無位無官無俗無僧 《渓流斎日乗》

探訪記者高田朋之介、号は竹林堂、字は渓流斎が綴る日々の逍遥録です。Pardon! Japonais seulement

「レッキング・クルーのいい仕事」読了

2016年11月25日 | 音楽
京都・南禅寺 by Kyoraku sensei

昨日は、都心で54年ぶりに11月に雪が降ったということで、54年前は1962年か…と考え、自他ともにビートルズ・フリークと認める私としましては、当然の如く、と言いますか、全く予期せぬ形で、ビートルズがデビューした「ラブ・ミー・ドゥー」の話にまで展開してしまったわけです。何しろ、電車の中で、スマホで記憶で書いておりますからね(笑)。

 しかしながら、実は、昨日は、ケント・ハートマン著、加瀬俊訳の「レッキング・クルーのいい仕事」(2012年11月25日初版)を祝日の23日に読破しましたので、そのことを取り上げるつもりだったのです。話が横道にそれてしまったので(笑)、今日は本題に入ります。

 1960~70年代に多感な年を過ごした私としましては、異様に面白くて、貪るように読んでしまいました。何しろ、初めて知る事実ばかりで、「本当?」「そうだったのかあ」と長年のアポリアが解けたような気分でした。

 以前にも書きましたが、レッキング・クルーとは、スタジオ・ミュージシャン(サイドマン)のことで、レコーディングする際に、バックで演奏するプロの音楽集団のことです。ほとんど、コネで集まった、その場限りの、口約束みたいな、緩やかな集団なので、特別にリーダーがいたわけでもなく、皆が皆、独立したプロの演奏家でした。

 その中でも、あえて、リーダー的存在と言えば、ドラムスのハル・ベリーを筆者のハートマンは挙げています。初期のフィル・スペクターがプロデュースするタレントから、大物フランク・シナトラの「夜のストレンジャー」、フィフス・ディメンション(元々、ヴァーサタイルズとしてデビュー)の「輝く星座」、それに70年代のカーペンターズまで、ほとんど全てのヒット曲で彼がドラムを叩いていたと言っても過言ではないほどです。

 英国のビートルズに対抗して米国でつくられたアイドル・グループ「ザ・モンキーズ」や、60年代の全米ナンバーワン・バンドだったビーチ・ボーイズの影武者として演奏していたのが、このレッキング・クルーだった、と以前にも書きましたが、彼らは、当時、レコードにクレジットされることがなかったので、ファンも噂では知っていても、実体は知られていなかったのです。(モンキーズの「恋の終列車」冒頭の有名なギターリフは、ルイ・シェルトン)

 80年代になると、ミュージシャンは自分たちで必ず演奏してレコーディングするというスタンスになったため、レッキング・クルーのお役目は歴史的にも終えてしまいます。ですから、この本は大変史料的価値が高いので

 この本で、私が一番感心した人物は、作者のハートマンがこの本を書くきっかけになったという全く同じミュージシャンで、ラリー・ネクテル(1940〜2009、心臓発作で他界。享年69)という人でした。この人、何が凄いのかと言いますと、ビーチ・ボーイズの「グッド・バイブレーション」ではハモンド・オルガンを演奏し、ドアーズの「ハートに火をつけて」では、フェンダー・ベースを弾いていたというのです。まさに、天才です。

 そして、もっと、おっ魂消たことは、1970年にリリースされたサイモン&ガーファンクルの超有名な「明日に架ける橋」で、ピアノを演奏していたのが、このネクテルだったというのです。私はてっきり、ポール・サイモンがピアノを弾いていたとばかり思っていましたから、本当に吃驚してしまいました。

 ネクテルは、サイモンから「ゴスペル調の曲に仕上げてくれ。しかも、白人のゴスペルではなく、黒人のゴスペル調で」という細かい注文を受けて、その場で、一時間ばかり即興で試行錯誤しているうちに、E♭の音階で弾いた曲が最もサイモンのお気に入りとなり、採用されることになったというのです。

 ネクテルは、その後、70年代に、私も大好きなボーカル・ロック・バンド「ブレッド」に第2期メンバーとして参加し、「二人の架け橋」「ギターマン」「イフ」などのヒット曲量産にも貢献するのです。ギター、ベース、キーボード何でもござい、です。

 レッキング・クルーは確かにテクニッシャン揃いのプロ集団ですが、裏方のサイドマンから独立して、表舞台に立って成功したのは、このネクテルとグレン・キャンベルとレオン・ラッセル(元々、ラッセル・ブリッジ)ぐらいです。

 私のように60~70年代好きのファンにとって、この本で出てくる逸話は、知らなかったことばかりで、本当に面白かったです。

 リタ・クーリッジとレオン・ラッセルがかつての恋人同士だったことも初めて知りました。レオンと別れたリタは、ドラマーのジム・ゴードンと付き合い始めますが、ジムの薬物中毒とアル中のおかげで暴行を受けて、また破局します。

 このジム・ゴードン(1945~)という才能に溢れた天才ドラマーは、21歳にして、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」のセッションにも数曲参加し、デレク&ザ・ドミノス=エリック・クラプトンのメンバーとして、アルバム「いとしのレイラ」レコーディングにも参加します。この表題曲の「いとしのレイラ」(クラプトンの親友ジョージ・ハリズンの妻パティへの隠れた求愛曲としても有名)では、ゴードンが作曲したピアノ曲を、最終章に無理矢理挿入したおかげで、このヒット曲のクレジットが「クラプトン=ゴードン」と明記されたのでした。

 彼は、スタジオ・ミュージシャンとして引っ張りだこになり、解散したビートルズのジョージ・ハリスンのソロ・デビューアルバム「オール・シングズ・マスト・パス」やジョン・レノンの「イマジン」などのレコーディングに参加するほどの栄誉と名声も得ました。

 しかし、若い頃からのアル中と薬物中毒の度合いが増長し、70年代後半には統合失調症も患い、ついには自分の母親を撲殺する大事件まで起こしてしまい、現在も収監中だとこの本には書かれておりました。

 いずれにせよ、ヒット曲が生まれる縁の下では、こうしたプロ技能集団が支えていたとは…!いい勉強になりました。紅一点のキャロル・ケイも、ギタリストからベーシストに転向し、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」のライナーノーツ(英文)を読んだら、しっかり彼女の名前がクレジットされていました。彼女はビーチ・ボーイズだったんですね。写真を見ても実に美人で格好良い!

この本の存在を教えてくれた松ちゃんには改めて感謝申し上げます。

この本に出てくる曲を知らない人でも、今はユーチューブがありますから、無料でその古い曲が聴けますから、参照しながら読めばいいと思います。便利な世の中になったものです。

【追記】実際レッキング・クルーが演奏していた名曲の数々!
1962年 クリスタルズ「ヒーズ・ア・レベル」
1963年 ビーチ・ボーイズ「サーフィンUSA」
ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」
1964年 ジャン&ディーン「パサデナのお婆ちゃん」
ディーン・マーチン「誰かが誰かを愛している」
1965年 ザ・バーズ「ミスター・タンブリンマン」
ママス&パパス「夢のカリフォルニア」
1966年 ビーチ・ボーイズ「グッド・バイブレーション」
ナンシー・シナトラ「憎いあなた」(原題は「ブーツは歩くために」)
1967年 スコット・マッケンジー「花のサンフランシスコ」
ゲイリー・パケット&ユニオン・ギャップ「ウーマン・ウーマン」
1968年 サイモン&ガーファンクル「ミセス・ロビンソン」
モンキーズ「素敵なバレリー」
1969年 フィフス・ディメンション「輝く星座」
サイモン&ガーファンクル「ボクサー」
1970年 カーペンターズ「遥かなる影」Close to you
パートリッジ・ファミリー「悲しき初恋」
1971年 カーペンターズ「雨の日と月曜日は」
ハミルトン、ジョー・フランク&レイノルズ「恋のかけひき」
1972年 カーペンターズ「パーティング・イーチ・アザー」
アルバート・ハモンド「カリフォルニアの青い空」
1973年 カーペンターズ「イエスタディ・ワンスモア」
1974年 バーブラ・ストライサンド「追憶」
1975年 グレン・キャンベル「ラインストーン・カウボーイ」
キャプテン&テニール「愛ある限り」
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