りし時、祖先の菩提(ぼだい)の為に一人の女子を剃髪(ていはつ)させて、その無二法寺の尼に成さんと思い起こせし事ありながら、その女子を得ざれば宿願(しゅくがん)もむなしくなった。あなたが今、その寺に赴(おもむ)いて剃髪して尼となれば、追捕の沙汰を逃れるべく、我も又、亡き世の宿願を果たす喜びあり。かかれば、萬(よろず)の料足(りょうそく)はそれがし全てまかなうべし。この儀に従いたまわんや」と問われてお達は一議に及ばず、
「それは我が予ねての願いなり。初め武田殿の母君に仕えしが、母君が亡くなりし時に菩提をも▼訪(とは)ざりしは身のいやしきによってなり。されども一生不犯(ふぼん)にして人の妻とはなるまじけれと思い定めし事なれば、真(まこと)に勿怪(もっけ)の幸いなり。ともかくも計らいたまえ」と云うに百倉は喜んで、にわかに度牒(どちょう/出家証明)、袈裟(けさ)、衣(ころも)、布施物までも用意しつつ、次の日、お達を一挺(いってい)の乗り物に乗せ、供人多くに用意の品々、布施物などを担(にな)わせて無二法寺に赴(おもむ)いた。
 かくて早や、山門(さんもん)近くになり、無二法寺の接待役の尼が三人の比丘尼(びくに)達を引き連れて門まで出迎えて、まず時候(じこう)を述べ、安否を尋ねて、客殿へいざなった。
その時、お達はあちこちとその境内を見ると、十六間(けん)の本堂には丈六(じょうろく)の観世音を安置して、七間の経堂あり、六角の輪蔵(りんぞう)あり、五重の塔は雲を貫き、一滸(いっこう)の池水(ちすい)は影さえ見えていと清し。いわんや、又、霞み込めた学寮には無明(むみょう)の酔いを醒ますべく、蓮の糸繰(く)る織殿(おりどの)には当麻寺(たいまでら)の昔も偲ばれる。時知り顔に咲く花は松、檜(ひのき)の間を彩り、友呼び交わし鳴く鳥は迦陵頻伽(かりょうびんが)もありやと思われる。とうとうたる滝の糸、爛漫(らんまん)たる藤葛(ふじかずら)。かれは白妙(しろたえ)これは紫、いずれか糸を乱さざらん。まことにこれ奇麗、壮観、目を驚かす大寺なり。
 されば住職の尼法師は齢(よわい)六十余りにして、妙真(みょうしん)大禅尼(だいぜんに)と称せらる道徳無双の名僧なり。今日は当山第一の檀家の百倉長者が参詣の聞こえあれば、方丈(ほうじょう)に招き入れ、茶や菓子をすすめ、いと懇(ねんご)ろにもてなした。その時、百倉は膝(ひざ)を進めて、
「それがし、今日の参詣は別(べつ)儀(ぎ)にあらず。召し連れたのは従姉妹(いとこめ)で初めの名を安達(あだち)と云い、二親(ふたおや)ともに世を去って兄弟も短命なり。親同胞(はらから)の菩提の為に尼になる事を願えり。それがしが施主となって万事をまかない候(そうら)わん。御弟子と成し下されて御寺(みてら)に留め置かれれば、此の上も無き幸いなり。この儀、御許容あれば今日でも吉日なり。剃髪の儀を仰せ付けらるべし」と述べ終わり、多くの布施物を取り出して、うやうやしく参(まい)らせれば、妙真禅尼はうなずいて、
「大檀家の所望と云い、年若き身が世を厭(いと)うて尼になろうと願われるはまことに殊勝(しゅしょう)の事なり。さらばまず、その用意をせん。小座敷に赴(おもむ)いて齋(とき/食事)を参って休息あれ」とたやすく引き受ければ、百倉長者はお達と共に小座敷に退きつつ、人無き折を見合わせて、お達の耳に口を差し寄せ、
「今、この寺の弟子となって教えを受ける立場ながら、我等と同じく押し並んで、住職の禅尼に向かっても頭も下げず横柄なのは片腹痛き事なり。今より萬(よろず)に慎んで、同宿の比丘尼達に笑われたまうな」と囁けば、お達は「実(げ)にも」とうなずいて、これより後は百倉の後に付いて居たりける。
これはさておき、その夜、年老いた比丘尼五六人が密かに住職のほとりに参って、
「今日、剃髪の願いを許されたお達と云う女を見るに、身の丈高く色黒く、眼(まなこ)つぶらに肥え太り、▼世の常ならぬ面魂に立ち振る舞いさえ無骨なり。斯様な女子を出家させて当山に留めれば、遂にいかなる災いを引き起こさんも計り難し。御思案あらま欲(ほし)けれ」と言葉ひとしく申すのを妙真禅尼は聞きながら、
「人は形によるものならず。よしや醜き女子なりとても、その剃髪を許さずば第一の檀家の百倉長者が恨みやせん。さる時は寺の為によろしき事にはあらず。我はまず彼女が行く末を見ん」と宣いつつ、香をたき、秘文を唱(とな)え、しばらく瞑想し、又、比丘尼達に示したまう、
「彼女は古(いにしえ)の世に名だたる傾城の再誕なり。前世の業因(ごういん)で今は仕合せ悪けれど、行く末で必ず仏果(ぶっか)を得るべし。後に気づくのを待つこそ良けれ」と示したまう。
かくて早や時刻になれば、鐘を突かせ、太鼓を鳴らして多くの尼を整々(せいせい)と本堂に集め、百倉長者も衣服を改め、お達を引き連れ、本堂に進み入り、香をたき、仏を拝み、更に住職を敬礼して席に着けば、一百余人の比丘尼達は二側(ふたがわ)に並び立ち、合掌、礼拝、規律を守って鉦鼓(しょうこ)を鳴らし、整々(せいせい)と経読む声ぞ澄み渡る。
 かくて二人の稚児(ちご)が進み出て、お達を高座のほとりに誘い、膝まつかせれば、介添えの尼が立ち寄って、お達の練りの帽子を脱がせ、髻(たぶさ)を解いて、あちこちと分けて九つに束ねれば、剃り手の比丘尼は後ろより剃刀を手合わせして、お達の黒髪を剃り落とした。
 その時、妙真禅尼は高座に在って偈(げ)をとなえ、お達に法名を妙達(みょうたつ)と授け、まず三帰(さんき)を示したまう。
「三帰は帰依僧(きえそう)、帰依仏(きえぶつ)、帰依法(きえほう)、これなり。又、五戒(ごかい)を授けたまう。いわゆる五戒は一に殺生(せっしょう)する事なかれ、二に盗みをする事なかれ、三に色欲邪淫をしずめ、四に酒を飲む事なかれ、五に虚言(そらごと)を云う事なかれ」といとおごそかに示したまうが、お達は剃られた黒髪が今更に惜しければ、ひたすら頭を撫で回し、云われる事が耳に入らねば、介添えの尼が方辺より、「よくするや、否(いな)や、申さずや。これなうなう」と教えるとお達はようやく気づいて、「呑み込みました」と答えれば、皆々思わず吹き出してしばし笑いが絶えざりけり。

かくて法縁こと果てれば、百倉長者は比丘尼達に布施を出し、喜びを述べ、住職住持に別れを告げて山科へと帰るに、新尼(にいあま)の妙達は接待役の尼達と共に山門のほとりまで▼送りけり。その時、百倉は妙達を方辺(かたへ)に招(まね)いて、
「既に頭を剃って仏の道へ入りたれば、昨日までのお達にあらず。万事わがままを慎んで、姉弟子たちにうとまれたまうな。我は又、折々食物と衣服を送り使わすべし。堅固に修行したまえ」とねんごろに教訓して別れて山を下りける。

かくて同宿の比丘尼達は妙達を学寮に伴い、朝夕の勤めを指南し、ひとつひとつを教えれども妙達はよく聞かず、只うろうろと立ち歩き、ある日は欲しいまに昼寝してわがままにのみ振る舞えば、同宿の尼は気疎(けうと)く思って妙達を呼び覚まし、
「全て女子は起き伏しに行儀を慎むものぞ。まして尼法師たらん者は智慧を磨いて、彼(か)の岸へ至るべき工夫にのみで暇(いとま)無き者なるに、昼寝する事やある。いと漫(そぞろ)なり」と恥しめると妙達は聞いて頭をもたげ、
「我もそこらの工夫をせんと心を鎮めておるものを妨げすな」と腹立てば、同宿の尼はうなずいて、「良きかな、良きかな」と讃えしを妙達はなおつぶやいて、
「我等は薪を割りには来ず。斧を尋ねて何にかせん。知らず知らず」と答えれば、皆々どっと笑いけり。これのみならず妙達は学寮の後ろに出て小便を垂れ散らし、無礼大方ならざれば、監主(かんす)の尼達はこらえかね、住職に訴え申せども、妙真禅尼は取り上げず。とどのつまりで比丘尼どもをなだめたまえば、さては禅尼の片押しで彼女のみを引きたまうといきどおりに耐えねども、又、仕方も無かりけり。
 かくて早や、五六か月を経る程に神無月の初めとなって小春の空は暖かなれば、或る日、妙達は山門の向こうに出て独り風景を眺めると、冬の日は影が短く、七つ下がりになりにけり。かかる所に麓の方より
「燗酒(かんざけ)、燗酒、黒麦(くろむぎ/蕎麦)」と二声三声呼びながら、荷桶と箱蒸篭(はこせいろ)をになう一人の商人が石坂を昇り来て、山門のほとりに休みぬ。妙達はこれを見て、
「・・・・我が甲斐の府中に在りし頃は日毎に巷(ちまた)を出歩いて、酒を飲まざる事は無かりしに、百倉長者が我をすすめて尼法師と成せしより一滴も酒を飲まず、生臭物(なまぐさもの)は目にも見ず、気力衰え骨離れし口中(こうちゅう)空しく糞水(くそみず)を流すのみ。云わんや又、近頃は百倉長者が疎(うと)くて煮染(にしめ)一重も贈らねば、喉(のど)を潤す手段も無し。良き物来たり」と喜んで、その商人をまねき近づけ、
「お前が売るのは酒なりか。二合半ばかり温めて蕎麦切りも、さぁ持て来よ」と云うと商人は呆れ果て、
「あなたは未だ知らずにおわする。この寺の尼達は酒を飲む事を許されず、それがしは只、門番の下男、飯炊き掃除の男たちにこれらの酒を売れるのみ。もし尼達に売る時は寺より咎(とが)めを受けて世渡りを成し難し。それがしはこの麓の寺領の内の借家におり、商いの元手まで、この寺より貸りて妻子を養う者なるに、今この酒をあなたに売られようや。なぶりたまうな」と呟けば、妙達は、
「それらのいわれ在りとてもこの所には人も無し。誰が見咎(みとが)め、誰に告ぐべき。さぁさぁ酒を飲ませよ」と云うを商人は聞かぬ振りして早や立ち去らんとする時に、妙達はこらえられずにつと寄って腕をしかと取れば、商人は大力に二の腕を取り詰められて、「痛し、痛し」と叫びながら引き離さんともがくと妙達は「左(さ)もこそ」と突き放せば、三間余りも消し飛んで、しばしは起き得ざりけり。
 その間に妙達は荷桶に在った三つ四つの徳利を手早く取り出して、手酌で茶碗へ傾け傾け、幾杯となく飲めば、片荷の酒を一と雫も残さぬまでに飲み干したり。
 その時に燗酒売りは顔をしかめ、膝をさすって、ようやく身を起こすのを妙達は見返って、「酒の値(あたい)は明日取らせん。寮まで取りに来よかし」と云うのを聞かず、商人は忙わしく荷をにない、
「いかでか酒の値を取るべき。くれぐれもこの事は人に云いたまうな」と云いつつ、やがて石坂道を麓路指して馳せ下りた。その時、妙達は後ろ姿を見送って、からからと笑いつつ、なおあちこちと徘徊(はいかい)し、半刻(はんとき)ばかり過ごすと、酒の気、次第に湧き上り、ひどく酔った癖なれば、よろよろひょろひょろと足の踏む所を覚えず。既にして入相(いりあい)の鐘がかうかうと鳴る頃に、▼裳裾(もすそ)をかかげ腕まくりして、門内へ入らんとするのを門番が見て大きに驚き、あわてふためき、三人が走り出て押し止め、

「汝もこの寺におれば、寮毎に掛けられた法度(はっと)書きは読んでおらんや。五戒を破り、酒を飲む尼法師があるならば、袈裟衣を剥ぎ取って、追い出すべしとなり。しかるに今、食らい酔って帰り来る汝を許して内へ入れれば、我々の落ち度となる。後日の咎めを逃れ難し。さぁさぁ足の向く方へ立ち去れ」と息巻いて追い出さんとすれば、妙達は猛(たけ)って眼を怒らし、
「小賢(こざか)しい破戒(はかい)呼ばわり。我が酔うに、汝らに何の落ち度があらん。妨げすな」と罵(ののし)って、掻き分けしりぞけ、よろめき進む。勢い当たり難ければ、一人は走って監主の尼にかくと告げ、二人は棒を突き立てて、なおも入れじと支えれば、妙達はますます怒ってやにわに棒を引きたぐり、滅多打ちに打ち散らす。さる程に監主の尼は門番の知らせによって驚き騒いで、あちこちより下部どもを呼び集め、「破戒比丘尼の妙達を捕り鎮めよ」と下知すると妙達は早や門番を東西へ走らせた勢いに任せつつ、学寮指してよろめき来れば、同宿の比丘尼達はあわやとばかりに押し合いへし合い逃げ迷い、蔵の内へと閉じ篭るのを妙達はなお逃がさじと、蔵の網戸を打ち破り進み入らんとする程に、下部どもは妙達が武芸力量あるのを知らず、酔って狂うと思うのみで追っとり込めて押さえんと、皆むらむらと立ち寄る所を妙達はおっとおめいてつかんでははたと投げ、或るいは蹴散らし張り飛ばす。女に似合わぬ勇力、早技、叶うべくもあらざれば、只蜘蛛(くも)の子を散らすが如く、皆八方へ逃げた。

この時、妙真大禅尼は二人の小比丘尼を従えて、渡殿(わたどの)のほとりに立ちいで、
「妙達、何故に騒ぎ狂える。無礼すな」と制したまうと妙達は酔えども禅尼なりと見れば、たちまちにひざまずき、
「私(わらわ)は退屈の余りに門外へ出て、ちとの酒を飲みたれども、無礼とてはせざりしに、監主、同宿が理由無く、下部どもをかりもよおして絡め捕らんとするにより、事がここに及べるなり。よくよく察したまえかし」と陳ずる舌も回らねば、禅尼はにっこと微笑んで、
「例え言い分ありとても我に免じて堪忍せよ。さぁさぁ帰って休みよ」と寄らず障らずなだめると妙達はなおくどくどと繰り返しつつつぶやくと、禅尼は侍者(じしゃ)の尼を呼び、彼女を臥所(ふしど)へ伴わせ、ようやく無事に静まった。

監主の尼は同宿の比丘尼と共に多くの禅尼のほとりに行って、妙達の無礼を訴え、
「始めよりあの者を寺に置く事はよろしからぬと申せども、禅尼が聞き入れたまわずに、遂にこの騒ぎに及べり。今、追い出したまわずばまたいかなる災いを引き出さんも計り難し」と言葉ひとしく申しけり。禅尼はこれを聞きながら、
「我、先にも云う如く、彼女は前世の業因でとかくに言い争いありと云えども、遂には仏果(ぶっか)を得るべき者なり。何事も大檀家の百倉長者の顔に免じて、まずこの度は許せかし」と答えて取り上げねば、監主、同宿は目を見合わせて、只これ禅尼の片贔屓(かたひいき)と思えども仕方も無くて、あざ笑いつつ退(しりぞ)きけり。
 かくて翌朝、食事も既に果てし頃、禅尼は侍者の尼に妙達を呼ばせるが、妙達は未だ起きず、しばらく覚めるを待つと、妙達はようやく目を覚まし、むっくと起きて学寮の後ろへ走り行けば、侍者の尼らは驚いて後ろに付いてうかがうと妙達は後ろ向きに立ち、着物の尻をつまみ上げ、長小便を垂れにけり。
 侍者は笑いを忍びつつ、元の所へ帰るを待ってしかじかと告げれば、妙達は衣を着て、方丈へ参(まい)るに、禅尼は近く▼まねき寄せ、
「先に我はお前の為に五戒を授けて、酒を飲む事なかれと云いしが、お前は昨夜、酔い狂い、蔵の網戸をうち破り、下部どもに怪我をさせたは尼法師の所業にあらず。我はもし百倉氏の面(おもて)に愛でずば、追い出すものを」と苦々しげに叱れば、妙達は謝り入って、
「以後を慎みはべるべし。許させたまえ」と侘びれば、禅尼は彼女の愚直を哀れんで、しばらく方丈にはべらせて食事をさせ、なお此の後を戒(いまし)めて、学寮へ返した。

これより後の物語りは第二編に著(あらわ)すべし。又来る春を待ちたまえ。
そもそもこの草紙は水滸伝を取り直して、女の上に綴(つづ)り成せば、差しつかえる事多くて、いと為し難き戯作(げさく)なり。水滸伝をそらんじる人々がこれはあの小説に等しくて珍し気無しと云われるのは作者の苦心を知らぬべし。唐土(もろこし)ぶりの物語りをここの女に書き換えた細工は流々(りゅうりゅう)仕上げまで見て、御評判を願うのみ。目出度し、目出度し。 

<翻刻、校訂、現代訳:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
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[現代訳]傾城水滸伝 二編ノ一、二

2017-09-04 20:23:50 | 解説・楽しみ方
傾城水滸伝 第貳編
曲亭馬琴著 歌川豊国画                        ▼:改頁

さてもその後、花殻(はながら)のお達、尼妙達(みょうたつ)は百倉(ももくら)長者の助けによって、白川の大伽藍(だいがらん)龍女山(りゅうにょさん)無二法寺(むにほうじ)の住職の尼妙真(みょうしん)大禅尼(だいぜんに)の弟子になり、既に剃髪、得度(とくど)したにもかかわらず、五戒を破り、酒に酔い寺内を騒がせども、大禅尼の情けによって罪を許され、そのこと無事に治まった。
しばらくは身を慎んで学寮にのみ籠もり、漫(そぞ)ろ歩きをせざりしが、ほとぼり冷めて熱さを忘れることわざに漏れる事無く、ある日、鬱気(うつき)を晴らさんと蓄えの金を懐に独り山門を出て、麓の方におもむくとカラカラ、カンカンと鏨(たがね)を打つ音が聞こえ、行って見ると一軒の鍛冶屋あり。
妙達はその店先にただずんで、その様子をうかがうと新たに打った刃物、打ち物、金棒、利鎌(とがま)、鋤(すき)鍬(くわ)などが多くあり。上手な鍛冶と見えれば、そのまま中に入って主人に向かい、
「我はちとあつらえたい物があるなり。最上の鉄(くろがね)で磨き杖(つえ)を。重さはおよそ百斤(きん)ばかりでよろしからん」と云えば主人は呆れ果て、
「それがしはこれまで幾度となく金棒(かなぼう)も打ち出し、禅杖(ぜんじょう)、錫杖(しゃくじょう)なども作れども、左様に重き物を打った事無し。昔、木曽殿の巴御前はその力が百人力に当たる事が語り伝えられ、又、近頃の板額御前も万婦不当(ばんぷふとう)の聞こえあれども、重さ百斤に及ぶ打ち物を使った事は聞かず。唐土(もろこし)の関羽(かんう)すら八十二斤の青龍刀を使ったと云うにあらずや。されば山匁(やまめ)一斤の二百目の割りをもってする時は百斤は二十貫目(かんめ)なり。尼君が力に覚え有りとても、左様な杖は突き難からん。目方(めかた)を減らしたまえ」と云うのを妙達は聞きながら、
「我、何ぞ、巴、板額に及ばんや。しからば関羽とやらにならって八十二斤にいたすべし」と云うを主人は押し返し、
「八十二斤もなお多し。もしそれがしに任せたまえば、五十斤の重さに打たん。それにても十貫目なり。打ち出来し時に持たれんと必ず恨みたまうな」と云うと妙達は微笑んで、
「しからば我はその間を取り、六十斤にあつらえん。念を入れよ」と語を押して、▼値を定め金を渡し、又、この他に一尺二寸の戒刀(かいとう)一腰をあつらえて、
「いずれもよろしく出来れば、別に褒美(ほうび)を取らすべし。ずいぶん急いで良くせよ」と言葉せわしく約束しつつ、鍛冶屋の店を走り出て、十間余り行くところに一軒の煮売り酒屋あり。軒端(のきば)に丸い杉の酒林(さかばやし)を掲げ出し、門には薄青色の小幟(このぼり)をひらめかし、名物踊り子汁と記(しる)したのは泥鰌(どじょう)汁の事なるべし。
妙達はこれを見て、たちまち口によだれを流して心の中で、
「・・・・・この頃は絶えて久しく生臭物(なまぐさもの)を食わず。酒はもちろん香りだも嗅ぐ事無し。たまたま、ここへ来て宝の山に入りながら手を空(むな)しくして帰られんや。まず一杯飲んでこそ、寺へ帰らん」と思案をしつつ、そのままふらりと酒屋に入って長椅子に尻を掛け「さぁさぁ酒を出せ」と云うのを主人は見返り、
「あなたは無二法寺の尼御前(あまごぜ)なるべし。もちろんあなたも知りたまわん。あの寺は掟(おきて)厳しく、それがしらにも御下知あり。寺の尼たちに酒を売る事を許されず。さぁさぁ出て行きたまえ」と云うと妙達は声をひそめて、
「さりとは野暮を云うものかな。我が今ちとの酒を飲んだとて人に告げずば誰か知るべき。いささかも苦しからず、さぁもて来よ」と急がせども主人は聞かず頭を振って、
「それがしらは寺より元手を借りて世を渡る者なり。ちとの酒が売れるとて後ろ暗き業をせば、後日の咎めを逃れ難し。さぁさぁ帰りたまえ」と云うと妙達も仕方なくつぶやきながらそこを出て、またまた他の酒屋におもむき、酒を飲まんとすれども、どこの酒屋も断り云う事初めに変わらず。いずれも決して売らざれば、妙達は悶え苦しみ、いかにすべきとなお行く時に、町外れの空地のほとりに近頃出した店とおぼしく、仮初(かりそ)めの小屋掛けして障子には山鯨(やまくじら/猪)、紅葉(もみじ/鹿)の吸い物と印したり。妙達はこれを見て、心に一つの謀(はか)り事を思い付き、会釈も無く、又、その店に入りにけり。
かくて妙達は獣(けだもの)店に立ち寄って、長椅子に尻を掛ければ、主人は妙達の顔を見て、
「あなたはもしや無二法寺の尼には御座(おわ)さずや。御覧の如く我が店は獣(けだもの)の煮売りをするのみで精進物(しょうじんもの)は候わず」と云うのを妙達は聞きながら、
「否(いな)、私(わらわ)は遠方より遥々(はるばる)と来る者。行脚の尼で無二法寺には縁(ゆかり)無し。いとおこがましく思われんが、頭こそかく丸めたれども、五戒を保つ事は要せぬ。なお半俗(はんぞく)の身であれば肉食(にくじき)はもちろんなり。猪(しし)はもとより好物なるに多少を問わず酒諸共にさぁさぁ出したまえ」と真しやかに云いくるめれば、主人は心で呆れながらも物の云い様が板東声(ばんどうごえ)で実(げ)にむくつけき尼なれば、いつわりなりとは思いも掛けず、猪の脂身一ト鍋を空(から)炒りにして出し、一トちろりの酒諸共に長椅子のほとりに置き並べるのを見て妙達は密(ひそ)かに喜び、そのまま手酌で引きかけ引きかけ、幾度となく銚子を替え、鍋をも四五度(たび)替えれば、酒は一斗五升に及び、肉は八百五六十目を少しも残さず食らい尽くして腹十分になれども、なお鍋焼きの忘れ難さに猪の肉二百目余りを竹の皮に包まして土産にせんと袂(たもと)へ押し入れ、▼主人に値を払って、寺を指してぞ帰り行く。

罪も報(むく)いも白川の岨(そわ)道伝い、ひょろひょろと踏みも定めぬ足引きのこの山風に吹かれつつ、酒の気、既に湧き上り、早や十二分に酔うたれどもことわざに云う本性違(たが)わず、心の中で思うには、
「・・・・・今日はたまたま酒を飲み過ぎ、いささか顔に出た。表門より入らんとすれば、あの番人らが悪堅くて思わぬ口論できかねん。裏門より入るこそ良けれ」と思案をしつつ、回り道して裏手の方よりよろめきながら来にけり。
しかれども無二法寺は世に聞こえた大寺なれば、裏門にもまた門番あり。その夫婦の者は番を務めて花を売り、門を守り、又、掃除の者の五六人が同宿してここにいる。既にして門番らは妙達が又、ひどく酔って帰り来るを遙かに見つつ慌(あわ)てふためき、門戸を閉じて掃除の者を早くも役所へ走らせて、監主の尼に告げにけり。

さる程に妙達は早や裏門に近づいて心ともなくあたりを見ると、門のほとりに建てられた供養塔の筋向いに石の地蔵と如意輪(にょいりん)観音を安置した雨よけの厨子堂(ずしどう)あり。妙達はこれを見て、からからと笑いつつ、
「この似非(えせ)地蔵は誰を待つやら。気晴らしに歩きもせず、立ちすくみになる愚(おろ)かさに、六道(ろくどう)能化(のうげ)の名にも似ず、借りる時の地蔵顔、目を細くして笑いかけても一文も貸す銭は無し。又、如意輪も馬鹿馬鹿しや。何の苦労がある事やら、朝から晩まで頬杖(ほおづえ)付いて、豊後節(ぶんごごぶし)でも語る気か、これ何ぞいの」と立ち寄って格子をはたと打ち叩く、拳(こぶし)の冴えも覚えの大力、格子はたちまち砕けたり。妙達は又、からからと笑いつつ、
「我が出家になりしより、絶えて久しく棒も使わず、力試しをする事無ければ、せめてここにてお前らに手並みを見せて目を覚まさせん。そんな怠(なま)けた事では無し、一番見るか」と誇り顔に折った格子の格を抜き、「やっ、とうとう」と掛け声高く、力に任して打つ程に▼格子は砕け羽目板(はめいた)離れて簀立(すだち)の如くになりにける。柱に右手を押し掛けて押せばゆらゆら揺らめいて、楔(くさび)は緩み抜き折れて将棋倒しにばたばたと倒れる柱諸共に石の地蔵も転びけり。

裏門にいる男どもは門番所の戸の間よりこの有様を見て大いに驚き、再び人を走らせて、この事を注進(ちゅうしん)すれば、監主の尼たち驚き呆れて、裏門に人を増やして「例え妙達が荒れるとも内へは入れず」と下知すれば、門番人らは心得て厳しく門を守りける。
さる程に妙達は地蔵堂を打ち破り、なおあちこちへよろめきよろめき、裏門より入らんとすると、開き戸、潜(くぐ)りも閉まっているを見て、たちまちむっとして「開けよ、開けよ」と呼び掛けつつ拳を握り、門の戸が割れるばかりに打ち叩けば、門番人らはこらえかね、内よりも又、声を荒げて、
「この似非(えせ)尼が又しても食らい酔って帰ったな。五戒を破り酒を飲み、あまつさえ門外の地蔵堂を壊し、破戒(はかい)無慙(むざん)の仏敵(ぶってき)を裏門なりとていかでか入れるべき。その事、既に隠れ無ければ、監主方の指図あり。弥勒(みろく)の世までも叶わぬ事だ。さぁさぁ足の向く方へ立ち去れ」とののしれば妙達はますますいら立ち、
「ほざいたり痩(や)せ犬めが。早く開いて通さずば、我今、門に火を掛けて、皆焼き払って内に入らん。かくても止めるか、通さぬか」と呼び張りながら拍子(ひょうし)を早めてしきりに門を叩きけり。

門番らは妙達が焼き払わんと云うに驚き、監主の尼に告げれば、諸役の尼たち驚き騒いで、
「しからば事の大事にならん。まず穏便(おんびん)に内へ入れよ。その後、思案もあるべきに」と云うと門番は元の所へ走り返って、妙達に声を掛け、
「あまりにお前が騒がしければ、只今開けて通すなり。さぁさぁ入れ」と呼びながら引き抜く閂(かんぬき)諸共に身をひらかして隠れけり。
妙達は始めより待ちわびた事なれば、今開くと云う門の戸に両手を掛けて押すと扉は左右へさっと分かれてその身は内へよろよろとのめり入りつつ四つ這いにたちまちハタと転んだが、ようやくにして身を起こし、塵(ちり)も払わずひょろひょろと、しどろもどろに己(おの)が住む学寮に帰りにければ、同宿の尼たちは驚き呆れて物言わず、皆々片隅へ寄る時に妙達は喉(のど)のあたりがげろげろと鳴ると同時に吐く反吐(へど)は前にうず高く、臭さに皆々たまり得ず、鼻をおおって呆れ果てた。
妙達は今、小間物店を開いた時に袂(たもと)より滑り落ちた一包みの猪の肉を見て「良き物あり」と手に取って、
「折角(せっかく)食うた鍋焼きを戻してしもうてひもじくなりぬ。酢の無い刺身も珍しからん、ドリャ賞味」と竹の皮開く牡丹は猪の肉、五膳箸にてむしゃむしゃと食らうを皆々見るにたえず、その座を避けんとすると妙達は腕を伸ばして一人の尼を引き捕え、
「これ程旨い物なのに一口なりとも付き合いたまえ。これ食いとうは無いかいの」と擦(なす)り付けた口の端、尼は「あわや」と口を閉じ、引き離さんと焦れども妙達はちっとも離さなず、酔った者の癖なれば、皆諸共に詫(わ)びるを聞かぬ非道の手込めに仕方なく見えた時、監主の尼の指図(さしず)に従い八九人の男共が妙達の狼藉(ろうぜき)を取り鎮めんと用意をしつつ、手に手に棒を引き下げて込み入らんとするのを妙達は見て、捕らえた尼を突き放し、迎え討たんとすれども武器を持たねば、机の脚を引き抜いてうめいて廊下に走り出て、先に進んでうち伏せうち伏せ、面(おもて)も振らず▼競いかかれば、多勢を頼みの男どもも立つ足もなく頭を破られ手足を損ね、逃げ散るのをなお逃がさじと妙達は追っ駆けた。
かかる所に住職の妙真禅尼が近くに立ち、
「妙達、又もや何をか狂う。無礼するな」と止めれば、妙達は振り上げた机の脚を投げ捨てて忙わしくひざまずき、
「上人(しょうにん)御前、察したまえ。私(わらわ)は人を打たぬのに、監主たちが遺恨(いこん)あるのか男どもを集めて絡め捕らんとするにより、止むを得ず追い出したり。理非(りひ)を正させたまえかし」と恨みがましく訴えれば大禅尼はうなずきながら、
「とにもかくにも私(わらわ)に愛でて今宵は早く休めかし。明日は正して得させん」と寄らず触らずなだめれば、妙達も酒の酔いが半(なか)ば醒めた頃なれば、上人の言葉を良き潮(しお)にして再び騒がす。その時、禅尼は二人の侍者(じしゃ)の尼に囁けば、尼達はなお恐(おそ)る恐るも妙達の手を引き助け、そのまま部屋へ伴いつつ、様々諌(いさ)めこしらえて彼女の寝所に入れれば、さすがに狂い疲れたか前後も知らず床に伏した。
されば又、首座(しゅざ)、監主、諸役の尼達十人余りがその夜、禅尼の御前に参って、
「先にも申した我々の諌(いさ)めを聞かず、世に類(たぐい)無き悪たれ者の妙達を扶持(ふち)したゆえに、一度ならず二度ならず寺を騒がせ人に傷付け、あまつさえこの霊山を猪豚(ししぶた)の肉に汚せし、前例少ない曲事(くせごと)ならずや。世上の批判も後めたし、御思案欲しけれ」と苦々しげに訴えた。
禅尼は聞いてうなずき、
「始めより密かに諭(さと)したように、あの妙達は出家に似合わず、いと猛々(たけだけ)しい女にて破戒の咎(とが)のある者なれども、前世の業因滅する時に仏果を得ん事疑い無し。しかれども大方ならぬ過ちも度重なればあのままには置き難し。とは云え、当山の大檀家の百倉長者の頼みで弟子にした者なれば、まずあの人に由を告げ、その後にともかくもせん。明日は早くに山科へ使いの尼をつかわすべし」と情けを込めて答えれば、皆々は又、今更に心もとなく思えども返す言葉も無きままにその計らいを待ちにける。
かくて妙真禅尼は次の日、朝勤めも果てた後、自ら書状をしたためて侍者の尼に持たせつつ、なお口上を云い含め、山科へつかわしたまえば、使いの尼は百倉長者の自宅へおもむき、主人の長者に対面し口上を述べ書状を渡せば、百倉はひどく驚きながら禅尼の状を開き見ると、妙達のした事のそのあらましを書き連ねて「かかれば彼女を我が寺に留め置く事は叶い難し、我らが良きに計らうか、それともそなたが引き取りたまうや。答えを聞かまほしけれ」といとねんごろに聞きたまうに、長者はしきりに嘆息し、かつ大禅尼の情けを喜び、
「妙達の事はともかくも御心(みこころ)任せに計られたまえ。自業自得に候(そうら)えば、恨み申す事にはあらず。又、破損した地蔵堂はそれがしが修復せん。なおこの上の大慈大悲を願いたてまつり候」と詳しく返事をしたためて使いの尼には一ト包みの布施物を贈りつつ、その取り成しを頼みける。
優之介親子もこれらの事を聞き、心苦しく思えども、又、今更に仕方も無かりけり。さる程に使いの侍者は無二法寺へ帰り、住職の妙真大禅尼に百倉長者の返簡を披露し、且つその口上を伝えれば、禅尼は「さこそ」とうなずいて、その明けの朝、妙達をほとり近く招き寄せ、
「そなたはしばしば寺の法度(はっと)を犯し、酒を飲み肉を食べ、人と仏堂を打ち損なって、この霊場を騒がせたは俗人だもせざるところ。これ尼法師の所業ならんや。我がいか程に▼思うとも今更、寺には置き難し。鎌倉の松岳山(しょうがくさん)龍女寺(りゅうにょじ)という尼寺の住職の真如大禅尼は我が法門の妹弟子なり。よって、そなたをあの寺へ頼みつかわさんと思うなり。さぁさぁ用意せよ」と路銀の銀子三百匁(もんめ)に着物と頭陀(ずだ)袋、脚絆(きゃはん)、笠まで取り添え、「餞(はなむけ)ぞ」とたまわれば、妙達は大方ならぬ禅尼の慈悲に謝辞を申した。去る時に禅尼は「しばし」と妙達を呼び止めて、
「そなたは今はかくもあれども、遂には仏果を得るべき。終わりを思って修行せよ。その行く末を示さんと「思い見よ 緑の林 山水(やまみず)の 富も仇(あだ)なり 江にぞ止(とど)まる」と三遍吟じ返しつつ、心に留めてこの歌を忘れなそ」と示したまえば、妙達はこれをよく覚えて、禅尼に別れを告げ申し、又、尼達に暇乞(いとまご)いして旅装いを整えつつ、その日無二法寺を立ち去ったが、麓の町屋に逗留(とうりゅう)して、あつらえた鉄の杖(つえ)と戒刀が出来るのを待ち、五七日を経て成就すれば、その杖を突き戒刀を身に付けて、近江より信濃路や木曽山づたい遙々と鎌倉指して急ぎける。
かかりし程に百倉長者は日ならず無二法寺へ参詣して、禅尼の情けを喜び伝え、地蔵堂の破損を修復し、その日傷を付けられた男どもには療治代を贈りなどして、残る方なく手当てをすれば、皆その功徳(くどく)を感じた。
○さる程に花殻の妙達は夜に宿り日に歩み、信濃の妻籠(つまごみ)まで来た時にはその日も西に傾いた。いかでか宿を求めんと、道より少し引き込んだ大きな屋敷の門のほとりにたたずみ、
「修行者に今宵の宿を報謝あれ」と高やかに声かければ、内より下男とおぼしき者が一人出て「この乞食尼、何をか云う。今宵はこちに騒動あり。報謝宿する暇は無し。通るなら早く行け。そこらあたりにまご付きいれば、側杖(そばづえ)に打たれて後悔せん。さぁ行かずや」とののしれば、妙達はたちまち怒りを起こして、
「この痴れ者(しれもの)が何を云う。宿を貸さずば借りずもあらんを我に何の咎(とが)あって打ち叩かれる目にあうべきか。その訳聞かん」とねじ込んで互いの争い果てしなく、物騒がしく聞こえれば、主人と見えて一人の老女、齢(よわい)六十余りなるがしとやかに立ち出て、男共をしかり、▼妙達に向かって、
「尼御前、さのみ腹立てたまうな。今宵は実に私(わらわ)が宿に心苦しき客人あり。されども出家の事なれば、ともかくもしてとどめはべらん。まずまずこなたへ入りたまえ」とねんごろに云いなだめ、母屋に伴い草鞋(わらじ)を脱がせ、夜食をすすめてもてなした。
その時妙達は主人に向かって、
「私(わらわ)がつらつらあなたを見ると、胸に苦労があるやらん。顔色も常ならず、心苦しき客人あれと云われたはいかなる故(ゆえ)か知らせたまえ」と問われて老女は涙ぐみ、
「云うても益無き事ながら、今更何をか隠しはべらん。我が家は代々村長で氏は樹邨(このむら)。私(わらわ)は大刀自(おおとじ)と呼ばれたり。しかるに只一人の家督の倅(せがれ)は世を早くして、嫁も程なく亡くなった。後に残るは一人の孫で、花松と呼ばれる者。その頃、幼ければ親類に村役をしばらく預けれども、所持の田地も少なからずば、ともかくもして月日を送るに、今年は孫の花松も十六才になりはべり。我が孫なりとて誉めるにあらねども、田舎に稀な器量良し、女めいたる若衆(わかしゅ)なり。
しかるに近き頃よりこの里に遠からぬ安計呂(あけろ)の山に籠もって、多くの手下を集めた悪たれ女が二人あり。その一人は億乾通(おけんつう)お犬と呼ばれ、男勝りの荒くれ者で間無く時無くあちこちの里人を脅かし、兵糧を催促し、或るいは又、旅人を脅かして顔良き女子を奪い取り、売り代(しろ)なすとも聞こえたり。かくてその億乾通はいつしか我が孫花松に恋慕(れんぼ)して、「我がこの家の嫁となって花松の後ろ見をせん。今宵はしかも吉日なり、日暮れに輿入れをすべし。婚礼の用意して待ちたまえ」と云う。心苦しき客人ありと、先に云いしは此の事なり。察したまえ」と云いかけてこぼれる涙をぬぐいけり。  

<翻刻、校訂、現代訳:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>

傾城水滸伝 第貳編之二
曲亭馬琴著 歌川国安画

その時、大刀自は涙を止めて、
「只今、告げた訳なれば、窮屈なりとも柴小屋で夜を明かしたまえ。あの人々が来る時に、音たてて怪しまれ、辛(から)き目に逢いたまうな」と云うと妙達はうなずいて、
「そは気の毒なる事ならん。しかしながらその悪たれめは山賊で元より非道(ひどう)の奴どもなれば、何故に公(おおやけ)へ訴えて絡め捕らせて、国の災いを払わぬ。里には人が無い事か。心得がたし」と問えば大刀自が答えて、
「然(さ)ればとよ、彼女らは女子ながらも武芸力量、男に勝って大方ならぬ曲者(くせもの)なれば、あちこちの野伏、山賊がその手下に付いて、姉御、姉御と尊敬し、安計呂(あけろ)の山に砦(とりで)を構え、国司(こくし)、郡司(ぐんじ)を物とも思わず、云わんや我がこの痩(や)せ村人の竈(かまど)の限り尽くすとも彼女らにかなうべくもはべらず。さればとて公へ訴え申さん事なども国府へ遠き田舎の悲しさ。その往来の日数を嫌って申し出ると云う者無し。いとはばかりある事ながら都では本院様(後鳥羽の院)が白拍子の亀菊殿とやらを御寵愛して政治(まつりごと)よろしからず。又鎌倉では頼家卿が色と酒とに溺れて、民の嘆きを見返りたまわず、非道の振る舞いまします故(ゆえ)にや、あちこちに山賊起って民百姓の憂(うれ)いをなせり。決して、声高には彼らの噂もしたまうな」と恨みがましく囁(ささや)くのを妙達は聞いて頭を傾け、
「云われる趣(おもむき)は道理なり。しからば私(わらわ)が手段を巡らし、お犬とやらを説き諭(さと)し、その婚姻を止めさせるべし」と云うを大刀自は聞きながら、
「そは喜ばしき筋ながら仏も法もわきまえぬ悪たれ人の事なるに、なまじいに仕損(しそん)じれば、毛を吹いて疵を求めん。それは危なし」と止めれば、妙達は笑って、
「その儀は気遣いしたまうな。私(わらわ)は因果の理を説いて、いかなる猛(たけ)き男女なりとも改心させるのが甚(はなは)だもって得意なり。▼かかれば今宵、その悪たれ女が来る時に斯様(かよう)斯様に云いこしらえて松殿を隠し置き、思いのままに酒を飲まして寝屋へ伴いたまえ。さて寝室には明かりを消して、私(わらわ)はそこにて待っておらん。億乾通めはかくとも知らず、床入りをするに及んで、方便の説法を説きかけて、遂には思い切らせれば、これ災いを払うなり。この儀はいかが」と説き諭せば大刀自は大きに喜んで、
「宣(のたま)う如くなるならば、我が身一家の幸いなり。尼御前、酒を飲みたまうや」と問うを妙達聞きながら、
「酒は飯より好物なり。私(わらわ)が一杯を飲む時は一杯の知恵が胸より湧き出でて、又二杯を飲む時は二杯分に舌よく回る。まして十杯二十杯、飲めば飲むほど富楼那(ふるな)の弁舌、立て板の豆も及ばず、御馳走ならば用意あれ」と云うと大刀自は微笑んで、下女らを呼んで、「お比丘尼にさぁさぁ酒を参(まい)らせよ」と云うと皆々心得て、日頃用意の酒肴(さけさかな)、焼き干(ぼ)の鮎に泥鰌汁(どじょうじる)、生臭物も取り添えて、出すを遅しと妙達は大盃にて引き受け引き受け、頭も残さぬ焼き鮒(ぶな)に一口茄子の辛子漬け、精進物より泥鰌汁、「これは美味じゃ」とぐい飲みの尼に似合わぬ贋者(にせもの)尼に大刀自は只呆れながらも云われた事の頼もしさに花松を呼び寄せて妙達に合わせ、孫諸共にもてなした。

かくて早や、その夜も既に五つの頃、安計呂の山の方より灯し連れた提灯(ちょうちん)、松明(たいまつ)を星の如くにきらめかし、こちらを指して来る者あり。大刀自は縁側から早くもこれをとくと見て、「あれは必ずお犬ならん」と云うと妙達はうなずいて、まず杯盤(はいばん)を片付けさせ、事よく示し合わせつつ、鉄の杖を引き下げて、その身は一人悠々と花松の寝室に入り、腰衣(こしぎぬ)を脱ぎ、屏風(びょうぶ)に掛け、裳裾(もすそ)を壺折り、腕まくりして絹布(けんぷ)の布団の真ん中へ仰向けに寝る大の字なり。待てば待つ夜の長枕、さすがに夢も結ばれぬ、楽屋を隠す真の闇、黒闇(こくあん)天女の影向(えいごう)をさこそとほくそ笑んだ。
さる程にまだ宵ながら空の色、安計呂の山の億乾通お犬は今宵と定めた我が恋婿(こいむこ)へ押しかけ嫁入りになおも威勢を示す為に緋縅(ひおどし)の腹巻の上には綾(あや)の打掛装束、すべらかした黒髪の毛筋乱さぬ立烏帽子(えぼし)、黄金造りの太刀横たえて月毛(つきげ)の駒に乗った。左右に従う腰元の悪たれ女三人、その余の悪者二三十人、皆後先を囲み、騒がせて樹邨(このむら)の門先狭しと練り寄せれば、大刀自は五七人の老僕(おとな)、野良男を従えて玄関前まで出迎えて、
「今宵はことさらお日柄も良く、いとありがたき御来臨。恐悦至極」と主従が大地に頭を付ければ、億乾通は馬より下りて大刀自を助け起こし、
「刀自よ、何で慇懃(いんぎん)なる。私(わらわ)は孫の嫁なるに▼さのみ心を置きたまうな。イザ、案内」と急がして、引かれて書院の座に着けば、大刀自ら主従は予ねて用意の酒肴(さけさかな)を所狭きまで置き並べ、盃(さかずき)をすすめると、家の老僕(おとな)は次の間で従い来た悪者らに酒をすすめてもてなすに、皆々あくまで飲み食らいして、しきりに興(きょう)に入りにける。
しかれども億乾通(おけんつう)は肝心の恋婿の花松が未だ見えねば、心にこれを怪しんで、大刀自に向かい、
「我が恋人はいかにしつる。縁(えにし)を結ぶ今宵の座敷に影も見せぬは心得難し」と云われて大刀自は胸を静めて、
「然(さ)ればとよ、その事にてはべるかし。早や十六になれども世間知らずのおぼこ者。恥ずかしいとて宵の間より寝屋籠もりして呼べども出ず。あなた自ら彼処(かしこ)に入り、慰めたまえば打ち解けはべらん。無礼は許したまえかし」と真(まこと)しやかに答えるをお犬は聞いて笑いつつ、
「さても、さても、今時の男子にしては珍しい。もちろん我は二十八歳、年は半分違えども男妾(おとこめかけ)にするでなし、わしを大事にしたが良い。山から通い、夜に泊まって日に遊び、竈の下まで世話したら世界に怖い物は無し。そうこう云う内、夜も更(ふ)けん。しからばすぐに色直し、寝屋でゆるりと遊びましょう。案内頼む」と床急ぎ。大刀自は笑いこらえて、いざと先に立つ、心奥の間今更に危ぶむ胸の廻り縁(えん)、「こなたにこそ」と伴って杉戸を開いて立ち代わり、
「あの屏風の内で花松は待っており。ゆるゆる語らいたまえ」と杉戸を引けば、億乾通は手探りしながら屏風を探し、
「さても岩戸籠りの常闇(とこやみ)じゃ。ケチと云うにも程がある。今宵ぐらいは行灯(あんどん)一つ倹約せずとも」と独り言して、忙がわしく帯解き捨てて着込みの腹巻さっと脱ぎ、そっと置きつつ寝巻き一つで平絎(ひらぐけ)帯を前で結んで、いやらしき身振りも見えぬお先は真っ暗、屏風を上げてしとしととぴったり寄り添う布団の上、▼
「これ、こちの人、来たわいの。犬じゃ犬じゃ」と妙達が手を引き寄せて、そろそろと腹のあたりを撫で回せば、こそぐったいと云えばえに妙達は岩より硬い拳(こぶし)を振り上げ、お犬の小鬢(こびん)をはたと打つ、音もろともにのけ反って「あなや」と叫ぶ間もなく、妙達はがばっと身を起こし、お犬をつかんで膝に敷き、
「淫乱女め、思い知ったか。鳥無き里の蝙蝠(こうもり)とて、汝ら如き牝犬ども、ここらあたりに威を振るい、人の息子をなぐさみ者にせんと企(たく)らんだ押し掛け嫁入り。今ぞあの世へ里開き。観念せよ」と攻めつけ攻めつけ、再び拳を振り上げて続け様に打ちこらせば、お犬は息も絶え絶えに
「ヤレ人殺し。者共、救え救え」と叫べば、手下は聞いて、事こそあれと蝋燭(ろうそく)抜き取り、群立(むらた)ち騒いで混み入った。
妙達はそれを見て、お犬の襟髪(えりがみ)引き起こし、遙かに投げ捨て、側に置いた鉄の杖を手に取り早く打ち振り打ち振り、微塵(みじん)になさんと競ってかかれば、この勢いに悪者どもは驚き恐れて、立つ足も無く庭口指して逃げ出るを何処(いずこ)までもと追っかけた。
その間に億乾通お犬は背戸より逃げ出たが、身のうち痛み、走ることもできず、見れば我が乗って来た馬が井戸端の柳の木に繋いであり、これ幸いと乗り、柳の枝を鞭にして、打てどあふれど、ちっとも走らず、一つ所で躍(おど)っていれば、お犬はしきりにいら立って、
「この畜生までもがあなどって馬鹿にするか」とののしりながらよくよく見れば、繋(つな)いだままでまだ綱解かず、「抜かった、許せ」とあわただしく端綱(はづな)を切れば駆けいだす、月毛の駒も夜の道、恥の皮籠(かわご)の蓋(ふた)ならず、安計呂と云うは己(おの)が住む、山を指してぞ逃げて行く。
○さる程に妙達は逃げるお犬を追い捨てて、元の所へ立ち戻れば、大刀自は孫の花松と共に門辺(かどべ)に立って待っており。今、妙達が帰るのを見て、そのまま座敷へ伴いつつ、つれづれと顔を見て、
「先にあなたは方便で億乾通に納得させ、この婚姻を止めさせんと云われた故(ゆえ)に任せたに、そうはせず彼女を打ち懲(こ)らし、追い散らされては、彼女は必ず恨み持って再び押し寄せ来る事あらん。さる時は我が家は皆殺しにせられん。益無き業(わざ)をしたまう」と涙ぐみつつ恨めば、妙達はにっこと微笑んで、
「思い過(す)ごしたまうな。今、奴(やつ)らが何百人で寄せ来るとも片っ端からうち殺し、災いの根を払って得させん。疑わしくばこの杖をまず取り上げて見よ」と差し出す杖を皆々初めて見て、鉄を延べた握り太ないかめしい造りは貫目(かんめ)もさこそと思われて、試みに男三人で持ち上げんとするが動かす事も叶わねば、大刀自、花松、その座の者どもは皆舌を捲き、眼を見張って「実(げ)にこの尼は凡人ならず、女天狗か荒神か」と思わざる者はなかりけり。
○されば又、お犬らは命からがら逃げ帰り、
「姉御、仇(かたき)を取ってたべ。あら口惜(くちお)しや」と叫べば、この砦(とりで)の大将のもう一人の▼悪たれ女が驚きながら走り出て、事の訳を尋ねれば、お犬は今宵、樹邨(このむら)の自宅へおもむいた始めより、思わず寝室の中で力強き尼に打ち懲(こ)らされた事を斯様(かよう)斯様と告げ知らせれば、その賊婦は大いに怒って、
「その尼こそ、憎き痴(し)れ者。それでは我が押し寄せて、恨みを返さん。者ども続け」と云うままに、ひしひしと身を固め、大薙刀(おおなぎなた)を脇挟み、馬にひらりと乗れば、従う悪者百人余り。早や鐘、太鼓を鳴らしつつ、妻籠(つまごみ)指して押し寄せれば、億乾通も引き続き、多くの手の者引き連れ引き連れ、共に馬を速めた。

○その頃、妙達は小座敷で酒を飲んでいたが、その夜が明ける頃に安計呂の山の方から、貝、鐘(かね)、太鼓を騒がしく鳴らして寄せ来るのが聞こえれば、
「これ必ず賊婦らが昨夜の恨みを返さんと、多勢を催し来たならん」と云うと大刀自、花松らは驚き恐れて物をも覚えず、いかにせんと立ち騒ぐのを妙達は押し静め、「いささかも気使いたまうな」と云って鉄の杖を引き下げて、悠々然と歩み出て、冠木門(かぶきもん)を押し開かせて門より外に只一人、寄せ来る敵を待つと真っ先に馬を進めた賊婦は妙達を見るより怒りの声を振り立て、
「汝は何処(いずこ)の馬の骨だ。熊野比丘尼の失策(しくじり)か、伊勢比丘尼の年明(ねんあ)きか。昨夜はよくも我が妹を木魚の様に叩いたな。我はその恨みを返す為に自らここに向ったり。覚悟をせよ」とののしった声もろともに大薙刀を水車の如くにひらめかし、駆けんとするを妙達は「猪口才(ちょこざい)すな」と鉄の杖持ち、丁と受け、二打ち三打ちと戦う程にその賊婦は声を掛け、「あなたはもしや、花殻のお達殿にはあらざるか」と問われて妙達はいぶかりながら「いかにも我こそ、お達なれ」と云うと賊婦は慌(あわ)てふためき、馬よりひらりと飛び降りて小膝を付いて頭を下げ、
「一別以来、恙(つつが)も無きや。早くも人寄せの友代を見忘れたか」と云うと真(まこと)に友代なり。
「そなたは又、いかにして、ここにおるぞ」と問い返せば、友代は答えて、
「然(さ)ればとよ。甲斐にてあなたが貝那を殺して逃げた時、私(わらわ)もその前日に青善の二階で共に酒を飲みしにより、同類ならんと疑いかかって絡め捕られんとの噂が聞こえれば、あの地を逃げ出てあちこちとさまよいつつ、ここを過ぎる折、安計呂の山のほとりで億乾通に出くわして遂に刃(やいば)を交えたが、お犬は私(わらわ)に勝つことできず、これにより私を山の砦に留めて、第一の座を譲り、その身は第二の大将と成った。さてもその億乾通お犬は先に滅びた奥の泰衡(やすひら)の家臣の娘なり。女子に似合わぬ剛の者、鎌倉殿(頼朝)を恨むあまりに、その残党をまねき集めて安計呂の山に籠もりしなり」と云う間に、億乾通も馬を早めて来たのを友代は素早く見返り、走り行き囁いて、お犬に妙達を引き会わせ、
「我が妹よ。この方は日頃しばしば物語りした一拳(ひとこぶし)でなまよみ屋の貝那を殺したお達殿にて御座(おわ)するぞ」と云うとお犬は驚いて、
「我々、眼(まなこ)ありながら、世に又、たぐい多からぬ勇婦の花殻殿とは知らざりし。無礼を許したまえかし」と詫びつつ大地に身を投げ伏して、しばし頭をもたげねば、妙達は忙わしく助け起こして、友代諸共、そのまま書院に伴って、▼大刀自、花松をまねき寄せ、
「人々さのみ恐れたまうな。彼女らとて鬼女にもあらず。皆、我が妹なりけるぞ」と云うと大刀自、花松らはさてはこの旅尼は元より山賊の仲間なるかと驚き恐れて、又、酒肴を按配(あんばい)しつつ、三人の勇婦をもてなした。
その時、妙達は百倉長者の情けによって罪を逃れる為に、無二法寺で剃髪した事、その後しばしば酒に酔い、寺の法度を犯した故(ゆえ)に住職の妙真禅尼の指図に従い、この度、鎌倉の松岳山龍女寺へおもむく事を友代らに告げ、又、億乾通に向かい、
「お犬よ、我が云う事を聞け。この老女大刀自はその子と嫁に先立たれ、只一人の孫花松を家督にし後ろ見する者なるに、人柄もふさわしからず、又、その年も釣合わぬお前が嫁になるやら男妾(おとこめかけ)に致すのと、無理矢理の縁結びは沙汰(さた)の限りといいつべし。何事も我にめでてこの恋は思い切りたまえ」と云われてお犬は恥入り悔やんで、
「仕方なき我が身の誤り。この婚姻は思い切ったり。もし重ねてこの少年に心を残す事あれば、雷に打たれて死なん。皆の衆、案じたまうな」と矢を折り、誓いを成せば、大刀自も花松も大方ならぬ妙達の取り計らいを感じ、且つ安堵(あんど)して、「・・・・・今更に疑った事の愚かさよ」と心の内で恥らって、又、改めて盃(さかずき)をすすめ、益々もてなしけり。

かくて友代、お犬らは妙達を伴って安計呂の砦に帰りつつ、これより日毎に酒宴を催して様々にもてなすと、妙達は酔い伏してすやすやと眠りけり。
その時、友代はお犬に向かって、
「思い掛け無き客を得て、費用も大方(おおかた)ならず。又、出でて行く時に餞別(せんべつ)もせずばなるまじ。これらの損を何ぞで埋める仕方はないか」と云うとお犬はうなずき、
「我もしかぞと思うなる。この頃は間が悪く、ずっしりとした獲物も無し。良い鳥でもかからんものか」と恨みがましくささやく折から遠見の雑兵が走り来て、
「只今、旅人七八人が米と酒とを多くの馬に負わして麓を過ぎるなり。よって注進つかまつる」と息継ぎながら告げると友代、お犬は喜んで、
「願うところの幸いなり。イデ分捕らん。者ども続け」と云うより早く身を固め、ひとしく馬を乗り出せば、その手に従う悪者どもは数を尽くして遅れじと麓を指して急いだ。

妙達は始めより空眠(そらねむ)りして友代らが云う事を聞き、今又、出て行くのを見て、心の内に思う、
「・・・・友代めは勘定高くて我の馳走(ちそう)に物がいると泣き言を云う▼面(つら)の憎さよ。彼女のみならず億乾通めも亡き主の仇(あだ)を報わん為に義兵を上げると口では云えども、かくまで汚れた行いをするは見下げ果てたる奴どもなり。かかればここにいつまでもいるべきにあらず。鼻を明かせてやらん」と独り言して身を起こし、あの鉄の杖を持ち、所狭しと置き並べた珠(たま)の盃、瑠璃(るり)の鉢、水晶の盆にぎやまんの銚子、注鍋(さしなべ)、青貝の卓袱台(しっぽくだい)まで、一つも漏らさず微塵に砕き、からからと笑いつつ、忙わしく身拵(みごしら)えして表の方に立ち、再び心に思う、
「・・・・今、本道(ほんみち)より麓に下れば、必ず友代、お犬が帰り来るのに行き会って引き止められれば面倒ならん。小道でもと見下ろすと、北の裏手にひどく傾いた所あり。これ幸い」と心でうなずき、風呂敷包みを笠もろともに鉄の杖に結び付け、麓の方へ投げ落とし、その身もやがて三輪組む、膝に両手を組み合わせ、傾斜に従い滑り落ちると所々に柴生い茂り、砂混じりの崖道(がけみち)なれども、いささか傷を負う事なく、幾千丈の麓路へたちまち滑り着き、先に落とした杖を突き立てて風呂敷包みを背負いつつ、東を指して急いだ。

さる程に人寄せの友代、億乾通お犬らは多くの手下を従えて、旅人らをさえぎり止めて、皆逃さじと討ってかかれば、その者どもは驚き騒いで、いかにせんとて逃げ迷う。その中の一人の男が笠かなぐって声高く、
「これは妻籠(つまごみ)の里長の樹邨(このむら)花松の名代にして国司へまいる貢物(みつぎもの)なり。安計呂の砦の人々が早くも先の誓いを破り、乱暴したまう事か。これ見たまえ」と小荷駄(こにだ)に指した小幟(このぼり)を打ち振り見せると、友代、お犬は思うに違って、
「さては樹邨が国府へ贈る貢物にてありけるか。なお妙達も砦におるに今更これを乱暴すれば、誓いを破るそしりを得ん。皆、引け引け」と手勢を止めて、そのまま山路へ引き返せば、その者どもは喜んで再び生きた心地してしきりに馬を追い立てて跳ぶが如くに馳せ去った。
その後、友代、お犬らが山の砦に帰って見れば、妙達はおらず、盃、盤、皿、鉢一つも残らず、全て微塵に砕けたり。「こはそもいかに」と呆れ果て、妙達を探すが出て行ってその影もなく、裏手の方に出て見るとここより麓へ転び落ちたか草は左右へ伸べ伏したり。
「かかる険阻(けんそ)の岨道(そはみち)をたやすく麓へ下りるは凡人技にはあらず。しかるを今更追っかけて引き戻さんとするのはやぶ蛇なり。由無き奴を留め置き、損した上に又、損をする腹立しさよ」とつぶやくのみで、又、仕方は無かりけり。友代、お犬の事はしばらくこの下に物語り無し。

○されば又、妙達はしきりに道を急ぎ、安計呂の砦を出てから四日目の真昼頃に信濃の長窪(ながくぼ)の笹取山(ささとりやま)のほとりまで来た。
思いの他に飢え疲れ、走り難く思えば、食事を乞わんと思えどもこの辺には人里無し。と見れば山懐(やまふところ)の森の中に荒れ果てた古寺あり。山門より進み入り、本堂に行って見ると柱は傾き軒(のき)朽(く)ちて、本尊の大仏は後光(ごこう)崩れて、蜘蛛の巣にまとわれ、格天井(ごうてんじょう)の天人は彩色はげて餓鬼の如く、踏めば落ち入る床の上には狐(きつね)狢(むじな)の足跡のみが斑(まだら)に見えて人気(ひとけ)無し。
もしやと思って庫裡(くり)の方に風呂敷包みと笠を置き、立つ時に仰ぎ見ると錫杖寺(しゃくじょうじ)と云う金字の額あり。されども無学なれば心をも得ず、本堂の後ろの方におもむけば、いとささやかな小屋の内に痩せさらばいた尼が三人、木の葉を集め、火を吹いて、麦の粥(かゆ)を焚いていた。妙達は進み寄り、
「我は▼近江より鎌倉へ行く行脚(あんぎゃ)の尼なり。折から飢えて疲れ果てた。願わくばその粥を振る舞ってたまわれかし」と云うのを尼らは聞きながら、
「お前に振る舞う粥あれば、我々どもがかくまで飢えも疲れもせぬ。今日、三日目にてようやくにちとの麦を勧化(かんげ)して、命の蔓(つる)と思うておるに由も無き事をのたまうな」と否(いな)むに妙達は心を得ず、
「この寺はしかるべき伽藍に見えながら、何故に大破に及んだか。住職は無きや」と尋ねれば尼らは答えて、
「然(さ)ればとよ。元この寺は延命山(えんめいさん)錫杖寺(しゃくじょうじ)と呼ばれた七堂伽藍(がらん)の尼寺なりしが、治承(1177年)・元暦(1184年)の兵乱で近郷の施主(せしゅ)、檀家がことごとく離散して、あまつさえ住職もはかなく遷化(せんげ)し、しばらく無住で在りし頃、鈴懸(すずかけ)の岩莫(がんまく)と云う女山伏が蛇柳(じゃやなぎ)と云う弟子を連れて同宿となりしより、彼女らはあくまで力強く、武芸も優れし者どもなれば、遂には無理矢理に住職となって仏具諸道具を売り払い、只酒を飲み、男を引き入れ遊興(ゆうきょう)し、始めより居付いた尼たちには一椀の飯も食わせざるにより、幾十人の尼たちは行方知れずになった。
されども我々は年老いて病いあれば、行き先のおぼつか無さに仕方無く残って、三日に一食で命をわずかにつなぐのみ。疑わしくば庭の奥に行って見たまえ」と云うと妙達は「さこそ」と答えて、哀れみ、且つ怒り、そのまま踵(きびす)を巡らして、なお奥深くへおもむけば、座敷とおぼしき所に花筵(はなむしろ)を敷き渡し、一人の女山伏とうるわしき若衆(わかしゅ)が居た。
かくて又、その弟子の女山伏とおぼしき者が只今余所(よそ)より買いもて来たか、左右の手には酒徳利と一重箱の肴(さかな)をたずさえ、これを長椅子のほとりに置いた。
妙達はこの者どもこそ、その岩莫と蛇柳ならんと思えば、つかつかと近づいて、
「この女金剛(こんごう)どもが。人の寺を奪い盗り、あくまで穢(けが)れた身の持ち様は何事ぞ。我は行脚(あんぎゃ)の尼なれどもこの本堂の裏におる尼らの物語りにて、早や汝らの悪事を知りぬ。逃れぬ所と覚悟して、我がこの杖(つえ)を受けよ」と声をいらだてののしれば、その曲者(くせもの)らは驚いて、
「尼御前、無礼したまうな。元この寺の尼どもが住職無きを幸いに良からぬ業(わざ)をするにより、かくの如くに大破したを我がようやくとり止めて再興を図るなり。又、この若衆は檀家の息子で、たまたま参詣されたので心ばかりのもてなしせんと、いささか用意をする折なり。死に損(ぞこ)ないの尼たちの空言(そらごと)を真(まこと)として事を過(あやま)ちたまうな」と、まことしやかにあざむくと、妙達は「実(げ)にも」と思い返して元の所へ立ち戻れば、尼らは既に麦粥を食べ終った所なり。その時、妙達は眼(まなこ)を怒らし、
「この似非(えせ)尼らが。自分の悪事を人に塗り付け、上手く我を欺(あざむ)いたな。今彼処にて岩莫らに事情を問うと、斯様(かよう)斯様と答えたり。かくても云う事、なおあるか」と息巻けば尼たちは呆れ果て、
「あなたこそ、あの者どもに欺(あざむ)かれたなれ。その若衆は鎌倉の田楽(でんがく)の色子の果てで、岩莫の男妾(おとこめかけ)なり。彼女らがあなたを欺き、一旦その場を帰したのは手に武器を持たぬ故(ゆえ)なり。再び彼処へ行きたまえば、いかでそのまま帰すべき。あら笑止(しょうし)や」とつぶやくと妙達はようやく悟って、腹立たしさに答えもできず、又、奥庭へ馳せ行くと早や枝折戸(しおりど)は差し固められたり。
妙達いよいよ苛立(いらだ)って、鉄の杖で只一突きにぐわらりずんと突き破り、「盗人(ぬすびと)ども」と呼びかけ呼びかけ、まっしぐらに進み入るを待ち受けた岩莫、蛇柳は段平(だんびら)物を抜きそばめ、
「乞食尼が又来たな。先には武器が無かりし故(ゆえ)にわざと透(す)かして出してやりしに、再び来るは夏の虫、命も既に根腐ったり。覚悟をせよ」とののしって左右等しく討ってかかるを「物々しや」と妙達は右に払い左に防ぎ、発止(はっし)発止と戦ったが、この時ひどく飢え疲れ、かなうべくもなければ、隙間をうかがい一足出して、表の方へ逃げ走れば、なお逃さじと岩莫、蛇柳は山門の並木を越えて、三四町と追いかけたが遂に追いつかねば、それより先へは追わざりけり。

さる程に妙達は寺を去る事五六町、日の目知らずと呼ばれた林の内に逃げ入った。ここは幾百もの赤松が隙間なく生い茂り、枝を交え葉を重ね、絶えて日の目を漏らさねば、昼と云えどもいと暗く、黒目(あやめ)を分かぬばかりなり。
その時、妙達は息を付き、汗を拭って▼一人つらつら思う、
「・・・・我、あの女山伏らに負けるにあらねども、かく飢え疲れれば、力衰え気力弱って心ならずも敗れたり。されども庫裏(くり)に置いた笠と風呂敷包みを取り返さずば今更どこへ行くべきか。さればとて立ち帰れば又もや奴らに苦しめられん。いかにすべき」と思いかね、しばらくそこにたたずむ折から向かいの木の間よりいと白い顔を出して此方(こなた)をうかがう者あり。
妙達はそれを見て、
「あれはまさしく山賊ならん。今又、前後に敵を受けてはいよいよ事の難儀なり。まず奴(やつ)から片付けて、その上で思案をすべし」と思えばちっともためらわず、
「只今、我をうかがう盗賊め。さぁ出て勝負をせよ」と呼べば、たちまち松の木陰より旅装束もやつれた一人の女子が現れ出て、からからと笑いつつ、
「汝こそ、人をうかがう山賊であるべきに、我を疑う事はあるや。その儀ならば手並みの程を思い知らせん」とののしって刃(やいば)を打ち振り走り掛かれば、妙達はいよいよ怒り、鉄の杖を持ち直し、互いにひるまず戦う時に旅の女が声を掛け、
「汝の武芸は世の常ならず、且つ、その声も聞いた様なり。名乗れ、名乗れ」と呼び張るを妙達は耳にも掛けず、なおも進んで戦うと女子はしばしあしらって構えの外へ身を退いて、
「逸(はや)って過ちせられるな。我にはいささか見覚えあり。あなたはこれ花殻のお達殿には在らざるか。かく云うは浮潜龍衣手にてはべる」と云われて妙達は驚きながら、よくよく見れば、実(げ)に見知った衣手なり。
こはこはいかにと杖投げ捨てて進み近づき、ここを徘徊する事情を尋ねれば、衣手答えて、
「我(わらわ)はあなたと別れた後、若狭の国で綾梭(あやおさ)殿を尋ねたが、あの地にても遂に会わず、もしや鎌倉におわさずやと思うばかりを心当てに遙々(はるばる)と東(あずま)に下れども、絶えてその行方を知る事かなわず、仕方無く取って返して、この処まで来る折に、あなたに会いしは尽きせぬ縁なり。あなたは又、いかにして尼に成りたまいし」と問われて妙達は少しも隠さず、貝那(かいな)を殺した始めより、今、鎌倉へおもむく事まで、言葉せわしく説き示し、今日図らずも錫杖寺にて岩莫、蛇柳という女山伏らと戦ったが、飢え疲れにより、心ならずも後ろを見せて、ここにて息を付いた一部始終を物語れば、衣手は聞いて、
「その者共は憎むべき極悪の女なり。私(わらわ)も共に力を合わせ、討ち滅ぼして根を絶つべし。まずまず腹を繕(つくろ)いたまえ」と答えて腰に付けた破籠(わりご)を開いて与えれば、妙達はこれを食らって、衣手と諸共に又、あの寺におもむけば、岩莫も蛇柳もなお山門のほとりの石橋の欄干(らんかん)に身を寄せ掛けて休んでいた。
その時、妙達は衣手を木陰に隠し、独り進んで声を振り立て、
「我、先には飢えた故(ゆえ)に心ならずも遅れを取ったが、今度は決して許しはせず。覚悟をせよ」と呼びはれば、岩莫が見て、
「性懲(しょうこ)りも無き乞食尼。死にに来たか」とあざけって、討たんと進むを妙達は杖で発止(はっし)と受け止めて、二打ち三打ちと戦う程に、蛇柳も又、岩莫を助けて刃をうち振り、引き挟んで討とうとするのを衣手が木陰より出て、蛇柳をさえぎり止めて戦った。既に岩莫は敵に加勢があるを見て、驚き恐れて乱れる大刀筋(たちすじ)に妙達は得たりと踏み込んで、遂に刃を打ち落とし、逃げる岩莫を肩先より背骨にかけて打ち砕けば、蛇柳も驚き恐れて逃げるをやらじと衣手が打ち閃(ひらめ)かす刃の稲妻。首は遥か遠くに飛び去って骸(むくろ)は等しく倒れけり。
▼かくて妙達は衣手と諸共に岩莫、蛇柳らを滅ぼして、ひとしく寺に進み入り、庫裡に置いた風呂敷包みと笠とを取り、又、本堂の後ろの小屋のほとりに行くと、あの三人の尼らは先に妙達が敗北し、門を走り出た時に自分に災いが及ばん事を恐れたか、皆々、首吊り死んでけり。
又、岩莫の男妾の何がしかは妙達、衣手が岩莫らを遂に討ち滅ぼし、再びここに来るを見て叶わじと思いけん、井戸に飛び入り死んでけり。
かかれば今この荒れ寺に住む人は一人も無し。その時、妙達は衣手を見返って、
「この錫杖寺は地蔵菩薩の霊場なれども、かくまで大破に及んだのをこのままにして置くと又、山賊の住処とならん。只焼き払うにます事あらじ」と云うと衣手はうなずいて、二人は手早く火を付ければ、北山風の激しさに見る見る炎は燃え広がり、朽ち傾いた堂塔、伽藍(がらん)は煙となって失せにけり。
その時、妙達、衣手は山門のほとりに立ち、しばらくその煙を避けて、おのおのの行方を語らうと、衣手はともかくも綾梭(あやおさ)に巡り会わねば、今更に身の縁(よすが)も無し。戸隠山に立ち帰り、あの黒姫、女鬼、今板額らにしばしこの身を頼まんと、遂に別れを告げれば、妙達も今更に名残り惜しくは思えども、さて、あるべきにあらざれば、又、再会を契(ちぎ)りつつ、東西に別れけれり。

○されば花殻の妙達はなおも幾日かの旅寝を重ねて、鎌倉の尼寺龍女寺(りゅうにょじ)へおもむいて、接客の尼に対面し、妙真大禅尼の指図に従い、無二法寺(むにほうじ)より遙々と来た事を告げ、真如禅尼へ送られた書状を出して見せれば、接客の尼はわびし気に、
「それは気の毒なる事ぞかし。当山の住職の真如(しんにょ)禅尼は少し前に移転して、山城の国の深草の女人山(にょにんさん)成仏寺(じょうぶつじ)と云う尼寺に移られた。これは近頃の事なれば、無二法寺の大禅尼はまだ知られずして、こなたへ寄こさせたまいしならん。気の毒ながら引き返し、深草へおもむきたまえ。まだ、ここには定まった住職も無ければ、留め難し」と云うに妙達は仕方無く、たちまち望みを失って、いと腹立たしくくやしけれども、さてあるべきにあらざれば、この度は東海道を山城指して急ぐと、又、十余日かの旅寝を重ねて、深草の里、女人山成仏寺へ到着しつつ、又、しかじかと案内して紹介の状を参(まい)らせた。

その時、住職の真如(しんにょ)禅尼は妙真禅尼の書状を検見(けみ)して、
「この事いかがあるべき」と諸役の尼たちに問えば、皆々言葉を等しくして
「我々はあの妙達とやらを見るに面魂(つらだましい)は世の常ならず、一癖あるべき大比丘尼(びくに)なり。彼女を当山に留めれば、いかなる事をかしだすべき。これも又、計り難し」と云うと禅尼は案じて、
「しかりとも我が姉弟子の妙真禅尼が寄せられたのをつれ無くはし難し。我は住職ながら新参の者ぞかし。とにもかくにも、よろしく計らいたまえ」と、又、他事(たじ)も無く宣(のたま)えば監主の尼らは案じて、
「しからばあの妙達を茶園守りになされるべし。茶園は遠くかけ離れ、▼尼たちと交わらず、かつ茶園のほとりには柿、梨、桃、栗、葡萄などの果物多し。これによりややもすれば、人が盗む事も少なからねば、それの守りに付けられるにはあの尼こそ好都合ならめ」と云うと皆々うなずいて、「しかるべし」と申すと、禅尼もその儀に従って、さて妙達に対面して、鎌倉まで無駄歩きさせし長旅の疲れを慰めて、
「我が寺に今は空いた役はなし。さるにより茶園を預けるなり。園主の役義を務めよ」と仰せれば、妙達はこれを不足として、
「私(わらわ)は妙真禅尼の指図に従い、当山へ参(まい)りしは首座(しゅざ)、監主とも成るべき為なり。それをひどく下職の茶園守りにされる事は心得難くはべり」と云うと監主の尼が進み出て、
「あなたは自らを思い見よ。修行僧から長老にはなり難し。まず、よく園主を務めれば、次第次第に取り立てて首座にも監主にも成したまわん。今更否(いな)む事か」と理(ことわ)り責めて説き諭(さと)せば、妙達もようやく納得して、次の日茶園の庵室に入院(じゅいん)し、元の園主と入れ替わり、茶園を支配した。

 ここに又、成仏寺の裏門前に住まいする悪戯(いたずら)者の女房、娘ら、この度妙達が茶園守りとなった事を伝え聞き、談合する様、
「我々はあの茶園の果物を取って、常に副収入にすると云えども、園主の尼は威風に恐れて叱り止める事もせざりき。しかるに今度の新役は他所(よそ)より来た尼と聞く、一あて当てて懲(こ)らさねば、付け上がる事もあらん。斯様(かよう)斯様に計らうべし」と釣額(つりひたい)のお禿(はげ)と云う悪たれ女が大勢の嚊(かか)を伴い茶園におもむき、妙達の入院の祝儀に来たといつわって、肥溜めのほとりに誘い、突き落とさんとするのを妙達が早く悟って立ち寄りながら足を跳ばして、そのお禿を肥溜めの中へはったと蹴落とした。   

<翻刻、校訂、現代訳:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
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[現代訳]傾城水滸伝  二編ノ三

2017-09-03 09:59:29 | 二編
傾城水滸伝 第貳編之三
曲亭馬琴戯作 歌川国安画 
丙犬の睦月 通油町鶴屋喜衛門版

 さる程に、釣額(つりひたい)のお禿(はげ)は思わず妙達に肥溜桶(こえだめおけ)へ蹴落とされ、「あっ」と叫んでうごめくあり様は手足は白く新漬けの大根の如く、頭は茶色で古漬けの茄子に似たり。黄汁(きじる)が四方へ散乱し臭さに鼻も向けられず、落とし紙が目口にへばり付き、紙を吹き付けられた仁王かと怪しまれ。汚い物が全身にまみれて、乞食の末風呂に入ったかと疑わる。仲間の悪たれ女らはこのあり様に驚き恐れて「あれよあれよ」とどよめくのみで、鼻をつまんで顔をそむけ、等しく頭を大地にすり付け、
「尼君、許したまえ。許させたまえ」と詫びると妙達は左右を見返り、からからと笑いつつ、
「この衒妻(げんさい)どもは肝太くも我をここへ誘い出し、謀ろうとした愚かさよ。なお説教する事あり。そ奴を早く洗い清めて、引き連れ来い」と云い掛けて、元の所へ退いて、座敷にむんずと押し上がり、豊かに座した。
その時、多くの悪たれ女は肥桶(こえおけ)を担ぐ竹の天秤棒を下ろして、お禿にすがりつかせ、引き上げて、池のほとりへ連れて行き、赤裸にして頭の上よりしきりに水を注ぎ掛け、ようやくに洗い落として、着物を二枚着た者の下着を脱がせてお禿に着せて、皆連れだって縁側に並んだ。妙達はつらつら見回し、
「大莫連(おおばくれん)ども、よっく聞け。おのれらは我が寺の裏門前で世を渡れば、いささかなりとも寺の為に骨を折ろうと思うべきに、▼先役の尼を侮(あなど)り、茶を盗み、木の実を盗むは是いかなる道理ぞ。我が手並みをば知らんのか。今日よりすみやかに志を改めねば、一人も残らず肥溜めへ蹴り込んで畑の肥(こ)やしにせん。さでも懲りぬか、いかにぞや」と息巻き叱れば、お禿を始め大勢の悪たれ女は頭を縮めて土下座して、
「我々、眼(まなこ)ありながら夜叉(やしゃ)も菩薩(ぼさつ)も知らずして、今更、後悔、謝りはべる。今よりの後、後ろ暗い業(わざ)などは申すも更なり、寺の事に骨を折り、御恩を返しはべらん。大慈大悲の御庵(ぎょあん)様、まっぴら許させたまえ」と異口同音に詫びれば妙達はからからと笑いつつ、なおも今後を戒(いまし)めて、許して自宅へ帰した。

その三日後に、お禿は仲間の嚊(かか)や娘らを集めて、
「この度、入院(じゅいん)された園主の妙達殿は世に多からぬ荒者なり。なれども理強くして折れるに早く我々を許された。先日のお礼を申さねばこの後とても良い事あらじ」と云うと皆々「さなり」と同意し、少しの銭を出し集め、樽肴を調えて、連れだって妙達の庵(いおり)におもむき、その品々を贈れば、妙達は喜び、残らず座敷に呼び上げて、樽を開き肴を並べ、我も飲み、人にも飲ませて心隈(くま)なく語らえば、お禿らは興(きょう)に入り、潮来節(いたこぶし)を唄う者もあり、口三味線を弾く者もあり、果ては簀(す)の子を踏み抜くまでに踊り騒いで日の暮れるまで愉しみ尽くして、皆々ひどく酔いとろけて帰っていった。

また、五七日を経た頃に妙達は心に思う、
「先日はお禿らが物多く持って来て、我を慰めれば、我も又、ちとばかりの返礼をすべけれ」と酒盛りの用意をしつつ、この事を伝えるとお禿らは喜んで、皆連れ立って来た。妙達は十二畳の客座敷へ招き入れ、盃をめぐらして、差しつ押えつすると庭に烏(からす)が屡(しば)鳴く声が賑やかに聞こえるとお禿らは爪弾(つまはじ)きをして、
「あな憎(にく)のやもめ烏よ、仇烏(あだがらす)、喜び烏来なけ我が宿(いお)」と繰り返しつつ吟ずるのを妙達は聞きながら、「汝(なん)達は歌詠みなるか。今のは何と云う事ぞ」と問われてお禿は微笑んで、
「世の諺(ことわざ)に仇烏(あだがらす)が屡鳴く時は故郷に憂いあり、争いあり。喜び烏の鳴く時は吉事ありと云い伝えられる。尼君は知りたまわずや。今、吟じたのは一首の古歌で、憂いを返して喜びを迎えると云うまじないなり」と云いつつ外を仰ぎ見て、
「あれ御覧ぜよ。あの大きな柳の木に烏が巣を掛け、その子が早や大きくなって巣立ちをする頃なれば、間無く時無く屡(しば)鳴くなり」と云うと妙達はうなずいて、
「さてもお前は物知りなり。実(げ)にあの烏が日毎に鳴くやかましさよ」とつぶやけば、お転婆のお抜(ぬけ)と呼ばれる十五六の下衆(げす)娘がしたり顔で進み出て、
「あの巣があればこそ、やかましく鳴きもすれ。私(わらわ)があそこへよじ登り、取り下ろさん」と云いつつ、やがて裳裾(もすそ)をかかげて出ようとするのを妙達は止め、
「止みね。女の木登りは開帳の気遣いあり。手暇を掛けるも面倒なり。我が今、柳を引き抜き、根絶やしをして見せん。いでいで」と云いながら上裳を脱いで大股で庭に入れば、皆諸共に座を立って見守った。すると妙達は腕まくりして、木の根元に近づいて、一ト抱えにも余る柳の幹をしっかと抱いて、力を込めて「エイ」と云う声諸共に柳は根こぎに抜かれ、跡には大きな穴が▼できた。この有り様に女どもは肝を潰し、目を見張り、
「君は真(まこと)に弁慶の姉御と云うとも怪しくあらず。この大木を一ト抜きにする力を思うと百人力でも余るべし。我々、宿世(すくせ)の幸いあって間近く住まいするのみならず、丁寧にもてなされた喜びはこれに増す事無し。願うは御手に付けられて、何にでも使いたまえ。あな凄まじい力や」と舌を巻きつつ感嘆し諸手を合わせて拝んだ。
妙達はそれを見ながら抜いた柳を二三十間ほど西へ持って行き、手砂を払って、にっこり微笑み、
「汝達、さのみ徒(あだ)褒(ぼ)めするな。かばかりの悪戯は物の数ともするに足らず。事のついでに我が棒の秘術を見せようか」と云うと皆々喜んで、
「実(げ)に尼君の力の程は今、目の当たり見た。なおこの上に隠し芸の武術さえ見られるは、願うも難(かた)き幸いなり。いざさぁさぁ」と請えば、
「そはいと易き事。しばらく待て」と云い、あの鉄の杖を取り出して、引き下げ来つつ、空き地にむしろを敷き渡させて、お禿らに見物させ、六十斤の杖を水車の如く振り回し、棒の秘術を一つも残さず使えば、只、稲妻が走るが如く、又は尾花の乱れるに似て、見るに目もくれ心とろけて、前にあるかと思うと忽然(こつぜん)として後ろにあり、一上一下ことごとく法に叶わずと云う事無ければ、お禿らは皆思わず手を打ち鳴らし、声を合わしてどっと褒めた。
その時、玉椿の生垣の外で白練(しろねり)の帽子をかぶり、金箔使いの内掛け衣を壺折った一人の婦人が先程よりたたずんで、妙達の棒の秘術を見て居たが、思わず声を発して「奇妙、奇妙」と褒めれば妙達がそれを聞き、
「今、生垣の向こうで「奇妙、奇妙」と云われたのを藤八五文(とうはちごもん)の売り声かと思ったが、由ありげな女中なり。いささかも苦しからず、こなたへ入って休らいたまえ」と云われて否(いな)みかねたその婦人は進み入り、妙達に向かい、うやうやしく小腰をかがめ、
「私(わらわ)はこれまで幾人となく槍棒(そうぼう)、撃丸(げきがん)などの達人を見たけれども、あなたの如き人は世にまれなり。思うに幼い頃からの出家にはあるべからず。願うは法名道号を名乗りたまえ。かく云う私(わらわ)は為楽院の別当で軟清(なんせい)の妻、名を桜戸(さくらど)と呼ばれる者なり。今日は夫諸共に稲荷山に詣でたが、軟清は風流の心あり詩を作り歌を詠まんと今なお社(やしろ)で憩いており。よって私(わらわ)は只一人のそぞろ歩きで思わず麓に下りてここまで来たのみ。いぶかりたまうな」と云うと妙達は驚いて、
「さては予ねて聞き及んだ、近頃まで▼女武者所の長(おさ)の虎尾桜戸(とらのおのさくらど)殿にて御座(おわ)するな。私は近頃、白川の無二法寺より転宿して園主の役を務める妙達と云う尼なり。故郷は甲斐の府中で武芸を好みはべり」と云うと桜戸はうなずいて、
「しからば、拳(こぶし)でなまよみ屋の貝那(かいな)後家を殺したと世の噂に予ねて聞く、武田殿の身内人の花殻のお達殿とはあなたの事か」と小声で問えば妙達は頭を撫で、
「それなり、それなり。今図らずも面(おもて)を合わして年来の望みが叶えり。まず杯をまいらせん」とやがて座敷に伴えば桜戸も喜んで、
「互いに名のみは知りながら対面するのは無かりしが、今図らずもここで一つ席に連なるは因縁あっての事なるべし。願うは今より義を結び、我の姉と思うべけれ」と云うと妙達は一議に及ばず、
「そは、私(わらわ)も願う事なり。されば、まず杯を」と云いつつ飲んで桜戸に差せば、又、桜戸も受けて返す互いの式礼なお喜びを尽くすと桜戸の伴人の錦二と云う小奴(こやっこ)が尋ね来て、
「奥様ここに居たまうか。只今、稲荷の鳥居先で旦那様が多くの女中に取り囲まれ、いと難儀(なんぎ)に見えれば、あなたに知らせ奉(たてまつ)らんと思うばかりにあちこちと尋ね巡って候なり。さぁさぁ一緒に行きたまえ」と告げると桜戸は驚きながら妙達に、
「聞かれたような訳なれば、今日はこのままここで別れん。私(わらわ)の自宅は都とは云え近いとこなり。必ず訪いたまえかし」と云うのを妙達は聞きながら、
「あなたの殿御(とのご)に難儀があれば、私(わらわ)も行って仇する奴らを叩き散らさん」と云い、早や立とうとするのを桜戸は止めて、
「相手は女子と聞くに、何事かはべるべき。只捨てて置きたまえ」と云いつつやがて座を立って暇乞(いとまご)いして出て行けば、錦二も主の尻に付き、稲荷山を指して走った。

そもそもこの桜戸は元為楽院の別当の剛詮法橋(ごうせんほっきょう)の娘で、その頃、為楽院は妙見菩薩の権化で代々肉食妻帯(にくじきさいたい)なり。しかるに桜戸は女子に似合わず武芸を好んで、幼い頃よりこれかれと師を選んで学べば、年十三四の頃より女武者所へ召されて、采女(うねめ)になり、武芸いよいよ上達して肩を並べる者が無ければ、未熟な采女らの指南さえも仰せ付けられ、あの亀菊の手に付いて宮中にいたが、父剛詮が身罷(みまか)って家を継ぐべき男子なければ、桜戸が身の暇をたまわって、軟清と云う弟子を婿養子にして縁組みした。その軟清は世に多からぬ美僧で心様さえ男に似ず、ことに内気者なれば、色好みなどはせず、何事も桜戸に及び難しと思うゆえに表ばかりは夫なれども心では姉の如くにうやうやしくもてなして、仇(あだ)なる心は無い者なり。しかれども桜戸は夫を侮(あなど)らず、常に敬(うやま)いかしづいて、その足らぬのを補えば、世に珍しき夫婦と云わぬ者は無かりける。

それはさて置き、亀菊は一院のますますの寵愛を受け、勢いは皇后候補に異ならず、皆わがままにして忌(い)みはばかる事も無ければ、遊山(ゆさん)、物詣でなどと出歩く事がしばしばで、この日は深草の里近い稲荷山に詣でていた。洛外忍びの物詣でで供人などは目立たぬようにしたけれども、なお多くの女乗り物、この他雑色(ぞうしき)下部など四五十人の供人あり。
これらは麓に残し置き、腹心の女房と女の童(わらわ)のみを従えて社(やしろ)へ詣でた戻り道。見れば、為楽院の軟清が鳥居のほとりに只一人、つくつくとして佇(たたず)むのを亀菊はひそかに恋慕して、「類(たぐ)いまれな美僧かな」と思えばぞっと恋風が身にしみじみと行きも得やらず、心安い女官を招いてしかじかと囁き示せば、女官は早くその意を推して、軟清のほとりに立ち寄り、
「何処の聖か知らねども、私(わらわ)の主が忍びやかに物云わん。こなたへこそ」と馴れ馴れしく、やおら手を取り連れて行こうとすれば、軟清は▼驚き、顔赤らめて、
「これは、失礼したまうな。それがしはさる者にあらず。許したまえ」と袖を払って逃げんとすれば、多くの女房が取り囲み、様々にこしらえて脅し賺(すか)せども軟清は神木の青葉の紅葉にすがり付き、従わぬのをなおも手を替え人を替え、口説くこと半刻(はんとき)ばかり。
されども軟清は従わず、許したまえと云うのみなれば五七人が前後左右に立ちかかり、訳無く手を引き背中を押して、辛くして亀菊のほとり近くへ引き寄せれば、亀菊は緋扇(ひおうぎ)で顔を覆(おお)って、なよやかに白き腕を差し伸べて軟清の手を握り、
「「時雨(しぐれ)する 稲荷の山のもみじ葉は 青かりしより 思い染めてき」と詠(よ)んだ歌もあるものを心強きも程こそあらめ。色良い返事を聞かせてたべ」と云うと軟清は頭を振り、
「高貴な方様の忍び詣でと見奉(たてまつ)るが、何故に青天白日に出家人を引きとらえるか。妄(みだ)りがましく聞こえたまうぞ。早く放して帰させたまえ」と云えども聞かず亀菊はなお引き寄せんとする時に桜戸が走り着き、見れば、夫軟清を無理矢理に引き捕らえ、ひたすら口説く手弱女(たおやめ)は見忘れもせぬ亀菊なれば、再び驚き、はばかって、すぐにはこれを止めず、うやうやしく近づいて、
「これは椋橋(くらはし)殿にて御座(おわ)せしな。何故(なにゆえ)にその者を苦しめたまうか」と云えば亀菊は気色(けしき)を変えて、
「誰と思えば為楽院の桜戸か。私(わらわ)はにわかに右手が痺れて痛むので、仕方無くこの聖に逢ったが幸いと加持を頼んでおるのをそなたが構う事にはあらず」と云うと桜戸は微笑んで、
「今だお知り召されずや。それは我が夫の軟清なり。例え加持に召されるとも、司(つかさ)々のことわり無くて参るべき事にはあらず。まいて、かかる物詣での道にて近づき奉(たてまつ)らば、人聞き悪く後難(こうなん)あらん。いざ、こちの人帰りたまえ。長居は恐れにはべらずや」と云いつつ自ら引き立てて麓の方へ急いだ。
ここに至って亀菊はその美僧が桜戸の夫だと初めて悟って驚いて、恥じ、且つ憤(いきどお)りに耐えざれは残り惜しさも一入(ひとしお)なれども、飛ぶ鳥も落ちると云う我が勢いにも仕方無いのは道ならぬ恋なるをもて争い難く、おめおめと放しやりつつ、うっとりと、しばし見送ったが、さてあるべきにあらざればその夕暮れに都へ帰った。

これより後、亀菊は軟清の事を忘れようとするにも忘れられず、しきりに悶え憧れて、宮仕えも物憂(う)さく、しばらく病にかこつけて引き籠もって居た。
ここに又、陸船(くがふね)と云う女鍼医(くすし)あり。この年頃、宮中の局(つぼね)々へ参り、勢い付いて利を計る世にたくましい女なれば、いつしか亀菊にへつらって、後には他の局へ行かず、これにより亀菊は全て内々の用向きを陸船のみに委ねた。萬(よろず)に才覚ある者で何事も良くすれば、亀菊は深く愛で喜んで、彼女の夫を尋ねると富安(とみやす)舳太夫(へたいふ)と云う浪人で東山で童の手習いの師匠としてかすかに暮らすと聞けば、亀菊は遂に取り立ててこの舳太夫を局付きの雑務役にした。この故(ゆえ)に陸船夫婦は常に亀菊のほとりを離れず、いよいよますます媚びへつらって務めた。
かかりし程に陸船は亀菊の物思いある気色(けしき)を推して、人無き折をうかがいつつ、ほとり近くに進み寄り、
「いかなる事がはべりてか。何故に私(わらわ)に隠したまう。世に為し難き事なりとても我がしおわせはべらんものを」と恨み顔して囁くと亀菊はにっこり笑って、
「さては薄(すすき)の穂にいでけん。そなたに隠すべくもあらず。我の物思いはしかじか」と稲荷山の事の一部始終を告げれば、陸船は聞きつつ小膝を進め、
「あの桜戸は女武者所に在りし時、私(わらわ)とは疎(うと)くもはべらず、今も折々療治の為に為楽院へ行くことあれば、謀(はか)る事はさほど難くもあらず。まず舳太夫を呼ばせたまえ。談合すれば良い知恵がでん」と云うと亀菊は喜んで、その夜、陸船と舳太夫を呼んで事の機密を示しつつ、「謀り事があるか」と問うと舳太夫は頭を傾け妻の陸船諸共に胸中を吐き、額(ひたい)を合わして密談時を移した。

○さる程に、桜戸は稲荷山での亀菊の事を浅ましく腹立たしく思えども人に云うべき事にあらねば、只、胸中のみで遣(や)る瀬も無くて十日余りを送っていると女鍼医(くすし)の陸船が珍しく来たので良き折なりと対面しつつ、
「この頃は気が結ぼれて何となく心良からず、療治してたべ」と云うと陸船は脈を見て鍼を刺すこと半刻ばかり、さて桜戸に向かって云う、
「あなたの病は気の方なり。療治は保養にます事無し。近頃、五条の功徳庵で千体仏の曼荼羅(まんだら)をよく織ると噂に聞いた。いざ行って見ばや」とそそのかせば桜戸も実(げ)にもと思って夫軟清に由を告げると、
「しからば錦二を供に連れたまえ」と云うのを陸船は聞きながら、
「忍び歩きの事なのに、供人(ともびと)あってはかえって悪し。私(わらわ)が伴い参らせるに何事かはべるべき」と云うとそれを否みかね、二人で連れ立って出て行った。
この時に日は傾いて七つ頃なれども、陸船は予ねてより道で時を移そうと思えばあちこち立ち寄って、商人の棚の物を眺めるなどしてようやく五条へ着いたのは黄昏になっていた。
そしてその功徳庵へ行って様子を尋ねると千体仏を織る事は跡形も無い空言(そらごと)で人気も無ければ、桜戸は興(きょう)を失い、帰ろうとするが陸船は何処か行きけん、たちまち見えずなりにけり。厠(かわや)を借りに行ったかとしばらく佇(たたず)むと、既にして日は暮れた。
その時、宵闇(よいやみ)の帰り道のおぼつかなさに▼、陸船を待つに及ばず、独りそこより道を急いで、五条の橋のほとりまで来た時に向こうに見える提灯に我が家の紋があれば、もしやと思って近づいて、「そは錦二にはあらずや」と問えば「然(さ)なり」と答え、「迎えに来たか」と再び問えば錦二は息を切らせて、
「奥様、早く帰りたまえ。先にあなたの留守の時、陸船殿より人をもて、桜戸様は途中でにわかに痞(つか)えが起こり行き悩みたまうにより、私(わらわ)の自宅へ伴って様々に療治すれども危うく見えれば事の由を告げ参らせる。軟清様、さぁさぁ来て看取りたまえ」と云われれば、軟清様は驚いて我らを供に召し連れて、大和橋のほとりの陸船殿の自宅を指して走り着いたのは黄昏頃の事なり。その時、陸船殿の夫らしき五十ばかりの憎々しい人が出迎えて奥へ伴い、何事やら囁くが旦那はそれを聞きたまわず、「我が妻が急病などと偽(いつわ)って、我を引き寄せ、邪淫(じゃいん)の取り持ちせられるは心得難し」と宣うのがほのかに聞こえ、これは只事(ただごと)ならずと思えば、その家を走り出て五条と聞いたを心のあてに告げ申さねばと参ったなり」と云うと桜戸は驚き怒って、「さらば急げ」と云うままに錦二が遅れると思って、その提灯を自ら取ってひたすら走ると四条河原のほとりで重たげな葛篭(つづら)を背負って頬冠(ほおかむり)した武士に会った。彼は灯(あかり)を嫌うとおぼしく、たちまち道を横切って、避けんとした葛篭(つづら)の内より帯の端が下がっているのを桜戸は目早く見ると、綾(あや)の織り出し染色まで軟清の帯によく似ていれば、
「曲者(くせもの)待て」と呼び掛けて、葛篭(つづら)をしかと引き止めれば、向こうも早く身をひねり、刀を抜こうとするところを桜戸はすかさずつけ入って脾腹(ひばら)をはたと打てば曲者は「あっ」と叫んで葛篭と共に倒れた。
桜戸は得たりと走りかかって蓋を開けようとすると頭巾(ずきん)で顔を隠した女が後ろから走り来て、ひらりと引き抜く懐剣(かいけん)の光りに桜戸は身を沈まして、空(くう)を切らせる早速(さそく)の働き。その間に倒れた曲者も身を起こし、葛篭(つづら)を捨てて斬ってかかるを桜戸はあちこちとかいくぐり生け捕ろうと思えども、身に小刀を帯びざれば小石をつかんではらはらと投げる礫(つぶて)に男女の曲者は叶わじと思ったか跡をくらまし逃げ去った。
桜戸はこれを追わずに、捨て置かれた葛篭の蓋を取れば、内より出る優(やさ)法師はこれ桜戸の夫軟清なりし事、なおつぶさには次に見えたり。

その時、軟清は葛篭(つづら)より出て、呆然(ぼうぜん)としてあたりを見返り、
「思いがけなや。桜戸はいかにこの難儀を早くも救ったか。そも又、ここは何処ぞや」と問えば桜戸は、
「然(さ)ればとよ。先に私(わらわ)は陸船にあざむかれ、五条まで曼荼羅(まんだら)を見に行ったが、跡形も無い空言で陸船は黄昏に雲隠れした。独り疑い迷いつつ帰る途中で、錦二が私(わらわ)を尋ねて来るのに会った。これによりあの夫婦の企らみを大方聞けば、飛ぶが如くに陸船の自宅を指して来る時に、怪しい葛篭を背負った曲者に出会い、葛篭の蓋の間より垂れ下がった帯の端が見紛(みまご)うべくもなくあなたの帯に似るにより、「曲者待て」と引き止めて挑み争うその時に一人の女が走り来た。その女は懐剣(かいけん)ひらりと引き抜いてその曲者を助けつつ、私(わらわ)を討とうとしたれども、叶わぬと思いけん、遂に葛篭を捨てて両人共に逃げ失せた。思うに葛篭を背負ったはあの富安舳太夫で、後より来たのは陸船ならん。しからばあなたは囚(とら)われて葛篭の中に御座(おわ)すると推量したに露違(つゆたが)わずで、ここにて取り返した喜ばしさよ」と物語れば、軟清も又、舳太夫に欺(あざむ)かれた事を斯様(かよう)斯様と告げ知らせ、
「あの舳太夫が有無を云わさず我を葛篭(つづら)へ入れ、この宵闇に背負い出したのは亀菊殿の局(つぼね)へ伴う為なるべし。しかるをあなたに救われたは我が運命の尽きざるところか。我がもし虜(とりこ)になれば慰(なぐさ)み者となるのみならず、命も遂に絞り取られて再び会う日が無からんに、今に始めぬ事ながらあなたの手並みは武士にも勝れり。しかるを舳太夫、陸船らが叶うべきか」と云うのを桜戸は押し止めて、
「ここは舳太夫らの家路に近し。詳しい事は自宅で聞きもせん云いもせん。いざ諸共に」と急がす時に錦二もようやく追いつけば、いざとて提灯下げさせて仇(あだ)を恐れぬ勇婦の振る舞い。夫を守って二鞘(ふたさや)の家路を指して帰って行った。

○桜戸はその夜もすがら、
「・・・・亀菊殿はことさらに素性いやしく、行いが正しからぬもありながら、勢い高く、それを咎(とが)めるべき由も無けれど、陸船はこの年頃、親しく交わるにこの振る舞いは人たる者の業(わざ)ならんや。彼奴(かやつ)夫婦を引き捕え、責め懲(こ)らさねば、又、この上にいかばかりの企みを成さんも計り難し。しかし夫に云えれば止められん。よく責め懲(こ)らして後にこそ」と思案をしつつ次の日より、物詣でにかこつけて、東山の陸船の自宅に行くが彼女はいず、その夫の舳太夫すらこの頃は椋橋殿の御用に暇(いとま)無く、家にいる日はまれなりと留守居の下部のみ居たり。
「・・・・・さては彼らは我を恐れて院の御所へ参(まい)ったか。亀菊殿の局の内に深く隠れているにもせよ、いつまでも帰らではいられん。出し抜いて不意に来れば会わずと云う事あるべからず」と思案をしつつ、何も云わずにその日は自宅に帰り、これよりの後、三四日づつ間を置いて彼らを訪ねるが、▼その行く毎に陸船夫婦はまだ帰らねば、途中で会わずば会う事いよいよ難(かた)かるべしとその後はなお又、事に託(かこ)つけ都の内をあちこちと、折々出掛け歩けども陸船も舳太夫もいよいよ隠れて影だに見せず、軟清は桜戸が近頃しばしば出歩くのを心得がたく思えば人無き時に囁(ささや)く、
「あなたは日頃、物見遊山に出歩く事などはさほど好まぬのに、先日我が身に事ありしより、ややもすればあちこちと漫(そぞ)ろ歩きをしたまうのは、もしや陸船らにあの夜の恨みを返さん為にはあらぬか。それは毛を吹いて瑕(きず)を求める(やぶ蛇)類いなるべし。あの者らは亀菊殿の腹心の者にあらずや。例え此方(こなた)に理があれども、亀菊殿に憎まれれば、その理は遂に非にこそならめ。只捨て置きたまえ」と諌(いさ)めた夫の言葉は不甲斐無けれど、道理無きにあらざるに、桜戸は陸船らを尋ね飽きた頃なれば事ようやくに思い返して、これより心も緩みつつ、又、尋ねようともせず、深草より花殻の妙達が訪ね来て、酒飲み遊び暮らす事、早や三度に及べば、桜戸はこれにまぎれて、あの憤(いきどお)りも何時(いつ)となく忘れた如くに日を送り、花殻に訪ねられた事も再び三度に及んだのでせめて一度は訪れて彼処(かしこ)の安否を問えばと思えば由を夫に告げて錦二を供に深草の尼寺へ行く途中で、妙達がこちらへと出て来るのに行き会った。
互いにしばし立ち止まり、つつが無きを祝いつつ、桜戸は我が自宅へと誘えども妙達は桜戸が訪れんと思った事なれば、今日はこのまま我が庵(いおり)へと誘いつつ、遂にそこより取って返して深草の成仏寺を指して行く途中で、年は三十余りで旅やつれした一人の女が桜戸の先になり後になりつつ、「今日のみと 見るに涙の増鏡 馴れにし影を人に語るな」と云う歌を幾度と無く繰り返して、ひたすら嘆息していれば桜戸はこれを聞き、心の内に思う、
「・・・・あの女が吟じた歌は昔三河の前司大江の定基が逢い慣れた女が病んで空(むな)しくなるのをひどく悲しみ嘆いて、世を捨てようと思った折に、何処(いずこ)と無く貧しい女が鏡を売らんと持って来れば、定基が手に取ってこれを見ると一首の歌が書いてあった。その歌は今あの女が吟じたと相同じ、これらの由は我が夫が折々に読む沙石集(しゃせきしゅう)にあれば傍(かたへ)聞きして我も知れり。しかるに彼女が今ひたすらにその歌を吟ずる事は故(ゆえ)こそあらん」と思うとたちまち呼び止めて、
「いかにそなたは何故(なにゆえ)に古歌をしばしば吟ずるぞ。もしや秘蔵の鏡を売る為ならずや」と問われて女は驚きながらうやうやしく小腰をかがめて、
「御推量に露も違わず、親の形見の鏡あり。又、一振りの短刀あり。身の方便(たつき)無きままに売ろうと思えど、さすがに卑しき者の手に渡す事の口惜しさに明らさまには告げずして、沙石集の歌を吟じて洛中をさまよい歩き、歌の心をよく知って買わんと云う人があるならば、その人にこそ売り渡そうと思えば五七日もかたの如くに呼び歩けども、何ぞと問う人無かりしに、賢くも我が売り物を知られるか。喜ばしき」と云うと桜戸はうなずいて、
「その売り物は何処(いずこ)にあるぞ」と問われて女は忙わしく背中に負った風呂敷包みを解き下ろし、まずその鏡を出しつつ、「これではべる」と差し寄せるのを桜戸は手に取り見ると、直径は七寸ばかりで裏には波に兎を鋳(い)てあるが、その良く物を照らす事は月の如く氷に似たり。又、短刀を出させて見ると長さは九寸余りで焼き刃の匂いは得も云われず、あぁ、得難き切れ物ならんと思うに手さえ離しかね、又、その女に向かい、
「値(あたい)安くば二品共に私(わらわ)が買わんと思うなり」と云うと女は喜んで、
「只今も申した如く、値良く買う人ありとても麦をも豆をもわきまえぬ心無き輩に渡す口惜しさに人さえ選ぶ事なれば、五十金にもなるべき物のその半(なか)ばを引き下げ、一品を十五づつ、三十両にて売りはべらん」と云うと桜戸は頭を傾け、
「そはそれ程の物でもあらんが、私(わらわ)も女子の事なれば余りに高くては夫にも告げ難し。一品を十両づつ、二十両で売るならば異議なく買わん。いかにぞや」と押されて女も小首を傾け、
「そは又、あまりに安くはべれども私(わらわ)もにわかに入用(にゅうよう)の事もあり、仕方無く秘蔵の品を売る仕儀なれば欲を離れて参(まい)らせん。せめて壱両増して涙金としたまわれかし」と云うと桜戸はうなずいて、
「さばかりの事ならば取らせんが、そもそもそなたは何処(いずこ)の人ぞ。鏡も剣(つるぎ)も昔より持ち伝えしに相違無きや」と問うのを女は聞きながら、
「そは云われるまでもはべらず、私(わらわ)は鎌倉の者にはべるが、うち続いた仕合わせ悪くて、夫に後れ子を先だてて、寄る辺の島も無き身ながらこの都にはちとばかりの縁(ゆかり)の人が在るにより、身の片付きを頼まんと遥々(はるばる)上りし甲斐も無く、その人は去年の春に亡くなったと聞こえれば、進退ここに極まって何処に行くにも路銀は尽きた。仕方の無いままに、身にも替えずと思うこの二品を売り払って又、鎌倉へ帰る心細さを察したまえ」と云いつつ、涙を押し拭えば、さこそと思う桜戸も哀れをもよおして「さらば値を取らせん。私(わらわ)と供に来よかし」と云い忙わしく妙達に向い、
「只今聞かれた訳なれば、私(わらわ)はあの女子を連れて▼自宅へ戻り、値を取らせて、後より寺へ参るべし。あなたは先へ帰られたまえ」と云うと妙達は空仰ぎ、
「既に日陰も回ったり。しからば今日はここにて別れて、又、遠からず訪れん。あなたも今日は自宅に帰って、又、近き日に出直したまえ、今日に限ることか」と云うと桜戸は否みかね、
「しからば仰せに任せはべらん。物を買わんとここにて別れる本意(ほい)無さよ」と云うのを聞かず、妙達は立ちくたびれて、暇乞(いとまご)いすらそこそこに別れて寺へ帰って行った。

その間に女は手早く鏡と短刀を錦の袋に入れて、風呂敷で包めば、桜戸は先に立ち自宅へ伴いつつ、さて軟清に由を告げると、年頃、万事を妻に任せていればいささか拒む気色無く、
「あなたが愛でる物ならば買いたまえ」と云われて桜戸は嬉しくて、さてその値を取らせて、その二品を買い取ればその女は喜んで、旅籠(はたご)へ帰っていった。
さる程に桜戸は鏡と剣を袋よりやおら出し、見て、或るいは掛けて眺めると初め見たのに増して、世に稀(まれ)なる宝なれば愛で喜んで思う、
「・・・・先頃、一院より亀菊殿に賜りし宝剣は目出度き物と世の噂に聞いたれども、今日求めた短刀はをさをさそれにも劣らぬ物」と一人心に誇りつつ、さて軟清にも見せれども武具を嗜(たしな)む者ならねば、さのみはよくも見えざりけり。

かくて、その翌朝、椋橋(くらはし)の局より走り使いの雑色(ざっしき)が来て、
「亀菊殿の仰せなり。桜戸は近頃、良い鏡と短刀を求められたとほのかに聞く。此方(こなた)にもさる物あればいずれが劣るか優れるか、比べて見んと思うなり。さぁさぁ持参あるべし」とにわかに下知を伝えれば桜戸は深くいぶかり、
「・・・・・我がこの品を買い取ったは昨日の事なのに、亀菊殿はいかにして早くもそれを知られたか。心得難き事なり」と思えども今更に隠すべきもあらぬを我が身が女武者所にいた時はあの人の手に付いて勤めたこともあれば否(いな)むに由無く、下知の趣(おもむき)をしかじかと軟清に▼告げ知らせ、にわかに衣装を整えて、その使いと諸共にその局へ向かった。
その時、一人の老女が「いざ、此方(こなた)へ」と案内しつつ、広い屋敷に伴ったが、椋橋殿はここに御座(おわ)さず、彼方にこそと先に立ち、又、幾間を過ぎて奥深く伴うが、「否々(いないな)、ここにも御座さぬなり。必ず彼処に御座するならん」と云いつつ、再び先に立っていよいよ奥へ誘(いざな)うと三十五畳を敷き渡した一間の内へ伴って、「しばらくここにて待ちたまえ。只今、御いであるべきに」と心得させて、その老女はそのまま走り去った。
桜戸は携え来た鏡と短刀を手に持ち膝に乗せ、亀菊が出て来るのを今か今かと待ち、何心無くあたりを見ると南面(みなみおもて)に上段あり。そこには御簾(みす)が掛けられて、左の柱に一面の鏡を掛けてあたりを照らした。只右の柱には鏡掛けの釘のみあって、それには鏡を掛けられず、その上段の正面に岩戸局(いわとつぼ)と印した額が掛けてあれば、桜戸は驚き、
「この岩戸局と云うのは一院が政治(まつりごと)を聞こし召す所で、只人(ただびと)が参る所にあらず。あの老女は何故にここへ伴ったか。不注意なり」と恐れ迷って退き出ようとする時に思い掛け無く後ろの方で亀菊が見ており、たちまち声を掛け、
「桜戸は何の為にここへ漫(そぞ)ろに参(まい)ったか。しかも剣(つるぎ)を携えるのは逆心あっての事ならん」と云いつつ向かいをきっと見て、
「あら不思議な事あり。高御座(たかみくら)に掛けられた日月の御鏡の月の方が無くなりしは察するところ桜戸が盗み取ったにあらんずらん」と云われて桜戸は
「此(こ)はいかに」と驚きながらも悪びれもせず膝まづき、
「御局(みつぼね)様の仰せなれどもそれは事違(ことたが)えにはべるべし。私(わらわ)は昨日思いがけなく、この鏡と短刀をある女より買い取りしが何人(なにびと)が告げ申したか、あなたが御覧あらんと携え参るべき由の御使いを受ければ、取るものも取りあえず、后町(きさきまち)まで参(まい)りしに、年は五十路(いそじ)余りの一人の老女が案内して、この所へ誘ってはべり」と云うと亀菊は柳の眉を逆立てて、
「さては企んだり、こしらえたり。私(わらわ)はそなたを呼ばせるために使いをやった事は無し。又、我が使う長女(おさめ)に年寄りは一人も在らず。その使いの名は何と云った、老女は何と云う者ぞ」と問い詰(なじ)られて桜戸は
「否(いな)、使いの名は聞かず。老女も何と云う人やらん。その名は知らずはべるかし」と云うと亀菊はあざ笑い、
「実(げ)に盗人(ぬすびと)の猛々しさよ。誰かいるか。この曲者(くせもの)をさぁさぁ絡め捕らずや」と激しき下知も権威の一声。それに従う女武者の采女(うねめ)らが早く聞き付け承りぬと八九人が群立ちかかって走り来て、有無も云わせず桜戸を手取り足取り押し伏せて縄を掛けた。
その時、亀菊は再び下知して、桜戸が持つその二品を検(あらた)めさせると鏡は高御座(たかみくら)の右の柱に掛けられた月形(つきがた)の御鏡で、裏には波に兎あり。又、短刀は亀菊が一院より賜った浮寝鳥(うきねとり)の御剣(みつるぎ)なれば、ひとかたならぬ盗賊なりとその二品を差し添えて、罪の趣(おもむき)を書き記させ、検非違使(けびいし)へ引き渡した。
このようにして検非違使の山城之介照道は桜戸を受け取って、事の子細を責め問うと桜戸は有りし事を斯様(かよう)斯様と云い説けども鏡と短刀を売ったと云う女の名所(なところ)が定かならねば、その言い訳は立ち難し。
「なおこの上は夫軟清も召し捕って詮索すべし」と云われると桜戸は深く嘆いて、
「軟清はこれらの事を始めより少しも知らず、夫婦の間も良くなければ、軟清に問うとも真(まこと)の事は申しはべらじ。とにもかくにも我が身一つの罪として定めたまえ」と申すと照道はこの事を亀菊に告げ、亀菊は
「さもあらん、軟清は捨て置いて、只桜戸のみ詮索せられよ。罪人が多くなるは益無き事ぞ」と答えれば、照道はこの儀に従い、桜戸の罪を定めども今は都の事でも武家の判断に寄らねば執り行う事が容易ならず、これにより照道は桜戸の罪を書き記して六波羅へ引き渡した。

されば鎌倉より付け置かれた伊賀判官光季(みつすえ)は桜戸を引き出させて糾明(きゅうめい)すると、桜戸はあの鏡の事、短刀の事から亀菊に呼ばれた事は斯様斯様、又、思わずも岩戸の局に誘われた事、取り次ぎの老女の事は斯様斯様とつぶさにこれを告げると云えども鏡と短刀を売ったと云うその女は定かならず、又、取次ぎの老女の事も亀菊がこれを知らずと云えば▼とてもかくても罪は逃れず、なお又、詮索すべきとそのまま牢屋に繋がせ置いて、光季はつらつら思案をするに、桜戸が申す事に証拠は無いと云えどもさながら無実の咎(とが)に似たり。あの亀菊殿が一院の御寵愛を得てより、己(おのれ)にへつらう者を取り立てて、逆らう者には罪無くても咎(とが)を負わせる。これ今の世の慣(なら)わしなれば、熟慮すべき事なりと罪を定めて曰(いわ)く、
「桜戸が法を犯して岩戸の局(つぼ)へ入った事、その罪は軽きにあらねども月形の御鏡と浮寝鳥の短刀を盗み取ったとも定め難し。彼女がもし盗んだ者ならば、うかうかとそこに久しくおる事はあるべからず。かかれば盗人(ぬすびと)に似た罪と岩戸の局(つぼ)へ迷い入った二つの咎(とが)で佐渡の国へ流すべし。これ相当の刑罰に候べし」と聞こえ上げ、亀菊もこの事は己に理ある儀にもあらぬのに六波羅の判断を押し破るのもさすがにて、又云う由も無かった。
これにより光季は桜戸を引き出させて佐渡の国へ流す罪を言い渡し、縛(いまし)めの縄を解き、背中を二十度杖鞭(つえむち)打たせ、首枷(くびかせ)を掛けさせて、足高蜘蛛平(あしだかくもへい)、戸蔭土九郎(とかげのどくろう)と云う二人の使いで佐渡の国へ送りつかわした。

さる程に蜘蛛平、土九郎は佐渡の本間太郎へ六波羅から下知された送り状を受け取って、桜戸を六波羅の門外へ引き出した時、為楽院の軟清は今日桜戸が佐渡の国へ流される事をほのかに伝え聞き、下部の錦二と共に今朝よりここに待っており、桜戸が出るのを見て、蜘蛛平、土九郎には一包みづつの銀子を贈ってしばし別れの暇(いとま)を乞い受け、涙と共に桜戸をあたりの茶店へ誘い入れ、只さめざめと泣くがようやくに頭をもたげ、「我が妻、あなたの無実の罪は誰とて知らぬ者は無けれど、その言い訳の立ち難きは皆あの人の故(ゆえ)にして、命も既に危うしと聞こえた時は諸共に死のうと思ったが、なお現世の息の内にかく顔を合わせる事、いと喜ばしと思うにも又、悲しきは会う事を何時(いつ)と定めぬ生き別れ、今よりあなたに捨てられて、我が身は何となるべきか」と云う声を胸に詰まらし、しきりに涙を押し拭えば錦二も瞼(まぶた)を擦り赤らめて返らぬ事を繰り返す。鴫(しぎ)の羽根掻き(がき)たつ鳥の別れを共に惜しみけり。桜戸も湧き返る涙に胸は苦しけれど、もとより雄々しき性(さが)なれば夫を諌(いさ)め励まして、
「とてもかくても別れては会う事難き夫婦の縁(えにし)も今日を限りと思うなり。離縁の状を書いてたべ。しからざれば亀菊殿の心は安からず、私(わらわ)の命が危うかるべし。さぁさぁ状を書きたまえ」と云うも軟清は頭を振り、
「そは思いがけも無き事を云われる情けなさ。あなたは家の娘にして我は弟子なり、又、婿なり。さるをあなたに咎(とが)も無く、離縁の状をやる由あらんや。この事のみは従い難し」と否(いな)むを桜戸は押し返し、
「宣う由はさる事ながら、あなたと縁を切らざれば亀菊殿の憤(いきどお)りは何時までも執念深くて、遂に私(わらわ)は殺されん。これらの訳を汲み取って、只速(すみ)やかに去り状をたまうが我が身の為なれば、まげてさぁさぁ書いてたべ」と云うに軟清も、仕方無く泣く硯(すずり)を借り寄せ涙と共に磨(す)り流す、妹背(いもせ)の縁も薄墨に書くぞ苦しき三下り半、これ一生の別れとは知るや知らずや白紙(しらかみ)も落つる涙に濡れ衣(ぎぬ)の無き世をかけし暇乞(いとまご)い、行って帰らぬ水杯(みずさかずき)も深き嘆きにかき暮れて思わず時を移しけり。
この軟清は女子(おなご)めいた顔で玉を欺(あざむ)く美僧なれば、世に白玉の軟清と手弱女(たおやめ)らにさえ知られども身の行いは物堅く、胸いと狭き者なれば、桜戸と別れしより一人くよくよ嘆きつつ、病の床に臥(ふ)したと後に聞こえた。

○これはさて置き、足高蜘蛛平、戸蔭の土九郎は軟清の賄賂を受ければ、▼彼が暇乞(いとまご)いをする間は茶店の主人に心得させて桜戸を預け置き、おのおの自宅へ走り帰って、忘れた物などを携えんとする時に金乃蔓屋(かねのつるや)と呼ばれた料理酒屋の男が来て、
「誰様なのかは知らねどもあなたに対面したいと我らの二階に上り、先より待って居たまうなり。いずれも暇を取らせはせじ、さぁさぁ」と急がせれば行く手の序(ついで)良いままに、「戸蔭さんへはこれらの事を既に通達仕りぬ」と云うと蜘蛛平は眉をひそめて、
「そは誰なるらん。心得難し。とまれかくまれ自ら行かねば疑いは解け難かるべし、いざ」とて連れ立って金乃蔓屋へ赴(おもむ)けば、門辺(かどべ)で土九郎も招かれ来るのに会った。
その時、互いにしかじかと立ちながら囁いて、その男に案内させて二階へ上れば、奥まった座敷の内に五十路余りの一人の武士が待っていた。元より見知らぬ人なれば二人が進みかねるのをその武士は見て、
「足高殿、戸蔭殿、まず此方(こなた)へ」と座を立って上座へ据えた。程しも置かず、下屋より酒肴(さけさかな)を持て来させ、所狭きまで置き並べるとその武士は蜘蛛平と土九郎らの近くに寄せて「両君、これは寸志なり。まず盃(さかずき)を上げたまえ」と云うと両人は頭を撫でて、
「それがしらは見忘れたるか。君をいずれの人とも覚えず、しかるをかくまでもてなしたまうは故(ゆえ)こそあらめ」と云いも果てぬにその武士はにっこと笑み、
「それらの事は只今告げん。まず盃を上げたまえ」とひたすら勧(すす)めれば、蜘蛛平も土九郎も再び問うに及ばずにもてなしを受けると、その武士は懐より二包みの金を出し、両人のほとりに置き、
「各々(おのおの)これを受けたまえ」と云いつつ声を潜(ひそ)まして、
「それがしは亀菊殿の雑掌(ざっしょう)で富安舳太夫と呼ばれる者なり。この度各々(おのおの)が送り行かれる桜戸に付いて密議あり。あの女は我が主君の深き恨みある者なり。これにより、道中で桜戸を殺し、その証拠としてあの者の面(つら)の皮を削(そ)ぎ取って実見に入れたまえば、なお幾何(いくばく)も褒美があらん。あの桜戸は左の下あごに黒子(ほくろ)あり。それを証拠にする為なれば、面の皮を削ぎ取って御目にかければ各々(おのおの)に偽りの無き事は知られん。さぁさぁこれを収めたまえ」と欲より誘(いざな)う二包みの金をしきりにすすめた。  

<翻刻、校訂、現代訳:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
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[現代訳]傾城水滸伝  二編ノ四

2017-09-02 10:00:24 | 二編
けいせいすいこ伝 第二編之四
曲亭馬琴著 歌川国安画
丙戌新板 鶴喜版

その時、土九郎は頭を振って、
「否(いな)、その事は叶うべからず。六波羅殿より桜戸を佐渡へ送り届けよと仰せつけられたのに、道で殺して事顕(あらわ)れれば、これ我々の難儀(なんぎ)にならん」と云うのを蜘蛛平は聞きながら、
「戸蔭、お前は飲み込み悪し。道中で人知れずに桜戸を殺し、病死と云って帰れば誰が真(まこと)とせざるべき」と云うと舳太夫は喜んで、
「足高殿、いさぎよし。万事、手違い無いように何分(なにぶん)頼み参(まい)らする」と云いつつ贈る二包みの金を二人は受け納め、
「富安殿、心安かれ。遠からず吉報を告げ申さん」とひそめき囁き、又、盃を巡らして思わず時も移れば舳太夫は手を打ち鳴らし、以前の男を呼び寄せて、酒肴(さけさかな)の値を取らせ、門辺に出て、舳太夫は蜘蛛平、土九郎らと別れ、己(おの)が自宅へ帰って行った。

○かくて蜘蛛平、土九郎は元の茶店におもむいて、桜戸を急がせて、追い立て追い立て近江路より北国指して旅立ち、軟清、錦二は逢坂の関まで見え隠れに送ったが、さてあるべきにあらざれば泣く泣く家に帰った。

さる程に蜘蛛平らはその日はわずかに三四里で宿を取り、明けの朝は未(まだ)きに発って、しきりに道を急げども桜戸は背中を打たれた鞭の傷に痛みが出て、進みかねるを蜘蛛平、土九郎らが罵(ののし)り、嘲(あざけ)り、口に小言は絶えねども桜戸は露ばかりも彼らに逆らう事を云わず、心ばかりは急げどもとにかく道がはかどらず、この日は七里ばかりでとある里に宿取った。
この頃まではまともな旅籠屋(はたごや)はまれで、旅人を泊めるものの風呂を焚く事も無く、多くは木賃(きちん)なれども流人(るにん)を送る公人には旅籠賃を取らず、又、もてなしもしなければ蜘蛛平らは荷を下ろして一つ座敷で疲れを休め、煮え湯を盥(たらい)に汲み入れさせて竹縁(ちくえん)の元に置き、桜戸を呼び、洗足を使えと云う。
疲れ果てた桜戸は首枷(くびかせ)を掛けられたままで倒れ伏し、息もせずで居たが蜘蛛平らが情けらしく云うのを聞いて、
「そはかたじけ無くはべれども、私(わらわ)はひどく疲れた上に首枷が邪魔で足を洗うも自由ならず。只このままで眠るべし」と云うのを蜘蛛平は聞きながら、
「しからば我らが洗ってやろう、さぁさぁここへ来たまえ」と云うのを桜戸は押し返し、
「それは余りにはばかられるなり。只打ち捨てて置きたまえ」と否むを蜘蛛平は聞きながら、
「それは益(やく)無き遠慮ぞかし。▼旅は路連れ世は情け、何かは苦しかるべき。さぁ来て洗いたまえ」としきりに云うて止まざれば桜戸は遂に否(いな)みかね、謀(はか)り事があるのも知らず、「しからば」と云いつつ、ようやくいざり出て、竹縁に尻を掛ければ蜘蛛平は下にいて、「さらば洗ってやろう」と云うより早く、桜戸の足をつかんで煮え湯の中へたちまちどぶりと押し入れれば、桜戸は「あっ」と叫んで、やにわに足を引いたれども既に両足が湯膨れで腫れ上がり、その痛み耐え難ければ元の所へいざり行き、再び倒れ伏した。
蜘蛛平はこれを見て
「我は仏心で足を洗うてやるに、熱いの温いの屁臭いのと様々の望み小望(こぞみ)はあろう事かあるまい事か。昔より流人どもが役人様の肩を揉み足を洗う事はあれども、役人様が流人の足を洗ってやったためしは無いに、慈悲も情けも得知らぬ奴に構うは損じゃ」と罵(ののし)れば、土九郎もがやがやと共に罵り辱(はずかし)めた。さて二人はその煮え湯に良き程に水を挿し、互い代わりに足の泥を注ぎ落とし、臥所(ふしど)に入って、その宵の間より眠った。
かくてその暁(あかつき)に蜘蛛平、土九郎らは密(ひそ)かに起きて朝飯を食らい、桜戸は目を覚まし慌(あわ)てふためき起きても早やその膳が終われば食べる事もできず、蜘蛛平は新しい草鞋(わらじ)を出して桜戸に履けと云う。桜戸は火傷が痛めば古い草鞋を履こうと探すが隠されたのか捨てられたのか、そこらあたりに無ければ止むを得ず、新しい草鞋を履いて出発した。
この時、文月(7月)下旬で残る暑さが耐え難く桜戸は湯膨(ぶく)れを新しい草鞋で擦り壊せば痛みはいよいよ耐え難く、ややもすれば立ち止まるのを蜘蛛平、土九郎らは追い立て追い立て、罵り責めるを桜戸は悲しみながらも道捗(みちはか)行かぬをいらだって、
「叱りたまうは無理ならねども私(わらわ)は足が痛んで速くは走り難し。願うは少し思いやり、静かに歩かせたまえかし」と云うと両人はあざ笑い、「さほどに足が痛むのならば我々の肩にかかれ。世話な奴だ」と蜘蛛平は肩を差し寄せ、手を掛けさせて、土九郎は後ろより桜戸の腰を押しつつ、道十四五町程行き、里遠ざかる長枝原(しもとはら)のほとりまで来た時には有明の月が鮮やかで宵は未だ明けざりけり。
その時、蜘蛛平、土九郎らは松の切り株に尻掛けて、
「桜戸も休み候(そうら)え。ちとばかり微睡(まどろ)むべし」と道中の用心に都より携(たずさ)え来た五尺余りの樫の棒を各々(おのおの)近くに置いて眠ろうとするが、両人は眼を開き、しきりにあたりを見返るのを桜戸はいぶかって「各々は何故に微睡(まどろ)まずに御座(おわ)するか」と問えば両人は
「然(さ)ればとよ、眠りたくは思えども和女(そなた)が逃げ走るかと思えば、なかなかに眠られず」と云うを桜戸は聞きながら、
「いかでかさる事がはべるべき。心置きなく眠りたまえ」と云うと二人は頭を振って、
「いやいやどうでも眠られぬ。お前を縛って置くならば眠る事もあるべきに」と云うのは予ねての悪企(だく)み、とは知らずして桜戸は
「それ程までに思われるなら、ともかくも計らいたまえ。しばしの程の事なれば」と云うと両人は密かに喜び、
「しからばしばらく縄を掛け、繋ぎ置いてまどろまん。もしも覚めずば良き程に起こしたまえ」と云いつつ腰に付けた捕り縄で桜戸の手足を動かぬ様に縛って、松の木にに絡み付け、二人は棒を取り左右ひとしく向かい、
「これ、我々の心に非(あら)ず。道で汝(なんじ)を密かに殺せと亀菊殿の仰せを受けて止むを得ず、かくの如し。明年(みょうねん)の今月今日はこれ汝の命日なれば、花を手向(たむ)けて香を焚き、その亡き後を弔(とむら)わん。逃れぬ命とあきらめて、念仏申せ」と罵(ののし)れば、桜戸は驚き嘆いて、
「やよ、待ちたまえ、云う事あり。私(わらわ)は元より各々方(おのおのがた)に恨みがあるにもあらず。助け難きを助けるこそ慈悲と云い、功徳にもならん。後世の報(むく)いを思いやり、今の命を助けたまえば必ず恩義を返すべし」と云わせも果てず、二人は声を振り立てて、「この期に及んで、無益の繰言(くりごと)。観念せよ」と棒をひらりと振り上げて、桜戸の眉間(みけん)をのぞんで打とうとした時、松の▼木陰より現れ出た大比丘尼(びくに)が「おっ」と叫んで鉄の杖持ち、発止と打てば、蜘蛛平も土九郎も持った棒を七八間も等しくからりと跳ね飛ばされた。桜戸は眼を見開いて見れば見知れる花殻の妙達がここへ来て我が身の必死を救ったなり。その時、妙達は眼を見張り、蜘蛛平らをはったと睨(にら)み、
「この盗人(ぬすびと)ども、欲に迷って人を殺すを企むより、おのれの首を用心しろ。いで、この杖を食らわせん。おのれらの棒より食いでがあるぞ」と罵(ののし)って、その鹿杖(かせつえ)を振り上げるのを桜戸は止めて、
「尼御前(あまごぜ)、怒りを収めて、私(わらわ)の云う事を聞きたまえ。この二人は始めから私(わらわ)を殺す心無し。只、亀菊に云い付けられた事なれば、いかで背(そむ)けるべき。さるを彼らを殺したまえば、これも又無実の罪なり。まげて彼らを許したまえ」と云うと蜘蛛平、土九郎はいささか生きた心地して二人ひとしく土下座して、
「只今、桜戸殿が云われた如く、亀菊殿の云い付けなれば止むを得ず、この婦人を殺さんと致した事で、今更後悔つかまつりぬ。南無(なむ)尼君活仏(かつぶつ)大菩薩、この後は露ばかりも桜戸殿を粗略(そりゃく)無くいたわって送り行くに。命を助けたまえ」と大地にひれ伏し、手を合わせ、異口同音に詫びれば、妙達はわずかに怒りを収めて、まず刀を抜いて、桜戸の縄を切り捨て、芝生のほとりにいたわり座らせ、
「姉御よ。我が今、ここに来たのをさぞいぶかしく思われん。あなたの無実の罪の様子は聞きながら、救う手段(てだて)が無いままに気を飲み揉んで日を送ったが、あなたが佐渡へ流されると聞き、その日に会おうと六波羅の門前まで行きしども、掛け違え、遂に会う事を得ざりき。しかるにその日一人の武士がこの蜘蛛平、土九郎らを金乃蔓屋へ招き寄せ、密談数刻に及んだ事を告げる者あり、もし亀菊が忍びやかにこやつらを使って、あなたを殺す事もやと早くも心付けば、我もその日に出発し見え隠れに付けて来て、一つ所に宿取って、密(ひそ)かに様子をうかがうと様々の悪巧(わるだく)み。煮え湯をもって火傷をさせ、又、新しき草鞋(わらじ)を履かせて、その湯膨れを擦り壊させ、ここに至ってあなたを欺(あざむ)き縛り置き、殺さんとするまでを我はことごとくこれを知る。あなたの詫び事なければ、二人ながらに押し並べ、脳も骨をも打ち砕き、この腹立ちを治さんに」と云うと桜戸は志の浅からぬを喜んで、
「只今、なだめた如く、彼らを殺すのは返って私(わらわ)の為ならず、許されるこそ喜びなれ。さてもあなたはこれよりして又、何処へ行きたまうか」と問えば妙達は微笑んで、
「人を殺せば血を見るべし。人を救えば終わりを見るべし。あなたに付き添って配所(はいしょ)まで送り届けん。このばか者ども。桜戸殿を背負うなりとも手を引くなりしていたわり助けて、我に続いて、さぁさぁ来い」と云いつつ、やがて先に立ち、五七町行く時にその村の取り付きに一軒の酒屋があり。妙達はそこに立ち寄り、うどんを打たせて桜戸に食わせ、酒も飲ませ我が身も飲んで、蜘蛛平、土九郎にも振る舞えば、二人は言葉を揃えて、
「尼君は都の何(いず)れの寺に御座(おわ)するか」と問えば妙達はあざ笑い、
「このばか者らが、我が名所(なところ)を聞いて亀菊に告げ知らせんと計るか。人は亀菊を恐れるとも我は彼奴(かやつ)を何とも思わず、無駄口を叩かずに桜戸殿をよくいたわれ。いざ行くべし」と出発した。
これより蜘蛛平、土九郎は妙達に責めののしられ、彼女の下部に異ならず、走るにも止まるにもいささかも自由は無けれども、その意に逆えば討たれる事を▼恐れて、日々に妙達の機嫌を取り、どうにかして居坐(いざり)車を求めだし桜戸を乗せ、二人で代わる代わるにこれを引きつつ行くとある日、近くに人無き時に蜘蛛平、土九郎が談合する、
「我々、仕合せ悪くして、亀菊殿に頼まれた一大事を仕損じれば都へ帰って言い訳無し。さていかにせん」と語らうと蜘蛛平はしばらく思案して、
「近頃、深草の成仏寺に畑守りの尼あり。万夫不当(ばんぷふとう)の荒者で、その名を妙達とか云うと聞く。察する所、あの尼は成仏寺の妙達なるべし。我々、都へ立ち帰れば、あの妙達に妨(さまた)げられて手を下すことを得ず、その故(ゆえ)は斯様(かよう)斯様と、ありのままに告げ申して、亀菊殿よりたまわった金をそのまま返すべし。これより他に仕方はあらじ」と云うと土九郎はうなずいて、
「我もさこそと思いしなれ、これがもっともしかるべし」と相談を極めつつ、なお妙達に送られて夜に宿り日に歩み、行き行きて越後の寺泊(てらどまり)まで来た。
その時、妙達は桜戸に向かい、
「姉御、ここにて別れん。これより先は船で向かいへ渡れば佐渡なれば、道で気使い無かるべし」と云うと桜戸はうやうやしく、
「思い掛け無き情けによって、つつが無く来た事はいつの時にか忘れはべらん。帰りたまえば、我が夫にも錦二らにもしかじかと、よく言い付けてたまえかし」と云うと妙達はうなずいて又、蜘蛛平らに向かい、
「ばか者ども。この後とても桜戸殿をいたわって、陰日向(かげひなた)無く心を付けよ」と云うと二人は小膝(こひざ)を付いて、
「いかでか仰せに背(そむ)くべき。さぁさぁ帰りたまえ」と云うと妙達は「さこそ」とあざ笑い、片辺の丘の年経た大きな松を指差して、
「いかに二人のばか者ども。汝らの頭とあの松の木といずれが固い」と問うと二人は、
「そは宣うまでもあらず。我々の一身五体は親が産んだ物なるに、その堅さがいかにして、あの松なんどに及ぶべき」と云うのを聞きつつ妙達は松のほとりに歩み寄り、鉄の鹿杖(かせつえ)を取り直し、矢声を掛けて幹のただ中を発止と打てば、一抱(かか)えにも余る松は半(なか)ばより折れ、高き梢(こずえ)は逆様に大地を打って倒れた。
蜘蛛平、土九郎はこれを見て、頭を抱え舌を吐き、驚き呆れた。妙達は悠々と丘より下って杖を突き立て、
「ばか者どもめ、手並みは見たか。もし仮初(かりそ)めにも桜戸殿を惨(むご)くもてなす事あれば、汝らの素頭(すこうべ)もこの松の如くなるべし。我が云う事を忘れるな」とあくまで戒(いまし)め、桜戸に別れを告げて、元の道へ帰って行った。

かくて蜘蛛平、土九郎らは寺泊に宿取って、順風を待つが今宵より妙達にののしられる事が無ければわずかに自由を得て、桜戸に、
「さても、あの尼御は思うに増した力なり。あの大木を一と打ちに折ったのは人間技とは思われず、実(げ)に凄まじき女かな」 と舌を振るって恐れれば、桜戸は笑いつつ、
「あればかりの事か。いつぞやは寺で一抱(ひとかか)えに余る柳を只一抜きで根こぎにした事もあり」と云うと二人は益々恐れて、
「我々運命尽きずして、危うい命を拾ったか」と噂のみして止まざりけり。

○かくてその明けの朝、追風良しと船に乗り、海上さらにつつがも無く、その日の未(ひつじ)の頃には早や小木(おぎ)の港に着いた。▼ここより国府は三四里にすぎずと云えば、桜戸ら三人は港の酒屋に尻掛けて、さぁさぁ酒を出せと云うと主人は挨拶さえしなければ、桜戸は主人を呼び寄せ、
「先より酒を出せと云うに、なぜに答えもせざるやらん」と云うと主人は進み寄り、
「客人たち、腹立ちたまうな。あなたに酒を売らぬのはそれがしの寸志(すんし)なり。今だ知らずでおわするやらんがこの里には折瀧(おりたき)の節柴(ふししば)刀自(とじ)と呼ばれる歴々(れきれき)の後室(こうしつ)あり。これはこれ平家の一門、池の大納言頼盛(よりもり)卿(きょう)の孫娘で中将宰相頼貞(よりさだ)朝臣(あそん)の息女なり。昔、源平の戦いで頼盛卿は頼朝(よりとも)公に深き恩義があるをもて、独り都に留まりたまいた。平家が滅び失せし後、頼盛公は鎌倉より様々にもてなされて、官位庄園を元の如くに当てがわれたが、その御子(みこ)頼貞朝臣の世に至って、院の御気色(けしき)をこうむりたまいて、この国へ流されたがなおも鎌倉より取り成しあり、赦免(しゃめん)の御沙汰あれども頼貞はいかなる所存か、辞退して帰りたまわず、その年に頼貞はにわかに亡くなった。後には姫上一人あり、予ねて都の公卿衆を婿候補にとの聞こえあったが、その婿君も都で若死にをすれば、姫上は許嫁(いいなずけ)の婿君の為に髻(たぶさ)を切って再び男に見(まみ)えたまわず。又、都へも上りたまわず、この地に御座(おわ)するにより、鎌倉より一万町の庄園を付けられて永代安堵の御教書(みぎょうしょ)を出されれば、その家は豊かで家来多かり。この後室の居たまう所を折瀧(おりたき)の庄と云い、その名を節柴(ふししば)殿と申すなり。しかるに、その節柴殿は慈悲、情けある婦人で「この国へ流される流人が来たらば、早く知らせよ。酒を飲ませ物を取らせて施しをすべきなり」と予ねて宣う由があるのに、あなたがここで酒を飲み、顔赤くしてあの屋敷へ尋ね行けば、路銀ありと思われて物を施されぬなり。我らこの儀を思うにより、わざと酒を売らぬなり」と云うと桜戸深く感じて、主人の情けを喜び聞き、蜘蛛平、土九郎を見返って、
「只今、聞いたが如し。いかにその御屋敷へ立ち寄って見たまわずや」と云えば両人小首を傾け、かかる人を尋ね行けばいずれの道にも損はあらじと思えば等しくうなずき、
「そはともかくも」と答えれば、桜戸は節柴の屋敷の場所を尋ねると主人はつぶさに示して、
「ここより十町ばかり先の大きな石橋を渡りたまえば、その所より折瀧屋敷に候」と教え、桜戸は酒屋の主人に喜びを述べ、立ち出て、蜘蛛平、土九郎諸共にその屋敷へおもむいた。
果たして大きな石橋あって向かいに一構えの屋敷が見えた。
その広々(こうこう)とした所に稀(まれ)な棟木(むなき)造りが目ざましくて田舎ならず。ここぞと思えば桜戸は潜(くぐ)り門に立ち寄って門番に向い、
「私(わらわ)は都の流人の桜戸と云う者なり。この由を主の君に聞こえ上げたまわれかし」と頼めば門番はつらつら見て、
「おぬしは運悪い者なり。後室様は今朝未きより茸(たけ)狩りの為に東の荘へ行かれた。御留守なれば仕方無し」と云うと桜戸は本意(ほい)無くて、
「しからば又、何時ごろに帰られるやらん」と再び問えば、
「然(さ)ればとよ。初茸を採らんと下屋敷へお出かけなれば、今宵は彼処(かしこ)にお泊りなされて二日も三日も逗留あらんか。その程は計り難し」と云うと桜戸は、
「そなたが宣う如く、私(わらわ)は実に幸いなし。いざ帰らん」と云いかけて又、蜘蛛平ら諸共に元来た道へ帰れどもここに来ながらたちまちに望みを失う事なれば、さすがに足も捗(はかど)らず、又、石橋まで戻る時、見れば左手の大路より一挺の乗り物を四人にかかせつつ、従う男女の供人は幾十人とも数え尽くさず、獲物の早松茸(さまつたけ)などを青籠に入れ、釣台にかき担(にな)わせ、続々と帰り来るはこれ必ず▼折瀧の後室ならんと推した。
桜戸は嬉しくて道の片方(かたへ)でたたずんで眺めていると、その乗り物の内からも桜戸を見て、
「あれは流人と覚ゆるぞ。その名所(なところ)を尋ねよ」と云うと若党(わかとう)は心得て、桜戸のほとりへ駆けつけ、しかじかと尋ねれば桜戸も小腰をかがめて、
「都の流人で桜戸と云う女子(おなご)なり。只今、御屋敷へ訪ね参(まい)りしども御遊山との事なれば、本意(ほい)無くもすごすごと帰ろうとする折なり」と云う声洩れて聞こえた。節柴は乗り物を据えさせて忙わしく立ちいで、そのほとりへ近づいて、
「桜戸殿と名乗りたまうは先に女武者所の采女(うねめ)で武芸の師範になされた元の為楽院の息女と聞こえた、あの虎尾の桜戸殿か。それかあらぬか、いかに」との問いに桜戸答えて、
「私(わらわ)はその虎尾の桜戸なれ」と云うと節柴は喜んで、
「その名は予ねて聞きながら、会う由無しと思いしが縁あればこそ図らずも面(おもて)を合わせる嬉しさよ。いざ此方(こなた)へ」と手を取って、そのまま屋敷へ伴いつつ、客座敷へ向かい、様々いたわり慰めるその間に腰元共が酒肴(さけさかな)を持って来て、又、三四人の女どもは白米一斗と銭五貫文を台に載せて、うやうやしく持って来るのを節柴は見て、
「そは何事ぞ。この御方にさばかりの物を参(まい)らせる事があるか。酒も肴(さかな)も替えて良くして出せ」と息巻けば桜戸はこれを押し止めて、
「私(わらわ)にたまう物ならば、あれにても過ぎはべらんに」と云うを節柴は聞きながら、
「否(いな)、女子(おなご)どもが思い違えてあなたを世の常の流人と見た愚かさよ。そこらに心を使いたまうな。皆引き替えて持って来ずや」と云うと皆々心を得て、膳椀料理も世の常ならぬをにわかに仕替えて持って来れば、節柴は桜戸を上座に押し据えて、蜘蛛平、土九郎をもその次に居並ばせ、自ら盃をすすめ肴(さかな)をはさんで、いと懇(ねんご)ろにもてなす時に一人の腰元が節柴のほとりへ来て、
「お師匠様が来たまいぬ。此方(こなた)へ通し申さんや」と告げて指図をうかがった。
節柴はそれを聞いて、
「それは幸いの折なり。こなたへ誘(いざな)い参らせよ」と云うと腰元は心得て、表の方へ急ぎ行った。桜戸は取次ぎの女子(おなご)が師匠と云ったのはもしや主人(あるじ)の武芸の師匠か、さらずば遊芸を教える者かと思いつつ、なお問いかねていると、齢は四十ばかりにして肥え太りった荒女(あらおんな)が座席を蹴立てて入り来れば、桜戸はこれぞその師匠と云われる者ならんと思えばやがて座を立って、頭を下げて迎えれどもその女は会釈もせず、その座を奪って上座に押し直り、節柴に挨拶をする体(てい)たらく、かたへに人が無い如し。その時、節柴は桜戸を指さして、
「綾梭(あやおさ)の刀自(とじ)。この女中は先頃、都で女武者所の師範だった虎尾の桜戸殿なり。あの亀菊に憎まれて無実の罪に落とし入れられ、この国へ流された。いと痛ましき事ならずや」と云いつつ桜戸を見返って、
「虎尾の刀自。この女中(じょちゅう)も先に亀菊に憎まれて、遂に都を逃亡せられた綾梭の刀自なり。近頃ここに来たまいぬ。予て知る人ならずや」と引き合わせれば、桜戸はその女をつらつら見て、
「私(わらわ)が采女であった時、綾梭殿をよく知れり。名は同じくはべれどもこの女中はその人ならず」と云われて、その綾梭は気色変わって、火の如くに赤らむ顔につぶらなる目を光らして桜戸をしばしにらまえたがからからとあざ笑い、
「折瀧(おりたき)殿は何故(なにゆえ)に流人をもてなされるぞ。真(まこと)に虎尾の桜戸ならば私(わらわ)を見知らぬ事があるか。返って私(わらわ)の事を都の綾梭ならずと云うは只これその身の化けの皮を現されんと思えばなり。かくてもなお疑いたまえば、ここにて試合をして、いずれが真(まこと)か偽りか、勝負によって疑心を晴らさん。馬鹿馬鹿しや」と息巻いた。
節柴はこの綾梭を予ねてから疑い、今、桜戸を嘲(あざけ)って、しかも傍若無人なのを片腹痛く思えば、これ幸いの事として今桜戸に討ち倒させなければ彼女が真(まこと)の綾梭ならぬを確かに知る由無いと思案をしつつうなずいて又、桜戸に向かい、
「御大儀(ごたいぎ)なれども、綾梭殿と試合をして一興(いっきょう)を添えたまえ。只今も云う如く、この女中は近頃、この国へ渡り来て武芸の指南をする故(ゆえ)に人は師匠と呼べど私(わらわ)に師弟の因縁があるにはあらず。遠慮はしたまうな」と心有り気に説き示せば、偽(にせ)綾梭は節柴が桜戸を贔屓(ひいき)して、我を狭(さ)みする詞(ことば)の端々を腹に据えかね、「それは真(まこと)に面白し。さぁさぁ勝負を決せん」といらだって早や立ち上がれば、節柴は腰元に云いつけて、六尺ばかりの寄棒を二筋持て来て、縁側のほとりへ置いた。
その時、綾梭は▼裳裾(もすそ)をかかげて、その棒を取るより早く庭へひらりと飛び降りて、
「桜戸のにせ者。さぁ来て勝負を決せよ」と手招(まね)きをした。
今更引くに引かれぬ主の懇望(こんもう)。桜戸はこの綾梭が節柴の師匠ならぬを知れば、
「しからば相手にならん。許したまえ」と座を立って、その棒取って、庭へひらりと降りると日は暮れ月出て、さながら昼に異(こと)ならず。
さる程に偽(にせ)綾梭は旗雲(はたくも)と云う棒の手を使い、「来たれ、来たれ」と呼びはれば桜戸はしづしづと構えの内へ立ち向かい、水の月と云う手で打ち合う事しばしにして、何を思ったか桜戸は構えの外へ出て、「私(わらわ)は負けてはべり」と云う。
節柴は本意(ほい)なくて、
「未だ勝負も見えぬのに、何故に負けたと云われるぞ」といぶかり問えば桜戸答えて、
「私(わらわ)は首枷(くびかせ)を掛けていれば、身の働きが自由ならず。故(ゆえ)に負けと云いしなり」と云うと節柴は微笑んで、「実(げ)に、さもあらん。その事は私(わらわ)も心付かざりき」と云いつつ、やがて腰元に十両の銀を取り寄せて二つに分けて押し包ませ。これを蜘蛛平、土九郎に贈って云う、
「願うはしばし試合の間、桜戸殿の首枷を取り除きたまえ。もし国府で沙汰(さた)あれば私(わらわ)よろしく云い説きはべらん。受けひきたまえ」と請い求めれば、蜘蛛平、土九郎は一議に及ばず、その金を受け納め、その首枷を外した。
その時又、節柴は二十五両の砂金を出して、勝った方への引き出物にと云う、これは桜戸を励まして勝たせんと思えばなり。さる程に偽綾梭は桜戸が退いたのは我を恐れる故(ゆえ)なりと思い誇ってその金を取ろうと逸(はや)れば、再び棒を水車の如く回しつつ、「来たれ、来たれ」と呼びはれば、桜戸もやや身軽くなって再び棒をかい込んで構えの内へ進み入り、互いにやっと声を掛け、しばらく挑み戦ったが、桜戸がたじたじと後退をすると綾梭は得たりと勢い込んで討とうと進むを桜戸は引き外して閃(ひらめ)かす、その棒は稲妻の如くなれば、偽綾梭は目眩(めくるめ)いて、急に避けんとする所を桜戸は棒を引くと見せて、偽綾梭の向脛(むこうずね)を発止と薙(なぎ)て返す手に、又、空ざまに跳ね上げれば偽綾梭は「あっ」と叫んで、翻筋斗(もんどり)打ってだうと伏し、持ってた棒は遙かに飛んで、池の中へ落ちた。
その事の体(てい)たらくに、誰かは興(きょう)に入らざん、「ああ」と等しく褒める声がしばしは鳴りも止まざりけり。
偽(にせ)綾梭はひどく負け、しばしもたまらず逃げ失せたが、その後この地にいる事叶わず、次の日に逃亡した。彼女は人寄せの友代の弟子で赤尾(あかお)と云う者なるが、綾梭の名を偽(いつわ)って国々を巡る者と後に人皆知った。
されば又、節柴は桜戸の武芸を深く感心し、これより日毎にもてなして何くれとなく語らい暮らすと早や四五日を経れば蜘蛛平、土九郎は国府への日限が遅れるとしきりに催促すれば、節柴も留めかねて、桜戸には先の砂金二十五両に又、一貫目の銀子を贈り、流人預かりの四伝次(しでんじ)らに頼みの状を書いて渡し、
「寒くなれば、冬の衣装を配所(はいしょ)へ贈りつかわすべし」と云うと桜戸は涙を浮かべて喜びを述べれば、節柴は又、砂金五両づつを蜘蛛平、土九郎に与えると両人も深く喜び、桜戸に首枷を元の如くに掛けさせて出発した。

○かくて蜘蛛平、土九郎は佐渡の国府に着き、六波羅からの送り状を本間の家臣に渡しつつ、流人桜戸を送り来た事を述べれば、本間の太郎はこれを聞き、家臣に桜戸を受け取らせ、やがて六波羅への請文(うけぶみ)をしたためて蜘蛛平らに渡すと、二人は都を指して帰って行った。

○さる程に桜戸は流人小屋へ入られて、その様子を見ると、男の流人と女の流人は居る所は同じからねど、ある日は山麻(やまそ)を刈り、薪(たきぎ)を取り、炭を焼く営みのいずれも苦しげならぬは無し。されば女流人らは桜戸を哀れんで、
「あなたは未だ知らざるべし。流人の預かりは国造(くにつこ)の家臣で剣山四伝次(つるぎさんしでんじ)と云う人なり。この小屋の総頭(そうがしら)は生き剥(は)ぎの奈落(ならく)婆(ばば)といと恐ろしき女ぞ。まずこの二人に物を贈って哀れみを願わざれば酷き目にあう。そこらに心を付けたまえ」と囁き教える時、奈落婆が見廻って桜戸に向かい、
「新米の流され者の桜戸とは汝(なんじ)よな。何故に早く三拝(さんぱい)して頭を土に掘り込まざる。おのれの面(つら)が幽霊めいたるは、都で様々の悪事をした咎(とが)により流されしこその道理なれ。汐風(しおかぜ)が身に染むまで、生かさず殺さず責め使わん。覚悟をせよ」と罵(ののし)ればあたりにいた流人どもは恐れて皆々出て行った。その時、桜戸は砂金三両を取り出して、
「お婆様、これは余りに少しながら受け納めたまえかし」と云いつつ懐へ差し入れれば、奈落は重みを感じて、「これは私(わらわ)と四伝次殿に贈る物か」と尋ねれば桜戸は答えて、
「その金はあなた一人にはべるべし。四伝次様には別に三両を参(まい)らせん。これを届けてたまわれかし」と云いつつ金を取り出して、折瀧屋敷を出る時に節柴が書いて渡した書状と共に渡せば、奈落はからからと笑いつつ、
「桜戸殿、お前は良い女子(おなご)ぞかし。あの亀印(かめじるし)に憎まれて無実の罪に沈めども、遠からずして帰洛(きらく)あるべし。事に折瀧殿よりもこれらの手紙を添えられれば、いかでか如才に思うべき。まずまず休息あるべし」とそのまま走り去り、四伝次に由を告げれば、四伝次は笑みつつうなずいて、奈落と共に小屋へ来て、桜戸を呼び出して、
「初めて来る流人は脅しの棒として二十杖(つえ)、背中を打つのが定法なれども、汝は病あればしばらく用捨(ようしゃ)すべきなり。今より地蔵堂を守るべし」と堂守(どうもり)にした。かくて又、桜戸は奈落に五両の銀子を贈って、
「願わくば、この首枷を取ってたまわれ」と頼めば、又、四伝次に取り成して、その首枷を取り除かせて大方ならず労(いた)わった。▼地獄の沙汰(さた)も金次第、世の諺(ことわざ)を今ぞ知る。桜戸は次の日より地蔵堂の守りとなってそこを住処(すみか)とし、勤めは香を焚(た)き、花を折り替え、そこらを掃除するのみなれば、流人どもは驚いて、かような役義は新参には絶えて得難き事なりと知るも知らぬも羨(うらや)んだ。
かかりし程に桜戸は首枷すらも取り外されて、その身の自由を得たので常に暇あり、折々に漫(そぞ)ろ歩きをして里の町々を見物したが、ある日、思い掛けなくも真介(ますけ)という者に会った。彼は桜戸の父、剛詮(ごうせん)が世に在った頃、召使った若党(わかとう)だったが、若い者の習いとて都の遊び女(め)に身を持ち崩し、自分の衣類雑具は更なり、主の剛詮の秘蔵の経文(きょうもん)を密かに質入れして、その事遂に顕れた。剛詮の怒りははなはだしく、公(おおやけ)へ訴え申して罪を正さんと息巻いたのを桜戸が不憫(ふびん)に思って親の怒りをなだめつつ、真介には金を与えてその経文を受け戻させ、ようやく無事に収めれども剛詮はなお彼を憎んで、身の暇(いとま)を使わした。その時も桜戸は少しの路銀を持たせるなどして、今後を戒(いまし)めれば、真介は深く後悔して、是非無く都を立ち去った。その後、あちこちとさ迷いつつ、遂にこの地へ漂泊し、真琴屋(まことや)と云う料理酒屋に奉公した。元より料理心もあって、よく客をもてなせば、その店はいよいよ繁盛し、それにより、真琴屋の主人は深く愛で喜んで、真介を娘の婿として、只一人娘の小実(こじつ)と妻合(めあ)わせたが、幾程(いくほど)も無く真琴屋は遂に亡くなって、真介が店を受け継いだ。この日は掛(かけ)取りのために佐和田(さわた)の町を巡りつつ、思い掛けなく大恩ある故主(こしゅ)の娘に会えば、此(こ)はそもいかにと驚いて事の由を尋ねると桜戸は無実の罪で流され来た事情を斯様(かよう)斯様と物語り、真介はしきりに涙を流して、その不仕合せを哀れみ慰め、我が身の上を物語りして、やがて自宅へ伴って妻の小実に由を告げ、酒をすすめ、膳をすすめ、夫婦ひとしくもてなすと桜戸も昔を忘れぬ彼の志を喜んで、なおも詳しく我が身の上、亀菊の事をさえ、始め終わりを物語り、
「私(わらわ)は流人なるに斯様に親しくもてなされれば、和殿(わどの)夫婦を巻き添えせん」と云うを真介は聞きながら、
「いかでか、さること候べき。昔の御恩の万が一つも返し参らせるはこの時なり。何事でも受けたまわらん。洗濯なども配所では不便なるべし。汚れた物があるならば、よこして小実(こじつ)に洗わせたまえ。我々はこの地にはかばかしき親類無ければ、心細く候いしが、図らずも恩人の見参に入りし事、喜びこれに増すこと無し」となお様々にもてなした。
これよりして真介夫婦は日毎に桜戸を訪れて、飯の菜(さい)の物などを贈れば、余の女流人らも桜戸のお陰により飢えをしのぐ者も少なからず、小実は又、桜戸の着物を洗い縫いなどして、いと懇(ねんご)ろに世話すると折節はちとの銀子を使わして彼らの元手に致させた。
かかりし程に節柴は月毎に人に桜戸の安否を問わせ、又、冬の衣装なども九月の頃に送れば、桜戸は不自由な事も無く流人どもにうらやまれて百日あまりの月日を送った。冬も半(なか)ばになった頃、ある日夫婦とおぼしき武士の旅人が真琴屋へひらりと入って奥の座敷へ通れば真介はこれを迎えつつ、
「客人は酒をや召されるか、飯を出し候べきか」と問いも果てぬに、その武士は忙わしく懐(ふところ)より金壱分を取り出して、真介に渡して云う、
「酒も飲むべく、飯も喰うべし。しかし今ここへ招き寄せる人あれば、その輩(ともがら)が揃って後に酒も肴(さかな)もいくらなりとも出だせかし」と云いつつ金を渡すと真介は受け取って、
「そは誰をか招きたまうか」と問えばその武士は声をひそめて、
「我は本間の身内の剣山四伝次と奈落婆を呼ばんと欲(ほり)す。和主(わぬし)、今我が為にその両人を伴い来よ。さぁさぁ」と急がせば真介は佐和田(さわだ)へ走り行き、しかじかと由を告げ、やがて四伝次、奈落婆を誘(いざな)い来れども四伝次も奈落婆もこの旅人を見知らねば、さすがに進みかねるのを旅人夫婦は座を立って理(わり)無く座敷へ引き入れ、上座に座らせ、
「御両人、さのみ怪しみたまうな。事の訳はやがて知れん。まず盃を持て来よ」と云うと真介は心得て、始めに吸物(すいもの)、硯蓋(すずりふた)、銚子(ちょうし)、盃(さかずき)取り揃え、次第、次第に出すと、只、これ機(はた)を織る如く、しばしも暇(いとま)は無かりけり。その時、旅人夫婦は真介を近くに招き寄せ、
「我らはちとの用事あれば、手を鳴らして呼ぶまでは何も出すに及ばず。酒は自ら火鉢で温めん。徳利に入れて持って来て置け」と云うと真介は心得て、その様にするが深く心にいぶかって妻の小実に囁く、
「お前は何と思うやらん。始めに我が剣山と奈落婆▼を呼んで来たが互いに知る人ならぬが如し。且つ、あの男女の声音(こわね)はまさしく京談(きょうだん)なり。先日、桜戸様の物語りで密かに聞いた。もしやあの人々は亀菊殿の使いで、桜戸様の身の上に良からぬ訳がありもやせん。我は店を守るので、お前は格子の下へ廻って、その云う事を聞きたまえ」と云うと小実は思案して、
「しか思われるなら、立ち聞きをするまでも無し。地蔵堂へ行き、桜戸様を伴い来て隙見(すきみ)をさせれば立ちどころにその疑いは解けはべらん」と云うを真介は押し止め、
「それははなはだしかるべからず。あの女中は男勝りで武芸に長ければ、もしあの二人が予ねて聞く舳太夫(へだいふ)、陸船(くがふね)夫婦ならばたちまち怒りに耐えずに事を起こされては我々も巻き添えになり身の災いに及ぶべし。我が云う由に従って、よく聞きすましたまえかし」と諭(さと)すと小実は心を得て、格子の方に赴(おもむ)いて、立ち聞く事半刻(はんとき)ばかり。さて戻って夫に云う、
「いずれも声が低く定かには聞き取れねども奈落婆が只一言「亀菊様」と云った声のみ、紛(まご)う方なく聞こえたり。又、あの旅人の男女が手紙を渡して二人に見せて、又、二包みの金を囁きながら渡せば、四伝次殿も奈落婆も大方ならず喜んで、「我々、上手く計らって見せ申さん」と云った。この他は云う事が分かりはべらざりし」と告げる折から座敷で手を打ち鳴らす音がして真介は「あい」と答えて、走って座敷に赴くと四伝次が膝のあたりに手紙が在るのを隠すのを見た。その時、旅人夫婦は「さぁさぁ茶を参らせよ」と云うと真介は退いて、用意の茶を出せば、四人はこれを飲み、四伝次と奈落婆は先へ立って出て行った。旅人二人は後に残って酒食の値を取らせるなどして続いて出た。
真介夫婦はその事が心にかかり、とやあらん、かくやあらんと密めいて噂をしている時に、桜戸が招かずも来れば夫婦は奥へ迎え入れ、さて在りし事情を斯様(かよう)斯様と告げると、桜戸は聞きつつ驚き、
「その旅人夫婦の面体(めんてい)はいかがなりか。年の齢(よわい)は幾ばくなりし」と問うと真介は、
「その顔形は斯様(かよう)斯様、年の齢はしかじか」と告げれば桜戸は歯を食い縛り、
「それは疑うべくもあらぬ、舳太夫と陸船なり。その悪人どもは遥々(はるばる)と、この地へ密(ひそ)かに来て、私(わらわ)を害せんと謀(はか)るよな。今、この恨みを返さずば、いずれの時を待つべきぞ」としきりに恨み憤(いきどお)るのを真介、小実は諌(いさ)めなだめて、
「御腹立ちは道理(ことわり)なれども、「他所(よそ)の盗人(ぬすびと)を防ぐより、おのれが門の用心せよ」と云う諺(ことわざ)もある。なれば怒って事を破らんより、身の用心して防ぎたまえ」と言葉を尽くして止めた。
しかれども桜戸は憤(いきどお)りに耐えざれば、真琴屋を走り出て佐和田の町を見巡ると、古道具を商う店に仕込み杖の手槍あり。長さは五尺ばかりで上より見れば棒の如く、鞘(さや)を外せば手槍なり。
「こは好都合の物なり」と思えば買い取って、この他に九寸五分の懐剣(かいけん)をも買い求め、これより日毎に舳太夫と陸船を尋ね歩き、その帰りには真琴屋へいつも必ず立ち寄って「今日も奴等に会わず」と云う。真介夫婦は深く憂(うれ)いて様々になだめつつ、手に汗握るばかりなり。

○さる程に桜戸は陸船らを尋ねる事、五七日に及べどもその影さえも見る事無ければ、又、今更に疑い迷って心ともなく怠(おこた)りけり。そんな頃、奈落婆は桜戸を呼び寄せて、
「そなたは予(かね)て節柴殿より頼まれた事もあり、私(わらわ)が折々四伝次殿へ良き様に取り成せば、今一段と待遇を引き上げて山苧倉(やまそくら)を守らせよと四伝次殿の仰せなり。そもそもその山苧倉は流人どもが夏毎に山稼ぎして取り出す夏引(なつびき)の苧(そ)を置く一構えの倉地で、ここより二十町余りにあり。その倉を守る者を女にせられるのは女子(おなご)は手ぶりが柔らかで苧(そ)を取り扱うに良ければなり。彼処(かしこ)は地蔵堂にも優って、役得も▼少なからず、よってそなたを遣(つか)わせる。よく勤めよ」と云い渡せば、桜戸は浅からぬ情けの程を言請けして、まず真琴屋へ赴(おもむ)いて、しかじかと由を告げ、
「剣山、奈落らは私(わらわ)を害せんと、謀らずして役替えさせるはいかにぞや。つくづく心得難し」と云うを真介、小実は喜んで、
「山苧倉は人が望む第一の所なれば怒りを忘れて疑う事無く、早く彼処(かしこ)へ移りたまえ。只、遠くなるので、これまでの如く日毎日毎に訪れいたす事も叶わず、さりとても生業(なりわい)の暇(いとま)々を見合わせて必ず訪ね奉(たてまつ)らん」と云うと桜戸は疑いが解けても溶けぬ霜柱、地蔵堂へぞ帰っていった。

 かくて程無く四伝次は奈落と共に来て、桜戸を引き連れ山苧倉へ赴(おもむ)くと頃は霜月(11月)下旬で空かき曇り風寒く、雪ちらちらと降り出して、見る見る野山は真白になって三尺あまり積もっていた。桜戸は山苧倉に着いて見ると、校倉(あぜくら)は三棟であたりに一軒の草の屋あり。囲炉裏(いろり)の横に流人の老女が三輪組(みつわぐ)みして居た。その時、四伝次、奈落婆はその女を呼び立たせ、今日より桜戸にこの倉を守らせる事情を云い渡し、
「汝は早く去って、地蔵堂を守れ」と云うと女は一議に及ばず、倉の鍵と帳面と山苧の目録を取り出して桜戸に渡し、又、柱に掛け置いた、一つの瓢(ひさご/ひょうたん)を指差して、
「もし酒を買うならば、これより八九丁東の方のしかじかの所に酒屋あり。瓢は私(わらわ)の置き土産ぞ」と云いつつ、やがて蓑(みの)笠(かさ)を着て、四伝次らと地蔵堂へ赴(おもむ)いた。
さる程に桜戸はその草の屋に只一人、つくつくとして居ると早や黄昏て物寂しく、壁落ち軒端(のきば)傾いて荒れた宿はひどく凍(こご)えて耐え難し。日の暮れ果てぬうちに、ちとの酒を整えて今宵の寒さを凌(しの)がんと思えば、その瓢を取り下ろし、仕込み杖(つえ)に結び付け、これを突き立て突き立て、酒屋を指して行くと、道五六町ばかりにして道の片方(かたへ)に荒れ果てた小さい観音堂が在り、立ち寄って、「我が行く末を守らせたまえ」としばし念じて、ようやくその酒屋へ辿(たど)り着けば、酒屋の主人(あるじ)が出迎えて、
「酒はいかばかり求めたまうや」と問う。その時桜戸はその瓢を鳴らし、
「これをば見知っていたまうならん。今日よりこの瓢は私(わらわ)の物なれば、又折々に買いに来るべし。今日はまず二合ばかり注ぎたまえ」と差し出せば主人は見て微笑んで、
「さては新たに山苧倉(やまそくら)を守りたまう姉御(あねご)なるか。しからば負けて参(まい)らせん」と云いつつ注いで値を受け取り、渡す瓢を桜戸は仕込み杖(つえ)に引き掛けて、あの草の屋に帰ったが、天の神は烈女(れつじょ)を哀れみたまうか、草の屋は大雪に押し潰されて入るべくも非(あら)ず。
桜戸は驚き呆れて只、火の元こそ肝心なりと思えば、連子(れんじ)の隙より潜(くぐ)り入って囲炉裏の埋(うず)み火を探り見ると、火は皆雪に消されて、灰さえ冷たくなれば、僅(わず)かに心を安くして、なおも綿子(わたこ)を探り取り、戸の方へ潜(くぐ)り出たが、何処(いずこ)でか今宵一夜を明かさんとしばらく思いかね、先に道の辺(ほとり)の観音堂こそ好都合と心付きつつ、又更に深い雪道踏み分けて、その堂に辿(たど)り着いたのは夜五つの頃なるべし。

さる程に桜戸は堂内に進み入り、開き戸を閉め、持った綿子を敷いて微睡(まどろ)まんとする時に、表の方に物の音して、ただならずと聞こえれば「こは何事ぞ」といぶかって格子の間より覗き見ると山苧倉の方に火炎が天を焦がして燃え上がれば、ここに再び驚いて、
「さては囲炉裏の火が消え残り、この粗相火(そそうび)を成したか。何はともあれ走り帰って見届けずばあるべからず」と独り言して慌(あわただ)しく立ちいでんとする時に、向かいより三四人が此方を指して来た。その声間近く聞こえれば桜戸はいでもやらで、しばらくそれをうかがう程に、その四人は観音堂の軒端(のきば)に等しく集いつつ、内に入ろうとしたれども桜戸が内より石を寄せ掛け置けば、その戸を押せども開かず、仕方無く軒端(のきば)に立ち休らいで、打ち語らう声を聞くとその一人は陸船で、又一人は舳太夫なり。その他の両人は四伝次と奈落なり。その時、奈落はしたり顔で陸船らを見返って、
「いかにこの謀(はか)り事は巧妙ならずや。例え桜戸が武勇ありとも焼き討ちされては手を束(つか)ねて灰になるべし。あれ見たまえ、よく焼けるではないかいの」と云えば、四伝次も
「例え桜戸が炎を潜(くぐ)って焼け死ぬるに至らずとも、山苧倉を焼き失なったのを落ち度とすれば咎(とが)は逃れず、いずれの道でも生きてはいけぬ。手立てはいかに」と相誇れば、舳太夫、陸船は笑みながら、
「真(まこと)に御両人の働きで此度(こたび)こそ桜戸めを思いのままに殺し得たり。立ち帰ってかくと申せば亀菊様も御満足。あの軟清もこれより桜戸の事を思い絶え、御心(みこころ)に▼従うべし。真(まこと)に満足満足」とひたすら感嘆(かんたん)し、なお火を眺めて佇(たたず)んだ。
桜戸はこれを聞きながら密(ひそ)かに天地を伏し拝み、
「今、計らずも日頃の恨みをここで返す事、喜ばしや本望や」と勇みに勇んで、仕込み杖(つえ)の鞘を外して脇挟み、内より扉をさっと開いて、
「大悪人ども、桜戸がここに在るをば知らざるや」と罵(ののし)り出ると四人はひどく驚いて、逃げる暇さえ無ければ、舳太夫と四伝次は刀を抜いて防ぎ戦い、陸船と奈落婆は雪玉を投げて挑(いど)めども桜戸は物ともせずに四伝次の肩先を只一槍で突き伏せて、手槍をひらりと取り直し、舳太夫の持った刃を叩き落とし、胸板を背中へ「ぐさ」と刺し貫けば「あっ」と叫んで死んでけり。 その間に奈落婆は落ちた刃を拾い取り、討とうとするのを桜戸は物々しやと引き剥がし、喉を「ぐさ」と仰(の)け様に雪に縫わせて突き止めた。女に稀なる武勇の働き、さすがに深き白雪も朱(あか)に染まる血潮(ちしお)の瀧つ瀬。
陸船はこの有り様におののき恐れて腰抜かし、雪の細道四つ這いで逃げんとするを桜戸は襟髪(えりがみ)つかんで引きずり戻し。予(かね)て用意の懐剣(かいけん)を抜き出し差し付け、亀菊にへつらって夫婦の仲を裂くのみならず、幾度か害さんと謀った悪事を責め付けて、
「今こそ返す、恨みの刃(やいば)。受け取れ、やっ」と罵(ののし)って、胸のあたりを貫き抉(えぐ)れば七転八倒、そのまま息は絶えにけり。

これよりの後、桜戸の物語りはなお長し。それは三編に著すべし。今年も変わらず御評判。長い筋をも手短く、書き取る所を御推文字(ごすいもじ)。世界は全て女文字、恥ずかしながら作者の魂胆(こんたん)、まず今板はこれきりと惜しき筆止め、めでたくかしく、千秋万歳。目出度し、目出度し。

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
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[現代訳]傾城水滸伝 三編ノ一二

2017-09-01 10:03:02 | 解説・楽しみ方
傾城水滸伝(けいせいすいこでん) 第三編之一
曲亭馬琴著 歌川国安画 仙鶴堂嗣梓              ▼:改頁

 さてもその後、虎尾(とらのお)の桜戸は大雪に住処(すみか)を押し潰され、五六町離れた観音堂に退(しりぞ)いて、陸船(くがふね)夫婦が目論んだ災いを逃れたのみならず、図らずも舳太夫(へたいふ)、陸船、奈落婆らを討ち留めて、日頃の恨みを返せば、御堂の縁に尻掛けて、買い持て来た瓢(ひさご)の酒を飲み尽くして寒さをしのぎ、仕込み杖を引き下げて、道を三町ほど走るとあちこちの百姓どもが倉の火を消そうと雪道を走り集うのに会えば、 桜戸は声を掛け、
「人々、早く彼処(かしこ)の火を消したまえかし。私(わらわ)は御館(みたち)におもむいて、四伝次殿に訴え申さん、やよさぁさぁ」と云い捨てて、やり過ごして走った。

桜戸は雪を明かりに一里か二里か行方も定めず走ると真夜中になり、身体はひどく飢え疲れ、寒さも耐え難く、見れば向かいの森のほとりに一構えの生垣あって、冠木門(かぶきもん)は閉めてあれども、垣の隙より点(とも)し火の影ちらちらと見えれば、門のほとりに立ち寄って、扉を押せば開いた内から「誰ぞ」と声が掛かった。桜戸は進み寄り、
「私(わらわ)は今宵、山苧倉(やまそくら)の火事で住処(すみか)を出て、道に迷って来た者なり。かたの如くの大雪で難儀(なんぎ)に及びぬ。しばし囲炉裏に当らせて、濡れた衣を干させたまえ」と云いつつ、やおら戸を開ければ、ここは一棟の長屋で内には五七人の賤(しず)の女(め)らが糸を繰り、麻を紡いで、夜なべをしていた。
その時、その賤の女らは桜戸をつらつら見て、
「それはいと難義にこそあらめ。こなたへ寄って当りたまえ」と云うと桜戸は喜んで、「許したまえ」と云いながら、にじり上がって囲炉裏のほとりに近いて、身を温めて濡れた衣を干すと酒の香がふんとして、火の明かりであたりを見ると一升徳利が囲炉裏の隅の灰に埋ずめて置いてあった。その時、桜戸は賤の女らに向かって、
「私(わらわ)は身の内冷え凍(こご)え、その上に飢え疲れたり。願うはこの酒を少し分け与えて飲ませたまえ。酒の値は払うべし」と云うを皆々聞きながら、
「これは我々が飲むにもなお多からず、足りない物をいかにして、和女郎(わにょろ)に飲ません。モウ良い加減に出て行きね。贅沢にほちゃけて物強請(ものねだ)りせば、男衆を呼び寄せて、酷い目に会わせるや」と云いつつ、どっと笑えば桜戸は腹に据えかね、
「これは奇怪な過言(かごん)かな。否(いな)と云われるこの酒を無理に飲もうと云うにはあらぬに、酷い目に合わせんとは今一言云うて見よ。さぁ云わずや」と息巻いて、囲炉裏をはたと打ち叩き矢庭(やにわ)に茶釜を打ち倒し、はっと立った▼灰諸共に火もまた四方に散乱し、あたりに集(つど)いし女どもは目口に灰の入るもあり、小鬢(こびん)を焼かれ裳裾(もすそ)を焦して、したたか火傷(やけど)をするもあり。等しく「あっ」と叫びつつ、驚き恐れて、皆諸共に表の方へ逃げ失せた。
桜戸はそれを見て、からからと笑い、その徳利を引き出して茶椀に注いで飲むと思わず一徳利の酒を残り無く飲み尽くして、仕込み杖(つえ)を突き立てて、身を起しつつ立ち出て、不知案内の雪道をそことも分かず進んだ。飢えて飲んだ酒ならば幾程もなく酔いは昇って、足元しどろに定らず、一歩は高く一歩は低く、只よろよろとよろめいて、たちまちつまづき倒れた。ひどく酔った者が伏し転んでは遂に起き得ず。桜戸は降り積もる雪に半身掘り埋ずめても寒さも知らぬ高いびき。日頃にも似ずに哀れなり。
さる程に賤の女らは慌て惑って逃げ出して、桜戸の事を斯様(かよう)斯様とかしましく男共に告げれば、皆々これを聞きながら、
「さては盗人(ぬすびと)御座(ござ)んなれ。遠くは行かじ追っかけよ」と麻縄、棍棒(こんぼう)、松明(たいまつ)を手に手にひ下げて走り出れば、小鬢(こびん)を焼かれた女子(おなご)らも遅れじと追うと、行くこと今だ四五町に過(す)ぎず、見れば、降り積もった雪の中に酔い伏した女あり。
小鬢を焼かれた賤の女は先に進んで松明(たいまつ)を照らし見て、「盗人(ぬすびと)女はこれなり」と云うと皆々折り重なって、袋の物を取る如く、衿髪(えりかみ)つかんで引き起こし、ひしひしと縛(いまし)めて、もとの長屋へ引き連れ帰って、厳しく柱へ繋ぎ留め、「明日の朝、御前様のお目覚めあれば訴え申さん。それまで誰彼守れ」と皆で夜の明けるを待った。

かかりし程に桜戸はようやく酒の酔い覚めて、驚き呆れて声を振り立て、
「これは何故(なにゆえ)理不尽に、我を縛(いまし)める。この縄早く解かずや」と云わせも果てず、女子(おなご)共はからからと笑い、
「盗人(ぬすびと)女の猛々(たけだけ)しさよ。おのれは酒を盗み飲み、その上に火傷をさせ、小鬢(こびん)も布子(ぬのこ)も焦がしたを早忘れたか。不敵の曲者(くせもの)。なお、辛き目を見せん」と罵(ののし)る他は無かりけり。

かくて、その夜も明け御前様のお目覚めぞと知らせによって、その男女は桜戸を引き立てて、母屋へ参って縁側のほとりに居並び、
「昨夜(ゆうべ)、図らず盗人(ぬすびと)女をからめ捕って候なり。いかが計らい申さんや」と聞こえ上げれば、しばらくして主の婦人が奥の間より出て、
「そはいかなる盗人(ぬすびと)ぞ」と問いつつ近く立ち寄って、桜戸を見て大いに驚き、
「そは虎尾の刀自(とじ)ならずや。いかなる故(ゆえ)にここへ来て、百姓どもにおめおめとからめ捕られたか。思い掛けなや浅ましや」と云われて驚く桜戸も眼(まなこ)を定めて見上げるとこの婦人は別人ならず、折瀧の節柴なり。
「此(こ)は此はいかに」とばかりにただ喜び、ただ恥じる桜戸は声を振り立て、
「私(わらわ)がいかでか盗みをすべき。只、一徳利の酒ゆえに酔い伏した間に絡められたり。私(わらわ)が上には様々な物語があれども、一朝(いっちょう)には説き尽くし難い。願うは私(わらわ)を救いたまえ」と叫ぶと節柴は「さこそ」とうなずき、忙わしく桜戸の縄を解き捨てて、その男女を叱り退け、腰元らに云い付けて、衣(きぬ)一重ねを取り出させ、桜戸を上より下まで着替えさせ、奥座敷へ伴って、酒をすすめ、朝飯をすすめてもてなせば、桜戸はその身の災い、富安舳太夫、陸船らの事、又、剣山(つるぎさん)四伝次、奈落婆の事など、図らずも恨みを返した始め終りを囁き示せば、節柴は聞いて感涙を押し拭(ぬぐ)いつつ、あたりを見返り、
「重ねた不仕合せもなお頼もしいあなたの命運。今、計らずして私(わらわ)が方へ来られたことこそ嬉しけれ。ここは私(わらわ)の別荘で、昨夜思い違えてあなたを縛(いまし)め引き連れ来た男女共は屋敷守の百姓なれば、必ず心を置きたまうな。私(わらわ)は昨日、ここへ来て、思わず雪に降り込められて、母屋へ帰れぬのも只、あなたの為に大方ならぬ幸いなり。しかしここは浅間で人目を忍ぶによろしからず、母屋へ伴いはべらん」とその夕暮れに桜戸を乗物に乗せて、折瀧の庄へ帰りつつ、内外の者に心得さして、頼もしく桜戸を深く匿(かくま)った。

されば又、その夜分、陸船、舳太夫、奈落らは皆、桜戸に討たれたが、四伝次は浅手で未だ死なずに在るにより、彼は偽(いつわ)り領主に訴え、
「桜戸は悪心止まずに山苧倉(やまそくら)を焼き失い、その上、舳太夫、陸船、奈落らを斬り殺して逃走したり」と申すと佐渡の領主本間(ほんま)の太郎は訳を聞いて驚き怒り、にわかに手下を手分けして、八方へ差し向けて、村里毎に下知を伝えて、
「罪人桜戸を絡め捕り、引き連れまいる者あれば、三十貫の褒美銭を賜うべし」と▼触れた。
既にして、これらの事を桜戸はほのかに伝え聞いて、節柴に囁く、
「斯様(かよう)斯様の噂あり。かかればあなたが今更に私(わらわ)をかくまいたまうにあらず。私(わらわ)は今更ここに居難し。速(すみ)やかに他郷へ逃げて、災いを避けんと思うに、身の暇(いとま)をたまえかし」と云うのを節柴聞いて、
「しからば、私(わらわ)が手引きして、あなたをやるべき所あり。近江の国の伊香(いか)郡の賤(しず)の砦(とりで)に三人の女武者あり。第一の大将は大歳麻巨綸(おおとしまおおいと)と呼ばれ、第二の大将は女仁王杣木(おんなにおうそまき)と呼ばれ、第三の大将を天津雁真弓(あまつかりまゆみ)と云う。彼女らは先に滅んだ柴田の残党の梶原弥三郎(やさぶろう)の余類(よるい)で、女に似合わぬ武芸あり。先にその三人の勇婦らが流浪して諸国をめぐり、或る年、この地に来た時に私(わらわ)の屋敷に留(とど)め置き、養うこと一年余り。又、立ち去る時に、路銀を多く取らせたり。かかれば、私(わらわ)が手紙であなたの事を頼めば、留めんこと疑い無し。さればその巨綸(おおいと)らは四五百人の手下を集めて、賤ヶ岳(しずがたけ)に砦構え、余呉(よご)と琵琶(びわ)の湖を前と後ろの城塞に余呉川、飯浦の大川を境として、をさをさ猛威を振るうと聞く。あなたが彼処(かしこ)に身を寄せれば、生涯後ろ安かるかるべし。さりながら、当国(とうごく)の港々には新たに関を据えられて、人の出入を検(あらた)めると伝え聞けば、旅立ちに難義あり。いかにせまし」と頭を傾け、しばし案じてうなずきつつ、
「良い手立てがはべるなり。謀(はか)り事は斯様(かよう)斯様」と膝すり寄せて囁き示せば、桜戸は斜めならず喜んで、やがてその儀に任せた。
かくてその次の日に節柴は磯遊びに出ると偽り、多く召し連れた腰元の中に桜戸を共に立たせて、小木(おぎ)の港におもむくとここにも関を据えられて、本間の家臣、沢足(さわたり)江番太(えばんた)が手下を大勢従えて、この所を守っていたが、兼ねてより相知る折瀧の節柴が磯遊びに行くと聞いて、忙わしく出迎えて、
「珍らしや折瀧殿。このいと寒き時に、何処(いずこ)へおもむきたまうぞ」と問われて、節柴は微笑んで、
「私(わらわ)は鬱気(うつき)の病があり、閉じこもっているよりも磯辺に出て貝を拾えば少しは保養にならんかと日和(ひより)も良く磯遊びに出たなり。あなたは何故(なにゆえ)にここらで勤役(きんやく)したまうやらん」と云うと江番太は
「さればとよ。都の流人の桜戸と呼ばれる者が倉を焼き、人を殺して逃走したにより、領主の仰せを承り、人の出入りを検(あらた)める臨時の役に候」と云うと節柴はうなずいて、
「そは御大義にこそはべれ。私(わらわ)が具した供の内にその桜戸とやらが在るべきに。いざ検めて見たまわずや」と云いつつ笑えば、江番太もからからと笑い、
「実(げ)に、御供の女中の群れにはその桜戸も在るべけれど、節柴殿の事なれば検めるには及ばぬ事なり。さぁさぁ通りたまえかし」と戯れて、下部らに下知して木戸を開かせれば、節柴は▼心密(ひそ)かに喜んで、皆諸共に港へおもむき、さて桜戸には忍びやかに旅装いを整えさせて、兼ねて用意の船に乗せ、越後の方へ落とし遣(つか)わし、節柴は去らぬ体(てい)で、終日(ひねもす)貝を拾いつつ、帰り道に江番太に物を贈って喜びを述べ、暮れて自宅へ帰って行った。

○さる程に桜戸は節柴の情けで難なく港を逃(のが)れ出て、越後の国へ渡り、越前を経て、近江の賤(しず)が砦(とりで)を指して、日に歩み夜に宿り、急がぬ旅に日数経て、暮れ行く年に近江の菅野(すげの)浦に着いた。
折から昨日の雪晴れて、山白妙(しろたえ)に風寒く、一軒の腰掛酒屋があれば桜戸は進み入り、長椅子に尻を掛ければ酒屋の杜氏(とうじ)が出迎えて、
「いかに酒を参らすべき、強飯(こわいい)も候」と云うと桜戸はうなずいて、
「否(いな)、強飯は欲しからず。今日の寒さが耐え難く、さぁさぁ酒を飲ませよ」と云うと杜氏は心得て、酒二三合を温めつつ、一椀の湯豆腐に鮒の煮浸(にびた)し取り揃え、早置き並べて勧めた。その時、桜戸は杜氏に向かって、
「私(わらわ)は急ぐ用あって、賤が砦へ行く者なり。渡し舟があれば雇(やと)うてたべ」と頼むと杜氏は眉をひそめて、
「ここは船着きならざれば、渡し舟も候(そうら)わず」と云うを桜戸は押し返し、
「渡しの舟があらずとも雇えば舟を貸す者あらん。船賃は望みに任せん。ともかくもして雇うてたべ」と再び頼めば頭を振りつつ、
「稀(まれ)には舟が無いにはあらねど、この頃の大雪で舟稼ぎする者は絶えてここらに一人も無し。もちろん飯浦、浜村の山間(やまあい)は陸続きで候(そうら)えども近頃難所を切り塞がれて、鳥も通わず、船ならずしてなかなかにおもむくことは叶い難し」と云われて桜戸は仕方無く、ほとほと困り果てた時に一人の女がしづしづと進み入り、桜戸に向かい、
「あなたは今、賤の砦へおもむきたしと云われたが彼処(かしこ)に知る人候か。或るいは人の手引きによって、初めておもむきたまうにや。あなたは何と云う人ぞ」と問われて、桜戸は隠すに由なく、
「私(わらわ)は桜戸と呼ばれる者で、この度、折瀧の節柴殿の勧めによって、遙々(はるばる)佐渡より来たなり」と云うと驚くその女はほとりに寄って尻を掛け、
「さては世の噂に隠れなき女武者所の教え頭と聞こえたあの虎尾の桜戸殿か」と再び問われて、桜戸はにっこと笑み
「云われる如く、虎尾の桜戸は私(わらわ)にこそ」と告げると「さては」と喜び、
「しからば、ここは道近で心の内を述べ難し。まず此方(こなた)へ」と奥の座敷へ誘(いざな)って、又、更に肴(さかな)を添え、酒をすすめて、さて云う、
「我は賤の砦の巨綸(おおいと)の手下で、暴磯神(ありそかみ)の朱西(あかにし)と呼ばれる者なり。この酒店を出しつつ、世の噂を聞きさだめ、こなたに憩(いこ)う旅人で味方にすべき者あれば説きすすめて砦(とりで)へ遣(つか)わし、▼又、身の仇(あだ)となる者は密(ひそ)かに痺(しび)れ薬で殺して、憂(うれ)いを除くなり。これによりあなたも鎌倉方の者ならば痺れ薬を酒に加えて片付けんと思ったが、三大将が大恩受けた折瀧殿の引き付けなる虎尾殿であるを知れば事を誤(あやま)つべし。真(まこと)に危うい事なり。我が同道すべけれども、既に早黄昏なり。今宵はここに泊りたまえ。明日はつとめて伴うべし」と云い慰めて、もてなせば、桜戸深く喜んで、あの亀菊の邪(よこし)まで、無実の罪に落とされたその事の始めより、舳太夫、陸船を討ち取って恨みを返した事の一部始終を物語れば、朱西(あかにし)は耳を傾けて膝(ひざ)の進むを知らざりけり。

さて、その明け方に朱西は桜戸を起し仕度を整え、弓をたばさみ出て、水際(みぎわ)に茂る枯れ葦(あし)へ鏑矢(かぶらや)射込むと、たちまち葦の茂みより早船一艘が漕ぎ出して、こなたの岸へ着けば朱西は桜戸と共にその舟に乗って、山梨の磯へ渡り、ここより陸に登り、船を返して、程なく砦におもむいて、桜戸の事を巨綸(おおいと)らに告げれば、巨綸聞いて二人の勇婦の杣木(そまき)、真弓ら諸共に書院に出て、桜戸を呼び入れさせて対面した。
その時、巨綸(おおいと)は桜戸に向かって、「あなたの事は暴磯神(ありそかみ)の物語でつぶさに聞いた。折瀧殿はつつが無きや」と問えば、桜戸「さん候。書状を預かったり。これ御覧ぜよ」と懐より取り出して渡すと巨綸は開き見て、手下の者に云い付けて、酒肴(さけさかな)を出させ、桜戸をもてなしつつ、腹の内に思う、
「・・・・桜戸はその始め女武者の頭で十八番の武芸に長(たけ)たり。しかるに我は青表紙(あおびょうし)の唐文字をよく読むのみで武芸は二の町(二流)なり。又、杣木(そまき)、真弓、朱西らも十二分の武芸ならぬに、▼桜戸を留めて我らの群れに入れれば、遂に山を奪われるべし」と思案をしつつ、金二十両を取り出して、桜戸に贈って云う、
「折瀧殿の引き付けで遙々(はるばる)と来たまえども、いかにせんこの砦は領分狭く兵糧も多からねば、長くあなたを留め難し。これはいささかの品ながら路銀として参らせる。何処(いずこ)へなりともおもむいて、良き人を頼みたまえ」と云うと桜戸は押し返して
「私(わらわ)は路銀が乏(とぼ)しい故(ゆえ)に遙々とここへ来たにあらず。節柴殿の勧めにより、長くこの所で身を寄せんとのみ思いしに、この賜物(たまもの)は本意(ほい)にあらず。まげて仲間に入れさせたまえ」と云うと杣木も朱西、真弓も巨綸(おおいと)を諌(いさ)めて云う、
「兵糧が豊かならずと云えども、今この女中(じょちゅう)を留めずば、引き付けられた節柴殿に受けた恩を忘れるに似たり。よくよく思案したまえ」と云うと巨綸(おおいと)は頭を振って、
「節柴殿にはいささか不実なれども、未だこの桜戸の心の底を知らず。只一封(いっぷう)の状で心も得知らぬ人を留めて、身の災いとなる事あれば後悔そこにたち難し。気の毒な事ながら、その金を受け収めて、何処(いずこ)へなりともおもむきたまえ。我らが心に如才は無けれど、あなたを養う余力は無し。明日は努(つと)めて発ちたまえ」と苦々しげに答えつつ、留める気色(けしき)は無かった。
桜戸が賊(しず)の砦を離れて、投名状(なのりぶみ)を求めるところ、これらの事はつぶさにこの次の巻に見えたり。      

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>


傾城水滸伝(けいせいすいこでん) 第三編の貳
馬琴著 国安画 本町筋油町鶴屋喜右衛門
文政丁亥嗣●全稿八巻合本

その時、桜戸は膝(ひざ)を進めて、
「巨綸(おおいと)殿、何故にさのみ疑いたまうぞ。私(わらわ)は先に亀菊の謀(はか)り事に落とされて、無実の罪を得てより、災い再びこの身に迫って、進退既に極まったり。さればこの所に身を寄せんと願う事の他は無いものを」と云えば、杣木(そまき)らも言葉を添えて諌(いさ)めると巨綸(おおいと)しばし案じて、
「しからんには義とした投名状(なのりぶみ)を我らに見せて、赤き心を表したまえ」と云うのを桜戸は聞きながら、
「それは易い事にこそ。硯(すずり)と筆を貸したまえ。望みのままに書きはべらん」と云えば朱西は方辺(かたへ)より、
「否(いな)、投名状というのは物書く事にはあらず。初めてこの砦(とりで)に来た者は越前街道に出て、一人の旅人を討ち取って、その首を携さえ来て、二心(ふたごころ)無きを示すのを投名状(なのりぶみ)と名付けたり」と諭(さと)すと桜戸はうなずいて、
「それも又、易かるべし。心得はべり」と請け引くと巨綸(おおいと)は重ねて
「しからんには明日より三日以内に投名状を持参したまえ。三日の内にその儀無くば、決してここには留め難し。縁なきものとあきらめて、何処(いずこ)へなりとも行きたまえ」と念を押せば、桜戸は「仰(おお)せには及ぶべき」と答えた。
その明けの朝、桜戸は早く起き、一人の小者(こもの)を案内役とし短刀を腰に横たえ、仕込み杖(つえ)を突き立てて、飯浦の山あいの浜村の方に出て、旅人遅しと待つけれど、頃しも年の終わりで降り積もる雪深く、山々は只白金を伸べた如くに冴(さ)え渡り、寒さ耐えがたく、夕暮れになるまで人が一人も通らねば、桜戸は望みを失って、空しく砦に帰れば、巨綸は「さこそ」とあざ笑い、
「いかに投名状を持て来ざるや。明日も明後日もむなしく帰れば、ここには決して留め難し。ずいぶん精を出されよ」といと憎々(にくにく)しげに▼桜戸を懲(こ)らした。

かくて又、桜戸は次の日も小者を従え、昨日の山路におもむいて、終日そこに立ち暮らせども、この日も人に会わざれば、いよいよ望みを失って、
「いかなれば、かくまでに我は運の無きや。とてもかくても止められぬ、宿世(すくせ)ならん」と嘆くを小者が慰めて、
「されども、明日又、一日あり。心を痛めたまうな」と諌(いさ)めて砦へ帰れば、巨綸はますますあざ笑い、
「明日も又、獲物無くば、再び此方(こなた)へ帰るに及ばず。何処(いずこ)へなりとも行きたまえ」と云うと桜戸は答えもせず、その夜は早く臥所(ふしど)に入って、又、次の日の暁より砦を出るとあの小者が「今日はいささか所を替えん」と云うと、その儀に任せて、羽振山(はぶりやま)の麓に行き、東の人を待つけれど、未(ひつじ)の下刻になるまでに、この日も人に会わなければ、桜戸は遂にあきらめて、
「かくては砦へ帰り難し。日の暮れぬ間に里へ行き、今宵(こよい)の宿を求めん」と木陰を出る折しもあれ、見れば一人の旅人が野坂の方より来れば、「天の与え」と桜戸は腰刀を振って、進むを見返るその旅人は「あっ」とばかりに驚き恐れて、荷物を捨てて一目散に逃げて行方(ゆくえ)は知らざりけり。
桜戸は偶然に来た旅人を追い失い、しきりに後悔するのを供(とも)の小者が慰めて、
「投名状は得たまわねども、この度、荷物を獲っては一つの功になるべきなり。それがし砦へ持来して、事の由を告げ申さん」と云いつつ、その荷を担ぎ、砦を指して急いだ。

さる程に桜戸はしばらく残り留まって、なお旅人を待つと遥か向かいの麓路(ふもとじ)より旅人とおぼしき女がこなたを指して来た。およそこの時代の風俗で、女と云えども旅路は腰に刀を横たえたり。桜戸これを見るより「我、物得たり」と喜んで、仕込み杖(つえ)を引き側(そば)め、まっしぐらに突いてかかれば、その女は怒って、
「盗人女めが飽くこと知らず、我が供人に持たせた荷物を奪って、その上に、私(わらわ)に敵対う不敵さよ。さぁさぁ荷物を返さずば、目にもの見せん」と氷の刃(やいば)をひらりと抜いて、面(おもて)も振らず丁々発止と戦った。互いの手練、虚々実々(きょきょじつじつ)、一往一来(いちおういちらい)、鎬(しのぎ)を削る雪の山路を踏みしだき、既に早五十余太刀(たち)に及べども未だ勝負は無かりけり。

かかる所に巨綸(おおいと)らは小者の知らせで、杣木(そまき)、真弓ら諸共に多くの手下を従えて、砦を出て山を下り、▼早やここへ来てその有り様に驚き、しきりに感じて声を振り立て、
「御両人、しばらく止まりたまえ。刃(やいば)をおさめたまえ」と呼び掛け呼び掛け近づいて、両人を隔(へだ)てさせ、その女に向かい、
「驚き入ったあなたの武芸は感ずるになお余りあり。我々は賤の砦(しずのとりで)の頭領の賽博士巨綸(えせはかせおおいと)、女仁王杣木(おんなにおうそまき)、天津雁真弓(あまつかりまゆみ)なり。又、この女中は虎尾の桜戸殿で斯様(かよう)斯様の事により、佐渡の配所を逃れ出て、我らを頼んで来る故(ゆえ)に投名状を求めて、事がここに及べるのみ。そもそもあなたはいかなる人ぞ、名乗りたまえ」と問いかけると女はにっこと微笑み
「私(わらわ)は元大内(おおうち)の采女(うねめ)で、女武者所の頭の青柳(あおやぎ)という者なり。私(わらわ)の色が青白ければ、人あだ名して青嵐(あおあらし)の青柳と云えり。しかるに先年、私(わらわ)が預かった弓場殿(ゆばどの)の御弓懸(おんゆがけ)を紛失した咎(とが)により、都を追放され、武蔵の方におもむいて、三年を過ごし、この度、御赦免(ごしゃめん)あるにより、再び都へ立ち帰り、縁(ゆかり)を求めて、元の采女(うねめ)になる願いあり。そなたに言い分無きならば、速(すみ)やかに荷物を返して、放ちやりたまえ」と云うとますます感ずる巨綸(おおいと)は
「さては予ねて伝え聞いた青柳殿にてありしか。誤って砦に持て来た荷物はもちろん返すべし。なれどもたまたま名乗り合ったに、このままに別れんや。今宵は砦に泊りたまえ。酒一献(いっこん)参らせん」と云うと青柳も否(いな)みかね、遂にその意に任せつつ、先に逃げた供人が立ち帰ったのを従えて、いざとてやがて身を起こせば、巨綸(おおいと)は斜めならず喜んで、桜戸諸共に連れだって、賤の砦へ帰って行った。

かくて巨綸(おおいと)はその夜酒盛りの席を開いて、青柳を丁寧にもてなしつつ云うは
「今、都では白拍子(しらびょうし)の亀菊が院の御寵愛に誇って、人を損(そこ)なう事、これ多し。例え帰京したまうともはかばかしき事があるべからず。さればこの砦に留まって、大将となりたまえ。要害(ようがい)も堅固(けんご)なれば、誰にはばかる事もなし。まげてこの儀に従いたまえ」といとまめやかに留めた。
さても巨綸(おおいと)が今、青柳を留めんと思う訳は彼女を愛する故(ゆえ)にはあらず。この者は武芸に長けた者なれば、桜戸を止め置くとも十分彼女の相手になるべし。しからばこの後、桜戸が砦を奪おうと思うとも、青柳にはばかって、その事は叶うべからずと腹の内に思えばなり。
青柳はかくとも知らねど、留まる気色(けしき)無く、巨綸(おおいと)に答えて云う、
「御志(おこころざし)は喜ばしくはべれども、私(わらわ)の親は由緒正しき北面(ほくめん)の武士なりしが男子(おのこ)が無く私(わらわ)を武者所へ召されたなり。しかるに罪を被(こうむ)り、たまたま赦免にあいながら、ここに留まるは不孝なり。悪く聞きなしたまうな」と固く否(いな)んで従わず。その明けの朝、元の如くに供人連れて、砦を立ち、都を指して急いだ。
これよりして、▼桜戸は賤の砦に留まって、真弓の次の頭となった。又、朱西(あかにし)は元の如く菅の浦に帰り、あの酒店を守った。
さる程に青柳は日ならず都に帰り着き、洛中に宿を求め、いかにもして元の如く女武者所の采女(うねめ)にならばやと、所縁(しょえん)に付き、その筋を求め、官人らに賄賂を渡せば、ようやく手引きを得て、願い文を捧(ささ)げた。されば亀菊が女武者所の別当(べっとう)なれば、青柳の願い文を見て、大いに怒り
「彼奴(かやつ)は落ち度で都を追放させられて、罪許されたのは多く得難き幸いであるべきに、元の如くに武者所の采女になりたいなどと申すは片腹痛き願いなり。とても叶わぬ事なるに、重ねて取次ぎすべからず」とあくまで罵(ののし)り、願い文をずたずたに引き裂き捨てて返した。青柳はこの事を伝え聞いて、望みを失い、
「いかなれば亀菊は心様(こころざま)の毒悪なる。かくては弥勒(みろく)の世まで、この身の願いは叶うべからず。再び武蔵へ帰らばや」と思いながらもこれかれへ物を贈った事なれば、路銀も既に尽き果てた。只、先祖相伝(そうでん)の三つ具足(ぐそく)と名付けた短刀が一振りあれば、仕方無くこれを売り、路銀にせんと思いつつ、或る日その短刀を携さえて、あちこちと歩くと、三条小橋のほとりにて、にわかに人々どよめいて
「ソレ、牛鬼(うしおに)が来るぞよ。逃げよ、走れ」と罵(ののし)り騒げば、青柳は人に由を問うとその人答えて、
「近頃、このあたりにあばずれの牛鬼婆(うしおにばば)と云うあぶれ者あり。酒を好んで飽く事なく、ややもすれば人を捕らえて物を強請(ねだ)り、非道を云い掛け、或るいは暴れ、或るいはねじ込み、町の害になる事多し。されども女の事なれば、誰とて相手になる者無く、避けて通れば良い事にして、日毎に暴れ歩くなり。今、諸人(もろびと)が騒ぐのはその牛鬼を恐れるのみ」と告げると青柳は興醒(きょうさ)めて、立ち去ろうとする時に、はやくも牛鬼が近づくのを見れば、面(つら)は落蹲(らくそん)の面の如く、色は赤黒く陳(ひ)ねた南瓜(かぼちゃ)にも似たり。眼(まなこ)はつぶらにして蝸牛(かたつむり)を並べた如く、鼻は横に開いて、三つ栗を伏せた如く、右の袖を押し肌脱いで萎(しな)びた乳をぶら下げて、左の裾を片端折りして、晒(さら)し木綿の湯巻を露(あらわ)に、ひどく酔うたとおぼしくて、よろめきよろめき、わざと青柳に突き当たり、矢庭(やにわ)に捕らえ、ちっとも離さず、眼(まなこ)を怒らし、きっと見て、
「この女(あま)め、何をする。邪魔な物を手に持って、つっ立ったるは何の為ぞ」とよろけかかれど青柳はいささかも騒ぐ気色(けしき)無く、
「私(わらわ)が持つは名剣なり。これを売らんと思い、買う人を待つのみなり」と云えば牛鬼はあざ笑い、
「その短刀に銘(めい)はあるか」と問われて青柳は
「然(さ)ればとよ、これは三つ具足丸と名付けしなり」と云うと牛鬼は眉をひそめて、
「三つ具足と云うその訳いかに」と再び問われて青柳は手に取り直し、
「そもそもこの短刀を▼三つ具足という訳は、第一に鉄をよく切り、その音をせず、第二に髪の毛を刃(やいば)へ載せて吹けばたちまち粉々(ふんふん)と切れて四方へ散乱す、第三に人を切るに骨を余さず、又、速(すみ)やかにして血潮(ちしお)を見ず。この三つの不思議あるをもて、三つ具足と名付けたり」と云うと牛鬼はうなずいて、
「我、その刃を買うべきに、値(あたい)はいかばかりで売るものぞ」と問うと青柳は、
「今、要用(ようよう)の事あれば、三十金で手離すべし」と云えば牛鬼は笑いかけ、
「それは甚(はなは)だ高価なり。三百文にて我買わん。まけよ、まけよ」と急がせども、青柳は騒ぐ気色(けしき)なく、
「そなたは真(まこと)に買うにはあらじ」と云い果てぬ間に牛鬼婆はまなこを怒らし、
「さばかりの物を買わざらんや。只今、云うた三つの不思議を目の当たりに試して見せよ。まず壱番に鉄じゃ鉄じゃ」と云いつつ、帯の間を探って、銭五六文を取り出して、「切って見せよ」と手に渡せば、青柳はその銭を橋の欄干(らんかん)に押し重ね、刃を抜いてこれを切ると、さながら豆腐を切るに等しく、ちっとも音はせざりけり。
牛鬼婆はこれを見て、又、忙わしく盆の窪の毛を幾筋か抜き取って、
「さぁ、その次は髪の毛、髪の毛。吹いて見せよ」と手に渡せば、青柳これを受け取って、刃の上に乗せて、ひと吹きふっと吹くと毛は粉々(ふんふん)と切れ散った。
牛鬼婆は又、これを見て、からからと笑い、
「さて、その次は人じゃ人じゃ。さぁさぁ人を斬って見せよ」と云えば青柳は頭を振って
「太平の世に、いかに故(ゆえ)無く人を斬られるべき。そなたがなお疑えば犬を捕らえて引き持て来よ。その犬を斬って見すべきぞ」と云わせもあえず、声を振り立て、
「おのれは先に何と云った。人を斬るに骨を余さず、速(すみ)やかで血潮(ちしお)を見ずと、まさしく云ったにいかにぞや。犬を斬るとは聞かざりき」としきりにわめくと折から行き来の老若男女は何事かと集って、取り巻きつつこれを見るが、なお牛鬼を恐れて、誰も近くは寄らざりけり。
青柳はかかれども臆した気色無く、牛鬼に向かって、
「そなた、まことに買うならば、由なき事を云わずもあれ。実に切るべき人は無し」と云えば、牛鬼はわめいて
「人が無くば、我を斬れ。我はその刃を欲(ほり)するなり」と云うと青柳は微笑んで、
「そなた、まことに買うならば、さぁさぁ金を持て来たまえ」と云うを聞かずに声を振り立てて、
「我はちっとも金は無し。只今掛けで売られずば、さあ我を斬れ、斬らずや」と小突き廻して争う弾(はず)みに、その短刀に手を掛けて奪い取ろうとすれば、青柳も堪忍(かんにん)の二字も甲斐無く怒りに任して、短刀ひらりと振り上げて、水もたまらず牛鬼の細首、丁(ちょう)と打ち落とせば、躯(むくろ)もだうと倒れた。
その時、青柳は声高やかに、
「なう、見物の人々よ。見たまう如き仕合せで、女に似合わぬ事ながら、止むを得ず彼女を斬った。願うは人々、私(わらわ)の為に証人になり、公(おおやけ)へ共に訴えたまえかし」と云うと諸人は皆立ち寄って、青柳を誉め慰めて、
「この牛鬼は大方ならぬ町の害。討ち果たされたは幸いなり。我々、諸共訴え申して、事の証人たるべし」と皆、青柳を先に立て、六波羅の検断所(けんだんじょ)へ行き、事しかじかと▼訴えれば、六波羅の総司(そうつかさ)伊賀の判官(はんがん)光季(みつすえ)はこの訴えを聞き定め、三人の手下を青柳と共に三条小橋へ使わして、牛鬼婆の死骸を検(あらた)め、その後に青柳をしばらく牢屋に留め置き、なおこれかれと問い質(ただ)すと牛鬼婆はこの年頃、人の害となる者で、自宅も無く子もあらず、その凶悪も少なからねば、光季は青柳の人殺しの罪をなだめて、筑前の国太宰府(だざいふ)へ流し使わす由を云い渡し、ちん五ちん六と云う二人の下使いを差し添えて、遂にその地へ遣(つか)わした。

これにより三つ具足丸の短刀は公(おおやけ)へ召し上げられて、長く御蔵(みくら)に置かれた。されば青柳の証人に立った里人らはこの度、あの女の働きで町の憂いを除いたと喜び且つ憐れみ、銭を集めて路銀を贈り、涙を流して別れた。
かくて青柳は再び罪人となり、首枷(くびかせ)を掛けられて、遠く筑紫(つくし)へ流されることになった。さて、幾ばくの日数を経て、船が太宰府に着けばちん五、ちん六は青柳を守り、宰府の城におもむいて、六波羅からの送り状を探題(たんだい)の信種(のぶたね)に参らせて、事の由を述べれば、信種は家臣らに青柳を受け取らせ、答え文を渡せば、その次の日にちん五らは都を指して帰って行った。
そもそもこの頃、筑紫の探題小武信種は北条義時の娘婿で、内室(ないしつ)の十時(ととき)御前は義時の愛女(あいじょ)なり。されば筑紫は都に次いで西国(さいごく)第一番の大港で繁盛類(たぐい)無いのみならず、探題は六波羅の総司(そうつかさ)にもをさをさ劣らず、西九ケ国を管領(かんれい)して、勢いある大任で、しかも信種は今飛ぶ鳥も落とすと云う鎌倉の執権の義時の内縁なれば、その家は富み栄え、家臣も多く、文武の道に長けた者もその内に少なくなかった。しかも信種の奥方の十時御前は女に稀(まれ)なる武芸を好んで、召し使う女房に武芸を習わせれば、その筋にもまた武術を良くする者も多くあり。これにより都の沙汰(さた)に習わんと、ここにも女武者所を置かれたが、未だその教え頭に致すべき相応の者が無ければ、なお物足らぬ心地して、折々夫の信種に語らうと、▼この度六波羅より送られた都の流人の青柳は元大内の采女(うねめ)で、武芸に秀でた者なると申す者があれば、十時御前はこの事を又、しかじかと告げると、信種は聞いてうなずきつつ、
「実(げ)に、その青柳は物の用に立つべき者なり。しばらく使用人にして立ち振る舞いを見るのは、何か苦しかるべき」と、まず青柳の首枷を解き許し、炊事婦として使われると、心利いた女で男に勝る事多かれば、目通りをさえ差し許し、ほとり近くはべらしたが、ある日、十時御前は青柳を招き寄せ、
「そちが武芸に優れる事、人の噂に伝え聞いた。されば今より取り立てて、女武者の教え頭に成そうと思えど、人のそねみは事の妨げなるべしと思い返して思いとどまった。この宰府の女武者で野森(のもり)と呼ばれる者は二三と下がらぬ武芸あり。されば野森と試合をさせて、そちが十分勝てば、その時にこそ取り立てて、教え頭にしたらば諸人すべて従わん。いかにそなたはその野森と立ち会う心はあらずや」と忍びやかに云われるのを青柳聞いて一議に及ばず、
「それは此上(こよ)無き御恩なり。私(わらわ)は始め都にて女武者所に召された教え頭ではべりしに、弓場殿(ゆばどの)の御弓懸(おんゆがけ)を紛失の落ち度により、先には都を追われたなり。さればこそ十八番の武芸の数々、大方ならず諳(そら)んじたり。相手は嫌いはべること無し。誰にても試合の事を仰せ付けられくだされば、世にありがたき事にこそ」と、はばかる気色も無く申せば、十時御前は喜んで、青柳が申したままに、探題に告げれば、信種聞いてうなずきつつ、
「さらば、野森と青柳の試合の勝負を見るべし」と武芸係の家臣立波兵衛、女武者所の老女字野江(あざのえ)らにしかじかと心得させて、日は明日と定められた。

 これにより七十五間(けん)の大馬場を試合の場所と定め、東の馬見所(ばけんしょ)を信種の桟敷(さじき)とし、西の馬見所を十時御前の桟敷として、紫の幕を張り、紅の毛氈(もうせん)を掛け渡し、東西の桟敷には武芸に長けた諸侍、女武者らも集めて、所狭きまで居並んだ。

さる程に警護の足軽百人ばかりが整々(せいせい)として控えつつ、合図の太鼓を打ち鳴らせば、東の方より女武者野森、西の方より青柳がはや静々(しずしず)と立いでた。
手鉾(てぼこ)の試合と予(かね)て定められれば、野森、青柳諸共に肌には小鎖(こくさり)の着込みを着て、小手(こて)脛(すね)当てに身を固め、上にはおのおの黒い衣(きぬ)を着て、玉襷(たまたすき)を背高に結び、九尺の槍を引き下げたが、槍の穂先を抜き取って、麻の布に石灰(いしばい)を包み、丸く鞠の如くにしたものを蛭巻(ひるまき)の上に付けた。
これらの事は予てよりの信種の指図で、真(まこと)の槍(やり)をもってすれば、命を落とす事もあるべし。互いに黒い衣を着せ、穂先に石灰を包んだ槍で立ち会わせれば、突かれた数の多い者はその石灰が衣に付いて黒きも白くなるべし。しからば勝負も自(おの)ずから分明(ふんみょう)に知られんと、かく仕度(したく)をせられた。

 既にして、野森、青柳は又、打ち出す太鼓の音と共に各々(おのおの)立ち上がり、手に手に槍を引きそばめ、まず隆々(りゅうりゅう)と素突きして、掛け声を合図に野森は槍をひらめかし、青柳の眉間をのぞんで突き倒さんとする所を青柳はすかさず受け流す、手練の早業、踏み込み、踏み込み、秘術を尽くす互いの身構え、ここを晴れとぞ闘った。
 かかりし程に激しい穂先に野森は既に負け色見えて後退するのみなれば、立波兵衛は下知を伝えて、引き太鼓を打たせると警護の足軽が押し隔(へだ)て、東西に引き分けさせた。
 その時、人々それを見ると野森の上衣(うわぎ)は真白になって、幾十ケ所か突かれていた。その数は限り知らず、青柳は袖の下に二ケ所石灰が着いたのみで、事既に十二分の勝ちなりと、人皆罵(ののし)り、信種夫婦はことさらに喜び面(おもて)に表した。
 その時、兵衛、字野江(あざのえ)らは主君夫婦に申す、
「野森は弓をよくすれども槍はもとより得手にあらず。次は弓矢の試合を御覧ぜよ」と両人等しく申すと信種夫婦は仕方なく青柳を呼び寄せて、
「いかに汝(なんじ)は今一度、野森と弓矢の試合をせんや」と問われて、青柳一議に及ばず、
「いかでかそれを背(そむ)くべき。ともかくも」と答え申せば、信種夫婦は喜んで、更に衣服を着替えさせ、最上の弓と矢に馬二疋(ひき)を引き出させ、野森、青柳に貸した。
その時、兵衛が申す、
「弓矢の試合は互いに危うし。各々(おのおの)に盾(たて)を持たせ、矢を防がせ候わん」さはとて、両人に事の心を得させつつ、小盾二枚を渡せば、これを肘(ひじ)につないで、馬に乗りつつ、又、打ち出す太鼓と共に東西より馳せ寄せて、青柳は野森に向かい、
「あなたがまず、私(わらわ)を射たまえ。三度で当たらずば、私(わらわ)又、あなたを射ん。いざ、さぁさぁ」と急がせば、野森は密(ひそ)かに喜んで、
「・・・・・槍の試合に負けたども、この度、弓矢の試合に至って、私(わらわ)に先を譲る事はこれ得難き幸いなり。▼射殺してくれん」と思えばにっこと微笑み、
「そは心得てはべるなり。さらば、私(わらわ)が射掛ける矢を受け止めたまえ」と答えつつ、東西に引き別れて、乗り巡らし巡らして、野森は弓に矢つがい、矢ごろを張って切って放せば青柳早く身を沈ませて、鞍(くら)隠れをすれば、矢はいたずらに行き抜けて、安土(盛り土)の方に落ちた。野森は既に第一の矢を射損じて、心いら立ち、再び弓に矢つがい、乗り巡らして、追い巡らし、狙いすまして丁と射る。青柳は後ろの方に弦音すれば、身を反らしつつ、小盾を持って、すかさず丁と受け止めるとその矢は発止と折れ飛んだ。野森は二度も射損じて、残るは一矢なれば、心いよいよせき上(のぼ)し、乗り回し隙をうかがい、弓に矢つがい、矢頃を計る虚々実々、よつ引きひょうと放つ矢を青柳は右手に受け留め、掴んで投げ捨てた。
 さて約束なれば、今度は青柳が野森を射る番と再び馬を走らせて、その時青柳は思う、
「・・・・今、野森を只一矢で射殺すは易けれども、恨みも無い者をいかでむごく殺せるべきか。只、かすり手を負わせるのみで、我が弓勢(ゆんぜい)を思い知らせん」と追い回し追い回し、弓を満月の如く引き絞り、矢声を掛けて切って放せば、野森は右の肘を射ぬかれて、馬よりだうと落ちれば、諸人どっとどよめいて、「ああ、射たり、射たり」と褒める声がしばし鳴りも止まなかった。
信種夫婦は喜んで、青柳を呼び近づけ、女武者の教え頭に取り立てようとする時に、一人の女武者がたちまちそこに進み出て、
「殿様、奥様、待たせたまえ。野森は私(わらわ)の教え子なれども近頃、熱病を患って、病み上がりなれば、青柳の相手には足らず。願うは私(わらわ)と青柳で真剣の試合をさせたまえ。私(わらわ)も彼女に負ければ、弟子とならん。さ無くばよしや仰(おお)せでも従い奉(たてまつ)らじ」と声振り立てて叫んだ。
人々は驚いてそれを見ると、これは第一の女武者の索城(なわしろ)と呼ばれる者なり。いと短気な女なれば、人あだ名して向不看(むこうみず)の索城(なわしろ)と呼んだ。
信種夫婦は青柳を取り立てる為に試合を催したが、諸人(もろびと)はとにかく従わず、今また索城が試合を望む事、心に危ぶみ思えども流石に否(いな)とも云いかねて、又、青柳にしかじかと云い含め、心得させて、名馬一疋(ひき)を引き出させて、あれに乗れと貸したまえば、十時御前も業物(わざもの)の薙刀(なぎなた)一振りを取り寄せて、青柳にたまわったり。
されば又、立波兵衛も秘蔵の名馬一疋(ひき)を索城に貸し与え、主君夫婦に申す、
「索城、青柳の立会いに▼真剣をもてされると、いずれ一人は手を負うか、さらずば命を落とすべし。この儀を止めさせたまえかし」と云うを信種は聞きながら、
「よしや命を落とすとも彼女らの望みに任せぬも、武士には似合わぬ業(わざ)なるべし。さぁさぁ」と急がせば、兵衛は是非なく下知を伝えて、知らせの太鼓を打たせた。

 さる程に索城は腹巻に小手(こて)脛(すね)当てして、腰に一振りの太刀を横たえ、立波栗毛と呼ばれた駿馬(しゅんめ)にゆらりと打ち乗って、手には大きな鉞(まさかり)を引き下げ、東の方より乗り出せば、青柳も同じ装束で、駿馬(ときうま)に打ち跨(またが)り、十時御前よりたまわりし薙刀(なぎなた)を脇挟み、西の方より馬を寄せると、なおも早まる太鼓と共に双方等しく声を掛け、打つをひらりと受け流す。一往(いちおう)一来(いちらい)、劣らず優(まさ)ず、行き巡り巡り、索城が獅子の怒りをなせば、青柳は龍蛇の勢いあり。振り閃(ひらめ)かす薙刀は雲間を漏れる月の如く、又、打ち掛かる鉞(まさかり)は岩根を走る稲妻に似て、人は人と闘い馬は馬と挑み争う。蹄(ひづめ)の音も刃(やいば)の響きも拍子を揃えて目覚しく、既に戦うこと六十余太刀に及べども勝負も果てず見えれば、信種夫婦は云えば更なり、席に並ぶ男女の輩(ともがら)、呆然(ぼうぜん)として酔うが如く、呆(あき)れ且つ感じて、手に汗握るばかりなり。
 その時、兵衛、字野江(あざのえ)は主君夫婦のほとりに参って、
「索城、青柳の武芸は比類なく、劣(おと)り勝(まさ)りは候(そうら)わず。今日よりあの者どもを女武者の教え頭に仰せつけられるべし」と言葉等しく申すと信種も十時御前もその喜びは大方ならず、やがて索城、青柳を東西へ引き分けさせて、ほとり近く呼び寄せて、
「両人共に女武者の教え頭を務むべし」と云い渡させると、二人の女子(おなご)は喜びの言受(ことう)けを申しつつ、退いた。

さればその夜、索城の仲間は皆々彼女の部屋に集って、喜びを述べ、酒盛り遊んで、賑わしく見えれども、青柳は馴染みも無ければ、己(おの)が部屋に帰り、一人寂しくその夜を明かした。
しかれども是より人の頭と▼うやまわれ、我に疎(うと)からず立ち振る舞う女武者も多くなるままに、萬(よろず)の務めに暇(いとま)無くて、その年は暮れた。

 かくて、その次の年、春は過ぎ夏来て、五月初めの頃に難波津(なにわづ)を預かり守る天野の判官(はんがん)遠光(とおみつ)の女武者に直鳶(ひたとび)の稲妻、篠芒(しのすすき)の朱良井(あからい)と、ことに武芸に優れたこの二人の女らはある夜、遠光の下知を受け、五六人の手下を従え、あちこちを巡った。
これらの由は詳(つまび)らかに五の巻きに記すべし。

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
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傾城水滸伝をめぐる冒険とは

2017-03-04 12:43:52 | 解説・楽しみ方
冒険とは大げさな。
そもそも「羊をめぐる冒険」のパクリじゃん。
とのご指摘は、後者については反論いたしませんが(^^)
私にとって「傾城水滸伝」は、今、冒険の舞台なのです。
少し長くなりますがお付き合いください。

そもそも「傾城水滸伝」とは

(引用 Wikipedia 2012.3.29)
「傾城水滸伝」(けいせいすいこでん)は、曲亭馬琴作、歌川豊国・国安・貞秀画。の合巻本。
13編。文政8年(1825年)~天保6(1835年)年刊行。
当時大変人気を博したため版木が磨耗してしまい、二度彫り直して3版まで出版されたという。
中国文学の『水滸伝』の翻案。『水滸伝』の英雄豪傑を日本の賢妻烈婦にかえたもの。
また、登場人物全員の性別がほぼ逆転しており、三人の女性好漢等も男性に変えられている(ただし、登場する108星のうち名前が設定されているのは106星のみで、関勝・董平にあたる人物が登場しない)。
傾城とは国を揺るがすほどの絶世の美女のことであり、本来は褒め言葉だが、本作品では宿敵、亀菊の蔑称として使われている。
後鳥羽院の時代、後鳥羽院から寵愛をうけた白拍子亀菊の専横に世をはばまれた烈婦たちが、執権北条義時のために討たれた鎌倉の源頼家の息女三世姫を擁立し、近江賤ヶ岳江鎮泊にたてこもって亀菊および義時とたたかうという内容。
曲亭馬琴が本作品の完成を見ずに死去したため、笠亭仙果が「女水滸伝」と題をあらため、13編下帙より15編までをもって完成させた。
1984年に河出書房新社から初版挿絵つきの「江戸戯作文庫 傾城水滸伝」として2巻まで出版されたが、現在は入手困難。

上記のように、発刊当時、大人気で贋作も出たような状態だったにも関わらず、同じ馬琴の「南総里見八犬伝」が現代訳され、出版だけでなく、人形劇としてテレビ番組にもなったのに比べ、この「傾城水滸伝」ほぼ世の中から埋もれてしまいました。

どのくらい埋もれているかっていうと

基本的に書店では買えません。
100年前に発行された馬琴全集が1990年くらいに再販されてますが、国会図書館を含めて全国のいくつかの図書館でようやく借りることができるくらいレア。
その馬琴全集も1910年に発行されたものなので現代訳されてなく、一般の方が楽しく読めるのは河出書房新社「江戸戯作文庫 傾城水滸伝」のみなのですが、残念ながら二編まで。
ということで、現在、「傾城水滸伝」は、ほぼ埋もれております。

といいつつも原書は美術品として近年価値が急上昇。
全巻を神保町の大屋書房などで買うとすると、ウン十万円から百ウン十万円します。
復刻版は出版されていないので万事休す。

そんな中でも、便利なIT時代。
早稲田大学と立命館大学でそれぞれデジタルアーカイブにしてくれています。
まずは、ご覧になってみてください。

早稲田大学アーカイブ

立命館大学アーカイブ ※「傾城水滸伝」で検索


歌川豊国、国安の浮世絵に目を奪われると思います。
でも、読むためには「変体がな」を学ばなければなりません。
*変体がなは、この記事の文末にある画像の右端(原書)のような文字です。

見る事は易し、されど読むことは難しです。

あなたは、変体がなを読めますか?
もしくは、変体がなを学びますか?

NOであれば次に進みましょう。

現代の文字で、全13巻を出版されたのは、以下の2つのみ。

・校訂傾城水滸伝 曲亭馬琴/作:博文館編輯局/校訂 博文館 1900年
・滝沢馬琴集 第13巻 滝沢馬琴/著:本邦書籍 1990年

博文館版は、1900年の発刊なので、読むことができるのは国立国会図書館のデジタル版のみの筈。
本邦書籍版は、絶版で首都圏でも2・3ヶ所の図書館にしかありません。
さらに、現代語訳ではないので古語と戦わなければなりません。

古語が分らなくてもなんとなくは読めますが楽しく読むには程遠いでしょう。

あなたは、我慢して読みますか?
もしくは、古語を学びますか?

NOであれば、またまた次です。

現代語訳も実はあります。
「江戸戯作文庫 傾城水滸伝」(校訂:林美一/河出書房新社/1984年)。
比較的多くの図書館にある可能性があります。
だったら解決じゃん・・・・・・・・というわけにいかないのです。
13巻のうち2巻までしか出版されていません。
林さんは、全巻出版に意欲を持っていらっしゃったようですが、残念ながら既に、お亡くなりになっています。

もし、傾城水滸伝を読みたければ、ここから入るのがおすすめですが
気に入った場合に、3巻目以降をどうするかという問題は残ります。

実は、私はこの「江戸戯作文庫 傾城水滸伝」で、初めて傾城水滸伝に出会った一人。
変体がなの勉強のために、古書の復刻を探していて、図書館で見つけたのがこの本でした。
ここが冒険の始まりだったのです。
前置き長いですね。(^^)

初編・二編と読み進み、水滸伝を読んだことのない私は、傾城水滸伝で水滸伝の面白さを知り、
日本を舞台に、登場人物を女性に置き換えた冒険物語が気に入ってしまいました。
しかし、三編が手に入らない。
皆さんは博文館版か本邦書籍版を探されるのでしょうが、私の楽しみの一つである変体がな読みのためには
原書でなければならなかったわけです。
ネットで調べるうちに、早稲田大のアーカイブを発見。
数十万の古書を買うお金などない私にとって、一気に道が開け、飛び上がって喜びました。
読み始めると何とか読めるようです。

そこで私は考えました。
私のようにこの作品を読もうとして、二編で夢破れる人たちのために
私がこの作品を掘り起こさねばならないのではないか。
亡き馬琴翁の悲痛な叫びさえ聞こえたような気がしました(^^)

古語も詳しくなく、文才もない私がそんな大それたことができるのだろうかと
思いつつも・・・・・・・・・・・始めてしまったというわけです。(^^)

最終的に、現代語訳まで完成したいと思っていますが、完成がいつになるのかまだ分りません。
これを書いている2013年1月時点は、下のステップで説明すると原書から変体がなを読み起こして
それに漢字をつけている状態です。
古い本だけに虫くいあり、かすれ汚れありで、読めない部分も少なくありません。(各編記事の●部分)
早稲田大のデジタル原書を元に、読みにくい部分を立命館大のもので補完し、
それでもダメな部分のみ博文館版に頼ろうと思ってます。

冒険は、まだまだ続きます。
もし、興味持っていただけたら、年に1度くらい覗いてもらえるとうれしいです。
長々とお読みいただきありがとうございました。

<2013年6月時点>

傾城水滸伝(初編~十三編上)については校訂をほぼ完了しましたので、次に原文の味わいを残しながら現代語に近づける作業をしました。
女水滸伝は、校訂完了前ですがなんとか読める程度のレベルにはなってると思います。
どこまで現代語にするかのさじ加減が難しいなぁと。

<2013年7月24日時点>

古語の訳を補足して、より読みやすくする作業を進行中です。
本日時点で七編までは、ほぼ意味が分かるまでの文章にできていると思います。
なお、翻刻させていただいた元資料の所有者である早稲田大学さんからの許可がいただけましたので底本表示をしております。

<2014年2月22日時点>

原文の味を残しながらも読みやすさを研ぎました。
お米で云えば玄米を七分付きまで精米した感じでしょうか。
下の段階では漢字付けと現代訳の中間です。
これ以上、糠を取ってしまって良いのかとも考えますが、
一部読みにくい部分もありますのでそこには手を加えて行きますが
ほぼ翻訳完了って感じです。
※ルビがないと読めないのでPDFで読んでください。


どなたかこの作品を世に出してくださる方がいらっしゃったら、ご連絡お待ちしています。
出版以外にもマンガ、演劇、講談などなど、アマチュアの方も大歓迎です。
当方、一般の会社員のため、お金儲けは考えていません。

<冒険の道程>




では、ごゆっくりお楽しみください。
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傾城水滸伝が生まれた経緯(いきさつ)

2017-03-04 11:44:16 | 解説・楽しみ方
傾城水滸伝が生まれた背景を考えてみたい。

作者の曲亭馬琴がもともと水滸伝のファンであったことが発端なのだが
本家の水滸伝が既に人気のあった書物であったことが背景にはある。

商業小説家である曲亭馬琴としては、売れると踏んだから書いたのであって、
というか売れるように書いたということをベースに考えるべきだろう。

どうすれば売れるのか。と考えた馬琴は、中国の物語である水滸伝を
より多くの人々に読んで(買って)もらうためには
読みやすい物語りに作り変えることがポイントだと思った筈。

そこで、まず日本を舞台にして描こうと決めたと思われる。
今でも中国は近くて遠い国。
江戸時代の庶民が、今以上に中国の情報を持っていたとは考えにくい。
そこで、覚えにくい中国の名前や地名ではなく、
普段から聞きなれた日本の地名、文化、歴史で
水滸伝のストーリーの面白さを描くことになった。

まずは、日本を舞台としたのが一つ目の選択。

それによって、曲亭馬琴の洒落心が一気に展開することになった。
傾城水滸伝の人名などは遊び放題だ。

足高蜘蛛平(あしだかくもへい)、戸蔭の土九郎(とかげのどくろう)
渋川栗太夫(しぶかわくりだゆう)、早道葉四郎(はやみちはしろう)などなど

しかし、日本に設定を移し替えたことでいくつかの不具合が生じる。

まず、時代設定。
江戸にするのが最も簡単だが徳川幕府の世の中で
表現の自由などあるわけもない。
実在の藩や武将の名前を使うことはもちろんのこと
それを匂わすことさえも首が飛ぶ可能性がある時代。

全くの架空地域を作り上げる選択肢もあっただろうが
それではそもそも舞台を日本に置き換えた意味が全く無くなる。
そこで、馬琴は考えた。

その結論が、平安末期から鎌倉時代。
勇者達を源氏の縁ある者たちとし、
敵を北条(義時)氏とした。
源氏も北条もとっくの昔に滅んだ家。
誰でもが知る歴史物語を下地にすることで
ぐっと話が分かりやすくなった。

この時代設定が馬琴の巧さの二つ目。

そこで馬琴は考えた。
水滸伝の話の筋は、勝負をして負けた者が勝った者の
下に入り、そして大きな群が作られていくのだが、
どうも当時の日本人の感情では割り切れないとこがある。
「潔(いさぎよ)くない」という感情。

で、それを解決し反転する妙案を考えた。
それが主人公達の性別逆転だ。
女性は男性に比べて、
その頃から現実的な考えであったのだろうと思われる。
忠義のために命を投げ出す男の美学を傷つけず、
図太い女の生き方をうまく利用して
日本人にも水滸伝の話の筋を納得できるようにした。

これにより傾城水滸伝は、非常にユニークな小説として
誕生することになった。

まず性別逆転ありき、ではなかったのではないか
というのが翻刻中の現在の私の考えである。

はからずも性別逆転がしっくりする時代が今なのでしょう。
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傾城水滸伝 PDF版 現代訳進化版

2017-03-02 19:52:42 | 解説・楽しみ方
2013年の9月にPDF版を初リリースしましたが
翻訳具合を精米に例えると五分づき状態。
今回は七分づきまで翻訳を進めました。
ほんの一部を除けばお話の筋は読んで楽しめると思います。
白米にしてしまうと面白味がないので
時間をかけて八分づきまでは進めたいと思っています。


傾城水滸伝 初編 曲亭馬琴著(歌川豊国・国安画)
 文政八年(1825年)乙酉春正月吉日新版  江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207shohen.pdf

傾城水滸伝 第二編 曲亭馬琴著(歌川豊国・国安画)           
 文政九年(1826年)丙戌春正月吉日新版  江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207nihen.pdf

傾城水滸伝 第三編之壱 曲亭馬琴著(歌川国安画)
 文政十年(1827年)丁亥春正月吉日新版  江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207sanhen.pdf

傾城水滸伝 第四編 曲亭馬琴著(歌川豊国・国安画)
 文政十一年(1828年)戌子春正月吉日新版  江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207shihen.pdf

傾城水滸伝 第五編 曲亭馬琴著(歌川豊国・国安画)
 文政十一年(1828年)戌子春正月吉日新版  江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓 
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207gohen.pdf

傾城水滸伝 第六編 曲亭馬琴著(歌川豊国・国安画) 
 文政十二年(1829年)巳丑春正月吉日新版  江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓 
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207rokuhen.pdf

傾城水滸伝 第七編 曲亭馬琴著(歌川豊国・国安画)
 文政十三年(1830年)春正月吉日新版  江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓 
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207shichihen.pdf

傾城水滸伝 第八編 曲亭馬琴著(歌川豊国・国安画)
 文政十三年(1830年)庚寅春正月吉日新版  江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓 
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207hachihen.pdf

傾城水滸伝 第九編 曲亭馬琴著(歌川豊国・国安画)
 文政十三年(1830年)庚寅春正月吉日新版  江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207kuhen.pdf

傾城水滸伝 第十編 曲亭馬琴著(歌川豊国・国安画)
 文政十三年(1830年)庚寅春正月吉日新版 江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207jyuhen.pdf

傾城水滸伝 第十一編 曲亭馬琴著(歌川豊国・国安画)
 天宝元年(1831年)辛卯春正月吉日新板 江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓 
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207jyuichihen.pdf

傾城水滸伝 第十二編 曲亭馬琴著(歌川豊国・国安画)
 天保三年(1832年)壬辰春正月吉日新板 江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207jyunihen.pdf

傾城水滸伝 第十三編壱・二 曲亭馬琴著(歌川豊国・国安画)
 天保三年(1832年)壬辰春正月吉日新板 江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓
傾城水滸伝/女水滸伝 十三編ノ三・四 笠亭仙果編次(一陽斎豊国画)
 嘉永三年(1850年)庚戌春新板 東都両国大黒屋平吉板
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傾城水滸伝/女水滸伝 十四編 笠亭仙果編次(一陽斎豊国画)
 嘉永四年(1851年)辛亥春新刻 松寿堂梓 
http://book.geocities.jp/keitaro2060/KS2/20140207jyuyohen.pdf

傾城水滸伝/女水滸伝 十五編 笠亭仙果編次(歌川国貞画) 
 嘉永七年(1855年)乙卯春新刻 東都両国大黒屋平吉梓
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馬琴・西遊記/金毘羅舩利生纜(コンピラフネリショウノトモヅナ) 初編(上) 曲亭馬琴作

2017-02-27 09:17:49 | 金毘羅舩利生纜
                            ▼=改ページ、□=未解読
※利生(りしょうの)=利益、纜(ともづな)=もやい綱
登場人物========================================================

金比羅毎歳詣(こんぴらとしまいり)の行者 金野伍(きんのご)平(へい)太(た)
長堀橋の船宿金(こん)ひら野(の)屋の女児(むすめ) 阿柁(おかじ)
金比羅毎歳詣の行者 御神酒(おみき)講十郎(こうじゅうろう)

天地開□夫婦権輿(あめつちひらけしときいもせのはじまり)
陽尊神(おのみことかみ)  陰尊神(めのみことかみ)  火神軻遇突智(ひのかみかぐつち)

東方陽徳(とうほうゆうとく)の母神(おものかみ) 
西方陰徳(さいほういんとく)の師表(をしえのおや) 
神通不測(しんつうふしき) 天石折神(あめのいわさくのかみ)

役行者(えんのぎょうじゃ) 小角(しょうかく)
後鬼(ごき)の変相 山妻高峯(しづのめたかね) 
前鬼(ぜんき)の変相 樵夫陀羅介(きこりだらすけ)

==============================================================

疑わず、差(たが)うことなき、これを信という。
信が至って深きもの、これを深信(しんしん)という。
深信おこたりなき者は、禍(わざわい)をひるがえして福(さいわい)となすことあり。
さればその願いが成就せずということ無し。
あぁ深信の徳偉(とくおおい)なるかな。

賛曰(さんいわく) こころ直(なお)き獣なればや 山の名の象(さき)の頭(こうべ)に神宿るなり▼

千早振る神世の昔、火神迦具土(ひのかみかぐつち)が生まれた時、母の尊(みこと) 伊耶那美(いざなみ)は焼かれて神去(かんさ)りたまいしかば、伊耶那岐尊(いざなぎのかみ)怒って迦具土(かぐつち)を斬りたまう。
今、火を鑽(き)って薪に移し、また婦女子の月経(つきのさわり)を火が悪しというもこれ縁故(ことのもと)なるべし。

賛曰、吾妹子(わきもこ)の月のさわりを火という、始めはかくや 迦具土の母▼

火の神迦具土が斬られた時、凝血(これがちしお)は石となり、その石の中より一箇(ひとはしら)の神が化生(なりいで)たまう。これを石折(いわさく)(岩裂)の神という。仏教でいう金比羅天王また金比羅天童子、本地不動(ほんちふどう)は、この神によく似たり。それ然(しか)らんか。然らんか。

賛曰、百伝う磐石(いわお)の卵生出(なりいで)て、動きなき世を守りこそすれ▼

小角(しょうかく)は加茂役公氏(かもえんのきみうじ)で、大和葛城郡卯原村(うはらむら)の人なり。三十二歳で葛城山に分け入って、松子(まつのみ)を食とし、藤葛(ふじかずら)を衣とす。よく孔雀明王の呪文を持して、飛行自在を得たり。一日(あるとき)山神(やまのかみ)をして金峯山(きんぷせん)に石橋を造らせるが、速(すみやか)ならざるを怒って、一言主(ひとことぬし)の神を呪縛(いましめ)たり。また常に小角に使役する二童鬼(ふたりのおにわらわ)あり。その中の前童鬼(ぜんどうき)は男なり、妙童鬼(みょうどうき)は女なり。またこれらを前鬼、後鬼という。この鬼は大和の生駒嶽(いこまだけ)に住めり。後に小角に捕(とらわ)れて大峯に置(おか)れる。その後に寺を建て、鬼取寺(おにとりじ)と名づけたり。いだし小角はその名なり。世の人は役行者(えんのぎょうじゃ)と唱う。天性至高(てんせいしこう)なれば、その母を鉢に載せて、渡□(とたう)せしといい伝う。これ我が国の大神仙(だいしんせん)、後世(こうせい)には諡(おくりな)を賜って、神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)と称せられる。

賛曰、葛城や高間の山を踏み分けて 入りにし君が後の白雲▼

==========================================================

昔々、江戸の片ほとりに金野伍平太(きんのごへいた)という知ったかぶりの男あり。
金比羅の信者で暇のある身なれば、たえず大阪へおもむいて長堀橋の金ひら野屋という船宿から船に乗り、讃岐の象頭山(ぞうずさん)へ詣でる回数は既に三十三度に及んだ。
その頃、京都の片ほとりに御神酒講十郎(おみきこうじゅうろう)という者あり。
これも劣らぬ金比羅の信者なれば毎年のように長堀橋の同じ船宿より乗り合いして金比羅へ詣でるので、いつとなく伍平太と心安くうち語らうようになった。
この度の参詣は船中に追い手(おいて/追い風)が稀(まれ)にして、船掛り(ふなかかり/停泊)に日を経ると皆は退屈に耐えざりけり。その時、講十郎がふと言うには、
「さても、金比羅大権現の御利益は世がこぞって知るところで申すもなかなか愚かなり。しかれども、その本地垂迹(ほんじすいじゃく)は如何(いか)なる神で、如何なる仏と定かにこれを言う者はまれなり。まして当山の開闢(かいびゃく)もいずれの年にいずれの聖(ひじり)が開かれたかを定かに言う者は聞いたこともなし。金野氏は物知りで、しかも信心浅からねば、きっと事の事情を詳しく御承知の事なるべし。船中の眠り覚ましに、あの神の本地垂迹、また開山の霊験奇特を物語りして聞かせたまえ。事の始めは如何なるか。お聞かせくだされ」と言う言葉に乗り合いの人は皆こぞって小膝を進めて、
「これは真(まこと)に尊い事なり。我らも聴聞(ちょうもん)つかまつらん、さぁさぁ語りたまわずや」とすすめけり。されば金野伍平太は乗り合いの人々におだてられ、知ったかぶりの癖なれば、いなふねならぬ金比羅船の客の間におし直り、□兜羅綿(とろめん)の紙入れの隅を裏へと折烏帽子(おりえぼし)、さらしの襦袢を引き脱いで、前より着たほやうえのこじつけ、講十郎は心得て船荷を引き出し高座をこしらえ、恐れず臆せず伍平太はゆったりとよじ登り、扇をばちばち咳払い、こりゃ、聞き事じゃと諸人は押し合いへし合い取り巻いて耳をすませて聴聞す。
その時金野伍平太は扇を笏(しゃく)に膝組み直し、
「さても金比羅大権現の縁起、根本、霊験、利生のあらましを凡夫のつたない我の口から申すは恐れ多い事。言わんや、また幾千歳(せんざい)の昔の事、人の嘘は我が嘘にて、伝え誤り聞き違えて神仏(かみほとけ)を□ひなるは要無き業(わざ)でござれども、それも善行、方便で、凡夫のしゃくをまさせん為なれば、しばらく虚実はさて置いて、我が予て伝え聞いたそのあらましを講じましょう。□□」と咳払い、長物語りの序が開き、皆は興をもよおしける。

○そもそも金比羅の神号(しんごう)は、増一阿含経(ぞういちあごんきょう)、宝積経(ほうしゃくきょう)、天台妙文句、金比羅天童子経こうに見え、王舎城(おうしゃじょう)を祀(まつ)りたまう諸天、夜叉の善神(ぜんしん)なり。▼金比羅とはゐによ主と申すに同じ。言う心はこの神の威勢(いせい)通力(つうりき)、例えば世の中の天子、将軍、萬(よろず)に自在を得たまうが如し。よってこれをゐによ王と言う。ゐによ王はすなわち金比羅なり。昔、釈尊が王舎城に居られし時、提婆達多(だいばだった)と言う大悪□□長さ三丈広さ一丈六尺ばかりの大石で打ちひしぎ奉らんとした時に、その山の神の金比羅王がその石を受け止めたことは宝積経のてんじゆ□品、また天台妙文句にも見えたり。
今、この事を例えて言えば、昔、石橋山のほとりで股野五郎景久(またのごろうかげひさ)が頼朝卿を討とうとして、一抱(ひとかか)えにも余る大石を投げ落とした時に真田の与市義定(よしさだ)が受け止めたのにさも似たり。股野の心は大悪(おおあく)で提婆達多に異ならず、真田の忠義と力量は金比羅王の功徳に等しい。これはこれ仏説の趣旨を申すのみ。また和漢三才図絵では金比羅は須佐之男(すさのお)の尊(みこと)だと言い、また三輪大御神だとも言えり。あるいは今、山彦の尊などと申す者もある。□いづれも正(まさ)しき証文は無けれども、象頭山に神職あれば仏説によって、これは我が国の神には非(あら)ずと一向(ひとむ)きには言い難し。かかれば神仏両部の神なり。それがしが予てより伝え聞いた事には、この御神には名号(みょうごう)多く、仏説ではへ□らと言い金比羅と言い、ぐへいらと言い、また宮毘羅神(くびらしん)とも言えり。また神道にて言う時は、天(あめ)の石折(いわさく)の神、すなわちこれなり。例えば牛頭天王(ごずてんのう)と須佐之男の尊のごとくに石折の神と金比羅とその名号は異なれども、祀(まつ)る所は同じかるべし。
さて、これまでは物語の大意なればまじめなり。これより岩裂(いわさき/石折)の神の始めを申すべし。
昔々、神の世で火の神の迦具土の御母は伊耶那美(いざなみ)の尊なり。火の神が生まれた時に御母の尊がその火に焼かれて遂に神去りたまいしかば、御父伊耶那岐の尊は怒って、迦具土を斬りたまう。その血潮は凝り固まりて遂に二つの石となった。伊耶那岐の尊は見そなわして、この石をここらに置くべからずと遙か遠くに投げ捨てたまうと、一つの石は讃岐(さぬき)に落ちて、たちまち一座の山となった。今の象頭山はすなわちこれなり。もう一つの石は西の方(かた)の十万里を飛び行って、無辺無量(むへんむりょう)という国の方便山(ほうべんさん)にとどまりける。この石の高さは三丈六尺、回り(めぐり)は二丈四尺で石の肌に自(おの)ずから黄金のめさの形が現れて金色に輝けば、鳥獣(とりけだもの)も触れ汚さず、雪霜も石の上にはいささかも積もらざりけり。いわゆる無辺無量国の金幣石(きんへいせき)これなるべし。この石は方便山に落ちとどまって、後(のち)に幾万年を経たれば、既にして大山と地神いづれの御時にや、ある日おのずから二つに裂けて石の内より一柱の荒神が化生(なりいで)たまいけり。これを岩裂(いわさく)の神と言い、また天の岩裂の神とも言った。その形は人にして▼面(おもて)の色は朱の如く、その鼻はいと高くて鼻の先が尖って、さながら鳥のくちばしに似たり。かつ手を上げれば羽根となって大空をも飛行し、足を上げれば筏(いかだ)となって大海(たいかい)をも渡るべし。されども生まれたままで、まだ神□(しん□)を得てなければ、羽根あれども高くは飛べず、例えばあひろの溝に遊んで遠く飛び去り難きに似たり。かくて岩裂の荒神は石の内よりなりいでて、谷川で身を濯(そそ)ぎつつ天地四方を拝すると身の内が光り輝いて、例えば黄金の砂(いさご)の浜に朝日が照らすに異ならず、その光りが天地に通って大千世界を照らしけり。
この時、天(あめ)の若宮で天照大神(あまてらすおおみかみ)が遙かに下界を御覧じて、驚いて思兼の神(おもいかねのかみ)に問われるには、
「ただ今、西の方で怪しい光が世界を照らせり。何にかあらん」と宣(のたま)えば、思兼の神は承って、しばらく眺めてにっこり微笑み、
「さまでの事も候わず。かれはこれ、その昔に迦具土が斬られた時、その血潮が石となって、しかじかの国にあり。その石が自ずから二つに裂けて岩裂の神が出現せり。今、西の方に怪しい光が候うは、かの神の身より出て照り輝かすにて候」と事もなげに申せば、天照大神はうなずいて、
「さもありなん、さもありなん。籠(こも)るものは出(いづ)ることあり。孕(はら)めるものは生まれる事あり。天の精気の地に下ってく形を成さずと言う事なし。▼その精気がことに優れて清い者は神で、濁れる者は鳥獣となる。また歩むに足らず」と再び問わせたまう事なし。さる程に岩裂の神の荒神は水を飲み、木の実を食し、藤葛(ふじかずら)を衣とし、谷に下り峰に上って幾年月を経るままに、身より照らす金色の光は遂に失せにけり。
さればこの山にありとある夜叉天狗(やしゃてんぐ)のみを友として終日(ひねもす)遊び暮らす程に、山の半ばに大滝あり。岩走る音が遠く響いて幾引きの白根を掛け渡したに異ならず。しかもこの滝壺より金色の光が立ち上って中空にひいる事が時として絶えざれば黄金の滝と名付けたり。
かかりし程に天狗共はある日、岩裂の神と共にくだんの滝のほとりで遊んで、立ち上る気を仰ぎ見つつ、
「我々は飛行自在なれども水の底に入ることかなわず。この滝壺の底にこそ得難き宝がありもやせん。滝にもせよ、水底を見極める者があれば我らの主君と仰ぐべし」という言葉が終わる前に岩裂の神が進み出て、「我、この底を見極めん。どれどれ」と言いながら、そのままざぶんと飛び込めば、夜叉天狗らは驚きあきれて、
「哀れ、要(えう)なき我慢なり。滝より先にその身は砕けて再び帰る瀬はあらじ。哀れむべし、哀れむべし」と言わぬ者は無かりける。さる程に岩裂は滝壺に入るといえども思いの外に身は濡れず、底はいと広くしていささかも水なくて、別(べち)に一つの世界に似たり。足に任せて行く程に、果たして一宇の高殿あって、威如天堂(いにょてんどう)という扁額(へんがく)を掲げたり。その高殿の様子は黄金を延べて柱とし、錦を重ねて筵(むしろ)とす。綺麗、壮観、中々に言葉には述べ尽くし難し。しかのみならずこの所には耕さずして五穀あり、年中萎まぬ花もあり、木の実、草の実、様々の物が乏しからねば、岩裂の神は喜んでまた滝壺より躍(おど)り出て、夜叉天狗らにしかじかと事の様子を告げ知らせ、相伴って始めのように水底に入れば、天狗どもはいよいよ呆れて喜ぶ事も大方ならず、これより岩裂を威如大王と尊(とうと)んで、眷属となって仕え、昼は方便山で遊んで、夜は天堂に帰って眠る。されば山彦、山の神、山姫、山姥(やまうば)に至るまで岩裂の神の通力に恐れて、媚び従わぬ者はなく、ある時はしやくをとり、ある時は舞い歌って酒宴の興を添えにけり。
かくてまた幾千歳を経る程に、楽しみ尽きて悲しみ来たる。その日も遊興たけなわなりしが岩裂の神は何をか思いけん、只いさめいさめと泣けば、夜叉天狗どもは驚いて、「こは何事がおわしまして、かくまで楽しき酒宴の席にて嘆きたまうや」と問われて岩裂は、
「さればとよ、我には父も母もなく、この国に成りいでてから幾千歳の月日を経たり。命長きに似たれ共、およそ形のあるものは各々(おのおの)の齢(よわい)に限りあり。一朝にして命終われば▼今の楽しみも皆夢なり。言わんや、またこの国は物乏しきにあらねども、我が輩(ともがら)以外に他に住む人はなし。四方僅かに百余里の此の所のみで天地の広さを知ること無いは、これ井の中の蛙に等し。今は国々にその道開けて天竺(てんじく)には仏の教えあり。また唐土(もろこし)には儒の教えあり、道家の教えもありと聞く。また日本は四大部州(よんだいぶしゅう)かみにあり、例えば人の頭(こうべ)のごとし。ことに目出度き国なれば神の教えのいと尊く、今人王の世になっては儒仏道家の教えも伝えて人多く国富めりとほのかに伝え聞ける事あり。いでや只今門出(かどいで)して、かの国々を経巡って神儒仏の教えは更なり、かの仙術に長けたる者、天地と共に尽きる事なく齢(よわい)を保つ人があれば、我はその師に従って学ぼうと思うのみ。さなくて命終わる時は後悔そこに絶ち難し。我は飛行の術があり、船筏を用いずに海のほかに遊ぶべし。汝らはいよいよ心を合わせて国を守って怠ることなく我が帰る日を待つべし」とて、ねんごろに別れを告げて、早端近(はしちか)く立ち出て、両手を開くと左右の腕(かいな)が羽根となり、雲をしのぎてひらひらと飛ぶ鳥よりも速(すみ)やかに舞い登りてぞ失せにける。
○さる程に、岩裂の神威如王はまず天竺に渡り、また唐土に赴いて国々の教えを見るが未だ心にかなわねば、なおも東に渡って日本国に赴いて、その風俗を見ると、聞きしに勝る上国(じょうこく)で君臣男女(くんしんだんじょ)の礼儀は正しく、天地(あめつち)開け始めし時より百王一姓で、天津日嗣(あまつひつぎ)たまる事なく万民は富み栄え、国に逆賊ある事もなし。その国は東の果てにあって大国にはあらねども、実(げ)に万国の神(かみ)たること、人の頭は小さけれども五体の神にあるが如し。かつ人の心が素直なのは神の教えを守ればなり。未来を恐れて施しを好むのは仏の教えを尊めばなり。かかる目出度き国にこそ天地と共に滅ばない神仙はあると、あちこちの人に問うと
「大和の国の葛城山に役(えん)の君小角と言う仙人あり。常に五色の雲に乗って仙郷(せんきょう)に往来し、よく孔雀明王の呪文を唱えて、神をも戒め鬼をも仕(つか)う。三十二才の時に山に入って仙術を得た後に、その母を鉢の内に乗せて唐土(もろこし)に赴いた事さえありと予て聞けども、その齢は幾百才か幾千歳になるやらん、確かに知る者はなし」とそのあらましを告げれば、岩裂の神は喜んで大和の国に赴いて、既に早くも葛城山のふけこにして日は暮れたり。その時に裾野の茅(ちがや)の中より賊の男(しずのお)、賊の女(しずのめ)が走り出て、その賊の男は鉞(まさかり)を振りひらめかし、その賊の女は利鎌(とがま)を持って挟んで討たんとするのを岩裂は早く身をかわし、両方等しく受けとどめ、「こは狼藉なり、何者ぞ」と問うと二人は言葉を揃えて
「我らの事を問わんより早く汝の名を告げて、この二振りの刃(やいば)を受けよ。汝の衣装、身の回りは旅人に似たれども怪しき曲者(くせもの)なる由は天眼通(てんがんつう)をもて知れり。我々を誰と思う。▼役の小角に仕え奉る木こり陀羅介(だらすけ)、賊の女高峯(たかね)と知らざるや。小角の命を受けて夜な夜な山の麓を守るに、怪しき奴と知りながらいかでかここを通すべき、観念せよ」と罵るを岩裂は聞きつつうなずいて、
「さてはこの頃この国の人の噂に聞き及ぶは、生駒が嶽の山の神、男は前鬼、女は後鬼。陀羅介、高峯と仮初めにその名を変えて小角に仕える者共よな。我も小角仙人の徳を慕い術を慕って、師弟の因み(ちなみ)を結ぶために十万余里の西の果ての無量無辺国より遙々と渡り来た岩裂の威如王と言う者なり。我はいささかも野心なし。願わくばこれらの由を小角仙人に告げたまえ、只見参(けんざん)を願うのみ」と他事もなく頼めば陀羅介、高峯はようやく疑い解けて、そのまま岩裂のために導(しるべ)をしつつ、葛城山によじ登り、小角の岩室に相伴って、しかじかと事の由を申せば、小角は拒む気色なく岩裂の神に対面して、その事の来歴と素性を詳しく尋ねけり。
役の君小角が入門の者を呼び入れて来歴、素性を問えば、岩裂の神は答えて、
「それがしは西牛賀州(さいぎゅうがしゅう)の海の外(ほか)の無量無辺という国の方便山のほとりの者で、父もなく母もなし。金幣石と言う石の内より産まれたれば、自らその名を岩裂と言う。我が国の輩は尊んで岩裂の威如大王と称するなり。萬(よろず)に不足無き身なれども、およそ形あるものは死に失せずという事なし。しかれども世に神仙というものあり、形をねり、せいを養い天地と共にその命限りなしと伝え聞く、もしかかる人があらば我が師として教えを受け、不死の術を学ばんために四大部州(しだいぶしゅう)を遍歴したが、これぞと思う師に会わず。しかるに聖(ひじり)は世に伝え聞く神仙で、その術高く、その徳高しと告げる者あるにより遙々と推参致したり。願わくば不死の術を教えたまえ」と言う程に、小角は袖の内にて占いつつ、うなずいて、
「我は早くも御事(おこと/お前)の素性を知りぬ。いかでか父母が無からんや。御事が父はこれ火なり、御事が母はこれ石なり。御事を育てし者は西の土地、西を五行に象(かたど)る時はすわち金なるを▼知らずや。金石(きんせき)は撃(げき)して火を生ず、これ御事が産まれる由縁、父母なしと言うべからず。しかれども産まれて死なぬ者はなし。我が国神仙の神々ですら命に限りあればこそ根の国へ帰らせたまいぬ。しかれどもその荒御魂(あらみたま)は今もこの国を守りたまえば、死して滅びざる。これを名付けて神と言う。仏もまたこれに等しく、釈尊と申せどもその寿命に限りあり涅槃(ねはん)の室に入りたまえども、その教えは尽きる時なく、一切衆生(いっさいしゅじょう)を救わせたまう。これもまた死して滅びず術のいたれる由縁なり。しかれどもこれらの事は一朝には諭し難く、また一朝には悟り難し。今より我に従って務め学べば、後遂(のちつい)にその冥応(みょうおう)を知る事あらん。今日より御事の法名を岩裂の迦毘羅(かびら)と呼ばん。学寮に退いて兄弟子たちと諸共によくよく学びたまえ」とそのまま山にとどめられる。
○さる程に、岩裂の迦毘羅は役の行者の教えその□にかなって、さもあるべしと思えばこれより心を傾けて、師に仕えること昼夜をいとわず、下□の□橋に黄石公(こうせきこう)の靴を取った張良もこれにまさらじと見えれば、小角もまた深く愛して神しゅくの妙計をいささかも惜しむ事なく法術、呪文を教えると、一を聞いて十を知る、その才もまた優れたり。かねて飛行、通力あるが、今また形を変じて姿を隠し、雲を呼び風を起こす術を習い得れば、迦毘羅坊は密かに喜び、今は早天地の間に我に及ぶ者なしと思えり。かくてある日、迦毘羅坊は相弟子の山伏五七人と共に岩室を発ち出てあちこちと眺め渡すと、山伏らが皆で言う様、
「和主は行者に従ってまだ十年にも及ばねども、師の心に適(かな)った故か、我らに教えられぬ事をもそこには習い得たりと思う。何なりともおもろ奇術を施して見せたまえ、いざいざ」とそそのかせば、迦毘羅坊は予てより術に誇る心があり、今思わずも山伏らの所望に否む気色なく、「そはいと易き事なり」としばらく呪文を唱えれば、何処(いずこ)ともなく一羽の鶴が忽然と舞い降りて、迦毘羅を乗せて空中へひらめき上ると不思議なるかな迦毘羅の姿はあでやかな遊女となって、内掛け捌(さば)きもしなやかに鶴の背中に座を占めて、手に長文(ながふみ)を繰り返し繰り返しつつ読む様は▼花の顔ばせ月の眉(まゆ)に□ひこぼれる愛嬌に一度(ひとたび)笑めば、国を傾け城を傾けるとうたわれた唐土(もろこし)の李夫人(りふじん)なりともこれにいかでか及ばんやと山伏らは皆我を忘れて見とれるもあり、誉めるもあってしばらくなりは静まらず。この時、役の小角は室の戸の方で人々が笑い興(きゃう)ずるのは何事やらんといぶかって、自ら立ち出て見たまうと岩裂の迦毘羅坊の仙術で遊んで人々笑い興ずるなり。こは浅ましと思いつつ、なおも木陰に立ち隠れ、事の様子をうかがうと迦毘羅坊は師の行者が立ちいでたまうと早知って、たちまち術を収めて元の姿になりにけり。その時ようやく山伏らは行者が垣間見たまうを知って、ついで悪し事とひそめいて、皆学寮へと退けば迦毘羅坊も続いて帰り入らんとするのを小角は急に呼びとどめ、木陰を出て形を改め、
「我は始めより御事の素性が人間の種ならずと言うが故に、抜きん出て教え導いたが、何ぞや術を弄(もてあそ)び相弟子らに誇りたる。既に御事が行うところ、世に麗しき(うるわしき)美女に変じて凡夫の眼(まなこ)をたぶらかすのは外道の幻術にて正ぼう□あえば必ず破られる。もし疑えば試みに姿を変じて見せよかし。我がその術を破り得ずば、我は今より改めて、御事の弟子になるべきなり。再び術を施さずや、さぁさぁ見せよ」と急がすと迦毘羅坊は行者の怒りに上辺ばかりは恐れ入る面持ちはすれども心の内に思う様、
「・・・・・・・昔より弟子としてその師に勝る者が無きにあらず。我が術は既に成就したれば行者というとも何ぞ及ばん。この折りに小角をかえって我が弟子にすれば快(こころよ)き事なるべし」と腹の内に思案をしつつ、
「□まことに逃れる道なし。しからば術を施して御笑いに備えまつらん。いざ御覧ぜよ」と言いながら、たちまち口に呪文を唱えて姿を変ぜんとすれども術を行うこと得ならず、こはいかにと驚き怒り、かつ恥じて憤りに耐えざれば、遂に小角を害せんと思う心あり。
さるにより迦毘羅坊はその夜、小角の臥所に(ふしど)に忍び近づいて、刃を抜いてぐさっと刺すがはや空蝉(うつせみ)のもぬけにして小角は臥所にあらず。こはいかにと驚き慌てて走り去らんとする程に、何処(いづこ)ともなく吹き入る山風さっと下ろし、身を切るごとくに思えしが、不思議なるかな、迦毘羅坊の五体はにわかに発熱して身を焼く如くもんらんしつつ、あっと叫んで倒れけり。
かかりし程に役の行者は行衣(ぎょうえ)の上に玉襷(たまたすき)して、しずしずと現れ出て、
「如何(いか)に迦毘羅坊。我は予てじゆうに入りて御事は火の神迦具土の子なる由をよく知れり。火は風を得て熾(おこ)るものなり。故に今、風かく神尊(ふうかくしんそん)の呪文をもって風を熾しつつ、前世の業因(ごういん)▼しかじかと明らかに悟らせる。早く野心をひるがえし、故郷に帰って時を待ち、只世の為、人の為に悪魔外道を退治して大善神と仰がれよ。さる時はそれがしもいかでか御事に及ぶべき。忘れても今日の如くに術をもてあそび、人に誇ればこれ身を失う仲立ちなり。我が戒めはここにあり。今は早これまでなり。速(すみ)やかに下山して元の国へ帰るべし。さぁさぁ」と急がしたてて再び呪文を唱えれば、迦毘羅坊の身より出る妙火(みょうか)は消えて跡もなくたちまち我に返りけり。
ここに至って迦毘羅坊は行者の威力(いりき)に感服し、初めて夢が覚めたるごとく、身の過ちを懺悔して衆生利益(しゅじょうりやく)の為にして、悪魔退治の折ならずは術を施さずと誓いをたてて詫びれば、小角はしばしば戒めて、
「御事の形術(ぎょうじゅつ)は大千世界に敵無きに似たれども、我には敵し難きがごとくに漫(そぞ)ろに敵を侮(あなど)る者は小敵にも謀(はか)られやすし。されば無辺無量国ではかの夜叉天狗などが皆御事を尊んで、よく仕えると言うといえども、もし一旦、事に触れて背く者がある時は密かに害せんとこそ謀るべけれ。その外心(がいしん)を防がんには風かく(ふうかく)の呪文に増すものなし。彼らが怒らんとする時に早くその術を唱えれば、夜叉天狗らの身の内より妙火がたちまち燃えいでて、その身を焼かれてもんらんせん。かれば、彼らを従えて長く背かざらしむべき。この呪文をもって餞(はなむけ)とせん。よくよく心得たまえ」とねんごろに説き諭して、くだんの呪文を授ければ、迦毘羅はますます喜び、行者を拝して別れを告げ、そのまま雲にうち乗って、西を指してぞ飛び去りける。
されば天狗道の苦しみで、日に三度夜に三度、身より出(いず)る火に焼かれ五体を焦がすと今の世に語り継ぎ言い伝えるのは迦毘羅坊の餞別に役の行者が授けた呪文の故なるべし。
○さる程に、岩裂の迦毘羅坊は神変自在の通力で早くも無辺無量国の方便山に着ければ、やがて雲より下り立って、部類眷属(ぶるいけんぞく)を呼び集めると六万八千の夜叉天狗どもがあちこちより集い来て、或いは喜び、或いは嘆いて、皆諸共に告げる様、
「大王、何故に遅かりし。物学びの為に仮初めに旅立ちたまいしより既に七八年を経たり。しかるに近頃これより遙か北の方に黒暗魔王(こくあんまおう)と言う者あり。彼は我が王が此の所におわしまさぬをうかがい知り、この山を奪い取り、威如天堂を横領せんと数万の悪魔を従えつつ、時となく押し寄せ来て、攻め討つこと大方ならず。我々ずいぶん▼手を尽くして防ぎ戦いしが、大王の身の丈は一丈六尺、しかも三つの頭(こうべ)あり左右の腕(かいな)は六本あり。その二つの手は弓を引き、また二つの手は鉾(ほこ)を回し、一つの手は棒を使う。相従う悪魔どもさえ一人当千の手並みあれば勝ちを取ること叶い難くて、討たれたる者も少なからず、もし重ねて押し寄せ来るを如何にして防ぐべき、枕を並べて討ち死にせんか、また和睦して此の山を譲り渡して大王が帰られるを待って恨みを返さんかと評議まちまちに候」と大息ついて物語るのを迦毘羅坊は聞きながら、
「そは易からぬ事にこそ、□□□□□□□□□□□□□」と問われて皆々頭(こうべ)をかき、「奴らが来る時は霧を起こし、帰る時は雲に乗り、所を指して飛び行くのみ。住みかは知らず候」と言えば迦毘羅はうなずいて、
「汝ら、心を安くせよ。我がその大王をうち殺して首取って土産に得させん。しばらく待て」と言いかけて、ひらりと雲にうち乗って、天眼通で所の方を遠く遙かに見渡すと、ここをさること千余里にして黒暗州(こくあんしゅう)という一つの島あり。その地は魔王の住みかにして、山をうがちて城となし、岩をたたみて塀(へい)となし、数多(あまた)の悪魔が籠もり居たり。迦毘羅は早くも見定めて、通力でその所へまたたく間に赴いて、門戸を守る悪魔らに向かい、
「我は無辺無量国の威如天堂の主にして岩裂の迦毘羅神威如大王という者なり。汝らが主と頼む魔王に対面するために自らここに来臨せり。さぁこの由を通達せよ」と言うと外道らは驚き騒いで魔王にかくと告げ知らせれば、魔王は聞いてあざ笑い、
「奴は身に鎧(よろい)も付けず手に弓矢も携(たずさ)えず、身一つにして来たるは自らその死をおくるなり。今、目(ま)の当たりにうち殺して、手並みの程を見せん」と例の打ち物を取り揃え、ゆうゆうとゆるぎで、
「汝は命に掛け替え▼あるのか、我に会わんと一人で来るは身の程知らぬ痴れ者(しれもの)なり。言う事あれば早く言え、望みに任せて素頭(すこうべ)引き千切って得させん」と罵(ののし)る声は木霊(こだま)に響いて、くわっとにらんだ六つの眼(まなこ)は闇の星かと疑われる。迦毘羅はこれを聞きながら、
「憎っくき外道の似非(えせ)広言(こうげん)。汝は我の留守をうかがって、我が眷属を攻め悩ませし報(むく)いが早く来たのを知らずや。観念せよ」と詰め寄せたり。
その時魔王はますます猛(たけ)って、やみやけんがき黒金(くろがね/鉄)の棒を隙間もなくうち振りうち振り、まっしぐらに馳せ向かえば、従う悪魔は数を尽くして、おっとりこめて討たんとす。されども迦毘羅は少しも騒がず一人(いちにん)まんえい分身の呪文を口に唱え、乳脇(ちちわき)の下の小羽根を抜いて、ふんふんと吹きかければ、その羽根は幾百□の迦毘羅坊の姿に変じて、支(ささ)える敵を攻め伏せ攻め伏せ、その手の悪魔を一人も残さず斬り倒して踏み殺せば、黒暗魔王は驚き慌てて逃げんとするのを逃がしもやらず大喝一声(だいかついっせい)、迦毘羅坊があびせかけた刃(やいば)の稲妻、もろくも魔王の三つの首は、只一ト討ちに斬り落とされて、骸(むくろ)も共に倒れけり■

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
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馬琴・西遊記/金毘羅舩利生纜 初編(下)曲亭馬琴作

2017-02-27 09:17:31 | 金毘羅舩利生纜
※宮毘羅(金毘羅童子、宮比羅)くびら・こんぴら 十二神将の亥神 本地:弥勒菩薩

かくて岩裂の迦毘羅坊は黒暗魔王の首を引き下げて、雲にひらりと乗って飛行自在のいつとくは、またたく間に無量国の方便山へ帰って、魔王を始め数多の悪魔を討ち平らげた事を手に取るごとく告げ知らせ、その首を見せると六万八千の天狗どもの誰が喜ばざる者あらん、かつかすかつを吹いて、かの天堂へかしずき入れて、やがて酒宴をすすめける。
その時迦毘羅は一座を見渡し、
「各々(おのおの)何と思うやらん。此の所は離れ島で浮き世に遠く隣国が絶えて無きには似たれども、数千里を隔てた黒暗州の魔王すら我が天堂を奪わんと、先に押し寄せ来るにあらずや。しかれば今更、仇(あだ)する者が無くても油断すべからずと言えども、汝らはここに一振りの太刀もなく、手に一丁の弓矢も持たずに木太刀(こだち)、竹槍で仇(かたき)に向かって勝つ事あらんや。我はこの事を思うに、黒暗州で悪魔らの刃(やいば)をぶん取ればとこれかれと選べども、よろしき切れ物が絶えて無ければ、一つも取らず立ち帰れり。これらの用意を聞かまほし」と問われて、実(げ)にもと思うのみで誰とて所存を言う者なし。
その中に第一の眷属の太郎坊という天狗が進み出て、
「大王、お知り召されずや。▲此の所より北の方五千八百里に一つの国あり。器械国(きかいこく)と名付けたり。此の国の鉄(くろがね)は余の国に勝って、鉄(くろがね)の切れ味、類(たぐい)なし。よってその国の王たちは、剣(つるぎ)は言うに及ばず、弓矢、鉾、槍、鎧兜(よろいかぶと)を幾万と作らせて蓄え置くと伝え聞く。只その道は遠くして奪い取ることは叶い難し」と言うと迦毘羅はうなづいて、
「我もまた予てより機械国の事を聞きしが、事に紛れて忘れたり。海山万里を隔てるとも何程の事があらん。されば彼処(かしこ)へ赴いて、武具を奪って立ち帰らん。しばらく待て」と言いながら端近くたち出てひらりと雲にうち乗り北を指して飛び去りける。
さる程に迦毘羅坊は通力自在の事なれば、ただ一時(ひととき)に五六里の海山を飛行して、機械国に来て見れば聞きしに違わずその王城(みやこ)に数多の武具蔵を建て連(つら)ね、太刀、剣(つるぎ)、鉾(ほこ)、鎧(よろい)を数限りなもなく蓄えたり。
その時、迦毘羅は心の中に謀り事(はかりごと)を思い起こして、しばらく雲より降りも下らず、手に[ばうごう]の印を結んで口に呪文を唱えれば、不思議なるかな▲その国の都の内に霧立ち上り、四方常闇(とこやみ)となり荒れ風さっとおとし来て、木を抜き砂(いさご)を飛ばせば、国王を始めとして誰かは驚き恐れざらん。およそ貴(たか)きも卑(いや)しきも、その家毎に門戸を閉じて出る者は一人もなし。その間に迦毘羅坊は静かに雲より降り立って、その通力でことごとく数多の倉を押し開き、武具を選んで引き出すが我が身一つで持ち運ぶ事は叶うべくもあらざれば、脇の下の小羽根を抜いて、呪文を唱えて吹き散らせば、たちまちに数万の迦毘羅と変じて、いくらともなき太刀、鎧を手に手に取って引き出して、各々の肩に掛けて方便山へと飛び去りけり。
既にして迦毘羅坊は黄金の滝のほとりにその武具を下ろさせて、山の様に積み重ね、小羽根を取って術を収め、元の一人になりし時、眷属の夜叉天狗どもがあちこちより集い来て、その通力に舌を巻き喜びいさんで天堂へ太刀も鎧も運び入れ、これより日毎に群を定めて、太刀を合わせ鉾を回して武芸の稽古も油断なく、いよいよ迦毘羅をおし尊んで、威如大王と唱えける。
その時迦毘羅は主だちたる眷属の中より選んで太郎坊、次郎坊、山水(やまみず)坊、木の葉坊という四人を大将として駆け引きを司らせ、事十分に整えども未だ心に飽き足らず、ある日その四人に言う様、
「我が眷属は武具に富んで敵を防ぐに足るといえども、我には未だ心に叶う武具はなし。昔、日本に在りし時、師の坊より賜った快刀の御腰(かいとうのみこし)を帯たり、そもそも刃は敵を討つとも一両人を斬るにすぎず、只一打ちに数多の敵を取りひしぐには棒こそ良けれ。伝え聞くとこの山の黄金の滝の水上は竜宮へ通じるといえり。竜宮城には世の中に得難き宝が数多あり、定めて他に作るべき最上の金(かね)なからずやは、我が竜宮へ赴いて鏨(たがね)を盗らんと思うなり。汝らは萬(よろず)に心を用いて留守をせよ」と示しつつ、その滝壺の水上へさかのぼり、流れを渡って千尋(ちひろ)の底を物ともせずに竜宮城へ赴きける。
時に東門を守る水母(くらげ)の次官(じかん)、栄螺(さざえ)の衛士らが迦毘羅坊を見て大きく驚き、その来歴を尋ねれば迦毘羅坊は間近く進み向かって、
「我はこの竜宮とは隣国の無辺無量国の主にて▲岩裂の迦毘羅尊、威如大王と言う者なり。竜王に対面せんと自らここへ来た由をさぁさぁ伝えて案内せよ。早く早く」と急がせば、水母、栄螺は驚きあわてて、そのまま内へ走り入り、やがて事の事情(おもむき)をしかじかと申すと東海竜王は眉をひそめて、
「予てよりほのかに聞く岩裂の迦毘羅坊は神変不思議の曲者(くせもの)なり。彼は何の所望あって、この所へは来つるやらん。対面せでは叶わじ」とにわかに装束を整えて、鯛の宰相、ボラの納言(なごん)、ブリの中将、鯉の左大げんらを従えて、昇殿(しょうでん)に迎え入れ、上座(かみくら)に招いて事の心を問えば迦毘羅坊は膝を進めて、
「それがしはこの頃手にかなう武具を作らんと思えども、未だよろしき鏨(たがね)を得ず。此の竜宮には良き武具が数多あらんや。一振りを我に贈りたまえ」と言われて竜王は小首を傾け、「たまたまの所望なれども左様な物はたえて無し」、迦毘羅はそれを聞いて眼(まなこ)を怒らせ、
「竜王、何で一振りの武具をかくも惜しんで、たえて無しと言われるか。よしよしその義ならば我が自ら宝蔵を家探(やさが)しして選び盗って行かん。後悔すな」と罵りながら立ち上がらんとしたりける。迦毘羅坊の勢いあたり難ければ、竜王は慌てて押し止め、「客人、さのみ腹立てたまうな。宝蔵を詮索して良き物あらばたてまつらん。まずまずしばし待ちたまえ」ととどめて奥に走り入り、黄金造りの太刀一振りをうやうやしく携え来て迦毘羅坊に贈らんとす。
迦毘羅はこれを一目見て、此の太刀は真(まこと)に良しと言えども、我はこの武具を好まず、なおこの他に良き物あらんや。残らず出して見せたまえ」と言うと竜王ぢだいも得ならず、「しからば客人が自ら行って、心に叶うを選びたまえ。さぁさぁ」と言いながら先に立って案内すると、迦毘羅坊は宝蔵でこれかれと見てみるが鉾、弓の類(たぐい)など世に珍しい武具はあれども、それすら未だ心に叶わず、むなしく望みを失って退き出んとする時に、水門の傍(かたわ)らに苔(こけ)むしたる物が横たわり、半(なか)ばは砂(いさご)に埋(うず)もれて、是、鉄の柱に似たり。迦毘羅は目早くこれを見て、これは何ぞと指さし問えば、竜王は見て、
「さればとよ。▲そもそも黄金の柱は竜宮城の開闢(かいびゃく)の始めよりここにあり。いにしえ日の本(ひのもと)神世(かみよ)の時に、伊耶那岐、伊耶那美の二柱の神が数多の浮き橋にたたせたまいて、天の逆鉾(あまのさかほこ)を差し下ろし、下界を探らせたまいし折に、第一の滴(したた)りは凝り固まって国となり、その滴りの余れるは此の竜宮へ落ちとどまって、これらの物に成りたる由を聞き伝えてはあれども、その重き事、金輪際より生え抜いたごとくなれば、誰とて動かす事は叶わず、まして掘り取る事などは思いもよらず候」と答えれば迦毘羅はうなずいて、
「それこそ年頃に我が望む武具になるべき物なれ。どれどれ」と言いながら両手をかけて引き起こすと柱には非ずして、その丈およそ二丈ばかりのまさしく黄金の棒にして、自然と彫りなす十四の文字(もんじ)がその裏の方にあり。皆々等しくこれを見れば「神作如意金箍棒(しんさくのにょいきんこぼう)一万三千五百斤」と鮮(あざ)やかに読めれば、迦毘羅は大きに喜び、いと軽がるとうち振りうち振り秘術を尽くす棒の手に、見る目まばゆき黄金の光も辺りをはらう神通(しんつう)怪力(かいりき)、胸騒ぐばかりにて東海竜王がうがのうろくず(雑魚)は皆、舌を吐き肝を潰してえへるが如くに呆然たり。その時、迦毘羅が棒の手を止め小脇にかい込めば、不思議なるかな黄金の棒は迦毘羅の心に従って縮める時は短くなり、細くなること針の如く、その軽さは塵の如し。また引き伸ばせば元のごとくに二丈余りの棒となる。実(げ)に如意棒(にょいぼう)と言い、金箍(きんこ)と名付けし言われある事にこそとて迦毘羅は針の如くになりたる棒を耳に挟んで竜王に向かい、
「今、此の棒を得たれども、未だよろしき甲冑なし。とてものことに鎧兜(よろいかぶと)を選び出して贈りたまえ。しからずばいつまでも此の所に逗留せん。帰さんとも留めんとも竜王の心にあり。如何(いか)に如何に」とせりたてられて、竜王はしきりに頭(こうべ)を掻き、
「今更惜しむにあらねども、この所にはしかるべき鎧兜はたえてなし。西海(せいかい)、南海、北海の三竜王はそれがしの弟なり。彼らの元を詮索して奉るべきなり」とにわかに鐘を突き鳴らせば、その鐘は四方数千里に響き渡り、西海竜王、南海竜王、北海竜王は驚いて、またたく間に集い来て、迦毘羅の所望の由を聞き、心の内には憤りいと憎しと思えども、敵すべくもあらざれば、西海竜王は我が宝蔵よりしま黄金の兜を取り寄せ、北海竜王は水牛の皮で縅(おどし)た▲鎧を取り寄せ、南海竜王は海豹(あざらし)の革靴と小手脛当て(こてすねあて)さえ取り寄せて、ひとしく迦毘羅に贈れば、迦毘羅はこれを受け取って、鎧投げ掛け兜の緒を締め、耳の内に収めた黄金の棒を引き伸ばして、杖に付きつつ悠々と別れて古巣へ帰りけり。
これより迦毘羅の威勢は四面八方へ隠れなく、招かざれどもあちこちの山の主もおぢ恐れて、その手に付かんと願いけり。詳しき事は次ぎに見えたり。
されば岩裂の迦毘羅坊は竜宮城を騒がしつつも如意金箍の棒を得て、方便山に帰りしより威風いよいよ辺りをなびかせ、あちこちの山の主は数千里を遠しとせずに方便山に往来し、その手に付かんと願う者、白狼王(はくろうおう)と称するは、これも歳ふる熊の化けたるなり。また錦馬王(きんばおう)と称するは、その毛色が錦に似た鹿の化けたるなり。また巴蛇王(むじゃおう)と称するは、山に千年、海に千年、川に千年住んだ蟒蛇(うわばみ)の化けたるなり。この四人(よたり)の妖王どもは招かざるのに付き従って、迦毘羅は彼らを一方(いっぽう)の大将として、太郎坊、次郎坊、山水、木の葉の四大将とともに山の八方を守らせて、自分は如意天堂に起き臥して、酒宴遊興に日を送る時、ある日、酒に酔い伏してまどろんだ▲夢の中で五道の冥官(みょうかん)とおぼしき者が地獄の獄卒を従えて忽然と立ち現れ、
「いかに迦毘羅坊。汝の命数(めいすう)尽きたれば、閻魔王(えんまおう)が召されるなり。さぁさぁ参れ」と引き立てて、飛ぶが如くに馳せ去りけり。かくて五道の冥官は迦毘羅坊を引き立て来て、閻魔殿の前に額(ぬか)ずかせ押し据えて、この由をかくと聞こえ上げれば、冥府の主の閻魔大王はちやうぜんに出させたまいて、まず浄玻璃(じょうはり)の鏡に照らさせ、見る目嗅ぐ鼻で在りし世の罪の重さ軽さを考え、業の計りに掛けんとて、牛頭(ごず)馬頭(めず)の獄卒どもが迦毘羅の左右の手を取り引き立てんとする時に、迦毘羅は酒の酔い覚め、驚き怒って突っ立ち上がり、「こは何するぞ」と罵りながら、耳に挟んだ金箍の棒を引き伸ばし、かぶりて当たるを幸いになぎ倒せば、牛頭馬頭の獄卒らは肩をひしがれ、足をくじかれ、見る目嗅ぐ鼻は消し飛んで芝居の切り首見るごとく、「こは狼藉や」とばかりに右往左往に逃げ迷う。地獄の騒動大方ならず、実(げ)にその神通怪力(しんつうかいりき)に敵すべくもあらざれば、五道の冥官たちは声張り上げて、
「岩裂、聊爾(りょうじ/無礼)したまうな。およそ生きとし生けるものは終(つい)には死なずと言う事なし。その命が終わる時は冥土黄泉(めいどこうせん)に召される事、誰が一人も逃れるべき。疑わしくばこれを見て、その疑いを晴らしたまえ」と押し止めつつ、鉄の帳を開き差し出すのを見れば、真に我が名あり。無辺無量方便山の主岩裂の迦毘羅坊、何万何千何百何十年にして寿命終わると記されたり。それ見て迦毘羅はあざ笑い、
「世には同じ名の者が数多あり、例え十号(じゅうごう)限りありとも、我は仙術上手の者なり。いかでかおめおめ死して冥土の餓鬼となるべきや。詮術(せんすべ)あり」と筆取って、墨黒々と我が名を塗り消し、後先を開き見ると我が眷属の名も皆帳面に記しあれば、それらも残らず塗り消して閻魔王に向かい、
「我が輩(ともがら)は天地と共に寿命の尽き時無きに、物実(ものざね)と我らを呼べば閻魔でも▲十王でもその度は許し難し。汝の命に掛け替えなくば今日の手並みをお忘れなさるな」と息巻き猛くにらみつけ、筆を投げ捨てゆうゆうと帰ると思いしは、これうたた寝の夢なりけり。
されば迦毘羅は夢から覚めて、在りし地獄の有り様を眷属どもに物語れば、あるいは驚き、あるいは喜び、いよいよ迦毘羅の神通力の類無きをぞ感じける。
実(げ)にも夜叉天狗の類全て、幽冥(ゆうめい)につく者は、その寿命に限りなきにや。その死を知る由無き事は地獄の帳を塗り消した迦毘羅坊の業にして、その名の無きによれるなるべし。
○この時、日の若宮では天照大神(あまてらすおおみかみ)が遙か下界を御覧じて、天児屋尊(あまつこやねのみこと)に向かって、「近頃、西の方にあたって、いと騒がしく聞こえるのは何らの故ぞ」との勅問(ちょくもん)に児屋尊は頭を傾け、
「知るが□・・・・・・・・遙かに西にあたって、無辺無量という□山あり。その□山を領する者を岩裂の迦毘羅と言えり。彼は神通を得しままに、五月蠅(さばえ)なす悪しき神をいくらともなく招き集め、鉾を回し太刀を合わせ、また夜となく日となく酒宴して笑い興ずるその響(どよ)みが遙かに聞こえ候なり」と申す言葉も終わらぬ折から、
「海神(わだつみ)の主、東海竜王、その弟の南海竜王を日の若宮へ参らせて、岩裂の迦毘羅のために神さく如意の黄金の棒を奪い盗られし事のおもむき、また南海、北海、西海の竜王らも鎧、兜、革靴を是非なく渡せし事の由、彼の通力自在の次第を日の御神に訴え申して、願わくば臣等(しんら)のために天兵を向けられて迦毘羅坊を討ち滅ぼし、大千世界の災いを払わせたまえば、上も無き天恩ならん」と奏しける。
かかる所に黄泉路(よみじ)の国におわします▲伊耶那美の尊より黄泉醜女(よもつしこめ)を御使いとして、岩裂の迦毘羅坊が地獄の掟を破り、おのが名を記されし鉄の帳を塗り消したる体たらく、閻王の愁訴のおもむきは斯様斯様と訴えたまえば、日の神もいよいよ驚きたまいて、
「しからばその岩裂は捨て置き難き悪しき神なり。早く討っ手の神兵(かみいくさ)を差し向けて、その罪を正すべし。用意をせよ」と急がせたまえば天児屋の尊が申す様、
「岩裂の罪は逃れ難しと申せども、彼は始め迦具土の血潮にてなれる神なり。たとえ今その身は外国(ことくに)にあるにもせよ、これもまた日の本の神の胤(たね)には候わずや。さるを今一朝に討ち滅ぼさせたまわんことは御慈しみ浅きに似たり。早く勅使を使わして岩裂を召し上し、官職(くわんしょく)を授けたまえば、彼もまた天恩を感じて過ちを改めるべし。此の義はいかが」と諫(いさ)め申せば、日の神は実(げ)にもとうなずき、南海竜王、醜女らにしかじかと聞こえ知らせて、おのおのを本国へ帰させたまい、さて誰をか無辺無量国へ遣わすべきと勅問(ちょくもん)あるに児屋の尊はまた申す様、
「かばかりの御遣いに名だたる神たちを遣わしたまえば、返って事の破れとならん。昔、天稚彦(あめわかひこ)を召し返さんと頓使い(ひたづかい)にたてられつつ葦原(あしはら)の中つ国にて天稚彦(あめわかひこ)に射殺されし名なし雉の妻が女官となって、この大宮に仕え奉れり。この雉(きぎす)の命婦(みょうぶ)などがしかるべけれ」と奏せしかば、日の神はこの義に任せたまいて、雉の命婦を遣わさる。
さればまた雉の命婦は昔、夫の名無し雉が頓使いを仕損じて犬死にをした恥を清めるのはこの時なりと思いにければ、喜んで勅命を承り、雲をしのいであまつ空、幾千万里を飛び行きて、無量国方便山の如意天堂のほとりに降り立ち、天照大神の勅使として、雉(きぎす)の名代(みょうだい)来れりと音(おと)なえば、岩裂の眷属の天狗どもは驚き慌てて内に入って、迦毘羅坊に告げにける。されども迦毘羅はちっとも騒がず、そのまま名代を天堂へ迎え入れ対面す。その時、命婦は袖かき合わせ、
「天照日の大神、そもじの神通が類無き事の由を聞こし召し、天上へ召しのぼして司を授けたまわんと□らる。さぁさぁ参りたまえかし」としとやかに述べれば迦毘羅坊は喜んで、
「それがしは先には日本国へ赴いて仙術を学びし事、寿命を天地ともにした事は、遂には天上へ昇り八百万(やおよろず)の神たちと肩を並べんと思えばなり。しかるに今図らずも日の神より召される事は、何事かこれにますべき。まず杯(さかずき)を勧めんためにしばらく休息されたし」と言うのを雉(きぎす)は押し止めて、
「日の神を待たせん為にはしばしも時を移し難し。さぁさぁ参りたまわるこそ、もてなしにます喜びなれ」と言うに迦毘羅は押しても止めず、眷属の夜叉天狗らに▲しかじかと説き示し、
「我、日の神に仕え奉りて、しばらく天上にあるべきなり。任官果てて帰りくる日まで太郎坊、次郎坊、山水、木の葉の四人の者共にここを預け置くなり。よく留守をせよ」と下知しつつ、遂に雉と連れ立って、雲にうち乗りたちまちに日の若宮にぞ参りける。
しかれども岩裂は遠き島根に成りいでし五月蠅(さばへ)なす荒神なり。みだりに天顔(てんがん)を拝させるべからずと、しやうでんをゆかされず、彼に司を授けよとて、日の神の勅により天児屋の命、太玉の命(ふとだまのみこと)は承って、神議り(かみはかり)に図りたまうに、諸々の神たちが申す様、
「今、天上に欠けたる司はなし。只、一院の掃守(かにもり)はなし。まず岩裂を掃守になさるべうもや」と申すに、やがてその義に定めらる。これにより岩裂は天安河原(あまのやすがはら)に赴いて掃除の事を司り、また折々、鰯雲(いわしぐも)を起こす事を司りて、下界へ海の幸を示せと□わたされたり。けれども岩裂はいと遠き□になりいでて、都の手振りを夢にも知らねば、位の高き低きをも司の良きも卑(いや)しきも露ばかりだもわきまえず、今、掃守になりたるを良き司ぞと心得て、いささか辞する気色はなし。只、日の神に見参せぬをいといぶかしく思うものから、これもまた遠からず御目見えの日あるべしと思い図って、ちっとも疑義せず、やがて安河原の役所に入り、望み足れりと思いけり。
元よりこの所は日の若宮へ遠からねど、さしたる務めも無きままに、岩裂は同役の掃守神と酒を飲み、あるいは河原に出て漁(すなどり)しつつ、そこはかとなく日を送るに、折ふし春の事なれば、月読の尊(つきよみのみこと)に仕え奉るいかひ姫、おほがひ姫の神、天のざざ女などと言う女官たちは河原の水菜(みずな)を摘まんとて、安河原にいでたるを岩裂は遙かに見て、その所へ走り近づき、
「汝ら、何ぞ掃守の我々に断りなく、そこらの水菜を摘み取るぞ」と声高らかに咎(とが)めれば、いかひおほかひの二神は▲顔うち赤めて退きける。その中に天のざく女は口の悪き神なればちっとも騒がず見返って、
「わらわは月読の宮に仕え奉る女官なり。月読様の□により、この河原の水菜を摘めば、私(わたくし)の事ならず、職分卑しき掃守の和主なんどが知ることならず」と言われて岩裂は心を得ず、「我は真に掃守なり。そもそも掃守は卑しき司か。その位は二位か三位か、我は未だ知らず、詳(つまび)らかに我に告げよ」と言うとざざ女は吹き出して、
「笑止(しょうし)じゃ。さては知らぬじやまで、掃守と言う者は河原の蟹(かに)を払う役で人の世ではもんという掃除番の仕丁(しちょう)の事なり。その頭を掃部守(かもんのかみ)と言うけれど、それすら六位の官ぞかし。いわんや仕丁の掃守に何の位のあるべきぞ。笑止笑止」と言い捨てて、袖振り払って帰り行く。岩裂は我が職分の卑しき由を初めて知って、恨み憤ること限りなく、烏帽子、衣装をかなぐり捨てて、罵りつつ、南大門より古里の方便山を指して飛び去りけれ。さればこそあれ、後の世に金比羅を信じる者が蟹と鰯を断つ由はこれらの故によるなるべし。
かくて岩裂の迦毘羅坊は憤りに耐えず、またたく間に天上より方便山に帰りにければ、数多の眷属が出迎えて、「大王、先に日の神に召され天上したまいしより早十余年になり候。天上にてはいかばかりの司位(つかさくらい)を得たまいしぞ」と問われて岩裂は頭を掻いて、
「我は天上に在りし日が只十余日と思いしが、早十余年になりけるか。実に天上の一日は人間の一年なりと言うは空言ならざりけり。我は日の神に仕えんと遙々と天に昇りしが、日の神は我をよくも用いず、わずかに掃守とせられしかば、日ならず走り帰りしなり」と言うと皆々は吐息をつき、
「大王、何ぞさばかりの卑しき職分を守りたまわん。神変不思議の通力は八百万の神たちもおそらく及ぶ者はあらじ。かかればまた今更に王と申すもなお足らず、今より再び尊とんで威如神尊と称すべし」と言うと迦毘羅は喜んで
「諸々の意見は極めて理あり。しからばその義に任すべし。今より我を威如神尊と称せよかし」と誇り顔にてあご掻き撫でていたりける。
○この時、日の若宮では、天照大神に岩裂の掃守がその職分の低きを恨んで罵り猛って、日の御門(みかど)を破って走り去りたる由を櫛石窓(くしいわまど)の神、豊石窓(とよいわまど)の神が奏するに驚きたまい、「かくまで無頼の曲者を今はしも許し難し。早く討つ手を遣わして犯せる罪を正せよ」とにわかに十万の神兵(かみいくさ)を▲起こさせたまい、建御雷命(たけみかつちのみこと)を討つ手の大将として、その子天鳥舩神(あまのとりふねのかみ)を副将軍とし、天兵命(あまつつわもののみこと)を軍監(ぐんかん)として方便山へ遣わされる。
かかりし程に岩裂は討つ手の大群が向かうと聞いて、「さらば手並みを現して、似非神(えせがみ)どもの目を覚まさせん。者共、戦の用意をせよ」と六万ばかりの眷属を三手に分けて、巴蛇王(はじゃおう)、子路王(しろおう)、錦馬(きんば)、白狼(はくろう)の四大将を先陣とし、太郎坊、次郎坊、山水、木の葉の四大将を後陣に定め、その身は竜宮より得たしま黄金の兜をいただき、水牛の鎧、海豹の革靴、小手、脛当てに身を固め、中軍に控えたり。
時に神兵の先手の大将の天兵の命(あまつつわもののみこと)が鉾を回して真っ先に馬を馳せ駆け出せば、その手の神兵は鬨(とき)をつくって、我遅れじと押し寄せるのを、岩裂の先手の大将巴蛇、白狼らは迎え進んでしばらく挑み戦うが、岩裂方はさんざんに討ち破られて、皆散り散りに逃げ走るを何処までもと追っかけたり。その時、岩裂は大きに怒って逃げ来る味方に入れ変わり、黄金の棒を隆々(りゅうりゅう)と水車(みずくるま)のごとくに打ち振り打ち振り、しきりに進んで防いだり(ささえたり)。兵尊はこれを見て、望む敵ぞと天馬にかく入れ、ひとまぜもせず戦うが、岩裂がひらめかす棒の手はことに鋭く、遂に刃を打ち落とされて、余る棒にて二の腕をしたたかに打たれれば、馬引き返して退きけり。
二陣に控えた天の鳥舩の神はこれを見て、「岩裂の掃守め無礼なり。汝は一旦は拒むとも天意を犯していつまでか安穏(あんおん)にかくてあるべき。命惜しくば降参せよ。天の鳥舩の神ここにあり」と名乗りかけて戦いたまう。しかし岩裂は恐れる気色なく、
「あら物々しき討つ手呼ばわり。元より我が身に野心なし。日の神が我を用いずして、掃守にせし故に我はこの所へ立ち帰れり。今より我を押し昇し、威如神尊と称せられずば十万の兵一人も□を生きては帰すまじけれ。観念せよ」と罵って、面も振らず打ってかかれば鳥舩の神は迎え進んで、互いに現す神変通力は雲をしのいで地をくぐり、姿を隠し形を変じて一時ばかり戦いしが、鳥舩の神は腕(かいな)を突かれて左の肩先したたか打ちくじかれて▲大きに驚き、馬引き返して退きたまうを岩裂は追い捨てて、皆相引にぞ退きける。
さる程に、兵尊、鳥舩の神は本陣に立ち帰り、岩裂の通力の体たらく、味方敗軍のおもむきを建御雷(たけみかつち)の命に告げれば、御雷の命は驚いて、
「しからばこれ大敵なり。今またこれを討たんとせば多く味方を失うべし。一度(ひとたび)は天へ昇り帰って、事の由を相聞せん。必ず逸(はや)るべからず」ととどめて戦を引きまとめ、日の若宮へ昇り帰って、天照大神に奏するする様
「岩裂の通力は世の常に非ず。臣□手を尽くして戦いしが兵尊は腕をくじかれ、鳥舩の神は肩を打たれて未だ勝ちを取る事あたわず。もし軍勢を増し下されて、例え彼を滅ぼすとも味方も数多討たれるべし。よりて思うにあの者は元より逆心なし。只その職の卑しきを恥じ憤って古巣へ走り帰りしのみ。もし威如神尊という官号を下されれば仕え奉らんと申すなり。願わくばその罪をなだめたまいて、これらの官位を授けたまえば天地人の幸いならん」と恐る恐る奏し申せば、御側にはべりたるあまのかほの命はこれを聞いて、
「御雷(みかずち)が申す所はその理あり。今、岩裂に威如神尊の官位をたまうは過ぎたるに似たれども、官あっても司なければいわゆる散□散官(さんゐさんかん)の類なり。何か、苦しく候べき。勅きにあれかし」と取りなし申せば、日の神は遂にちしてめんありて、「されば岩裂の罪をなだめて召し昇せよ」と仰せらる。
これにより此の度も雉(きぎす)の命婦を勅使として方便山に遣わさけり。岩裂はやがて対面して雉の命婦を責めて言う様、
「汝は我をたばかって、天上へおびき行きつつ掃守のいと卑しき者にさせた恨みの数々、言わでも心に覚えあるべし。今更何の面目あって再び来つるか。その故聞かん」と居丈高(いたけだか)に罵れども雉は騒がず微笑んで、
「それは了見違いぞかし。およそ大宮に仕え奉る者は無位より初位八位七位と昇進して、正一位にも昇るなり。御身は初めて天上へ参り昇りし事なれば、掃守になされしとて、さのみは恥じることならず。しかれども日の御神はそもじの神力(しんりき)を感じおぼして、望みのごとく威如神尊の官を授けたまわんと、再びわらわを遣わしたまえり。過ちを▲改めてさぁさぁ参りたまえかし」と言葉賢(さかし)くこしらえれば、岩裂はたちまちに恨み解けて、雉の命婦と連れ立って日の若宮へ参りしかば、やがてせうでんを許されて天顔(てんがん)を拝し奉り、威如神尊という官号を勅き(ちょくき)にありて、威如の社(やしろ)を建て下され、みやつこの神を幾人(いくたり)か使われ人に付けさせたまえば、岩裂は深く喜んで、また天上にとどまりつつ、威如の社に静まりいたり。
しかれども官位ありと勤る業の無き身なれば□・・・・・・・□ありきてあまつ神と交われば、ふと玉の命は奏する様、
「威如神尊は官あって勤めなければ遊興に耽(ふけ)る由の聞こえあり。そのまま打ち捨て置きたまえば良からぬ業をしだすべからん。仮に山田守の司になされて、天安田(あまのやすだ)、天平田、天邑田(あまのむらあわせだ)を守らせたまえば事の災いなかるべし」としきりに奏し申せば、日の神はその義に任せたまいて、岩裂の威如神尊を田守の神に成されけり。しかるに天安田には三千年に一度はつかほを結ぶ稲あり。この米(よね)は日の神も常には供御(くご)になされる事なし。只年の十月毎に出雲の大社(おおやしろ)に八百万(やおよろず)の神が天下りて、新嘗(にいなめ)の事を行われ、その米を供御にかしぎて日の神に参らせたまうごうれいとぞ聞こえける。もしこの稲をはむ者は、その命は天地と共にとこしなくに尽きずとかや。しかれども秋穂はむ雀(すずめ)すら恐れてその田に寄り付かず、まして位低き神たちはなむることだに叶わざりけり。頃しも九月末なりければ、素戔男(すさのお)の尊の御舅(おんしゅうと)足名稚(あしなつち)、手名稚の神、その御娘くし稲田姫もろともに天安田を刈り取って、みずから籾(もみ)をひき、米(よね)をしらげうがの御霊(みたま)の命に渡して、大社(おおやしろ)へぞ運ばしたまう。岩裂はこれらの由を□□初めて伝え聞いて、足名稚、手名稚に打ち向かい、
「今年十月の神集めには、わしらも出雲の大社へ呼ばせたまうと仰せやありしか」と問えば頭を振って、「いやいや左様の沙汰はなし」と言うと岩裂は本意(ほい)なくて、
「我、いかにもしてその供御を一口食わばやと思いつつ、心の内に十月のその日を遅しと待ちたりける」
○されば今年も十月のその日も既に近づけば、八百万の神たちはその月の一日(ついたち)より次第次第に出雲の大社へ集まって、その三千年に一度実りし、天安田(あまのやすだ)の刈り稲のしかげたる米をもて、半ばは蒸して麹(こうじ)とし、これを酒にかもさせて日の神の神酒(みき)とし、またその半ばは餅に突かせ、あるいはまた飯(いい)にかしがせて日の神の▲供御になさるしも司の神たちは火を焚き水を汲む者あり、米を蒸して強飯(こわいい)とし麹に寝かす者もあり、臼に入れ突きやわらげてぐさい餅にするもあり、事の混雑は大方ならで上を下へと返しけり。
さる程に岩裂は時分を計って天下り、出雲の大社に近づく時に、図らずも途中にて保食(うけもち)の神に行き合いけり。互いに見知れる仲(どち)なれば、保食の神はいぶかって、「神尊和主は何らの故にここらを徘徊するやらん」と問われて岩裂たちまちに謀り事を得ていれば、ちっとも疑義せず、
「さればとよ。それがしは日の神の御使いを受けたまわって、御身のために来つるなり。日の神のお召しにより、早く日の若宮へ参りたまえ」とまことしやかに誘(いざな)うと、神は元より正直を旨としたまう事なれば、岩裂が偽(いつわ)り言うとは思いもかけず、
「・・・・・・・我はこの年毎に供御(ぐご)の事を執り行えば、わきてこの月のにひまめ命には萬に暇なき身なるを予ては知ろし召されんに、何らの火急の御用あって召し帰されることやらん」と心の内には思えども、否み申す由なければ、岩裂と連れ立ちってかへりのぼうたまう程に、岩裂は遅れた体にもてなし、引き外して取って返して大社へ入る時に姿を変じて、うけもちの神になりたり。
よりて大社を預かりたまう大己貴(おおあなむち)の尊を始め、萬の神たちは岩裂を咎める者はなかりける。さる程に岩裂は厨(くりや)の方に行って見るに、その八束穂(やつかほ)の稲で、只今かもした大神酒(みき)あり。また飯もあり餅もあり。いっぱい飲みたや食いたやと思えども、その辺りには下司の神が数多おればそぞろに手をもかけられず、詮術(せんすべ)ありと脇の下の小羽根を抜いて吹きかければ、その羽根は数多の眠り虫と変じつつ、下司の神たちの頭(つぶり)に止まり身に付けば、たちまち眠りをもよおして我を忘れる高いびき、枕を並べて臥したりける。
その暇に岩裂は酒を飲み、餅を食い、飯さえ□□はつしてやつたる例えの節の盗人上戸(ぬすびとじょうご)、仕合わせ良しと口舐めずりして腹を撫でつつ天上へそのまま帰り昇りけり。▲
されば岩裂は大社の新嘗(にいなめ)に日の神の供御となるべき八束穂の酒をして、やりか餅を喰らい飯を喰らいて酷く酔いたる癖なれば、天上へ昇るに我が社へは入らずして、あやまちて月読の尊の宮へ惑い入りけり。
かかりし程に内殿には月読の尊に仕え奉る兎(うさぎ)どもが声面白く歌いつつ不老薬(おいせぬくすり)を突いており、畢竟(ひっきょう/要するに)、岩裂はこの体を見て、またいかなる事をする。

この合巻は常に変わりて長物語の事なれば、これを初編の終わりとす。第二編、三編はまた年々に継ぎいだして、遂には全部の草紙となさん。まずこの初編を御覧じて、それより二編三編と次第次第に御評判。古い趣向を新しく書き換えたるも方便の大和魂勇ましき、また来る春を待ちたまえかし。目出度し目出度し■

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
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馬琴・西遊記/金毘羅舩利生纜 第二編上

2017-02-27 09:17:12 | 金毘羅舩利生纜
白龍(はくりゅう)の魚腹(ぎょふく)たる余諸の網を脱(のが)れること易からず、老狐(ろうこ)のれいたる□先(もせん)が才をはかること難(かた)かり、高明(こうめい)もまた天機を漏らさば、鬼神の憎みを恐れざらんや、その智をさること、その智にあり、汝が智慧(ちけい)を施す事なかれ

賛曰 人をのらば例えの節の穴二つ走る野狐蟠(わだかま)る蛇

書生 村崎志賀蔵(むらさきしがぞう)
三善清行(みよしきよゆき)
水海屋 樽奴川太郎(たるひらいかわたろう)

念々億萬慮(おくまんりょ)すべてこれ莫妄想(まくもうぎょう)
迷うが故に衆生(しゅじょう)なり、悟れば終(つい)に仏とならん、迷悟(めいご)本来我に在り、また何処をか求めんや、また何処をか求めんや

賛曰 渋柿のしぶしぶに世を捨てしかど早尼法師となるぞ目出度き

大見の次官 仲起(なかおき)
清行が妻 玉梓(たまづさ)
新菩提寺のこしょう 細江水之助

大和物語に中興(ちゅうこう)の近江のすけが娘物の怪に患(わずら)いて、浄蔵(じょうぞう)大とくをげんざにし奉るほどに人とかく言いけり、しのびてありへて後しかじかと記し付けたり、或いは浄蔵子どもを産ませて後、我が法力の衰えやしつるとて、その子二人を膝(ひざ)の下しきながら祈りけるに、なお談ありけるなどもいえり、かかる有□(うげん)の名僧にもこれらの説あるはいかにぞや、宜(むべ)なり、元弘(げんこう)釋書(しゃくしょ)には右の異説を収めざりけり、今またたすけてかのちやうの物語をつぐること古□をおもに老婆心、もし浄蔵を世に在らせなば実は道具に使わるるといわまし
賛曰 ながれての余のことぐつにぬれ何もとき洗ひせんの里をちからに

太郎□(子+需)
乙□
雲居寺(うんこじ)の浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)
大見仲起が娘 小鮮姫(わかおひめ)

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かくて岩裂の威如神尊は大社(おおやしろ)の新嘗会(にいなめえ)に日の神へ参らせる神酒を飲み、餅飯を喰らって、また天上へ昇る時に思わず月読尊(つきよみのみこと)の宮へ迷い入り、あちこちと見歩くと、ここには数多の兎(うさぎ)どもが不老(おいせぬ)薬を突いており、彼処(かしこ)には天乙女(あまおとめ)が甘露の酒を升で測ってすいせちの壷に、その香りは得も言われず、岩裂はこれを垣間見て腹の内に思う様、
「・・・・・月読がおわします月宮殿(がつきゅうでん)には甘露の酒あり。これを飲む者は老いせず死なずと予てより伝え聞きしはこれなるべし。宝の山に入りながら手を空しくして帰らんや。要(えう)こそあれ」と心でうなずき、例の小羽根を引き吹き掛ければ、不思議や小羽根はたちまちに眠り虫と変じつつ皆その背中に取り付くと、さしも今までべちゃくちゃと朋輩仲(ほうばいなか)のいと良きままに、四方山話(よもやまばなし)に興じた乙女は眠りをもよおし、こくりこくりと漕ぐ船の舵(かじ)にはあらぬ肘枕(ひじまくら)、一人も残らず臥したりける。
「サア、してやった」と岩裂はその壷を引き出して瑠璃の升にて汲み取り汲み取り、いくらともなく飲む程に、その美味き事は今更に例えるものなし。三千年に一度実ると言う天安田の□□をもて作る神酒(みき)に増すとも劣りはせずと舌打ちしつつ早一壷を飲み干したり。その時、岩裂は思う様、
「・・・・・我、出雲の大社にて神酒を飲み餅を食べ、今また此の月宮殿で甘露の酒を飲みたるに、事遂に現れれば日の神は必ず怒らせたまいて、ゑうどき咎めにあわせやせん。うかとしているところでなし。これまでなり」とそのまま走り出て、ひらひらと下界を指して飛び去りけり。
さればまた無量国方便山の夜叉天狗らは数十年の月日は経れども訪れ絶えて帰り来ぬ岩裂を待ちかねて、噂のみして居るほどに、岩裂は神通力にて、またたく間に数万里の雲をしのいで風を起こして方便山へ帰りにければ、天狗どもは喜んで皆諸共に出迎えて、威如天堂の設けの席へかしづき入れて言葉を揃えて、
「神尊、先には日の神へ仕え奉るといでたまいしが、既に六千余年を経たり。天上にはいかばかりの楽しき事が候しぞ」と問われて岩裂は心を得ず、
「我が天上に在りし日は二月(ふたつき)ばかりと思いしが六千余年になりたるか。実(げ)に天上の一日は人間の一年なりとことわざにすら言う事のかえすがえすもしるしあり。我、日の神に仕え奉り、威如神尊の位をたまわり、不足無きには似たれども大社の新嘗にもらされし事の遺恨に耐えず、斯様斯様にたばかって、神酒を飲み、また餅を食べ、その帰り道に月宮殿の甘露の酒を飲みしにより▲後の祟(たた)りの後ろめたさににわかに帰り来つるなり」と告げると皆々微笑んで、
「それは我らの幸いにて、その事なくばいかにして神尊が今日(けふ)しも帰りたまわんや。まず一杯を傾けて疲れを休めたまえかし」と大方ならず慰めて、酒肴を並べ、早杯をすすめれば、岩裂はその酒を飲みも終わらず眉をひそめて、「これは余りに悪酒なり。今少し良き酒あらば銚子を替えよ」と急がすと天狗共は聞きながら、
「神尊、何故に此の酒を悪しと宣うぞや。そは此の年頃、天上にて良き酒ばかり飲みたまいし口がおごれる故ならん。されば隣のぢんはみそこなたになきをいかがわせん」と言われて岩裂はうなずいて、
「実にさる事もあらんかし。遠きが花と世にも言う天上へ飛び行って、甘露の酒をかいさらい、汝らにも飽くまで飲ませて百万年も生き延びさせん。さぁさぁ」と言いかけて、端近く出るとそのまま飛行自在のいつとくはたちまち雲にうち乗って、またたく間に月宮殿のぎかくと門へ飛び行って奥深く忍び入ると、この時あの天乙女らは始めのままで眠りこけ、同じ枕に前後を知らず、岩裂はこれをと見かう見て、「うまいわろじゃ」と舌を吐き、僅かに一壷残る甘露の酒をう□・・・□て、方便山へ飛び帰り、壷を開いて我も飲み、眷属どもにも飲ませれば、天狗共は岩裂の今に始めぬ通力と、またその酒の世の常ならぬを喜び勇んで、寄って酒盛りしたりける。この時、日の若宮では天照大神が出雲の大社より参らせる新嘗を聞こし召さんと、天のうずめらの女官たちに供御(ぐご)の用意をせさせたまうが、かかる所に保食神(うけもちのかみ)が大社より帰り参りて、「お召しにより参内(さんない)せり」と慌(あわ)ただしげに奏したまえば、日の神は驚きいぶかり、「朕(ちん)は保食を呼ばせし事はなし。そは聞き違えたるならん。心得難し」と宣えば、保食もまたいぶかって
「さん候、先の程、岩裂の神尊を御使いにたてられて、にわかに召させたまうにより、萬を差し置き参りたり。聞き違えには候わず」と重ねて奏したまうと日の神はますます驚いて、
「朕は決して岩裂を使いにたてた事はなし。しかるにあの神が偽って大社へ赴きしは良からぬ訳のあるにこそ」と宣う言葉も終わらぬ折から、大社を預かりたまう大穴牟遅(おおあなむち)の尊より下司の神をもて、
「さても今日(こんにち)誰とも知らず供御に用意の神酒、餅、飯を盗み喰らいて候なり、よりてぬらふる神たちを厳しく詮索すれども、その事未だ定かならず、只これ□□(わくら)が過ちにて申わけなしと言えども包み申さん由のなければ、御沙汰を仰ぎ候なり」と恐る恐る訴えたまう。これのみならで月読の尊より天乙女を使いとして、甘露の酒の二壷までも紛失したる事の事情は斯様斯様と奏させたまえば、日の神はしきりに驚いて、
「かれこのひこれと言い、察するところに岩裂の正無事(まさなごと)にぞあらんずらん。さぁ岩裂を呼ぶべし」と御使いを遣わされしが▲しばらくして使いが帰り、
「それがし急ぎ神尊の社へ赴きしが岩裂は彼処におらず、その下司に尋ね問うと神尊は今朝早く何処へか立ち出て帰りたまわずと申すにより、八方へ手分けして行方を尋ね候いしが、その影もなく候」と息付きあえず奏すれば、日の神はいたく怒らせたまいて、
「そは蓄電(ちくでん/とうそう)せしならん。一度ならず二度三度とよからぬ業をしだせしは実にさばへなす悪しき神なり。今はしも許し難し。早く討つ手の神兵を遣わして召し取るべし」とぞ勅定(ちょくじょう)ある。これにより此の度も建御雷命を総大将として天兵命を差し添えて、更に十万の神兵を起こさせて方便山へぞ遣わしたまう。
その頃、岩裂は甘露の酒に酔い臥して威如天堂にありけるに、眷属の天狗どもが慌(あわ)ただしく走り来て、「神尊、眠りを醒まさせたまえ、討つ手の軍兵が向かうたり」と声々に呼び張れども岩裂は騒ぐ気色なく、「そは何ほどの事があらん。只うち捨てて置けかし」と答えて起きも上がらねば、天狗どもは気を揉んで、「いかがせんか」と躊躇(ためら)う時に太郎坊、次郎坊、山水、木の葉の四大将がおいおいに走り来て
「神尊、何故に起きたまわぬぞ。大手門の方は御雷を大将にして五六万騎が押し寄せたり。また搦(から)め手門には鳥船と兵の神を大将に四五万騎もあるべきか、これも間近く寄せ来たれり。さぁさぁ起きさせたまわずや」と皆々しきりに揺り起こせば、岩裂はむっくと頭をもたげ、
「あながまや、さもこそあらめ、汝ら四人は白狼王と巴蛇、錦馬、子路王の魔王らと諸共に搦め手門の討つ手を防げ、我は大手門を押し開いて御雷を打ち散らさん。急げ急げ」と勇気の広言、鎧をさっくと投げ掛けて八万四千の眷属を二手に分かちて下知を伝えて大手の門を押し開かせ、金砕棒を打ち振り打ち振り、込み入らんとする敵を四角八方へ打ち散らせば、さすがに勇む神たちも進みかねてぞ見えたりける。▲かかる折にも搦め手門には太郎坊、次郎坊、山水、木の葉の四大将、またその四人の魔王と共に数多の天狗を前後に備え、面も振らず突いてかかれば、鳥船、兵の二柱の神たちは得たりやおうとひらき合わせて、「かかれ。かかれ」と下知したまえば、その手の神たちはちっとも疑義せず、追いつ返しつ戦いたまう。音に聞こえし神兵(かみいくさ)、石の矢尻(やじり)の飛び違う音もすさまじき憤激吶戦(ふんげきとつせん)、しばし勝負は分かざりけり。
かかる所に日の神の御使いとして手力雄命(たちからをのみこと)、彦五十瀬命(ひこいせのみこと)が手勢を引き連れ、戦の勝負を見んために方便山の搦め手門へ天下りたまうに、思うに違わぬ戦の最中、何かはちっともゆよすべき、岩裂勢の後ろより鬨(とき)をどっとつくかせて、突き伏せ、突き伏せ攻めたてれば、岩裂方は思いがけなく後陣の方より斬り崩されて防ぐべうもあらざれば、只蜘蛛の子を散らすごとくに威如天堂へ逃げ籠もる。されば鳥船、兵の二神はその機にかなう戦の駆け引き、思いがけなき助けに勇んで、そのづをぬかず追い討ちたまえば引き遅れた四人の魔王の白狼、錦馬、巴蛇、子路らは枕を並べて討たれたり。
既にして天狗どもは一人も残らず逃げ失せければ、鳥船、兵の両大将は手力雄命、彦五十瀬命と共に談合して、この手の戦に勝つといえどもあの岩裂は大手門にあり。彼処(かしこ)の勝負は心許(こころもと)なし。いざや戦を一つにして岩裂を討ち取らんと只その所を打ち捨てて、大手門へ押し寄せれば、果たして戦のただ中で、只一人の岩裂に数多の神たちはかけ破られて、既に危うく見えしかば鳥船、兵、手力雄、彦五十瀬の神は諸共に名乗り掛け名乗り掛け、岩裂の前後より隙間もなく攻めつけたまうと、岩裂は騒ぐ気色もなく▲一万三千五百斤の金砕棒を水車の如くに振って四人の神を左右に受け止め、ひるまず去らず戦う程に、ややもすれば四人の神たちも受け太刀になりたまう。建御雷命はこれを見て、采配うち振り諸軍を進めてしきりにかけたてたまいしかば岩裂の手の天狗どもは先陣遂に崩されて、主を捨ててぞ逃げ迷う。岩裂も心猛しといえども逃げる味方に引きたてられて、かつ戦い、かつ退き、威如天堂へ閉じこもり金戸(かなど)を固く差させけり。
その時、搦め手門の負け戦に逃げ籠もる四人の眷属太郎坊、次郎坊、山水、木の葉の天狗どもは忙わしく出迎えて、さめざめと泣きつつ、またからからと笑えば岩裂はこれをいぶかって、まずその故を尋ねれば、四人の天狗は、
「さればとよ、初め我らが泣きしは、さしも腹心と頼まれし四人の魔王が討たれしを深くも痛み嘆きしなり。されども神尊はつつがなく立ち帰らせたまえば、喜ばしさに思わずもひとしく笑いをもよおせり」と言うと神尊はうなずいて、
「汝ら、心を安くせよ。あの魔王らは討たれしとても蛇なり、鹿なり、狼なり。元より我が種類に非ず。今日は全く勝ち得ずとても我が眷属は一人も討たれず。しからば何をか嘆くべき。あの似非神どもが懲りず間に重ねて押し寄せ来る事あれば、皆殺しにして腹をいん。休め休め」と鷹揚に騒ぐ気色は無かりけり。
さる程に建御雷神たちは本陣に立ち帰り、日の神の勅(みことのり)を謹んで承り、再び軍議をこらしつつ、御雷の神は頭を傾け、
「今日の戦で岩裂の四人の魔王を討ち取って、勝利あるに似たれども、彼の真の眷属を只一人だも討ち止めず。いわんや岩裂の神通勇力(しんつうゆうりき)には容易(たやす)く勝ちを取り難し。いつも互角の戦して徒(いたずら)に日を送れば曲者に侮(あなど)られん。所詮助けの大将を申し下して力を合わせ、短兵急に捕りひしがねば、いたずらに後悔するのみ甲斐なからん」とこれらの由を相聞(そうもん)あれば、こよなき幸いなるべしと思い入りて述べたまえば、彦五十瀬、手力雄の二神は、
「この義は真にしかるべし。我々は帰り上って相聞をとどけるべきに、そなたからも一人の使いを差し添えたまえ」と急がして早立ち去らんとしたまうに、御雷の神は喜んで二人の御使いに鳥船の尊を差し添えて、日の若宮へ参らせたまう。これにより日の神は御雷の神の願いの趣(おもむき)、その義は如何にと勅問あるに、天のやこねの命、太玉(ふとだま)の命が承り、ひとしく奏したまう様、
「今また助けの大将を下界へ下したまわんには、日本武尊(やまとたけるのみこと)にます者なし。あの神が知勇に優れし由は世もって知れる所なり」としきりに聞こえ上げれば、日の神はこの義に従い、その尊を大将として重ねて神兵をおこさせたまい、更にまた手力雄と彦五十瀬の神を差し添えて方便山へ差し向けたまう。
出陣またたく間なれば鳥船の神は先立って本陣に立ち帰り、事の事情を斯様斯様と父の尊に告げたまうと、御雷の神は喜んでしばらく戦を止めつつ助けの勢を待ちたまう。
かかりし程に日本武尊は彦五十瀬、手力雄と共に方便山のほとりの本陣に天下り、建御雷の神たちと神議(はか)りに計りつつ、戦の評定したまう様
「あの岩裂は熊襲(くまをそ)にも建部(たける)にもます大敵なり。されども知謀を巡らせれば生け捕らんことは難くもあらじ。明日の戦いには我が岩裂と戦うべし。鳥船、兵の二神は五万騎を従えて、彼の眷属を討ち取りたまえ。岩裂は通力ありと言えども▲味方が敗北するのを見れば心慌てて逃げ走らん。その時、彦五十瀬、多力雄の二神は五万騎を従えて、その逃げ道を切り塞ぎ、彼を城へ帰したまいそ。御雷の神はおんとしやくに此の所にとどまって本陣を守りたまえ。その余の手分けは斯様斯様」と軍議は既に定まりぬ。
さて、その明けの朝、日本武尊は新手(あらで)を従え、方便山へ押し寄せたまえば、岩裂もまた八万四千の眷属を従えて、真っ先に馬を乗りすえ、来たる者は誰ぞと問う時、尊も馬乗り出して、
「知らずや、我は日本(やまと)だけしう□の□神なり。天地(あめつち)開けそめしより、帝(みかど)に背きまつりし者、誰かは滅び失せざるべき。汝はしばしば天意を犯し、いかでか逃れる道あらんや。前非を悔いて降参せば、命ばかりは助けんず」と声高らかに呼び張りたまえば、岩裂は怒りに耐えずして、「ほざいたり。その顎(おとがい)を叩きくじかん。覚悟をせよ」と罵りながら金砕棒(かなさいぼう)をひらめかしつつ打たんと進むを尊はすかさず叢雲(むらくも)の御剣をもって戦いたまう。互いに得たる道なれば、受けつ流しつ、劣らず増さず、三百余打ちに及べども勝負も分かず見えしかば、岩裂の眷属どもは等しく呆れて目も離さずに眺めをる油断を見すまし、思いがけなき後ろより多力雄の神、彦五十瀬の尊の伏せ勢が一度にどっと起こって無二無三に討ってかかれば、天狗共は驚き騒いで更に戦う擬勢もなく、方便山へと逃げ籠もれば、岩裂はこれに心慌てて隙を見合わせ引き外し、山路を指して退く折に鳥船、兵の二神は数多の神たち引き連れて、遮(さえぎ)りとどめて声々に
「岩裂、逃げるとも道はなし。降参せよ」と呼び張りたまえば、岩裂はいよいよ驚いて虚空遙かに飛び昇るのを日本武尊は引き続き、また空中にて戦いたまう。
しかれども岩裂は身を逃れんと思うのみにて、更に戦う心なければ、身をひるがえして天下り、小鳥と変じて草むらに隠れんとする所を日本武尊はご覧じて白き鷹と変じつつまっしぐらに落とし来て、かいつかまんと追っかけたまえば、岩裂は驚き身を逃れ、その山の麓の山の神の祠(ほこら)に変じて息をこらしてをる時に、尊はすかさず追っかけたまうが、早岩裂は逃げ失せて山の神の祠のみあり。ここらにあるべき物ならぬに▲これは岩裂が化けたるならんと早くも悟って手鉾を持って走り近づき扉に打たれる金物を突き破らんとしたまえば、岩裂はますます驚き騒いで扉に打たれた金物と見せしは眼(まなこ)なるものを突き破られてはかなわじと、再びそこをも逃げ去って道のほとりの池に飛び入り、小鮒と変じている間もあらせず、尊はひたすら追っ掛けたまうに早岩裂が見えざれば、そこかここかと尋ねたまうと池の内に小鮒あり。その鮒の色は常に変わって緋鯉(ひごい)のごとく朱(あか)ければ、これもまた岩裂の化け損ないに疑いなし。詮術ありと立ち寄って、水に向かって御息をふっと吹きかければ、その息たちまち大きな川獺(かわうそ)と変じつつ、くだんの小鮒を飲まんとす。岩裂はあなやと身を逃れて、また空中へ逃げ昇れば、尊も続いて追っ掛けたまうが早岩裂は見えざりけり。
されども尊は予てより八方遠見の神たちに天眼鏡を照らさせて、あちこちに置きたまいしかば、またその所に立ち寄って、各々(おのおの)は岩裂の行方を見留めざりけるかと一人一人に尋ねたまうが見留めし者がなかりしかば、尊はしきりにいらだって、なほしも残る隈(くま)もなく尋ね歩かせたまいけり[物語二つに分かる]
ここにまた、天の中国(なかつくに)におわします八百万(やおよろず)の神たちの御中(おんなか)に仏の道にも疎(うと)からぬを両部神道(りょうぶしんとう)と唱え申して両部の宮におわしますその神たちは三十番神、五番の若神、日吉の七社、熊野権現、富士白山その数も多かる中にわきて八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は両部の宮の主として仏法帰依の御神なれば南海のきやうしゆ観世音と御交わりも浅からず、これにより観世音はある日両部の宮へ来まして八幡宮と衆生済度の御物語りをしたまいけり。なお詳しくは次に見えたり。
そもそも八幡宮と申し奉るは応神天皇(おうじんてんのう)の神号なり。この帝は仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の御子にして日本武尊には御孫にてぞおわします。しかるに御祖父日本武尊が岩裂退治の大将に選ばれて重ねて方便山へ向かいたまいしかば安否はいかにと思(おぼ)し召す八幡宮の御心おだやかならぬ折からに、補陀落山(ふだらくさん)の観世音が両部宮へ影向(えうごう)あれば、八幡宮は岩裂の事の事情、再度の討つ手を遣わされたる始め終わりを御物語りましまして、この事はいかがあるべきと思い入りてぞ問いたまうに観音はつくづくと聞きたまいて、
「あの尊の武略においては大功疑いなしと言えども神は正直を旨として、仮にも偽りの謀(はかりごと)を好みたまわず。これによりてその戦のはかどらぬこともあるべし。それがしがあの地へ赴いて戦難儀に及ぶと見ればいつひの力を尽くさん事、元より願う所なり。この義はいかが」とまめやかに問い返されて、八幡宮は御喜び大方ならず
「大士、あの地へ赴きたまえば朕が心は初めて安し。よきに図らせたまえかし」とねんごろに頼ませたまえば、観音は重ねて一義に及ばず、御供にはべる恵岸童子(えいがんどうじ)を引き連れて雲に乗りつつまたたく暇に無量国へぞ赴きたまう。
これはさておき岩裂はようやく身を逃れ、威如天堂へ帰らんと思えども方便山には数万の神たちが隙間もなく陣取って、行くべき方は風も通さず、空へ昇って隣国へ逃げ行かんと欲すれば、遠見の神たちが空中に天眼鏡で護りおれば、如何にとも詮方なく、しばしよそ目を忍ばんために日本武尊に変じてその本陣へ赴くと、この陣所を護る神たちはいかでか見知るべき、只これ尊が帰りたまうと思いにければ、出迎えて設けの床机(しょうぎ)にいざない参らせ、建雷の神にさえ▲しかじかと告げ申せば、建雷の神もまた忙わしく立ち出て、戦の様子を尋ねつついとねんごろにもてなしたまう。
かかる折から日本武尊は岩裂を見失い、心ならずも手勢を引き連れ本陣指して帰りたまえば、門守(かどもり)の神がそれを見て、「こはそもいかに。またひとり日本武尊が来ましたり。それかあらぬか」とばかりに呆れ迷って立ち騒ぐのを尊は心得ずとそのことの事情を尋ね問いつつうなずき、
「神たち、必ず騒ぐべからず。先に来たのは岩裂ならん。奴(しやつ)が我が身に変ぜしのみ。捕り逃がすな、討ちとめよ」と言いかけて、早ずかずかと進んで奥へ入りたまえば、岩裂はこれを見返って驚きながら減らず口、さては真の尊めが立ち帰ってはここにもいられず、お暇(いとま)申すと足早に逃げんとするのを数多の神たちが逃がさじ行かじと取り巻いた後ろの方には日本武尊、御雷の神が諸共に弓矢を取り上げよっ引き固めて射て倒さんとしたまえども、鏃(やじり)は砕けてかの身に足らず、されば数多の神たちも支えかねた折しもあれ、方便山より退き来た鳥船、兵、多力雄、五十瀬の神たちはこの体(てい)を見てちっとも疑義せず、とうまの如く取り込めて絡め捕らんとしたまえども岩裂は物とも思わず、多勢を相手に早速(さそく)の働き、ここに現れ彼処に隠れて千変万化と□を砕く古今無双(ここんぶそう)の神通力に勝ちを取ること難ければ、捕り逃がさじと神たちは思わず時を移しけり。
かかる所に観世音は紫の雲にうち乗って本陣近く影向(えうごう)あり、遙かにこれを見そなわして、恵岸ゆみやに持たした楊柳水(ようりゅうすい)の壷を取り、しきりに水を振りかけたまえば、さすがに猛き岩裂も道のぬかりに足元乱れて滑ってはたと転びにければ、得たりやおうと手力雄、鳥船、兵、彦五十瀬の神四人はひとしく折り重なって手取り足取りようやく押さえて縄を掛けけり。
しかれども身を変じて逃れることもやと、琵琶骨(びわこつ)という骨をしたたかに捕り縛り、仕合わせよしと神たちは勝鬨(かちどき)上げて皆諸共に岩裂を引きつつ日の若宮へ凱陣(がいじん)し、勝ち戦の事の趣、観音大士の楊柳水が味方の助けとなりたる事まで斯様斯様と奏したまえば、日の神の御感は浅からず、
「しかればこれ岩裂は西の聖の助けにより容易く絡め捕られしものなり。かかる因(ちな)みのあるなれば両部の宮へ引き立てて、ともかくも計らわせよ」と掟(おきて)させたまいしかば、御雷、日本武(やまとたける)の両尊は勅命に従い岩裂をは絡めたままにて両部の宮へ渡したまいぬ。
これにより両部の主の八幡宮は三十番神の神たちと計りたまうに、岩裂の罪は莫大なり▲さぁさぁ頭(こうべ)をはねるべしとおのおの定め申すにぞ、さらば頭をはねよとその神どもを急がせたまうが、司の神が申す様、
「岩裂の五体へはいかなる剣もたち候わず、しひて斬らんとする時は刃砕けて詮方なし。また大石をおし掛けて押し潰さんといたせども、その石砕けて岩崎の身には少しもつつがなし。かかればいかがつかまつらん」と大息ついて奏し申せば、八幡宮も呆れて、また神議りに計りたまうが、武内宿禰(たけのうちのすくね)かうらの□神が進み出て申す様、
「そもそも両部宮(りょうぶきゅう)には開闢(かいびょう)の昔より用いられたる湯立(ゆだて)の釜あり。その竈火(かまどび)は二六時中しばらく消えることなく、湯もまた増減あることなし。かかる不思議な熱湯なればあの岩裂をその釜へ押し入れて湯で殺し候わば、いかなる神通ありとても煮えただれんこと疑いなし」としきりに進め申せしかば、遂にその義に任されけり。
これにより下司の神たちは岩裂に八重縄掛けて湯立ての釜に押し入れつつ蓋の上には千引(ちび)きなす大盤石を押しとして、薪(たきぎ)をすえ、湯をたぎらせ、昼夜暇なく煮たりける。
既に日数は七十五日に及びしかば、武内の神は思案して八幡宮に申す様、
「岩裂を釜茹でにして七十五日になりて候。今では煮えただれて、どろどろになりつらめ。蓋を取らせて釜の内を見候ばや」と申すに、八幡は実にもうなずいて、「しか計らえ」と仰せけり。さる程に武内は下司に下知しつつ釜の蓋を取りのけて、あらため見よとぞ急がせける。さればまた岩裂は二月余りも煮られし故に戒めの縄は煮え切れたれども、その身はちっともつつがなく精神健やかなるものから、ただその釜の奇特によって蓋押しのけて出て行き難かりに、今下司が立ち寄ってそろりと蓋を取るより早く釜の内より躍(おど)り出て、耳に挟んだ金砕棒を引き伸ばし打ち振りて、荒れに荒れたる有様に、下司の神は驚き騒いで得物得物と引き下げ引き下げ、逃がしはせじと取り巻くも岩裂は物ともせずに当たるに任せて打ちかえせば、数多の神たちはどよめくのみで支えかねたる折しもあれ、日本武尊の御使いとして八幡宮へ参りたる火灯しの童(わらわ)はこれを見て、「岩裂、天意を恐れずや。無礼なせそ」と呼びとどめ、しばし支えて戦う程に、武内の神もまた鉾を持って立ち向かい、力を合わせて挑みけり。
この時までも観世音は西天(さいてん)へ帰りたまわず両部の宮におわせしかば、岩裂の体たらくを伝え聞きつつ驚いて八幡宮に言う様、
「真に、かかる曲者は法をもって征すべし。力をもって勝ち難し、奇妙の者を速やかに降伏せんと思し召さば、それがしが西天へ赴いて釈迦如来を迎え来つべし。御心安くおわしませ」と言いも終わらず、紫の雲にうち乗って、瞬(またたく)く間に西を指してぞ飛び去りたまう。▲
この時、仏祖釈迦牟尼如来は霊山(りょうぜん)の沙羅双樹(さらそうじゅ)の元に趺坐(ふざ)して法を説いておわせしに、観音大士が参りたまいて、あの岩裂が体たらくかつまた如来の智力(ちりき)をもて降伏させたまわん事を乞い願いたまえば、釈尊はしばしばうなずきたまいて、
「良きかな良きかな。八幡宮は仏法帰依(ぶっぽうきえ)の神にして、本地大日におわします。いわんやまた苦をぬいて楽しみを与え、迷いをさまえて陥(おちい)る者を救わんとは元より仏の請願なるに、いかでかは行かざらんや。さらば急げ」と仰せもあへず第一の御身なる阿難如来(あなんにょらい)を従えて、観世音を先に立て、両部の宮へぞ影向(えうごう)ある。
さればまた、武内かうらの神、火灯しの童らは下司の神で岩裂を取り巻かせ、八幡宮のとりいさきにておめき叫んで挑み争うまっただ中へ釈尊は早くも影向ましまして、まず神たちを退かせ、一人自ら進み寄り、「やおれ岩裂、ものにや狂う。我はこれ釈迦牟尼仏なり。無礼なせそ」と制したまえば、岩裂はそれ見てあざ笑い、
「汝は世にも無き事を作りて□俗をなかする痴れ者(しれもの)なるか。我が通力は神も及ばず、まして仏を恐れんや。汝がただ今取り持って、我をこの両部天の主となさば許すべし。さなくば決して許し難し」と声すさまじく罵ったり。釈尊は聞いて微笑みたまい
「良きかな良きかな。汝の神通、我が妙法に勝つとあらばならず望みに任すべし。例えば今、汝を我が手の平へ乗せんに汝は容易(たやす)く逃れいでんや。いかにいかに」と問いたまうを岩裂はせせら笑って、
「それははなはだ易き事なり。さはとて持った金砕棒を針の如くに押し縮め、耳の内に差し挟み、その身も一寸余りになって、釈尊の御手の底へひらりと乗ると釈尊はそのまましかと握りたまう。その時に岩裂は通力で釈尊の指の股より逃れ出て、走り行くこと五六余里、その地に一座の高山あって、その峯は五つに分かれたり。岩裂はやがて走り登り、中なる巌にうち向かい小羽根を抜いて筆となし、つを吐いて墨となし、岩裂迦毘羅(かびら)大神尊、それの月それの日にこの所に来たりて遊ぶなりと墨黒(すみぐろ)に書き付けて、身をひるがえして釈尊の御手の平へ立ち帰り、内より高く声をかけ、
「釈迦坊、釈迦坊、我は既に指の股より漏れ出て、五六に里の外に遊べり、その所の山の岩にしかじかと書き付けて、確かな証拠を残したり、約束のごとく我を両部の主にせよかし」と言わせもあえず釈尊はからからと笑わせたまい、
「さても嗚呼(おこ)なる痴れ者かな。汝が何処(いずこ)へか漏れ出られんや。眼を定めてよく見よ」と言われても岩裂は心を得ず、辺りをつらつら見返ると五つの峯と思いしはこれ釈尊の御指にて、その中指へしかじかと我が書き付けし筆の跡はまがうべくもあらざれば、さすがの岩裂も呆れ果て、これはとばかり呆然たり。
さもこそあらめと釈尊は御手を開いて岩裂を二つ三つ四つ手玉に取って、ただ一弾きに弾きたまえば、不思議なるかな岩裂は幾万里をか落ち下り、唐天竺(からてんじく)の境の両界山(りょうかいざん)という山のほとりへどうと落ちたりける。その時にまた釈尊は大法力を施して大盤石を岩裂の背中(そびら)の方へ投げかけて▲右の人差し指でヲムマニハニウンと書かせたまうとその文字たちまち石に入って彫れるがごとく鮮やかなり。
かくてまた釈尊はその国の山の神と金剛神を呼び寄せて、
「汝たち今より油断なく岩裂を守るべし。後に名僧あってこの神は世界に出現せん。夢々怠るべからず」とねんごろに掟(おきて)たまえば、山の神、金剛神は昼夜も巌の左右を離れず、もし飢えたりと見る時は岩裂に一尺(いっしゃく)の金生水(きんじょうすい)を飲ませつつ、厳しく守っていたりけり。
既にして釈尊は岩裂を静めたまい、八幡宮に別れを告げて帰り去らんとしたまいしを八幡宮は押しとどめ、三十番神、熊野権現、富士白山の神たち諸共に喜びを述べて様々な布施物を参らせたまえば、釈尊は再び坐に立ち返り、両部の神たちに告げたまう様、
「あの岩裂の始めは火の神迦具土(かぐつち)の血潮なりしを伊耶那岐(いざなぎ)の尊が嫌わせたまいて遙かに投げ捨てたまいしに、そのこれる血潮は二つになって、一つは讃岐の国に落ちとどまり、一つは方便山にとどまりぬ。しかるに方便山にとどまりしは悪血で悪しき血なる故に岩裂の神と現れて良からぬ業を事とせり。また讃岐の国へとどまりしはその精血(せいけつ)にて良き血なれば金毘羅大王と現れて、仏法守護の誓いを起こし、年ごろ我らに仕えるなり。さればまた薬師十二神の内にも入りて宮毘羅大将と唱えられ、第十二なる亥童子(いどうじ)これなり。されば岩裂、宮毘羅、金毘羅と三つの名ありて、一つの神なり。また一つの神にして善悪二つの神となれり。かくて今その悪しき者は石より生じて石に入り、その悪は遂に滅び失せて、皆良き神となる時は必ず国土に利益あり。夢々相違あるべからず」と説き示したまうに両部の神たちはかしこみたまいて、「金比羅が国土に出現あらば喜びこれにます事なし。ただその時節を待たんのみ」と等しく答えたまえしかば釈尊は座を立ち、阿難如来を伴いつつ早西天へ帰りたまえば、観世音も続いて恵岸童子と諸共に趺陀落山へ帰りたまいぬ。
かくてまた釈尊は霊鷲山(りょうじゅせん)におわしまして法を説き衆生を救い数多の年月を送りたまう。ある日、観世音に宣う様、
「昔、我が両部天に赴いて岩裂の神を鎮めしより既に数百の春秋を経たり。我が法は大千世界に伝えて、至らぬ所はなけれども南瞻部州(なんせんぶしゅう)日本国には未だ金毘羅金天童子経が伝わらず、この他あの神の利益を説いた阿含(あごん)宝積(ほうしゃく)の経文も先に唐土で翻訳せしはすこしづつの過ちあり。よりて我は唐文字でこれを補い正したる経文ここにあり。金毘羅王と諸共に我この経を日本へ渡さんと思いしかども未だその人を得ざりしに、あの土に名僧誕生(たんぜう)せり、太士、あの国へ赴いて、その法師を導きつつ金毘羅の行者とせば、これより利益いやちこならん。先には役の行者小角が初めて讃岐の象頭山を開き、その後、弘法大師空海もまたあの山に登るといえども衆生に利益薄かりしは金毘羅一体分身で、その一つは我に仕えまた一つは岩裂の神にして無量国にありしに分かり。
しかるに今わがさす法師この経文を信心して金毘羅王の神徳を世に知らせんとするに至れば▲悪魔の障げ(しょうげ)多かるべし。その時に助けとなるものは両界山に鎮め置いた岩裂にますものなし。大土、あの坐に赴いて斯様斯様に計らいたまえ。またこの金襴(きんらん)の袈裟(けさ)と鉢(はち)は年頃我が身に触れし物なり。これをあの名僧に与うべし。
しかれども時なお早し、今より三十余年を経て、その願は成就すべきなり。その余の事は斯様斯様」と詳しく示したまいけり。この時、大大和(やまと)人王六十代の帝、宇多天皇の御宇にあたって文章博士(もんじょうはかせ)三好清行(みよしきよつら)と言う止ん事無き儒者のありけり。易学、天文の上までもその妙を得し学者なれば、帝の御おぼえ浅からず萬に不足なき身なれども、歳三十に余るまで未だ子供がなけれかば、これのみ心にかかりけり。
かくてまた清行は妻の玉梓(たまずさ)諸共に、ある日端近く立ち出て庭を眺めていた時、忽然(こつぜん)として白い鶴に乗った仙人が目の前に降り下り、清行夫婦に向かって、
「我は役の小角なり。仏法が渡り始めた頃より葛城山に山籠もりして、数百年を経て後に文武(もんむ)天皇の御時に人間に身を現し、その後また淳仁(じゅんにん)天皇の御時には弘法大師と再誕(さいたん)して、その法力を現したる。国土に利益多しと言えども本願なおも飽きたらず今より御事(おこと)の子となって大名僧の名をあげん。我は金蝉菩薩(きんせんぼさつ)の再来。弘法もまた我なり。かかれば御事がもうける子は金蝉菩薩にして小角なり。小角にして弘法なり、弘法にしてその身なり。その徳おして□・・・・・・□▲

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
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馬琴・西遊記/金毘羅舩利生纜 第二編下

2017-02-27 09:14:33 | 金毘羅舩利生纜
されば三好清行はかかる不思議を見せられても、万巻の書を胸に修めて物に動じぬ儒者なれば、ちっとも騒がず膝立て直し、
「化けたな、野狐め。我が子を欲しく思う心を知ってたぶらかすとも、うかうかとして誘(いざな)われんや。世に申し子の再来のと事ごとく言いふらすのは愚俗(ぐぞく)をあざむく似非法師(えせほうし)の似非方便なり。女子(おなご)童(わらべ)は信じるとも、いかでか我らを化かしえん。そこな退(の)きそ」と罵りながら走りかかって丁と斬る、役行者(えんのぎょうじゃ)は消え失せて、鶴のみはっと舞い上がり、行方も知れずなりにけり。
討ち漏らしたか悔しやと清行が辺りを見ると、今まで鶴がいたほとりにいと大きな卵あり。こはあの狐が落とした白狐の玉と言うものかとよくよく見ると、さわあらで大鳥の卵なり。これも狐が化けたるならん、その手にゃ乗らぬと庭下駄を履いたままにてはたと蹴ると、卵は少しも破れずして、足は痺(しび)れ五体すくんで尻いにだうと転べば、さすがの清行にも疑念起って、卵はそのまま下部らにすざか野へ捨てさせけり。
しかれども清行は今更心にかかれば明けの朝の未だきよりすざか野に行って見ると卵はなおもつつがなく、地を走る獣も踏まず、空飛ぶ鳥は翼に被って代わる代わるに温めければ、清行は奇異の思いを起こして、昔唐土(もろこし)の湯王(とうおう)の遠祖は玄鳥(げんちょう)の卵より生まれ出たと物に見えたり。しかれば今この怪しき卵もその類にやあらんと思い、自ら懐に抱きつつ宿所に帰ってしかじかと妻の玉梓に告げれば、玉梓は深く喜び、「こは何にもあれ、仏菩薩の授けたまいし物なれば」と南向きの一間の内に布団を重ねて卵を据え置き、夜は臥所(ふしど)に抱き代えて温めなどする程に、それよりおよそ▲十月に及んで自ずから卵は割れて一人の男の子(おのこ)生まれ出て、産声高く上げれば、清行夫婦はこもそもいかにと或いは驚き或いは喜び、公(おおやけ)へは清行の妻が産んだ由に申して浄若(きよわか)と名付けつつ乳母(めのと)をかかえて乳を飲ませ、塵(ちり)さえすえず育てけり。
かくて早、浄若が二三才になりし頃、ある日、母の玉梓はその子を乳母に抱かせつつ若党、下部を引き連れて東寺へ参詣する折に、本堂の此方(こなた)に年老いた旅僧が行き違いつつつくづくと浄若を見返って、「あら尊(とうと)や。弘法大師がおわしにけり」と言いながら数珠を取り出し立ちどまり、拝んでやがて行き過ぎけり。玉梓も乳母らも気違いならんと思えば、足早に御堂へ参って大師を拝み奉ると、弘法大師の木像と浄若の顔が違わぬまでに似たりければ、玉梓は今さらに再び驚き、
「・・・・・・・さてはあの旅僧がしかじかと言いつるは、気違いにあらざりけり。先にこの子が生まれる頃の役行者の示現(じげん)の趣を思い出し、いと尊しかれば今日の旅僧も役行者にあらざりせば弘法大師に疑いなし」と心の内に思うのみ。乳母らはさる心もつかねば玉梓もそれとは言わずに只丹精(たんせい)を凝らしつつしばし念じてさりげなくその夕暮れに宿所に帰って密かに夫清行に東寺でありし事の趣は斯様斯様と告げしかども清行は微笑んで、
「物はその身の思いなしにて、不思議と思えば不思議もあり、似たりと見れば似たるもあり、浮いた事を人に知られて我を笑わせたまいそ」としのびやかに戒めて信じる気色はなかりけり。
かくて早、浄若は歳四つばかりになりし頃、また教えしにあらねども千字文(せんじもん)をもて遊び、一字も漏らさずよく読みければ、清行は深く愛で喜んで、それより日毎に手習いさせて、自ら読書を教えると一を聞いて十を知るその才智は年長(とした)けた書生も及ばぬばかりなれば、見る人聞く人驚き感じて▲神童(かんわらわ)とぞ称しける。
さればまた浄若が六つ七つになりし時、四書五経は空でも読んで唐大和の歴史まで大方ならず諳(そら)んじれども、さのみは儒書を読むも要なし、仏書を読まんと思うのみ。父は名だたる儒者なれば仏の文を読む事は喜ばず、この事をのみ嘆いて密かに乳母に囁く様、
「我が身は出家を願うなり。しかれども目に見えぬ冥土の事を旨として衆生を済度する事はいと覚束(おぼつか)なき業なれば、我は只人のために師となるべきなり。さればよく修行してその法を伝えれば災いを翻(ひるがえ)して幸いとし、死するとするをも生かすべし。死んだ人のためよりも生きた人の苦を救えば、その功徳は莫大ならずや。そなたは密かに我のために斯様斯様の経文を買い求めて得させよ」と思い入りてぞ語らいける。乳母は驚きかつ感じて、
「只その望みに任せま欲しく思えども、親が許さぬ事を我がわたくしには計らい難し。しばらく時を待ちたまえ」と、さうなく請けも引かざりければ、浄若(きよわか)はそれよりして乳母にも語らず一人心を苦しめて、もし使う奴婢(ぬひ)などが病み患う折など或いは物の失せた時は密かにこれを祈る時、患う者はたちどころに病が癒えずと言うことなく、失せたる物が幾程もなく自ずからに出て来れば乳母らいよいよ驚き感じて、先に言われた事をさえ斯様斯様と落ちなく玉梓に囁くと、玉梓もまた驚き感じて、清行にこれを告げると清行はなお疑って、
「いかでかはさる事あらん。我が自ら試してみん。浄若を呼びたまえ」とほとり近く招き寄
せて、
「御事は日頃、何事でも祈れば印ありと聞けり。もしその事に相違なくば今宵のうちに庭の梅を咲かせて見せよ。いかにぞや」と言われて浄若はちっとも否まず、「仰せは真に逃れ難し。心許なき技なれども祈りてこそ」と答えつつ、やがて一間に閉じこもり、その夜もすがら祈りけり。
頃は十月の初めにして庭の古梅の枝に少し蕾は恵めども、なお二ヶ月も過ぎざれば開くべくもあらざりしが夜明けてみればこは如何に、一夜のうちに花が咲き匂いは遠く聞こえるまでに、春にもまして麗しき。事の奇特(きどく)を今さらに不思議というも愚かなれば、玉梓、乳母はいえば更なり清行も我が子ながら浄若はあなどり難しと思いけり。
さればこの事は隠れなくあちこちへ聞こえれば、折に触れて浄若を▲大内に召されしが、浄若は只これらの奇特のみにあらずして、糸竹の技をよくすれば、帝を始め奉り雲の上人とりはやして感嘆せぬはなかりけり。
しかれども浄若はこの事を嬉しいとは思わず、出家の願いしきりなれば、歳十ばかりになりし頃、父にも母に急に身の暇を乞いけれども清行はこれを許さず、御身は儒者の子と生まれて、いかでか仏の道へ入るべき。ひとえに家業を受け継いで帝に仕え奉れば、我が国の孔子と言われん。出家の事は思いもよらずと固くとどめて聞かざれば、浄若は今は是非に及ばず心一つに思い定めて、人無き折をうかがって自ら髻(たぶさ)を切り捨てて「いでて行かば 庭の松風ふたつなき みのりの道に入ると答えよ」と一首を障子に書き残し、その夕暮れに忍び出て比叡の山によじ登り、玄照法師(げんしょうほうし)を師と頼み、遂に剃髪受戒して法名を浄蔵(じょうぞう)と呼ばれたり。
かくてまた浄蔵は大慧法師★(だいけいほうし)に従って、密教の旨、悉壜(しったん)の奥義までその源を極めれば梵字に詳しい事は更なり、よく天竺の言葉に通じて天台、真言の両宗に秀(ひいで)でたり。
さる程に、清行夫婦はその夜、浄若が書き残した句を見て驚き嘆いて、八方へ手分けして残る方なく尋ねさせると比叡山に忍び行って姿を変えた事の趣がようやく聞こえれば、今は力も及ばずと遂に出家を許しつつ、折々衣服を使わすと浄蔵もまた手紙(せうそこ)して親の心を慰めけり。
さる程に浄蔵法師は比叡の山に在りしこと既に十年ばかりにして□□を行脚せんために、遂に比叡山を立ちいでて四国、九州を落ちなく足に任せて巡る程に、人のために祈祷をしつつ、その災いを払うこと幾人ということなければ、里の老若は敬い信じて、弘法大師の再来ならんと言わぬ者なんなかりける。
かかりし程に浄蔵法師はその年の十月ばかりに出雲の国へ赴いてつづき?の社へ参りけり。そもそもつづきの□神は大穴牟遅の尊にして世に大社と申すはこれなり。およそ年の十月には八百万の神々がこの社へ集まりたまいて、世の中にあらん限りの男女の縁結びをしたまうと言い伝えあれども、浄蔵法師はさる心もつかずにたまたま参りし御社に一夜の法施を奉らんと一人拝殿に籠もりつつ経を読みつつおる程に、夜は早子(ね)二つと思う頃、遙かに社段の方にあたりて数多の人の声したり。浄蔵は心にいぶかり耳をそばだてよくよく聞けば、不思議なるかな神々がこの社に集まりて世の中の男女の縁結びをしたまうに、それの国なるなにがしにはなにがしの娘を合わせん。それの里の誰だれの子には誰だれの娘を合わせんと語らいつつ結びたまう。その有様こそ目には見えねど御声が定かに聞こえれば、浄蔵は奇異の思いをして、つくづくと聞くに▲当代の帝に仕え奉る文章博士三好清行の子浄蔵には越前の国敦賀(つのが)の国つこ大見の次官仲起(なかおき)の娘わかを姫を結ぶべしと高やかに語らいたまえば、また一柱の神の声がして、子は幾人あるべきかと宣うに男の子二人と答えたまいて、その後は音もせず、浄蔵法師は思いがけなき我が縁結びに肝潰れて心の内に思う様、
「・・・・・我が身は幼き時より仏の道に志し深く、遂に出家を遂げればいよいよ潔斎精進(けっさいしょうじん)して五戒を破りし事なきに、転(うたて)かりける神託かな。よしそれとても神々の我がこの後の道心(どうしん)を戒めたまうものにや」と或いは疑いあるいは嘆いて、いよいよ祈念(きねん)を凝(こら)しつつ、なおあちこちと霊場霊地を拝み巡って西の国々を残るかたなく三年(みとせ)ばかりの旅寝を重ねて、また陸奥(みちのく)の方へとて、ある年の秋の頃、越前の国まで来つ、敦賀(つるが)のほとりを過ぎる時に、この日は宿を取り遅れて、ある塚原に野宿をせしに、いと若き男女が慌(あわ)ただしく走り来て、茅(ちがや)の中に立つ石の地蔵を伏し拝み、涙を流し念仏を諸共に唱えつつ、既にしてその男は刃をきらりと引き抜き、女を殺して我も諸共に死なんと誓う覚悟の体ぞ無惨なる。
浄蔵法師は木の間漏る月を明かりにつくつくと見て驚き哀れみ、走りかかって押し止め、
「何人(なんびと)なるかは知らねども、添うに添われぬ訳あって共に死なんとせらるるならん。人を救うは法師の役なり。まずその事の趣を包まず告げて名乗りたまえ。否々(いないな)殺さぬ殺さぬ」と身を立て伏せし、情けの言葉に男は驚き見返り、人はあらじと思いし野末(のずえ)に思いがけなき御出家に止められた面目無さに
「今は何をか包みはべらん。これなるは敦賀の国つこ大見の次官仲起主の息女にて、わかを姫と呼ばれたまえり。またそれがしは近き辺りの里人の子で父母は早く世を去って孤児(みなしご)になりしかば、叔母(おば)の計らいで▲新菩提寺へ縁(よすが)求めて寺の小姓となり、水の介と呼ばれたり。数ならねども先祖より氏は細江(ほそえ)と申すなり。しかるにその新菩提寺は大見殿の菩提所なれば、この姫上も母君と諸共に折々詣でたまう時に、いかなる宿世(すくせ)の悪縁なりけん、互いに思い思われて、人目の関をやや越えし只一度の転(まろ)び寝に姫上は身ごもりたまいつつ、人の目二つ程なれば姫上あるにもあられずとて、この宵の間に館を出て忍んで寺へ来ませしかば、逃れる道の無きままに共に死なんと手を引いて、ここまで走り来つるなり。我が身は親の菩提のために法師とならん願いあれば、御寺の小姓となりたるに色に迷うてあまつさえこの国の姫上を非業に殺す罪状は後の世をさえいかにせん。只この上の情けには回向(えこう)を頼み奉る」と言いつつ涙を押し拭えば、姫上はよよとうち泣いて、
「とても逃れぬ二人の命。今に及んで御出家に会い参らせしは恥ずかしけれど、なお後の世に頼みあり。亡骸(なきがら)隠して賜れば此の上もなき功徳ぞよ。やよ水の介、追っ手やかからん。さぁさぁ殺してたまいね」と最後を急ぐ二人の有様、迷いさこそと浄蔵法師はなお様々に諫め諭して
「両人共に死するに及ばず。只これまでの縁(えにし)とあきらめ、別れて時を待つならば男は早く影を隠して新菩提寺へ帰るべし。決して祟(たた)りあるべからずにしや。また此の息女は追っ手の者に引き戻されて館へ帰りたまうともいかでか親の手に掛けて害せんとまでせられんや。我は浄蔵と言う旅僧なり。浮き世の人の災いを払うための抖藪(とそう)行脚(あんぎゃ)の者なれば、よしや御身二人の代わりに命を失う事ありともいささか恨む所にあらず。これすなわち仏の慈悲なり。我が謀り事は斯様斯様」と心の機密を説き示すと、わかを姫も水の介も始めは従わざりけれども死に遅れたる悲しさは男は女を助けんと思い、女は男を助けんために、ようやくに受け引けば、浄蔵は深く喜びなおも諫(いさ)めて水の介をそこより寺へとて帰し使わし、その身は姫を送らんと敦賀の方へ赴く時に道にて追っ手の武士に出会い、事の難儀になりにけり。
浄蔵法師はわかを姫をようやく諫(いさ)めて、敦賀の館へ送らんと先に立って行く程に、向こうより来る追っ手の兵(つわもの)が松明振り上げきっと見て、「すわ、姫上にておわするぞ。この生白き法師こそ不義の相手に違いなし。逃がすなやるな」とひしめいて有無を言わせず浄蔵をおっとりまいて三寸縄(さんずんなわ)で腕(かいな)も折れよと戒めたり。わかを姫はこれを見て、「ノウ浅ましや。この聖(ひじり)に過ちは無きものを」と言うも聞かずに人々はわかを姫を守護しつつ浄蔵法師を引き立てて、その明け方に敦賀の大見の館へ帰り着き、しかじかと聞こえ上げれば仲起はわかを姫を一間の内へ厳しく押し込め、時を移さず書院の庭へ浄蔵法師を引き据えさせて不義の子細を責め問うが、浄蔵法師はちっとも臆せず、
「それがしは此の春の頃まで新菩提寺のほとりにおりし野伏せりの法師なり。しかるに姫上があの寺へ参詣の折に見初め、耐えぬ思いのゆるかたなさに先つ頃より夜をこめて姫の臥所に忍び入り、理(わり)無く枕を交わせしより姫上身重くなりたまえば、こと表れん事の惜しくて昨夜(ゆうべ)密かにうかがい寄って、得心(とくしん)もなき姫上を無体に盗みだせしなり。されば姫上は思いがけなくその身を汚したまえども、初めよりしていささかも得心の不義ならねば、その咎(とが)は我が身一つにあらん。▲ともかくも計らいたまえ」と真しやかに述べれば、仲起は怒りに耐えず、姫をも共に斬って捨てんとしきりに息巻き苛立つを仲起の奥方のあさの井御前は様々に夫を諫(いさ)め、
「あの法師こそ憎んでも憎み飽かざる者なれども。聞くが如きはわかを姫を同じ咎にて失うは、真に不憫の事ならずや。逸(はや)りて後悔したまうな」と涙とともにかき口説けば、仲起の嫡子(ちゃくし)太郎仲実(おきさね)も諸共に父を諫めて、
「只今妹を害したまえば、この事たちまち世間に聞こえて、先祖を汚す家門の瑕瑾(かきん)この上や候べき。妹の事は穏便の御計らいこそ寛容ならめ」と言葉を尽くして止めると仲起はわずかに怒りを溶かして、遂にその義に任せつつ、さらばその悪僧の頭(こうべ)をはねよと下知すると、逸り雄(はやりお)の家臣は早くも土俵(どひょう)を突き立てて浄蔵法師を土壇(どだん)に押し据え、斬り手の家臣は刀をひ下げて後ろの方に立ち回り、咎の趣数えたて既に斬らんと身構えたり。浄蔵法師は咎なく浮き名を残す今わにも騒ぐ気色もなく予て心に思う様
「・・・・・我はこの世の人のために厄難を払わんと大願を起こし、年頃人を救いしが、わかを姫、水の介らは加持祈祷の力でも助かり難き命なれば、破戒の恥をかえりみず我が身を捨てて二人に替わるは立てし誓いに違わじと思い定めし事ながら、今さら思えば出雲にて神が結びたまいし事、真の縁(えにし)ならねども遂に逃れぬ因縁なりき」と過ぎ越しかたを思いやる臨終正念(りんじゅうしょうねん)潔(いさぎよ)く、口に絶えぬ読経の声のいとも殊勝(しゅしょう)に聞こえけり。さる程に大刀取りは浄蔵法師の後ろより今が最後ぞ観念せよと掛け声高く振り上げる刃は不思議や鍔元(つばもと)より三段(みぎた)、四段(よぎた)に折れ飛んで、その身も共に退(の)け様にたちまちだうと転べば、人皆驚き怪しみながらさてあるべきにあらざれば三人まで斬り手を代えて頭をはねんとしたれども、皆大刀は折れ、主は転んでいかにとも詮術なさにかくと注進してければ、仲起もまたいぶかって、察する所、悪僧めは幻術魔法に長けたるならん。詮術ありと忙わしく自ら弓矢を脇挟み、縁側に立ちながら射殺さんとすれども、その弓の弦もたちまち切れたり。仲起はしきりに苛立って取り替え引かえ引かんとするも、弓は折れ弦も切れ、これもまた詮術なければ、さすがの仲起は呆れ果て、この悪僧めの幻術は速やかには破り難し、厳しく繋ぎ置くべしと再び牢屋(ひとや)へ使わしけり。
かくてその夜、仲起夫婦が見た夢に羅刹(らせつ)の如き一人の菩薩が忽然と現れて、仲起夫婦をはったと睨(にら)み、「汝らの罪状、最も重し。いかなればきんぜん菩薩を害せんとしたるぞや。その菩薩はこの国に初めは役行者と現れ、中頃はまた弘法大師と再誕して世に著し、今の浄蔵法師に至って三度に及ぶ菩薩の再来。凡夫(ぼんぷ)の眼(まなこ)に見知らずとも仏を敬う心あれば、害せんとまではすまじきに。憎きをこの痴れ者かな。冥罰(みょうばつ)思い知らせん」と持ったる三鈷(さんこ)を投げ打ちたまうに、仲起の肩先へ当たると思えば、また跳ね越えて方辺に伏したあさの井御前の額(ひたい)にはたと当たるとそのまま夫婦等しくあっと叫んで諸共に驚き覚めれば、仲起は右の肩先痛む事はなはだしく、あさの井御前は額のただ中が鞠(まり)の如くに腫れ上がり、いと大きなる瘤(こぶ)になりたり。
かくまで不思議な正夢(まさゆめ)に夫婦は恐れ懺悔(ざんげ)しつつ、明けるを遅しと浄蔵法師を牢屋から助け出し、衣服を与えて上座に勧め、仲起夫婦は病をおして嫡子(ちゃくし)仲実(なかざね)もろともに浄蔵法師を伏し拝んで夢見し事を物語り、
「さても昨夜(よんべ)の正夢にこの冥罰(みょうばつ)を与えたまえし羅刹は如何なる神やらん。その体たらくは斯様斯様」と告げるを浄蔵は聞きながら、
「それこそ蔵王菩薩(ざおうぼさつ)ならめ。蔵王は魔性降伏(ましょうごうぶく)の怒りの姿を表して右の御手には三鈷(さんこ)を取り、弓手(ゆんで)で腹を押さえたまう。釈迦牟尼仏の変相で吉野山に現れたまう蔵王権現これなり」と事明らかに説き示せば、仲起夫婦はますます恐れて
「真にあの菩薩は▲役行者に因(ちな)みあり。我々凡夫の悲しさは権化の再来におわします貴僧とも知らずして、こよなき罪を作りたり。願うは娘を参らせん。我々のこの病を加持して救いたまえかし」と涙とともにかき口説けば、浄蔵法師は一義に及ばず数珠さらさらと押し揉んで、しばらく祈念をこらす程に不思議なるかな仲起の肩の痛みはたちまち癒えて、あさの井御前の額のこぶも日向(ひなた)に雪が溶けるが如くに早痕もなくなくなれば、仲起夫婦親子は更なり一家の男女はあっとばかりに等しく随喜(ずいき)がっこうの信心肝に銘じける。この時にまた仲起夫婦は浄蔵法師を伏し拝んで
「法言(ほうげん)真にあやまたず、利益は例えんものもなし。この喜びの引き出物に娘わかを姫を参らすべし。昔より唐天竺にも大徳智識(だいとくちしき)が妻をめとり、子を産ませし例(ためし)ありと聞く。願うはこの地に杖をとどめて、わかをと夫婦になりたまえ。娘は早身ごもって五ヶ月に及ぶと聞けり。かかる尊き聖の胤(たね)を宿せしこそ幸いなれ。今さら違背あるべからず」とまめやかに語らえば、浄蔵法師うなずいて「候、真に逃れ難し。まづ吉日を選びたまえ、さのみは急ぐ事ならず」と言うと喜ぶ仲起夫婦は心を尽くして様々に浄蔵法師をもてなしけり。
その中にわかを姫は浄蔵法師の心の中を計り知るべき由のなければ、どうなることぞと人に問われぬ胸の苦しさは言うべくもあらず、只、水の介の事をのみ嘆いていたりしが、その夕暮れに浄蔵法師は人無き折をうかがって、わかを姫に囁く様、
「我、かくまで計らい、ようやく無事に収めたり。なおこの上を慎みたまえ。御身の腹の嬰児(みどりご)が七つばかりになる時に、再び計らう術(すべ)あれば水の介に会わすべし。よくよくその子をもり育て、親御の心を慰めたまえ」と忍びやかに戒めて、その夕暮れに庭口より何地(いずち)ともなく逃げ失せけり。
さる程に浄蔵法師は夜もすがら道を急いで五六里ばかり来たと思う頃、早明け方の星もまばらになれば、ここまで追っ手はよもやかからじ、しばらく疲れを休めんとあちこちを見返ると東の方の森のほとりに一つ家がありとおぼしくかすかに火の光が見えれば浄蔵はそこに赴いて門(かど)打ち叩き湯を乞えば、内より誰(た)そと答えつつ火燭(かそく)を取って戸を引き開けるをと見れば思いがけもなき細江水の介なれば、こはそもいかにとばかりに互にいぶかりかつ喜んで、水の介は忙わしく簀の子の塵を打ち払い、浄蔵をうやうやしく上座に招ずれば、浄蔵法師は水の介が新菩提寺にあらずして此の所にあることを如何にぞやと尋ねると、水の介は浄蔵を伏し拝んで、さて言う様、
「それがしは聖の教えに任せて命を全(まっと)うしたれども、そのまま寺へ帰りおらんは後ろめたき業なれば、再びここに影を隠して浮浪の身となりはべりぬ。此の里の名をくち(くら?)と呼べり。縁の者の宿所なれば、まずゆるやかにおわせよ」と様々にもてなすと浄蔵は敦賀で斬られんとせし事の趣、蔵王権現の無双の霊験、我が法力の始め終わり、敦賀を走り去りし事までつまびらかに物語れば、水の介は驚き感じて
「真に聖はありがたき生き菩薩にてましますなれ。それがしは色に迷いしより遂に出家の望み叶わず、あまつさえ我ゆえに大徳の聖をさえ刃の錆(さび)となさんとしたるは悔やんで返らぬ罪状なり。とても時節を待つとても、あの姫上といかにして夫婦になれる身にもあらず。これを菩提の種として行脚の御供を仕らん。御弟子にさなれ下されよ」と涙ながらに乞い願えば、浄蔵法師はいとど不憫におぼえて、やがて望みに任せつつ、剃髪させて法名を水月沙弥(すいげつしゃみ)と名付けたり。
さる程に、浄蔵法師は水月入道を伴って飛騨より越後を勧化して、陸奥(みちのく)の果てまで赴く時に、あちこちに逗留して七年を経れば、十年(ととせ)に及ぶ長旅に父母のことも心もとなく、一度都へ帰らんと加賀の国まで来る時に、水月法師は病み患って、心地死ぬべく見えしかば、浄蔵は哀れみいたわり、
「我、予てより思いしは、わかを姫の腹に宿りし汝の子も今頃はさこそ大きくなりつらめ。今度も道の便宜(びんぎ)なれば必ず敦賀へ▲立ち寄って親子の対面させんずものをと心構えをしたりしが、妹背(いもせ)の縁の絶えたるのみか親子の因みもここに尽き、今隣国まで帰り来ながら永き別れにならんこと嘆くにあまりありと言えども、恩を捨てて無為に入りしその功徳は莫大なれば仏果を得んこと疑いなし。心静かに往生せよ」とねんごろに説き示せば、水月法師は嬉しげに
「ありがたの引導や。先に我が師の教えによって煩悩の闇をいでしより真如(しんにょ)の月を鷲の峰に眺めんとのみ願う身のいかでか浮き世に心をとどめん。願うは我が師百年(ももとせ)の齢を保って衆生のためになおも利益(りやく)を施したまえ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱える声と諸共に眠るがごとく息絶えけり。享年二十二才なり。
かかりしかば浄蔵法師は水月の亡骸を次の日荼毘(だび)の煙となし、その白骨を頭陀袋に収めて襟に掛け、また五六日旅寝を重ねて越前の国敦賀(つのが)の郡(こおり)気比(けひ)の社のほとりまで来にけり。
この御神は当国に名だたる大社なれば、拝殿に杖を進めてしばらく念じ奉り、退き出んとする時に我より先にこの御社へしかるべき人々が詣ったとおぼしくて、その人々が内陣より連れだって出て来たり。浄蔵法師を見返って、
「こは、聖にておわしけり。いかにやいかに」と呼び掛けるのを浄蔵もまた忙わしく頭を巡らせ見るに、先に立ちしはこの地の国つ子大見の次官仲起なり。後に続くはあさの井御前とその娘わかを姫にて、六つ七つなる幼子(おさなご)の手を引きながら立ちいでたり。その時、仲起、あさの井は浄蔵法師に向かって、
「絶えて久しや浄蔵聖。などてや後をくらまして、年頃□を思わせたまいし、早七年の昔になりぬ。御身の行方をあちこちと尋ねれども消息なし。もとより権者(ごんじゃ)の事なれば、また巡り会うこともやと思うばかりを心あてに、かく年月を送りたり。これ見そなわせ。此の幼子はすなわち御身の胤にして、しかも双子でありければ先に生まれしを太郎若(たろうわか)と名付け、後に生まれしを乙若(おとわか)と名付けたり。さればまた娘わかをは他に男を持つまいと誓いを立てて、垂れ尼(たれあま)の髻(たぶさ)を切りし心映え。哀れとは見たまずや。なふ、太郎若や乙若よ。これぞ御身同胞(はらから)が年頃恋しや懐かしやと慕いし父御(ててご)なるものを」と言われて幼き兄弟(あにおとうと)□は「この聖こそ父上にてましますか。なう懐かしや嬉しや」と右と左に取り付いて喜び涙の孝心(こうしん)に浄蔵もまた引き寄せて、「親はなくとも子は育つ、さても大きうなりけるな。いでいで父に会わせんず」と言いつつやがて頭陀袋より取り出す一つの位牌を弓手に高く取り上げて、
「見よや兄弟。この位牌に延義(えんぎ)二年四月八日水月沙門(すいげつさもん)と印したる俗名は細江氏水の介と言いし者。それこそ真の父なれ」と告げるに「さては」とわかを姫は包むに余る袖の雨、一声よよと泣き沈む事の心を得知らぬ仲起、あさの井御前もいぶかりおて、「心得難き聖の言の葉。御身の□ふこの孫どもの真の父とは如何にぞや」と問われて浄蔵うなずいて、
「今は何をか包むべき。わかを姫の密か男(みそかお)は新菩提寺の小姓の細江水の介と言いし者。斯様斯様の事によりそれがしの弟子となりて水月と名を改め、七年行脚の供にたち諸国を修行し歩きしが▲去(い)ぬる日、加賀の国境なに立花のほとりにて、にわかに空しくなりにたり。始めを言えばしかじか、終わりは斯様斯様ぞ」と始め水の介とわかを姫と死なんとせしを押しとどめ水の介を帰しつかわし、二人を無事に救わんために我が身が破戒の恥を厭(いと)わず、命を捨てても浮き世の人の災いを払わんと思い定めし志を仏菩薩が哀れみたまいて不思議に命を助けられ、あまつさえわかを姫をめあわせんと言われしかば、さりげなくもてなして、その夜密かに逃れ出て計らずもくちの里にて水の介と巡り合い、彼の願いに任せて剃髪させて弟子として従え、七年諸国を行脚してやや立ち帰り来る程に加賀越前の国境立花の里で水の介入道は大往生を遂げれば、その亡骸を火葬して白骨を我が襟にかけたり。
かくのみ言わば亡き人に破戒の汚れを塗りつけて身を潔くするにやと疑わしくも思われん。親子の虚実を試し見るには、その血をもってその血に注ぐと真の親子はその血は集まり親子ならねばその血潮は分かれて寄らずと言い伝う。これ見そなはせんに」と言いつつやがて懐より戒刀(かいとう)を取り出し、小指をつんざき血潮を取って水飲み柄杓(ひしゃく)にこれを受け、また太郎若と乙若の小指を少し突き破り血潮を柄杓に絞り入れると、兄弟の血が一つに寄るのみで浄蔵の血とは分かれたり。
かくてまた浄蔵法師は水月法師の白骨を頭陀袋より取り出して再び太郎若、乙若の小指の血潮を絞り注ぐと、その血はたちまち染み付いて、拭き拭(ぬぐ)えども失せざりけり。
仲起夫婦は目の当たりにかかる証拠を見れば、初めて悟る娘の密かを驚き恥じて、かくまで目出度き清僧を我が孫どもの父なりと思いし事の愚かさに許したまえと詫びるに、わかを姫はあるにもあられず
「恥ずかしいや、もったいなや。七年このかた親を欺(あざむ)き聖に無き荷を負わせた身の罪咎をいかにせん。面目なや」とばかりに懐刀手早く取り上げて喉を突かんとする程に、浄蔵は急に押しとどめ、
「こは物にや狂いたまう。今さら御身が自害してまた何の益あらん。我が上にかこつけて水の介に立てる操の髻(たぶさ)を既に切りたれば、これよりまさしく受戒して菩提の道へ入りたまえ。それこそ貞なれ孝なれ」といさめて刃を引き離せば、「さては死なれぬか」と声をたてて泣き沈む。二人の子供はもらい泣きの涙を等しく拭い、「母上、さのみ泣きたまうな。親に非ずと宣うとも此の聖こそ我々が年頃慕いし父上なれ。離ちはせじ」とまつわれば、浄蔵はしきりに嘆息しつつ仲起夫婦にうち向かい、
「それがしに一つの願いあり。この兄弟をたまわるべし。我が子として出家させ、我が法力を受け継がせん。これ一朝の因縁ならず、十年ばかり先の秋に出雲の大社にて斯様斯様の示現(じげん)あり。それがしとわかを姫とに妹背の縁(えにし)を神々が結びたまうて、あまつさえ持つべき子供は二人ぞとまさしく聞こえさせたまえり。妹背の縁は真ならで、真にもます恩義あり。此の子供らは真の子ならで親子となるべき因果あり。出雲の神託、今ここにいよいよ虚しからぬを知れり。受け引かれれば幸いならん」と事つまびらかに説き示す一トかたならぬ▲奇異妙契(きいみょうけい)に、仲起夫婦は一義に及ばず
「しからばこれ神仏の計らせたまう縁(えにし)なり。この孫どもの行く末は聖に任せたまわん。わかを姫の受戒の事も一重に頼み奉る。敦賀の館へ立ち寄りたまえ」とねんごろに誘って皆諸共に宿所へ帰って様々にもてなしけり。
かくて浄蔵法師はわかを姫に受戒させ、法名を指月(しげつ)と授け、また二人の子供らの髻も剃り落とし兄を浄空(じょうくう)、弟を浄寂(じょうじゃく)と名付け、仲起夫婦に別れを告げて二人の子供を携えつつ都を指して急ぎけり。
さればまた大見の仲起は新菩提寺に水月の墓を建て、指月の尼にその菩提を弔わせ、その後、家督を嫡子仲実(なかざね)に譲り渡し、仲起夫婦はしゅく髪入道して、息女の尼指月と共におこないすましてまた幾ばくの年月を送りしとぞ。
○これより先に都では浄蔵法師の父三好の清行が不慮の勅勘(ちょくかん)をこうむって、はなしめしうとくなりにけり。事の子細を尋ねるに、
「去ぬる延義元年春の頃、菅丞相(かんしょうじょう)道真(みちざね)公は時平公(しへいこう)の讒言(ざんげん)により無実の罪に沈ませたまいて、筑紫の太宰府へ左遷せられけり。しかるに清行は官家(かんけ)と睦(むつ)まじければ、その前年の師走ばかりに密かに官家へ書状を参らせ、やつがれは近頃天文時運(てんもんじうん)を考え候に、昨年の春に至って御身にこよなき災いあるべし。早く大臣の職を辞し、その災いを避けたまわずば、御後悔もや候わん」とひたすら諫め参らせるが官家はなお思し召す由やありけん、元のままにておわせしかば、遂に筑紫へ流されたまえり。この事をいかにしてか時平公は伝え聞いて、
「清行は予てより道真に語らわれて帝をおろし奉り、斎世(ときよ)親王を位につけ参らせんと謀りし欲の聞こえあり。早く追放あるべし」と聞こえ上げたまうに、帝はその義に任せたまえば、清行は思いがけなく位司(くらいつかさ)を止められ、たちまち都を追われけり。
この時、宇多大王の日つぎの御子(みこ)敦仁(あつひと)親王は既に御譲りを受けたまいて、御位(みくらい)に着きたまいしかば、醍醐天皇と申し奉るすなわち寛平十年を改めて昌泰(しょうたい)と改元あり。それよりまた四年に至って延喜元年と改めたまえり。
この帝は御歳のいと若くおわしませしに中宮は基経(もとつね)公の御娘時平公の御妹にてましましければ、或いは道ならぬ妬(ねた)みにより、或いは私(わたくし)のひきをもて讒言(ざんげん)内外より止む時なかりしかば、官家は無実の罪に落とされ清行も思いがけなく勅勘(ちょっかん)の身となりしなり。
しかれども清行は易学、天文、古(いにしえ)にも類い希なる儒者なれば、帝は密かに惜しみて、遠き国々へ追いも流しもしたまわで、洛外の地に閑居(かんきょ)してかしこまりおるべしと掟させたまう。清行は遠くも得去らず大津のほとりに侘び住まいして売卜(ばいぼく)を生業(なりわい)とし、元より得たる道なればその占いは妙ありと日々に卜筮(ぼくぜい)を求める者がしばしも絶える暇なければ、清行(きよつら)は中々に貧しからず世を渡りぬ。
しかるに妻の玉梓は十年に及ぶ浄蔵法師の訪れ無きを思い侘び、胸安からぬ年月の積もり積もりしつかえさえ、なおまた夫清行が勅勘の身となりしよりいとど病のかずそひて、延喜二年の春の頃より大方ならぬ病気(いたつき)の神も薬も印しなく、その年の五月半ばに遂に空しくなりにけり。
▲されば親しき里人らが遠近(おちこち)より集い来て、野辺送りの事を助けて、既に棺(ひつぎ)をもたげ出さんとする時に、たちまち庭の槐(えんじゅ)の木に喜びのカラスが鳴きければ清行は密かにいぶかって、今我が家の憂(うれ)いにあたって喜びカラスが来て鳴く事は故こそあらめと心にうなずき、袖の内にてこれを占い、さればこそとて忙わしく出す棺を押しとどめ、人々にうち向かい、
「その棺を出すべからず。今日より三日の内に我が子浄蔵が帰り来つべし。彼は二十年ばかりの昔、比叡の山に赴いて仏法修行十年に及べり。かくて世の人の厄難を払わんと言う大願を起こしつつ、諸国を巡ると聞こえしのみ。それよりまた十年を経たれども一度も訪れなし。母の病もこれより起こりて年頃を経るままに、かくは空しくなりにしを彼が立ち帰るを待たずして速やかに葬れば死したる母も本意なからん。しかるを言わんや浄蔵の名残惜しさは□□□にますべし。しばらくかくとあるこそよけれ」とみせんを察せし言の葉に、人々もまた予てより清行の占いに妙あることを知らぬもなければ、実(げ)にさることもあらんかと棺を一間にかき据えて暇乞(いとまご)いして帰るもあり、なおとどまるも多かりけり。
かくて早第三日の七つ下がりになれども、浄蔵法師は帰り来ず、里人らは覚束(おぼつか)なしと、また清行の宿所に集まり、親しき者どもひたすら清行を諫める様、
「先生の占(うら)かたは元より百発百中で、これまで違いし事はなけれど、上手の手より水の漏る考え違い無き由もあるべからず、当たるも八卦(はっけ)当たらぬも八卦とは世話にも言わずや。今夏の日の暑きも中に死したる人を便々(べんべん)ととどめ置くことは人聞きもよろしからず。同じくは今宵の内に葬りたまえ」と勧めると清行は心の内ではいかでかはさる事あらん、今宵のうちには浄蔵が必ず帰るべきものをと思えども、里人らがとにかく言うを争いかねて、実に浄蔵が帰るを待って葬りの業をするとも死したる者が黄泉路帰るにもあらず。今宵只一夜にして我が子の帰るを待ち難きも宿世(すくせ)あっての事ならんとたちどころに思い返して、里人らにうち向かい、
「言われる趣はよん所なし。さらば今宵葬るべし。しかれども浄蔵が帰り来ることは疑い無きに道で法師に行き会えば、一人一人に名を問いたまえ。彼は年十ばかりの時に出家してより一度も帰り来しこと無き者なれば、よしや道にて行き会うとも各々(おのおの)はその顔を知らず、彼もまた母親の棺なりとは知らざるべし。必ず抜かりたまうな」とねんごろに指図をすれば里人らは皆心得て、その夕暮れより人数多で松明を振り照らしつつ各々棺を送りけり。
さる程に浄蔵法師は思いがけなく子供をもうけて、その兄弟を助け引きつつ越前の敦賀を発ち出て、幼き者を助け引く心苦しき旅寝を重ねて近江の国まで来にければ、まず叡山に赴いて師の坊の安否を尋ね、浄空、浄寂兄弟を我が子にした由を告げ、浄空は玄照(げんじょう)法師に教育の事を頼み、その坊に残し置き、また一人の師の大慧(だいけい)法師を訪ねるとそは近き頃仮初(かりそ)めに一条それの橋の辺りの何がしの院にありと聞こえしかば、また浄寂を携えて大慧法師のもとに赴き、しかじかと物語って浄寂を頼み置きけり。
されば玄照、大慧の両法師は浄蔵法師の行脚の利益を尋ね聞き、かつ感じかつ喜び▲世に名僧のいでたるは我が道の幸いなり。言わんやまたその恥を厭(いと)わず義により子を養いしはいと成し難き功徳なり。藍よりいでて藍より青き浄蔵は我らが及ぶ所にあらずとて各々浄空、浄寂を教え育めば、この兄弟も人となりて名僧の聞こえあり。後には越前に赴いて母の心を慰めけり。
かかりし程に浄蔵法師はこぞ(去年)の春、都の騒動で父清行も思いがけなく勅勘をこうむって、今は大津にある由を大慧法師の元で初めて聞けば、大方ならず驚いて、官家左遷の御事は陸奥(みちのく)にて聞いたれども親の上は知らざりけり。聞きつつ今宵大津に行かずばいよいよ不孝のもととなるべし。さはとてやがて別れを告げて忙わしく立ちいずるに、既にして日は暮れたれども五月の空は珍しく名残無く晴れたるに、折ふし望月なりければ真昼の如く明かりけり。
かくて浄蔵法師は早一条の橋まで来て渡らんとする時に、肉叢(ししむら)動き胸騒ぎただならず覚えしかば、こはそも如何にと怪しみながらと見れば、棺を送り来る人数多が引き続いて橋の半ばで行き会いけり。その時先に立ちし者が高やかに声をたて、「そこへ来ゆる御僧は浄蔵聖にあらずや」と呼び掛ければ、浄蔵は聞いて「真にさなり。その亡き人は三好殿□からにはあらずや」と再びこれを問い返されて、里人らはどよめきつつしばらく棺をたてさせて浄蔵に向かい、母玉梓が死せし事、父清行が言いつる事の始め終わりを取り摘(つま)んで斯様斯様と告げるにぞ、浄蔵は驚き悲しんで
「父の先見まことに妙なり。仏法修行のためではあれど二十年余り父母に遠ざかるが、只四五日の程にして我が母の臨終に得会わざりし悲しさに、我、この年頃国々で人のために病を祈りその必死を救いし事は幾度という事を知らず。今この功徳によるならば母の命に限りありとも一度は蘇生して親子の対面したまわざらんや。やよ待ちたまえ、人々に祈りて見ん」とうやうやしく棺に向かい、数珠押し揉んで半時ばかり祈ると、棺の内で声をたてて玉梓が蘇生すれば、人々は驚きかつ感じて、そのまま助けいだすに、浄蔵は深く喜んで薬を取り出し母に進め、なお様々にいたわって棺を砕いて川へ流させ、母親を背負いつつ、また里人に送られて大津の宿所へ帰りしを感ぜぬ者なんなかりける。
さればくだんの橋より死した母が帰れば、一条の戻り橋としてその名は末世に残りけり。
さる程に清行は我が占いに違わずして、その夜の内に浄蔵法師が帰り来るのみならず、玉梓が蘇生したりしかば斜めならず喜んで、妻をいたわり臥所に休めて粥をすすめるなどすると玉梓は遂に本復して常よりもなお健やかに若やぎけるこそ不思議なれ。
されば此のこと隠れなく親も親なり、子も子なりと清行の易学と浄蔵の法力と世に一対の奇特と讃えて、帰依する者ぞ多かりける。かくてまた浄蔵法師は年頃の疎遠を詫びて二親の心を慰め、出雲の大社また越前の敦賀にてありし事々を告げれば、二親は聞いて一度は驚きあるいは喜び、我が子はかくのごときに法力あって▲
清行密かに様子をうかがう此の所は、皆々無言なれば言葉書きなし。只作者のみ言う事あり。画はおかしからぬ所を略して本文にて詳しくする故、ややもすれば筆耕は画より大きに遅れるなり。しかれども五丁の末にてにえこぼさずに書き取れば、ことのほか読みであり、徳用向きの草紙と言うべし。
かつ神仏の冥助(みょうじょ)にあえり、よく慢心を起こさずばこの後いよいよ利益あらん。かくては出家も厭(いと)わじからずと密かに向後を戒めて、いとねんごろにもてなしけり。さる程に浄蔵法師は二親に言われし事を今さらに心に徹していよいよ務めて、いささかもおごり高ぶる心なく父清行が罪なくて勅勘の身となりしをひたすら嘆き、ある日二親に申す様
「いついつまでもここに在りて仕え奉らんと思わざるにあらねども、よしや親子の親しきも出家として在家におらんは事のよろしきに候らわず。されば雲居寺(うんこじ)に退いて勅免(ちょくめん)の祈りをすべし。例え速やかに印なくとも遂には帰洛(きらく)の喜びあらん。御身を愛してゆるやかに時の至るを待ちたまえ」とてねんごろに別れを告げて雲居寺に赴きつつ、徳を積み光をうずめて行いすましていたりけり。
さる程に延喜三年の春二日に官家は筑紫にて隠れたまい、同じき九年には時平公も悪病で世を去りたまい、その後続いて雷(いかずち)が大内に落ち下り、藤原の清貫(きよつら)左大弁、まれ世藤原の菅根(すがね)など公卿数多がうち殺されて人の心も安からざりしに、物の怪ようやく薄らいで、世の中のどかになりし頃、近江の瀬田の方ほとりに海野幸六(うみのさちろく)という漁師あり。その頃また三上山の方ほとりに山野幸平(やまのさちへい)という狩り人ありけり。そもそもこの両人は菅丞相(かんしょうじょう)に仕えた牛飼い舎人(とねり)なれば、菅丞相が左遷せられし時、都の住まいも物憂(ものう)しと密かに近江路に退いて、一人は漁(すなどり)を生業とし、一人は獣を狩り暮らして静かに世を渡りける。
かくて幸平、幸六はある日湖のほとりにて図らず行き会いけり。昔は疎(うと)くもあらぬものの今は生業同じからず道のほども近からねば絶えて久しき対面に、こは珍しやと立ち止まる長物語り果てしなければ、各々石に尻かけてしばらく時を移す程に、山野幸平は嘆息して、
「かく山稼ぎをする者は浮き世に遠く友もなし、心安きに似たれども幾日も獲物のなき折は顎(あご)を吊しておらねばならず、しかるに和主は近き頃、続いて仕合わせよく内証(ないしょう)豊かになりし由を予て噂に聞きしなり。しからば山の稼ぎより漁は良きものならん」と言うと幸六頭を振って、
「いやいや山でも湖でも稼ぐは辛き世渡りなれど、我らはちとの訳あって日毎に獲物が多かるなり。和主に我は隠すことなし。まずその訳を如何にといつ□大津に奇妙な易者あり。そは和主も予て知るあの勅勘をこうむりし三好の清行主になん。我はしばしば彼処へ参って占ってもらい、明日は西の方へ網を下ろせ、明後日は南へと教えたまう指図に任せて漁すれば、獲物は常に人に増して利を得たること少なからず、妻子を安く養うこと清行様の陰(かげ)なれば、これ見たまえ、二三尺の此の鯉を毎日必ず一つづつ清行様へもて行って御礼を申すなり。和主も今より彼処へ参って清行様に頼みたまえ」と言われて幸平は額を撫でて、
「そは良き事を聞きたるなり。我らも大人を頼むべし」さはとてやがて連れだって大津の方へ赴きけり。
この時、近江の湖に年を経た川太郎(河童)が龍王の下知を受け、湖水のほとりを巡る時に、思わず幸六、幸平らが語らうのを立ち聞いて、心の内に密かに驚き、イデこの由を注進せんと言うより早く身を躍らせて波の底へ沈みしを知る者絶えてなかりけり。
また近江の伊吹山に年を経て千歳になる狐あり。この日山城の稲荷山へ詣でた帰りに、これもまた幸六らの物語りを立ち聞いて心の内に思う様
「・・・・・あの清行は音に聞こえし易学の名人なり。さるにより此の湖の鯉鮒が皆、幸六に捕られることは清行が指図によれり。しかるに今また幸平も清行に▲占わせて山々を狩り暮らせば災い遂にこの身に及ばん。かつ三上山のほとりにも我が眷属は数多あり。彼らはいよいよ危うかるべし。詮術あり」と思案をしつつ、まず三井寺まで退いて清行の事を聞き定め、年古(としふ)る楠(くす)の洞(うろ)に入って姿を変ぜんとする時に、この楠の木霊(こだま)の神が声をかけ、その故を尋ねるに狐は包まず誇り顔に斯様斯様と説き示せば、木霊の神は眉をひそめて、
「そは由も無き事ぞかし。例え和主に通力ありとも、いかでか清行に勝つことあらんや。その身を失うのみならず必ず我を巻き添えせん。やみねやみね」と止めるを狐は聞かずにあざ笑い、一人の書生に姿を変じ、清行の宿所に行って、
「それがし事は筑紫より易学の修行のために此の度都へ上りたる村崎志賀蔵(むらさきしがぞう)と言う者なり。先生の高名は都にもその類なし。よって教えを受けんと推参(すいさん)せり」と言えば、清行やがて対面して一つ二つ問い試みると弁舌は水の流れるごとくで真に博学多才なり。その時、志賀蔵は膝を進めて、
「それがし不才なりと言えども、藪(やぶ)にもまた香の物あり。今互いに論ずる赴きで我が先生に負けたらば思いのままに計らいたまえ。先生が我らに負けたまわば売卜(ばいぼく)の技をやめ、生涯めど木を取りたまうな」と言う傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の広言に清行は心憎くて、そはともかくもと答えつつ、それよりして易学、天文、気運の事を論ずるとややもすれば清行も及び難きところあり。既にして日も暮れれば清行はさり気なくしばらく休みたまえと酒肴をもてこれをもてなし、しきりに数献すすめれば、志賀蔵は酩酊して肘を枕に酔い伏しけり。さる程に清行は密かに親しき里人を招き寄せ、志賀蔵の事を告げ知らせ、
「我は問答せし時に袖の内にて占い見しに彼は年古る狐なり。しかれども化けの皮を表さねば漫(そぞ)ろには手を下し難し。我が聞く三井寺の門前の楠の木はあの寺を建てたその昔よりありし木にて千余年になると言えり。各々は我のために早く彼処へ赴いて、東へ指したる楠木の大枝を切り下ろして細々に砕いてもて来たまえ。切ること一枝なりと言うともその木は遂に枯れるなるべし。さぁさぁ」と急がすと里人らは心得て、三井寺に走り行きつつ教えの枝を切り下ろすと、血潮がさっと滴り流れ、木の洞に声ありて、「さればこそ、いぶきめが我が諫めを聞かずして、災いこの身に及びにき」と定かに聞こえれば、里人らは驚きながら、さてにむべきにあらざれば、手早く枝を細かく砕いて背負うて大津に馳せ帰り、清行にかくと告げるに清行は聞いてうなずき、
「そは楠木の木霊なるべし。我、煙焼(えんしょう)の法術あり。決して祟りあるべからず。斯様斯様に計らいたまえ」と密かに示し合わせけり。
さる程に清行は村崎志賀蔵が伏した四方へ四つの香炉を据え置いて、あの楠木の切り屑を一度にはっとくゆらせれば、前後も知らず伏したる志賀蔵は一声叫んで飛び上がり、たちまち古りたる狐となって表の方へ逃げんとするのを、待ちもうけたる里人ら六人が棒で打ちたて打ちたてて、蚊遣(かやり)の如くに楠木の煙を暇なく仰ぎかければ、狐はこらえず引き返し、また内庭より逃げんとするのを清行すかさず弓に矢つがいて、よつ引いてひょうと放せば、狐は喉をうなじまで、はぶくらせめて射通され、仰け反り倒れて死んでけり。
人々喜び紙燭(しそく)を灯して再び死したる狐を見ると大きなること犬に等しく、その毛は金糸をかけたるごとし。実に千年も経たりけん世に珍しき物なればとて、清行はその皮をもて皮衣にすれば、厳寒の冬の日も温かなること春のごとし。しかれども清行は常に慎み深くして技に誇らず奇を好まねば、これらの事すら深く悔いして里人らを戒めつつその狐の事を言わせず、程経て後に都へもしかじかと聞こえしとぞ。
かくてその楠木も立ち枯れになれば、里人らはこれにさえ清行の博識多才を感じていよいよ敬いけり。ここにまた近江の湖を司る龍王あり。琵琶湖の小龍王(しょうりゅうおう)と称せられ▲幾億万の川魚の頭たる勢いあれば、常に非常を戒めんため、瀬田の橋の下に住む河童(かっぱ)を清湖使者(せいこししゃ)として汀々(みぎわみぎわ)を巡らせれば、河童は日毎に水海屋の川太郎という樽奴(たるひらひ)に姿を変じてあちこちを見回ると、あの漁師幸六が清行の占いにより鯉鮒を多く捕る由を山野幸平に物語りしを立ち聞いて、大きに驚き急ぎ湖水の龍王に注進して
「斯様斯様の事こそ候へ、あの清行を安穏(あんおん)にうち捨てて置きたまえば、例え湖広しと言うとも魚類(うろくず)の種は尽きるべし。いかが計らい候わん」と大息ついて訴えける。畢竟(ひっきょう)、龍王これを聞き、また如何なる企みをするや。
第三編も引き続いて程なく出板遅滞(ちたい)なければ、そは三編の始めに説くべし。必ずもといて見たまえかし、目出度し目出度し■

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
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馬琴・西遊記/金毘羅舩利生纜 第三編上

2017-02-26 12:38:30 | 金毘羅舩利生纜
鋭(と)き風や刃(み)は三尺の霜柱
六孫王(ろくそんおう)経基(つねもと)
小龍王(しょうりゅうおう)金鱗(きんりん)

蒔く種に日の恵みあり金銭花(きんせんか)
宰府(さいふ)の良民 白大夫(しらたいふ)
錦織判官代(にしごりのはんがんだい)照国(てるくに)

さらし井の奈落に届く吊桶(つるべ)かな
延喜聖主(えんぎのみかど)簑笠(みのかさ)
左大辨(さだいべん)希世霊鬼(まれよのれいき)

下もみじつづれのうらの錦かな
竹田日蔵(たけだにちぞう)が妻 世居(よをり)

おちぬ夜の地獄をかまるねずみかな
菅家忠臣(かんけのちゅうしん)竹田日蔵(たけだにちぞう)
節折(よおりの)内親王

鶯や経読まぬ日もササぼさつ
観世音の権化 袈裟売りの癪法師(かたいほうし)
従三位菅原文時卿

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さる程に、近江の湖の龍王鱗長(りんちょう)は川太郎の訴えに驚き、怒り、その弟小龍王金鱗(きんりん)、千年の簑亀(みのがめ)、近江鮒源五郎、すっぽんの沼太郎など、宗徒(むねと)の□類、眷属を皆ことごとく呼び集め、
「汝らは未だ知らずや。近頃大津の方ほとりに三好の清行という売卜者あり。彼は当今に仕える文章博士なるが、しかじかの罪あって、退けられし者なり。しかるにくだんの清行めがあちこちの漁師に教えて、この湖の鯉鮒を捕らせること大方ならず。さればこそあれ近頃は我が手下のうろくずの数がいたく減り失せ、水底寂しくなりにたり。もしこのままうち捨て置けば、遂に我がこの湖の魚の種は尽きるべし。我が大津の宿に赴いて、思いのままに清行を巻き上せ巻き下ろして微塵になさんと思うなり。所存はいかに」と尋ねれば龍王の切れ者のなまず坊ぬら倉が人をも待たずに進み出て
「候、真にしかるべし。唐土の賢き人は釣りすれども網せずと言う事もあるものを、清行はもとより儒者なるに漁師のために獲物を占い、我が輩(ともがら)を捕らせる事は実に憎むべき曲者なり。六王自らが荒れ出たまいて御征伐あらんことは万魚の幸い此の上なし」とはばかる気色もなく答えるのを簑亀はしばしととどめ、尾を引き首を長くして、のたりのたりと進み出て、
「この事はなはだしかるべからず。大王が世界へ出たまえば、さきに雲あり、□□に雨あり、大風(たいふう)、雷電(らいでん)を相従えて、木を倒し家を覆(くつがえ)し、田畑を損なわざることなし。例えあの清行に恨みを返したまうとも、日の神の御咎めをいかでか逃れたまわんや。再び御思案あれかし」と言葉を尽くして諫(いさ)めれば、小龍王、金鱗、大鮒の源五郎、三尺の鯉之進らのなみの子老だうは
「簑亀が申すところ、真に道理至極せり。漫(そぞ)ろに荒れいでたまえば、御後悔もや候わん」と言葉等しくとどめると、龍王はしばし頭を傾け、
「しからば我は雲を起こさず、また一滴の雨をも降らせず、しのびやかに立出て清行を謀るべし。謀り事は斯様斯様、しかじかなる」と説き示すのを簑亀らはなお危ぶんでしきりに争い諫めれども龍王は遂に聞かずして、独り汀(みぎわ)に立ちいでて、いと荒くれた武士に変じて清行の宿所に赴き、
「我は近頃田舎より糸上りせし者なり。明日よりの照り降りを占ってたまわれ」と言うと清行は心得て、めどぎをひねり卦(け)をしきて、
「明日は必ず雨降るべし。巳(み)の刻(とき)より雲起こり、午の刻より雨降り注ぎ、未(ひつじ)の刻にその雨止まん。水が増すこと三尺三寸四十八てんなるべし」と言われて龍王はあざ笑い、
「しからば貴殿と賭(かけ)をせん。占うところに相違なくば五十両を参らすべし。もしいささかも相違あれば貴殿はこの地を立ち去って生涯占いすべからず。▲この義はいかに」と後を押せば、清行はにっこと微笑んで、
「この事に少しでも相違あれば思いのままに計らいたまえ。それがし決して恨みなし」と言うと龍王はうなづいて、
「しからば言葉を番(つが)えたり。その後に及んでとやかくと逃げ口上は言わさぬぞ」といかめしく言葉をかためて、三好の宿所を発ちつつやがて湖水へ走り帰って、うろくず(魚)らを呼び集め、
「我は今日、斯様斯様に謀って清行と賭けをしたり。此の近江路に降る雨は我が司るものなるに、我が降らせずして誰が降らさん。さるをかやつは知らずして賭けをするこそ可笑(おか)しけれ。明日は必ず三好めに日頃の恨みを返すべし。心地良し心地良し」と誇り顔に説き示す言葉も未だ終わらぬ折から、思いがけなく日の神より御遣いを下されて、龍王に神勅(しんちょく)あり。
近頃は雨がまれにして下界の百姓が難儀に及べり。これにより明日の巳の刻(とき)より雲をしき、午の刻より雨を降らせて、未の刻に雨を止めよ。水の深さは三尺三寸四十八てんと定める。これは近江一国の田畑の損益にかかつらう事ぞかし。夢々粗略(そりゃく)あるべからずといと厳(おごそ)かに聞こえたまう神の恵みぞありがたき。さる程に龍王は思いがけなく日の神の勅状を承り、こはそも如何にと心驚き肝潰れ、呆然としていたが、たちまち息をほっとつき
「・・・・・さてもさても清行めは奇妙不思議の易者なり。既に日の神の詔(みことのり)がある上は明日は雨を降らせしと思いし事も仇(あだ)となり、我が力にも及び難し。さもあらばあれ、その後を伸ばして降る雨さえ少なくすれば彼には口をきかせまじ。詮方あり」と心でうなずき、さて次の日に辰の刻より雲を起こして午の刻に雷(いかつち)を鳴らし、未の刻より雨を降らせて申の刻に雨を止め、水を増すこと二尺ハ寸三十五てんにしたりけり。これにより田畑の為には潤い足らぬ所あり。しかれども龍王は清行を押し倒さんと思うばかりに心勇んで昨日の如くいかめしい田舎侍の姿に変じて清行の宿所に赴いて、門の格子を蹴放ちて進み入りつつ清行をはったとにらんで声をいらだて、
「この売卜(ばいぼく)めが、おめおめと面の皮のいと厚さよ。汝は昨日何と言った。巳の刻より雲起こりて午の刻より雨降り注ぎ、未の刻に雨止まん。水の増すこと三尺三寸四十八てんなるべしと定かに占ったにあらずや。そのこと全て当たらずして、辰の刻に雲起こり午の刻に雷(いかつち)鳴れり。かくて未に雨降って申の刻に晴れたるに、水の増すこと二尺ハ寸三十五てんなるぞかし。もしその占いが当たらずば我が存分になるべしと確かに言いしを忘れはせじ。そこ動くな」と罵りながら刀をきらりと▲引き抜いて、机をはたと切り倒せば、足はくじけつつ転んで、筮(めどき)、算木(さんぎ)もあちこちへ散り乱れる武者の狼藉、雨晴れしより幾人か裏問いに来た老若男女は、すは喧嘩とたち騒ぎ驚き恐れて押し合いへし合って表の方へ逃げいでて、行方も知らずなりにけり。しかれども清行は座したままにてちっとも騒がず、それ見て一人あざ笑い、
「こは理不尽なる狼藉かな。我が占いは皆当たれり。しかるを汝が私(わたしく)して時を延ばし雨を減らし、あの天勅(てんちょく)に背き、かえって我を罵るのは身の程知らぬ痴れ者なり。我は汝をよく知れり。汝は湖水の龍神なるべし。汝が密かに我を恨んで押し倒さんと謀る事の心を推するに、我がこの辺りの漁師に教えて鯉鮒なんどを捕らせるのをねたく思いし故なるべし。汝は知らずや。うろくずは人のために食となる天より賜(たま)うものなれば、ひとつの魚に数万の子あり。さるにより海川にていくらともなく捕れども尽きず、只これ天のはいさいにて、人を肥やすはうろくずの自ずからなる持ち前なり。いわんや近江、山城は海遠くして魚肉に乏しく、わずかに人の腹に満ちるは湖にて捕る鯉鮒のみ。その川魚が数多捕れて値安ければ人に益あり。我は世のため人のためにその方角を占って漁師に教えて捕らせしを、汝が私(わたくし)心で恨む事の愚かさよ。我は汝を許すとも天勅に違いし罪あり。天道いかでか許したまわん。かくても我を謀るや」と天地を見抜きし易者の明察、星を指されて龍王は心驚き慌ただしく刃(やいば)を収めてかしこまり、
「あら恐ろしき易学かな。実に明察せられるごとく、それがしは既に日の神の天勅に背いて刻を延ばし雨を減らせり。このこと重ねて御定めあれば、真に罪を逃れ難しと心ついても今さらに後悔臍(ほぞ)を噛めども甲斐なし。願わくば大先生、それがしを救いたまえ、救わせたまえ」とひれ伏して詫びつつしきりにかき口説けば、清行は聞いて、
「さればとよ、我、今、袖の内でその吉凶を占い見しに汝の命は助かり難し。大方は六尊王経基(つねもと)君に斬られなん。あの大君は清和の御孫貝すみ親王の御子なれば、今の帝も大方ならず召し親しませたまうぞかし。かかれば帝に願い申して、命乞いをしたならば助かることのありもやせん。この他には詮方なし。よくせよかし」と説き示せば龍王は清行を伏し拝みつつ涙を拭って暇乞いして帰りけり。
○されば龍王鱗長は清行に説き示されて、我が過ちを今さらに後悔すれどもその甲斐なければ、只すごすごと湖水を指して帰る折から、早くも日の神も勅使として海神(わだつみのかみ)、数多下りて引き連れ来つる下司の神たちに下知したまえば、皆々雲より下りたちて勅定(ちょくじょう)ざふと呼びはり呼びはり、驚きあわてる龍王をおっとりこめて動かせず、押さえて縄をかければ、龍王は只呆れに呆れて、こはそも如何にと▲問わせもあえず、海神は下知を伝えて波を開かせ、水をけたてて湖水遙かに引き立て引き立て、龍宮城へ赴きけり。
さる程に龍宮には思いがけなく日の神の討つ手の勅使が天下り、早龍王は召し捕られ引かれて帰り来つる由、おぼろげならず聞こえれば、龍王の弟の小龍王金鱗、千年の簑亀、三尺の鯉之進、大鮒の源五郎らは驚き騒いで、衣服を改め皆々勅使を出迎えて上座に招すれば、海神はし笏(しゃく)取り直して小龍王らに向かい、
「龍王鱗長、先だって天勅を受けながら、私(わたくし)の恨みをもって刻を延ばし、雨を減らして田畑の潤いをよくせざりし罪は最も軽からず。これにより龍王をかたのごとく召しとりぬ。日の若宮へ引きもて参って、頭をはねるべきものなり。その弟小龍王金鱗はさせる過ちなしと言えども、兄の非法を知りながら早くも訴え申さざる、これまた不忠と言いつべし。さればこれらの落ち度によって日の本の地に居る事を許されず、□むり司を召し放ちて、□□ての国へ流すべき者なり。さてまたなまず坊主ぬら倉は龍王に媚びへつらって折々悪事をすすめしよしきと罪すべき者なれども、高(たか)のしれたる下魚の事なり。□□□遠からず漁師の針□けさせて、遂に逃れぬ天罰を思い知らせよとの神勅なり。この余のうろくずささやかなるは□田し□にいたるまで御咎めはなきぞかし。この湖の頭の龍王兄弟は罪ありてかいえきせ□るる上からは千年の簑亀、三尺の鯉之進らのうろくずどもを支配して、ちちぶ□の神に仕え□□ちょくすべてかくのごとし。皆々□□□候え」といと厳重に言い渡して、早しずしずと座を立てば、その□□の神たちは引き分かれて海神に従い、ひさかたの日の若宮へ上りたまえば、その一□の神たちは小龍王をおつ□□雲に乗り、またたく間に筑羅(ちくら)が沖まで追い払い、皆々帰り上りけり。
[物語は二つに分かる]この時、天竺国(てんじくこく)の雷音寺(らいおんじ)では仏説釈迦牟尼如来がある日観世音菩薩に向かい、
「先にも説き示したる日本国に赴いて、かの名僧を引接(いんじょう)すべき時節が既に到来せり。かかれば菩薩をわずらわさん。さぁさぁあの土(ど)へ赴きたまえ。但し我はその昔、両界山に鎮め置いた岩裂の迦比羅こそ年頃我に仕えたあの金毘羅大王と一体で、例えば影(かげ)と像(かたち)の如し。あの者ようやく菩提に入りて、あの名僧の助けとならん。菩薩、此の度、済度(さいど)してあの名僧に救わすべし。されどもあの者は凡心を失せず、よからぬ心を起こさん事、またこれなしとすべからず。もしさる事のあらん時、斯様斯様に唱えれば、あの者苦痛なからんして、あの名僧に従うべし。昔、役行者小角が呪文で迦比羅坊を懲らせども、またその呪文をそのままあの者に授けたり。我がこの秘文ばそれにもまして彼を捕りひしぐ妙法たり。金毘羅、岩裂一体して日本国にとどまれば、利益(りやく)は類(たぐい)なかるべし。この余の事は先だって示せし如く心得たまえ」と▲いとねんごろに仏勅(ぶっちょく)あり。あの名僧に授ける袈裟と鉢を渡したまえば、観世音はうやうやしくその二宝を受け納め、如来に別れを告げ奉り、恵岸(えがん)童子を従えて、雲にうち乗りしづしづと東を指して赴きたまう。
かくて早、観音菩薩は流沙河(りゅうさがわ)まで来た時に、たちまち河の中より怪しき曲者が現れ出たと見れば、その鼻は高く尖って、さながら鳶(とび)のくちばしのごとく、身のうち全て栗色なり。腰には数多の髑髏(どくろ)をかけて、手には両刀の鉾(ほこ)に似た長き錫杖(しゃくじょう)を脇挟み、早水底より躍り出て、突き倒さんと競いかかるを恵岸は騒がず迎え進んで、金剛杖をうち振りうち振り、ちっともたゆまず戦うたり。
その時その者声をかけ、
「やよ、しばらく待ちたまえ。それがし、この河に住みしより数多の人を捕り喰らえども、かくまで激しき相手に会わず。そもそも御身は何人ぞ」と問われて恵岸はにっことうち笑み、
「知らずや我は救世(ぐせ)大悲観音菩薩の御弟子なる恵岸童子、すなわち是なり。今、現に観世音が彼処(かしこ)に立たせたまうぞかし。汝は如何なる化け物ぞ」と問い返されて、その者は慌てふためき手鉾を捨てて、遙かに菩薩を伏し拝み、
「それがしはその昔、日の若宮に仕えた天登々根命(あまつちおとねのみこと)なり。犯せる罪があるにより、唐大和の住まいが叶わず、この流沙河へ流されて身の置き所なきままに、うの□のたいに宿りて、かかる姿になりしかどさすがに命惜しかれば数多の人を捕り喰らいしが、そのうちに唐土より天竺へ渡って経文を取らんと欲する法師を害せしこと九人に及べり。この者共の髑髏(しゃれこうべ)はちっとも水に沈まねば、瓢(ひさご)に変えて腰に付けたり。大慈大悲の観世音、我が此の願を救わせたまえ、南無阿弥陀仏」と唱えると、観音は間近く立ち寄り、
「よきかな、よきかな、懺悔(ざんげ)には五逆の罪も滅びてん。仏法無量の方便あり。さばえなす悪しき神も過ちを懺悔して三宝に帰依する事ははなはだこれ神妙なり。いで法名を授けん」と悟定(ごじょう)と名付けたまい、
「御事はしばらく時を待て。遠からずして日本より名僧が渡り来て、金毘羅神王を迎うべし。その時、汝は力を尽くしてその名僧の助けとなれば、我仏如来(がぶつにょらい)に見参して両部の神と仰がれん。ゆめ務めよ」と諭せば天登々根(あまつととね)の羽悟定(うごじょう)はかつかにし、かつ喜びて水の底へ沈みける。
かくてまた観音、恵岸がとある山路を過ぎりたまうと忽然と怪しき曲者が行く手の道に現れたり。と見れば面(おもて)は紅(くれない)を八色に染めていと赤く、鼻高くして眼(まなこ)鋭く、手には熊鷹(くまたか)の足に似た熊手を引き下げ、走りかかって引き倒さんとするところを恵岸は得たりと引き外し、熊手を丁と受けとどめ▲
「あら物々しき悪魔の振る舞い。観音薩垂(さった・つちへん)の御供して東土(とうど)へ赴く恵岸を知らずや。後悔すな」とたしなめれば、その者は驚いて膝まずき、
「それがしはこれ、悪魔にあらず。昔、神日本(しんやまと)磐余彦(いはれひこ)の天王(神武天皇)が大和の国で御戦して、長髄彦(ながすねひこ)をうち滅ぼした時に御旗の手に立ち現れて軍功ことに高かりし稚鴟命(わかとびのみこと)なり。しかるにそれがしは功に誇って、無礼の振る舞い多かれば、日の神の逆鱗がなはだしく、遂に天上を追い払われて勅勘(ちょくかん)の身となれば、遠くここらにさまよって、人を喰らって月日を送る罪状をいかにせん。哀れ大悲の観世音、救わせたまえ」と詫びにけり。観音はこれを聞きたまい、やがて雲路を下りたちつつ言葉を尽くしてねんごろに諭したまう事は初めのごとく、また法名を賜って、すなわち悟了(ごりょう)と名付けたまい、日本国より金毘羅を迎えんために渡天(とてん)すべき名僧に従って大功をたて罪を贖(あがな)い深釈両部(しんしゃくりょうぶ)の神となる時節を待つに如(し)くことあらじと説き示したまうと、稚鴟(わかとび)の羽悟了(うごりょう)はしきりに喜び伏し拝んで森の内に退きける。
かくてまた観世音は恵岸童子を先に立たせて東を指して進みたまうと雲の中に龍神あって悶え苦しむ声がして、こは何故ぞと尋ねると龍神は菩薩を伏し拝み、
「それがしは日本国の近江の湖の龍王鱗長の弟で小龍王金鱗と呼ばれし者なり。兄の龍王は斯様斯様の罪により日の若宮へ召し捕られ、それがしは追い払われて遠くここらにさまよいつつ人を喰らって飢えをしのぐ身の不幸せを嘆くあまり悶え苦しみ候」と告げると観音は哀れんで、
「汝、宿世の業を感じて仏の道に入るならば、日本より来る名僧を助けて功をたてよ。さる時は兄鱗長の罪業もまた消滅して成仏せんこと疑いなし。その故は斯様斯様」と事つまびらかに示せば小龍王は感涙を止めかねつつ見送りけり。
さる程に観世音はまた幾ばく里の道を走って両界山(りょうかいさん)まで来た時に恵岸童子を見返って、
「昔、我仏釈迦牟尼如来が岩裂の威如神尊を(いにょしんそん)をいと容易くも鎮めて既に数多の年を経たる両界山はすなわちここなり。いざ立ち寄って見て行かん」となお山深く分け入りたまうと果たして千曳(ちびき)の巌の下に岩裂は押し据えられて、目は見えれども身は動かず、上には松かや生い茂り、下は茅(ちがや)に閉じられて無惨と言うも余りあり。その時岩裂は眼(まなこ)を見張って、いと苦しげなる声をはげまし、「なうなう(もしもし)観世音菩薩。それがしを救いたまえ、救いたまえ」と呼び張ると観世音は静かに立ち寄り、
「如何に岩裂、なほ見忘れずや。▲我は如来の仰せを受けて日本国の名僧を導くために東土へ行くなり。御事が真に前非を悔いて仏法守護の心を起こせば、自ずからあの名僧に救い出される時あるべし。そもそも御事の本体は始め讃岐に化生(なりいで)て、更に天竺国に赴き釈迦牟尼仏に仕えまつりて今もなお天竺の象頭山におるぞかし。さればその名僧は遠く雷音寺(らいおんじ)に赴いて釈迦牟尼仏を拝み祀り、金毘羅天を迎え祀(まつ)りて日の本に鎮座すべき。これらの因縁あるにより御事はひとえに心を尽くしてその名僧を助け引き、天竺国に赴いて、如来に見参するならば、本体用体(ようたい)合体して、御事はすなわち金毘羅なり。金毘羅すなわち御事なり。かくて利益を日の本に永く施すものならば、それにましたる神仏あらじ。しばらく時を待ちたまえ。これ只、如来の仏勅なり」初めて夢が覚めたごとく仏法無量の方便をかつ悟り、かつ感じ、いよいよ前非を悔やみけり。かくて観世音は恵岸童子を急がして、唐土さえも越えて早日の本にぞ着きたまう。
○延喜の帝(醍醐天皇)が御夢で龍王を哀れみたまう、この時なり。絵の訳は次の巻に詳しく見えたり。
さればこの時、大大和人皇(にんおう)六十代の天子を醍醐天皇と申し奉る。去る寛平九年七月三日、御父宇多天皇の御譲りを受けたまいて、その翌年に昌泰と改元あり。その後また延喜、延長と改めて、御治世すべて三十三年、そのうち延喜の年号のみ二十年まで続けば、世には延喜の帝とも唱え奉りぬ。此の君は文学に御志深く、治世安民の御政(おんまつりごと)みちにかなわせたまいしかば、耕す者は畦(くろ)をゆずり、商人は値を二つにせず、夜戸をささず、道に落ちた物を拾わずという唐国の禹湯(うとう)文武の時にもかなわせたまう聖王(みかど)なれども、惜しいかな御代(みよ)の初めに讒言をうけさせたまいて、罪なき官丞相(かんしょうしょう)を筑紫へ流させて斉世(ときよ)親王を閉じこめて、三好清行を追い退けて、その余の官家に縁ある輩を皆追い失いたまえば、怨霊しばしば祟りをなして世の中遂に穏やかならず、去る延喜九年には藤原の時平公、悪病により世を去り、あるいは洪水、雷電の災いあり。全て官丞相を悪し様(あしざま)に申しなしたる寧人(ねいじん)ばらは皆雷(いかずち)に打たれて死にけり。これにより帝は深く恐れたまいて官家を元の位に返して、その菩提をとわせたまい。官丞相の御子たちはいずれも都へ召し換えさせて、位司を授けたまえど、天変地妖(てんぺんちよう)やや静まってのどかになりし頃、帝のある夜の御夢にいと怪しげな一人の男が後ろ手に縛(しば)られて御側近くひざまづいて嘆き訴え申す様、
「それがしは近江の湖の龍王なり。斯様斯様の罪により日の若宮へ召し捕られ、既に死刑に定めらる。明日の午の刻に至れば、必ず▲六孫王(ろくそんおう)経基(つねもと)に斬られなん。哀れ経基をとどめさせ、命を救わせたまえかし」と繰り返しつつ申しけり。帝は不思議に思し召し、
「怪しや、罪を天に得た湖の龍王を経基が斬ることは心得難しと思し召せども、何にもせよ不憫のことなり。朕(ちん)が必ず救うべし、心安く思うべし」と他事もなくおおすれば、龍王は深く喜び、只感涙を流しつつ退き出ると見そなはして、早御夢は覚めにけり。
かくてその明けの朝、帝は昨夜の御夢が御心にかかりしかば、まず参内(さんだい)の殿上人(でんじょうにん)をたれたれぞと問わせたまうに、大方は参りしかども経基一人が参らねば、さぁさぁ呼べと呼ばしたまいつ。この日萬の訴えを聞こし召し果てる頃、経基、参りぬと聞こえしかば、ほとり近くはべらせて、さて昨夜の御夢を説き示さんとは予てより思し召したれども、
「・・・・・いやいや彼は心が猛くて武芸に秀でし者なるに、かくもはかなき夢物語を漫(そぞ)ろに説きも示しなば、必ず彼にさげすまれん。虚実は定かならずとも経基を今日一ト日内に引き止め置くならば、彼、いかにして龍神を斬り殺すことあらんや。要(えう)こそあれ」とたちまちに思し召し返しつつ、只さり気なく宣う様、
「朕、この頃はこれかれの政事(まつりごと)に暇なく、久しく囲碁の遊びをせず、経基、間近くはべれかし。それそれ」とおおすると女官たちは心得て、唐木の碁盤、螺鈿(らでん)の碁笥(ごけ)を御前にぞ据えたりける。かくて帝は経基と碁を打ちたまうと君臣工夫に時移り、更に余念もなき折ながら経基は眠りを催して、我にもあらぬ有様に女官たちは驚き呆れて呼び覚まさんとすれども帝は左右を見返って、
「いささかも苦しからず。只此のままに置きねかし。経基、歳なお若しと言えども常に武芸に心をゆだねて一ト日も怠(おこた)りあらずと聞けり。しかるを今かく安座して、これらの工夫に時を移せば、思わずも疲れて眠りたるにぞあらんずらん。そを咎むべきことか」と覚めるを待たせたまうと、しばらくして六孫王は忽然と驚き覚めて、いたく恐れかしこまり。臣、思わずも居眠りした大不敬の罪は逃れ難しと申すを帝は押しとどめ、
「否、その事は苦しからず。武芸にその身を砕く者はかかる時に疲れはいでん。さらば勝負をつけん」と再び石を取り上げて、なお興ぜさせたまいけり。
かかる所に使の廳(ちょう)よりにわかに相聞しつる様、
「先に午の刻ばかりに八坂のほとりに怪しき事あり。その丈、二十尋(はたひろ)余りの龍(たつ)が二つに斬られて空より落ちたり。その響きでか八坂の塔はたちまち戌亥(いぬい)の方へ傾きぬ。真に不思議の事なればと里人らが龍の頭をかきもて参りて訴えの事の趣、くだんのごとし」と聞こえ上げ奉れば、帝はいたく驚き、
「さればこそ、正夢なりけり。▲経基も承れ。朕が昨夜見し夢に近江の龍神が命乞いして斬り人はすなわち経基なり。救わせたまえと乞い願えり。朕、夢心に哀れんで救い得させんと言いし事あり。しかれども儚(はかな)き夢を大人気(おとなげ)なくしかじかと告げる事はいと恥ずかしき事なれば、まさしげには言いも知らせず囲碁にことよせ経基を大内に留め置けば龍を斬る事あらじと思いしが皆仇となりぬ。経基もまたその身に怪しと思いしことは無きや」と問わせたまえば、
「さん候、臣、先に思わずまどろんだ夢の内で日の若宮へ召されたり。その時天児屋命(あめのこやねのみこと)がそれがしに宣う様、「近江の龍王は威勅(いちょく)の罪あり。よって御辺(ごへん/お前)に斬らせよと日の神の勅定なり。さぁさぁ」と急がせたまうに、心得がたく思えども否み奉るには候はねど、天上にはいと猛き神たちが数多おわしまさんに、何らの故に経基に討たせる仰せやらん」と問わせもあえず、児屋命は「さればとよ、昔、スサノオの尊が出雲の日野川上のほとりにて山田(やまた)の大蛇(おろち)を斬りたまいし古事(ふるごと)のあるにより、今もなお龍を斬るにはその子孫に仰せつけられる。世を隔てたる事なれば、知れざる事もありぬべし。御辺はスサノオ七世の御孫の事代主命(ことしろぬしのみこと)の当今(とうきん)守護の御為に人間に数多下らせて貞純(さだすみ)親王の子とせらる。これすなわち日の神の御計らいによるものなり。されば御辺の子孫の者、天下の武将にそなわりて富み栄えたまわんこと、よしや我らが子孫と言うとも遂に及ばぬ所あらん。かかれば辞退は要(えう)なき事なり。これをもて斬りたまえ」と天叢雲(あめのむらくも)の宝剣を取り出して、貸させたまい□かくて牢屋に繋ぎ置かれたその龍を神たちが引き出せば、それがしは御剣(ぎょけん)を引き抜き、龍の頭を只一ト討ちに斬り落とすと、たちまちに驚き覚めて候」とことつまびらかに奏じれば、帝はいよいよ驚いて、
「返す返すも不思議の事なり。しかれば経基は国つ神にてありながら五位の位は足らざりき」とますます愛でさせたまいけり。
かくてその龍の頭は骸(むくろ)とともに焼かせて、灰を鳥部山(とりべやま)に埋めさせて、また御夢の趣をこれかれに示させれば、摂家大臣(せっけだいじん)を始めとして地下(じげ)の青じ(せいじ)に至るまで語り継ぎ聞き伝えて奇異の思いをせざるはなし。
しかるに帝は龍神を救い得させんと言いつるに救わざりし事、只これ朕が怠りなり、真に不憫の事にこそといとど悔しく思し召す御心が遂に結ぼれて(憂鬱)、その夜は御目も合わざりしに丑三つの頃よりして寝殿に物の怪おこりて、
「帝、などてや。我が一命を救わんと宣いながら知らず顔して斬らせたまいし。あら情けなの御計らいや。我が魂を返してたべ。頭を継いでたまわらずば遂には黄泉路へ伴わん。あらうらめしや」と叫ぶ声が御耳を貫き、御目にさえぎり、しばしばおびえたまいけり。
これより御悩(ごのう/病気)しきりで弱らせたまうばかりなれば、左の大□忠平公を始めとして公卿(くぎょう)、殿上人は驚き騒ぎ、典薬頭(てんやくのかみ)に勘文(かんもん)あって、御薬をすすめ奉るが露ばかりも印なし。あまつさえ夜毎夜毎に異形の物の怪が現れ出て、帝を悩ませば、宿直(とのい)の女房、生上達部(なまかんだちめ)も恐れおののくばかりで、いとど詮方なかりしかば、▲公卿しきりに詮議あって、こんえの大将兵状(へいじょう)を帯し諸□士(しょえじ)を率いて寝殿を守護し奉り、あるいは叡山三井寺の碩学(せきがく)うげんの名僧を選んで物の怪を祓(はら)わせたまい、あるいは経基の大君に仰せつけられて、蟇目(ひきめ)を行わせたまいし程に物の怪もようやく遠ざかり、六孫王の宿直(とのい)の夜は襲われたまうこともなく、夜もすがら眠らせたまう。
さりとて全く物の怪が退き去りしと言うにもあらず、これにより諸卿が再び詮議あるが評論まちまちにして事果てず、その時大臣忠平公は遙か末座の都良香(とのよしか)を見返って、「そこには何と思わるる。存ずる旨もあるならば、皆これ君の御為なり。さぁさぁ申し候へ」とねんごろに仰すると良香はわずかに小膝を進めて、
「さん候、愚案なきにも候わず。あの物の怪を鎮めるには雲居寺(うんこじ)の浄蔵ならで誰かまた候べき。浄蔵法師を召し寄せて、玉体に近づかせ加持せさせたまえかし。法げん過ち候わじ」と他事もなく申しけり。大臣は聞いて、
「さればとよ、我もあの法師の事は伝え聞きつる事あれども、如何にせん、彼は勅勘をこうむりし三好の清行の子にあらずや。しかるを玉体に近づけて御加持に召さるべき。こはなり難し」と宣えば、良香は重ねて、
「否、清行の勅勘はその罪に候わず。かつ法師の者は親に離れ世を捨てて仏に仕える者なれば、その親の故をもて遠ざけらるべきものにあらず。召されて法げんあらんには恩賞として清行を召し返したまわん事、何の子細が候べき」とはばかる所もなく申しけり。
そもそもこの都の朝臣(あそん)良香は先には官丞相と親しみ深く、去る頃羅生門で鬼神のつぎたりし名誉の学者なりけるに、忠平公も心映え兄時平公には似ずに、私(わたくし)なき賢相(けんしょう)なれば、遂にその義に従って、浄蔵法師を召されけり。
かくて浄蔵は参内して玉体をうかがい奉り、退いて申すには、
「丹精(たんせい)を抜きんでて法力を尽くせば印なきとは候わじ。但し、その物の怪が一旦立ち去り候とも幾程もなく返り来るべし。永く祓い鎮めるには経基をも等しく召されて重ねて蟇目を行わせ、武術、法力合こ(がっこ)せば、いよいよ魔性の雲切り晴れて、再び祟りのある事なからん。これすなわち父清行が申しこしたるうらかたの趣にこそ候え」と確かに奏し申せば、さる事もあるべしと六孫王をも召し寄せて、しかじかとぞ仰せける。さる程に浄蔵法師は寝殿に壇を構えて護摩を焚き上げ、呪文を唱え、秘術を尽くして祈ると、その夜の丑三つとおぼしき頃、寝殿しきりに鳴動し、血潮に染みたる悪霊が忽然と現れ出て、走り去らんとする所を経基はすかさず弓取り上げて、弦音高く引き鳴らせば、不思議なるかな御殿の内に鏑矢(かぶらや)の音が鳴り響き、▲さすがの悪霊たちも得去らず只弱々となる所を浄蔵たちまちおっとおめいて持ったる独鈷を投げ付ければ、悪霊やにわに微塵になって秋の蛍の群れ飛ぶごとく四方へぱっと分かれ散り、行方も知れずなりにけり。
これを見た月卿雲客(げっけいうんかく)はあっとばかりに声を合わせてしばし感じ止まざりけり。さればその暁(あかつき)より帝の御悩が半ばおこたれば、御感もっとも浅からず、臨時の除目(ぢもく)を行われ、すなわち経基大君の位一階(いっかい)上せたまい、また浄蔵法師にも僧位、僧官望みのごとく授けさせたまわんとしきりに仰せいだされしが浄蔵は否みて受け奉らず、
「およ此度の大功は六孫王の武徳によれり。それがしにいかばかりの功があるべき。しかれども武術を助けしそれがしの加持にも奇特ありけりと思し召さば、父清行を勅免ありて、召し返させたまえかし。この余の事は願わしからず」とひたすら申しはなちて、只一ト種(くさ)の被け物(かずけもの)をも固く否んで受け奉らず、そのまま内裏を走り出て、八坂のほとりまで来つる時、所の者共が待ちてやありけん。皆あちこちよりたちいでて、浄蔵法師を引き止めて、
「聖、この八坂の塔は名高き塔にて候いしが、去る頃、斬られし龍(たつ)が空よりだうと落ちし折にその響きにや寄りたりけん。アレ見そなわせ、あたら塔が傾いて、倒れもすべくなりにたり。しかれども此の塔を元の如くに起こす事は幾千人の工手間(くでま)かかれば、数多の財(たから)なくては叶わず、哀れ聖の法力で祈りを起こしたまえかし」と乞い求めつつ離さねば浄蔵ほとほともてあまし、
「こは思いもかけぬ事かな。人の病や諸願の事は祈りて印ある由あれども、かく大層なる塔がいたく傾きたるものを祈って起こす法やある。我が力には及び難し。この事のみは許せかし」と否めども、「印なくてはさてやみなん、まず試みに祈りたまえ」とせちに求めて帰さねば、浄蔵はここぞ一世のふちんとその塔に立ち向かい、心を澄まし眼を閉じて半時ばかり祈ると不思議なるかな戌亥(いぬい)の方へ酷く傾く塔が次第次第に立ち直り、元のごとくになりにけり。この時、南海観音菩薩が恵岸童子を引き連れて雲の内に現れて、二十八部の諸天に下知して、その塔を起こさせたまうと浄蔵法師の目にのみ見えて、諸人の目には見えざりけり。
さればこれらの法げんが世に隠れなく聞こえれば、その加持を請い、祈祷を請う者、日毎に運居寺へ群集(くんじゅ)していとかしがましかりければ、浄蔵今は□ぐみ果て詮方もなく思う程に、ある夜の夢に観音菩薩が浄蔵に告げたまわく、
「祈りて人を救うもの、只是(これ)有漏(うろう)の縁にして、大功徳と言い難し。昔、東寺の空海法師はしばしば法げんを現して、世のために利益ありしも多くは水無き所に泉を出し、あるいは出で湯なき所に湯を出せば、その利益は今の世まで幾万人の助けとなれり。世の衆生は限りなし、例え日毎に幾百人、幾千人に加持するとも世界の人に比べれば、九牛(きゅうぐ)の一毛(いちもう)なり。かくささやかな功徳をして、かえってその身を苦しめるは愚かなる業ならずや。只名聞(みょうもん)を捨てて施を積んで、その法力を現すことなく一心仏(いっしんほとけ)に仕えんと乞い願うものならば、求めずして世を救い人を救う功徳あらん。よくよくこれを思うべし」とまさまさしく示現あれば、浄蔵は感涙胸に満ち、かつ恐れかつ喜び、たちまちに先非(せんぴ)を悔いて、これより人の為に加持祈祷の求めに応じず、しばらく群集を避けるために密かに▲寺を逃れ出て、熊野の那智に参りつつ観音賛(かんのんさん)を修行して行いすましていたりける。
○これはさておき三好の清行はその子浄蔵法師の法力の功により、遂に都へ召し返されて元の位に一級を増し上し、五位の上を授けられ、式部(しきぶ)の少輔(しょうゆう)にぞなされける。さてまたその妻玉梓は名僧の母なればとて、これも等しく召し出され、浄蔵が辞退した黄金、白金、巻き絹をたまわりつ、恩賞大方ならざりければ、清行夫婦はたちまちに喜びの眉(まゆ)を開いて、元の屋敷に帰り住み、帝に仕え奉り忠勤おこたりなかりけり。
これしかしながら浄蔵法師の孝心の徳なりとて、皆人感じうらやんで初めよりなお清行を敬う人が多ければ、帝はいよいよ愛でさせたまいて、何事の詮議にもまず清行に問い定めてよくよく聞けとぞ仰せける。■

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
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馬琴・西遊記/金毘羅舩利生纜 第三編下

2017-02-25 09:06:14 | 金毘羅舩利生纜
さる程に、延喜の帝は浄蔵法師、経基らの法力、武芸の徳により物の怪も遂に消散して、御悩はこれよりいささかづつも御心良きに似たれども、なお御枕は上がりかね、再び危うく見えさせたまえば、御自らも今は早頼み少なく思し召しけん。ある日、三好の清行を寝殿に召し近づけて、
「先には汝の子の浄蔵らの修法により物の怪はやや退きしが朕の病は癒えずして、臨終を待つばかりなり。朕が誤ってその昔、罪なき菅丞相を筑紫へ流し、かつ骨肉を疑うて、斉世(ときよ)親王におもひ死をいたさせて、あまつさえ菅丞相に縁(ゆかり)ある者どもをあるいは流し、あるいは害した此の罪障をかえりみれば、恨むせ絶えてあるべからず。今更いかなる功徳をもって冥途の苦患(くげん)を助かるべき。浄蔵などが予てより言いつる事は無かりしか」と御心細げに問わせたまうと清行はこれを承って、
「御心安く思し召されよ。それがしの学問の師の菅原是善は死して泰山府君(たいさんふくん)となれり。その由、年頃、まざまざと夢に見て候えば、それがし密かに是善に状を送って、君を守護させたまわん。菅家の輩(ともがら)が冥土にて君に仇する事ありとも、かの是善は▲菅丞相の親なり。呵責を防ぐ御後見には彼にます者候わじ」とて御前においてその書状をしたためて奉れば、帝は女官に心を得させてやがて書状を御髻(もとどり)の内にぞ納めたまいける。
かくて帝は次の日に御歳二十五歳にて遂に崩御したまいしかば、女御(にょうご)后(きさき)の御嘆きは更なり、上一(かみいち)の大臣より諸司(しょし)百官に至るまで涙に束帯の袖を濡らして、皆呆然たるばかりなりしを、さてあるべきにあらざれば左の大臣忠平公はまず万民に触れ知らせて、東宮(とうぐう)寛明(ひろあきら)親王を御位に付け奉らんと用意取り取りなる程に、清行は密かにこれをとどめて、
「その義は急がせたまうべからず。帝は日頃の御悩によって一旦事切れたまいしかど、御寿命未だ尽きさせたまわず、今より三日の後、御喜びの事あらん。しかるを逸らせたまえば御後悔もや候わん」としきりに諫め申すと忠平公は余りの事に心得難く思えども、事みな百発百中すという易学者の申す事なり、要あるべしとうなずいて、帝崩御の御事はなおしばらく披露に及ばず、公卿おのおの宿直(とのい)して、御亡骸を守りつつ儚(はかな)く日をぞ送りける。
さる程に帝は事切れたまいし時に御魂やさまよいけん。いと茫々(ぼうぼう)たる荒野(あらの)のほとりに独り佇みたまいつつ、つらつら辺りを見返りたまうと、いと暗くして文目(あやめ)を分かず、ただきらきらときらめく物は向かうに高き山ありて、林のごとく植え並べた剣の光なりければ、帝はしきりに驚きたまいて、「浅ましや、我は早地獄にこそ落ちたりけれ、いかにせまし」といとどなお思いかねさせたまう折から、数多の人の叫ぶ声してたちまち鬼火が燃え上がり、昼よりもなお明かりけるに、痩せさらばいた餓鬼どもがいくらともなく現れ出て、「あつ仁(ひと)□来たりたれ、日頃の恨みを返せや」と、おっとり囲んで鞭(しもと)を上げて打ち奉らんとひしめく時に、たちまち後ろに人あって、「無礼なせそ」と止めれば、餓鬼どもはこれを見返って、「府君がとどめたまうなり。皆引け引け」と罵り合って、いつちともなく失せにけり。その時そのとどめし人が静かに雲より下りたって、帝の御前に膝まづき、
「君がいとけなくおわせし時、それがしは既に世を去れば、御見覚えあるべからず。それがしは従四位の上大学の頭(かみ)菅原の▲是善(これよし)にて候なり。されば学問の徳により死して泰山府君となれり。この身はすなわち南山にあり。人の命の長き短き、それを司る職役なれば、もし定業(じょうごう)ならぬ者が非命に死する事もあらんとそれらを改め正さんために、かく地獄へも通い候。しかるに今君臣の義をわきまえず恨み奉る者どもが打ち懲らし奉らんとてひしめきたる折に、参り合わせしは思いなき幸いなり。今一ト足遅ければ真に危うき事なりき」とまた他事もなく申すに、帝は御感浅からず、
「さては是善なりけるか。先には朕が過って菅丞相を筑紫へ流し、その方様(かたざま)の人々を追い失いし祟りによって、飢饉、洪水がうち続き、あまつさえ時平は悪病で既に身まかり、その余の輩、藤原の清貫(きよつら)、たびらのまれ世なんどまで、皆雷にうち殺されて悪名をのみ残したり。こは菅丞相の祟(たた)りぞと人も申し、朕も思えば、近頃あの丞相を元の位に返し上せて、その子らを召し返せしが怨霊なおも空(あ)かずやありけん。朕の齢が長からで死しては餓鬼の□□□□□□、これらの事は予てより三好の清行が考え定めて御事に寄せた書状あり。頼むは是善ひとりのみ、とにもかくにも計らいてよ」と心細げに仰せつつ、その書状を取り出して是善に渡したまえば、是善は受け取り開き見て、にっこと微笑み、
「この状がなくともそれがしいかで君の御為なおざりに存ぜんや。天災地妖怪うち続き雷火に撃たれし者さえあるを、世ではただ道真の祟りと申せども、道真がいかでか君を恨んでさる祟りをいたすべき。その身は人の讒言にてさすらい人とまでなりしかど、天をも恨まず人をも咎めず、君悪しかれと思わぬ由はその歌その詩に表れて、知る人ぞ知ることながら、さしも咎なき大臣を無実の罪に苦しめたまい、その輩をいと酷(むご)く罪なわしたまえば、神は怒り人憤りしその気の下(しも)に結ぼれて、飢饉、洪水うち続き、あるいは内裏(だいり)に雷落ちて打たれて死せし者さえあり。これすなわち天津神(あまつかみ)、国津神(くにつかみ)の御計らいにて、道真の業にはあらず。ただやいしんの徳により我が子ながら道真は自在天に忠信して天部の神となりて候。しかれどもその輩は道真が心延えに似たる者がなければ、なお冥土には今のごとく君を恨み奉る怨霊なしとすべからず。これらは幾人ありとても何事をかしいだすべき、それがしいささか計らう旨あり。閻魔王に見(まみ)えたまえ、御道しるべつかまつらん。こなたへこそ」と先に立って導き奉れば、帝はたちまち是善が言うことを悟って御感いよいよ浅からず、
「実に菅原の丞相は類少なき大忠信、多く得難き賢人なり。またその父の是善もただ者にはあらざりけり。これより□三好の清行、都のよし香らにいたるまで、皆神□に通じたる博物の学者にして忠義の輩なるを、朕は疎(おろそ)かにしてこれを遠ざけ、寧人(ねいじん)ばらに惑わされ、そしりを後の世に残し、恥を冥土に輝かさんは実に浅ましき事なりき」と御後悔しきりに引かれて森羅殿(しんらでん)に赴けば、閻魔王が御橋(みはし)を下りて帝を迎え奉ると帝はいたくへりくだり、
「朕は冥土の罪人なるに、大王などてねんごろなる。ただここもとに」と否みたまうを閻王は理無(わりな)く御手を取り、客人(まれびと)の座におし据え参らせ、
「君はこれ南贍部州(なんせんぶしゅう)大大和の陽王なり。我が身はすなわち冥府の陰王。自ずからにその品(しな)異なり。さのみは辞退したまうべからず。先には時平に憎まれて無実の罪で死せし者が君を恨んで訴えいで、近頃はまた近江の龍王は君があの約(やく)に背いて救いたまわざりし由をしきりに恨み憤りて愁訴すること暇もなきに、君が命数(めいすう)今早尽きたまひぬる由を冥官らが申すにより、ここへ迎え取りしなり」と説き示し申すと是善はこらえず進み出て、
「そは間違いにて候べし。この君の御命がただ今尽きさせたまわんや」となじれば、閻王は方へなる鉄の帳を取り、「しからば府君、改め見たまえ。よも間違いはあるべからず」と言いつつ渡すその紙を是善は受け取りおし開き、繰(く)りつつ見ればちっとも違わず、南贍部州日本国人王六十代の天子諱(いみな)はあつ仁(ひと)、在位一十三年にして薨(こう)ずとあり、是善は大きに驚き、密かに早くも筆を取り、一十三の一の字に▲二画を加えて三となしぬ。からぬか木にうち微笑み、「大王これをよく見たまえ、在位は三十三年なり。およそ昌泰元年より今年延喜十年までは十三年にこそ候え。しかる時はこの君はなお二十年の果報あり。冥官達の粗忽(そこつ)にこそ。よく見たまえ」と差し寄せれば、閻王もまた驚いて、
「泰山(たいざん)府君(ふくん)なかりせば、民に父母□たるこの君の寿命をほとんどあやまつべし。粗忽を許したまいね」と詫びつつもてなし参らせれば、帝は深く喜んで
「思いがけなく大王の恵みをこうむるかたじけなさよ。それがしも娑婆へ帰れば何にもまれ参らせん」と他事もなく宣えば、閻王はしばし案じて
「それがし好んで折々に抹香(まつかう)を舐めるが、冥土の抹香は全て色黒くして匂い薄し。日本国伊豆山の樒(しきみ)をもって製する物は、その色は樺(かば)の如くにして匂い高しと聞き及べり。もしちとの抹香を贈りたまうことあらば、何よりもって賞翫(しょうがん)すべし」と言うに帝はうなずいて、「そは殊更(ことさら)に易き事なり。必ず贈りまいらせん。さても朕の族(うからゆから)の誰が命の短からん」と問えば閻王は再び頭を傾けて
「君の同胞、妃(きさき)たちはいずれも命長かるべし。但し御妹節折(よをり)の内親王のみ世を早失わん。その余の上は憂いなし」とねんごろに示し申せば、帝は遂に別れを告げて返り去らんとしたまうにぞ、親王すなわち菅原の是善を見返って、「生ける人の差し引きは泰山府君の職分なり。帝をよきに導いてさぁさぁ帰し参らせてよ」と言うと是善は欣然(きんぜん)とやがて帝の御供して、森羅殿をたちいでて初め行き合い奉りし剣の山のほとりまで送り付け参らせて、さて帝に申す様、
「それがしがなお何処までも送り奉らんとは思い候へども、大方ならぬ職分あれば、ここより御暇をたまわるべし。先には君に仕えし左大辨(さだいべん/左大臣)希世(まれ)は冥土にあって、その役重く亡者の採用を司れり。希世を代わりに御道しるべに参らせん。召され候え」と申すと帝は眉根をひそめ、
「怪しや希世はその昔、時平にへつらって菅丞相を傾けたねじけ人なるにより雷火に打たれて死せしにあらずや。しかるに死しては呵責もなく、かえって重き司人(つかさにん)となる事のいぶかしさよ。故もやある」と問わせたまえば是善が答えて、
「さん候、希世は萬に私(わたくし)なく心正しき者なれども、不幸にして藤原の清貫(きよつら)らと諸共に雷に打たれて死したれば、世には時平の方人(かたうど)で悪人なりと言われるは、いよいよ希世が不幸なり。これらによっても天災地妖は皆道真が業ならぬ道理を悟らせたまえかし」と申す言葉も終わらぬ折から、たひらの希世が来たりて、帝にまみえ奉り、是善に立ち替わって御道しるべをつかまつれば、是善はそのまま帝に別れ奉り、早南山へぞ帰りけり。かくて帝は希世に引かれて焦熱地獄(しょうねつじごく)を見そなわするに、牛頭馬頭が獄卒ら痩せさらばいた罪人を大釜で茹でるもあり、あるいはいたく縛り付けて釘抜きで舌を抜く、目も当てられぬ有様に帝は深く恐れたまいて、
「さても無惨や。在りし世にいかばかりの罪を作ってかかる呵責にあうやらん。真に不憫の事なり」と深く哀れみたまうに希世は声を潜まして
「君は見忘れたまいしか。ただ今舌を抜かれるは菅丞相を虐(しいた)げて無実の罪に▲落とした時平公にて候なり。またあの釜で茹でられるのは時平にへつらって菅家を悪し様に申しなしたる藤原の清貫(きよつら)なり。されば三好の清行とまた藤原の清貫は文字こそ変われどきよつらと唱えるその名は等しけれども心延えを尋ねれば善悪邪正(ぜんあくじゃしょう)、雪と炭なり。彼らの上を見そなわして寧人を遠ざけたまえば何の恐れか候べき」と密かに諭し奉れば、帝はしばしばうなずいて、
「さるにてもこの人々の菩提を弔い得させんには如何なる功徳を良しとせん」と問わせたまへば希世答えて、
「もし千本の卒塔婆を立てて菩提をとわせたまえば成仏せん事疑いなし。今は早これまでなり。さぁ此方(こなた)へ」と急がし申して剣(つるぎ)の山の麓を過ぎると数多の人の叫ぶ声して、此方を指してくるに似たり。帝はこれに進みかね、「またもや以前の怨霊どもが朕を討たんとするにやあらん。いかにすべき」とたゆたいたまえば希世は帝に申す様、
「これらの事は御心安かれ。かくあるべしと存ぜじれば、白太夫の五千貫の銭を密かに借りうけ施餓鬼(せがき)に引かせ候なり。あれ見そなわせ」と申しも果てぬにくだんの銭を車に引かせて、三途川の婆をひきそい来つ、「御背牛(せぎゅう)ざふ」と呼び張れば、何処ともなく数多の餓鬼がおびただしく集い来て、くだんの銭を百二百ずつ施すままに受け頂いて皆喜びて帰ると見えしが、ただこの功徳によりたりけん。帝を恨み奉りしその人々は仏果を得て雲に乗りつつ皆諸共に極楽国へ飛び去りけり。
その中に近江の湖水の龍王鱗長は三十六禽(きん)流天の内の金龍王と表れて遙かに帝を伏し拝み、弥陀(みだ)の浄土へ飛び去れば、三途の婆は獄卒らに唐車(からぐるま)を引かせつつ、帝と希世に会釈して川辺を指して帰りけり。帝は希世の働きを大方ならず褒め、
「汝は朕が為に白大夫とか言う者の数多の銭を借り出して、施餓鬼の功徳を行いしは返す返すもいみじき業なり。朕がまた生きて浮き世に帰ればその銭を返すべし。そもそも白大夫と言う者はいかなる人ぞ」と問うと希世は答えて、
「さん候、彼は太宰府の民なるが菅丞相が左遷の折に心を尽くして仕えたり。かくて丞相が世を去りては只その菩提の為にと日毎に一銭ニ銭づつ手の内を施すこと今に至りて怠らず、さればこれらの功徳によって来世は必ず幾万貫の分限(ぶげん)となるべき果報あり。その徳は遂に冥土へ通じて来世に持つべき金銀が今早ここに積んであり。それがし今は財用(ざいよう)を司る職役なれば、その白大夫の銭を借りて背牛(せぎゅう)には引きしなり。君がまた浮き世に帰りたまえば▲これらの事を忘れたまわで銭を白大夫に返させたまえ。これよりあなたは山路なり。これに乗りたまえ」とて斑(まだら)の牛を引き寄せると、その牛頭(うしかしら)は人にして五体は獣に異なる事なし。帝は怪しと思し召し、まずその故を尋ねたまうと希世は答えて
「およそ世に在りし時、牛馬をむごく使って、その苦しみを思いやらず、あるいは養父母、養子の類、密かに相犯せし者は、死して必ず畜生道の苦しみを受けることは全ては此の牛のごとく」と説き示し奉れば、帝はいとど浅ましくことさら不憫に思し召せども、かくてあるべき事ならねばその牛に打ち乗って一つの山を越えたまえば、ここぞ名に負う血の池のほとりに近づきける。かくて帝は血の池の有様をご覧ずるに、池水は皆血潮にて生臭きこと言うべくもあらず、男女の亡者が幾人か獄卒どもに追いやられ、あるいは沈みあるいは流れるくれんの波の間より冥火(みょうか)しきりに燃え出れば、水に溺れてまた更に火にまた焼かれる大叫喚(きょうかん)、火水の責めに耐えかねて、泳ぎ着きつつようやくに岸に上らんとする者は剣のごとき岩かどに身を裂かれて転び落ち、叫び苦しむ有様を見るに目もくれ胸潰れ、身の毛もよだつばかりなり。帝はかかる罪障(ざいしょう)の浅ましくも哀れにも例える物の無きまでに、いとど不憫に思し召し、御涙をとどめあえず、
「やよ、希世。この血の池と言うものは世に難産で死せしおなごが落ちる地獄と聞きたるが見れば男も数多あり。いかなる故ぞ」と問いたまえば希世は答えて、
「さん候、血盆経(けつぼんきょう)は偽経にて、いとうけられぬ事のみ多かり。死して黄泉路へ来る者の悪人は地獄に落ち、また善人は極楽へ必ず至るものなるに、難産で死したりとも犯せる罪の無き女がいかでか此の血の池に落ちて地獄の苦患(くげん)を受けんや。彼らは全てありし世に利欲の為に兄を虐(しいた)げ弟を害し、妻を売り子を売り、親の悪事を表し、あるいは叔父姪と争うたぐい、血で血を洗うて恥とせざりし、およそこれらの報いにて此の血の池地獄へ落ちたり。さるによりおなごより男が多く候」と説き諭し奉れば帝はたちまち御疑い解け、いとど恐ろしき因果の道理を▲悟らせたまいて、牛を早めて行き過ぎたまいつつ、また幾里をか来ぬらんと思し召すと、たちまち空は明るくなって初めて草木を見そなわするに、遠山のたたずまいも在りし冥土に似ざりけり。その時希世は忙わしく帝の御裾を引き動かして
「是の所は既に早あの世この世の境にて、向こうの橋を越えれば現世にいでさせたまうなり。さぁさぁ」と急がし申して牛を追いつつ行く程に、その橋で帝は牛の上より遙かに下をご覧になるとその丈三尺あまりの鯉の内全て紅(くれない)の鱗(うろこ)に黄金の色を交えて辺りも輝くばかりなれば、しばらく牛を留めさせ見とれておわします程に、希世もつくつく見下ろして、「実に珍しき鯉にこそ、よく見そなわせ」と言いながら御ほとりに立ち寄りて、やにわにはたと突ければ、帝はあなやと叫びもあえず、たちまち千尋(ちひろ)の水底へ落ち入りたまうと思し召せば、忽然と御息が通って黄泉路返らせたまいつつ、なおもしきりにおびえたまいて、「希世が朕を□□□□□□□□」と叫びたまうにおん始めとして、むまたの公いいおんなきがらをうち守りてありしかば、皆々驚きかつ喜んで、「すはや御蘇生ましませしぞや。あな目出度や」とどよめいて御薬を勧め参らせ、その後に御粥をたてまつるとようやく陰気が失せて、御心地すがすがしく遂に本復ましましけり。
帝が事切れたまいしより、ここに至って三日なり。清行の占い申せしその事すべて違わずと忠平公は感涙にむせびたまうぞ理(ことわり)なる。さればまた女御、妃の御喜び、冥婦、うねめに至るまで、憂いの袖をひるがえして、いきまざる者なかりけり。
かくて帝は人々に地獄の有様を告げさせたまいて、菅原の是善が泰山府君となりし事、かつ左大辨希世の事、すべてこの両人がいたわり導きまいらせる事の体たらくを物語りつつ、また宣う様、
「菅丞相は天部の神と現れたる由、確かに聞けり。さても年頃の飢饉、洪水、雷火の災いありし事はあの丞相の業にはあらず。こは賢人を追い失い罪無き者を罪したる政治(まつりごと)の道ならぬをあまつ神が咎めて、さる災いを下せしなり。かかればあの丞相のいささかも私なきその忠信を知るに足れり。増官(ぞうかん)増位(ぞうい)あるべし」と菅丞相を押し上し、正一位太政大臣を贈らせたまい、さらにまた天満大自在天神という神号をたまわりて、社(やしろ)を建立すべき□□□□□□□□(ここの文章の不明)神になされ雅規(まさのり)を四位の右大辨になされ、この余、淳茂(あつしげ)、清よしらにも司位(つかさくらい)を上せたまうが菅原の文時(ふんとき)のみいたわる事ありと申して、この日の除目(じもく)にあわざりけり。かくてまた帝は三好の清行を呼んで、
「汝の易学に妙あること今に始めぬ事ながら、なかんづく冥土黄泉(こうせん)へ書状を寄せて朕がために計りしは昔の小野の篁(たかむら)なりとも及ぶべきところにあらず。しかのみならで▲朕の齢(よわい)が尽きざりしをよく知って大臣をとどめたは鬼神不思議の先見なり。そを賞せずにはあるべからず」と四位の位を授けて、式部(しきぶ)の大夫(たいふ)になされけり。かくてまた宣う様
「朕が冥土にありし時、恨みある亡者どもに取り巻かれんとした時に希世が早くも計らって白大夫という者の鳥目(ちょうもく)五千貫文を借り受けて施餓鬼に引けば、たちまち此の功徳によって呵責を逃れしのみならず朕を恨みし亡者は更なり、あの近江の龍王さえ皆たちどころに成仏して、極楽浄土に赴きぬ。かかればその鳥目を大夫に返さずはあるべからず。さてもその白大夫は元より筑紫の民にして菅丞相の左遷の時、三年の間、心を尽くしてよく仕えた者なりとぞ。かくて丞相が世を去りてはその菩提の為にと常に一銭ニ銭づつ手の内なる施行(せぎょう)をして怠る事が無きにより、その功徳が冥土へ通じて来世は必ず幾万貫の大福長者となりぬべき。これらの果報あるにより、その銭積み冥土にあり。さるを希世が借り出して朕が為に背牛に引きたり。汝は元より菅家の親是善の弟子にして丞相とも親しかりき、大方ならぬ好(よしみ)あれば、急ぎ太宰府にまかり下って朕の心を告げ知らせ、その白大夫に物を取らせよ。なおざりにすべからず」とつまびらかに示して、その五千貫に一倍の息(そく)を加えて一万貫をたまわるべき由を掟させれば、
清行は謹んで勅(みことのり)を承り、旅装いを整えて、その御銭を船に積ませて雑色数多引き連れて、その身も同じ船路より太宰府を指して走らせけり。さる程に清行は早その地に着けば太宰の大弐(だいに)に案内して勅命の旨を伝え、次の日その御銭の唐櫃(からひつ)をかき担わせて、自ら白大夫の宿所に赴き、近頃帝が冥土に於いてしかじかの事により五千貫の鳥目を借りし由を告げて、今また五千貫を増し下され一万貫の青差しをもたらし来つる事の趣、大方ならぬ勅(みことのり)を伝え知らせて、御賜物を置き並べ早渡さんとしてければ白大夫は驚いて、
「そは思いがけぬ事なり。それがしに何の徳あって来世の果報をこの世から承る由あらんや。菅丞相に仕えしは、あの君の無実の罪を哀れみ奉りしのみにして、またその菩提を問い奉るは三年の間浅からぬ御恩を受けしによりてなり。それがしは帝様に銭を貸した覚えなし。得知らぬ銭を一文なりとも賜る言われは候わず。この事のみは許させたまえ」と田舎親父の片意地にいかばかりと説き諭しても受け引く気色がなければ、清行はほとんど持て余して飛脚を都へ上せつつ、事の趣を告げ奉ると帝はその白大夫が利欲に疎(うと)き朴訥(ぼくとつ)なるを大方ならず御感ありて、すなわちその一万貫になお数多の宝を加えて、天満天神の御社(みやしろ)を太宰府に立ちさせたまい、白大夫を末社として生きながらに神に祀(まつ)らせ、その子供らを召し上して、牛飼い舎人(とねり)になされけり。今も天満宮の末社の白大夫の社はこれなり。かくて三好の清行はこれらの御用を承り、その御社が成就の後に都へ帰り上りけり。
○かくてまた帝は忠平公に宣う様、
「朕は去ぬる頃、冥土で閻魔王に相見(あいまみ)え、そのもてなしを受けし時に伊豆山の樒(しきみ)で製した抹香を贈り遣わすべき由を約束せしことしかじかなり。かかればその身の命を捨てて冥土へ遣いすべき者を尋ねてこれを得たならば早く冥土へ遣わすべし。しかれども権威につのって人の命を取らん事は最も不仁の沙汰なれば、左様の事はすべからず▲さればとて助け難き罪人などの命を取って仮にも勅使とすべきにあらず。あるいはいたく年寄りて養うべき子も無き者、あるいは生まれて片輪なる者、浮き世に捨てられ娑婆に飽きて死なんと願う者あらば望みのままに黄金を取らせてくだんの遣いに任ずべし。これらの旨を遠近(おちこち)へ知らせてよ」と仰すれば、忠平公は承ってやがてその趣を国々へ触れ知らせ、また使(し)の廳へ下知を伝えて、都近き里々は更なり、五畿内までも巡らせて、その人を求めたまうが賜る金は欲しけれども命を惜しまぬ者もなければ、求めに応じ、身を捨てて我承らんと申す者は何処の地にも無かりけり。
[物語二つに分かる]ここにまた津の国難波村の片ほとりに竹田日蔵という浪人あり。元菅丞相の家臣にて忠義の若者ければ、今よりして十年の昔に菅家が筑紫へ左遷の折に、なお揚巻(あげまき)にておわしませし末の公達(きんだち)菅秀才(かんしゅうさい)文時(ふみとき)朝臣(あそん)にかしつけて、何処の浦にも世を忍べと黄金一ト包みをたまわりしに、なお思し召す由やありけん、菅家のご先祖天穂日命(あめのひのみこと)より伝えらた天国(あまくに)という宝剣を菅秀才に伝えて、これが人となるまでは日蔵よくよく守れとその剣を日蔵に預けけり。かくて竹田日蔵は菅秀才、文時の御供して津の国難波村に隠れ住み、主君を養い参らせるに手跡(しゅせき)は菅丞相の弟子にて走り書き見事なれば、里の揚巻牛うつ童の手習う者を集えつつ寺子屋をしてようやくに細き煙を立てたりける。手習鑑(てならいかがみ)の浄瑠璃に武部源蔵と作りしは、この日蔵が事なるべし。しかるに日蔵の女房はその名を世居(よおり)と呼ばれたり。見目形(みめかたち)は醜からず、その身はニ八の春の頃より日蔵の妻となり、わずかに中一年を置いて疱瘡(ほうそう)をして松皮とかいう痘瘡(もがさ)で辛く命をとりとどめれども花の姿はたちまちに生まれもつかぬ片輪となって、かためはしいて色黒く、あばたは指もて押したるごとく、肌へは全て引きつって松の木肌に似たれども、心延えは始めに変わらず夫にかしずき、主君を敬う萬につけて甲斐甲斐しく貧しき暮らしをとにかくに年頃まかないたりければ日蔵も今更に顔ばせ醜くとても、さすがに捨てる心なく、十年このかた連れ添う程に、延喜十年の秋の頃、親しき友が密かに告げて、
「・・・・・菅丞相の公達(きんだち)がなお世を忍んでおわしますをも召しだし候べき由既にその風聞あり。遠からずして吉相あらん。いと目出度し」と囁きけり。日蔵これを聞きしよりいと喜ばしく思えども、また差し支える事あれば、さすがに心安からず女房世居にしかじかと聞きつる由を告げ知らせ、
「もしその事が真ならば念願成就の時が至れり。いと喜ばしき事ながら十年に及ぶ浪人の蓄えは早尽きし頃、菅秀才はかんろうで二年余りの板付きにより薬の代の才覚なく、あの天国の宝剣を八十両の質として値たつ□薬□□□□ままに□□せつ今ではちとも病気(やまいけ)なく健やかになりし事、御身も知る事ながら都へ帰らせたまわんには、あの宝剣を受け戻して君に帰し奉り▲我が身もお供をすべき事、また言うまではなけれども八十両に利を重ねて早百両に及ぶ質を受け戻すべき手当てはなし。言うて返らぬ事ながら御身の顔が変わらであらば、よしや盛りは過ぎるとも江口の里に身を売らせ少しの金は整うべきに、うたてき今の顔ばせや」と言うと世居は涙ぐみ、慰めかねし身の憂さに夫の繰り言は理(ことわり)なれば、また今更に恥ずかしく我が身を恨むるのみなりし。志を励まして、それより日毎に走り巡って金整えんとしたれども海女が鹽焼く辛き世に親しき者も頼もしからで、その金少しも整わねば、只身一つに託(かこ)たれて、
「うたてや、昔の顔ばせならば例えこの金整わずとも、先の如くに夫にまで世に疎(うと)ましげに言われはせじ。二世と契りし人にすらいつしか疎み果てられて、まさかの用にたちはせず、何面目(めんぼく)に長らえてなおこの上に憂き目を見るべき。いっそ死ぬるがましならめ」と女心の一ト筋に思い詰めては死に神に誘われて散る花に風、その入相(いりあい)の鐘てより用意の短刀人目を計って喉(のど)をぐさとかき破り、自害してこそ伏したりけれ。かかる折から日蔵は金才覚のために堀江村まで行きしが、その夕暮れに帰り来て、この体(てい)を見て大きに驚き、抱き起こして呼び行くれども、早喉笛をかき切れば救うべき由もなし。枕に残せし書き置きで事の心を知れるのみ。死ぬべき事にはあらざるをさすがに女の胸狭く、我が仮初めに言いつる事を心に掛けて命を捨てしは真に不憫の事なりきと思えば涙が胸に満ち、由なき口の過ちを今更悔しく思えども、さてあるべきにあらざれば、村長(むらおさ)に告げ、辺りに知らせて、次の日、妻の亡骸を頼み寺へ送らせて、かたの如くに葬りけり。
この時より三日以前に菅秀作、文時朝臣は春の頃より都にましますこのかみ高視(たかみ)朝臣より消息あり、今は世の中広くなりぬ。召し出されるべき御沙汰もあるに難波におるはいと遠し、都へ上りたまえかしと密かに招かれれば、文時朝臣は喜んで、まず日蔵に由を告げ、あの宝剣を求めたまえば日蔵ほとんど困り果て、
「その天国の宝剣はそれがし予て確かなる人の倉に預け置いたり。君はまずまず上洛したまえ。それがしは後より宝剣を取り出して馳せ参らん」とさり気なくこしらえて主君を都へ上せ参らせ、なお金の才覚に夜の目もあわぬ苦労のうちに妻の世居は自害して、かててくわえし憂き事に成す由もなく日を送るが、文時朝臣はかくとも知らず都より消息して、
「昨日臨時の除目(じもく)あって我が同胞はしかじかの司位をたまわりぬ。しかれども我が身は宝剣無きによりしばらく病にかこつけて、その除目にあわざりき。さぁ宝剣を持参せよ。何故に斯様に延び延びなるぞ」としきりに催促すれば、日蔵はいよいよ憂いもだえて、只此の上は腹かき切って死ぬるより術(すべ)なしと既に覚悟をする折に、錦織(にしこり)の判官代照国が勅命を承り、五畿内を巡りつつ既に難波の旅宿にあり。死なんと願う者あらば、数多の金をたまわりて冥土へ御使いに遣わされるべし。その故は斯様斯様と残る隈なく触れれば、日蔵はこれを伝え聞き、心喜び忙わしく照国の旅宿に赴き、それがしは竹田日蔵という浪人なり。最愛の妻に遅れてこの身も多病なるにより、世に長らえん▲事を願わず、金百両を賜れば命の御用にたつべきなり。この事偽りと候わず神文をもって申すに、照国もまた喜んで、なおまた自ら問い正すとたえて相違もなかりしかば望みのままに金を取らせて人を付けて宿所へ遣わし、なすべき事をなさせけり。
さる程に、日蔵はその金で天国の宝剣を受け戻し、確かなる人をもて都へ上せて文時にその宝剣を返しまいらせ、その夕暮れに照国の旅宿へ再び赴いて、「既に用事はし果てたり。さぁさぁ計らいたまえ」と言う覚悟の体に照国は感じて、
「真にもって神妙(しんみょう)なり。但し、一ト折櫃(おりひつ)の抹香を閻魔大王へ参らせる御使いなるに身に傷付けては悪かるべし。さればとて、此方(こなた)より殺さん事はいよいよせず、汝の心一つでそのままにして命を落とせ、御贈り物はこれなり」とその折櫃を渡せば日蔵これを風呂敷に包み、しっかと背負い長押(なげし)に縄を投げ掛けて、遂にくびれて(首吊り)死んでけり。照国はこれを見届けて、
「我は都へ立ち帰り、まず此の由を相聞せん。重ねて御下知あるまでは、この日蔵の亡骸は折櫃を背負いしままで大きな瓶(かめ)に納めて、村長らがよくよく守れ。しばらく葬る事なかれ」と厳重に言い渡し、照国は次の日に供人数多を引き連れて、都を指して急ぎけり。
されば竹田日蔵は忠義の魂迷うことなく死して冥府へ赴いて、日本延喜の帝より抹香を贈らせたまう御使いの由を言い入れると閻魔王が対面せんとちゃうぜんに呼び寄せて自ら帝の安否を尋ね、贈り物を受け納め、日蔵をねぎらいたまい、見るめかがはなの冥官(みょうかん)にしばらく囁き問い定め、また日蔵にうち向かい、

「汝は真に忠臣なり。命数(めいすう)未だ尽きざれば娑婆へ返し遣わすべし。妻の世居に対面せよ」と厚くもてなしたまいけり。その時、冥官が進み出て閻魔王に申す様、
「日蔵の女房世居は若き時にもがさにより顔ばせ悪くなりし者なるが、斯様斯様の事により世をはかなみ夫を恨んで自害した者なれども□ごうには候わず、命数いまだ尽きざりしを身に傷つけて死したれば、その魂を返すに由なし。いかが計らい候わん」と聞こえ上げれば、閻魔王は
「それは真に不憫のことなり。例えその身に傷付けたりとも死して日数のたたずもあらば、なお魂を返すべし。死して幾日になるやらん」と問えば冥官は、「さん候。四十九日も過ぎたれば、その身はくわ□腐りたり」と言うと閻王はうなずいて、
「しからば体は用い難し。その歳も名も同じくて命数つきし女があらば、今その死する女の体へ世居の魂を返し入れよ。それらのおなごはあらずや」と再び問えば冥官は答えて
「日本延喜の帝の妹節折(よおり)の内親王は命数尽きたり。その死せん事は遠からず、その姫宮は歳も名も日蔵の妻世居に同じ、これをや用いたまわん」と言うと閻王は微笑んで、
「それは真に妙なり妙なり。その期に及べば、こなたの世居の魂を返し入るべし。あたかもよし、あたかもよし」と言いつと日蔵を見返って、
「汝も全て聞いたがごとく、妻の体は用い難し。されども命数尽きざれば、あだしおなごの亡骸へその魂を返し入れん。此は只汝が主のために命を捨ててこの旅の使いに来たのを賞するのみ。世居は後より遣わさん。汝は早く娑婆へ帰れ。さぁさぁ」と急がして、帝に参らせる受け文を渡せば、日蔵は閻魔王に喜びを述べ、別れを告げて、元来し道を心当てにそのまま走り出たりける。
○これはさて置き、菅秀才文時は日蔵夫婦が死したる事を夢にだも知らず、天国の宝剣がようやく手に入れば斜めならず喜んで、これを携え参内して、父丞相より相伝の事の趣をしかじかと聞こえ上げると帝はつぶさに聞こし召し、「家第一なる宝剣を末の子に伝えしは才のすべきし故なるべし」と文章詩作を試みたまうと玉を連ねし大才なれば、帝は深く愛でて、抜きん出て三位を授け、大内記にぞなされける。これにより文時はこの守(かみ)たちを越えて、帝に仕えたまいしをうらやまぬ者は▲なかりけり。
○さる程に判官代照国は日蔵がくびれ死したその次の日に、都に帰ってありし事々もしかじかとつぶさに相聞すれば、帝はさこそと思し召し、
「さるにてもその日蔵と言う者の最後の趣は不憫の事なり。照国を今一度あの地へ遣わし、死骸をあらため、異なる事も無きにおいては、厚く葬り得させよ」と仰せければ、照国がその次の日に再び難波の旅宿に至ると村長らは怠りなくその棺を守っており、照国はしかじかと勅命を述べ知らせ、更に死骸をあらため見んとそのまま棺を開かせると日蔵たちまち黄泉返り、瓶(かめ)の内より這い出たり。皆々等しく驚き騒いで、故もやあると訪ねれば、日蔵はちっとも包まず、冥土へ行きし事の趣、閻魔王に見参の体たらくを物語ると、
「実に空言にはあらざるべし。死骸と共に棺に納めた抹香の折櫃が風呂敷のみにて物はなし。しかのみならず日蔵の懐に閻魔王の受け取りの手形一通があれば、照国は不思議の思いをなして、こは未曽有の□事なり。こと私(わたしくし)には聞き置き難し。日蔵も都へ上って共に相聞しけれ」と相伴って京へ帰り、事の由を聞こえ上げると帝はつぶさに聞こし召し、
「そは真に不思議の事なり。朕が自ら聞くべきに、その者を伴って萩(はぎ)の戸まで参れ」とて立ちいでんとしたまう時に、帝の御妹の三の宮の姫上を節折の内親王と申せしが、この時数多の女房にかしずかれ、秋の草花の色々なるを眺めてをわしませしが、御顔の色がたちまち変わり、そのまま絶え入りたまいしかば皆々等しく驚き騒いで、しきりに呼びいけたてまつり、典薬(てんやく)の守が走り参って御脈をうかがうと、「医道の脈絡が絶えたまえば御療治も届き難し。是非もなきことにこそ」と申すより他なかりしかば、女房達はしのびかねて声を合わせて泣きにけり。帝は此の由を聞こし召し、御涙をとどめあえず、
「かかる頓死(とんし)も定業(じょうごう)なるべし。先に朕が冥土でうからやからの寿命を延魔王に尋ね問いしが、一人節折の内親王のみ短命ならんと言われし事を今さら思い合わせるかし。必ず嘆くべからず」と女官達を制したまうに、日蔵は先より参りて萩の戸の局(つぼ)のほとりに祗侯(しこう)せしと聞こえれば、それ聞かずはあるべからずと端近くいでさせたまい、冥土の事の趣、日蔵が申す由を御簾を隔てて聞こし召し、閻魔王より渡された受け取り手形を開かせて見そなわす折しもあれ、鬼火が忽然と閃(ひらめ)き来て、死に絶えたまいし姫宮の御胸先へひらひらと落ちかかると見えたりしが、怪しむべし内親王はたちまちむっくと御身を起こし、遙かあなたにいたる日蔵の声を導(しるべ)に慌てふためき走り出て、
「ノウ懐かしや。こちの人は冥土でちらと会い見し時に、何故に物言うてはくださらぬ。我が身も共にと言いはせず、一人振り捨て先立ちて立ち帰りたまいぬる心ずよや」と恨みの数々、その顔ばせは身も知らぬいと老(らう)たけたる姫宮なれども、物言う声と立ち振る舞いは女房世居によく似れば、日蔵は呆れ惑って、「こはそも如何に」と押しとどめ、冷や汗流してもじもじと後退(あとじさ)りするばかりなり。怪しき事の体たらくに帝を始め奉りありあう人々は片腹痛く驚くその中で帝は賢(さか)しくましませば早くも叡慮(えいりょ)を巡らしたまうに、
「事切れた三の宮の蘇生はあるべき事ながら、物の言いざま立ち振る舞いは更に三の宮ならず。思うに物が憑いたるならん。日蔵はその身に思い合わせる事あらば▲包まず申せ」と勅(ちょく)しゅうに日蔵は止む事を得ず、女房の世居が自害せし事、また冥土にて閻魔王に後より世居の魂を返し遣わさんと言われた事、そのくだりの趣、始めより終わりまで聞こえ上げ奉れば帝はうなずいて、
「それにて朕の疑い溶けたり。しからばこの三の宮は朕の妹にして朕の妹にあらず。身は空蝉(うつせみ)のもぬけとなって、今は早、日蔵の妻の魂が入れ変われり。かつその名さえ世居と言いしはいよいよ奇なり。さてもこの日蔵は素性いかなる者やらん。聞かまほしさよ」と宣えば御後辺にはべりる官三品文時卿はおそるおそる進み出て、
「彼処(かしこ)にはべる日蔵はそれがしの父の時より仕えし譜代の家の子なり。年頃難波の侘び住まいにそれがしをもり養って忠義無二の者なれば、あの天国の宝剣を預け置きたまいしが、それがしが久しく病み患い、薬の代(しろ)の尽きし時、その宝剣を質として数多の金を整えつつ、療治の手当てを尽くす程に病は本復致したり。それがしはたえてこれを知らず、召し返される頃よりして、しきりにその宝剣を求めて催促すれば、日蔵はその金を償(つぐな)いかねて、詮方なさに遂に冥土の御使いにその身の命を奉り、百両の金を賜り、さて宝剣を受け戻してある人をもてそれがし方へ送りこしたる時に至りて、そのこと初めて聞こえれば、それがし驚き、かつ哀れんで押し止めんと欲せども、早時遅れてその義に及ばず。しかるにことの怪しくも日蔵は蘇生して、閻魔王の御返事を申し上げるのみならず、その妻の魂は世を去りたまいし三の宮の御骸(おんむくろ)に宿り入り、言葉を交わす不思議の一条。今見も聞きもしたれども御前なればはばかって言葉をかけず候」と事つまびらかに奏したまえば、帝はいよいよ御感あって、
「しからば彼は今の世に多く得難き忠臣なり。素性はいかに」と問えば、「先祖は菅家と同姓で土師(はじ)の姓(かばね)に候」と申すと、「しからば菅家の陪臣(ばいしん)なりとも召し使うべき者なり」とにわかに五位の大夫になされて節折の宮を妻に賜り、また宣う様、
「土師氏はその昔、御陵(みささき)の事などを司りたるためしあり。朕は四ケの大寺において千人の卒塔婆を立てさせ、時平以下の人々の菩提をとわせんと思うにより、竹田の大夫を卒塔婆使としてその寺々へ使わすべし。一ト度、冥土へ使いせし試しもあれば、これにます司人(つかさびと)はあらじ」と仰せつけられれば、竹田の大夫は勅使として叡山、三井寺、東寺、興福寺へ赴いて、勅(みことのり)を伝えれば、その寺々でおのおの御願の法事を修行し、二十本の卒塔婆を立てけり。その後、帝の御夢に時平以下の輩(ともがら)が地獄の責めをまぬがれて成仏せしとぞ見たまいける。
さる程に竹田の大夫は思いがけなき妻を迎えて男(お)の子二人をもうけつつ、その子供が成人して帝に仕え奉る頃、その身は遂に世を逃れて墨の衣に様を替え、初めの名の日蔵は大日と胎蔵の両義に叶えばと元の俗名をそのままに日蔵法師と称(とな)えつつ、遂に名僧の聞こえあり。されば世に言うせいのい□の日蔵法師はこれなるべし。かくてまた妻の世居も夫に等しく尼となり、行いすましておる程に、二人の子供は幼き時より文時卿を師として学び、学問ことに優れれば司位も次第に上って、その家は繁盛したりける。
○これはさておき延喜の帝は日頃思し召したる事を皆行わせたまえども、なおあやにくに雷雨洪水す疫神(ときのけ)の憂(うれ)いあり。民の嘆きは大方ならねば、帝は宸襟(しんきん)安からず、再び思い巡らすに、
「これまで朕が執り行わした功徳は後世の事にして現在の災いを祓(はら)うになお足らぬなるべし。今よりりやう山▲大寺において一千五百の法師を集えて大般若を読ませれば国平らかに民安く天変地妖なかるべし。ただこの法事の導師たる者は道徳高き名僧ならではその甲斐も無きことなるべし。誰をがなと選ませたまうに忠平公を始めとして、浄蔵法師がしかるべし、召させたまえと申せしかば、帝はしきりにうなずきたまいて、朕もさは思いしなり、さらば浄蔵を召し寄せと熊野へ勅使を遣わされて浄蔵法師を招かせたまい、さてその事を仰するに、浄蔵法師は詔(みことのり)を承って、雲居寺に立ち帰り、一千五百の法師を集えて大般若を読みたりける。さる程に観音菩薩は時ようやく至りぬと、恵岸童子と諸共に乞食(かたい)の旅僧に姿を変じて洛中を徘徊しつつ、我には目出度き袈裟と鉢あり、値を惜しまず買う者あらば売るべし、売るべしと呼ばはりたまうと、その姿が汚げなれば人皆これを真とせず、たまたま買わんと言う者あっても値の高きに肝を潰して再び見返る法師もなかりき。かかる所に菅三位文時卿が参内の折に、これを怪しみ車のほとりへ呼び寄せて、その二品を見たまうと類稀なる物なれば、心の内で驚いてその値を問うと菩薩は答えて、袈裟の値は千五百両、鉢は千両と宣うに、菅三位はまた驚いて、しからばこの袈裟と鉢にいかばかりの徳あるやと問われて菩薩は、
「さればとよ。この二品を所持する法師は天魔(てんま)も障礙(しょうげ)をなすこと無く、変化も害すること叶わず。しかれども人によっては値を増してもこれを売らず。またはその人によっては値なくともこれを売らん。そはそれがしが元よりの志なり」と宣えば文時卿はうなずいて、「我思う由あれば共に大内へ参れ」と相従えて参内しつつ、事の由を奏したまうと帝はその由聞こし召し、
「その品いよいよ良き物ならば、此度の布施として浄蔵法師にたまうべし。さぁさぁ呼べ」とて出させたまえば菩薩は恵岸童子と共に御階(みはし)の元に膝まずき、袈裟と鉢とをうやうやしく文時卿に渡しけり。その時、帝がつくつくとその二品を御覧なると世に未曾有の宝なれば御喜びは浅からず、これらの値は申すままに取らせよと宣うと、菩薩はこれを漏れ聞いて、「いかで値を賜るべき。さればこそ、その人によって▲値なくとも売らんと言えり。早まからん」と言いながら恵岸と共に走り出て行方も知らずなかりけり。
さる程に帝の御願円満の日になれば雲居寺へ行幸(みゆき)あって、一千五百の法師ばらに数多の御布施をたまわりて、別に導師の浄蔵にはその袈裟と鉢とを御布施として賜れば、浄蔵は謹んで重恩(ちょうおん)を受け奉り、戴き捧げ退いて、その袈裟を掛け、鉢を持って進みいでつつしずしずと高座に着いて威儀(いぎ)正しく法義を述べる有様は、さながら羅漢(らかん)に異ならねば帝を始め奉り、道俗(どうぞく)ひとしくがっこうして、あら尊やととで褒めたりける。その時二人の弱(よろ)法師が高座のほとりに近づいて、浄蔵を見てあざ笑い、「今かばかりの功徳では天変地妖を祓い難し。あら笑止(しょうし)や」とつぶやくのを帝は遙かに見そなわし、
「あの法師らは先の日に袈裟と鉢とを値も取らずに走り失せたる者ならずや。しかるに今またここへ来て、いと託(かし)がましく法縁を妨げるは心得難し。あれを止めよ」と勅じゅうに近衛(こんえ)の官人はむらだちかかって引きずり除けんとする時に、二人は等しく身を交わし近づく者を投げのけ投げのけ、忽然として金色の光を放って雲に乗り、庭の梢(こずえ)に現れたまう観音薩多(さった)の妙相(みょうそう)に、恵岸も真の姿を現し、菩薩に従い立ち去りける。
思いがけなき来迎に、上一人(かみいちにん)より群集(ぐんじゅ)の道俗、皆庭上(ていしょう)に走り出て拝まぬ者は無かりける。その時、観音は妙音高く、
「良きかな良きかな。我はこれ世尊(せそん)釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)の仏勅を受け奉り、国土のために浄蔵法師を印声(いんぜふ)せんと来迎せり。知らずや天竺の象頭山に金毘羅神王という神あって、元これ日の本の神代の昔に、讃岐の国うたるの山に成りいでし神にして、その後天竺に渡り、我が釈尊に仕えて仏法守護の諸天となれり。この神のい神通力衆生のために災いを退け、幸いを下すこと不可思議の利益のあり。早く天竺に赴いて、十万八千里の苦行をしのぎ、釈迦牟尼仏を拝み祀(まつ)りて、不伝の経文を聴聞(ちょうもん)し、金毘羅神王を迎え来て、讃岐の国に鎮め祀れば天変地妖(てんぺんちよう)は長く絶え、国土太平、民安全の利生は日ここに新たなるべし。そもそも金毘羅神王には影と形の二神あり。その影の一ト柱の荒神はこれまた世尊が仏力で両界山に閉じ込めたまえり。浄蔵が渡天の折はその荒神が助けとなって、よく導きをする事あらん。おめおめ疑う事なかれ」と示現の御声は耳に残れど早御姿は恵岸と共に西を指してぞ飛び去りたまう。
○是により浄蔵法師は帝の勅(みことのり)を受け奉り、天竺へ赴かんとする時に、帝が自らはなむけの御杯を下されて、大法師の位を授け、かたじけなくも帝の御弟に準ぜられれば、世の人は長く浄蔵貴所(きしょ)と唱える折から渤海国(ぼっかいこく)より貢ぎの使いが参りしかば、浄蔵法師は便船(びんせん)して三かんより唐土(もろこし)におし渡り、更に天竺に赴くことどもは▲第四編に著すべし。四編よりして怪談(くわいだん)いよいよ多く物語りもまた甚(はなは)だ長やかなり。なお年々に継ぎ出して、遂には全部の冊子となさん。こは世の常の合巻物(ごうかんもの)と同じからぬ。作者の苦心を味わいたまえ、目出度し目出度し■

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
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