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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

愛のない裁き

2016-05-01 18:09:46 | 礼拝説教
2016/5/1礼拝説教
【テーマ】  愛の行い
【説教題】 「愛のない裁き」
【聖書箇所】 マタイ7:1-5
7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

○ 皆さんは人をさばいたことはありませんか? あったら大変! あなたもさばかれますよ。

Ⅰ.裁いてはならない
A.裁くということは昔からあった
1. さばいてはいけません と聖書にあるから、裁判は聖書的でないと言えるでしょうか? こういう聖書箇所というのは人によって都合よく解釈されるところです。神様の思いを読み取りたいものです。
2.モーセの時代に問題は全てモーセに持って来られ大変でした。 出エジプト18:13 翌日、モーセは民をさばくためにさばきの座に着いた。民は朝から夕方まで、モーセのところに立っていた と。そこであまりの大変さを見て、しゅうとのイテロが良い提案をしたところがあるように、昔から裁きそのものはあったのです。
3.では、イエス様はなぜ さばいてはいけません と言われたのでしょうか? その理由は さばかれないためです と共に、その後に続いて言われています。

B.評論家
1.この「裁き」の原語「クリノー」には評論という意味があるそうです。何か事件があるとその問題の専門家というのがテレビに登場します。評論家です。彼らのことを悪く言うつもりはありませんが、基本的に彼らは物事の善し悪しを論じはしますが、その問題に直接的に関与して解決することはしません。
2.イエス様の時代にも評論家以上に裁いた律法学者達がいたのです。彼らの問題は一言で言うと「愛のない裁きをしていた」ということです。 さばかれないためです とは人からというより、神様から裁かれないためです。神様の判断基準は「愛」です。
3. あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです と、私たちが愛のない裁きをすれば、私たちもそのように裁かれるのです。

C.身近な裁き
1.裁判のような大きな裁きでは無く、身近な裁きを考えると「陰口」もそこにはいるでしょう。ほとんどの人は陰口に悩まされた経験があるのではないでしょうか。そこにはその相手が愚痴を言われて当然というように語るのです。
2.いじめ問題も不当な裁きをしていることになります。何かがあったわけでも無いのに、ある生徒をターゲットにして、無視したり、痛めつけたりするのです。不当な裁判みたいなものです。
3.高校生時代にいじめられて、引きこもりになり大人になって鬱から自殺してしまった方がいます。そのご家族もずっと苦しまれたのです。「いじめ」、なんと恐ろしい裁きでしょうか。

Ⅱ.まず自分の目から
A.自分勝手な基準
1.私たち人間は自分の問題は棚に上げ、人の問題をことさら大きくして話題のまな板の上に置くものです。そして、切り刻み、裁きを行う恐ろしい存在とも言えるでしょう。
2.有名な 7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。 というこの言葉。自分という基準が正しいとする自分を偶像化している姿です。
3.ひろさちやさんが「ゴムひもの物差し」という表現をなさっています。子どもがテストで90点をとったので、お母さんは大喜びしたのですが、平均点が93点と知ったとたん怒ったのです。基準が伸び縮みするのです。これは困ったものですが、人間はこういう判断をするものなのです。

B.見えなくするもの
1.新共同訳聖書は「ちり」を「おがくず」、「梁」を「丸太」と訳しています。イエス様は大工だったから、日常的に丸太があったし、おがくずが目に入った経験があるから、こういうたとえにされたとも言われています。
2.人は自分の目がまともに見えなくなるような丸太が入っていることに気がつかず、相手のおがくずが気になって仕方が無いと言うことが多々あるものです。それが人間関係をも壊すのですが、同時にイエス様を見失うのです。
3.イエス様の故に神様は私たちを裁かないようにされたのです。そのことを私たちは忘れてはならないのです。こんな丸太ん棒が目を覆っているような罪深い私が赦されたのに、おがくずしかないあの人を裁くことができるのでしょうか? 私たちの目に丸太ん棒は無いでしょうか?

Ⅲ.神を見よう!
A.神様が見えない
1.神様によって「目」をいただいていますが、その目が見えなくなっている。もちろん、肉の目というよりも心の目です。見なければならないものが見えなくなっていることは無いでしょうか?
2.よく早朝に新幹線で京都に向かいます。ある日、とても良いお天気で、7時頃、朝日を受けた富士山がとても美しくくっきりと見えました。久しぶりに感動するほどの美しい富士山でした。帰りも夜の7時に同じ場所を通過したので、富士山の方を見ました。全く見えません。お天気は良いのですが、暗いからです。
3.ふと思いました。見えないけれどあそこに間違いなく富士山がある、と。神様も見えないけれど確実におられる。天国に帰れば神様を見るのですが、今は見えないのです。

B.十字架を見上げて
1.神様は、見えない神様がわかるように、人間の姿をとったイエス様を地上に送ってくださいました。ところがそのイエス様を見ても、多くの人はイエス様を信じなかったのです。それどころか神様であるイエス様を十字架にはりつけにしたのです。いじめ以上にひどい裁きだと思いませんか?
2.丸太ん棒が目にある人々の行った裁きではありますが、それは私たちも同じなのです。 まず自分の目から梁を取りのけなさい。 とあるように、自分の罪深さに気付いて、イエス様によって取り除いていただくのです。人を裁く気持ちに変化が現れるはずです。

★ 神様は私たちを裁かないで、イエス様を十字架につけてくださいました。それによって私たちは赦されました。私たちは心の目の中の「梁(丸太ん棒)」である罪をイエス様によって取り除いていただくことが愛を実践する出発点なのです。
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