本当の戦いはここからだぜ

映画・特撮・アニメ・漫画などについて色々書いてます。気ままに更新中。

ここ数年の『仮面ライダー』に対する不満を解消したい 〜前編〜

2016-03-08 13:51:33 | 特撮
こんにちは。かずひろ(@kazurex1215)です。

冬の寒さが過ぎ去り、春の暖かさが少し感じられる3月。数年前から特撮ファンはこの季節に胸がざわつき、「ああ…どうか…まともな内容であってくれ…」と懇願する勢いでハードルを下げに下げまくって、「今年こそ…きっと面白い…はず…」と微かな希望を託し劇場に足を運んでいる。
言うまでもなく、春のライダー映画である。


2009年に公開された『劇場版 超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦』から始まった東映の恒例行事で、仮面ライダーに馴染みのない特撮ファンの方でも、この春映画のとんでもなさを一度は耳にしたのではないだろうか。仮面ライダーという番組を制作する上での粗というか、そこまでやっちゃうの!?とかそれはいいの??とファンが困惑する事を、まさか公式が堂々とやらかしているので、特撮ファンはもう訳が分からないのだ。東映がここ数年間で『やらかしている』のは、春映画からというイメージが強いかと思うが、私の感覚では最近のことではない。今回はそんな仮面ライダーという作品にここ数年間で感じている憤りを、前編・後編という二部構成で綴っていきたい。今回の前編では平成ライダーの代表作、『電王』と『ディケイド』に焦点を絞って書いていきたいと思う。





遡ることそれは、かつてないほどに人気を博した平成ライダー7作目「仮面ライダー電王」に至る。今や大人気俳優となった佐藤健が主人公を演じ、仲間の怪人の声に有名な声優を起用するなど、特撮界隈以外からの支持を多く得ていたように思う。その人気の所以は俳優やキャラの魅力だけではない。メインシナリオをアニメ「進撃の巨人」でも脚本を務めた小林靖子氏が担当し、コミカルとシリアスの絶妙なバランスを保ち続け、1年間見事に「仮面ライダー電王」という作品を完成させた。


私にとって電王は、仮面ライダー熱を再び燃え上がらせてくれた大好きな作品の一つで、夏の映画にも555以来久々に劇場まで足を運んで鑑賞した。電王は主人公としてもちろん好きなのだけど、特にサブライダーの仮面ライダーゼロノスが私は大好きだった。桜井侑斗(中村優一)という青年がゼロノスベルトにゼロノスカードを装填することで変身し、「アルタイル」「ベガ」という星座をモチーフにしたライダーである。近年でも「仮面ライダー3号」でゼロノスが再び出演したことで話題になった。





ゼロノスの一番の魅力はその孤独さにある。ゼロノスが変身のたびに消化するゼロノスカードは、他者の中にある桜井侑斗という人物に関する記憶を糧にしている。つまりゼロノスに変身するたびに、桜井という人物の記憶が彼をよく知る人物から完全に消え去っていく。人々を守る為に戦えば戦うほどに、人々の記憶からゼロノスの存在は消えていき、やがて彼を知る人は誰もいなくなる。あまりにも無慈悲すぎるのだが、その悲しくも哀愁が漂うゼロノスに、1人であっても孤独な戦いに身を投じていく1号の面影をどこか感じてしまう。テレビ本編ではそのカードを使うか否かの駆け引きが、終盤のクライマックスにかけてのシリアスな展開に実に巧く絡んでおり、物語をより一層引き立たせてくれた。



テレビ本編に不満もないし、夏の映画もめちゃくちゃ面白かった「仮面ライダー電王」。では、何がどうやらかしているのか。それは本編終了後に劇場公開された「さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン」である。この映画が今に至る東映への不満と不信の始まりだった。この映画はテレビ本編終了後の後日談であり、佐藤健が良太郎を演じた最後の作品となった。ここで言いたいのは本編うんぬんの話ではない。察しのいい方はお分かりかもしれないが、ゼロノスである。とにもかくにもゼロノスである!

結論から先に言おう、侑斗はなぜゼロノスに変身できたのだ…。
ゼロノスカードはテレビ本編の最終決戦において全て使い果たし、残りは残っていないはずなのに!何をしれっと普通に取り出して変身しているんだ!確かに記憶を糧にしているわけだから、誰かが桜井侑斗という人間を知れば、自ずとカードは出来上がる仕組みなのかもしれない…その辺は脳内補完で何とかできなくはないけどさ…。だが、あれだけ本編で丁寧にカードを使うか使わないかのギリギリの展開を描いてきたのに、あまりにも投げやり過ぎはしないだろうか…。「変身するにしても何か1カットでも挟んで説明してほしいし、実は一枚余ってたんだ的な展開でも良かったので、何もなかったのようにゼロノスに変身するのは辞めて欲しかった。誰かの記憶が犠牲になっているという根本的な解決も果たされていない。かくいう本編もクソみたいに面白くなかったので、余計に腹立ったのかもしれないが、鑑賞後少し考えた。「結局はゼロノスが活躍もしたし良いじゃないか、俺は気にし過ぎだ。いいや、作り手のクオリティ基準が甘すぎる。」など、当時中学三年生だった自分なりに色々と考えていた。それでも21歳を迎えた今でもこうして引きずっているのは、納得がいかなかったというわけである。





しかし、そんな電王に対する悩みがあまりに小さく思えてしまう作品が2009年に誕生した。平成仮面ライダー記念すべき10作目「仮面ライダーディケイド」である。門矢士(井上正大)という青年が仮面ライダークウガ=小野寺ユウスケ(村井良太)や光夏海(森カンナ)と共に、世界の崩壊を防ぐべく9つの世界(クウガ〜キバ)を旅していく物語である。いわゆる平成ライダー第一期の総決算ともいえる作品で、全31話の中にクウガからキバまでの9人のライダーの良い所がギュッと濃縮されている。【並行世界】という概念を用いることで、今までのオリジナルキャストを必ず出演させる必要も無くすことが出来たし、並行世界ならではの面白さも出てきたのでこの考えは素晴らしいと思う。あえて全くの別世界である事にしてオリジナルの雰囲気を壊すこともなく、また新しい世界観を構築しオリジナルでは出来なかった違った魅力を引き出すことに成功している。





私が一番好きなのはカブトの世界だ。本編は自分には合わず見るのを途中でやめてしまったのだが、兄弟愛とクロックアップというカブトの代名詞ともいえる設定の魅力を、オリジナルよりも巧く引き出していたように感じる。兄の敵だと思っていたカブトの正体が実は兄で、クロックアップの世界に取り残されてしまったカブトは、陰ながら常にワームの危機から妹を救っていたというカッコ良すぎる案件ですよ。「戻る場所があるから離れていられるんだ」という震えるほどに痺れるセリフは、ライダーの中でも屈指の名セリフだと確信している。





ディケイドが9つの世界の旅を終えるも、そこで物語が終わったわけではなかった。サブライダーのディエンドがいた世界、当時の戦隊シンケンジャーの世界で共に戦ったし、RXの世界にブラックが登場するという夢の競演も果たした。


中でもディケイドがコンプリートフォームに変身できるきっかけとなったネガの世界が、強烈に印象深い。ヒロインである光夏海(森カンナ)のいる世界と全く同じ世界で、夏海も古くからの友人と再会し、士は他の世界に比べ好意的に迎えてもらうなど、今までとは少し違っていた。しかしこのネガの世界は怪人たちの支配する世界で、夏海の友人もこの世界では死んでおりその正体はオーガを筆頭とするダークライダー達だったのだ。実は友人は偽物で本物はとっくに死んでいるという生々しい残酷な展開をサラッと入れ込むので、いったい誰が脚本を書いたのかと思えば、井上敏樹大先生でした。ありがとうございました。



そしてやはりディケイドを語るうえで欠かせないのは、夏の映画「劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」だ。ディケイドにもどハマりしていたので、もちろん劇場へ足を運んだ。しかしこの映画は戦隊と同時上映ゆえに尺の問題もあり、粗雑なストーリー展開やあまりにも適当だと思わずにはいられない設定など、あまりにもガバガバな出来栄えに言葉を失ったのだ。


百歩譲ってこの映画に登場するアマゾンやRXなどの、一度本編でディケイドと共演したライダーを、勝ち抜き戦でディケイドと戦わせるのは許すとしても(この映画に登場したライダーがディケイドと出会ったライダーだという証拠はなく、彼らもまた並行世界のライダーだと考えることが出来るから)、実は大ショッカーの大首領だった士が仲間たちを裏切るも、そんな士自身が全ライダーの殲滅の為の傀儡に過ぎず捨て駒として見捨てられ、夏海のもとに戻り助けを乞うのだが、何というか…。何の状況説明もなく、夏海たちのいる家の扉をたたき「夏海!開けてくれ!」ってお前そりゃ夏海の気持ち的にダメだろう…。

せめてここは夏海の元には帰らずに、1人孤独に路頭に迷う方が良かったのではないだろうか。自分自身が何者かも分からずにいた士に居場所を与えてくれたのが他でもない夏海であり、大ショッカーの首領として仕方なくも裏切ったことに士としてはかなり負い目を感じているはずだし、のこのこ夏海のもとに帰れるわけがないだろ!と思ってしまう。

こんな感じで絶望の中から士が再起し、もう一度戦う事を決意されても全く乗り切れないし、アツくもならない。他にもクウガのライジングアルティメットの扱い方や、イカデビルの正体がなんであんたなの…とか、絵面的に悪役一人にオールライダーがキックを叩き込むのはどうなのかとか、文句が尽きることは無いだろう…。





ディケイドはその当時の平成ライダーの集大成でもあったわけだから、夏の映画で平成ライダーを全員集合させても良かったと今でも思う。結果的に映画で昭和ライダーも絡ませるのであれば、テレビシリーズでも昭和ライダーの世界を旅するべきだった。RXは良しとしても、アマゾンの世界なんて絶対に要らなかったし、アマゾンをするならせめて1号の世界もめぐるべきだった。ファン心理的に中途半端だという気がしてならない。アマゾン編に2話割くのであれば、一つは総集編にして、一つは最終回に使い最終三部作の構成にもっていけばもっと上手くまとまっていたに違いない。そう、あんな最悪の終わり方を迎えるぐらいなら…。



本編でもディケイド=士たちの旅も終わりに近づき、最終話ではついに大ショッカーとの最終決戦へと話は進んでいく。同時に世界の崩壊が進み、9つの世界が融合し始め世界線の境界が無くなったことで、かつて旅の道中で仲間となったライダー達が士のピンチに駆けつけるというアツい展開も迎えていく。ブレイドにキバに響鬼、メインキャラ3人にかかわりの深かった人選も素晴らしい。各々の世界のラスボスが一堂に復活するも、ライダーたちのコンビネーションで見事に撃破。大ショッカーの野望を見事打ち砕くことに成功した。しかし最終話、張り巡らされた数々の伏線がまだ回収されていない。結局鳴滝は何者なのか、士の正体が大ショッカーの大首領だとするのならアポロガイストはなぜ士を倒そうとしてきたのか、などなど他にも放送当時から様々な憶測が飛び交っていた伏線がたくさん存在した。しかし…しかし…、最終話の残り数分で衝撃の展開が訪れた。





世界を救う旅へと士を誘った仮面ライダーキバ=紅渡(瀬戸康史)とキングフォームへと変身した仮面ライダー剣=剣崎一真(椿隆之)、彼らを含む8人のライダー達が士の目の前に現れた。気を失っていた仮面ライダークウガ=ユウスケ(村井良太)はキバーラが噛みついたことにより謎の力が覚醒、黒い目のアルティメットフォームへと姿を変え士に拳を振り下ろす。その時夏海は自分のみた予知夢を思い出す、それが第一話の冒頭で描かれたライダー大戦。何かを悟った士はディケイドへと変身し、9人のライダーと戦い始める。夏海の見た悪夢がついに現実となってしまった。もう誰も彼らを止められない。10人のライダーが戦っている輪の中にディエンドが割って入り、ディケイドの顔面に銃を突きつける。虚しく響く銃声音と夏海が「ディケイドォォォォ!!!」と叫ぶところで、最終話は終了したのだ…。




まじかよ…まじかよ!!!!!!!!



たくさんの伏線が投げっぱなしのまま、根本的に何も解決しないままディケイドは半年間の放送を終えたのだ。夏海の叫びはまさしく視聴者の心からの叫びであっただろう。「いや…これはたぶん第2章的なパターンで…今から心象突入パターンだ…」と微かな希望を抱いたのも束の間、『新番組!仮面ライダーW』という高らかなナレーションが聞こえてきた。

うん、やっぱりディケイドは終わったのだ。すると冬映画のCMが流れた。「ディケイド 完結編」、まさかの劇場版で完結するパターンのやつである。「私がディケイドを倒す」とレジスタンスに扮した夏海のセリフや、海岸沿いで力尽きて倒れる士、9人のライダーとバトルを繰り広げるディケイド、なかなかに濃い映像だったのだが実際に公開された「MOVIE対戦2010」の蓋を開けてみると、この時流れた15秒間のCM映像が全く使われることはなく、じゃあこの宣伝映像はいったい何だったの?????と、もうツッコむ気力すらなくなってしまった。


完全なる伏線消化。「仮面ライダーディケイド」の最終回とは一体なんだったのか


こちらのYU@Kさんのブログにも激しく同意で、軽く5億回は頷いた。OPは歴代ぶっちぎりでカッコいいし、メインテーマが流れ出て士がカッコいい言葉を言う。相手が「お前は…何者だ!!」と言ってしまえばこっちのもの。「通りすがりの仮面ライダーだ、覚えておけ!変身!」という士の決め台詞にどれだけ鳥肌が立っただろう。FFRのギミック溢れる変形は各ライダーの特徴を残しつつ、しっかり武器としての役割も果たしていたのが素晴らしかった。好きなんだよディケイド…好きなんだよ…。



そんなこんなで話が長くなったが、ここ数年で一番強く感じたのは、製作者側の裏切りともいえる製作体制だ。子供向けのヒーロー番組である以前に、クリエイターとしての品格を疑ってしまう程にずさんだ。ゼロノスのカードの件も、本編であれだけ丁寧に描いてきたその設定を無視するというのは、テレビシリーズにおける製作の努力も無駄にしてしまう事だし、素人目に見ても何か一つ説明を加えることぐらいできたのでは?と思える。


ディケイドに関しても同様だ。数々の伏線を消化しないという初歩的な事に始まり、伏線は投げっぱなしでも物語自体は綺麗に終われば百歩譲って良かったけど、そんなこともなく酷い最終回。そして物語の完結を映画館に持ち越すというこんなことが許されていいのだろうか…。仮にもこれが夜9時台のドラマだとすると、その放送局は非難されまくり大炎上だと思う。逆を言えば仮面ライダーという、どちらかといえばマイノリティーな特撮番組だからこそ、こんなことが出来たのだろう。


特撮番組のメインターゲット層は紛れもなく子供たちだ。だから私がとやかく偉そうに文句を言おうとも、子供たちが楽しんでくれればそれでいいのだ。しかし、このディケイドの物語の締め方は子供たちの事を全く考えていない、大人の都合が丸裸に露呈している。人によって考え方は違うと思うが、特撮番組は『子供たちに元気を与えるもの』であることが大前提だと私自身は考えている。ウルトラマンや仮面ライダーを通して、カッコいいものへの憧れや生きていく上で大切な事を学んでいく人生における最初の教科書であったりもすると思う。しかし、極論的な話、病気で入院している子供たちがこのディケイドを見てどう思うのだろう。外に出ることも憚られる子や、余命が少ない子だっているかもしれない。その子たちにとってディケイドの物語は、永遠に終わらないままバットエンドの結末しかない。子供たちとディケイド、双方がどちらも救われないままなのだ。




映画館で完結編をという考えがそもそも間違っている。仮面ライダーのメインはテレビ放送というスタイルだし、テレビ放送で完結させるのが道理ではないだろうか。映画を見ていなければテレビ本編の意味が分からないなどというのは言語道断だし、そもそもの本末転倒だ。確かにビジネスとして映画館で完結させれば、集客が見込めると踏んでのことだと思うが、それならそれでまずテレビ本編を完結させろよ。そういう商売根性はうまく隠すのがプロってもんだろ。


うーん。私が求めているのはあまりにもハードルが高く難しい事なのだろうか…。自分がこれまで当たり前だと思っていた事を、ここまでバキバキに打ち砕かれたのは初めてだったので、ある意味新鮮だった。ディケイド以降、私は平成ライダー2期も毎週楽しみに見ているし、仮面ライダーを嫌いになったわけではない。ただ、コンテンツにお金を落とすという事は無くなった。劇場版が公開されてもわざわざ見に行かなくなり、旧作になるまでレンタルを待つようになった。特撮を応援する者として、お金を払って売り上げに貢献したい気持ちは山々だが、今のままでは無理だと思う。ディケイドにおける製作の粗が脈々と受け継がれているのが春映画なのだが、それは後編にて感想を綴っていきたいと思う。

ああ…1人でもいいので、この気持ちどなたか共感してください…。

後編に続く…
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 日本映画界の傑作『バトル・ロワ... | トップ | 「劇場版ウルトラマンX」が魅せ... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。