バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

私の願うようにではなく

2017-04-09 16:36:42 | 礼拝説教
2017/4/9受難週礼拝説教
【テーマ】  みこころを求める祈り
【説教題】 「私の願うようにではなく」
【聖書箇所】 マタイ26:36-46
  26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

○ 今週は受難週です。つまり、イエス様が十字架にかかられた「金曜日」を記念して十字架を覚える週です。もちろん、今週だけでなく、いつも十字架を覚える必要があります。ですから、聖餐式も行っています。今週が受難週ということは、来週はイースターです。そして、50日後のペンテコステへと繋がっていくのです。さて、十字架前のイエス様はゲツセマネの園で祈られましたが、今日はその祈りを見てみましょう。

Ⅰ.悲しみの祈り
A.ゲツセマネの特別な祈り
1.弟子達と一緒にゲツセマネという所に来て、イエス様は一人祈りに向かわれました。その間、弟子達にも離れた場所ですが、共に祈って欲しいと願われました。
2.その時イエス様が弟子達に言われた言葉が、 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」 という言葉でした。いったい死ぬほどの悲しみとは何でしょうか? 愛する家族を失った時などに言うような言葉ではないでしょうか。

B.罪を悲しむ
1.人が死ぬものとなったのは、アダムとエバが神の命令に背いた事にあります。神の言葉に従って生きたなら悲しい死別は無かったのです。
2.イエス様は人の死、つまり罪によって入り込んだ「死」、神との関係が切れてしまったことを悲しまれました。罪が全ての人を神と切り離してしまったのです。このことをイエス様は悲しまれました。果たして私たちはそのように罪を悲しんだでしょうか?

Ⅱ.願いの祈り
A.できますならば
1.イエス様が一人で祈られた時、 わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 と祈られました。私はクリスチャンになって間のない頃、「できますならば」とイエス様が言われるのは変だなあと思っていました。神は全能であり、イエス様は神ですから、こんな言い方をしなくて良いのにと。
2.私たちはどうでしょうか? 私は「できますならば」と祈っていたことが多くあったなあと思います。癒しの祈りもたくさんしました。その時、癒されると信じ切って、「感謝します」とだけ祈れればよいのですが、「癒されないかもしれない」とも思うわけです。それは、癒されることだけが神の栄光とは限らないということも知っているからです。でも、「できますならば、癒してください」と願っているのです。しかし、イエス様のそれとは違うように思えます。

B.過ぎ去らせてください
1.「この杯」とは、イエス様が全人類の罪の身代わりとなって生け贄となる十字架刑のことです。誰だって、殺されることは嫌ですから、取り除けて欲しいと願うでしょう。主の祈りで「我らを試みにあわせないで」と祈るのですから。
2.イエス様は救いの計画を知っておられました。ですから、ご自分が十字架にかかることが必要なこともわかっておられました。しかし、それを取りやめにして欲しいと三度も祈られました。その理由は「死にたくない」ということでしょうか? 「死」は神との断絶から起こったことです。イエス様は「死」を通してやってくる神との断絶を強烈に拒まれたのです。

Ⅲ.みこころを求める祈り
A.みこころを受け入れる
1.イエス様の祈りは次に、 しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。 と、続きます。私たちはこの祈りが大事だということを知っています。いくら自分の願いがあっても、みこころに反するならその願いは引き下げて、神様のみこころがなることを願うということです。
2.イエス様は神と切り離されることを覚悟してみこころを求めたれたのです。私たちは自分の自己中心な願いを捨てて神のみこころに従おうと努力するのですが、イエス様は神に捨てられるために従おうとされるのです。

B.みこころを求めて生きる
1.みこころを求めるというのは決して楽なことではありません。私たちは結構みこころを知っているのです。神様を第一とすること、私たちが聖くなること等々、そしてそのために礼拝を守る、祈る、伝道する、奉仕するといったことを行っています。
2.しかし、人間の世界の現実はクリスチャンにもなかなか厳しいのです。悪魔の誘惑もあります。そういう中で、神様のみこころを求めるのは大事ですが、難しいことも多いのです。それが人類の歴史でもあります。
3.しかし、みこころがなることを追い求めない人生はなんとつまらない人生でしょうか。楽をして楽しく生きるのが人生では無いです。

★ イエス様は常に御心を求めて祈られました。私たちもイエス様の祈りに倣い「私の願うようにでは無く」を忘れず、御心を追い求めて祈っていこうではありませんか。

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