バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

人にはわからない神の計画

2017-05-21 18:57:48 | 礼拝説教
2017/5/21礼拝説教
【テーマ】  ペンテコステの恵み
【説教題】 「人にはわからない神の計画」
【聖書箇所】 使徒1:3-13
 1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
  1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
  1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。

○ 再来週はペンテコステの日です。誰がこのペンテコステの祭の日に歴史を変える出来事が起きることを予想したでしょうか? 神様のご計画というのはその時にはなかなか人にはわからないものです。

Ⅰ.何故エルサレムなのか?
A.エルサレムを離れないで
1.復活されたイエス様が弟子達にガリラヤに行くように言われ、そこで再会なさいました。40日間そうして弟子達にご自身を現し、語ってこられましたが、今度は エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 と、言われました。
2.弟子達の慣れ親しんだガリラヤでもよかったのではないでしょうか。何しろエルサレムは弟子達にとって危ない場所です。イエス様の十字架からまだそんなに時間も経っていなくて、弟子達の命も危なかった時ですから。しかし、イエス様は エルサレムを離れないで と、言われました。

B.エルサレムで起こること
1.身の危険があっても、弟子達はイエス様から言われたお言葉通りエルサレムに留まりました。イエス様のお言葉通りにしたところ、使徒2章の出来事が起こり、聖霊のバプテスマを受けるのです。イエス様の言葉に従うというのはすばらしいです。
2.イエス様は 1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」 と言われました。この「聖霊の」の「の」はギリシャ語では「エン」、英語の「in(の中に、で)」です。「聖霊の中に(で)バプテスマを受ける」と訳すことができます。聖霊にどっぷり浸される経験をするのです。

Ⅱ.何故ペンテコステの日なのか?
A.ペンテコステの日とは
1.エルサレムは過越の祭に続いて、ペンテコステの祭へと向かっていましたので、ユダヤ人が大勢いました。ペンテコステ(五旬節)は50日目の祭日の意で、大麦の初穂をささげる日から数えて50日目に行われる祭りです。大麦の収穫が終わり、いよいよ小麦の収穫となる、「刈り入れの祭」「初穂の日」とも呼ばれています。
2.この日はいかなる労働もしてはならず、聖なる会合が開かれ、男子は主の前に出ることが義務づけられました。この日は喜びの日であり、穀物収穫の恵みに対する感謝の日でした。

B.ここから始まる世界宣教
1.神様がこのようにユダヤ人にとって大事な日を選ばれたということはすばらしいことで、穀物の収穫よりもっと大事な魂の収穫の喜びが始まったのです。
2.イエス様が昇天されて、弟子達が天を見上げていましたが、天使がイエス様の再臨のことを告げます。旧約聖書のメシヤ預言は実現し、いよいよ世の終わり・新天新地へと向かう幕開けとなりました。それが、ペンテコステから始まるのです。

Ⅲ.何故彼らなのか?
A.彼らのような人が
1.イエス様が彼らを弟子として選ばれたことには何かしら不思議な感じがあります。イエス様が活動を開始された時には立派なバプテスマのヨハネがいました。でも、彼を弟子にはしませんでした。他にも立派な人はいたと思います。
2.イエス様が弟子にしたのは宗教的に立派な人達でもなく、知識があるわけでもなく、人から好感を持たれていたというわけでもないようなのです。Ⅰテモテ3章の 監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、・・・ また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。 と、監督や執事について書いてあるところを読んでも、彼らの姿と合わないのです。

B.人にはわからない神の選び
1.神様のご計画がどのようなものなのかわかりませんが、 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 と言われたイエス様の言葉にある「聖霊」が彼らを変えたのです。
2.イエス様はもちろん知識人でも、政治家でも弟子にすることはできたでしょう。しかし、イエス様が選ばれたのは違いました。後にパウロのような知識人が弟子になっていることも考えるとイエス様の選びは人にはわからないということです。

● 私はクリスチャンになって間もない頃水野源三さんのことを知りました。彼が瞬きで示す文字を書き記して多くの詩が書かれました。私はその詩を読んで感動しました。同時に身体がまったく自由がきかない彼が多くの人の救いのために用いられたことに感動したのです。人にはわからない召しです。

★ 神である聖霊が人の内側にお住まいになること自体が人には理解できないことです。その神があの弟子達を選ばれたように、私たちも救われ、神様のために用いて頂けるという神様の計画はとても人にはわからないことです。が、そこに神様の大きな恵みがあります。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« もう一人の助け主 | トップ | 心を合わせ、祈りに専念する »
最近の画像もっと見る

あわせて読む