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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

心配ご無用

2015-11-01 17:37:16 | 礼拝説教
2015/11/1WS礼拝説教
【テーマ】  神の国とその義を第一に
【説教題】 「心配ご無用」
【聖書箇所】 マタイ6:25-34
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6:28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

○ 「心配するな」と言われて、「はい、心配しません」と言えたら幸いですね。心配にも色々な程度があるでしょうから、一概に言えませんが、イエス様が「心配するな」と言われた意味を考えてみましょう。

Ⅰ.神様が養ってくださる
A.食べるものに悩んだ時代
1.現代の日本ではほとんど 何を食べようか、何を飲もうかと心配 することはありません。むしろ、たくさんある中から何を食べようか、何を着ようかと悩むのです。ところが、イエス様の時代には主の祈りでも語ったように「次のパン」が問題だったのです。
2.現代でも、少し目を他に向けると、食糧難の国、ホームレスの方、本当に命の心配をされている方々がおられます。戦時中の話を何度も聞いたことがあります。草をも食べたという話などを。もっと昔は貧しい庶民は大変だったのです。

B.イエス様は心配するなと言われる
1.イエス様の時代のそんな飢えを体験している人々のいる時に、イエス様は 心配したりしてはいけません と言われました。普通無理でしょう。心配しますよ。ここのところ、「心配」という言葉は「思い煩う」ということで、病気になるような深刻な悩みをするという意味です。色々なことが気になって心が裂かれるという意味なのです。
2.イエス様がヨセフとマリヤのごく一般的な貧しい家庭に生まれたので、次のパンを心配する気持ちも理解されていたはずです。そのイエス様が「心配するな」と言われるのです。

C.心配しない理由
1.心配しなくてよい理由を、イエス様は空の鳥、野の花を例に出して説明されました。鳥も花も明日のことを心配しているわけではない、神様が養ってくださっているのだ、というのです。
2.ましてや私たち人間は神様に特別に造られた存在です。私たちのことを神様が守らないわけがないと言われるのです。
3.しかし、私はそれでも飢えで死んでしまう人があることが気になります。

Ⅱ.まず第一に求めるものは
A.心配するなと言われても・・・
1.6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。 思い煩うのは異邦人がすること、真の神を知らないので、偶像の神をしたてて、それらのものを求めるのだというわけです。
2.私はとても恐がりな性格です。だから、心配性なのです。イエス様を信じてすごくましになりましたが、それでもその性格は残っています。ですから、「神様が全部備えてくださることを信じて安心しなさい」と言われても心が勝手に心配するのです。その度に私は「あー、信仰の薄い人間だなあ」と嘆くのですが、同時にこんな信仰の薄い私を牧師にしてくださったとは・・・と神様に感謝もするのです。

B.求めるべきものは・・・
1.私たち神の子が求めるのは、33節 神の国とその義とをまず第一に求めなさい という有名な御言葉です。これを求めていれば、 それに加えて、これらのものはすべて与えられます というわけです。
2.ところが、私たちはすぐに身近なところを心配して、 これらのもの を第一に求めてしまうのです。優先順位というよりも、第一のものを求めさえすれば良いようです。
3.まず第一に求めるべき 神の国とその義 とは何でしょう? 前にも語ったかも知れませんが、神の国は神の支配のあるところです。神の義は完璧な正しさ、神様の真実さです(本当はもっと奥深いと思いますが)。神様の支配と神様のご人格の中に完全にはまり込むことです。そうした時、私たちは全てに満ち足りるのです。

C.満ち足りると心配しない
1.私たちの心配は「●●が足りない」と思うところから来るものです。「お金が足りない」「知識が足りない」「学力が足りない」「愛が足りない」・・・と無い無い尽くしで不安に、心配になっていくのです。
2.では、物に満ち足りると心配は無いかというと、人間的なものでは人間は最終的に満足できません。お金も持てば持つほどもっと欲しくなり、その欲求は留まるところを知りません。とすれば、満ち足りるべきは「心」の中です。
3.異邦人が偶像に求めるものようなものではなくて、真の神様ご自身を求める事です。すべて有限なものに頼ろうとするので、心配が絶えないのです。何しろそれらは必ず無くなる、滅びるからです。永遠なのは神様です。

Ⅲ.労苦の中を生きよう
A.明日は明日が心配する
1.さて34節ですが、 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 の前半 だから、あすのための心配は無用です。 は神様を第一に求める事で必要は満たされるのだから、わかる話です。しかし、後半の あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 は何でしょう?
2.明日のことを私たちが心配したところで、何かが変わるわけでもないのです。色々悩んでみたところで、次の日には新たな問題が起こっていて、新しい心配事があるかも知れません。

B.私の無謀な決心でも・・
1.しかし、明日のことを考えないわけにはいかないことが多々あります。計画を立てることは決して聖書に反するとは思えません。無計画で良いと言っているのでは無くて、明日の計画を立てても心配するなということです。
2.私が無謀なまでに明日を心配せずに出発したのは、教師を辞めて神学校に入った時です。教師の給料は安いとはいえ公務員ですから安定していますし、夫婦で勤め上げたら、家も買えると言われていました。それを辞めるということは将来の人生設計が無いようなバカな人間のすることでした。
3.しかし、それを決めた日、何の心配も無かったのです。現実はどうかと言えば、収入に関して言えば、完全に教師の方が良かったに決まっています。しかし、守られてきました。

C.今を生きる
1.現在の生活は明日の労苦を考えるまでもなく、その日に十分労苦があります。この聖書の言葉通りです。計画性をもって進めるのは大事ですが、心配ご無用です。大事なのは今与えられていることを忠実にこなすことでしょう。何しろ、いっぱいあるのですから。
2.苦労しながら生きる「今」。神様のことを思いながら、神様の助けをいただきながら、生き生きと働いてくださる神様を実感しながら生きることが大事なのです

★ イエス様は私たちを救うために労苦されたのです。私たちも今日、イエス様と共に人々の救いのために労苦すべきではないでしょうか。
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