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続・都へ出かけた


佐土原(現・宮崎市佐土原町)には京に似た名前がある。佐土原は、戦国期には日向国(ほぼ現・宮崎県)の中心だった町だ。治めた武将は伊東義祐。京好みだったというとおり、現在でも愛宕、祇園、五条のほか、金柏寺の名も残る。金閣寺を模したものというが、今は敷地も無く、小学校脇に金柏寺釈迦堂という名の小さなお堂が残るだけだ。しかしここには、佐土原の宝のひとつと言うべき木喰上人作の釈迦仏像が安置されている。下半身を消失しているが往時を偲ぶことはできる。隣町西都市には三納地区に長谷寺、山路地区に羅紗門天像などが残る。また、清水という地名もある。



清水寺
ところで京都の2日目、清水寺に出かけた。京都駅からバスで出かけた。降りた所は五条坂。ちょっと引き返し清水道へ。少し上り坂を歩くと、修学旅行の若人と引率の先生。参道のお店前で、時折先生の解説を耳にしながら仁王門前へ。若人たちは階段で記念撮影だ。門の朱色がきれいだ。そして、塗り立てたばかりのような三重塔へ。重要文化財だ。その脇を通り、拝観料を支払い、まっすぐ進むと眼前に修理のために大きな足場がくまれたお堂。そのお堂の中をウロウロ。はて、舞台はどこだろうと思案しながらしばし・・・。気がつけば、ここがいわゆる清水の舞台だった。もっと広いイメージだったが、修復中だったために全面開示ではなく開示舞台は一部のみ。それでもここからみるゴールデンウイーク直後の新緑はとても美しく、イメージしていた京都どおりだった。奥の院を過ぎた辺りからみる本堂は修理中といえどもその偉容さを感じさせた。足場が組まれた清水の舞台も、この時しか見る事ができないと思えば、またいいものであった。
清水の舞台を味わった後は、町中散策。清水道に登る間際に、「河井寛次郎記念館」の名前が目に入ったので、引き寄せられるように足を向けた。河井寛次郎、「民藝運動」の中心メンバーとして活躍した一人だ。それは、車1台がやっと通れるかという住宅街に一角にあった。しかし、誠に残念、月曜日で休館だった。それでも、そこから歩いた細い道は、京都を感じさせるに十分な住宅街だった。


三十三間堂
気を取り直して、三十三間堂まで歩くことにした。予定には入れていなかった所だ。寄って見て大正解。ここは想像を絶していた。同じような感じを受けた所と言えば、北京の故宮や西安の兵馬俑などか・・・。正式名称は蓮華王院本堂。元々は平安末期、院政を行った後白河上皇が自身の離宮内に、当時権勢を誇った平清盛の資材協力で創建したものだそうだ。しかし、それは火災で消失。現存するのは鎌倉期に再建されたものだそうだ。朱塗り極彩色(一部残存)だったというが、現在はほぼ黒に近く質実剛健に見える。余りに大きく長い立派な木造建築なので、カメラにおさめきれず表現もしきれないのが残念。堂内に入れば、再び絶句。中心に国宝千手観音座像。その両脇に重要文化財で千体の千手観音立像。圧倒される。そして、その前に国宝の風神・雷神像と二十八部衆が居並ぶ。圧巻だ。だが、立派な故に権力というものの大きさも感じる。内部は写真禁止のため写真なし。京都に行くなら、ぜひ予定に入れて欲しいと思う。



東寺
最後は東寺の五重塔を訪ねた。ここも本来は南大門から入るべきだったが、東側の駐車場側の門から入った。すぐ脇に宝蔵。小さいが正倉院と同じ校倉造りだ。そこを過ぎ、食堂、金堂、講堂と大きな建物を見て回り、五重塔を間近で眺めた。五重塔は、新幹線からも見える。高さ約55mという。木造では高さ日本一を誇り京都のランドマークにもなっている。弘法大師空海が講堂の次に着手したものだそうだが、時代は9世紀桓武天皇の頃だ。その後落雷等で4度消失、その度に多くの僧が再建という大事業を成し遂げてきたといい、現在のものは1644年再建の5代目、江戸初期のものだ。あと四半世紀で400年目を迎える。大きな節目なので記念行事が大盛大に催されることだろう。町並みから見える五重塔も記憶に残るものだ。京都駅に近いので、ここもぜひ。
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