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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

執拗に祈ろう

2017-03-12 17:22:41 | 礼拝説教
2017/3/12礼拝説教
【テーマ】  祈り込む
【説教題】 「執拗に祈ろう」
【聖書箇所】 ルカ11:5-13
  11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

○ 「どれくらい熱心に祈っているか?」と、時々考えることがあります。時間もですが、熱心さです。でも何を熱心に祈り求めるかが大事だと思います。今日のテキストはイエス様の例え話から祈りを教えていただきます。

Ⅰ.非常識な例え話
A.神の国の考えで考える
1.一生懸命、執拗に祈り求めることは大事なことだとわかっていても、このイエス様の例え話に「その通りだ」と思える人は少ないと思います。何しろ、いくら友人が来たとは言え、真夜中に「パンを貸してくれ」と頼み、それも頼み続けるというのはいくらなんでも非常識でしょう。
2.イエス様の話で理解に苦しむものが結構あると思います。例え話は本来、難しいことをわかりやすくするために語るものなのに、むしろその例え話を説明しなければわからないものが多いのです。
3.ということは、何かしらイエス様の本当に言いたいことが、私たちの世の常識の範囲で考えても理解できず、神の国の考えで理解できることがあるのではないでしょうか?

B.弟子達に祈りの真髄を教えるために
1.この非常識な例え話は11:1-4にある弟子達が祈りを教えてくださいと頼み、そこでイエス様が「主の祈り」を教えました。それに続いての例え話です。
2.「主の祈り」をただお題目のように唱えることが祈りでは無いということです。イエス様はその「主の祈り」の本質を知ってもらうために、祈り方というか、祈りの根本を教えるためにこんな非常識な例え話をされたと思うのです。
3.私たちもイエス様に関して知識を持っています。しかし、その知識は「祈れば聞いていただける」というような原則なのですが、現実、祈っても聞かれないというようなことを体験するわけです。だからこそイエス様は祈りを教えてくださっているのです。

Ⅱ.友人のために真剣に願う
A.何のためのたとえなのか?
1.この話には二人の友人が登場します。一人は旅をしてきた友人、もう一人はその友人のためにパンを貸してくれる友人です。後者の友人は神様のことを譬えていると考えてみてはいかがでしょうか。
2.旅をしてきて死ぬほどにおなかを空かした友人のために、パンを借りに友人の所に行った彼は、非常識とはわかっているけれど、自分のためではなく、旅をしてきた友人のために必死でパンを求めているわけです。
3.寝ていた友人はこんな夜中に面倒なことをさせないでくれというわけですが、こんなやりとりをしているくらいなら、パンを貸してあげれば良いのにとも思える話です。ですから、単にパンの貸し借りの話のためにイエス様はこの例え話をしたのではないのです。

B.誰のために執拗に祈るのか?
1.頼み込み続ければ人間の友人でも折れてパンを貸してくれるだろうと考えられるわけです。それは愛からの行いではないかも知れません。ただ、うるさいから貸してくれるだけです。人間の友達でも貸してくれるのなら、ましてや神様はどうでしょうか? 神様は愛のお方です。絶対に必要なものをくださるのではないでしょうか。
2.主の祈りを祈るということはその祈りの中身を神様は与えてくださるということです。そして、私たちの側では執拗に祈り求めることではないでしょうか。
3.自分のために祈ることも多々あるでしょうが、この例え話は旅をしてきた疲れ切った、おなかを空かせて死にそうな友人のためにということなのです。私たちの周りにいる霊的に飢え渇いている人々のために祈り求めることを教えているのではないでしょうか。

Ⅲ.聖霊を真剣に求める
A.聖霊を執拗に求める
1.この例え話の最後で、イエス様は、私たちに聖霊をくださるというとても大事な話をされています。良いものとは聖霊。その聖霊を求める者には聖霊を与えてくださるのです。聖霊を執拗に求めることを教えているとも言えます。
2.確かに聖霊を求めるのは自分のためではあるのですが、このたとえで旅人である友人のために必死でパンを求めるように、必死で人のために救いを求めることも教えているのです。救いを求めるというのは同時にその人に聖霊が住まわれることを求めているわけです。

B.神様は絶対に聖霊を与えてくださる
1.聖霊を求めると言いつつも「聖霊」がどの様なお方か知らないで求めていることが多いのでは無いでしょうか? ペンテコステ前の弟子達は「助け主」と教えられていたものの、わかっていませんでした。
2.それがペンテコステの日に「祈っていなさい」というイエス様の言葉に従って祈っていたら、突然知識を超えて聖霊ご自身を体験したのです。
3.イエス様は約束されたので、弟子達に確実に与えてくださいました。そして、十字架の効力が今も続いているように、聖霊は今も与えられます。

★ 人々の救いを執拗に求めようではありませんか。そして、聖霊に満たされることを執拗に求めようではありませんか。

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