カリフォルニアからシニアー日誌 (Senior Dairy from California) 

北カリフォルニア州から、シニアーの
のんびり生活を、お届けします。

再度、キャンサーフリー

2010-12-24 05:27:28 | 日記
口では偉そうに死の準備を死ながら生きているなどと言って居たが、事実恐ろしいことだと、今回は実感した。すべての検査の後、オンコロジストの10%の疑いで組織検査の必要性が求められて、外科医を訪れた。外科医は再度すでに終わった検査を再検討したいと言う。約束の電話が来ない。一週間待ってファックスを入れた。すぐさま連絡があって、オフィスに来るようにということだ。今回も前回とそれほど変わらない心境であった。友達は専門医がすでに異常なしと結論を出しているから、それは変化はないはずだといってくれたが、一つ外れれば、癌である。生と死の違いである。”それでも仕方がないさ"と最後は力を抜いた。受けなきゃ仕方がないが帰りのドライブをふとわずらった。死への準備などと口にしていたのは、欺瞞だと思った。そんな奇麗事ではない。生々しい恐ろしいことだと、迫られる。優しい、穏やかな私だと評価されてきたが、もうそれが続けられるか,自信も消えた。それでも、この不確かさがなくなれば、人間何らかの覚悟が出てくるのかもしれないと、いつもの見てやろう式の私が、わずか見えた。

診察室で待つこと少し、医師が入ってきた。今回も何の異常も見つからなかったと説明する。本当なのか?喜びは沸いてこない。疑いの方が私を占領する。その上、組織検査も必要がないという。3ヶ月後の面談だけで良いという。本当なのか?外に出たが、小雨の降る景色も迫ってこない。

前回も感じたがあれから拍子抜けの感がる。今まで死を意識しながら毎日を過ごしてきたのは事実である。だからこそ毎日が充実していたのかもしれない。感覚だって冴えていた。だが今は。何が目標なのか?いつかは死ぬが今すぐではない。死がそこにあったほうが良かったのか?

それでも整理はもっと始めた。先の計画は立てる気持ちはまだしない。日本にもいける。フランスにもいつでもいける。だがいつまで生きるのか?やはり、死の準備はしたほうが良いと思い出した。本棚から本が大分消えた。衣類もまだ整理の必要がある。生きている間、私たちは目標がいるのだ.それがあるから生きられるのかもしれない。

それにしても、生きていられないと感じるから、人間は清らかになれるのか
今の私は泥臭いと感じる。何故だろう?

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