起き上がり小法師 HERO君 - 体徳知の調和

下の感性智が、上の知性智を支え、感性と知性の「調和」が身体智となり、ヒトは人となる!

武ちゃんの孫が産まれました〓

2009年06月14日 14時07分19秒 | Weblog

久々の更新です

平成21年6月13日15:38

武ちゃんの初孫が産まれました

体重2556gの男ん子


坊やの名前は



温力(ハルキ)クンデス



この名前は古賀道場の道場訓である

『つよくやさしく やさしくつよく』

から


誰に対しても心温かく、力強い存在になって欲しいと願って付けました


愛理

初月命日

2008年04月17日 12時35分12秒 | Weblog
父が他界して一ヶ月が経ちました。
この間私たち家族は多くの方々に支えていただき、本当に感謝しています。
あっという間に過ぎてしまいました。
まだまだ、整理がつきません。

母の話ですが、父が2回ほど会いに来たようです。
一回目は、一週間ほど前。
金縛りにあった母が目を開けると、37歳位のときの若々しい父が隣にいたそうです。そして母が「苦しい・・・助けて~」と心の中で叫ぶと、父が「大丈夫ね!?大丈夫ね!?」と言っていたそうです。しかし、金縛りがとけても話したいことはたくさんあったのに話せなかったそうです。

二回目はおととい。
夢に出てきた父が「あんたダラダラせんで、そろそろ道場に復帰せんば~!!」と言ったそうです。

やはり、父は母のことが気になってしょうがないんでしょう。

ちなみに私も父の夢はよく見ますが、あまり現実味の無い夢がほとんどです。



★ご報告★
大変申し訳ありませんが、皆さんからのコメントの公開は、私、古賀愛理の独断による事前認証制といたしました。


古賀愛理


おぉ~ぃ♪武ちゃん!②

2008年04月09日 17時15分43秒 | Weblog
『おぉ~ぃ♪武ちゃん!』は皆さんから、古賀武夫やこのblogを見ていただいている方々への報・連・相のスペースです。

おぉ~ぃ♪武ちゃん!①

2008年04月01日 14時06分25秒 | Weblog
『おぉ~ぃ♪武ちゃん!』は皆さんから、古賀武夫やこのblogを見ていただいている方々への報・連・相のスペースです。

ある程度の数のコメントがたまれば、Part2、Part3と増やしていきますのでご活用ください。

古賀愛理

弔詩-仲山隆様

2008年03月26日 21時40分40秒 | Weblog
※葬儀の際にいただいた弔辞・弔詩を掲載させていただきます。
 原文のままの掲載ですが、誤字・脱字ございましたらお許しください。古賀愛理

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弔詩


 松尾大輔君、佐藤昭二氏
 小原嘉文氏より連絡をうけ
一代の英傑熱血漢古賀武夫君の訃報に接し

春ヲ競ウ花ニモ人ニモ
先駆ケテ何故大兄ハ
先ニ逝ク

残サレシ者ゾ悲シキ。

四十年前東京外國語大学のキャンパスで
互いに一目惚れして、それ以来。数百回の逢瀬にも
一度も口論・諍、勿りけり。
仲睦まじき夫婦愛 それも又人生至上の
幸福を我が夫婦の結縁を付けしも
貴兄の功績ぞ。
去年(こぞ)の夏まだ体動きし熱き候(とき)
東京蒲田の鰻屋で気勢を上げしが飲み納め

二月(如月・キサラギ)の始めの電話にてゼイゼイゼイと愛娘の結婚と伜の就職決定を嬉しそうに語りしが最後の便り。

乞う。彼(ア)の世にて又貴兄に巡り合わん事を又、寂しさは此の世にて手柄誇れし親友(トモ)ぞなき

終ワリニ
我が人生は貴兄との邂逅によって鋭く
色彩豊かなものに成りました。
大兄の疾風怒涛・櫛風沐雨の人生の中で
育まれた幾多の結縁や弟子たちが
「志」を受け継いで下さる事を切望します。

平成二十年弥生十七日
仲山隆

弔辞-原口一博様

2008年03月26日 21時39分26秒 | Weblog
※葬儀の際にいただいた弔辞・弔詩を掲載させていただきます。
 原文のままの掲載ですが、誤字・脱字ございましたらお許しください。古賀愛理

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 敬愛する恩師・古賀武夫先生の御霊前に心から哀悼の誠を捧げます。
 懸命の看護にあたられた洋子様はじめ、ご家族様のご心中を察するにお慰めの言葉もありません。愛理さん…よく頑張ったね!皆よく頑張られましたね!涙を流しているとガハハと先生の叱るお言葉が聞こえてくるような気がします。私は先生に出会えたこと、教え子と言えることが誇りでした。本当にありがとうございます。
 一刻も早く駆けつけたいと思いますが、かないません。お別れの言葉を託します。

 毎日毎日、持っている気を振り絞るように先生のご回復を祈り続けました。先生ほど多くの友人や弟子たちに慕われた方はいらっしゃいません。最後の最後まで病魔が去るように多くの祈りが捧げられました。
 三月十七日 午後一時過ぎに兄と慕う八田さんから先生がご逝去されたと電話がきました。涙が止まりません。風景も歪んで見えます。私はこれ以上先生に頑張ってくださいということが言えませんでした。先生はよくメールをくださいましたが、これ以上頑張らなくてもいいと思うくらい頑張っておられました。

 あれは高校一年生のことでした。非常勤の英語の先生が私たちの目の前に降り立たれた瞬間のことを今でも鮮明に覚えています。東京外大を出たての先生は、既に世界を「制覇」されていました。先生は世界が広く夢に溢れていること。志は無限で小さな殻になんか閉じこもることはないと繰り返し私たちに説いていただきました。フランスで空手教師の役で映画に出られたとのこと。(どうもC級映画だったようですが。)
 先生独特のユーモアで進学校の固い雰囲気も吹き飛んでいきました。「無茶苦茶」とも思える先生でした。先生と話していると私たちも何かできるのではないか。世界の平和と愛を紡ぐことができるのではないかと勇気をいただきました。
 先生は一途な志を説か香月義人佐賀銀行会長さんらを突き動かして地球市民の会を立ち上げられました。佐賀に古賀武夫先生あり。民族や宗教、国家の枠を超えて先生はたくさんの絆を作って回られました。疾風怒涛のような人生を生き抜かれた先生。
 二十七歳で県議会議員に挑戦した時、先生の最初の言葉は「全く面白なか。」でした。専門用語が多く、解かりにくく政策を話す私を叱り付けられました。「一博くん、笑いが大事よ。どんな苦しい時も笑いを忘れてはいけない。政治にはどんなにか目を背けたい現実もある。だからこぞ心に花を咲かせて人々を包み込むのです。」
 ビートたけしさん、太田光さん、やしきたかじんさんなど、お笑いの巨匠たちと政治をわかりやすく伝えたいと活動しているのも先生の教えがあったればこそです。


 明るく友達思いの先生でした。生体肝移植をした河野太郎代議士とも一緒にはなしましたね。カンボジアでも、先生に多くの生きる勇気を分けてもらったという方々にお会いしました。
 明浄直正。明るく真っ直ぐでお優しかった古賀先生。
 本当にたくさんのことを教えていただきました。落選で苦しかったときも「信念を通せばよか。おいのついとっやっか。」と笑顔で励ましてくださいました。「夢の学校を絶対に実現してみせる。」
 先生の志は無限です。
 

 先生にいただいた志を胸に懸命に頑張ります。

楠の青葉を 吹きならし
海こえ来る 朝の風
夕はあふぐ 天山の
山なみさして 雲かへる

ちくし平野の ただ中の
長き藩治の城のあと
聞かずや高き 学びやの
のぞみに揃ふ うたのこゑ

胸の血汐の 熱ければ
はげみ貫く ふみの業
若き心の 清ければ
理想は高し 空の星

ああいざさらば わが友よ
日本の栄え 求めつつ
世界の平和 祈りつつ
力ためさむ この生命
(佐賀西高等学校 校歌より)


名残はつきませんが先生の熱いお導きに心から感謝の誠を捧げ、ご遺徳を偲びつつお別れの言葉といたします。先生、ガハハとまた酒を酌み交わしましょうね。
 国会より遠く故郷の空に向かい手を合わせます。先生の御霊の安らかなることを祈ります。
合掌

平成二十年三月十九日
佐賀西高校教え子 民主党衆議院銀 原口一博

弔辞-吉村洋祐様

2008年03月26日 21時38分29秒 | Weblog
※葬儀の際にいただいた弔辞・弔詩を掲載させていただきます。
 原文のままの掲載ですが、誤字・脱字ございましたらお許しください。古賀愛理

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本日、古賀武夫先生の葬儀が執り行われるに当たり、私たち古賀道場生一同、先生の御霊前に哀悼の意を捧げます。
 古賀先生が逝去されたとの一報を受けた時は本当に信じられない思いでありました。こうして弔辞を読み上げている今に至っても尚、その思いは拭いきれません。今にも、「ちょっと寝とっただけやっか」と起き上がられるのではないかと、期待さえしてしまいます。しかしながら今こうして、先生をお送りしようとしている現実を悲しみに耐えません。
 古賀先生は、古賀道場を設立されて以来、約三十年間ほとんど休むことなく、道場の生徒たちへ空手と英語を通じ、人としてのあり方、行き方を伝えることにご尽力されました。
坊主頭のいかにも日本人らしい風貌からは想像もつかない流暢な英語。決して大きいとは言えないその体から発揮される力強い空手の動き。私たち道場生はその技術と知見にただ尊敬の念を抱くばかりでありました。しかしながら、私たちが尊敬していたのは技術ばかりではありません。空手道場の道場訓である「つよく やさしく やさしく つよく」を地で行く厳しくも温かい人柄。愛情のこもった拳骨を懐かしむのは私だけではないと思います。
 自分一人がアクセル、周りが皆ブレーキでちょうどバランスが取れると言い切るヴァイタリティ。周囲も思わず納得されることと思います。
 古賀先生、私たちはそんな先生を見て育ってきました。そして、古賀先生のようにヴァウタリティあふれる強くやさしい人間になろうと思ってきました。先生、本当はもう少しだけ私たちの成長を見守ってほしかった。酒を飲みながら色々なことについて語り合いたかった。でも、それはもおかないません。先生、どうか遠くの方から私たちの成長を見守っていてください。先生の期待に応えられるよう、私たち全員努力してまいります。



 平成二十年三月十九日
   古賀道場生徒代表 吉村洋祐

弔辞-佐久間博様

2008年03月26日 21時37分07秒 | Weblog
※葬儀の際にいただいた弔辞・弔詩を掲載させていただきます。
 原文のままの掲載ですが、誤字・脱字ございましたらお許しください。古賀愛理

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謹んで、故古賀武夫君の霊前に哀悼の意を表し、弔辞を拝読致します。
武夫君、君とは中学一年で同じクラスとなり、以来四十六年間、友として変わらぬ付き合いを続けてきました。「金ちゃん」、我々仲間は君の事を親しみを込めて、こう呼んでいました。君に出会って間もなく、ひょんな事から僕がつけたあだ名です。君は毎日、登校時僕を迎えに来てくれ、学校では二人でアホな事ばかりやっていつも笑いころげていました。
よく、君の家にも遊びにいきました。
植木等からビートルズまで色々なレコードを聴きました。体育はあまりパッとしなかった君が、東京オリンピックの聖火リレーに出た後、突然、輝き出しました。高校では陸上部。200mが得意種目。僕もサッカー部に入り可成り速かったけど、君には勝てませんでした。三十過ぎに君が脂肪肝で県病院に入院、太りすぎが問題でした。君は持ち前の強い意志力で20キロほどの減量に成功。今度は大胆にも僕に1500メートルで挑戦してきました。佐賀県総合グラウンドで土井美智子さん立会いのもと400メートルトラックで競争しましたね。その時は僕が勝ちましたが、二人で無謀にも挑んだ「ハイウェイを走ろうフルマラソン大会」ではゴール寸前、君に抜かれてしまいました。
君とはよく呑みましたね。熱燗を酌交し決まって最期にはお互いないていました。
去年の八月、サンノゼから帰佐していた光江さん、ラリー夫婦と僕たち夫婦の三夫婦で古湯に泊まって呑んだのが、君との最期の酒となりました。
東京外語大でフランス語を学び、フランス、カナダへの留学でさらに語学力に磨きをかけた君は、和道流空手道七段と武道も極め、古賀空手、英語道場主、地球市民の会会長を始めとして、多忙をきわめました。八年前、同級生だった佐大医学部の宮崎君の執刀による第一回目の手術の後も、きみは立ち止まることをせず、ひたすら走り続けました。君の健康を心配する友人として「これ以上新しい事業をするのはやめてくれ。」と言ったこともありまいたが、熊本の佐藤さんが僕に言われたように、君は君の夢の現実をエネルギーとして、ここまで頑張ってきたのですね。そんな君も奥様の洋子さんが手術されたあとはつくづく、家族の大切さ、ありがたさを語ってました。
十三日に君が吐血したという連絡を愛理ちゃんから受け、社会保険病院に駆けつけました。そして十七日、君の様態が思わしくないとの連絡を洋子さんから受け友人の兵藤くんと一緒に正午ごろ、病院にうかがいました。酸素マスクをつけた君のただならぬ姿に僕たちは驚き、ただ涙するばかりでした。僕たちが失礼したわずか三十分後に君は帰らぬ人となっていたことを、マナーモードにしていて気づかなかった携帯の伝言で知りました。
高一の時、君が台本から演出まですべて手掛けた「おんよん群島かく滅亡せり」という、ドタバタ劇をやりました。出演した我々は全員ドンゴロズ一枚の原始人の衣装で戦争の愚かさを演じました。そのときの文化祭の我々のテーマは君がつけた「ドーイドイドイ、明日に向かってただただ走れ」でしたね。君はこの言葉通り五十七歳十一カ月あまりの人生を「ダダ走り」で走り抜けました。
お疲れ様でした。天国では肩の力をスーっと抜いて少しゆっくりと暮らしてください。そして、君の最愛の家族、教え子の皆さんの事を見守ってやって下さい。
四十六年間、変わらぬ友としていてくれてありがとう。

さようなら 金ちゃん
さようなら 古賀武夫君

合掌

平成二十年三月十九日 佐久間博

弔辞-佐藤昭二様

2008年03月26日 21時35分16秒 | Weblog
※葬儀の際にいただいた弔辞・弔詩を掲載させていただきます。
 原文のままの掲載ですが、誤字・脱字ございましたらお許しください。古賀愛理

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お別れの言葉
 
 桜咲くを待たず、地球市民の会の偉大なる会長であり、私の大親友である古賀武夫。貴兄とのお別れの日がこんなにも早く来るとは、本当に悲しい限りです。信じられない思いです。
 貴兄のあの周りを圧倒する元気と毒舌と豪快さ、そして機智に富んだ話の面白さは痛快そのものでした。今世を終わってしまった今、たくさんのそんな思い出とエピソードが次から次へと蘇ってきます。
 私は貴兄と出遭って公私共に家族ぐるみでお付き合いさせていただいたこの二十年を振り返ってみるに、いつも貴兄の存在が私の人生に大いなる感動を与えてくれました。
 思い起こせば、地球市民の会の国際交流、国際協力の活動で、タイの農村へ出掛けていき、私が専門とするところの汚水処理のプロジェクトを指導したとき、韓国の釜山での日韓フォーラムのとき、そして全国から人生の達人たちを佐賀に招いて行ったシンポジウムのときも、常に私は貴兄とともに行動してきました。本当に楽しかった。痛快そのものだった。
 人生とは、かくも面白く、明るく、元気に生きるものだということを身をもって貴兄に私を始め、周りを多くの人たちに伝えていたのだと思う。
 私は、貴兄の「感動なくして何が人生ゾ!!」と云う言葉が大好きです。心から共感します。これが終生、貴兄が云い続けてきた「地球市民運動」「地球共感教育」の真髄(神髄)そのものです。そして、貴兄自身の生き方そのものでした。
 貴兄が創ってこられた「地球市民の会」は、この熱い思いと理念に副った貴方の生き様そのものだった。
 九州の雄、否、日本の雄であり、現代の侍であり続けた〝古賀武夫〟との今生でのお別れは、本当に悲しいことばかりであるが、唯、嘆くことは止めにしよう。
 これまでの貴兄の生き様と社会に向けて、常に発信し続けた「古賀武夫節」をおおくの痛快なるエピソードと共に、これからの地球市民運動として伝え続けて行こう。そして私は何よりも〝友の憂いに、われは嘆き、吾が慶びに友は舞う〟、義理と人情を備えた貴兄の〝浪花節〟が大好きです。いつまでも忘れることはない。
 日本武士道を貫いた古賀武夫、今生ではお別れですが、いつか必ずや次なる人生で再開することを願ってお別れします。
 どうぞ、安らかに眠ってください。
 感動を本当にありがとう。

平成二十年三月十九日 地球市民の会 副会長 佐藤昭二

弔辞-古川康様

2008年03月26日 21時30分55秒 | Weblog
※葬儀の際にいただいた弔辞・弔詩を掲載させていただきます。
 原文のままの掲載ですが、誤字・脱字ございましたらお許しください。古賀愛理

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 謹んで古賀武夫さんのご霊前にささげます。
 古賀さんが永眠されたとの連絡を受けたとき、思わず天を仰ぎました。
 古賀さんは、ご家族・ご親族の懸命の看護に支えられながら、またブログを通して私たちと一緒に肝臓がんと戦っておられました。これまでと同じように、また復活していただくことを私たちも夢みていました。三月二十八日の誕生日のお祝いをしようと言ってました。

 それなのに、古賀さんはもうここに居ない。


 古賀さんは、ほかの誰とも違う人でした。「桃太郎」のようでした。
 背中に「日本一」の旗をつけ、いろんな仲間を引きいれ、ピュアな思いで世間の荒波を乗り越えて、いろんなことにチャレンジしておられました。
 うまくいったものもあれば、なかなかそうはいかなかったものもありました。
 そのたびに、周りははらはらし、どきどきし、でも、結果にかかわらず、怒る人はいませんでした。
 みんな古賀さんのことが大好きだったからです。



 古賀さん、ゼロ戦の復元のこと、覚えておられますか?
 「平和のシンボルとしてゼロ戦ば復元するけん、協力してくれんね」と言われましたよね。
 「わかりました、資金のめどはあるとですか。」
 「いや。」
 「復元したらどこに置くのかあてはあるとですか?」
 「いや。」
 驚いていたら、古賀さんはこう言われました。
 「ゼロ戦ば作ってしもうたら、どっかに置かんばけんが、なんとかなるさ。」
 
 さらに私にこう言われましたよね。
 「古川さん、先ばっかり考えよったらなーんもできんよ。まずやってみる。
 やっていると助ける人が出てくる。やってみる前から助けてくれる人はおらん。
 やってみらんば。やってみたらなんとかなるて。」


 日本一の男、古賀武夫。
 私たちはあなたと同じ時代を生き、一緒の空気を味わうことができました。
 いまどきの日本にこういう男がいるのか、と思わせるような人でした。
 あまりにまっすぐに生きる古賀さんから見ると、この世はいささか窮屈だったかもしれません。
 (きっと次の世でも世直しをやっておられることでしょうね。)
 


 残されたご家族をお慰めするどんな言葉も今は見つかりません。
 そして、まだまだやるべきことを多くして逝ってしまった古賀さんの無念さを思うと、胸が詰まります。
 でも、古賀さん。私たちは今あなたに、あなたがお好きだった言葉を贈ります。

 
「いのちのひかりは どこまでもとどく 今も昔もてらしてきたよ
 これからずっとずっと てらしていくよ… いのちをありがとう!」



 多くの人にとって大事な先輩であり友人であり恩師だった古賀武夫さん。
 古賀さんと一緒だった情景を思い起こすと、古賀さんはいつも笑っておられました。なんでもないことが古賀さんと一緒にいると愉しく感じられました。
 その笑顔を私たちの胸にしまいつつ、心からご冥福をお祈り申し上げ、お別れといたします。

 合掌

 平成十九年三月十九日 佐賀県知事 古川 康