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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

私の願うようにではなく

2016-03-13 17:31:14 | 礼拝説教
2016/3/13礼拝説教
【テーマ】  受難
【説教題】 「私の願うようにではなく」
【聖書箇所】 マタイ26:39
  26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

○ 私たちは祈る時、「私の願うようにではなく」と祈るでしょうか? 「何が何でも私の願いを聞いてくれ!」ではないでしょうか。あるいは「聞いてもらえたら嬉しいです」くらいのものではないでしょうか。

Ⅰ.祈りを助けてくださる
A.ゲツセマネの祈り
1.今日のテキストは、イエス様が十字架にかけられる直前のことです。オリーブ山の麓にあるゲツセマネの園で、イエス様は祈られましたが、その有名なイエス様の祈りの言葉です。
2.イエス様はこの祈りの時、弟子たちの中からさらに3人(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ 参照:マルコ14:33)だけを連れて行かれました。しかし、彼らはイエス様の祈っている間、眠ってしまったのです。ただ、弟子たちを悪く言うことはできません。ルカの福音書によると、 22:45 彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。 と、悲しみの果てに眠ってしまったからです。

B.祈りを助ける方
1.イエス様が祈っておられる時、弟子たちは眠ってしまいましたが、イエス様の祈りを助ける者がありました。天使です。 ルカ22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。 22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。 天使が祈りを助けるとは、さすがイエス様だと思います。
2.しかし、私たちも祈りは聖霊に助けられているのです。自力で祈っている方は聖霊の助けがわかりにくいかも知れません。しかし、聖霊は天使以上に祈りを助けてくださるのです。

Ⅱ.できますならば
A.信じる者にはどんなことでもできる
1.なぜ「できますならば」なのでしょうか? イエス様なら父なる神様に対して、「できますならば」なんておかしいと思いせんか。神様にはできることがわかっているのですから。
2.イエス様は、息子の癒しを求めて来た父親に対してこんな事を言われました。 マルコ 9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」 9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 できるものなら、と言うのか です。この不信仰な父親とイエス様は同レベルなのでしょうか?
3.当然誰も同じだとは思いません。言葉がたとえ同じでもその意味合いが違うことは多々あります。イエス様にとって父なる神様にできないことはないことくらいよくよく分かっておられます。

B.信じない者達
1.「できますならば」の背後にある思いとはどんなものでしょうか?私たちですと「当然、神にはできるのだから、神様がこの信仰の浅い私の願いを聞いてくださって実現してくださったら良いのだが・・」というようなものでしょうか。
2.イエス様を信じていない人ならば「お前が神で、できるんだったらやってみろよ!」という言い方でしょう。これはまさにイエス様が十字架かけられた時、通りすがりの人が言った言葉と同じです。マタイ 27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」 と。
3.そして、それは悪魔の言葉にも見られます。 マタイ 4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」 と。「お前が神というなら、やってみろよ」ということです。

C.神の怒りに触れたくない
1.イエス様が父なる神様に わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 と言われたのはどういう意味であり、どういうお気持ちなのでしょうか? この時のイエス様のお気持ちを完全に言い当てることはできないというもどかしさを感じながら考えているのです。
2.「死」は罪の結果、神の怒りとしてきたものです。父なる神の怒りに触れたことの無い、また怒りが降るはずの無いイエス様が死を迎えるというとんでもない時が迫っているのです。
3.私たちはみんな死ぬために「死んで当たり前」になり、神の怒りに対して、無頓着になっていないでしょうか。私たちこそ「できますならば、神の怒りにあわせないでください」と祈るべきかも知れません。

Ⅲ.みこころのように
A.私の願うようにでは無く
1.イエス様のこの祈りの最も大事な点は、後半の しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。 です。私たちも わたしの願うようにではなく と祈るべきなのです。
2.イエス様が弟子たちに教えた「主の祈り」にも マタ 6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。 とあります。イエス様はみこころが天で行われているように、この地上でも行われることを祈っておられます。
3.イエス様が十字架にかかることは父なる神様のみこころであることを知っておられ、それを実行する思いをお持ちです。 ヨハ 8:29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです。」 とある通りです。

B.みこころを行う者が天に入る
1.イエス様のお言葉からいくと マタ 7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。 とあるように、天国は神様のみこころを行うものが入るのです。イエス様はもちろん入られるのです。
2.私たちも天国に入るのはみこころを行う人ということです。ということは、私たちもイエス様のように わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。 と祈る者でありたいのです。

● 祈りというものは大変奥深いものです。250年前のネイティブアメリカンの祈りにこういうのがあるそうです。「わたしは力を求めます。それは兄弟よりも強くなる為ではなく、一番手強い敵、自分自身と戦う為です」と。イエス様が十字架にかかる前の祈りは、「私の願うようにではなく」と、自我を捨てた実に強い祈りだと言えるのではないでしょうか。

★ イエス様が御自分を捨てて、十字架を受け入れて下さったから、私たちは救われました。私たちはどのように祈るのでしょうか。

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