真田昌幸氏の家臣
中世、信濃国佐久郡北澤(佐久市)より起こる北澤氏。
天正14年(1586)北澤勘解由は真田昌幸氏より佐久郡内の地を、文禄元年(1592)には小県郡塩尻(上田市)の地を充てがわれました。また、北澤清兵衛も昌幸氏から海野(東御市本海野)の地を充てがわれた。その後、文禄3年(1594)に戸隠山代官(長野市戸隠)となり、戸隠神社(長野市戸隠3690)の建立に当たりました。
北澤氏一族は、戦国期に小県郡や長野市付近に移り栄え、江戸期には各地方に帰農して行きました。
〔中世の東信濃〕
信濃国海野庄(長野県東御市本海野)より始まる滋野氏は、鎌倉期には信濃全域(長野県)から上野国吾妻郡(群馬県)に至るまで勢力を伸ばし、滋野支流を名乗る支族が広がりました。海野氏・望月氏・禰津氏は特に「滋野氏三家」と呼ばれ、嫡流またはそれに準じる家柄とされました。
海野氏は、信濃国小県郡や佐久郡を中心に名族として栄えました。
海野氏(大伴氏が土豪化した説や禰津氏の支流説等の他説あり)の傍流は、小県郡真田郷を領し真田氏を称しました。
真田氏は天文10年(1541)の海野平の戦い(天文10年“1541年”に信濃国小県郡で起きた合戦。甲斐国を統一した甲斐守護・武田信虎と、村上義清や諏訪頼重など武田と結んだ信濃国人の連合軍が小県郡へ侵攻し、小県郡を領する滋野一族・海野氏、禰津氏、望月氏、真田氏などとの戦い)で敗れ、真田幸隆氏は上杉憲政家臣・上野国箕輪城(群馬県高崎市箕輪町)の城主・長野業正の下に身を寄せました。上杉氏の援助による旧領奪回が困難になると、信濃侵攻を行っていた甲斐の武田晴信(信玄)に仕えて旧領を回復すると共に、各方面で活躍し、次第に真田氏の勢力基盤が築かれていきました。武田家中においても真田一族は、有力武将として重用され、武田24将に真田信綱・昌輝(幸隆や昌幸が入ることもある)が入りました。
真田氏は、武田氏の滅亡(天正10年“1582”3月)後、北条氏、徳川氏、蒲生氏、豊臣氏等に仕え戦乱の世を生き抜きました。
中世、信濃国佐久郡北澤(佐久市)より起こる北澤氏。
天正14年(1586)北澤勘解由は真田昌幸氏より佐久郡内の地を、文禄元年(1592)には小県郡塩尻(上田市)の地を充てがわれました。また、北澤清兵衛も昌幸氏から海野(東御市本海野)の地を充てがわれた。その後、文禄3年(1594)に戸隠山代官(長野市戸隠)となり、戸隠神社(長野市戸隠3690)の建立に当たりました。
北澤氏一族は、戦国期に小県郡や長野市付近に移り栄え、江戸期には各地方に帰農して行きました。
〔中世の東信濃〕
信濃国海野庄(長野県東御市本海野)より始まる滋野氏は、鎌倉期には信濃全域(長野県)から上野国吾妻郡(群馬県)に至るまで勢力を伸ばし、滋野支流を名乗る支族が広がりました。海野氏・望月氏・禰津氏は特に「滋野氏三家」と呼ばれ、嫡流またはそれに準じる家柄とされました。
海野氏は、信濃国小県郡や佐久郡を中心に名族として栄えました。
海野氏(大伴氏が土豪化した説や禰津氏の支流説等の他説あり)の傍流は、小県郡真田郷を領し真田氏を称しました。
真田氏は天文10年(1541)の海野平の戦い(天文10年“1541年”に信濃国小県郡で起きた合戦。甲斐国を統一した甲斐守護・武田信虎と、村上義清や諏訪頼重など武田と結んだ信濃国人の連合軍が小県郡へ侵攻し、小県郡を領する滋野一族・海野氏、禰津氏、望月氏、真田氏などとの戦い)で敗れ、真田幸隆氏は上杉憲政家臣・上野国箕輪城(群馬県高崎市箕輪町)の城主・長野業正の下に身を寄せました。上杉氏の援助による旧領奪回が困難になると、信濃侵攻を行っていた甲斐の武田晴信(信玄)に仕えて旧領を回復すると共に、各方面で活躍し、次第に真田氏の勢力基盤が築かれていきました。武田家中においても真田一族は、有力武将として重用され、武田24将に真田信綱・昌輝(幸隆や昌幸が入ることもある)が入りました。
真田氏は、武田氏の滅亡(天正10年“1582”3月)後、北条氏、徳川氏、蒲生氏、豊臣氏等に仕え戦乱の世を生き抜きました。